世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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独断と偏見によるイスラーム史入門書リスト(地域史編)

独断と偏見によるイスラーム史入門書リスト(通史編)」の後を承けまして、今度は地域に焦点を当てた読みやすい本をいくつか紹介しようと思います。

相変わらず古い本が多いです。最新の研究を紹介する趣旨ではないので古くても良いのです(強弁)


4.地域史編

イスラム・スペイン千一夜

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¥7,474から
(2017/4/17 22:22時点)



8世紀から15世紀までイベリア半島を支配したイスラーム諸王朝の歴史物語。全くの初心者向けに、アンダルスの諸王国の栄光と悲劇の数々が描かれており、時が経つのを忘れて読み耽ってしまいます。
もっとも、これは歴史書というより「物語」です。より正確な史実を知りたい方は、文庫クセジュの『レコンキスタの歴史』、刀水書房の『レコンキスタ―中世スペインの国土回復運動』などをお勧めします。
とくに後者は、現在日本で比較的容易に手に入る中では一番の良書だと思います。
一方で、「物語」としてのアンダルス史に惹かれる方には、集英社文庫に所収のエッセイ『アルハンブラ―光の迷宮、風の回廊』や、岩波文庫に所収の『アルハンブラ物語』もお勧めです。

 【面白さ】★★★★★(この本を読んでイスラーム・スペインの魅力にはまりました)
 【入手しやすさ】★(絶版。大きな図書館で探してください)
 【ボリューム】★★(薄手のハードカバー1冊)
 【学術性】★(エピソード中心、物語性重視)
 【難易度】★(同上)


イスラムとヨーロッパ (東洋文庫―前嶋信次著作選 (673))

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¥2,963から
(2017/4/17 22:40時点)



戦後日本を代表するイスラーム研究者であり、文人でもあった故・前嶋信次の著作集のひとつ。
いま日本で比較的容易に手に入る中では、最も詳細な後ウマイヤ朝の通史概説が所収されています。
なお、同じ著者の作品として、後ウマイヤ朝と盛期アッバース朝の文化と社会風俗を描いた、河出文庫の『生活の世界歴史7 イスラムの蔭に』も強くお勧めします。
イスラーム文明の黄金時代がどのような時代であり、そこで人々がどのように暮らしていたのかが、とてもよく分かります。

 【面白さ】★★★★(史実に立脚しつつ、後ウマイヤ朝の歴史を彩る人々の言動を臨場感あふれる筆致で描いています)
 【入手しやすさ】★★★(比較的最近に東洋文庫から刊行されているので、そこそこの図書館なら見つかると思います)
 【ボリューム】★★★(東洋文庫1冊)
 【学術性】★★★(一見物語風でありながら、同時代の記録や諸外国の研究をしっかりと踏まえています)
 【難易度】★★★(多少古めかしい表現もありますが、本と歴史が好きな人なら楽しんで読めると思います)


アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)

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¥988から
(2017/4/17 23:42時点)



癖のある本なので紹介するか迷いましたが……。
文字通り、イスラーム側の史料に沿って「十字軍戦争」の歴史を描いた本です。
あくまでもイスラーム視点なので、西欧側の事情や歴史背景には深く触れられていませんし、それなりのバイアスもかかっています……。
従来、過度に西欧の視点から描かれてきた十字軍戦争の歴史を「中和」する趣旨の本なので、バイアスは織り込み済みです。
十字軍戦争についての予備知識なしにいきなりこの本を読むのは難しいと思いますが、一般的な(西方視点の)十字軍関連書を読んだ後にこの本を読むといろいろ発見があると思います。
また、この時代の近東情勢についてかなり詳しく知ることができます。

 【面白さ】★★(玄人向けの面白さ)
 【入手しやすさ】★★★★(有名な本なので、たいていの図書館と大きな書店にはあると思います)
 【ボリューム】★★★(厚手の文庫1冊)
 【学術性】★★(学術書ではありませんが、同時代の史料からの引用と註釈がたくさんあります)
 【難易度】★★★(時代背景について予備知識がある方向け)


モンゴル帝国の興亡<上> (講談社現代新書)

中古価格
¥91から
(2017/4/17 22:57時点)



地域史というより通史編の補完みたいですが…アッバース朝衰退後のイスラーム世界はテュルク族の西遷、そしてモンゴルの嵐に見舞われます。
そんなモンゴル帝国の興亡について、ユーラシア全体を視野に入れながら描いた著書としてこれを挙げます。
ときに情熱的すぎるほど情熱的な筆致ゆえに毀誉褒貶ある著者ですが、とにかくスケールが大きくて「読ませる」文章です。

 【面白さ】★★★★(壮大なスケールで大モンゴルの興亡とアフロ・ユーラシア世界の変容を語ります)
 【入手しやすさ】★★★★(たいていの図書館にあると思います)
 【ボリューム】★★★(講談社現代新書の上下巻2冊)
 【学術性】★★(一般向けなので基本的に註釈や出典はついていません)
 【難易度】★★(一般向けです)


三日月(クレセント)の世紀―「大航海時代」のトルコ、イラン、インド (新潮選書)

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¥1から
(2017/4/17 23:03時点)



モンゴル帝国崩壊後、イスラーム世界を支配したオスマン・サファヴィー・ムガルの三大帝国の歴史を主題としています。
学術書ではなく一般向けの本ですが、類書の少ない白羊朝と黒羊朝などについてもページが割かれており、この時代に興味がある方には入手をお勧めします。

 【面白さ】★★★★(なかなか)
 【入手しやすさ】★★(古い本なので、なかなか見つけづらいかもしれません)
 【ボリューム】★★(新潮選書1冊)
 【学術性】★(扱うテーマはマイナーですが、内容はあくまで一般向けです)
 【難易度】★★(予備知識が少ないと少し辛いかもしれませんが、基本的には読みやすい本です)


オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ)

中古価格
¥289から
(2017/4/17 23:08時点)



前期オスマン帝国の歴史がメインテーマですが、第一章をまるまるテュルク族の西遷とアナトリアへの定住という前史にあてる他、オスマン帝国の先進性や、ヨーロッパ諸国とオスマン帝国との関係にも詳しく言及している良書です。

 【面白さ】★★★★(なかなか)
 【入手しやすさ】★★★★(比較的新しい本なので、大きな書店でも見つかるかもしれません)
 【ボリューム】★★(選書メチエ1冊)
 【学術性】★★(一般向けですが、索引や参考文献はしっかりついています)
 【難易度】★★(すいすいと読めます)


ムガル帝国の興亡 (イスラーム文化叢書)

中古価格
¥2,246から
(2017/4/17 23:18時点)



インドを支配した近世イスラーム王朝、ムガル帝国の興亡を描いた作品。
著者のアンドレ・クローはどちらかというとジャーナリスト寄りの人で、この作品も学術書というよりは歴史物語に近いテイストです。
が、ムガル帝国の興亡と、帝国の歴史を彩る様々なエピソードを見事に描き出しており、この国に興味を持った方にお勧めします。
同じ著者には『メフメト二世―トルコの征服王』や『スレイマン大帝とその時代』という、オスマン帝国を扱う著作もあります。
なお、ムガル帝国とその時代についてより詳しく知りたい方には、サティーシュ・チャンドラの『中世インドの歴史』(山川出版社)を紹介します。
イスラーム勢力のインド侵入からムガル帝国の衰亡に至るインド史について、日本で手に入る中では最も詳しく書かれた本だと思います。
また、この帝国の創建者であるバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』が邦訳されており、東洋文庫に所収されています。

 【面白さ】★★★★(この国の歴史自体が面白いです)
 【入手しやすさ】★★(古い本なので大きな図書館で探してください)
 【ボリューム】★★(ハードカバー1冊)
 【学術性】★★(基本的に一般向けの本です)
 【難易度】★★★(同上)


ムハンマド―預言者と政治家

中古価格
¥2,180から
(2017/4/17 23:29時点)



いやこれ地域史じゃないでしょ……と思いつつ、どさくさ紛れに追加しておきたい一冊。
イスラームの創始者、預言者ムハンマドの伝記です。いわゆる古典的名著。定番。古い本なので最近の学説に沿わない記述も散見されますが、ムハンマドについて詳しく知りたい方向けに推します。

 【面白さ】★★★★(ムハンマドの人生自体がドラマチックで…)
 【入手しやすさ】★★(古い本なので、アマゾンで注文するか図書館で探してください)
 【ボリューム】★★★(ハードカバー1冊ですが、実感としてかなりボリュームがあります)
 【学術性】★★★(古典的名著)
 【難易度】★★★(同上)



独断と偏見によるイスラーム史入門書リスト(通史編)

とあるところから要望をいただいたので、イスラーム世界の歴史について、まったく初心者の方が手に取りやすい本をあげてみます。
スタンスとしては専門性や厳密性よりも入手しやすさと読みやすさ、面白さを重視しています。

このブログ自体もそういうスタンスなのですが、多少間違いがあっても、まずはその分野に興味が持てれば、あとは読んだ方が自力で知識を修正しつつ深めていけると思いますし、
逆に最初から厳密さを追及し過ぎると、初心者にとってのハードルが高くなりすぎ、かえってその分野から人を遠ざけてしまうと思います。

専門家の方は石を投げないでくださいしんでしまいます(><)


なお、書き手の興味関心知識から前近代が中心、かつ一昔前の本が中心のセレクトになります。たぶん。


1.イスラーム世界の歴史の特徴

引き続き前提として、「イスラーム世界」というのは実は定義が難しい概念です。
現在、イスラームを奉じる人々は世界中に存在し、イスラームが社会のなかで重要な位置を占める地域も、東は華南から北はロシア、西はアフリカまで及びます。
歴史的にもアッバース朝中期からは諸王朝分立の時代になり、中近東に限ってもアラブ・イラン・テュルクの三大民族が併存。中国史のように歴史を語る軸を定めることができなくなります。
なので、この巨大で曖昧なイスラーム世界史の全てを視野に入れた通史はほとんど存在しないと思われます。
よって、これから挙げていくものはおおむね部分的な歴史の寄せ集めになります。


2.凡例

独断と偏見に基づいて「面白さ」「入手しやすさ」「ボリューム」「学術性」「難易度」の五項目で評価します。独断と偏見(重要)です。


3.通史編

世界の歴史〈8〉イスラム世界 (河出文庫)

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¥1,026から
(2017/4/2 23:32時点)



古い本ですが、イスラーム前史としてのサーサーン朝ペルシアからオスマン帝国までの歴史がまとまっています。
さまざまなエピソードがちりばめられ、イスラーム世界の歴史を身近に感じられると思います。初心者に一番お勧めできます。

 【面白さ】★★★★★(どんどん先を読みたくなる面白さ)
 【入手しやすさ】★★★(運が良ければ大きな本屋でも……図書館ならたいてい見つかります)
 【ボリューム】★(文庫本1冊)
 【学術性】★(一般向けの概説、エピソード重視)
 【難易度】★(同上)


世界の歴史―ビジュアル版〈6〉イスラム世界の発展

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(2017/4/2 23:40時点)



イラン中世史の泰斗、故・本田實信による希少な一般向け概説書。
イスラーム成立からモンゴル帝国頃までを豊富な写真や図版とともに解説しています。
刊行されたのが1985年なので最近の研究は反映されていないものの、内容に信頼感があります。

 【面白さ】★★★★(一般向け概説書として十分惹きつけるものがあります)
 【入手しやすさ】★★★(図書館ならたいてい見つかります)
 【ボリューム】★★(ハードカバー1冊)
 【学術性】★★(一般向けの概説)
 【難易度】★(同上)


都市の文明イスラーム (講談社現代新書―新書イスラームの世界史)

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¥1から
(2017/4/2 23:46時点)



『都市の文明イスラーム』、『パクス・イスラミカの世紀』、『イスラーム復興はなるか』の三部からなるイスラーム史。
政治史のみならず、社会史や文化史などさまざまな分野の第一線の研究者たちが、それぞれの専門分野について解説しています。
ある程度イスラーム世界史の流れを押さえたうえで、イスラーム史の多様な分野について知見を得るのに向いています。

 【面白さ】★★★(まあまあ)
 【入手しやすさ】★★★(図書館ならたいてい見つかります)
 【ボリューム】★★★(新書3冊分)
 【学術性】★★(一般向けながら、第一線の研究者たちが当時最新の研究を踏まえて執筆しています)
 【難易度】★★(一貫した通史ではないので、ある程度イスラーム史の流れを把握している人向けです)


物語 中東の歴史―オリエント5000年の光芒 (中公新書)

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¥907から
(2017/4/2 23:53時点)




ジャーナリスト出身の歴史家、故・牟田口義郎による一般向けの中東史。書名の通り古代エジプトからスエズ運河までをとりあげています。
さまざまなエピソードがちりばめられ、まるで小説のように面白く、とくに初期イスラームの大征服や十字軍、モンゴルとマムルークの戦いなどに詳しく触れられています。
同じ著者の『世界の都市の物語 カイロ』も隠れた名著だと思います。

 【面白さ】★★★★★(面白いです)
 【入手しやすさ】★★★(図書館ならたぶん見つかります)
 【ボリューム】★(新書1冊)
 【学術性】★(とことん一般向けです。物語という題名のとおり、半分小説と思った方が良いかも)
 【難易度】★(わりとサクサク読めます。ただ飛び飛びの部分もあるので途切れのない通史を知るのには不向きかも)


イスラムの国家と社会 (1977年) (世界歴史叢書)

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¥1から
(2017/4/3 00:00時点)



碩学、故・嶋田襄平による前期イスラームの政治・社会史。ウマイヤ朝やアッバース朝の統治や財政の諸制度などについて詳しく書かれています。
これまた古い本なので近年の学説は反映されていませんが、アッバース朝中期までの国家と社会について詳しく知ることができます。

 【面白さ】★★(つまらなくはないですが、普通に専門書です)
 【入手しやすさ】★★(大学図書館とかならあるかと)
 【ボリューム】★★★(けっこう読み応えがあります)
 【学術性】★★★★(専門書です)
 【難易度】★★★★(専門書です)


興亡の世界史 イスラーム帝国のジハード (講談社学術文庫)

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(2017/4/3 00:05時点)



古い本ばっかりだな……と思ったので、最近の本も上げます。
講談社『興亡の世界史』シリーズの一環として刊行された一般向けのイスラーム通史。イスラーム誕生から現代までの要点を押さえており、イスラーム史入門に程よい感じです。
ただ、これも例によってアッバース朝滅亡から近代まで一気にワープします。やはりユーラシア各地の歴史を叙述するうえで、モンゴルの到来がひとつの壁になる模様。

 【面白さ】★★★★(一般向けに書かれています)
 【入手しやすさ】★★★★★(本屋でも普通に手に入る可能性あり)
 【ボリューム】★★(ハードカバー1冊)
 【学術性】★★(一般向けの概説)
 【難易度】★(専門書です)


世界の歴史〈20〉近代イスラームの挑戦 (中公文庫)

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(2017/4/3 00:12時点)



最後に少しは近代史も。
中央公論社の新版世界の歴史の一冊。アマゾンレビューにあるように同時代日本人の見聞がちょっと多すぎなぐらいに引用されていたり、取り上げる地域に偏りがあったりはするものの、19世紀イスラーム世界の概要を知るには程よいかと。

 【面白さ】★★★(一般向け、わりと読みやすいです)
 【入手しやすさ】★★★★★(そんなに大きくない本屋でも普通に手に入ります)
 【ボリューム】★★(厚めの文庫1冊)
 【学術性】★★(一般向けの概説)
 【難易度】★(一般向けの概説)


うーん、やはりセレクトに偏りがあるな……。挙げてみた感想として、とりあえずイスラーム誕生から現代までを大づかみしたければ『イスラーム世界のジハード』から入るのが良いかも。
近いうちに地域史編や思想史編なども書いてみようと思います。オスマンやムガルなどについては地域史で。

イスラーム世界の歴史30 覇権のゆくえ

英雄の末裔たち
 ※前章「イスラーム世界の歴史29 征服者の時代」の姉妹編ないし続編です。
 ※中央アジアの動向はティムール後半生とその後の話、「イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐」を引き継いでいます。一部重複あり。


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(ジョチ・ウルスの領域)

モンゴル帝国がユーラシア大陸の過半を制してより、すでに二世紀の歳月が流れた。帝国は解体の一途を辿っている。それはここ、西北ユーラシアのジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)でも例外ではない。

チンギス・カンの長子ジョチに始まるジョチ・ウルスは、ジョチの長男オルダを祖とする東のオルダ・ウルス(白帳国)と、ジョチの次男バトゥを祖とする西のバトゥ・ウルス(青帳国)の連合体で、ともすれば東西に分離しがちな傾向を持っていた。
当初全体を統べていたのはヴォルガ河畔のサライに都するバトゥ家のカン(王)だったが、1359年にバトゥ家第13代のベルディベク・カンが弑逆されるに至り、バトゥ・ウルスは「ザミャーチナヤ・ヴェリカヤ(大いなる紛乱)」に突入する。
これに介入を試みたオルダ家も混沌の渦に飲み込まれ、かわって台頭したのはジョチの十三男、トカ・テムルの子孫たちだった。

14世紀末、トカ・テムル家のトクタミシュが一時的にキプチャク全土を再統一するが、中央アジアの覇王ティムールの介入によって、彼の政権はたちまち瓦解する。
15世紀初頭にはマンギト部のエディゲとヌラディンがノガイ・オルダと呼ばれる勢力を築き、トカ・テムル家のテムル・クトルグを旧都サライでキプチャクのハン(=カン)として奉戴した。この政権は「大オルダ」と呼ばれる。
しかし混乱はまだまだ続く。

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(アフマド・ハンの手紙を破り捨てるイヴァン3世)

西ではリトアニア大公国がジョチ・ウルスの混乱に乗じてキエフ以西を奪い、黒海に向かって進出を開始した。
1430年代に大オルダで王位継承争いが起こると、王族ハージー・ギレイがリトアニアの支援を受けて黒海北岸にクリミア・ハン国を建国。また、別の王族ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流でカザン・ハン国を建てた。
加えて西北の属領ルーシ(ロシア)では、モスクワ大公国が周辺諸国を次々に併合して強大化。1480年にはモスクワ大公イヴァン3世がサライのアフマト・ハンを戦わずして退けた。
これをもって大オルダのハンの権威は完全に失墜し、その後裔はヴォルガ河口のアストラハンで細々と余喘を保つこととなる。

ジョチ・ウルス分裂
(ジョチ・ウルス崩壊後の西北アジア、グレーは旧バトゥ・ウルス、薄紫は旧オルダ・ウルスの後継政権)

一方、かつてオルダ・ウルスの統治下にあったキプチャク平原東部は独自の歴史を歩みはじめる。
1428年頃、旧ジョチ・ウルスの東北の果て、ウラル山脈を越えたチンギ・トゥラの地で、ジョチの五男シバンの血を引くアブル・ハイルという人物がハンを名乗って自立を宣言した。
遠く匈奴の時代より、遊牧国家の君長は民を飢えから遠ざけ、富を与える責務を負う。
1431年、アブル・ハイルはホラズム地方への略奪遠征を敢行し、ティムール朝の軍勢を蹴散らしてシル川中流の諸都市を占領した。平原東部の諸部族は相次いで彼に帰服した。

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(かつて「キプチャク平原」と呼ばれたカザフスタンの原野)

1449年、ウルグ・ベクの横死によってティムール朝で内乱がはじまる。このときアブル・ハイルはティムール朝の王族アブー・サイードの求めに応じてマー・ワラー・アンナフルに出陣した。
ティムール朝の人々はジョチ・ウルスの黄金時代を築いたウズベク・カンにちなみ、北の遊牧民を「ウズベク族」と呼んでいた。
アブル・ハイル率いるウズベク族はティムール朝の王族たちを片っ端から薙ぎ倒し、あっという間にアブー・サイードをサマルカンドに入城させた。
アブー・サイードはウズベク族のあまりの強さを恐れてアブル・ハイルの軍勢を城外に留め、莫大な財宝と王女を贈って早々にお引き取り願った。
その後もティムール朝の王族たちは内乱のたびにウズベク族の援助を求め、何とかしてアブル・ハイルを自軍に引き込もうと悪戦苦闘した。

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(アブル・ハイル)

しかしアブル・ハイルは1456年、はるか東方から来寇したオイラトと呼ばれる勢力に大敗し、急速に勢威を失った。
彼が旗揚げしたチンギ・トゥラではケレイト族のタイ・ブカが、アブル・ハイルと同じくシバンの血を引くイバク・ハンを擁立して独立した。
この政権はシバンにちなんで「シビル・ハン国」と称され、後にはこの地方のみならず、大陸北部の全域が「シベリア」と呼ばれることになる。
また、アブル・ハイルを見捨てた南部の部衆たちはケレイとジャニベクという二人の指導者に率いられ、モグーリスターンの地へ去って行った。その数、実に20万という。
彼らは「カザフ」(自由の民)と称し、やがてはアルタイ山脈からウラルに至る巨大な勢力圏を築くことになる。

小説 遊牧民

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(2017/2/18 01:22時点)

(カザフの作家エセンベルリンがアブル・ハイルの時代を描いた小説)



ティムール朝の落日

1467年にティムール朝のアブー・サイードが白羊朝に敗れて殺害されると、王朝はサマルカンドとヘラートの二政権に分裂した。
サマルカンドの君主はアブー・サイードの子アフマド・ミルザー。ヘラートの君主は別系統の王族フサイン・バイカラ。どちらの政権もあまり強力ではなく、地方の王族や領主たちが私戦を繰り返した。

一方、この時期ティムール朝は文化面で絶頂を極める。画聖ビフザードや詩人ジャーミーなどの天才たちが続々と出現し、自らも文人として名高かったフサイン・バイカラと宰相ナヴァーイーが彼らを厚く庇護した。
この時代を生きたとある人物は、フサイン・バイカラとその宮廷について、次のように記している。

「彼はヘラートのごとき都を手中にすると、夜となく昼となく、ただ歓楽と快楽の追求に明け暮れた。たんに彼のみではなかった。その部下・臣下たちのうちで歓楽・快楽を追求しない者はいなかった。
彼は世界征服とか出兵の苦労をしようとしなかった。その結果、必然的に、時がたてばたつほど、家臣や領地は減少し、増加することはなかった」

その有様は同時期日本の足利政権や、ルネッサンス期イタリアの諸侯を彷彿させる。王侯たちが華麗な宮廷生活に明け暮れるなか、破滅が次第に迫りつつある。

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(フサイン・バイカラ)

ヘラートやサマルカンドから遠く離れた北の草原にムハンマド・シャイバーニーという男がいる。オイラトに敗れ、カザフに離反され、衰勢のうちに没したアブル・ハイルの孫である。

アブル・ハイルが死んだのはシャイバーニーが17歳の時だった。周囲の諸勢力がアブル・ハイルの遺領に殺到し、ウズベク族は四散した。
アストラハンに身を寄せたシャイバーニーは大オルダのアフマト・ハンに攻撃され、屈辱をこらえて恭順を誓った。ノガイの君侯が彼を擁立すると、すかさずカザフの軍勢が攻め寄せた。
シャイバーニーは二十歳になる前から非情な草原の世界で戦いはじめた。自分の魂のほかに信じる友はいなかった。自分の心のほかに秘密を語る仲間はなかった。
シャイバーニーは文字を知らず、詩も解さない。青春も安らぎも彼には無縁だった。殺戮と暴虐、怒号と乱刃のなかで彼の半生は過ぎていった。

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(ムハンマド・シャイバーニー)

その頃、天山山脈北部を領するモグール人(東チャガタイ・ウルスの人々)が新興のカザフやオイラトの圧迫を受け、次第に南下と定住の動きを見せていた。
1480年代に入るとモグール王のユーヌス・ハンがティムール朝サマルカンド政権の王族ウマル・シャイフと結び、シル川北岸のタシケントに進出。危機感を覚えたアフマド・ミルザーは北の草原からシャイバーニーと三千人のウズベク戦士を招いた。
しかしサマルカンドの人々は荒事をウズベク人に押しつけながら、彼らを蛮族として蔑んだ。シャイバーニーには雇い主への忠誠心など欠片もなく、せいぜいこれを利用して成り上がってやろうとしか思っていない。

1488年、モグール人とアフマド・ミルザーがタシケント近郊のチルチク川で衝突した。両軍が交戦をはじめた直後、突然シャイバーニーのウズベク部隊がモグール側に寝返った。
サマルカンド軍は大混乱となり、ある者は川に飛び込んで溺死し、ある者は算を乱して逃走した。シャイバーニーはシル川北岸のヤシという町を占領し、ここを拠点に独立の旗を掲げた。
ウズベク諸部族はアブル・ハイルの孫を慕って続々とヤシに集まりはじめた。シャイバーニーはウズベク再興の野心を抱きはじめた。
好機は程なく訪れた。1494年にアフマド・ミルザーが急死し、サマルカンド政権が王位継承をめぐって混乱状態となったのだ。

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(チルチク川)

1497年秋、サマルカンドを手にしたアフマド・ミルザーの甥、バーイスンクルが同族たちに攻め立てられ、シャイバーニーに支援を求めて来た。シャイバーニーは直ちに応じた。
アミール(領主)たちはウズベク接近を知るや蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。シャイバーニーは一度も剣を抜かずに北部マー・ワラー・アンナフルを駆け抜けた。

「タジク(定住民)は弱い……!」

シャイバーニーが率いる騎兵は数百に過ぎないが、彼はこのままティムール朝の王族たちもバーイスンクルも両方追い払ってサマルカンドを奪い取るつもりだった。それができる自信もあった。
サマルカンド包囲軍の主力はウマル・シャイフの息子、ザヒールッディーン・バーブルという若僧だという。当然そ奴もウズベク軍が迫ればすぐに逃げ出すだろう。
ところがその予想は見事に裏切られた。バーブルの拠るホージャ・ディーダール城の目の前をウズベク軍が駆け抜けようとする間際、突然城門が開け放たれて一団の軍勢が出撃してきたのだ。

「タジクにも骨がある奴がいたか!」

瞬間、シャイバーニーは馬首を翻した。ウズベク全軍が主将に倣って180度針路を変える。今度の遠征にはケチがついた。バーイスンクルの運命など知ったことではない。

数ヶ月後、シャイバーニーはバーブルがサマルカンドを手にしたことを知った。とくに不思議はない。今のタジクでウズベク軍に立ち向かう気骨を持っていたのはあの若僧だけなのだから。
ただ、バーブルの年齢を聞いたときにはさすがのシャイバーニーも驚いた。

「14歳だと!?」

まだほんの子供ではないか。なんとも末恐ろしい奴がいたものだ……そう呟いて、シャイバーニーは酒杯を呷った。


梟雄と少年

1500年のマーワラーアンナフル
(1500年のマー・ワラー・アンナフルの状況)

バーブルのサマルカンド支配はわずか三ヶ月で頓挫し、バーイスンクルの弟、スルタン・アリーが王都を手にした。シャイバーニーは虎視眈々と本格的な南下の機を窺う。

1500年春、スルタン・アリーと王族タルハンの紛糾が生じ、タルハンが東北からモグール軍を呼び込んだ。情勢が緊迫するなか、シャイバーニーは警戒手薄となっていた西のブハラを急襲陥落させた。
一方、東ではバーブルが態勢を立て直し、サマルカンド奪還を図って動きはじめた。このとき予想もしない誘いがシャイバーニーの元に舞い込んだ。
スルタン・アリーの実母ズフラ・ベギ・アーガーがシャイバーニーに再嫁してサマルカンドを譲渡する。代わりにシャイバーニーはティムール朝の他の王族たちを討滅し、彼らの領地をスルタン・アリーに与えてほしいというのだ。
シャイバーニーは直ちにブハラを出陣した。彼はこのとき49歳になっていた。

KhwajaAhrar.jpg
(ホージャ・ヤフヤーの父、ホージャ・アフラール)

7月、サマルカンドに入城したシャイバーニーは、転がるように出迎えたズフラ・ベギ・アーガーとスルタン・アリーを冷たく睨んで処刑した。
ついでにティムール朝の人々に絶大な崇敬を受けていたナクシュバンディー教団のホージャ・ヤフヤーを二人の息子もろとも暗殺し、サマルカンド住民を震え上がらせた。
ひととおりの処理が済むと、シャイバーニーは郊外に出た。彼はサマルカンドの町自体ではなく、そこからの税収にしか興味がない。華麗な建築物や庭園など一向に彼の心をとらえなかった。
が、ここで驚愕の事態が起こる。あのバーブルがわずか240人の手勢とともにサマルカンドに潜入し、ウズベクの守備兵を殲滅して町を乗っ取ったのだ。

「若僧ッ……!!」

シャイバーニーは歯ぎしりした。

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(ザヒールッディーン・バーブル)

バーブルはフェルガナを領したアブー・サイードの四男ウマル・シャイフの子で、母はモグール王ユーヌス・ハンの娘だった。つまり父方でティムール、母方でチンギス・カンの血を引くことになる。
彼が11歳のとき、突然城の一角が崩落し、鳩小屋で鳩の世話をしていたウマル・シャイフも事故に巻き込まれて死んでしまった。
直後に父方の伯父にあたるアフマド・ミルザーと、母方の叔父にあたるモグール王のスルタン・マフムードがフェルガナ併呑を狙って来襲した。
少年バーブルは必死にこれを切り抜け、三年後には情勢混乱に乗じてサマルカンドをも手に入れた。
ところがまもなく本拠地フェルガナで反乱が起こり、これを鎮圧に向かう最中にサマルカンドも失われ、一朝にして流浪の身となってしまった。
常人の人生一つ分にも値する浮沈を経てきたバーブルは、いまだ17歳だった。シャイバーニーとはまる一世代分の年齢の差がある。

バーブルがサマルカンドを制圧すると、周辺諸都市も続々と彼に帰服した。劣勢に追い込まれたシャイバーニーはブハラ周辺の町々を落として住民を虐殺し、態勢立て直しに努めた。
翌1501年5月、ブハラとサマルカンドの中間でシャイバーニーとバーブルが戦端を開いた。このときシャイバーニーはバーブルの姿を間近に見た。
少年は夜明け時、数の不利を顧みずに果敢な攻勢をかけてきた。バーブル軍の先鋒がウズベク軍の右翼に取り囲まれ、バーブルの前ががら空きになる。
ウズベクの騎兵が殺到するが、バーブルは親衛隊とともに激しく剣を揮ってウズベク軍に立ち向かった。


――幾度となく我が方が波のように押し寄せ、幾度となく敵方がそれを退けた。

「シャイバーニーよ、シャイバーニーよ、進まねばならぬ! 止まっていてはだめだ!」

部下たちの叫びも耳に入らず、シャイバーニーは呆然と立ち尽くした。
同じ17歳のとき、自分は。
偉大な祖父のアブル・ハイルが暗殺され、ウルスの民は四散した。
遠い昔のチンギス・カンのように。深き水は涸れ。硬き石は砕け。影より他に伴はなく。尾より他に鞭はなく。
暮れなずむ草原を西へ、カザフの射手たちに追われて必死に馬を駆った。血塗れの剣を掲げてサライの戦士たちのあいだを駆け抜けた。

――バーブル。
貴様を羨む! あの頃の俺に、いま貴様の傍らで戦っているような忠臣たちがおれば!
とはいえ、バーブル。何物にも揺らぐことなき貴様の眼差しは。怯むことなく戦い続ける貴様の勇猛は。
昔日の俺と瓜二つだ……。

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(少年バーブルの出陣)

この戦いはウズベクの勝利に終わり、バーブルはサマルカンドに籠城する。シャイバーニーは一揉みに押し潰すつもりだったが、バーブルの防備には全く隙が無かった。
幾度か夜闇に紛れて城壁に迫ってみたが、歩哨の姿が絶えることはなく、しばしばバーブル自身が弓を手にして巡回する姿も見られた。
包囲は数ヶ月に及んだ。サマルカンド市内は飢餓状態になっているはずだが、バーブルの防備はまだ崩れない。冬が近づくころ、とうとうシャイバーニーは自分から和平の申し入れをした。
そして、シャイバーニーは初めてバーブルと対面した。

少年は意外と小柄で、穏やかな雰囲気をまとっていた。これまで甲冑に身を固めたバーブルしか見たことがなかったシャイバーニーは、ひどく意外な感じを受けた。
ひとつ訊いてみたいことがあった。

「もし俺が貴様なら、女子供やならず者を殺して口減らしをした。貴様は何故そうしなかった」

バーブルは驚いたようだった。一瞬その眼が怒りに燃えた気がしたが、すぐに拭ったような無表情に戻った。
彼は小声で何かを呟いた。何を言ったかはだいたい想像がつくので、聞き返そうとは思わない。
ともあれ和平は成った。バーブルは姉をシャイバーニーの妃とすることを条件に城を退去。シャイバーニーはティムール王家の血縁という権威を手にし、前より容易にサマルカンドを統治できることだろう。


バーブルと従者たちが夜闇のなかに消えたあと、シャイバーニーは珍しく笑い声をあげた。

「あの若僧、この国でただ一人アミール・ティムールの血をしかと受け継いでやがる。大した奴だ」
「シャイバーニー・ハーンよ、あの者、このまま引き下がるとは思えませぬ。いまのうちに殺すべきでは?」
「くだらん」

シャイバーニーは一言で断じた。

「あの若僧の眼を見たか。アフマト・ハンに跪かされた時の俺と同じ眼をしていやがった。むざむざ殺されるタマじゃねぇ」
「気に入られたのですか?」
「ああ……あの若僧と次に戦うのが楽しみだ」

しかしシャイバーニー・ハーンとザヒールッディーン・バーブルが、戦場で再び相見えることはなかった。

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(のちにインドのムガル帝国を建国するバーブルの自伝)



無謬の救世主

その年、西暦1501年。
サマルカンドの西方、二千キロあまり――東部アナトリア、エルジンジャンの地にて。

「――ぼくは、あの国を滅ぼしたい」
少年は天使のように微笑んだ。紅の帽子を戴く七千の男たちが衝天の叫びで応じた。

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(サファヴィー朝の建国者、シャー・イスマーイール1世)

イラン高原では一代の英傑ウズン・ハサンが1478年に世を去ったあと、白羊朝は王位をめぐる内乱で衰えた。
混迷のなかで頭角をあらわしたのは、かつてウズン・ハサンが庇護した「アルダビールの聖者」、サファヴィー教団の教主シェイフ・ジュナイドハイダルの父子だった。

サファヴィー家の教主はシーア派イマームとサーサーン朝ペルシア王家の血を引くと称し、東部アナトリアの遊牧民たちに神のごとく崇拝されていた。
ウズン・ハサンに庇護されたシェイフ・ジュナイドは単なる飾りに甘んじる気はさらさらなく、1460年に信徒を率いてカフカス山脈のシルカッシア人討伐に赴くも、雄図虚しく討死した。
その数ヶ月後に生まれたのがハイダル。信徒たちは彼を「神の子」と呼んだという。
ハイダルはある時夢で第4代正統カリフにしてシーア派初代イマームたるアリーに出会い、12の赤い巾を持つ帽子を与えられた。
彼は信徒たちにも同じ帽子を被らせた。人々は教主のために死をも恐れず突撃するサファヴィー教団の戦士たちを「クズルバシュ(紅帽の徒)」と呼んで恐れ憚った。

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(クズルバシュ)

ハイダルはウズン・ハサンの妹を母として生まれ、ウズン・ハサンの娘を妻とした。いわば白羊朝の傍系王族のひとりとして、ウズン・ハサンの子や孫たちとときに提携し、ときに争いながらアゼルバイジャンに勢力を広げていく。
だが1488年1月、エルブルーズ山麓のダルタナットで白羊朝とシルヴァーン・シャー朝に挟撃され、ハイダルは壮烈な討死を遂げた。

ハイダルには三人の幼い遺児がいた。彼らは信徒に守られ、白羊朝の追及を避けて各地を転々とするが、ひとりまたひとりと追いつめられて殺される。
そして最後に残ったのが、ハイダルの死の直前に生を受けた末子イスマーイールだった。
いまやただ一人のサファヴィー家の生き残り。
そして預言者ムハンマドの娘ファーティマとイマーム・アリーの血を、サーサーン朝ペルシア皇帝ヤズデギルドの血を、白羊朝の英主ウズン・ハサンの血を、さらには白羊朝を経由してビザンツ帝国コムネノス王家の血をも引く究極の貴種。
彼を見たものは幼い少年の白皙の面に心を奪われ、漆黒の瞳に魂を呪縛された。

――あまりに美しすぎて邪悪なものを感じさせるほど。
のちにそう評されたイスマーイール。
西暦1501年、エルジンジャンの地に七千人のクズルバシュを召集したイスマーイールは、天使のように微笑んだ。
「ぼくは、あの国を滅ぼしたい」

これより13年間、イスマーイールとクズルバシュの戦士たちは伝説の主人公となる。

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1501年夏、少年イスマーイールに導かれたクズルバシュたちはタブリーズを占領した。イスマーイールは14歳にして「パーディシャーヘ・イーラーン(イランの帝王)」の座に就いた。「サファヴィー朝ペルシア」の成立である。
この地で彼は、シーア派十二イマーム派をイランの国教にすると宣言した。
サファヴィー朝に制圧された諸都市では、斧を担いだ役人が、シーア派が簒奪者と見なしている正統カリフのアブー・バクルとウマルとウスマーンを呪詛して通りを練り歩き、これに賛同しない者はたちどころに絞首された。


クズルバシュはシャー・イスマーイール1世を神の化身と信じ、「ムルシデ・カーミル(完全なる導師)」と呼ぶ。

「さてさて困ったものだ。ぼくは神ではないよ」
血臭ただよう帝国の中心で、聖なる少年は微笑んだ。
「ぼくはアッラーではなくて、ただのマフディー(救世主)だ。間違えないでほしいな」


クズルバシュは再び進撃を開始する。シャー・イスマーイールの征くところ、あらゆる敵は雪崩を打って潰走した。無数の諸都市が抵抗もせずに降伏した。イラン高原全土が瞬く間にサファヴィー朝の旌旗に覆われていく。
そして1510年秋、ついにイスマーイールはウズベクのシャイバーニー・ハーンと出会う。

60歳の梟雄と23歳の常勝王はメルヴ近郊で激突した。偽装退却するサファヴィー朝軍に誘い出されたシャイバーニーは無数の伏兵に四方を襲撃され、乱戦のなかで討死した。
イスマーイールは本陣に運び込まれたシャイバーニーの首級を興味深げに覗き込んだ。

「可哀想に。すごく恨めしそうな顔をしてる」
天使のような微笑みを浮かべて青年は言った。
「さあ、シャイバーニーを綺麗に飾ってあげよう。肉を削って骨を磨いて金箔を貼り付けて、マフディーの酒杯にしてあげよう」
クズルバシュたちは狂熱の叫びをあげて彼らの主君に応じた。

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(シャー・イスマーイールとシャイバーニー・ハーンの戦い)

シャイバーニーの死によってウズベク勢力は無主となり、大きく混乱した。
このとき、9年前にシャイバーニーに敗れたバーブルは28歳になっている。
アフガニスタンのカブールを拠点にティムール朝の最後の小王国を営みつつ、いまもサマルカンド奪還の夢を捨てていない。

メルヴの戦いの結果を知るやいなや、バーブルは直ちに出陣した。北に進軍しながらイスマーイールに使者を送り、サファヴィー朝への臣従とシーア派改宗を約して支援を要請する。イスマーイールはこれを快諾した。
1511年10月、バーブルは6万の大軍を率いてサマルカンドに帰還した。住民たちは歓喜の声をあげてバーブルの軍勢を迎えた。
ところがバーブル本人の入城とともにどよめきがあがった。バーブルは赤い12の巾ある帽子を被り、公然とシーア派の標を身にまとっているではないか。

サマルカンドの住民たちはサファヴィー朝のもとで正統カリフたちが侮辱され、学者や法官が次々に処刑され、シーア派に改宗せぬ者たちが弾圧されていることを伝え聞いていた。
人々は街を巡回するバーブルから視線を逸らし、物資の供出を渋った。
民衆の支持を得られなかったバーブルは翌年11月にシャイバーニーの子ウバイドゥッラーに大敗し、サマルカンドを放棄してカブールに撤退した。マー・ワラー・アンナフルは再びウズベクの国となった。

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(バーブル・ナーマの訳注者によるバーブル伝)


さて、東の敵を滅ぼしたイスマーイールは西に目を向ける。
アナトリアとバルカン半島にまたがる大国、オスマン帝国……。そこではメフメト2世征服王の死後、祖父のムラト2世に似て敬虔なバヤズィット2世が国を治めている。

イスラーム神秘主義に関心が深いバヤズィットは、当初サファヴィー教団に好意的だった。しかしイスマーイールの急激な台頭が両国の緊張をもたらした。
東部アナトリアの遊牧民たちはクズルバシュ同様にイスマーイールを神の化身と信じ、次々に国境を越えてサファヴィー朝に流れ込んだ。
さすがに危機感を覚えたバヤズィットは、サファヴィー朝に同調する者たちをバルカン半島に強制移住させはじめた。一方、サファヴィー朝は1507年にオスマン帝国の属国ドゥルカディルに侵攻する。
そして1511年、事態は決定的な局面を迎える。サファヴィー朝の檄文に応じた東部アナトリアの遊牧民たちが、「シャー・クル(王の奴隷)」と称する人物に率いられて大反乱を起こしたのだ。
この危機のさなか、オスマン帝国の帝都イスタンブルでクーデターが発生した。


神々の黄昏

我が名はシャー・イスマーイール、神の秘密なり。
これら全ガーズィーの頭なり。
我が母はファーティマ、我が父はアリー、そして我自身は十二イマームの長なり。
余はイスマーイール、この世に来たり。
余はアリーなり。アリーは余なり。

完全なる導師が来たぞ。すべてのイマームなり。
全ガーズィーよ、歓喜せよ。預言者の封印が来たぞ。
真実の体現であるぞ。跪け。
サタンに従うな。アダムが再び衣を新たに纏ったぞ。

神が来たぞ。神が来たぞ。
マフディーの時代が始まるぞ。
未来永劫の光が世にやってきたぞ。


(安藤史朗訳、シャー・イスマーイールがクズルバシュに与えた詩)



バヤズィット2世には三人の息子がいた。長男と次男は良くも悪くも平凡だったが、三男のセリムだけは際立った軍事の才を示してイェニチェリたちに支持されていた。
しかしセリムには人を人とも思わぬ冷酷さがあり、父王バヤズィットに嫌われていたという。

1512年4月24日。
バヤズィット2世がシャー・クルの反乱鎮圧に手こずるなか、帝都のイェニチェリたちがセリムを担いで蜂起した。
セリムは冷たい眼をしてトプカプ宮殿に乗り込むと驚くバヤズィットを玉座から突き落とし、配下の者たちに二人の兄と甥たちの処刑を命じた。
即位後、セリム1世は西のハンガリーと和睦してオスマン軍の態勢を立て直し、シャー・クルの反乱を徹底的に粉砕した。オスマン帝国全土のシーア派7万人のうち、4万人がセリムの命によって処刑された。
敵も味方もセリムの苛烈さに恐れおののき、彼をこう呼ぶことになる。

――ヤヴズ(冷酷王)。

セリムのクーデターの翌月、先帝バヤズィットが突然の死を遂げた。誰もが目くばせしあい、無言で確信を共有した。
冷酷王は、己の実の父をも手に掛けたのだと……。

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(セリム1世冷酷王)

実はセリムはかつてトレビゾンドの太守を務め、イスマーイールの台頭を間近で観察し続けていた。
だからセリムはイスマーイールの異様な求心力と、彼のためには生命を惜しまぬクズルバシュたちの狂熱を誰よりも警戒している。恐れているといっても良い。
1514年、セリム1世は6万以上、一説には20万ともいわれる大軍を率いて東征の途に就いた。コンスタンティノポリス包囲以来、これほどの大軍が動員されたことはない。名分は異端者への聖戦。目的はサファヴィー朝ペルシアの打倒である。

ŞahİsmayılXətai
(シャー・イスマーイール1世)

8月22日、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアの両軍は東部アナトリアのチャルディラーンで相見えた。

サファヴィー軍は1万2千とも4万ともいわれ、オスマン軍より明らかに少数だった。たしかにクズルバシュはいまだ敗北を知らぬ世界最強の騎馬軍団であり、君主イスマーイールは無謬の救世主。だが……
サファヴィー軍の左翼を受け持つ部将、ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーは一抹の不安を禁じ得なかった。

「オスマン軍のイェニチェリは精鋭で、その銃砲の威力は強力です。敵方の態勢が整う前に夜襲を……」
「馬鹿な!!」

大声でこれを遮ったのは右翼の部将、ドルミーシュ・ハーン・シャームルーだった。

「言葉を慎め! 貴様、我が陛下の神威を疑うのか!!」

不信者だ、不信者だ……囁きが軍議の席に広がる。が、イスマーイールは瞑目して口を開こうとしなかった。クズルバシュの諸将は常にない主君の様子に戸惑う。それでもドルミーシュはさらに言い募った。

「ウスタージャルーは田舎者よ! そんな合戦はディヤルバクルでやっておれ、これは王と王との決戦ぞ!」

王と王との決戦。この言葉が発せられた瞬間、イスマーイールは目を見開いた。

「イスカンダル・ズルカルナイン(アレクサンドロス大王)がダーラー(ダレイオス3世)との戦いを前にしたとき、夜襲を進言した者がいた。イスカンダルはこう言った。『私は勝利を盗まない』と」

27歳のイスマーイールは、いまも変わらぬ天使の微笑みを浮かべた。

「ぼくも、勝利は盗まない」

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(チャルディラーンの戦い)

翌朝、日の出とともにサファヴィー朝の騎馬軍団が怒涛の突撃を開始した。教主のためには死をも恐れぬクズルバシュ。その猛攻に押されてオスマン軍の右翼は崩れたつ。
が、セリムが右翼に送ったイェニチェリたちが一斉射撃を開始すると形勢が急変した。押し寄せるクズルバシュたちは次から次に銃撃を浴びて舞うように落馬した。
さらにオスマン軍の中央に据えられた大砲が火を噴き、支援に向かうサファヴィー騎兵を薙ぎ倒した。夜襲を進言したウスタージャルーは勇戦虚しく戦死した。
濛々と砂塵があがり、膨大な火力が紅帽の軍団を血と肉の塊に変えていく。イスマーイールは拳を握りしめたまま凝然と立ち尽くしていた。
信じられない。救世主が、救世主の軍隊がなにゆえ異端の徒に敗れつつあるのか。これは間違いだ。そうだ、何かの間違いに決まっている。

イスマーイールは白馬に乗って最前線に駆けだした。親衛隊が慌てて後を追う。
救世主の出陣にクズルバシュたちは奮い立ち、鬨の声をあげて馬首を揃えて突撃し……そして銃火に薙ぎ倒された。
砲弾がイスマーイールの目の前で炸裂し、馬が悲痛な嘶きをあげて棒立ちになり、救世主を振り落とした。

「陛下! お退きください! どうか、陛下!!」
クズルバシュが泣き叫んでいた。


――西暦1514年8月23日、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝ペルシアのシャー・イスマーイール1世は生涯最初の敗北を喫した。
致命的な敗北だった。
サファヴィー朝は西アジアの覇権をオスマン帝国に奪われた。東部アナトリア、アルメニア、クルディスタン、アゼルバイジャンを失い、王都タブリーズに敵の入城を許した。
そしてなにより、無謬の導師イスマーイールの光輝はこの日この敗北によって永遠に喪われた。
イスマーイールは自分が神の化身でも救世主でもなく、ひとりの人間に過ぎないことを骨の髄まで思い知った。彼を神のごとく崇めていたクズルバシュたちも同じだった。
クズルバシュはもはやシャーの権威を重んじず、私欲に駆られて無秩序に争いだす。
そしてイスマーイール自身は心を病んだ。
常勝を誇った若者は、これよりのち二度と戦場に立つことなく、酒色に溺れて37歳でこの世を去ったという。

加えてこの戦いは、二千年以上にわたってユーラシア大陸を制してきた遊牧騎馬軍団が火砲を駆使する定住歩兵軍団に決定的な敗北を喫した点でも、世界史上特筆されるに値する。
草原を駆ける勇者たちの時代は終わり、やがて常備軍と官僚の時代が始まる……これは「神々の黄昏」であった。


終章・マルジュ・ダービク

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(マムルーク朝の領土)

マムルーク朝エジプト、第54代スルタンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーは灼熱の夏の太陽のもとで無数の軍勢を見下ろしていた。
西暦1516年8月24日。1250年に樹立されたマムルーク朝はすでに250年以上にわたってエジプトとシリア・ヒジャーズを支配し、イスラーム世界でもっとも富強を誇っている。
いま、彼はマムルーク朝の最北端、シリアのアレッポ郊外に広がるマルジュ・ダービクの野でオスマン帝国との決戦に備える大軍勢を閲兵しているのだった。
赤い軍旗のもと、70歳を越える老スルタンを囲むように、四人の首席カーディー(法官)と最高位の将軍たちが並び、右にはこの国の名目上の主権者であるアッバース朝のカリフ、ムタワッキル3世の姿もある。

2年前、オスマン帝国のセリム1世は常勝不敗を誇っていた若き英雄、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールを打ち破った。
カーンスーフにとってこれは誤算だった。北の新興二大国の力が伯仲している限り、マムルーク朝は安泰なはずだった。
いまや均衡は崩れた。ゆえにこのシリア北部に、イスラーム世界最強の軍団を率いて彼は来た。オスマン帝国に古く強大なマムルーク朝の力を見せつけるべく。
オスマンの子らにはアナトリアを、クズルバシュの王にはイランの地を。されど二つの聖都を守護する者は、マムルーク朝エジプトのみ!

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(アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー)

オスマン軍の果てしない太鼓の連打とともに運命の戦いは始まった。
オスマン軍の無数の銃火はマムルーク軍の騎馬軍団を嵐のように打ち倒し、右翼を壊滅させた。左翼の司令官ハーイル・ベイはとうのむかしにセリムに内通しており、危機的な状況のなかで致命的な裏切りに出た。
カーンスーフは周囲で次々に自軍が倒されていくさまを、血も凍る思いで見つめていた。祈れ、さあアッラーの加護を早く祈れと彼はカーディーたちを急き立てる。
一人の将軍が軍旗を下ろし、それを畳んでカーンスーフに向き直った。

「スルタンよ、我々は敗北しました。お命を守るため、アレッポへお退きください」

カーンスーフがその言葉を理解するまでに一瞬の間があった。それから突然、彼はよろめいた。従者たちが慌てて駆け寄り、彼を馬上に担ぎあげる。馬に乗ろうとしたカーンスーフは転げ落ち、その場で息絶えた。
親衛隊は老スルタンの遺体を放置して走り去った。


マルジュ・ダービクの野でマムルーク朝は7万の大軍を失った。セリム冷酷王はなんら抵抗を受けずにアレッポに入り、ダマスクスを占領した。
そして1517年1月、オスマン帝国軍はエジプトに侵入した。

カイロの町は恐慌状態になり、多くのマムルークたちが出陣を拒否して身を隠した。マムルーク朝最後のスルタン、トゥーマンバーイは身分も出自も問わず掻き集められる限りの男たちを集めてオスマン軍を迎え撃った。
1月23日、カイロ北郊のわずか1時間の戦いでマムルーク軍は完全に崩壊した。勝ち誇るオスマン軍はカイロに雪崩れ込み、町を3日にわたって略奪した。

「二つの大陸と二つの海の支配者たるスルタンの子、イラーク・アジャミーとイラーク・アラビー、両聖都の守護者、勝利に満てるスルタン・セリム・シャー万歳! 二つの世界の主たる汝に永遠の勝利あれ!」

遠くアッシリア帝国の時代から入れ代わり立ち代わり外国の征服者たちに支配されてきたエジプトの民は、二世紀半にわたるマムルーク朝の時代の終焉を悟り、オスマン帝国スルタンの支持を宣言した。
捕えられたトゥーマンバーイはズワイラ門に連行され、固唾をのむ群衆たちの前で絞首刑に処せられた。トゥーマンバーイが息絶えると恐怖とも興奮ともつかぬ叫びが街を満たした。

アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがるイスラーム世界最後の大帝国が、ここに完成した。

ジュチ裔諸政権史の研究

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(ジョチ・ウルス後継諸国家の系譜と歴史を解明する)


イスラーム世界の歴史29 征服者の時代

承前・新月の系譜

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(コンスタンティノポリスを望むメフメト2世)

帝都コンスタンティノポリスは、その始まりから世界の首都たる運命を背負っていた。

紀元330年、ローマのコンスタンティヌス大帝がこの都を築いた。
アジアとヨーロッパが指呼の間に向かい合い、地中海と黒海が接するこの場所は、ほどなく世界でもっと豊かな都市のひとつとなった。
その豊かさゆえに、帝都コンスタンティノポリスは幾度も敵襲にさらされた。しかし激しい潮流と巨大な城壁があらゆる攻撃を撥ね返し、何世紀ものあいだこの都は難攻不落の誉をほしいままにした。

古代ローマ帝国の分裂後、コンスタンティノポリスに拠る東の帝国ビザンツはさらに千年の齢を保った。
栄光と暗黒がこもごも来たり、国威は浮沈を繰り返した。
アラブの大征服によってシリアとエジプトは永遠に帝国の手を離れたが、マケドニア朝の時代に帝国は東地中海の覇権を取り戻した。しかし11世紀には西のノルマン人、東のテュルク人が腹背から帝国を猛襲する。
ときの皇帝アレクシオス1世は窮余の策として西方から傭兵を呼集するが、この「十字軍」と呼ばれる集団はたちまち帝国の統制を離れてシリアに自立し、1204年には帝都そのものを奪う。
ニカイアに成立した亡命政権は半世紀ほどのちに帝都奪還を果たすが、すでにビザンツ帝国はエーゲ海北部の渺たる小国と化していた。

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(紫色が1450年頃のビザンツ帝国)

アナトリアで最初のテュルクの国、ルーム・セルジューク朝の繁栄はモンゴル襲来によって終わりを告げた。
14世紀のアナトリアは「ガーズィー」と呼ばれる群雄たちが互いに争う戦乱の地となった。そんななか、半島西北隅にオスマン君侯国と呼ばれる小国が誕生した。
動乱に追われる難民たち、安住の地を求めるデルヴィーシュ、異教徒との聖戦を夢見る戦士たちが次々にこの最果ての国に流入した。

1354年、オスマン君侯国はダーダネルス海峡を越え、異教の大陸に初めて橋頭堡を得た。
1365年、オスマン朝はアドリアノープルあらためエディルネを都と定め、本格的な西方進出を開始する。
1373年にビザンツ帝国を属国とし、1389年にはコソヴォの戦いでセルビア王国を崩壊させる。1396年にはニコポリスで欧州連合軍を撃破し、第二次ブルガリア帝国を併合する。

ティムールの到来と続く十数年間の継承戦争によって欧州は束の間の安息を得るが、無力化した東欧諸国は態勢立て直しに失敗した。
まもなく復活を遂げたオスマン朝は、バルカン半島への進撃を再開した。
セルビアはオスマン朝に屈服し、公女マーラをスルタンに献上した。ハンガリーはヴァルナで大敗し、東欧最強と謳われた摂政フニャディ・ヤーノシュの勢威は失墜した。
いまやオスマン朝への抵抗を続けるのはアルバニアの英傑スカンデルベクのみとなり、ビザンツ帝国はオスマン朝の顔色を伺いながら、ペロポネソス半島の一部と、帝都コンスタンティノポリスを細々と維持するばかりである。


その前夜

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(ムラト2世)

1421年にオスマン朝の第6代スルタンとなったムラト2世は温和な人だった。
決して戦いに怯むことはなかったが、敗者を追い詰めることは好まず、いずれ隠棲してスーフィズム(イスラーム神秘主義)の道を歩むことを望んでいた。
しかし時代と立場は彼の願いを容易に叶えはしなかった。東においてはカラマン君侯国やゲルミヤン君侯国、西においてはハンガリー王国やポーランド、そしてヴェネツィア共和国がオスマン朝に敵対した。

1444年、ヴァルナでハンガリー軍に圧勝したムラト2世は君主の地位を三男メフメトに譲り、ようやく希望を実現した。
だが12歳の新スルタンは国家の統制に失敗した。


ムラト2世ははじめ、メフメトの存在をほとんど気にかけていなかった。ところが長子と次子が相次いで不慮の死を遂げたため、メフメトが11歳にしてオスマン朝で唯一の王位継承権者となる。
それまでメフメトの教育はなおざりにされていた。初めてメフメトとまともに会話を交わしたとき、ムラトは我が子の無知に呆れ果てた。
それから一年、詰め込み教育の甲斐あってメフメトは六ヶ国語を操る秀才児となったが、国政を担うにはまだ早過ぎたのだろう。

メフメトはいきなりコンスタンティノポリス攻撃を命じて高官たちを仰天させた。
ビザンツ帝国が本音のところで何を考えているかは知れたものではないが、いちおうかの国はオスマンの属国である。これといった大義名分もなく、多大な犠牲を払って難攻不落の帝都を攻めるなど馬鹿げている。

ザドラザム(大宰相)チャンダルル・ハリル・パシャは少年王の命令をやんわりと拒絶した。メフメトは激怒したが、廷臣と民衆と軍隊はことごとく大宰相を支持し、新スルタンへの不満を露わにした。
大宰相は軍の不穏な動向を見て取って、隠棲していたムラト2世に復位を求めた。
1446年秋、やむなくムラトが復位。エディルネは喜びに沸き立った。少年メフメトは廃位され、西部アナトリアのマニサへ送られた。

1448年、形勢挽回を図るハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュがオスマン朝への攻撃を再開したが、ムラトはコソヴォでこれを撃破。ハンガリーの脅威は消滅した。
それから三年後、1451年2月にムラト2世はエディルネで息を引き取った。

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(ビザンツ帝国最後の皇帝、コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガゼス)

ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世は、かつて兄帝のもとでペロポネソス半島の統治を委ねられ、モレアス専制公を称していた。
彼はパレオロゴス朝成立後もこの地に居座っていたラテン人たちを駆逐し、ヴァルナの戦いに際してはオスマン朝からの自立を目指して北進した。
だが、ハンガリー軍の敗走が彼の夢を打ち砕く。押し寄せるオスマン軍はコリントス地峡の防壁を徹底的に破壊し、コンスタンティノスはおよそ半月にわたる攻防の末、ムラト2世に屈服した。

この敗北が皇帝としての彼の原点にある。
もはやビザンツはどう足掻いてもオスマン朝に対抗し、名実備えた帝国として蘇ることはできない。東欧の諸国も頼むに足りぬ。
それゆえ彼は西欧との連携を試みた。だが何世紀にもわたるローマ・カトリックとギリシア正教の分裂ゆえに、西方諸国は帝国の支援を渋り、帝国内部でも西との連携を支持する者は稀だった。

焦るコンスタンティノスはムラト2世の死を好機と見た。
その頃、オスマン朝の遠縁の皇族が帝都コンスタンティノポリスに亡命していた。コンスタンティノスはこの皇族の監視費用をメフメトに請求した。
ビザンツ帝国がオスマン朝の王位請求権者を抱えていることを示して、メフメトの政権基盤確立を妨害するつもりだった。

19歳の新スルタンは凍るような眼で皇帝の使者を、そしておのれの臣下たちを見つめた。いまや彼の望みを妨げるものは何もない。

「――師よ、あの町を俺にくれ」

大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは一瞬息を呑み、肩を落として嘆息した。

「――御意のままに」

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(メフメト2世ファーティフ)

オスマン朝第7代君主、メフメト2世
ムスリムとしての正規の教育を受けるよりもずっと前に、乳母の寝物語で聞いた古代ギリシアの神話伝説、とりわけアレクサンドロス大王の英雄譚に彼は深く憧れていた。

千年の歳月を閲してきた帝都コンスタンティノポリス。
そこで絢爛たる古代の廃墟のなかに、ローマ人の最後の末裔たちが居座っている。
これを完全に滅ぼし、コンスタンティノポリスをイスラームの都と化すことができれば……それは父祖たちの誰もが果たし得なかった偉業。預言者ムハンマドの昔からムスリムたちが抱いてきた征服の夢。

1451年冬、メフメト2世はストルマ流域の町々からギリシア人を追放し、領土全域から何千人もの石工を召集した。
翌1452年4月、ボスポラス海峡西岸に「ルメーリ・ヒサール」と呼ばれる城塞の建設が始まった。
帝都コンスンタンティノポリスは不安と疑惑に覆われ、疑惑は急速に確信へと変化した。オスマン朝は再び帝都攻囲を目論みつつある。

コンスタンティノス11世はスルタンに城塞建設の意図を問い質す使節を送ったが、彼らはことごとく首を刎ねられた。
8月、ルメーリ・ヒサール完成とともにメフメト2世は海峡の封鎖を命じた。
そしてエーゲ海沿岸各地で軍船の建造を指示し、大軍の動員準備に取り掛かる。

皇帝は諸外国に救援を求める使者を送った。だが東や北の正教諸国は遠く無力だった。西のカトリック諸国は互いの内紛と長年の宗派対立から、帝国の嘆願を黙殺した。
千年帝国は孤立無援となった。

1453年4月5日、オスマン朝の全軍が帝都コンスタンティノポリス外周に集結した。
城壁から見はるかす野も丘も海上も、二つの大陸から召集されたオスマン朝の大軍勢に埋め尽くされた。その数、およそ10万。対するに帝都防衛軍は、多少なりとも戦いに耐え得る男たちをすべてあわせても8千名に満たない。
かくてビザンツ帝国最期の戦いが開幕する。


帝国の終焉

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(コンスタンティノポリスの包囲)

戦いは激しい砲撃とともに始まった。メフメト2世はこの戦場に、ウルバンという技師が鋳造した8メートルの巨砲を持ち込んだ。これまで世界で作られた中で最大の大砲だった。
絶え間ない砲撃によってテオドシウス城壁はたちまち崩れはじめた。この城壁は最初の火薬兵器が登場するよりはるか以前に築かれたものだった。
しかし防衛軍は死の危険を省みずに城壁を修復し、果敢な抵抗を続けた。

海上ではオスマン艦隊が帝都の内港、金角湾への侵入を試みたが、湾口に張られた鉄鎖に阻まれて失敗。4月20日には南から来援した四隻のジェノヴァ船がオスマン艦隊を突破して金角湾に入った。
激怒したメフメトは艦隊司令官を更迭し、コロを使って艦隊を陸から金角湾に侵入させた。それでも帝都の抵抗は続く。

とはいえ防衛軍は日が経つにつれて疲弊の色が濃くなり、絶望が帝都を覆っていく。
ヴェネツィア艦隊を探索に出た船が決死の覚悟で帝都に戻り、エーゲ海のどこにも援軍は見当たらないと告げた。
帝都コンスタンティノポリスは、帝都を築いたヘレナの子コンスタンティヌスと同じ名前の皇帝の御代に滅亡するであろう……古い言い伝えが人々の口の端にのぼりはじめた。

5月24日、満月。この夜、月食が起こり、闇が三時間にわたって地上を覆った。
不安に駆られた市民たちが聖母のイコン(聖画)を掲げて市街を巡回すると、突然イコンが台座から滑り落ちた。駆け寄った人々はイコンの重さに驚いた。誰もそれを持ち上げて台座に据え直すことはできなかった。
その後、にわかに激しい雷雨と雹が帝都を襲い、翌日には深い霧が立ち込めた。誰も言葉にこそ出さないが、今や疑問の余地はなかった。神は帝都コンスタンティノポリスを見捨てたのだ。

廷臣たちは皇帝コンスタンティノスに帝都脱出を進言した。
皇帝コンスタンティノスはこのとき48歳。温厚で思慮深く、誰に対しても声を荒げることはついぞなかった。帝都の人々は政策への賛否を問わず、等しくこの皇帝を敬愛していたという。
亡命を勧められた皇帝は静かに、だがきっぱりと首を振った。
神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。されど、聖なる臨在が帝都を見捨てても、皇帝は最期まで帝都に留まるであろう。皇帝は帝都の民とともに生き、帝都の民とともに死ぬであろう。

月は下弦に転じ、ゆっくりと新月に向かっていった。オスマンの赤い軍旗に染め上げられた新月に。

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実のところ、包囲軍の士気も日を追って沮喪しつつあった。

陸でも海でも決定的な勝利は一度もおさめられず、城壁はいまだ突破できず、包囲の開始からすでに1ヶ月半が経過しようとしている。兵士たちは不満を漏らし、スルタンの威信は低下しはじめている。
大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは御前会議で包囲の断念を主張した。
それに対し、スルタンの信任厚いサガノス・パシャが激しく反論した。キリスト教諸国は四分五裂し、帝都救援に来る者はいない。かのアレクサンドロス大王のごとく撤兵など念頭に置かず、遮二無二攻撃を続行すべし。
メフメトはこれを採った。

「――アッラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり……」

10万の兵士たちの祈りの声が夕暮れの空と大地にうねるように広がっていく。皇帝コンスタンティノスはブラケルナエ宮殿の外壁の上に立ち、長いあいだ無言で宵闇の広野を見つめ続けた。

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(城壁の名残り)

5月28日午後、オスマン軍は全線にわたって激烈な攻勢を開始した。間断なく太鼓が打ち鳴らされ、兵士たちは次々に城壁に突撃した。絶え間なく激しい砲撃が続いた。
戦いは夜になってもおさまる気配がなく、メフメトは次から次へと新手の部隊を繰り出した。

夜明け前のもっとも暗い刻限に、オスマン朝で最強を誇るイェニチェリ親衛隊が前進を開始する。メフメトは最前線に出てこれを督励した。皇帝コンスタンティノスも前線に馬を進めた。

激闘に次ぐ激闘で、城壁を守る兵士たちは疲労の極みに達していた。そのとき、一閃の矢が守備隊を指揮するジェノヴァの傭兵隊長ジュスティニアーニの胸に突き立った。
痛みに耐えかねて絶叫するジュスティニアーニ。守備隊が動揺するなか、オスマン軍の一隊が城壁の脇の古い小門が開き放しになっていることに気付いた。

「街はもはや我々のものだ!!」

砲弾が防柵をなぎ倒す。メフメトが大喝する。イェニチェリたちが我先に突撃をはじめる。
守備隊は狼狽して為す術もなかった。階段を駆け上ったイェニチェリは小塔に翻る双頭の鷲の旗を引きずりおろし、するすると赤い新月の旗を揚げた。

城壁の下に身を置く皇帝コンスタンティノスは退路を閉ざされた。いまや帝国の希望も尽き果てた。
彼は無言で明けゆく空を見上げた。先ほどまで闇に覆われていた空はいつしか濃紺に変わり、東の空は茜色に染まりつつあった。流れる雲のなかに白い新月が上りはじめていた。
皇帝は馬を降り、帝位を示す徽章を捥ぎ取った。紫のマントを外し、鞘を投げ棄て、抜身の剣を掲げた。

「いまここで、私を殺してくれる一人のキリスト教徒もいないのか?」

寂しげに呟いた皇帝は、敢然と前を向いて歩きだした。10万の敵軍が怒涛のように殺到し、たちまちその姿は黒い人波のなかに飲み込まれていく。その後、二度と彼を見た者はいなかった。
後の世の人々は、コンスタンティノス11世は神の祝福を受けて聖人となり、いつの日かギリシアの民を救うために天から降ってくるのだと信じた。
死を越え、恐れを越え、滅びを越え、人の世の生死を抜けて、ローマ帝国最後の皇帝はとこしえの栄光に上っていったのだ。


征服王の時代

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(コンスタンティノポリスに入城するメフメト2世)

Sultan Muhammad Al-Fateh Penakluk Konstantinople

(コンスタンティノポリス陥落を大迫力で描くトルコの映画)

21歳の若さでビザンツ帝国一千年の歴史に終止符を打ったメフメト2世。
彼はその偉業を讃えて、「ファーティフ(征服者)」と呼ばれることになる。

メフメトが見た帝都は空虚だった。かつて百万の人口を誇った都に暮らす人々は、今では五万に満たなかった。
城壁のなかには田園と雑木林が広がり、古代の宮殿や修道院の廃墟が点在している。人々は13ほどの集落に身を寄せ合い、貧しい暮らしを送っていた。

若き征服者が最初に行ったのは、キリスト教徒たちの敬愛を受けていたゲオルギオス・スコラリオスという神学者を、新しいコンスタンティノポリス総大主教に叙任することだった。
かつてビザンツ帝国の皇帝たちが果たしていたのと同じ役目を、今はスルタンが果たす。不思議な光景だった。

「多き幸をもて総大主教たれ。我らの友愛の念を信じ、汝に先立つ総大主教たちが享受せるすべての特権を享受し続けよ」

メフメトは祝福の言葉とともに、法衣を、司教杖を、そして美しい十字架を手ずからゲオルギオスに授けたという。

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(ゲオルギオスとメフメト2世)

メフメトはビザンツ帝権の後継者、ローマの継承者を自認した。
オスマン朝、いや、すでに「オスマン帝国」と呼ぶべきだろう。これ以後、オスマン帝国の皇帝たちは「スルタン」のみならず、「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」とも呼ばれることになる。

キリスト教徒たちは総大主教のもとで一定の自治と信仰の自由を認められた。とはいえ、メフメトは全てを元通りに留めたわけではない。
アナトリアから、バルカンから、無数の人々がこの都に呼び寄せられた。その中にはキリスト教徒もムスリムもユダヤ教徒もいた。
荒れた土地に新しい家々や商店が生まれ、街路や水道が整備され、都に活気が蘇ってきた。しかし、そこに暮らす人々は数十年前とは見違えるほどに多様だった。
そして、いたるところに見られた修道院や教会は姿を消し、かわってモスクやマドラサが続々と建設された。

メフメトはエディルネを去って、征服間もない「コンスタンティニエ」を国都とした。
程なくこの都は新たに到来したオスマン人たちに「イスタンブル」と呼ばれるようになった。
海峡を見下ろす高台のうえには壮麗なトプカプ宮殿が築かれた。

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(トプカプ宮殿)

この頃からスルタンの権威と権力は大きく強化される。
初期オスマン朝を支えてきた名門チャンダルル家出身の大宰相ハリルは、征服直後に利敵行為の故をもって処刑された。かわって大宰相となったのは奴隷出身のサガノス・パシャ。
メフメトは家門の後ろ盾を持たないカプクルやイェニチェリを重用し、御簾の背後の高い玉座に座し、臣民の視線から己を隔離した。
のちに「地上における神の影」とすら呼ばれる、絶対君主の時代が始まったのだ。


メフメトはその後も各地に征戦を続けた。
1459年にセルビアを直接統治下とし、1461年にペロポネソス半島を征服し、同年にトレビゾンド、さらに1463年にはボスニアを併合した。
とはいえ彼の征戦が常に勝利を約束されたわけではない。
フニャディ・ヤーノシュはベオグラードでオスマン軍を敗走させ、アルバニアのスカンデルベクは死ぬまで屈服せず、ワラキアのヴラド3世やモルダヴィアのシュテファン・チェル・マーレも頑強に抵抗した。

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(ヴラド3世がメフメトの心胆を寒からしめたトゥルゴヴィシュテの夜襲)

メフメトはむしろ東方で赫々たる成果を収めた。
長きにわたって潜在敵国であり続けたカラマン君侯国を1468年に併合し、さらに東進してイラン高原で勃興しつつあった白羊朝のウズン・ハサンを撃破する。1475年にはクリミア・ハン国を臣従させ、黒海をオスマンの海と化す。

晩年のメフメトは西ヨーロッパ遠征を目論み、ゲディク・アフメト・パシャ率いる艦隊に南イタリアのオトラントを占領させた。
イタリア半島南部を抑えるナポリ王国は混乱に陥り、教皇は恐怖した。
だが、西欧が悪夢の顕現に怯えるなか、奇跡が起こった。イスタンブルを出陣したメフメトが急病となり、1481年5月3日に陣没したのだ。

オスマン帝国ではメフメトの二人の遺児、バヤズィットとジェムとのあいだで帝位継承をめぐる争いがはじまる。
内乱はほどなくバヤズィットの勝利によって終結したが、敗れたジェムはエジプトを経てヨーロッパに亡命し、フランスやイタリアを転々とする。
オスマン帝国第8代皇帝となったバヤズィット2世は、潜在的な帝位継承権者である弟を人質に取られる形となり、メフメトの時代とは一転して消極外交に甘んじるのだった。

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(日本語で読めるものでは唯一であろうメフメト2世の伝記)



羊たちの喧騒

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(ティムール帝国)

オスマン帝国が興隆する頃、イスラーム世界東部は混迷のなかにあった。
14世紀末に巨大な版図を築いたティムール帝国は、偉大な建国者の死とともに解体しはじめた。その機に乗じて台頭してきたのが、黒羊朝(カラ・コユンル)と呼ばれる勢力だった。


黒羊朝はティムール到来以前から西北イランに展開していた遊牧部族連合である。当時の指導者をカラ・ユースフという。
彼はティムールに国を追われてマムルーク朝に亡命するが、ティムールとの取引材料として幽閉されてしまう。ところが、彼はそこで数奇な出会いを果たした。
相手はかつてイラーク平原と西部イランを領有していたジャライル朝のスルタン・アフメドである。
 ※この二人については「イスラーム世界の歴史27 鉄の嵐、炎の槍」を参照。

ともに亡国の憂き目を見た二人の元君主に、奇妙な絆が生まれた。
彼らはマムルーク朝の牢獄のなかで誓いを交わす。いつの日か運命に恵まれて国を取り戻せたら、イラーク全土はスルタン・アフメドのもの、アゼルバイジャンはカラ・ユースフのものとして、決して仲違いをすまいと。

運命は意外と早く彼らに微笑んだ。アンカラの戦いでオスマン朝を屈服させたティムールは明国遠征のために東へ帰り、マムルーク朝は1404年に二人の身柄を解放したのだ。
翌年にティムールが死ぬと王族たちのあいだで継承戦争がはじまる。アフメドとユースフは直ちに兵をあげ、1408年にティムールの三男ミーラーン・シャーを倒して旧領回復を成し遂げた。
だが、ここでジャライル朝のスルタン・アフメドが誓いを破り、カラ・ユースフの取り分たるべきアゼルバイジャンのタブリーズを占領してしまう。
裏切りを怒ったカラ・ユースフは直ちにタブリーズに進軍し、1410年にスルタン・アフメドを捕えて縛り首にする。これでイラン高原西部は黒羊朝の天下となった。

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(カラ・ユースフ)

1419年にカラ・ユースフが死ぬと、一時的にティムール朝が盛り返す。
継承戦争を制したティムールの四男シャー・ルフがイラン高原に兵を進め、黒羊朝をアゼルバイジャンまで押し戻して臣従させたのだ。
しかし帝国再統一を目指して東奔西走したシャー・ルフが1447年に没すると、ティムール朝に影が差す。
シャー・ルフの後を継いだウルグ・ベクは博覧強記にして超人的な記憶力を誇り、偉大な文人・数学者・天文学者だった。長年サマルカンドの総督を務め、行政手腕にも不足はない。
しかし戦争だけは彼の不得手とするところだった。
1449年、ウルグ・ベクは実子アブドゥッラティーフ率いる反乱軍に惨敗し、あえなく敗死する。ティムール朝は再び混乱状態となった。

カラ・ユースフの子ジャハーン・シャーはシャー・ルフが死ぬやいなや、たちまちティムール朝への反攻を開始した。
彼は葡萄酒と阿片を愛して放縦極まる生活を送ったが、その軍才だけは本物だった。1440年にはグルジアのティフリス、1452年には中部イランのイスファハーンを奪い、1458年にはヘラートまで攻め込む。
ところがその頃、彼の足元で次代の主役が頭角を現しつつあった。

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(ジャハーン・シャー)

黒羊朝(カラ・コユンル)の勃興当初より、その西側に白羊朝(アク・コユンル)と呼ばれるもうひとつの勢力が存在した。
両者の関係は必ずしも明確でないが、いずれもトゥルクマーンを主要構成員とする遊牧部族連合としてよく似た性格を持っていた。
ディヤルバクルを中心にアナトリア高原東部を支配した白羊朝は、早くからビザンツ帝国と接触を持ち、ビザンツ系国家の一つであるトレビゾンドのコムネノス王家と通婚を繰り返した。
それゆえ、白羊朝にはギリシアの血が色濃く流入している。

ティムールが侵攻してきたとき、白羊朝はいち早く服従を誓って領土を保全した。ところがティムールの死と黒羊朝の再興によって雲行きが怪しくなり、1435年に初代君主のカラ・オスマンが戦死すると同族争いがひたすら続いた。
が、1453年に英主ウズン・ハサンが王位に就くと流れが変わる。

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(このあたりの記述は、この本をかなり参考にしています)


ウズン・ハサンは黒羊朝に従属しつつ、じわじわと力を蓄えた。
まずはトレビゾンドの皇女を迎えて西を固め、次にシェイフ・ジュナイドという宗教家を庇護する。
彼は13世紀からカスピ海西南岸に近いアルダビールに拠点を構えてきたイスラーム神秘主義教団、サファヴィー家の長だった。
サファヴィー家は預言者ムハンマドの娘婿にして第四代カリフであるアリーの子フサインと、ササン朝ペルシアの王女の血を引くと称し、代々「アルダビールの聖者」として西部イランの人々に崇敬されてきた。
これを取り込んだことにより、ウズン・ハサンの信望も高まった。

1467年、ウズン・ハサンは黒羊朝のジャハーン・シャーをムーシュ平原で奇襲し、あっさりその首級を獲った。かくて白羊朝の天下となる。白い羊の軍旗は二年のうちにイラン全土を覆い、ティムール朝の領域まで達した。

ここではティムールの曾孫にあたるアブー・サイードが、イスラーム神秘主義の一派であるナクシュバンディー教団と結んで、ホラーサーン地方一帯である程度の安定政権を維持していた。
彼は黒羊朝の急激な崩壊を好機と見て西方進出を図ったが、ウズン・ハサンに大敗を喫して殺される。ティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂し、さらに弱体化していく。

その後、ウズン・ハサンはオスマン帝国との対決に向かうが、すでに記した通りメフメト2世に敗れてユーフラテスより西への進出は阻まれたのだった。
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混迷の15世紀にあって、エジプトのマムルーク朝だけは安定を維持し続けているかに見える。だが、その内実も決して平穏ではなかった。
モンゴル帝国解体と時を同じくしてユーラシア大陸を黒死病が襲った。一説によれば、この疫病は旧世界の5億の人々のうち、8500万人の生命を奪ったという。
オスマン朝の勃興やティムール朝の崩壊、黒羊白羊の争いといった激しい変動の背後では、強弱の差こそあれペストの禍が荒れ狂っているのだ。
惨害はとりわけ人口の多いヨーロッパで甚大だったが、イスラーム世界では交易の要衝であるシリア・エジプトが最大の影響を受けた。
都市は衰退し、農村から人影が消え、地中海と航海の交易は低調となった。黒い病はマムルーク朝の繁栄に濃い影を落とし、この大国をじわじわと蝕み続けている。

コンスタンティノープル陥落す

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(英国の歴史家ランシマンがビザンツ帝国滅亡を描いた古典的名著)





非常に久々に「イスラーム世界の歴史」シリーズ更新です。
かなり中途半端なところで終わっていますが、当初の予定(ビザンツ滅亡~イラン高原の情勢~キプチャク平原の情勢~チャルディラーンの戦い)ではあまりにも長くなりすぎるので、ここでひとまず分割します。
続きはあまり間を空けずに載せたいと……思い・・・・・・ます……(汗


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