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世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史 目次
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イスラーム世界の歴史30 覇権のゆくえ

英雄の末裔たち
 ※前章「イスラーム世界の歴史29 征服者の時代」の姉妹編ないし続編です。
 ※中央アジアの動向はティムール後半生とその後の話、「イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐」を引き継いでいます。一部重複あり。


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(ジョチ・ウルスの領域)

モンゴル帝国がユーラシア大陸の過半を制してより、すでに二世紀の歳月が流れた。帝国は解体の一途を辿っている。それはここ、西北ユーラシアのジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)でも例外ではない。

チンギス・カンの長子ジョチに始まるジョチ・ウルスは、ジョチの長男オルダを祖とする東のオルダ・ウルス(白帳国)と、ジョチの次男バトゥを祖とする西のバトゥ・ウルス(青帳国)の連合体で、ともすれば東西に分離しがちな傾向を持っていた。
当初全体を統べていたのはヴォルガ河畔のサライに都するバトゥ家のカン(王)だったが、1359年にバトゥ家第13代のベルディベク・カンが弑逆されるに至り、バトゥ・ウルスは「ザミャーチナヤ・ヴェリカヤ(大いなる紛乱)」に突入する。
これに介入を試みたオルダ家も混沌の渦に飲み込まれ、かわって台頭したのはジョチの十三男、トカ・テムルの子孫たちだった。

14世紀末、トカ・テムル家のトクタミシュが一時的にキプチャク全土を再統一するが、中央アジアの覇王ティムールの介入によって、彼の政権はたちまち瓦解する。
15世紀初頭にはマンギト部のエディゲとヌラディンがノガイ・オルダと呼ばれる勢力を築き、トカ・テムル家のテムル・クトルグを旧都サライでキプチャクのハン(=カン)として奉戴した。この政権は「大オルダ」と呼ばれる。
しかし混乱はまだまだ続く。

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(アフマド・ハンの手紙を破り捨てるイヴァン3世)

西ではリトアニア大公国がジョチ・ウルスの混乱に乗じてキエフ以西を奪い、黒海に向かって進出を開始した。
1430年代に大オルダで王位継承争いが起こると、王族ハージー・ギレイがリトアニアの支援を受けて黒海北岸にクリミア・ハン国を建国。また、別の王族ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流でカザン・ハン国を建てた。
加えて西北の属領ルーシ(ロシア)では、モスクワ大公国が周辺諸国を次々に併合して強大化。1480年にはモスクワ大公イヴァン3世がサライのアフマト・ハンを戦わずして退けた。
これをもって大オルダのハンの権威は完全に失墜し、その後裔はヴォルガ河口のアストラハンで細々と余喘を保つこととなる。

ジョチ・ウルス分裂
(ジョチ・ウルス崩壊後の西北アジア、グレーは旧バトゥ・ウルス、薄紫は旧オルダ・ウルスの後継政権)

一方、かつてオルダ・ウルスの統治下にあったキプチャク平原東部は独自の歴史を歩みはじめる。
1428年頃、旧ジョチ・ウルスの東北の果て、ウラル山脈を越えたチンギ・トゥラの地で、ジョチの五男シバンの血を引くアブル・ハイルという人物がハンを名乗って自立を宣言した。
遠く匈奴の時代より、遊牧国家の君長は民を飢えから遠ざけ、富を与える責務を負う。
1431年、アブル・ハイルはホラズム地方への略奪遠征を敢行し、ティムール朝の軍勢を蹴散らしてシル川中流の諸都市を占領した。平原東部の諸部族は相次いで彼に帰服した。

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(かつて「キプチャク平原」と呼ばれたカザフスタンの原野)

1449年、ウルグ・ベクの横死によってティムール朝で内乱がはじまる。このときアブル・ハイルはティムール朝の王族アブー・サイードの求めに応じてマー・ワラー・アンナフルに出陣した。
ティムール朝の人々はジョチ・ウルスの黄金時代を築いたウズベク・カンにちなみ、北の遊牧民を「ウズベク族」と呼んでいた。
アブル・ハイル率いるウズベク族はティムール朝の王族たちを片っ端から薙ぎ倒し、あっという間にアブー・サイードをサマルカンドに入城させた。
アブー・サイードはウズベク族のあまりの強さを恐れてアブル・ハイルの軍勢を城外に留め、莫大な財宝と王女を贈って早々にお引き取り願った。
その後もティムール朝の王族たちは内乱のたびにウズベク族の援助を求め、何とかしてアブル・ハイルを自軍に引き込もうと悪戦苦闘した。

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(アブル・ハイル)

しかしアブル・ハイルは1456年、はるか東方から来寇したオイラトと呼ばれる勢力に大敗し、急速に勢威を失った。
彼が旗揚げしたチンギ・トゥラではケレイト族のタイ・ブカが、アブル・ハイルと同じくシバンの血を引くイバク・ハンを擁立して独立した。
この政権はシバンにちなんで「シビル・ハン国」と称され、後にはこの地方のみならず、大陸北部の全域が「シベリア」と呼ばれることになる。
また、アブル・ハイルを見捨てた南部の部衆たちはケレイとジャニベクという二人の指導者に率いられ、モグーリスターンの地へ去って行った。その数、実に20万という。
彼らは「カザフ」(自由の民)と称し、やがてはアルタイ山脈からウラルに至る巨大な勢力圏を築くことになる。

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(カザフの作家エセンベルリンがアブル・ハイルの時代を描いた小説)



ティムール朝の落日

1467年にティムール朝のアブー・サイードが白羊朝に敗れて殺害されると、王朝はサマルカンドとヘラートの二政権に分裂した。
サマルカンドの君主はアブー・サイードの子アフマド・ミルザー。ヘラートの君主は別系統の王族フサイン・バイカラ。どちらの政権もあまり強力ではなく、地方の王族や領主たちが私戦を繰り返した。

一方、この時期ティムール朝は文化面で絶頂を極める。画聖ビフザードや詩人ジャーミーなどの天才たちが続々と出現し、自らも文人として名高かったフサイン・バイカラと宰相ナヴァーイーが彼らを厚く庇護した。
この時代を生きたとある人物は、フサイン・バイカラとその宮廷について、次のように記している。

「彼はヘラートのごとき都を手中にすると、夜となく昼となく、ただ歓楽と快楽の追求に明け暮れた。たんに彼のみではなかった。その部下・臣下たちのうちで歓楽・快楽を追求しない者はいなかった。
彼は世界征服とか出兵の苦労をしようとしなかった。その結果、必然的に、時がたてばたつほど、家臣や領地は減少し、増加することはなかった」

その有様は同時期日本の足利政権や、ルネッサンス期イタリアの諸侯を彷彿させる。王侯たちが華麗な宮廷生活に明け暮れるなか、破滅が次第に迫りつつある。

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(フサイン・バイカラ)

ヘラートやサマルカンドから遠く離れた北の草原にムハンマド・シャイバーニーという男がいる。オイラトに敗れ、カザフに離反され、衰勢のうちに没したアブル・ハイルの孫である。

アブル・ハイルが死んだのはシャイバーニーが17歳の時だった。周囲の諸勢力がアブル・ハイルの遺領に殺到し、ウズベク族は四散した。
アストラハンに身を寄せたシャイバーニーは大オルダのアフマト・ハンに攻撃され、屈辱をこらえて恭順を誓った。ノガイの君侯が彼を擁立すると、すかさずカザフの軍勢が攻め寄せた。
シャイバーニーは二十歳になる前から非情な草原の世界で戦いはじめた。自分の魂のほかに信じる友はいなかった。自分の心のほかに秘密を語る仲間はなかった。
シャイバーニーは文字を知らず、詩も解さない。青春も安らぎも彼には無縁だった。殺戮と暴虐、怒号と乱刃のなかで彼の半生は過ぎていった。

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(ムハンマド・シャイバーニー)

その頃、天山山脈北部を領するモグール人(東チャガタイ・ウルスの人々)が新興のカザフやオイラトの圧迫を受け、次第に南下と定住の動きを見せていた。
1480年代に入るとモグール王のユーヌス・ハンがティムール朝サマルカンド政権の王族ウマル・シャイフと結び、シル川北岸のタシケントに進出。危機感を覚えたアフマド・ミルザーは北の草原からシャイバーニーと三千人のウズベク戦士を招いた。
しかしサマルカンドの人々は荒事をウズベク人に押しつけながら、彼らを蛮族として蔑んだ。シャイバーニーには雇い主への忠誠心など欠片もなく、せいぜいこれを利用して成り上がってやろうとしか思っていない。

1488年、モグール人とアフマド・ミルザーがタシケント近郊のチルチク川で衝突した。両軍が交戦をはじめた直後、突然シャイバーニーのウズベク部隊がモグール側に寝返った。
サマルカンド軍は大混乱となり、ある者は川に飛び込んで溺死し、ある者は算を乱して逃走した。シャイバーニーはシル川北岸のヤシという町を占領し、ここを拠点に独立の旗を掲げた。
ウズベク諸部族はアブル・ハイルの孫を慕って続々とヤシに集まりはじめた。シャイバーニーはウズベク再興の野心を抱きはじめた。
好機は程なく訪れた。1494年にアフマド・ミルザーが急死し、サマルカンド政権が王位継承をめぐって混乱状態となったのだ。

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(チルチク川)

1497年秋、サマルカンドを手にしたアフマド・ミルザーの甥、バーイスンクルが同族たちに攻め立てられ、シャイバーニーに支援を求めて来た。シャイバーニーは直ちに応じた。
アミール(領主)たちはウズベク接近を知るや蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。シャイバーニーは一度も剣を抜かずに北部マー・ワラー・アンナフルを駆け抜けた。

「タジク(定住民)は弱い……!」

シャイバーニーが率いる騎兵は数百に過ぎないが、彼はこのままティムール朝の王族たちもバーイスンクルも両方追い払ってサマルカンドを奪い取るつもりだった。それができる自信もあった。
サマルカンド包囲軍の主力はウマル・シャイフの息子、ザヒールッディーン・バーブルという若僧だという。当然そ奴もウズベク軍が迫ればすぐに逃げ出すだろう。
ところがその予想は見事に裏切られた。バーブルの拠るホージャ・ディーダール城の目の前をウズベク軍が駆け抜けようとする間際、突然城門が開け放たれて一団の軍勢が出撃してきたのだ。

「タジクにも骨がある奴がいたか!」

瞬間、シャイバーニーは馬首を翻した。ウズベク全軍が主将に倣って180度針路を変える。今度の遠征にはケチがついた。バーイスンクルの運命など知ったことではない。

数ヶ月後、シャイバーニーはバーブルがサマルカンドを手にしたことを知った。とくに不思議はない。今のタジクでウズベク軍に立ち向かう気骨を持っていたのはあの若僧だけなのだから。
ただ、バーブルの年齢を聞いたときにはさすがのシャイバーニーも驚いた。

「14歳だと!?」

まだほんの子供ではないか。なんとも末恐ろしい奴がいたものだ……そう呟いて、シャイバーニーは酒杯を呷った。


梟雄と少年

1500年のマーワラーアンナフル
(1500年のマー・ワラー・アンナフルの状況)

バーブルのサマルカンド支配はわずか三ヶ月で頓挫し、バーイスンクルの弟、スルタン・アリーが王都を手にした。シャイバーニーは虎視眈々と本格的な南下の機を窺う。

1500年春、スルタン・アリーと王族タルハンの紛糾が生じ、タルハンが東北からモグール軍を呼び込んだ。情勢が緊迫するなか、シャイバーニーは警戒手薄となっていた西のブハラを急襲陥落させた。
一方、東ではバーブルが態勢を立て直し、サマルカンド奪還を図って動きはじめた。このとき予想もしない誘いがシャイバーニーの元に舞い込んだ。
スルタン・アリーの実母ズフラ・ベギ・アーガーがシャイバーニーに再嫁してサマルカンドを譲渡する。代わりにシャイバーニーはティムール朝の他の王族たちを討滅し、彼らの領地をスルタン・アリーに与えてほしいというのだ。
シャイバーニーは直ちにブハラを出陣した。彼はこのとき49歳になっていた。

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(ホージャ・ヤフヤーの父、ホージャ・アフラール)

7月、サマルカンドに入城したシャイバーニーは、転がるように出迎えたズフラ・ベギ・アーガーとスルタン・アリーを冷たく睨んで処刑した。
ついでにティムール朝の人々に絶大な崇敬を受けていたナクシュバンディー教団のホージャ・ヤフヤーを二人の息子もろとも暗殺し、サマルカンド住民を震え上がらせた。
ひととおりの処理が済むと、シャイバーニーは郊外に出た。彼はサマルカンドの町自体ではなく、そこからの税収にしか興味がない。華麗な建築物や庭園など一向に彼の心をとらえなかった。
が、ここで驚愕の事態が起こる。あのバーブルがわずか240人の手勢とともにサマルカンドに潜入し、ウズベクの守備兵を殲滅して町を乗っ取ったのだ。

「若僧ッ……!!」

シャイバーニーは歯ぎしりした。

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(ザヒールッディーン・バーブル)

バーブルはフェルガナを領したアブー・サイードの四男ウマル・シャイフの子で、母はモグール王ユーヌス・ハンの娘だった。つまり父方でティムール、母方でチンギス・カンの血を引くことになる。
彼が11歳のとき、突然城の一角が崩落し、鳩小屋で鳩の世話をしていたウマル・シャイフも事故に巻き込まれて死んでしまった。
直後に父方の伯父にあたるアフマド・ミルザーと、母方の叔父にあたるモグール王のスルタン・マフムードがフェルガナ併呑を狙って来襲した。
少年バーブルは必死にこれを切り抜け、三年後には情勢混乱に乗じてサマルカンドをも手に入れた。
ところがまもなく本拠地フェルガナで反乱が起こり、これを鎮圧に向かう最中にサマルカンドも失われ、一朝にして流浪の身となってしまった。
常人の人生一つ分にも値する浮沈を経てきたバーブルは、いまだ17歳だった。シャイバーニーとはまる一世代分の年齢の差がある。

バーブルがサマルカンドを制圧すると、周辺諸都市も続々と彼に帰服した。劣勢に追い込まれたシャイバーニーはブハラ周辺の町々を落として住民を虐殺し、態勢立て直しに努めた。
翌1501年5月、ブハラとサマルカンドの中間でシャイバーニーとバーブルが戦端を開いた。このときシャイバーニーはバーブルの姿を間近に見た。
少年は夜明け時、数の不利を顧みずに果敢な攻勢をかけてきた。バーブル軍の先鋒がウズベク軍の右翼に取り囲まれ、バーブルの前ががら空きになる。
ウズベクの騎兵が殺到するが、バーブルは親衛隊とともに激しく剣を揮ってウズベク軍に立ち向かった。


――幾度となく我が方が波のように押し寄せ、幾度となく敵方がそれを退けた。

「シャイバーニーよ、シャイバーニーよ、進まねばならぬ! 止まっていてはだめだ!」

部下たちの叫びも耳に入らず、シャイバーニーは呆然と立ち尽くした。
同じ17歳のとき、自分は。
偉大な祖父のアブル・ハイルが暗殺され、ウルスの民は四散した。
遠い昔のチンギス・カンのように。深き水は涸れ。硬き石は砕け。影より他に伴はなく。尾より他に鞭はなく。
暮れなずむ草原を西へ、カザフの射手たちに追われて必死に馬を駆った。血塗れの剣を掲げてサライの戦士たちのあいだを駆け抜けた。

――バーブル。
貴様を羨む! あの頃の俺に、いま貴様の傍らで戦っているような忠臣たちがおれば!
とはいえ、バーブル。何物にも揺らぐことなき貴様の眼差しは。怯むことなく戦い続ける貴様の勇猛は。
昔日の俺と瓜二つだ……。

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(少年バーブルの出陣)

この戦いはウズベクの勝利に終わり、バーブルはサマルカンドに籠城する。シャイバーニーは一揉みに押し潰すつもりだったが、バーブルの防備には全く隙が無かった。
幾度か夜闇に紛れて城壁に迫ってみたが、歩哨の姿が絶えることはなく、しばしばバーブル自身が弓を手にして巡回する姿も見られた。
包囲は数ヶ月に及んだ。サマルカンド市内は飢餓状態になっているはずだが、バーブルの防備はまだ崩れない。冬が近づくころ、とうとうシャイバーニーは自分から和平の申し入れをした。
そして、シャイバーニーは初めてバーブルと対面した。

少年は意外と小柄で、穏やかな雰囲気をまとっていた。これまで甲冑に身を固めたバーブルしか見たことがなかったシャイバーニーは、ひどく意外な感じを受けた。
ひとつ訊いてみたいことがあった。

「もし俺が貴様なら、女子供やならず者を殺して口減らしをした。貴様は何故そうしなかった」

バーブルは驚いたようだった。一瞬その眼が怒りに燃えた気がしたが、すぐに拭ったような無表情に戻った。
彼は小声で何かを呟いた。何を言ったかはだいたい想像がつくので、聞き返そうとは思わない。
ともあれ和平は成った。バーブルは姉をシャイバーニーの妃とすることを条件に城を退去。シャイバーニーはティムール王家の血縁という権威を手にし、前より容易にサマルカンドを統治できることだろう。


バーブルと従者たちが夜闇のなかに消えたあと、シャイバーニーは珍しく笑い声をあげた。

「あの若僧、この国でただ一人アミール・ティムールの血をしかと受け継いでやがる。大した奴だ」
「シャイバーニー・ハーンよ、あの者、このまま引き下がるとは思えませぬ。いまのうちに殺すべきでは?」
「くだらん」

シャイバーニーは一言で断じた。

「あの若僧の眼を見たか。アフマト・ハンに跪かされた時の俺と同じ眼をしていやがった。むざむざ殺されるタマじゃねぇ」
「気に入られたのですか?」
「ああ……あの若僧と次に戦うのが楽しみだ」

しかしシャイバーニー・ハーンとザヒールッディーン・バーブルが、戦場で再び相見えることはなかった。

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(のちにインドのムガル帝国を建国するバーブルの自伝)



無謬の救世主

その年、西暦1501年。
サマルカンドの西方、二千キロあまり――東部アナトリア、エルジンジャンの地にて。

「――ぼくは、あの国を滅ぼしたい」
少年は天使のように微笑んだ。紅の帽子を戴く七千の男たちが衝天の叫びで応じた。

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(サファヴィー朝の建国者、シャー・イスマーイール1世)

イラン高原では一代の英傑ウズン・ハサンが1478年に世を去ったあと、白羊朝は王位をめぐる内乱で衰えた。
混迷のなかで頭角をあらわしたのは、かつてウズン・ハサンが庇護した「アルダビールの聖者」、サファヴィー教団の教主シェイフ・ジュナイドハイダルの父子だった。

サファヴィー家の教主はシーア派イマームとサーサーン朝ペルシア王家の血を引くと称し、東部アナトリアの遊牧民たちに神のごとく崇拝されていた。
ウズン・ハサンに庇護されたシェイフ・ジュナイドは単なる飾りに甘んじる気はさらさらなく、1460年に信徒を率いてカフカス山脈のシルカッシア人討伐に赴くも、雄図虚しく討死した。
その数ヶ月後に生まれたのがハイダル。信徒たちは彼を「神の子」と呼んだという。
ハイダルはある時夢で第4代正統カリフにしてシーア派初代イマームたるアリーに出会い、12の赤い巾を持つ帽子を与えられた。
彼は信徒たちにも同じ帽子を被らせた。人々は教主のために死をも恐れず突撃するサファヴィー教団の戦士たちを「クズルバシュ(紅帽の徒)」と呼んで恐れ憚った。

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(クズルバシュ)

ハイダルはウズン・ハサンの妹を母として生まれ、ウズン・ハサンの娘を妻とした。いわば白羊朝の傍系王族のひとりとして、ウズン・ハサンの子や孫たちとときに提携し、ときに争いながらアゼルバイジャンに勢力を広げていく。
だが1488年1月、エルブルーズ山麓のダルタナットで白羊朝とシルヴァーン・シャー朝に挟撃され、ハイダルは壮烈な討死を遂げた。

ハイダルには三人の幼い遺児がいた。彼らは信徒に守られ、白羊朝の追及を避けて各地を転々とするが、ひとりまたひとりと追いつめられて殺される。
そして最後に残ったのが、ハイダルの死の直前に生を受けた末子イスマーイールだった。
いまやただ一人のサファヴィー家の生き残り。
そして預言者ムハンマドの娘ファーティマとイマーム・アリーの血を、サーサーン朝ペルシア皇帝ヤズデギルドの血を、白羊朝の英主ウズン・ハサンの血を、さらには白羊朝を経由してビザンツ帝国コムネノス王家の血をも引く究極の貴種。
彼を見たものは幼い少年の白皙の面に心を奪われ、漆黒の瞳に魂を呪縛された。

――あまりに美しすぎて邪悪なものを感じさせるほど。
のちにそう評されたイスマーイール。
西暦1501年、エルジンジャンの地に七千人のクズルバシュを召集したイスマーイールは、天使のように微笑んだ。
「ぼくは、あの国を滅ぼしたい」

これより13年間、イスマーイールとクズルバシュの戦士たちは伝説の主人公となる。

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1501年夏、少年イスマーイールに導かれたクズルバシュたちはタブリーズを占領した。イスマーイールは14歳にして「パーディシャーヘ・イーラーン(イランの帝王)」の座に就いた。「サファヴィー朝ペルシア」の成立である。
この地で彼は、シーア派十二イマーム派をイランの国教にすると宣言した。
サファヴィー朝に制圧された諸都市では、斧を担いだ役人が、シーア派が簒奪者と見なしている正統カリフのアブー・バクルとウマルとウスマーンを呪詛して通りを練り歩き、これに賛同しない者はたちどころに絞首された。


クズルバシュはシャー・イスマーイール1世を神の化身と信じ、「ムルシデ・カーミル(完全なる導師)」と呼ぶ。

「さてさて困ったものだ。ぼくは神ではないよ」
血臭ただよう帝国の中心で、聖なる少年は微笑んだ。
「ぼくはアッラーではなくて、ただのマフディー(救世主)だ。間違えないでほしいな」


クズルバシュは再び進撃を開始する。シャー・イスマーイールの征くところ、あらゆる敵は雪崩を打って潰走した。無数の諸都市が抵抗もせずに降伏した。イラン高原全土が瞬く間にサファヴィー朝の旌旗に覆われていく。
そして1510年秋、ついにイスマーイールはウズベクのシャイバーニー・ハーンと出会う。

60歳の梟雄と23歳の常勝王はメルヴ近郊で激突した。偽装退却するサファヴィー朝軍に誘い出されたシャイバーニーは無数の伏兵に四方を襲撃され、乱戦のなかで討死した。
イスマーイールは本陣に運び込まれたシャイバーニーの首級を興味深げに覗き込んだ。

「可哀想に。すごく恨めしそうな顔をしてる」
天使のような微笑みを浮かべて青年は言った。
「さあ、シャイバーニーを綺麗に飾ってあげよう。肉を削って骨を磨いて金箔を貼り付けて、マフディーの酒杯にしてあげよう」
クズルバシュたちは狂熱の叫びをあげて彼らの主君に応じた。

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(シャー・イスマーイールとシャイバーニー・ハーンの戦い)

シャイバーニーの死によってウズベク勢力は無主となり、大きく混乱した。
このとき、9年前にシャイバーニーに敗れたバーブルは28歳になっている。
アフガニスタンのカブールを拠点にティムール朝の最後の小王国を営みつつ、いまもサマルカンド奪還の夢を捨てていない。

メルヴの戦いの結果を知るやいなや、バーブルは直ちに出陣した。北に進軍しながらイスマーイールに使者を送り、サファヴィー朝への臣従とシーア派改宗を約して支援を要請する。イスマーイールはこれを快諾した。
1511年10月、バーブルは6万の大軍を率いてサマルカンドに帰還した。住民たちは歓喜の声をあげてバーブルの軍勢を迎えた。
ところがバーブル本人の入城とともにどよめきがあがった。バーブルは赤い12の巾ある帽子を被り、公然とシーア派の標を身にまとっているではないか。

サマルカンドの住民たちはサファヴィー朝のもとで正統カリフたちが侮辱され、学者や法官が次々に処刑され、シーア派に改宗せぬ者たちが弾圧されていることを伝え聞いていた。
人々は街を巡回するバーブルから視線を逸らし、物資の供出を渋った。
民衆の支持を得られなかったバーブルは翌年11月にシャイバーニーの子ウバイドゥッラーに大敗し、サマルカンドを放棄してカブールに撤退した。マー・ワラー・アンナフルは再びウズベクの国となった。

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(バーブル・ナーマの訳注者によるバーブル伝)


さて、東の敵を滅ぼしたイスマーイールは西に目を向ける。
アナトリアとバルカン半島にまたがる大国、オスマン帝国……。そこではメフメト2世征服王の死後、祖父のムラト2世に似て敬虔なバヤズィット2世が国を治めている。

イスラーム神秘主義に関心が深いバヤズィットは、当初サファヴィー教団に好意的だった。しかしイスマーイールの急激な台頭が両国の緊張をもたらした。
東部アナトリアの遊牧民たちはクズルバシュ同様にイスマーイールを神の化身と信じ、次々に国境を越えてサファヴィー朝に流れ込んだ。
さすがに危機感を覚えたバヤズィットは、サファヴィー朝に同調する者たちをバルカン半島に強制移住させはじめた。一方、サファヴィー朝は1507年にオスマン帝国の属国ドゥルカディルに侵攻する。
そして1511年、事態は決定的な局面を迎える。サファヴィー朝の檄文に応じた東部アナトリアの遊牧民たちが、「シャー・クル(王の奴隷)」と称する人物に率いられて大反乱を起こしたのだ。
この危機のさなか、オスマン帝国の帝都イスタンブルでクーデターが発生した。


神々の黄昏

我が名はシャー・イスマーイール、神の秘密なり。
これら全ガーズィーの頭なり。
我が母はファーティマ、我が父はアリー、そして我自身は十二イマームの長なり。
余はイスマーイール、この世に来たり。
余はアリーなり。アリーは余なり。

完全なる導師が来たぞ。すべてのイマームなり。
全ガーズィーよ、歓喜せよ。預言者の封印が来たぞ。
真実の体現であるぞ。跪け。
サタンに従うな。アダムが再び衣を新たに纏ったぞ。

神が来たぞ。神が来たぞ。
マフディーの時代が始まるぞ。
未来永劫の光が世にやってきたぞ。


(安藤史朗訳、シャー・イスマーイールがクズルバシュに与えた詩)



バヤズィット2世には三人の息子がいた。長男と次男は良くも悪くも平凡だったが、三男のセリムだけは際立った軍事の才を示してイェニチェリたちに支持されていた。
しかしセリムには人を人とも思わぬ冷酷さがあり、父王バヤズィットに嫌われていたという。

1512年4月24日。
バヤズィット2世がシャー・クルの反乱鎮圧に手こずるなか、帝都のイェニチェリたちがセリムを担いで蜂起した。
セリムは冷たい眼をしてトプカプ宮殿に乗り込むと驚くバヤズィットを玉座から突き落とし、配下の者たちに二人の兄と甥たちの処刑を命じた。
即位後、セリム1世は西のハンガリーと和睦してオスマン軍の態勢を立て直し、シャー・クルの反乱を徹底的に粉砕した。オスマン帝国全土のシーア派7万人のうち、4万人がセリムの命によって処刑された。
敵も味方もセリムの苛烈さに恐れおののき、彼をこう呼ぶことになる。

――ヤヴズ(冷酷王)。

セリムのクーデターの翌月、先帝バヤズィットが突然の死を遂げた。誰もが目くばせしあい、無言で確信を共有した。
冷酷王は、己の実の父をも手に掛けたのだと……。

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(セリム1世冷酷王)

実はセリムはかつてトレビゾンドの太守を務め、イスマーイールの台頭を間近で観察し続けていた。
だからセリムはイスマーイールの異様な求心力と、彼のためには生命を惜しまぬクズルバシュたちの狂熱を誰よりも警戒している。恐れているといっても良い。
1514年、セリム1世は6万以上、一説には20万ともいわれる大軍を率いて東征の途に就いた。コンスタンティノポリス包囲以来、これほどの大軍が動員されたことはない。名分は異端者への聖戦。目的はサファヴィー朝ペルシアの打倒である。

ŞahİsmayılXətai
(シャー・イスマーイール1世)

8月22日、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアの両軍は東部アナトリアのチャルディラーンで相見えた。

サファヴィー軍は1万2千とも4万ともいわれ、オスマン軍より明らかに少数だった。たしかにクズルバシュはいまだ敗北を知らぬ世界最強の騎馬軍団であり、君主イスマーイールは無謬の救世主。だが……
サファヴィー軍の左翼を受け持つ部将、ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーは一抹の不安を禁じ得なかった。

「オスマン軍のイェニチェリは精鋭で、その銃砲の威力は強力です。敵方の態勢が整う前に夜襲を……」
「馬鹿な!!」

大声でこれを遮ったのは右翼の部将、ドルミーシュ・ハーン・シャームルーだった。

「言葉を慎め! 貴様、我が陛下の神威を疑うのか!!」

不信者だ、不信者だ……囁きが軍議の席に広がる。が、イスマーイールは瞑目して口を開こうとしなかった。クズルバシュの諸将は常にない主君の様子に戸惑う。それでもドルミーシュはさらに言い募った。

「ウスタージャルーは田舎者よ! そんな合戦はディヤルバクルでやっておれ、これは王と王との決戦ぞ!」

王と王との決戦。この言葉が発せられた瞬間、イスマーイールは目を見開いた。

「イスカンダル・ズルカルナイン(アレクサンドロス大王)がダーラー(ダレイオス3世)との戦いを前にしたとき、夜襲を進言した者がいた。イスカンダルはこう言った。『私は勝利を盗まない』と」

27歳のイスマーイールは、いまも変わらぬ天使の微笑みを浮かべた。

「ぼくも、勝利は盗まない」

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(チャルディラーンの戦い)

翌朝、日の出とともにサファヴィー朝の騎馬軍団が怒涛の突撃を開始した。教主のためには死をも恐れぬクズルバシュ。その猛攻に押されてオスマン軍の右翼は崩れたつ。
が、セリムが右翼に送ったイェニチェリたちが一斉射撃を開始すると形勢が急変した。押し寄せるクズルバシュたちは次から次に銃撃を浴びて舞うように落馬した。
さらにオスマン軍の中央に据えられた大砲が火を噴き、支援に向かうサファヴィー騎兵を薙ぎ倒した。夜襲を進言したウスタージャルーは勇戦虚しく戦死した。
濛々と砂塵があがり、膨大な火力が紅帽の軍団を血と肉の塊に変えていく。イスマーイールは拳を握りしめたまま凝然と立ち尽くしていた。
信じられない。救世主が、救世主の軍隊がなにゆえ異端の徒に敗れつつあるのか。これは間違いだ。そうだ、何かの間違いに決まっている。

イスマーイールは白馬に乗って最前線に駆けだした。親衛隊が慌てて後を追う。
救世主の出陣にクズルバシュたちは奮い立ち、鬨の声をあげて馬首を揃えて突撃し……そして銃火に薙ぎ倒された。
砲弾がイスマーイールの目の前で炸裂し、馬が悲痛な嘶きをあげて棒立ちになり、救世主を振り落とした。

「陛下! お退きください! どうか、陛下!!」
クズルバシュが泣き叫んでいた。


――西暦1514年8月23日、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝ペルシアのシャー・イスマーイール1世は生涯最初の敗北を喫した。
致命的な敗北だった。
サファヴィー朝は西アジアの覇権をオスマン帝国に奪われた。東部アナトリア、アルメニア、クルディスタン、アゼルバイジャンを失い、王都タブリーズに敵の入城を許した。
そしてなにより、無謬の導師イスマーイールの光輝はこの日この敗北によって永遠に喪われた。
イスマーイールは自分が神の化身でも救世主でもなく、ひとりの人間に過ぎないことを骨の髄まで思い知った。彼を神のごとく崇めていたクズルバシュたちも同じだった。
クズルバシュはもはやシャーの権威を重んじず、私欲に駆られて無秩序に争いだす。
そしてイスマーイール自身は心を病んだ。
常勝を誇った若者は、これよりのち二度と戦場に立つことなく、酒色に溺れて37歳でこの世を去ったという。

加えてこの戦いは、二千年以上にわたってユーラシア大陸を制してきた遊牧騎馬軍団が火砲を駆使する定住歩兵軍団に決定的な敗北を喫した点でも、世界史上特筆されるに値する。
草原を駆ける勇者たちの時代は終わり、やがて常備軍と官僚の時代が始まる……これは「神々の黄昏」であった。


終章・マルジュ・ダービク

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(マムルーク朝の領土)

マムルーク朝エジプト、第54代スルタンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーは灼熱の夏の太陽のもとで無数の軍勢を見下ろしていた。
西暦1516年8月24日。1250年に樹立されたマムルーク朝はすでに250年以上にわたってエジプトとシリア・ヒジャーズを支配し、イスラーム世界でもっとも富強を誇っている。
いま、彼はマムルーク朝の最北端、シリアのアレッポ郊外に広がるマルジュ・ダービクの野でオスマン帝国との決戦に備える大軍勢を閲兵しているのだった。
赤い軍旗のもと、70歳を越える老スルタンを囲むように、四人の首席カーディー(法官)と最高位の将軍たちが並び、右にはこの国の名目上の主権者であるアッバース朝のカリフ、ムタワッキル3世の姿もある。

2年前、オスマン帝国のセリム1世は常勝不敗を誇っていた若き英雄、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールを打ち破った。
カーンスーフにとってこれは誤算だった。北の新興二大国の力が伯仲している限り、マムルーク朝は安泰なはずだった。
いまや均衡は崩れた。ゆえにこのシリア北部に、イスラーム世界最強の軍団を率いて彼は来た。オスマン帝国に古く強大なマムルーク朝の力を見せつけるべく。
オスマンの子らにはアナトリアを、クズルバシュの王にはイランの地を。されど二つの聖都を守護する者は、マムルーク朝エジプトのみ!

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(アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー)

オスマン軍の果てしない太鼓の連打とともに運命の戦いは始まった。
オスマン軍の無数の銃火はマムルーク軍の騎馬軍団を嵐のように打ち倒し、右翼を壊滅させた。左翼の司令官ハーイル・ベイはとうのむかしにセリムに内通しており、危機的な状況のなかで致命的な裏切りに出た。
カーンスーフは周囲で次々に自軍が倒されていくさまを、血も凍る思いで見つめていた。祈れ、さあアッラーの加護を早く祈れと彼はカーディーたちを急き立てる。
一人の将軍が軍旗を下ろし、それを畳んでカーンスーフに向き直った。

「スルタンよ、我々は敗北しました。お命を守るため、アレッポへお退きください」

カーンスーフがその言葉を理解するまでに一瞬の間があった。それから突然、彼はよろめいた。従者たちが慌てて駆け寄り、彼を馬上に担ぎあげる。馬に乗ろうとしたカーンスーフは転げ落ち、その場で息絶えた。
親衛隊は老スルタンの遺体を放置して走り去った。


マルジュ・ダービクの野でマムルーク朝は7万の大軍を失った。セリム冷酷王はなんら抵抗を受けずにアレッポに入り、ダマスクスを占領した。
そして1517年1月、オスマン帝国軍はエジプトに侵入した。

カイロの町は恐慌状態になり、多くのマムルークたちが出陣を拒否して身を隠した。マムルーク朝最後のスルタン、トゥーマンバーイは身分も出自も問わず掻き集められる限りの男たちを集めてオスマン軍を迎え撃った。
1月23日、カイロ北郊のわずか1時間の戦いでマムルーク軍は完全に崩壊した。勝ち誇るオスマン軍はカイロに雪崩れ込み、町を3日にわたって略奪した。

「二つの大陸と二つの海の支配者たるスルタンの子、イラーク・アジャミーとイラーク・アラビー、両聖都の守護者、勝利に満てるスルタン・セリム・シャー万歳! 二つの世界の主たる汝に永遠の勝利あれ!」

遠くアッシリア帝国の時代から入れ代わり立ち代わり外国の征服者たちに支配されてきたエジプトの民は、二世紀半にわたるマムルーク朝の時代の終焉を悟り、オスマン帝国スルタンの支持を宣言した。
捕えられたトゥーマンバーイはズワイラ門に連行され、固唾をのむ群衆たちの前で絞首刑に処せられた。トゥーマンバーイが息絶えると恐怖とも興奮ともつかぬ叫びが街を満たした。

アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがるイスラーム世界最後の大帝国が、ここに完成した。

ジュチ裔諸政権史の研究

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(ジョチ・ウルス後継諸国家の系譜と歴史を解明する)


イスラーム世界の歴史29 征服者の時代

承前・新月の系譜

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(コンスタンティノポリスを望むメフメト2世)

帝都コンスタンティノポリスは、その始まりから世界の首都たる運命を背負っていた。

紀元330年、ローマのコンスタンティヌス大帝がこの都を築いた。
アジアとヨーロッパが指呼の間に向かい合い、地中海と黒海が接するこの場所は、ほどなく世界でもっと豊かな都市のひとつとなった。
その豊かさゆえに、帝都コンスタンティノポリスは幾度も敵襲にさらされた。しかし激しい潮流と巨大な城壁があらゆる攻撃を撥ね返し、何世紀ものあいだこの都は難攻不落の誉をほしいままにした。

古代ローマ帝国の分裂後、コンスタンティノポリスに拠る東の帝国ビザンツはさらに千年の齢を保った。
栄光と暗黒がこもごも来たり、国威は浮沈を繰り返した。
アラブの大征服によってシリアとエジプトは永遠に帝国の手を離れたが、マケドニア朝の時代に帝国は東地中海の覇権を取り戻した。しかし11世紀には西のノルマン人、東のテュルク人が腹背から帝国を猛襲する。
ときの皇帝アレクシオス1世は窮余の策として西方から傭兵を呼集するが、この「十字軍」と呼ばれる集団はたちまち帝国の統制を離れてシリアに自立し、1204年には帝都そのものを奪う。
ニカイアに成立した亡命政権は半世紀ほどのちに帝都奪還を果たすが、すでにビザンツ帝国はエーゲ海北部の渺たる小国と化していた。

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(紫色が1450年頃のビザンツ帝国)

アナトリアで最初のテュルクの国、ルーム・セルジューク朝の繁栄はモンゴル襲来によって終わりを告げた。
14世紀のアナトリアは「ガーズィー」と呼ばれる群雄たちが互いに争う戦乱の地となった。そんななか、半島西北隅にオスマン君侯国と呼ばれる小国が誕生した。
動乱に追われる難民たち、安住の地を求めるデルヴィーシュ、異教徒との聖戦を夢見る戦士たちが次々にこの最果ての国に流入した。

1354年、オスマン君侯国はダーダネルス海峡を越え、異教の大陸に初めて橋頭堡を得た。
1365年、オスマン朝はアドリアノープルあらためエディルネを都と定め、本格的な西方進出を開始する。
1373年にビザンツ帝国を属国とし、1389年にはコソヴォの戦いでセルビア王国を崩壊させる。1396年にはニコポリスで欧州連合軍を撃破し、第二次ブルガリア帝国を併合する。

ティムールの到来と続く十数年間の継承戦争によって欧州は束の間の安息を得るが、無力化した東欧諸国は態勢立て直しに失敗した。
まもなく復活を遂げたオスマン朝は、バルカン半島への進撃を再開した。
セルビアはオスマン朝に屈服し、公女マーラをスルタンに献上した。ハンガリーはヴァルナで大敗し、東欧最強と謳われた摂政フニャディ・ヤーノシュの勢威は失墜した。
いまやオスマン朝への抵抗を続けるのはアルバニアの英傑スカンデルベクのみとなり、ビザンツ帝国はオスマン朝の顔色を伺いながら、ペロポネソス半島の一部と、帝都コンスタンティノポリスを細々と維持するばかりである。


その前夜

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(ムラト2世)

1421年にオスマン朝の第6代スルタンとなったムラト2世は温和な人だった。
決して戦いに怯むことはなかったが、敗者を追い詰めることは好まず、いずれ隠棲してスーフィズム(イスラーム神秘主義)の道を歩むことを望んでいた。
しかし時代と立場は彼の願いを容易に叶えはしなかった。東においてはカラマン君侯国やゲルミヤン君侯国、西においてはハンガリー王国やポーランド、そしてヴェネツィア共和国がオスマン朝に敵対した。

1444年、ヴァルナでハンガリー軍に圧勝したムラト2世は君主の地位を三男メフメトに譲り、ようやく希望を実現した。
だが12歳の新スルタンは国家の統制に失敗した。


ムラト2世ははじめ、メフメトの存在をほとんど気にかけていなかった。ところが長子と次子が相次いで不慮の死を遂げたため、メフメトが11歳にしてオスマン朝で唯一の王位継承権者となる。
それまでメフメトの教育はなおざりにされていた。初めてメフメトとまともに会話を交わしたとき、ムラトは我が子の無知に呆れ果てた。
それから一年、詰め込み教育の甲斐あってメフメトは六ヶ国語を操る秀才児となったが、国政を担うにはまだ早過ぎたのだろう。

メフメトはいきなりコンスタンティノポリス攻撃を命じて高官たちを仰天させた。
ビザンツ帝国が本音のところで何を考えているかは知れたものではないが、いちおうかの国はオスマンの属国である。これといった大義名分もなく、多大な犠牲を払って難攻不落の帝都を攻めるなど馬鹿げている。

ザドラザム(大宰相)チャンダルル・ハリル・パシャは少年王の命令をやんわりと拒絶した。メフメトは激怒したが、廷臣と民衆と軍隊はことごとく大宰相を支持し、新スルタンへの不満を露わにした。
大宰相は軍の不穏な動向を見て取って、隠棲していたムラト2世に復位を求めた。
1446年秋、やむなくムラトが復位。エディルネは喜びに沸き立った。少年メフメトは廃位され、西部アナトリアのマニサへ送られた。

1448年、形勢挽回を図るハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュがオスマン朝への攻撃を再開したが、ムラトはコソヴォでこれを撃破。ハンガリーの脅威は消滅した。
それから三年後、1451年2月にムラト2世はエディルネで息を引き取った。

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(ビザンツ帝国最後の皇帝、コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガゼス)

ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世は、かつて兄帝のもとでペロポネソス半島の統治を委ねられ、モレアス専制公を称していた。
彼はパレオロゴス朝成立後もこの地に居座っていたラテン人たちを駆逐し、ヴァルナの戦いに際してはオスマン朝からの自立を目指して北進した。
だが、ハンガリー軍の敗走が彼の夢を打ち砕く。押し寄せるオスマン軍はコリントス地峡の防壁を徹底的に破壊し、コンスタンティノスはおよそ半月にわたる攻防の末、ムラト2世に屈服した。

この敗北が皇帝としての彼の原点にある。
もはやビザンツはどう足掻いてもオスマン朝に対抗し、名実備えた帝国として蘇ることはできない。東欧の諸国も頼むに足りぬ。
それゆえ彼は西欧との連携を試みた。だが何世紀にもわたるローマ・カトリックとギリシア正教の分裂ゆえに、西方諸国は帝国の支援を渋り、帝国内部でも西との連携を支持する者は稀だった。

焦るコンスタンティノスはムラト2世の死を好機と見た。
その頃、オスマン朝の遠縁の皇族が帝都コンスタンティノポリスに亡命していた。コンスタンティノスはこの皇族の監視費用をメフメトに請求した。
ビザンツ帝国がオスマン朝の王位請求権者を抱えていることを示して、メフメトの政権基盤確立を妨害するつもりだった。

19歳の新スルタンは凍るような眼で皇帝の使者を、そしておのれの臣下たちを見つめた。いまや彼の望みを妨げるものは何もない。

「――師よ、あの町を俺にくれ」

大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは一瞬息を呑み、肩を落として嘆息した。

「――御意のままに」

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(メフメト2世ファーティフ)

オスマン朝第7代君主、メフメト2世
ムスリムとしての正規の教育を受けるよりもずっと前に、乳母の寝物語で聞いた古代ギリシアの神話伝説、とりわけアレクサンドロス大王の英雄譚に彼は深く憧れていた。

千年の歳月を閲してきた帝都コンスタンティノポリス。
そこで絢爛たる古代の廃墟のなかに、ローマ人の最後の末裔たちが居座っている。
これを完全に滅ぼし、コンスタンティノポリスをイスラームの都と化すことができれば……それは父祖たちの誰もが果たし得なかった偉業。預言者ムハンマドの昔からムスリムたちが抱いてきた征服の夢。

1451年冬、メフメト2世はストルマ流域の町々からギリシア人を追放し、領土全域から何千人もの石工を召集した。
翌1452年4月、ボスポラス海峡西岸に「ルメーリ・ヒサール」と呼ばれる城塞の建設が始まった。
帝都コンスンタンティノポリスは不安と疑惑に覆われ、疑惑は急速に確信へと変化した。オスマン朝は再び帝都攻囲を目論みつつある。

コンスタンティノス11世はスルタンに城塞建設の意図を問い質す使節を送ったが、彼らはことごとく首を刎ねられた。
8月、ルメーリ・ヒサール完成とともにメフメト2世は海峡の封鎖を命じた。
そしてエーゲ海沿岸各地で軍船の建造を指示し、大軍の動員準備に取り掛かる。

皇帝は諸外国に救援を求める使者を送った。だが東や北の正教諸国は遠く無力だった。西のカトリック諸国は互いの内紛と長年の宗派対立から、帝国の嘆願を黙殺した。
千年帝国は孤立無援となった。

1453年4月5日、オスマン朝の全軍が帝都コンスタンティノポリス外周に集結した。
城壁から見はるかす野も丘も海上も、二つの大陸から召集されたオスマン朝の大軍勢に埋め尽くされた。その数、およそ10万。対するに帝都防衛軍は、多少なりとも戦いに耐え得る男たちをすべてあわせても8千名に満たない。
かくてビザンツ帝国最期の戦いが開幕する。


帝国の終焉

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(コンスタンティノポリスの包囲)

戦いは激しい砲撃とともに始まった。メフメト2世はこの戦場に、ウルバンという技師が鋳造した8メートルの巨砲を持ち込んだ。これまで世界で作られた中で最大の大砲だった。
絶え間ない砲撃によってテオドシウス城壁はたちまち崩れはじめた。この城壁は最初の火薬兵器が登場するよりはるか以前に築かれたものだった。
しかし防衛軍は死の危険を省みずに城壁を修復し、果敢な抵抗を続けた。

海上ではオスマン艦隊が帝都の内港、金角湾への侵入を試みたが、湾口に張られた鉄鎖に阻まれて失敗。4月20日には南から来援した四隻のジェノヴァ船がオスマン艦隊を突破して金角湾に入った。
激怒したメフメトは艦隊司令官を更迭し、コロを使って艦隊を陸から金角湾に侵入させた。それでも帝都の抵抗は続く。

とはいえ防衛軍は日が経つにつれて疲弊の色が濃くなり、絶望が帝都を覆っていく。
ヴェネツィア艦隊を探索に出た船が決死の覚悟で帝都に戻り、エーゲ海のどこにも援軍は見当たらないと告げた。
帝都コンスタンティノポリスは、帝都を築いたヘレナの子コンスタンティヌスと同じ名前の皇帝の御代に滅亡するであろう……古い言い伝えが人々の口の端にのぼりはじめた。

5月24日、満月。この夜、月食が起こり、闇が三時間にわたって地上を覆った。
不安に駆られた市民たちが聖母のイコン(聖画)を掲げて市街を巡回すると、突然イコンが台座から滑り落ちた。駆け寄った人々はイコンの重さに驚いた。誰もそれを持ち上げて台座に据え直すことはできなかった。
その後、にわかに激しい雷雨と雹が帝都を襲い、翌日には深い霧が立ち込めた。誰も言葉にこそ出さないが、今や疑問の余地はなかった。神は帝都コンスタンティノポリスを見捨てたのだ。

廷臣たちは皇帝コンスタンティノスに帝都脱出を進言した。
皇帝コンスタンティノスはこのとき48歳。温厚で思慮深く、誰に対しても声を荒げることはついぞなかった。帝都の人々は政策への賛否を問わず、等しくこの皇帝を敬愛していたという。
亡命を勧められた皇帝は静かに、だがきっぱりと首を振った。
神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。されど、聖なる臨在が帝都を見捨てても、皇帝は最期まで帝都に留まるであろう。皇帝は帝都の民とともに生き、帝都の民とともに死ぬであろう。

月は下弦に転じ、ゆっくりと新月に向かっていった。オスマンの赤い軍旗に染め上げられた新月に。

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実のところ、包囲軍の士気も日を追って沮喪しつつあった。

陸でも海でも決定的な勝利は一度もおさめられず、城壁はいまだ突破できず、包囲の開始からすでに1ヶ月半が経過しようとしている。兵士たちは不満を漏らし、スルタンの威信は低下しはじめている。
大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは御前会議で包囲の断念を主張した。
それに対し、スルタンの信任厚いサガノス・パシャが激しく反論した。キリスト教諸国は四分五裂し、帝都救援に来る者はいない。かのアレクサンドロス大王のごとく撤兵など念頭に置かず、遮二無二攻撃を続行すべし。
メフメトはこれを採った。

「――アッラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり……」

10万の兵士たちの祈りの声が夕暮れの空と大地にうねるように広がっていく。皇帝コンスタンティノスはブラケルナエ宮殿の外壁の上に立ち、長いあいだ無言で宵闇の広野を見つめ続けた。

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(城壁の名残り)

5月28日午後、オスマン軍は全線にわたって激烈な攻勢を開始した。間断なく太鼓が打ち鳴らされ、兵士たちは次々に城壁に突撃した。絶え間なく激しい砲撃が続いた。
戦いは夜になってもおさまる気配がなく、メフメトは次から次へと新手の部隊を繰り出した。

夜明け前のもっとも暗い刻限に、オスマン朝で最強を誇るイェニチェリ親衛隊が前進を開始する。メフメトは最前線に出てこれを督励した。皇帝コンスタンティノスも前線に馬を進めた。

激闘に次ぐ激闘で、城壁を守る兵士たちは疲労の極みに達していた。そのとき、一閃の矢が守備隊を指揮するジェノヴァの傭兵隊長ジュスティニアーニの胸に突き立った。
痛みに耐えかねて絶叫するジュスティニアーニ。守備隊が動揺するなか、オスマン軍の一隊が城壁の脇の古い小門が開き放しになっていることに気付いた。

「街はもはや我々のものだ!!」

砲弾が防柵をなぎ倒す。メフメトが大喝する。イェニチェリたちが我先に突撃をはじめる。
守備隊は狼狽して為す術もなかった。階段を駆け上ったイェニチェリは小塔に翻る双頭の鷲の旗を引きずりおろし、するすると赤い新月の旗を揚げた。

城壁の下に身を置く皇帝コンスタンティノスは退路を閉ざされた。いまや帝国の希望も尽き果てた。
彼は無言で明けゆく空を見上げた。先ほどまで闇に覆われていた空はいつしか濃紺に変わり、東の空は茜色に染まりつつあった。流れる雲のなかに白い新月が上りはじめていた。
皇帝は馬を降り、帝位を示す徽章を捥ぎ取った。紫のマントを外し、鞘を投げ棄て、抜身の剣を掲げた。

「いまここで、私を殺してくれる一人のキリスト教徒もいないのか?」

寂しげに呟いた皇帝は、敢然と前を向いて歩きだした。10万の敵軍が怒涛のように殺到し、たちまちその姿は黒い人波のなかに飲み込まれていく。その後、二度と彼を見た者はいなかった。
後の世の人々は、コンスタンティノス11世は神の祝福を受けて聖人となり、いつの日かギリシアの民を救うために天から降ってくるのだと信じた。
死を越え、恐れを越え、滅びを越え、人の世の生死を抜けて、ローマ帝国最後の皇帝はとこしえの栄光に上っていったのだ。


征服王の時代

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(コンスタンティノポリスに入城するメフメト2世)

Sultan Muhammad Al-Fateh Penakluk Konstantinople

(コンスタンティノポリス陥落を大迫力で描くトルコの映画)

21歳の若さでビザンツ帝国一千年の歴史に終止符を打ったメフメト2世。
彼はその偉業を讃えて、「ファーティフ(征服者)」と呼ばれることになる。

メフメトが見た帝都は空虚だった。かつて百万の人口を誇った都に暮らす人々は、今では五万に満たなかった。
城壁のなかには田園と雑木林が広がり、古代の宮殿や修道院の廃墟が点在している。人々は13ほどの集落に身を寄せ合い、貧しい暮らしを送っていた。

若き征服者が最初に行ったのは、キリスト教徒たちの敬愛を受けていたゲオルギオス・スコラリオスという神学者を、新しいコンスタンティノポリス総大主教に叙任することだった。
かつてビザンツ帝国の皇帝たちが果たしていたのと同じ役目を、今はスルタンが果たす。不思議な光景だった。

「多き幸をもて総大主教たれ。我らの友愛の念を信じ、汝に先立つ総大主教たちが享受せるすべての特権を享受し続けよ」

メフメトは祝福の言葉とともに、法衣を、司教杖を、そして美しい十字架を手ずからゲオルギオスに授けたという。

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(ゲオルギオスとメフメト2世)

メフメトはビザンツ帝権の後継者、ローマの継承者を自認した。
オスマン朝、いや、すでに「オスマン帝国」と呼ぶべきだろう。これ以後、オスマン帝国の皇帝たちは「スルタン」のみならず、「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」とも呼ばれることになる。

キリスト教徒たちは総大主教のもとで一定の自治と信仰の自由を認められた。とはいえ、メフメトは全てを元通りに留めたわけではない。
アナトリアから、バルカンから、無数の人々がこの都に呼び寄せられた。その中にはキリスト教徒もムスリムもユダヤ教徒もいた。
荒れた土地に新しい家々や商店が生まれ、街路や水道が整備され、都に活気が蘇ってきた。しかし、そこに暮らす人々は数十年前とは見違えるほどに多様だった。
そして、いたるところに見られた修道院や教会は姿を消し、かわってモスクやマドラサが続々と建設された。

メフメトはエディルネを去って、征服間もない「コンスタンティニエ」を国都とした。
程なくこの都は新たに到来したオスマン人たちに「イスタンブル」と呼ばれるようになった。
海峡を見下ろす高台のうえには壮麗なトプカプ宮殿が築かれた。

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(トプカプ宮殿)

この頃からスルタンの権威と権力は大きく強化される。
初期オスマン朝を支えてきた名門チャンダルル家出身の大宰相ハリルは、征服直後に利敵行為の故をもって処刑された。かわって大宰相となったのは奴隷出身のサガノス・パシャ。
メフメトは家門の後ろ盾を持たないカプクルやイェニチェリを重用し、御簾の背後の高い玉座に座し、臣民の視線から己を隔離した。
のちに「地上における神の影」とすら呼ばれる、絶対君主の時代が始まったのだ。


メフメトはその後も各地に征戦を続けた。
1459年にセルビアを直接統治下とし、1461年にペロポネソス半島を征服し、同年にトレビゾンド、さらに1463年にはボスニアを併合した。
とはいえ彼の征戦が常に勝利を約束されたわけではない。
フニャディ・ヤーノシュはベオグラードでオスマン軍を敗走させ、アルバニアのスカンデルベクは死ぬまで屈服せず、ワラキアのヴラド3世やモルダヴィアのシュテファン・チェル・マーレも頑強に抵抗した。

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(ヴラド3世がメフメトの心胆を寒からしめたトゥルゴヴィシュテの夜襲)

メフメトはむしろ東方で赫々たる成果を収めた。
長きにわたって潜在敵国であり続けたカラマン君侯国を1468年に併合し、さらに東進してイラン高原で勃興しつつあった白羊朝のウズン・ハサンを撃破する。1475年にはクリミア・ハン国を臣従させ、黒海をオスマンの海と化す。

晩年のメフメトは西ヨーロッパ遠征を目論み、ゲディク・アフメト・パシャ率いる艦隊に南イタリアのオトラントを占領させた。
イタリア半島南部を抑えるナポリ王国は混乱に陥り、教皇は恐怖した。
だが、西欧が悪夢の顕現に怯えるなか、奇跡が起こった。イスタンブルを出陣したメフメトが急病となり、1481年5月3日に陣没したのだ。

オスマン帝国ではメフメトの二人の遺児、バヤズィットとジェムとのあいだで帝位継承をめぐる争いがはじまる。
内乱はほどなくバヤズィットの勝利によって終結したが、敗れたジェムはエジプトを経てヨーロッパに亡命し、フランスやイタリアを転々とする。
オスマン帝国第8代皇帝となったバヤズィット2世は、潜在的な帝位継承権者である弟を人質に取られる形となり、メフメトの時代とは一転して消極外交に甘んじるのだった。

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(日本語で読めるものでは唯一であろうメフメト2世の伝記)



羊たちの喧騒

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(ティムール帝国)

オスマン帝国が興隆する頃、イスラーム世界東部は混迷のなかにあった。
14世紀末に巨大な版図を築いたティムール帝国は、偉大な建国者の死とともに解体しはじめた。その機に乗じて台頭してきたのが、黒羊朝(カラ・コユンル)と呼ばれる勢力だった。


黒羊朝はティムール到来以前から西北イランに展開していた遊牧部族連合である。当時の指導者をカラ・ユースフという。
彼はティムールに国を追われてマムルーク朝に亡命するが、ティムールとの取引材料として幽閉されてしまう。ところが、彼はそこで数奇な出会いを果たした。
相手はかつてイラーク平原と西部イランを領有していたジャライル朝のスルタン・アフメドである。
 ※この二人については「イスラーム世界の歴史27 鉄の嵐、炎の槍」を参照。

ともに亡国の憂き目を見た二人の元君主に、奇妙な絆が生まれた。
彼らはマムルーク朝の牢獄のなかで誓いを交わす。いつの日か運命に恵まれて国を取り戻せたら、イラーク全土はスルタン・アフメドのもの、アゼルバイジャンはカラ・ユースフのものとして、決して仲違いをすまいと。

運命は意外と早く彼らに微笑んだ。アンカラの戦いでオスマン朝を屈服させたティムールは明国遠征のために東へ帰り、マムルーク朝は1404年に二人の身柄を解放したのだ。
翌年にティムールが死ぬと王族たちのあいだで継承戦争がはじまる。アフメドとユースフは直ちに兵をあげ、1408年にティムールの三男ミーラーン・シャーを倒して旧領回復を成し遂げた。
だが、ここでジャライル朝のスルタン・アフメドが誓いを破り、カラ・ユースフの取り分たるべきアゼルバイジャンのタブリーズを占領してしまう。
裏切りを怒ったカラ・ユースフは直ちにタブリーズに進軍し、1410年にスルタン・アフメドを捕えて縛り首にする。これでイラン高原西部は黒羊朝の天下となった。

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(カラ・ユースフ)

1419年にカラ・ユースフが死ぬと、一時的にティムール朝が盛り返す。
継承戦争を制したティムールの四男シャー・ルフがイラン高原に兵を進め、黒羊朝をアゼルバイジャンまで押し戻して臣従させたのだ。
しかし帝国再統一を目指して東奔西走したシャー・ルフが1447年に没すると、ティムール朝に影が差す。
シャー・ルフの後を継いだウルグ・ベクは博覧強記にして超人的な記憶力を誇り、偉大な文人・数学者・天文学者だった。長年サマルカンドの総督を務め、行政手腕にも不足はない。
しかし戦争だけは彼の不得手とするところだった。
1449年、ウルグ・ベクは実子アブドゥッラティーフ率いる反乱軍に惨敗し、あえなく敗死する。ティムール朝は再び混乱状態となった。

カラ・ユースフの子ジャハーン・シャーはシャー・ルフが死ぬやいなや、たちまちティムール朝への反攻を開始した。
彼は葡萄酒と阿片を愛して放縦極まる生活を送ったが、その軍才だけは本物だった。1440年にはグルジアのティフリス、1452年には中部イランのイスファハーンを奪い、1458年にはヘラートまで攻め込む。
ところがその頃、彼の足元で次代の主役が頭角を現しつつあった。

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(ジャハーン・シャー)

黒羊朝(カラ・コユンル)の勃興当初より、その西側に白羊朝(アク・コユンル)と呼ばれるもうひとつの勢力が存在した。
両者の関係は必ずしも明確でないが、いずれもトゥルクマーンを主要構成員とする遊牧部族連合としてよく似た性格を持っていた。
ディヤルバクルを中心にアナトリア高原東部を支配した白羊朝は、早くからビザンツ帝国と接触を持ち、ビザンツ系国家の一つであるトレビゾンドのコムネノス王家と通婚を繰り返した。
それゆえ、白羊朝にはギリシアの血が色濃く流入している。

ティムールが侵攻してきたとき、白羊朝はいち早く服従を誓って領土を保全した。ところがティムールの死と黒羊朝の再興によって雲行きが怪しくなり、1435年に初代君主のカラ・オスマンが戦死すると同族争いがひたすら続いた。
が、1453年に英主ウズン・ハサンが王位に就くと流れが変わる。

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(このあたりの記述は、この本をかなり参考にしています)


ウズン・ハサンは黒羊朝に従属しつつ、じわじわと力を蓄えた。
まずはトレビゾンドの皇女を迎えて西を固め、次にシェイフ・ジュナイドという宗教家を庇護する。
彼は13世紀からカスピ海西南岸に近いアルダビールに拠点を構えてきたイスラーム神秘主義教団、サファヴィー家の長だった。
サファヴィー家は預言者ムハンマドの娘婿にして第四代カリフであるアリーの子フサインと、ササン朝ペルシアの王女の血を引くと称し、代々「アルダビールの聖者」として西部イランの人々に崇敬されてきた。
これを取り込んだことにより、ウズン・ハサンの信望も高まった。

1467年、ウズン・ハサンは黒羊朝のジャハーン・シャーをムーシュ平原で奇襲し、あっさりその首級を獲った。かくて白羊朝の天下となる。白い羊の軍旗は二年のうちにイラン全土を覆い、ティムール朝の領域まで達した。

ここではティムールの曾孫にあたるアブー・サイードが、イスラーム神秘主義の一派であるナクシュバンディー教団と結んで、ホラーサーン地方一帯である程度の安定政権を維持していた。
彼は黒羊朝の急激な崩壊を好機と見て西方進出を図ったが、ウズン・ハサンに大敗を喫して殺される。ティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂し、さらに弱体化していく。

その後、ウズン・ハサンはオスマン帝国との対決に向かうが、すでに記した通りメフメト2世に敗れてユーフラテスより西への進出は阻まれたのだった。
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混迷の15世紀にあって、エジプトのマムルーク朝だけは安定を維持し続けているかに見える。だが、その内実も決して平穏ではなかった。
モンゴル帝国解体と時を同じくしてユーラシア大陸を黒死病が襲った。一説によれば、この疫病は旧世界の5億の人々のうち、8500万人の生命を奪ったという。
オスマン朝の勃興やティムール朝の崩壊、黒羊白羊の争いといった激しい変動の背後では、強弱の差こそあれペストの禍が荒れ狂っているのだ。
惨害はとりわけ人口の多いヨーロッパで甚大だったが、イスラーム世界では交易の要衝であるシリア・エジプトが最大の影響を受けた。
都市は衰退し、農村から人影が消え、地中海と航海の交易は低調となった。黒い病はマムルーク朝の繁栄に濃い影を落とし、この大国をじわじわと蝕み続けている。

コンスタンティノープル陥落す

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(英国の歴史家ランシマンがビザンツ帝国滅亡を描いた古典的名著)





非常に久々に「イスラーム世界の歴史」シリーズ更新です。
かなり中途半端なところで終わっていますが、当初の予定(ビザンツ滅亡~イラン高原の情勢~キプチャク平原の情勢~チャルディラーンの戦い)ではあまりにも長くなりすぎるので、ここでひとまず分割します。
続きはあまり間を空けずに載せたいと……思い・・・・・・ます……(汗


『周――理想化された古代王朝』

佐藤信弥さんの『周――理想化された古代王朝』(中公新書)を読みました。

周王朝は儒教において理想の時代と見なされたため、中国の歴史を通じて政治改革を唱える人々は常に周の礼制復興を大義名分としました。
しかし史実の周王朝には不明点が多く、近現代の歴史学ではしばしば等閑視、ないしは敬遠されがちでした。
あの碩学、宮崎市定にいたっては、そもそも西周王朝など実在しないと論じたほどです。
ところが近年、周代の金文や甲骨文、出土文献が続々と発見されており、経書に基づく周王朝の歴史とは異なる実像が明らかになりつつあります。

本書はそうした同時代史料を踏まえて、三監の乱の実像や諸侯封建の儀式、前期西周王朝の積極的な外征や後期西周王朝の執政団による集団指導体制、末期西周を襲うさまざまな外患などについて多くの新知見を提示しています。
さらに春秋戦国時代に入って歴史の表舞台からフェードアウトしていく東周王朝についても、極度にスケールが矮小化した内乱や、最終的な滅亡にいたるまでが丁寧に記述してあります。

歴史のミッシリングリンクが次々に埋められていく快感。この本は今後、中国古代史を学ぶ上で必読になると思います。
「中華世界の歴史」の周王朝関連の記述も、本書に基づいていずれ差し替えていきます。

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

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中華世界の歴史21 大崩墜の世紀

聖漢四百年

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(漢代の絵画)

――ヨーロッパの灯が消えていく。我らが生きているうちに、再びこの灯りが照らされることはないだろう。
(エドワード・グレイ、第一次世界大戦の勃発にあたって)

――君は清平の奸賊にして、乱世の英雄なり。
(許子将、若き日の曹操に)


この時代に生を受けた者たちは、彼らの生涯のうちに世界が崩壊していくのを見た。
さほど遠くはない昔、後漢は平和と繁栄を謳歌していた。辺境の地では兵乱の兆しが生まれつつあったが、帝都洛陽に身を置けば帝国は曇りなき栄華を誇っているかに見えた。
しかし長年にわたって蓄積し続けたさまざまな矛盾が、中平元年(西暦184年)2月に鋸鹿の人張角が起こした「黄巾の乱」を機に一挙に噴出する。

まずは北方。
後漢は長きにわたり、南匈奴と烏桓を属国として使役し、漠北に蟠踞する鮮卑を監視してきた。ときに彼らが背けば南匈奴の兵をもって烏桓を牽制し、烏桓の兵をもって南匈奴を牽制した。
だが帝国衰退につれて北方諸部族は徐々に自立を目指しはじめた。

最初に動きはじめたのは、もっとも後漢から遠い鮮卑である。
これより先、西暦150年頃に檀石槐(だんせきかい)という名の英雄が鮮卑の地に現われた。
彼は公正かつ勇敢な武人で、若くして鮮卑の大人(たいじん)、つまり部族長に推戴された。
弾汗山に大人庭を置いた檀石槐は東西諸部族を次々に平定し、北はテュルク(丁零)を阻み、東はプヨ(扶余)を討ち、西はアールソン(烏孫)を攻め、西匈奴の末裔たちを西天の彼方へ駆逐した。
その版図は南北七千里、東西一万四千里に及んだといわれる。いにしえのバガトゥル・テングリクトシャンユ(冒頓単于)に匹敵する覇業だった。その勢いをもって、彼は十八回にわたって漢土への侵攻を繰り返した。
だが檀石槐が45歳の若さでこの世を去ると子孫たちのあいだで争いが起こり、鮮卑の勢いはしばし低落する。

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(一代の天驕、檀石槐)

一方、南匈奴は後漢の衰退にもろに巻き添えを食らった。
もともと後漢の傀儡に過ぎなかった単于の威信は、後漢と歩調を合わせて低落していった。
後漢の命によって漢地の乱を鎮めるための出兵を繰り返した羌渠単于(きょうきょぜんう)は、軍役に耐えかねた匈奴の人々に殺害された。
折しも黄河南岸に出征中だった羌渠の子、於扶羅(おふら)は本国に帰還することができず、一握りの部衆とともに動乱の中原をさまようことになる。残った人々はやがて鮮卑の民に溶け込んでいった。

そして烏桓(うがん)である。東胡の末裔にして鮮卑の遠縁とされるこの集団は、安帝の頃からしばしば後漢に牙を剥くようになった。
後漢末期になると、遼西の丘力居(きゅうりききょ)、上谷の難楼(なんろう)ら、おのおの数万の部衆を率いる有力族長たちが並び立って王を自称する。
187年にはもと中山太守の張純が丘力居と結んで烏桓諸部族を統合し、帝国東北部全域に及ぶ大反乱を起こした。

もう一つの『三国志』 異民族との戦い (新人物文庫)

(後漢~三国の中華周辺諸民族や、それと関わった人々についてコンパクトにまとめられている)


西でも恐るべき事態が発生した。184年11月、涼州の羌族たちが黄巾の乱による後漢の混乱を知って一斉に蜂起したのだ。
羌族たちは韓遂・辺章らの漢人を引き込んで指導者とし、彼らの指揮のもとで185年3月に三輔(関中)に乱入する。朝廷は羌族が河内郡まで攻め込んだ「永初の大乱」を思い起こし、恐怖に打ち震えた。
しかし羌族は長安を目前に急停止する。彼らの行く手を阻んだのは、自身、若き日から羌族と交わりながら辺境を駆け巡ってきた董卓(とうたく)という猛将である。
羌族は董卓に撃退されて涼州に退却した。以後、この地方では漢人と羌族が入り乱れるなかで韓遂・辺章・馬騰などの有力軍閥が抗争を繰り返すことになる。

そのほか、益州(四川)では188年に黄巾の一派を称する馬相という人物が天子を名乗った。
馬相の乱は間もなく益州の州牧(太守)劉焉(りゅうえん)に平定されたが、今度は劉焉が河南や関中から亡命してきた難民たちを集めて自前の軍隊を編成し、中央との連絡を絶って自立した。

さらに、遼東では189年に太守となった現地豪族の公孫度(こうそんたく)が高句麗・烏桓を討って勢力を強め、190年に遼東侯を称して事実上の独立政権を築く。

同じ頃に嶺南でも、土着豪族の士燮(ししょう; シーニェップ)という人物が自立し、もっとも僻遠の日南郡では区連(おうれん; クーリエン)という人物が象林県令を殺してラムアップ国(林邑国/チャンパ王国)を建てた。

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(チャンパ王国の最大勢力圏)

十数年のうちに平和と秩序は消え失せた。豪族は私兵を集めて境を守り、互いに争いはじめた。
共同体は崩壊し、血族の絆は絶たれた。群盗が猖獗を極め、何百万もの人々が故郷を追われ、身寄りを失って流浪の身となった。路傍に倒れる者は数知れず、田畑や集落は虎狼の棲み処となった。

けれど……中華の人々はそれでもなお、帝国の不滅を信じていた。
『春秋公羊伝』によれば、偉大なる孔子は来たるべき理想国家を予言したという。それこそは至高にして永遠なる「聖漢」。漢帝国の永続は宇宙の真理に等しい。これが当時、かりそめにも教育を受けた者たちの常識だった。
事実、漢帝国はこれまで幾度危機に見舞われても、必ず蘇ってきた。匈奴も王莽も羌族も漢を滅ぼすことはできなかったではないか。
ゆえに当時の人々は長く確信を持てなかった。かくも現世が乱れても、あり得べからざる現実が顕現しても。

――四百年の歳月を閲した「聖漢」といえども、ついには滅びるということを。

白骨、野に露され
千里、雞の鳴くこと無し
生民、百に一を遺すのみ
之を念えば人の腸を断たしむ

――曹操「蒿里」



天下麻のごとく乱る

中平六年(西暦189年)4月、後漢帝国第十二代皇帝、霊帝・劉宏が崩御した。かねて宮廷の権を争ってきた宦官、外戚、官人の対立は頂点に達した。
実権を掌握した外戚の何進(かしん)は腹心の袁術(えんじゅつ)袁紹(えんしょう)とともに宦官勢力の一掃をはかり、諸侯の軍勢に上京を命じた。
しかしながら、その策は事前に漏れて何進は宦官たちに殺害された。袁紹は禁衛軍を動員して宮中に乱入し、宦官二千人を虐殺。後漢の歴史を通じて隠然たる権力を握り続けた宦官勢力は、ここに壊滅した。

しかるに、混乱に乗じて西方の雄・董卓が羌族の大軍を率いて到来し、中央政権を制圧した。彼は何進の甥にあたる少帝を廃位・殺害し、その弟の陳留王・劉協を擁立した。すなわち献帝である。
董卓を恐れて逃亡した袁紹らは東方の刺史(州長官)や太守を糾合して反董卓の旗幟を掲げた。対する董卓は献帝および廷臣たちを遠く長安へ移動させ、洛陽前面で東方連合軍を待ち受けた。
ときに初平元年(西暦190年)のことである。

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(『三国志演義』の虚構の名場面、劉備・張飛・関羽の三英傑が猛将呂布と対決する)

関東に義士有り、兵を起こして羣凶を討つ
初めは期して孟津に会すれども、乃ち心は咸陽にあり
軍は合して力は斉しからず、躊躇雁行す
勢利は人をして争わしめ、嗣ぎて還りて自ら相い戕なう

――曹操「蒿里」


東方連合軍は総勢十数万に及んだが、内実は烏合の衆だった。
指導者も指揮系統も明瞭ならず、将領たちの多くは元来「清流派」と呼ばれる儒家官僚で、軍事については素人に等しい。諸軍の大半は董卓との決戦を避け、一年余りで兵糧が尽きると自然解散した。
離散した諸侯は各々の本拠で地歩を固め、そのまま群雄割拠の情勢となった。一方、董卓は帝都洛陽に火を放って関中に撤退し、以後は皇帝と宮廷を擁してここに引きこもる。
統一国家としての後漢帝国は、事実上崩壊した。

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(192年頃の情勢)

これよりのち、函谷関以東でもっとも強大な力を手にしたのは袁術と袁紹であった。
彼らはどちらも四世続いて三公(司徒≒丞相、司空≒軍事長官、大尉≒副丞相)を輩出した名門中の名門、「汝南袁氏」の出身だった。
二人は従兄弟とも異母兄弟ともいわれる。袁術が正嫡だったが、袁紹の方が年長で信望も厚かった。袁氏の恩顧を求める者たちは袁紹にも袁術にも媚を売る。いきおい、二人は犬猿の仲となった。

南陽太守の地位を得た袁術は、豫州(よしゅう:河南)南部に勢力を確立した。

対して、豫州北部に拠った袁紹は董卓が擁立した献帝を偽帝と断じ、幽州の州牧・劉虞(りゅうぐ)を新帝にしようと画策した。だが、劉虞はこれを拒絶する。
劉虞は保守的な政治家で、現下の混乱を一時的な異常事態と認識していた。袁紹の口車に乗せられて謀反人の汚名を被る気などさらさらない。だが、彼はまもなく厳しい現実を突きつけられる。

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(公孫瓚)

河北の地ではかねて公孫瓚(こうそんさん)という武将が勇名を馳せていた。
もとは郡の小吏であったが、優れた容姿と才気によって出世を重ね、遼東の長史(副長官)となってしばしば鮮卑を破る。世が乱れると騎兵を率いて涼州の反乱鎮圧に活躍し、河北に戻ると叛徒・張純に従う烏桓族と激闘を繰り返した。
公孫瓚は常に白馬に騎乗し、同じく白馬を駆る戦士数百名を親衛隊としていた。烏桓の民は公孫瓚を「白馬長史」と呼んで恐れ憚った。だが、公孫瓚と張純の戦いは一進一退を続ける。

しびれを切らした朝廷が送り込んだのが、寛仁の誉高い劉虞だった。188年に幽州の州牧、つまり公孫瓚の上司として着任した劉虞は、さっそく烏桓諸部族に説諭の使者を送って帰順を説いた。
劉虞の評判を知る烏桓の民はあっさりと降伏し、翌年には張純の首級を持参した。当然、公孫瓚は劉虞を憎悪した。

191年、公孫瓚は渤海郡で黄巾賊の残党三十万を打ち破り、黄河下流域を掌握。名目上の太守である劉虞をよそに河北の覇者となった。そして彼は、豫州の支配をめぐって袁紹と対立する袁術と軍事同盟を締結する。


北方進出を始めていた袁紹は公孫瓚に行く手を阻まれ、反撃に出た。
荊州(けいしゅう; 湖北)刺史の劉表と結んで、南から袁術を牽制させたのだ。193年、袁紹と劉表の圧力に耐えかねた袁術は遠く揚州(長江下流域)の寿春に拠点を移した。

この年、北でも情勢が変わった。起死回生を期して十万の兵を集めた劉虞があっけなく公孫瓚に打ち負かされ、処刑されたのである。しかしこれが公孫瓚の命取りになった。
劉虞は時代を見る眼こそなかったものの民政家としては優れた手腕を持ち、民に慕われていた。河北全域で公孫瓚への反乱が起こり、この機に乗じて袁紹が北進を再開する。
公孫瓚は劣勢に追い込まれ、199年に袁紹によって滅ぼされた。

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(袁紹)

一方、函谷関の西でも事態は動いている。
関中に引きこもった董卓は長安西方に堅固な要塞を築いて専横を尽くしていたが、192年にあっさりと部下に殺される。
その後は董卓の旧将たちが長安一帯で略奪と住民虐殺を繰り広げ、やがて内紛をはじめた。
数百万の人々が飢餓に苦しんだ末、互いを食らい合って死んでいった。さらに多くの人々が流民となって四方へ離散した。それはまさにこの世の地獄だった。

そんな惨状のなか、董卓に囚われていた献帝と一握りの廷臣たちが長安を脱出した。195年のことである。
だが、函谷関の西でも東でも世情は同じだった。群盗が高貴な一行を付け狙い、這う這うの体で洛陽に辿りついてみれば旧都は廃墟と化していた。
高官たちは崩れた壁のあいだにあばら家を営んで焚き木を拾い、牆壁の間に餓死する者もあったという。

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(袁術)

はるか揚州の地でそんな噂を聞いた袁術は意外な動きに出る。197年1月、自ら皇帝を称したのだ。アンシャンレジームの旗手たる名門貴族が、いまや革命の先鋒と化したのである。
もとより大義名分らしい大義名分はない。袁術は讖緯の予言や、董卓撤退後の洛陽で発見したと称する「伝国の玉璽」を利用して皇帝即位を正当化した。
しかし袁術の称帝を認める者は少なかった。重税によって民の信を失い、敗戦によって将兵の信をも失い、袁術は急速に没落していく。

追いつめられた袁術は北を目指した。袁紹に降伏するつもりだったのかもしれないし、いちかばちか起死回生に賭けたのかもしれない。だが、天はすでに彼を見放していた。
荒野を北上する袁術の隊列からは櫛の歯が欠けるように兵士たちが消えていった。水も糧食も底を尽き、衰弱した袁術は側近に蜜水を求めた。

「蜜水? そんなものは何処にもございませぬ。あるのはただ血水だけでございます!」
「嗚呼!!」

視界の全てが暗転する。袁術は一斗の血を吐いて悶絶し、そのまま息絶えた。憤死というべきであろう。
ときに199年6月のことであった。

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(198年頃の情勢)


乱世の奸雄

【予告篇】三国志
(英雄たちの時代が開幕する)


建安4年(199年)、公孫瓚と袁術の破滅によって袁紹は中華北部の最有力者となった。だが、彼の前にひとりの強力な敵手が立ちはだかった。その名を曹操(そうそう)という。

曹操は、後漢第八代皇帝・順帝の厚い信任を受けた大宦官、曹騰(そうとう)の孫である。ただし少年時代に断種した曹騰に実子はいない。
順帝は外戚の閻氏排斥に尽力した宦官たちに対し、褒賞として養子をとって資産を受け継がせる権利を与えた。曹騰も豫州沛国の豪族、夏侯嵩という若者を養子とした。この夏侯嵩あらため曹嵩(そうすう)の子として、曹操は生まれた。

宦官の孫という出自は後漢末期の宮廷で忌避と侮蔑の対象となった。だが曹操は、自分自身の類い稀なる才幹を信じていた。実際、彼は文武両面にわたり、ほとんどあらゆる技芸と学問で周囲を圧倒した。
憾むらくは己の誇るべからざる出自と、己の才を認めぬこの腐敗した国家……曹操の青春は自負と鬱屈、己を理解せぬ者たちへの侮蔑と憤り、そして時折燃えあがる情熱と高揚に彩られていた。
彼は心ひそかに乱世を待望していたのかもしれない。

184年、曹操が30歳を迎えた年に黄巾の乱が勃発する。乱の鎮圧にあたって多大な功績をあげた曹操は西園八校尉のひとりとなり、董卓が洛陽を制圧すると私兵を集めて袁紹のもとに馳せ参じた。
董卓の勢威を恐れて逡巡する連合軍の諸将のなかで、彼はほとんど一人で積極攻勢を主張した。
わずかな同志とともに敢然攻撃に出た曹操は大敗北を喫したが、数年後にこの戦いは大きな政治的資産となる。

曹操〈上〉―魏の曹一族 (中公文庫)

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(若き日の曹操を描く)


連合軍の解散後、曹操は袁紹と結んで急速に勢力を拡大していく。
転機となったのは191年、青州(山東)にいた黄巾賊の残党数十万を打ち破り、その精兵を麾下に編入したことである。それまで数千規模の兵力しか持っていなかった曹操は、たちまち十万を超える軍を率いる立場となった。
この兵力をもって袁術麾下の勇将・孫堅(そんけん)を打ち破り、193年には袁紹・劉表とともに袁術を豫州(河南)から放逐した。

それから数年、曹操は袁紹と袁術という二大勢力の狭間で、近隣の軍閥たちと一進一退の攻防を繰り返した。四方はほとんど敵という状況が続いた。
生き延び、勝ち残り、乱世に覇を唱えるために、彼は手段を選ばない。

彼は当時天下に満ちていた流亡の民を掻き集めた。
恐るべき勢いで人口が急減しつつあるこの時代、もっとも貴重な資源は人間である。曹操は放棄された土地を流民に与えて開墾を命じ、安住の地と最低限の生活を保障する代わりに、税と労役を課した。
屈強な者たちは一般民衆とは別の戸籍に編入し、平時には屯田、有事には従軍を義務付けた。父が死ねば長子が兵とされ、兄が死ねば弟が兵とされた。「屯田兵戸制」と呼ばれる制度である。

曹操は人材登用にも熱心だった。その際、曹操は経歴も人格も顧慮せず、才能の有無だけを見た。

「不仁であっても不孝であっても余は問わぬ。身分卑しき者であっても、賄賂を貪る不軌の者であっても、兄嫁と密通する不義の者であっても、余にとっていささかも問題とならぬ」

いまは非常の時、未曾有の乱世の開幕。既に漢王朝の聖なる秩序は崩壊した。寛治も道徳も無用。ただ才能を、野心を、生きる力を!
曹操はこの時代の群雄たちの最前線で次なる時代を切り開いていった。破壊と動乱、栄光と悲惨、絢爛たる暗黒の世、「中世」と呼ばれる時代を。

そんな曹操のもとに思わぬ奇貨が転がり込んだのは、建安元年(196年)のことだった。

曹操註孫子
(曹操は著述を好み、「孫子」に註釈を施した)

廃墟と化した洛陽で滅びを目前にする献帝と廷臣たち。
曹操は彼らの存在を聞きつけるや、直ちに馬を馳せて廃都に駆けつけた。

「臣はかつて諸侯のなかでただ一人董卓に戦いを挑みました。臣の漢室への忠義は曇りなきものでございます」

曹操は献帝を庇護下に置き、「許」という田舎町に安坐させた。以後、この町は「許都」と呼ばれるようになる。ただし、曹操のような人物が単なる善意で行動することは、まずあり得ない。当然裏には打算がある。
まもなく曹操は、献帝の側近たちが自分の暗殺を企んだと主張して、彼らを大量処刑した。後釜には曹操の息のかかった者たちが送り込まれ、亡命宮廷の顔ぶれは一変した。

何が起こったのかを悟った献帝は憤激し、果敢に反撃を試みた。
古来、漢帝国で重臣が皇帝に謁見を賜る際には身に寸鉄を帯びず、完全武装の近衛兵たちが居並ぶ中を進まなければならない。献帝はその規定を押し通した。
冷や汗にまみれて退出した曹操は自分の拠点である鄴(ぎょう)に逃げ帰り、二度と献帝に謁見しようとしなかった。とはいえ献帝が許都にいる限り、曹操の威信は揺らがない。

漢朝皇帝の直臣という強力な名分を得た曹操は次々に競合者たちを滅ぼし、河南・山東を制圧した。一方、公孫瓚を滅ぼした袁紹は河北・山西を統一し、華北随一の大勢力を築き上げた。
建安五年(200年)、ついに両者は中原の覇権を賭けて激突する。世にいう官渡の戦いである。

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(赤が袁紹、青が曹操の勢力圏)

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(官渡の戦い)

前年来小競り合いを繰り返していた袁紹と曹操は、黄河南岸の官渡で対峙した。
袁紹は同盟関係にある荊州(湖北)の劉表と江東(長江下流域)の孫策が曹操を牽制することを期待していた。
しかし劉表は領内での反乱発生で動きが取れず、孫策は曹操不在の許都を急襲しようとした矢先に不慮の死を遂げる。

数の上では袁紹軍が優勢だったが、袁紹は幕僚たちの意見に右顧左眄するばかりで明確な戦略を定めず、無為に日を過ごした。一方、曹操は臨機応変に兵を動かして袁紹側の策動を次々に封じ込めた。
対陣が続くにつれて両軍とも兵糧が減っていく。世は飢餓の時代である。戦争を行なうための余剰物資を獲得することは容易でない。戦争は飢えた者たち同士の我慢比べの様相を呈した。

10月、曹操は袁紹軍の兵站基地を急襲し、備蓄された兵糧を焼き払った。袁紹の軍勢は浮足立って敗走した。これを機に袁紹の勢威は一気に傾き、河北では反乱が頻発する。
翌々年、袁紹が憔悴の末に病死すると遺児たちのあいだで後継争いが勃発した。曹操は満を持して河北に侵攻。袁紹の遺児たちは烏桓(うがん)の地に逃亡した。

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(曹操の河北制圧と烏桓遠征)

張純の乱が平定された後、烏桓の盟主となったのは蹋頓(とうとん)という大人(族長)だった。彼は知略に優れ、袁紹と結んで公孫瓚を北から圧迫した。
袁紹はその見返りに、烏桓の民の宿願をあっさり投げてよこした。「単于」の称号である。

烏桓の民は狂喜した。
彼らはかつて冒頓単于によって漠北の覇権を奪われた東胡の末裔である。烏桓は何世紀も匈奴に屈従を強いられ、その恨みは骨髄に達していた。
それが今や匈奴との立場は逆転し、烏桓の「大人」が「単于」として草原の民の上に君臨する名分を得たのだ。彼らが袁紹に深い恩義を感じたことは想像に難くない。

蹋頓と鮮卑の民は、袁紹の遺児たちを迷わず庇護した。彼らは曹操を恐れなかった。鄴ははるかに遠く、曹操軍は長い河北の戦いで疲弊している。よもや烏桓の地まで侵攻してくることはあるまいと踏んだのだ。
だが曹操は甘くなかった。長途の行軍と寒気を理由に諸将が異口同音に反対するなか、彼は断固として袁紹の遺児たちを追跡することを命じる。雨と泥濘を冒し、豪雪をかき分け、曹操の軍勢は人煙まれな荒野と密林を何ヶ月も進軍した。

太行山に北上するに  艱いかな、なんぞ嶷嶷たる
羊腸として坂は詰屈し 車輪これが為に摧く
樹木、なんぞ蕭瑟たる 北風、声まさに悲し
……行き行きて日すでに遠く 人馬同時に飢う
嚢を擔いて行きて薪を取り 氷を斧し、持して糜を作る

――曹操「苦寒行」


207年秋の末、曹操は大凌河の渓谷に到達し、驚き慌てる烏桓の本軍を白狼山(現在の遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県)で急襲した。
烏桓軍は総崩れとなり、乱戦のなかで大人・蹋頓も討死する。生き残った者たちは曹操に忠誠を誓うしかなかった。袁紹の遺児たちはすんでのところで脱出し、さらに東の遼東に落ち延びていった。
遼東では3年前に公孫度が死去し、その子の公孫康の時代となっている。中原から距離を置いて朝鮮方面への進出を図る公孫康にとって、袁紹の遺児たちなど災いの種でしかなかった。
曹操は追跡を続けなかった。公孫康の使者が袁紹の遺児たちの首級を手にして曹操の陣営に駆け込んで来るまで、さして時間はかからなかった。

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(華北の覇者、曹操)


華北の覇者

曹操は大行山脈の群賊を討ち、袁紹のもとで彷徨していた南匈奴の於扶羅単于も降伏させ、ついに華北の覇者となった。

このとき、袁紹の旧領を併せた曹操のほか、涼州から関中にかけては相変わらず辺章・韓遂・馬騰らが抗争を繰り返している。
関中の南にあたる漢中盆地では張魯という人物が、太平道によく似た「五斗米道」なる新興宗教を唱え、一種の宗教王国を築いている。のちに「道教」と呼ばれる宗教の源流である。
曹操はこの方面を後回しにして、まずは南方への勢力拡大を目論んだ。

ときに荊州(湖北)では、専守防衛に徹していた刺史の劉表が67歳で世を去った。
劉表死後には庶子の劉琮が荊州政権を受け継ぐが、劉備という武将が、劉表の長子・劉琦を擁してこれに対立した。そこに曹操軍が侵攻を開始する。
劉琮は抗戦を諦めて降伏したものの、荊州は恐慌状態となった。
ここには各地から知識人たちも流れ込んできており、「荊州学派」と呼ばれる一流派を形成している。彼らは急進的な政策を進める曹操を嫌い、劉備一派のもとに寄り集まった。
その代表というべき人物が、のちに伝説の名軍師と謳われる諸葛亮(しょかつりょう)に他ならない。

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(劉備と諸葛亮の出会い)

劉備(りゅうび)は前漢皇室の末裔とされるが、彼の代になるまでに家は零落に零落を重ね、貴族や豪族はおろか、一庶民に近いところまで落ちぶれていた。

河北の小さな村で母と蓆を織って暮らしていた青年劉備は乱世がはじまると勇躍して家を飛び出し、戦乱の渦のなかに身を投じた。
それから20年余り、彼の運命は変転に変転を重ねてきた。あるときは袁紹、あるときは袁術、あるときは公孫瓚に接近し、一時は徐州(安徽)の州牧となるも、たちまちその地を失った。
官渡の戦いの前夜には曹操の幕下にいたが、時流を読み違えて袁紹に呼応した結果、またも本拠を失って流浪の身となり、荊州の地に流れ着く。
とはいえ、彼は遠い先祖の高祖劉邦と同じように、周囲の人々を惹きつける奇妙な魅力を持っていた。数多の勇将知将が常に彼の背後に付き従い、戦乱に追われる名もなき民たちも劉備を慕ったという。

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(蜀漢の先主、昭烈帝・劉備)

さて、曹操軍に追われる劉備らは長江北岸に拠って、遠く東の孫権に支援を要請した。

孫権(そんけん)はかつて袁術の麾下にあった孫堅の子にして孫策の弟。このとき建安十三年(西暦208年)、27歳の若さで呉地(ごち; 長江下流域)に一大勢力を築いている。
劉備一派を荊州南部に追い込んだ曹操は、孫権にも降伏を要求した。呉地では降伏を唱えるものたちと、徹底抗戦を主張するものたちが連日論戦を繰り返した。
このとき魯粛(ろしゅく)という若い武将が堂々たる論陣を張った。

「天下の形勢を見るに漢室再興は既に成し難く、曹操を除くこともまた難し。されど北軍は長途の行軍に疲弊し、我に長江の険あり。されば劉備と結んで曹操軍を江上に邀撃すべし」

「されど曹操は官軍の威があろう」

「古い!」

魯粛は一喝する。

「もはや漢王朝の天命などは無い! 君は荊州を取って江の南北に割拠し、自ら天子を称されよ!」

孫権は驚愕した。魯粛はこの時代の誰もが常識としていた聖漢の永遠を認めぬばかりか、天子は地上にただ一人という絶対的な原則をも否定して見せたのだ。
孫権は大剣を振り上げて卓を両断し、息を呑む諸将に宣言した。
この孫権、断じて曹操の要求は受け入れぬ。余は劉備とともに彼奴を長江に迎え撃つと。

(※念のためですが、このあたりの描写もいつものようにデフォルメ&脚色しています)

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(赤壁の戦い)

曹操軍およそ十五万、孫権・劉備・劉琦連合軍はおよそ五万。
この年、帝国丞相となった曹操は大艦隊を漢水から発進させた。

「酒に対して当に歌うべし。人生幾何ぞ、譬ゆるに朝露の如し。去る日苦だ多し。慨して当に以て慷すべし。幽思、忘れ難し。何を以て憂いを解かん、惟だ杜康(美酒)あるのみ……」

千里の大江を埋め尽くす巨万の艦隊を見よ。今や天下は我が掌中にある。曹操はこの時53歳。まさに人生の絶頂にあった。
だが――。

洞庭湖を過ぎてまもなく曹操艦隊は連合軍と遭遇する。曹操は舟戦に慣れぬ華北の兵たちが陸地同様に戦えるよう、艦隊を鎖で連結して長江北岸に停泊させた。
これに対し、連合軍は一瞬の風向きを捉えて火船の群れを突撃させた。身動きがとれない艦隊はたちまち業火に包まれた。
この夜、長江は炎となって燃えた。北岸は紅蓮に染まり、人々はこの戦いを「赤壁の戦い」と呼んだ。
十五万の将兵を焦がす火焔の渦は、曹操の見果てぬ野望をもたちまち灰と化していった。

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(大艦隊炎上)

赤壁の大敗後、辛くも華北に逃げ帰った曹操の動きは精彩を欠く。30歳にして天下動乱の始まりに際会し、華北を制するまでに20年余り。気づいてみれば曹操はすでに老境に達していた。

「老驥は櫪に伏すも、志は千里に在り。烈士は暮年、壮心已まず……」

心を奮い立たせて曹操は西へ南へと兵を進める。関中・漢中を平定し、涼州の諸軍を従え、再び荊州に南下を図るが、天下一統は遠ざかるばかりだった。
一方、南では赤壁戦後に劉備が孫権から荊州の支配権を「貸与」される。これは孫権の謀臣、魯粛の策である。
魯粛は劉備を支援して荊州の支配を確立せしめ、彼を西方の守りとして呉国の防備を固め、やがて孫権を帝位に押し上げようとしていたのだ。

だが、劉備にも劉備の野心がある。
建安十六年(211年)、曹操の漢中進出を恐れた益州(四川)の劉璋(りゅうしょう; 劉焉の子)が東隣の劉備を招請すると、劉備はこれに応じて数万の兵を率いて益州に入った。
建安十九年(214年)、劉備は劉璋を放逐して益州を我が物とする。劉備への警戒を燃え上がらせた孫権が荊州返還を要求したが、劉備は言を左右にしてこれを拒んだ。
荊州は南北交通の要衝でもある。劉備と孫権の同盟に深い亀裂が入り、両者は急速に対立を深めていった。

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(薄緑色の領域が荊州、南部は未開の山岳地帯なので北部が重要)

建安十八年(213年)、曹操は献帝より「魏公」に封じられ、冀州十郡に及ぶ「魏公国」の主として公式に独自の行政府を開設する権利を得た。
さらに建安二十一年(216年)には「魏王」にのぼる。漢王朝では劉氏に非ざるものが王となることは禁忌とされてきた。それを冒した者は幾ばくもない。
いまや曹操は新の王莽に匹敵する位置まで上り詰めた。だが、ここで曹操ははたと停止する。「永遠なる聖漢」という神話は、彼ほどの人物をも呪縛したのだった。

鄴の魏王府と許都の朝廷とのあいだに微妙な緊張が続くなか、建安二十四年(219年)に劉備が定軍山で魏軍を撃破して漢中を奪取し、劉備股肱の猛将・関羽が荊州から北上を開始した。
だが、ここで荊州を垂涎していた孫権が動く。

劉備との融和を主張し続けた魯粛の死を受け、孫権はついに曹操に臣従を誓ったのだ。呉軍と魏軍が荊州を挟撃し、関羽は樊城で無念の戦死を遂げる。荊州の大半は孫権の手中に帰した。

翌建安二十五年(220年)1月。魏王曹操は見果てぬ野望に胸焦がしつつ、ついに還らぬ人となった。

曹操墓の真相

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(2009年に曹操の墓と思しきものが発見された)



三帝鼎立

魏王の位を継いだ曹操の子・曹丕(そうひ)は父以上に非情の人であったと伝えられる。兄弟たちを容赦なく蹴落として王位に就いた曹丕は、亡き父が踏み止まっていた一線を決然と踏み越えた。
曹操は後漢の献帝を庇護したが、それゆえに自ら帝位を奪うことは不可能となった。しかし曹丕にそうしたしがらみはない。
魏国はいまだ華北を制するのみであるが、であればこそ政権安定のためにさらなる権威が不可欠となる。
この年10月、ついに曹丕は献帝より皇帝の地位を譲り受ける。四百年にわたって続いた漢帝国に代わり、華北を版図とする魏帝国が誕生したのである。

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(魏の文帝・曹丕)

魏国と抗争中の益州政権は当然これを認めない。数年前に「漢中王」を自称していた劉備は、前漢皇室の裔たる自らが漢の正統を継ぐと主張し、翌221年3月に成都で皇帝を称した。
益州(四川)の古名は蜀であり、劉備が建てた帝国は「蜀(しょく)」と通称される。ただし劉備やその臣下たちは当然自国を漢帝国としており、歴史学的には間を取って「蜀漢」と呼ばれることが多い。

劉備は最初に荊州を取り戻そうとした。
蜀漢政権を支える人士には荊州出身者が多く、彼らにとっても故郷奪還は望むところだった。また丞相・諸葛亮が論じるように、天下を目指すためには益州で専守するのみでなく、荊州を前進基地としなければならない。
そして何より劉備の脳裏を占めていたのは、半生を共にした忠臣、関羽を殺した呉への仇討だった。

221年7月、劉備は数万の軍を率いて荊州に打って出た。これを迎え撃つのは呉国の誇る名将、陸遜(りくそん)。
蜀漢軍が船を降りて内陸に入ると、陸遜は山上に連なる蜀漢の陣地を一斉に焼き打ちした。船団との連絡を絶たれた蜀漢軍は総崩れとなる。呉軍は蜀漢軍を執拗に追撃し、何万もの損害を与えた。
命からがら白帝城に逃げ込んだ劉備は精力を使い果たし、丞相・諸葛亮にすべてを託して波乱の生涯を終えた。

荊州奪還は成らず、蜀漢政権は益州逼塞を余儀なくされる。創業の君主と大軍を一時に失った蜀漢は動揺を極め、諸葛亮は収拾に奔走することになる。

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(呉の大帝・孫権)

この頃、呉は重大な選択を迫られていた。
劉備の自滅により、魏帝国に対抗し得るのは呉一国となった。孫権は魏帝に名目的な臣従を誓っていたが、協定に実質はない。曹丕は服従の証として、孫権に人質供出を命じた。
そこに蜀漢の諸葛亮から同盟復活の懇請が届く。これを受けた孫権は魏への臣従を破棄し、独自の元号を制定した。
曹丕は憤怒し、自ら十数万の兵を率いて南征の途に就いた。各地の砦に拠る呉軍は専守防衛に徹し、魏軍は無人の野を行くように進撃した。
しかし曹丕が長江北岸に到達したとき、激しい寒波が江上を蔽い、河面は見渡す限り凍結した。薄い氷がひび割れ、波に押し流されては再び凍る。これでは船を出すことも、馬で氷上を越えていくことも不可能である。

――嗟乎、固天所以限南北也(ああ、もとより天の南北を限る所以なり!)

深い深い嘆息とともに曹丕は呉国征服を断念する。それは魏と呉と蜀漢と、中華三国の国境がほぼ確定した瞬間であった。

孫権は太和三年(229年)、ついに皇帝を称し、「呉帝国」を創建する。
中華に三人の皇帝/天子が鼎立するという未曾有の大分裂、世にいう「三国時代」がはじまったのである。

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(三国時代の到来)

――天に二日なく地に二王なし。

天下が一つである限り、皇帝/天子が複数存在することはあり得ない。天下に三帝がいるのであれば、そのうち二帝は天命なき僭偽の天子ということになる。

魏帝国は華北中原を制し、漢朝最後の皇帝から公式に帝位を譲り受けた。とはいえ魏帝国が天下一統を果たしていないことは誰の目にも明らかである。
魏は権威の欠損を補うために「礼制改革」を行なった。その要となるのは皇帝祭祀の改変である。
そもそも皇帝/天子は天帝の代理者として地上世界に君臨し、天下でただひとり天帝を祀る権利を持つ。しかるに現在では蜀漢や呉、さらには遼東公孫氏までもが天を祀っているという。
そこで魏は、大儒・鄭玄が唱えた「六帝説」を採用した。これによれば天には世界を構成する五大要素(五行)に対応する五柱の天帝と、それらすべてを超越する至上の「昊天上帝(こうてんじょうてい)」が存在するとされる。
魏帝国にいわせれば、他の政権が祀っているのはあくまでもローカルな五帝のいずれかであり、魏だけが最高神たる昊天上帝を正しく祭祀しているのだという。

――文章は経国の大業にして不朽の盛事なり……

曹丕は大いに文学を論じ、学問を奨励し、もって魏こそが天下の主たることを証だてようとした。


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(蜀漢帝国丞相・諸葛亮、字は孔明)

一方、蜀漢は劉備が前漢の末裔であることを根拠として、漢帝国の正統を受け継ぐものと自任した。だが、現実の蜀漢政権は辺境に押し込められ、天下を制するには程遠い。
加えて蜀漢政権の構成者たちはほとんどが河南や荊州の出身で、益州の人々にとって異国人でしかない。
蜀漢は自らの存在意義を証明するため、闇雲な「北伐」を繰り返すことを宿命づけられた。

先帝業を創め、未だ半ばならずして中道に崩殂す。いま天下三分し、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり。
然れども侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追ひ、之を陛下に報いんと欲すればなり。
誠に宜しく聖聴を開張し以て先帝の遺徳を光らかにし、志士の気を恢弘すべし……

――臣は本より布衣、躬ら南陽に耕す。苟くも乱世に性命を全うし、聞達を諸侯に求めず。
先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、臣を草廬の中に三たび顧み、臣に諮るに当世の事を以てす。
是に由りて感激し、遂に先帝を許すに駆馳を以てす。後傾覆に値ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年なり……

――今南方已に定まり兵甲已に足る。当に三軍を奨率して北のかた中原を定むべし。
庶はくは駑鈍を竭くして姦凶を攘ひ除き、漢室を興復して旧都に還さん。此れ臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり……


(諸葛亮「出師の表」)


建興五年(227年)、丞相 諸葛亮は蜀漢帝国第二代皇帝 劉禅に「出師の表」を奉る。古来、これを読んで涙せぬ者は無しといわれる名文である。
諸葛亮はこれより五度にわたって秦嶺を越えて兵を進めるが、魏軍はこれをよく防いだ。
諸葛亮は何ら成果を挙げることも叶わぬまま、建興十二年(234年)8月に五丈原の陣営で生涯を終える。
その後も蜀漢は間歇的に「北伐」を繰り返すが、最後まで目ぼしい戦果はなく、ひたすら国力を損耗するばかりであった。

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(このへん書いてるときのBGM)



上記二国に対して、呉国の称帝にはほとんど名分がない。
孫権は旧主袁術と同じように、漢帝国の「伝国の玉璽」や各地の瑞祥を皇帝即位の根拠としたが、まともに受け入れる者は少ない。
孫権の本音はもっと過激だった。彼は蜀漢に対して「二帝並尊」というとんでもない主張を行なった。蜀漢と呉は互いの称帝を正統なものとして相互承認し、魏国打倒のあかつきには天下を山分けしようというのだ。
かつて魯粛が喝破したように、呉国では「皇帝/天子は唯一独尊」という原則自体がなかば放棄されたのだった。

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(このあたりの重点参考資料)


220年代半ば以後、三国の戦線は膠着状態となった。各国は互いに争うよりも、むしろ内部の充実と外域への拡張に力を入れる。

呉は華南各地の山岳地帯に居住する山越の討伐に精を出し、嶺南で事実上の独立政権を築いていた士燮の死に乗じて南海まで実効支配を広げる。
蜀漢は北伐開始に先立って雲南に兵を進め、後顧の憂いを絶つとともにベトナム・ビルマとの交易ルートを獲得しようとした。
そして魏は、諸葛亮の死によって南西からの脅威が消えるやいなや、目の上の瘤となっていた遼東公孫氏の討伐を決定する。

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(遼東と朝鮮)

遼東侯」を名乗る公孫氏の政権は四代にわたって遼東から北部朝鮮におよぶ広大な地域を統治してきた。称帝こそしなかったものの自ら天を祭り、勢威は事実上皇帝に等しかった。

第二代遼東侯の公孫康は楽浪郡に進出し、コグリョ(高句麗)王国と激突する。その頃コグリョは第9代国王コナンム(高男武; 故国川王)の時代で、賢臣イツパソ(乙巴素)を国相として王権強化に努めているさなかだった。
コグリョは一度は遼東軍を撃退したが、王族の寝返りもあって209年に建国以来の王都チョルボン(卒本)を失い、南東のトング(通溝)に遷都を余儀なくされた。
プヨ(扶余)やハン(韓)など、朝鮮半島周辺の諸勢力はおおむね遼東侯に靡いた。

この頃からワ(倭)という名前で知られるようになった朝鮮半島南方の列島では、光武帝に金印を授与されたツクシのナ(奴)王国が長く権威を誇ってきたが、帝国衰退に伴ってナ王の勢威も衰えた。
百余の国が争う大乱となったが、やがて諸国はヒミコ(卑弥呼)と呼ばれる女性祭司を共同君主として擁立することになる。定かな証拠はないが、ヒミコが遼東侯に遣使して王位を公認されたのは推測に難くない。


さて、遼東公孫氏は名目的に魏に従っていたが、230年から呉の孫権が幾度か遼東に使者を送って公孫氏との同盟を試みた。
第四代遼東侯の公孫淵はこれに色気を出し、魏と呉を両天秤にかけて呉からは「燕王」、魏からは「楽浪公」の称号を得た。しかしそうした姿勢は当然ながら魏の疑いを呼ぶ。

景初元年(237年)、魏帝国第二代皇帝の曹叡(明帝)は公孫淵に帝都洛陽への出頭を命じた。公孫淵がこれを黙殺したことにより、魏と遼東は決裂した。
翌年1月、魏帝国の太尉(国軍司令官)司馬懿(しばい)が四万の軍を率いて遼東に侵攻する。
得意の急行軍を重ねて百日で遼東に達した司馬懿は、公孫淵の本拠・襄平(現在の遼陽省遼寧市)に昼夜を分かたぬ猛攻撃を加え、公孫淵の降伏申し出を一蹴し、城が落ちるや徹底的な虐殺を敢行した。
公孫淵は斬殺、15歳以上の男子は皆殺し、公孫氏に仕えていた二千人以上の官吏・将校を処刑。殲滅の一語に尽きる。
これをもって公孫政権は完全に崩壊し、東夷諸国は尽く魏帝国に遣使臣従した。

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(同年内に遣使した卑弥呼に対し、魏帝国は「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡を下賜した)


簒奪順延

鮮やかな手並みで遼東を征服した司馬懿は、このとき60歳になる。
彼は学者の家に生まれ、幼い頃から儒教道徳を骨の髄まで叩き込まれて育った謹厳な人物である。ところがその一方で、彼には端倪すべからざる政治と戦争の才、そして恐るべき権謀家としての素質があった。

司馬懿は20代の頃に曹操に召し出されるが、初めは病気(関節麻痺)を装って出仕を拒否した。仮病を疑った曹操の手の者が夜更けに寝床の中の司馬懿を針で突いたが、司馬懿はまったく身動きせずに関節麻痺を装い通した。
そんな司馬懿もかくかくしかじかの事情の末にやむなく魏国に仕えることとなるが、曹操の子の曹丕(文帝)とは相性がよかったらしく、側近として重用される。
曹丕の呉国遠征に際しては許都の守りを委ねられ、曹丕が病に倒れると太子・曹叡(明帝)の後見役に任じられる。

228年、荊州で孟達という部将が蜀漢に通じて反乱を起こした。この時はじめて前線指揮をとった司馬懿は、千二百里(約520キロ)の道を8日で駆け抜け、あっという間に孟達を討ち滅ぼした。こうして司馬懿の卓越した軍事的才能が顕現する。
その後は関中で蜀漢の侵入を阻止する任に当たり、諸葛亮とのあいだに虚々実々の駆け引きを繰り広げる。
そして238年には疾風迅雷のごとき遼東征服を達成する。この遠征から帰還する途次に、彼の運命が大きく旋回をはじめたのだった。

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(司馬懿)

河内郡まで戻ってきた司馬懿は、続けざまに二通の詔書を受け取った。一通にはこのまま駐屯地の長安に向かうように、もう一通には皇帝の自筆で直ちに洛陽に参内するようにと記されていた。
異変を察知した司馬懿は四百里(約175キロ)の道のりを一昼夜で駆け抜けて洛陽に入る。そこで彼が見出したのは、別人のようにやせ衰えて病床に横たわる明帝・曹叡の姿だった。

後漢帝国に付きまとった呪縛を受け継いだかのように曹叡は35歳の若さで崩御し、わずか8歳の皇太子、斉王・曹芳が魏国の帝位を継ぐこととなった。
曹芳の後見役は皇族の大将軍・曹爽(そうそう……ややっこしい)と、事実上国軍を掌握している司馬懿の二人だった。
曹爽にしてみれば司馬懿の存在は不安要素そのものである。彼はことあるごとに司馬懿の排斥を図り、正始八年(247年)にはついに司馬懿を引退に追い込んだ。
まあ司馬懿もすでに69歳、政権を去るのはむしろ自然な流れであったともいえよう。しかし司馬懿は自分を失脚させた曹爽一派への復讐の炎を胸中に燃やしていた。

引退した司馬懿は徹底的に老衰を装った。
曹爽の取り巻きが見舞いと称して様子見に来ると、散々聞き間違いを繰り返し、粥をダラダラとこぼし、あげくに失禁までして見せた。
あまりの有様に偵察に来た相手の方が涙ぐむほどだったという。

「司馬老公ももう終わりですな。あの有様では再起不能でしょう」

曹爽一派は完全に警戒を解き、嘉平元年(249年)1月に皇帝・曹芳に随行して帝都を出た。この一瞬の隙をついて、71歳の司馬懿はクーデターに打って出た。
瞬く間に軍部を掌握し、一族郎党を洛陽の要所に配置し、皇太后に奏上して曹爽罷免の言質を取り、完全武装の軍隊を率いて洛水の浮橋に布陣。曹爽一派は尽く捕えられ、反逆罪によって三族に至るまで処刑されたという。

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(第四章が司馬懿の権謀術数を扱っている)


果断にして老獪、そして冷酷。
魏国の建国者曹操は「余が他人を裏切ることは構わぬが、他人が余を裏切ることは決して許さぬ」という言葉を残した。
司馬懿もまた同じ素質を存分に発揮した。
平和と繁栄を謳歌する後漢帝国のもとで生を受けた人々は、いつどこで何を目にして、容赦なき乱世の論理に適応していったのだろうか。

『晋書』地理志によれば、後漢帝国末期の人口はおよそ5600万。
それが漢末三国の大動乱を経て、今や三国あわせても戸籍上の人口は800万人以下にまで激減している。
むろん本当に人口が7割も減ったというのは単純に過ぎる。実際には国家の統制の届かない豪族の荘園に囲い込まれた者たちや、流民として各地を彷徨う者、あるいは中華の域外に逃散した者たちも少なくないだろう。

とはいえ、2世紀後半から3世紀にかけての中華世界が尋常ならぬカタストロフに直面していたことは疑いない。
既存の秩序や価値観は次々に基盤を失って崩れ去り、古来の共同体は解体し、人はバラバラの個人となった。倫理道徳は力を失い、文学から性愛にいたるまで刹那の快楽と激しい悲哀が時代の文化を彩った。


曹爽打倒によって魏帝国の実権を握った司馬懿は二年後に世を去るが、もはや皇族曹氏に力が戻ることはなかった。
司馬懿の権謀と野望は長男の司馬師、次男の司馬昭、そして孫の司馬炎へと受け継がれていく。
そして泰始元年(265年)、ついに魏帝国より禅譲を受けた司馬炎は中華世界における第四の王朝、「晋帝国」を建国する。

司馬炎すなわち「晋の武帝」のもとで三国統一が達成されるのは、黄巾の乱から96年を経た西暦280年のこと……。
だが、晋による統一も長くは続かない。三国動乱の陰で息を潜めていた匈奴が、鮮卑が、羌族が、ついに中原に雪崩れ込む。
かくて漢末三国をはるかに凌駕する「五胡十六国」の大動乱、そして「魏晋南北朝時代」が到来することになるだろう。

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