世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史30 覇権のゆくえ

英雄の末裔たち
 ※前章「イスラーム世界の歴史29 征服者の時代」の姉妹編ないし続編です。
 ※中央アジアの動向はティムール後半生とその後の話、「イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐」を引き継いでいます。一部重複あり。


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(ジョチ・ウルスの領域)

モンゴル帝国がユーラシア大陸の過半を制してより、すでに二世紀の歳月が流れた。帝国は解体の一途を辿っている。それはここ、西北ユーラシアのジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)でも例外ではない。

チンギス・カンの長子ジョチに始まるジョチ・ウルスは、ジョチの長男オルダを祖とする東のオルダ・ウルス(白帳国)と、ジョチの次男バトゥを祖とする西のバトゥ・ウルス(青帳国)の連合体で、ともすれば東西に分離しがちな傾向を持っていた。
当初全体を統べていたのはヴォルガ河畔のサライに都するバトゥ家のカン(王)だったが、1359年にバトゥ家第13代のベルディベク・カンが弑逆されるに至り、バトゥ・ウルスは「ザミャーチナヤ・ヴェリカヤ(大いなる紛乱)」に突入する。
これに介入を試みたオルダ家も混沌の渦に飲み込まれ、かわって台頭したのはジョチの十三男、トカ・テムルの子孫たちだった。

14世紀末、トカ・テムル家のトクタミシュが一時的にキプチャク全土を再統一するが、中央アジアの覇王ティムールの介入によって、彼の政権はたちまち瓦解する。
15世紀初頭にはマンギト部のエディゲとヌラディンがノガイ・オルダと呼ばれる勢力を築き、トカ・テムル家のテムル・クトルグを旧都サライでキプチャクのハン(=カン)として奉戴した。この政権は「大オルダ」と呼ばれる。
しかし混乱はまだまだ続く。

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(アフマド・ハンの手紙を破り捨てるイヴァン3世)

西ではリトアニア大公国がジョチ・ウルスの混乱に乗じてキエフ以西を奪い、黒海に向かって進出を開始した。
1430年代に大オルダで王位継承争いが起こると、王族ハージー・ギレイがリトアニアの支援を受けて黒海北岸にクリミア・ハン国を建国。また、別の王族ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流でカザン・ハン国を建てた。
加えて西北の属領ルーシ(ロシア)では、モスクワ大公国が周辺諸国を次々に併合して強大化。1480年にはモスクワ大公イヴァン3世がサライのアフマト・ハンを戦わずして退けた。
これをもって大オルダのハンの権威は完全に失墜し、その後裔はヴォルガ河口のアストラハンで細々と余喘を保つこととなる。

ジョチ・ウルス分裂
(ジョチ・ウルス崩壊後の西北アジア、グレーは旧バトゥ・ウルス、薄紫は旧オルダ・ウルスの後継政権)

一方、かつてオルダ・ウルスの統治下にあったキプチャク平原東部は独自の歴史を歩みはじめる。
1428年頃、旧ジョチ・ウルスの東北の果て、ウラル山脈を越えたチンギ・トゥラの地で、ジョチの五男シバンの血を引くアブル・ハイルという人物がハンを名乗って自立を宣言した。
遠く匈奴の時代より、遊牧国家の君長は民を飢えから遠ざけ、富を与える責務を負う。
1431年、アブル・ハイルはホラズム地方への略奪遠征を敢行し、ティムール朝の軍勢を蹴散らしてシル川中流の諸都市を占領した。平原東部の諸部族は相次いで彼に帰服した。

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(かつて「キプチャク平原」と呼ばれたカザフスタンの原野)

1449年、ウルグ・ベクの横死によってティムール朝で内乱がはじまる。このときアブル・ハイルはティムール朝の王族アブー・サイードの求めに応じてマー・ワラー・アンナフルに出陣した。
ティムール朝の人々はジョチ・ウルスの黄金時代を築いたウズベク・カンにちなみ、北の遊牧民を「ウズベク族」と呼んでいた。
アブル・ハイル率いるウズベク族はティムール朝の王族たちを片っ端から薙ぎ倒し、あっという間にアブー・サイードをサマルカンドに入城させた。
アブー・サイードはウズベク族のあまりの強さを恐れてアブル・ハイルの軍勢を城外に留め、莫大な財宝と王女を贈って早々にお引き取り願った。
その後もティムール朝の王族たちは内乱のたびにウズベク族の援助を求め、何とかしてアブル・ハイルを自軍に引き込もうと悪戦苦闘した。

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(アブル・ハイル)

しかしアブル・ハイルは1456年、はるか東方から来寇したオイラトと呼ばれる勢力に大敗し、急速に勢威を失った。
彼が旗揚げしたチンギ・トゥラではケレイト族のタイ・ブカが、アブル・ハイルと同じくシバンの血を引くイバク・ハンを擁立して独立した。
この政権はシバンにちなんで「シビル・ハン国」と称され、後にはこの地方のみならず、大陸北部の全域が「シベリア」と呼ばれることになる。
また、アブル・ハイルを見捨てた南部の部衆たちはケレイとジャニベクという二人の指導者に率いられ、モグーリスターンの地へ去って行った。その数、実に20万という。
彼らは「カザフ」(自由の民)と称し、やがてはアルタイ山脈からウラルに至る巨大な勢力圏を築くことになる。

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(カザフの作家エセンベルリンがアブル・ハイルの時代を描いた小説)



ティムール朝の落日

1467年にティムール朝のアブー・サイードが白羊朝に敗れて殺害されると、王朝はサマルカンドとヘラートの二政権に分裂した。
サマルカンドの君主はアブー・サイードの子アフマド・ミルザー。ヘラートの君主は別系統の王族フサイン・バイカラ。どちらの政権もあまり強力ではなく、地方の王族や領主たちが私戦を繰り返した。

一方、この時期ティムール朝は文化面で絶頂を極める。画聖ビフザードや詩人ジャーミーなどの天才たちが続々と出現し、自らも文人として名高かったフサイン・バイカラと宰相ナヴァーイーが彼らを厚く庇護した。
この時代を生きたとある人物は、フサイン・バイカラとその宮廷について、次のように記している。

「彼はヘラートのごとき都を手中にすると、夜となく昼となく、ただ歓楽と快楽の追求に明け暮れた。たんに彼のみではなかった。その部下・臣下たちのうちで歓楽・快楽を追求しない者はいなかった。
彼は世界征服とか出兵の苦労をしようとしなかった。その結果、必然的に、時がたてばたつほど、家臣や領地は減少し、増加することはなかった」

その有様は同時期日本の足利政権や、ルネッサンス期イタリアの諸侯を彷彿させる。王侯たちが華麗な宮廷生活に明け暮れるなか、破滅が次第に迫りつつある。

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(フサイン・バイカラ)

ヘラートやサマルカンドから遠く離れた北の草原にムハンマド・シャイバーニーという男がいる。オイラトに敗れ、カザフに離反され、衰勢のうちに没したアブル・ハイルの孫である。

アブル・ハイルが死んだのはシャイバーニーが17歳の時だった。周囲の諸勢力がアブル・ハイルの遺領に殺到し、ウズベク族は四散した。
アストラハンに身を寄せたシャイバーニーは大オルダのアフマト・ハンに攻撃され、屈辱をこらえて恭順を誓った。ノガイの君侯が彼を擁立すると、すかさずカザフの軍勢が攻め寄せた。
シャイバーニーは二十歳になる前から非情な草原の世界で戦いはじめた。自分の魂のほかに信じる友はいなかった。自分の心のほかに秘密を語る仲間はなかった。
シャイバーニーは文字を知らず、詩も解さない。青春も安らぎも彼には無縁だった。殺戮と暴虐、怒号と乱刃のなかで彼の半生は過ぎていった。

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(ムハンマド・シャイバーニー)

その頃、天山山脈北部を領するモグール人(東チャガタイ・ウルスの人々)が新興のカザフやオイラトの圧迫を受け、次第に南下と定住の動きを見せていた。
1480年代に入るとモグール王のユーヌス・ハンがティムール朝サマルカンド政権の王族ウマル・シャイフと結び、シル川北岸のタシケントに進出。危機感を覚えたアフマド・ミルザーは北の草原からシャイバーニーと三千人のウズベク戦士を招いた。
しかしサマルカンドの人々は荒事をウズベク人に押しつけながら、彼らを蛮族として蔑んだ。シャイバーニーには雇い主への忠誠心など欠片もなく、せいぜいこれを利用して成り上がってやろうとしか思っていない。

1488年、モグール人とアフマド・ミルザーがタシケント近郊のチルチク川で衝突した。両軍が交戦をはじめた直後、突然シャイバーニーのウズベク部隊がモグール側に寝返った。
サマルカンド軍は大混乱となり、ある者は川に飛び込んで溺死し、ある者は算を乱して逃走した。シャイバーニーはシル川北岸のヤシという町を占領し、ここを拠点に独立の旗を掲げた。
ウズベク諸部族はアブル・ハイルの孫を慕って続々とヤシに集まりはじめた。シャイバーニーはウズベク再興の野心を抱きはじめた。
好機は程なく訪れた。1494年にアフマド・ミルザーが急死し、サマルカンド政権が王位継承をめぐって混乱状態となったのだ。

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(チルチク川)

1497年秋、サマルカンドを手にしたアフマド・ミルザーの甥、バーイスンクルが同族たちに攻め立てられ、シャイバーニーに支援を求めて来た。シャイバーニーは直ちに応じた。
アミール(領主)たちはウズベク接近を知るや蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。シャイバーニーは一度も剣を抜かずに北部マー・ワラー・アンナフルを駆け抜けた。

「タジク(定住民)は弱い……!」

シャイバーニーが率いる騎兵は数百に過ぎないが、彼はこのままティムール朝の王族たちもバーイスンクルも両方追い払ってサマルカンドを奪い取るつもりだった。それができる自信もあった。
サマルカンド包囲軍の主力はウマル・シャイフの息子、ザヒールッディーン・バーブルという若僧だという。当然そ奴もウズベク軍が迫ればすぐに逃げ出すだろう。
ところがその予想は見事に裏切られた。バーブルの拠るホージャ・ディーダール城の目の前をウズベク軍が駆け抜けようとする間際、突然城門が開け放たれて一団の軍勢が出撃してきたのだ。

「タジクにも骨がある奴がいたか!」

瞬間、シャイバーニーは馬首を翻した。ウズベク全軍が主将に倣って180度針路を変える。今度の遠征にはケチがついた。バーイスンクルの運命など知ったことではない。

数ヶ月後、シャイバーニーはバーブルがサマルカンドを手にしたことを知った。とくに不思議はない。今のタジクでウズベク軍に立ち向かう気骨を持っていたのはあの若僧だけなのだから。
ただ、バーブルの年齢を聞いたときにはさすがのシャイバーニーも驚いた。

「14歳だと!?」

まだほんの子供ではないか。なんとも末恐ろしい奴がいたものだ……そう呟いて、シャイバーニーは酒杯を呷った。


梟雄と少年

1500年のマーワラーアンナフル
(1500年のマー・ワラー・アンナフルの状況)

バーブルのサマルカンド支配はわずか三ヶ月で頓挫し、バーイスンクルの弟、スルタン・アリーが王都を手にした。シャイバーニーは虎視眈々と本格的な南下の機を窺う。

1500年春、スルタン・アリーと王族タルハンの紛糾が生じ、タルハンが東北からモグール軍を呼び込んだ。情勢が緊迫するなか、シャイバーニーは警戒手薄となっていた西のブハラを急襲陥落させた。
一方、東ではバーブルが態勢を立て直し、サマルカンド奪還を図って動きはじめた。このとき予想もしない誘いがシャイバーニーの元に舞い込んだ。
スルタン・アリーの実母ズフラ・ベギ・アーガーがシャイバーニーに再嫁してサマルカンドを譲渡する。代わりにシャイバーニーはティムール朝の他の王族たちを討滅し、彼らの領地をスルタン・アリーに与えてほしいというのだ。
シャイバーニーは直ちにブハラを出陣した。彼はこのとき49歳になっていた。

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(ホージャ・ヤフヤーの父、ホージャ・アフラール)

7月、サマルカンドに入城したシャイバーニーは、転がるように出迎えたズフラ・ベギ・アーガーとスルタン・アリーを冷たく睨んで処刑した。
ついでにティムール朝の人々に絶大な崇敬を受けていたナクシュバンディー教団のホージャ・ヤフヤーを二人の息子もろとも暗殺し、サマルカンド住民を震え上がらせた。
ひととおりの処理が済むと、シャイバーニーは郊外に出た。彼はサマルカンドの町自体ではなく、そこからの税収にしか興味がない。華麗な建築物や庭園など一向に彼の心をとらえなかった。
が、ここで驚愕の事態が起こる。あのバーブルがわずか240人の手勢とともにサマルカンドに潜入し、ウズベクの守備兵を殲滅して町を乗っ取ったのだ。

「若僧ッ……!!」

シャイバーニーは歯ぎしりした。

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(ザヒールッディーン・バーブル)

バーブルはフェルガナを領したアブー・サイードの四男ウマル・シャイフの子で、母はモグール王ユーヌス・ハンの娘だった。つまり父方でティムール、母方でチンギス・カンの血を引くことになる。
彼が11歳のとき、突然城の一角が崩落し、鳩小屋で鳩の世話をしていたウマル・シャイフも事故に巻き込まれて死んでしまった。
直後に父方の伯父にあたるアフマド・ミルザーと、母方の叔父にあたるモグール王のスルタン・マフムードがフェルガナ併呑を狙って来襲した。
少年バーブルは必死にこれを切り抜け、三年後には情勢混乱に乗じてサマルカンドをも手に入れた。
ところがまもなく本拠地フェルガナで反乱が起こり、これを鎮圧に向かう最中にサマルカンドも失われ、一朝にして流浪の身となってしまった。
常人の人生一つ分にも値する浮沈を経てきたバーブルは、いまだ17歳だった。シャイバーニーとはまる一世代分の年齢の差がある。

バーブルがサマルカンドを制圧すると、周辺諸都市も続々と彼に帰服した。劣勢に追い込まれたシャイバーニーはブハラ周辺の町々を落として住民を虐殺し、態勢立て直しに努めた。
翌1501年5月、ブハラとサマルカンドの中間でシャイバーニーとバーブルが戦端を開いた。このときシャイバーニーはバーブルの姿を間近に見た。
少年は夜明け時、数の不利を顧みずに果敢な攻勢をかけてきた。バーブル軍の先鋒がウズベク軍の右翼に取り囲まれ、バーブルの前ががら空きになる。
ウズベクの騎兵が殺到するが、バーブルは親衛隊とともに激しく剣を揮ってウズベク軍に立ち向かった。


――幾度となく我が方が波のように押し寄せ、幾度となく敵方がそれを退けた。

「シャイバーニーよ、シャイバーニーよ、進まねばならぬ! 止まっていてはだめだ!」

部下たちの叫びも耳に入らず、シャイバーニーは呆然と立ち尽くした。
同じ17歳のとき、自分は。
偉大な祖父のアブル・ハイルが暗殺され、ウルスの民は四散した。
遠い昔のチンギス・カンのように。深き水は涸れ。硬き石は砕け。影より他に伴はなく。尾より他に鞭はなく。
暮れなずむ草原を西へ、カザフの射手たちに追われて必死に馬を駆った。血塗れの剣を掲げてサライの戦士たちのあいだを駆け抜けた。

――バーブル。
貴様を羨む! あの頃の俺に、いま貴様の傍らで戦っているような忠臣たちがおれば!
とはいえ、バーブル。何物にも揺らぐことなき貴様の眼差しは。怯むことなく戦い続ける貴様の勇猛は。
昔日の俺と瓜二つだ……。

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(少年バーブルの出陣)

この戦いはウズベクの勝利に終わり、バーブルはサマルカンドに籠城する。シャイバーニーは一揉みに押し潰すつもりだったが、バーブルの防備には全く隙が無かった。
幾度か夜闇に紛れて城壁に迫ってみたが、歩哨の姿が絶えることはなく、しばしばバーブル自身が弓を手にして巡回する姿も見られた。
包囲は数ヶ月に及んだ。サマルカンド市内は飢餓状態になっているはずだが、バーブルの防備はまだ崩れない。冬が近づくころ、とうとうシャイバーニーは自分から和平の申し入れをした。
そして、シャイバーニーは初めてバーブルと対面した。

少年は意外と小柄で、穏やかな雰囲気をまとっていた。これまで甲冑に身を固めたバーブルしか見たことがなかったシャイバーニーは、ひどく意外な感じを受けた。
ひとつ訊いてみたいことがあった。

「もし俺が貴様なら、女子供やならず者を殺して口減らしをした。貴様は何故そうしなかった」

バーブルは驚いたようだった。一瞬その眼が怒りに燃えた気がしたが、すぐに拭ったような無表情に戻った。
彼は小声で何かを呟いた。何を言ったかはだいたい想像がつくので、聞き返そうとは思わない。
ともあれ和平は成った。バーブルは姉をシャイバーニーの妃とすることを条件に城を退去。シャイバーニーはティムール王家の血縁という権威を手にし、前より容易にサマルカンドを統治できることだろう。


バーブルと従者たちが夜闇のなかに消えたあと、シャイバーニーは珍しく笑い声をあげた。

「あの若僧、この国でただ一人アミール・ティムールの血をしかと受け継いでやがる。大した奴だ」
「シャイバーニー・ハーンよ、あの者、このまま引き下がるとは思えませぬ。いまのうちに殺すべきでは?」
「くだらん」

シャイバーニーは一言で断じた。

「あの若僧の眼を見たか。アフマト・ハンに跪かされた時の俺と同じ眼をしていやがった。むざむざ殺されるタマじゃねぇ」
「気に入られたのですか?」
「ああ……あの若僧と次に戦うのが楽しみだ」

しかしシャイバーニー・ハーンとザヒールッディーン・バーブルが、戦場で再び相見えることはなかった。

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(のちにインドのムガル帝国を建国するバーブルの自伝)



無謬の救世主

その年、西暦1501年。
サマルカンドの西方、二千キロあまり――東部アナトリア、エルジンジャンの地にて。

「――ぼくは、あの国を滅ぼしたい」
少年は天使のように微笑んだ。紅の帽子を戴く七千の男たちが衝天の叫びで応じた。

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(サファヴィー朝の建国者、シャー・イスマーイール1世)

イラン高原では一代の英傑ウズン・ハサンが1478年に世を去ったあと、白羊朝は王位をめぐる内乱で衰えた。
混迷のなかで頭角をあらわしたのは、かつてウズン・ハサンが庇護した「アルダビールの聖者」、サファヴィー教団の教主シェイフ・ジュナイドハイダルの父子だった。

サファヴィー家の教主はシーア派イマームとサーサーン朝ペルシア王家の血を引くと称し、東部アナトリアの遊牧民たちに神のごとく崇拝されていた。
ウズン・ハサンに庇護されたシェイフ・ジュナイドは単なる飾りに甘んじる気はさらさらなく、1460年に信徒を率いてカフカス山脈のシルカッシア人討伐に赴くも、雄図虚しく討死した。
その数ヶ月後に生まれたのがハイダル。信徒たちは彼を「神の子」と呼んだという。
ハイダルはある時夢で第4代正統カリフにしてシーア派初代イマームたるアリーに出会い、12の赤い巾を持つ帽子を与えられた。
彼は信徒たちにも同じ帽子を被らせた。人々は教主のために死をも恐れず突撃するサファヴィー教団の戦士たちを「クズルバシュ(紅帽の徒)」と呼んで恐れ憚った。

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(クズルバシュ)

ハイダルはウズン・ハサンの妹を母として生まれ、ウズン・ハサンの娘を妻とした。いわば白羊朝の傍系王族のひとりとして、ウズン・ハサンの子や孫たちとときに提携し、ときに争いながらアゼルバイジャンに勢力を広げていく。
だが1488年1月、エルブルーズ山麓のダルタナットで白羊朝とシルヴァーン・シャー朝に挟撃され、ハイダルは壮烈な討死を遂げた。

ハイダルには三人の幼い遺児がいた。彼らは信徒に守られ、白羊朝の追及を避けて各地を転々とするが、ひとりまたひとりと追いつめられて殺される。
そして最後に残ったのが、ハイダルの死の直前に生を受けた末子イスマーイールだった。
いまやただ一人のサファヴィー家の生き残り。
そして預言者ムハンマドの娘ファーティマとイマーム・アリーの血を、サーサーン朝ペルシア皇帝ヤズデギルドの血を、白羊朝の英主ウズン・ハサンの血を、さらには白羊朝を経由してビザンツ帝国コムネノス王家の血をも引く究極の貴種。
彼を見たものは幼い少年の白皙の面に心を奪われ、漆黒の瞳に魂を呪縛された。

――あまりに美しすぎて邪悪なものを感じさせるほど。
のちにそう評されたイスマーイール。
西暦1501年、エルジンジャンの地に七千人のクズルバシュを召集したイスマーイールは、天使のように微笑んだ。
「ぼくは、あの国を滅ぼしたい」

これより13年間、イスマーイールとクズルバシュの戦士たちは伝説の主人公となる。

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1501年夏、少年イスマーイールに導かれたクズルバシュたちはタブリーズを占領した。イスマーイールは14歳にして「パーディシャーヘ・イーラーン(イランの帝王)」の座に就いた。「サファヴィー朝ペルシア」の成立である。
この地で彼は、シーア派十二イマーム派をイランの国教にすると宣言した。
サファヴィー朝に制圧された諸都市では、斧を担いだ役人が、シーア派が簒奪者と見なしている正統カリフのアブー・バクルとウマルとウスマーンを呪詛して通りを練り歩き、これに賛同しない者はたちどころに絞首された。


クズルバシュはシャー・イスマーイール1世を神の化身と信じ、「ムルシデ・カーミル(完全なる導師)」と呼ぶ。

「さてさて困ったものだ。ぼくは神ではないよ」
血臭ただよう帝国の中心で、聖なる少年は微笑んだ。
「ぼくはアッラーではなくて、ただのマフディー(救世主)だ。間違えないでほしいな」


クズルバシュは再び進撃を開始する。シャー・イスマーイールの征くところ、あらゆる敵は雪崩を打って潰走した。無数の諸都市が抵抗もせずに降伏した。イラン高原全土が瞬く間にサファヴィー朝の旌旗に覆われていく。
そして1510年秋、ついにイスマーイールはウズベクのシャイバーニー・ハーンと出会う。

60歳の梟雄と23歳の常勝王はメルヴ近郊で激突した。偽装退却するサファヴィー朝軍に誘い出されたシャイバーニーは無数の伏兵に四方を襲撃され、乱戦のなかで討死した。
イスマーイールは本陣に運び込まれたシャイバーニーの首級を興味深げに覗き込んだ。

「可哀想に。すごく恨めしそうな顔をしてる」
天使のような微笑みを浮かべて青年は言った。
「さあ、シャイバーニーを綺麗に飾ってあげよう。肉を削って骨を磨いて金箔を貼り付けて、マフディーの酒杯にしてあげよう」
クズルバシュたちは狂熱の叫びをあげて彼らの主君に応じた。

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(シャー・イスマーイールとシャイバーニー・ハーンの戦い)

シャイバーニーの死によってウズベク勢力は無主となり、大きく混乱した。
このとき、9年前にシャイバーニーに敗れたバーブルは28歳になっている。
アフガニスタンのカブールを拠点にティムール朝の最後の小王国を営みつつ、いまもサマルカンド奪還の夢を捨てていない。

メルヴの戦いの結果を知るやいなや、バーブルは直ちに出陣した。北に進軍しながらイスマーイールに使者を送り、サファヴィー朝への臣従とシーア派改宗を約して支援を要請する。イスマーイールはこれを快諾した。
1511年10月、バーブルは6万の大軍を率いてサマルカンドに帰還した。住民たちは歓喜の声をあげてバーブルの軍勢を迎えた。
ところがバーブル本人の入城とともにどよめきがあがった。バーブルは赤い12の巾ある帽子を被り、公然とシーア派の標を身にまとっているではないか。

サマルカンドの住民たちはサファヴィー朝のもとで正統カリフたちが侮辱され、学者や法官が次々に処刑され、シーア派に改宗せぬ者たちが弾圧されていることを伝え聞いていた。
人々は街を巡回するバーブルから視線を逸らし、物資の供出を渋った。
民衆の支持を得られなかったバーブルは翌年11月にシャイバーニーの子ウバイドゥッラーに大敗し、サマルカンドを放棄してカブールに撤退した。マー・ワラー・アンナフルは再びウズベクの国となった。

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(バーブル・ナーマの訳注者によるバーブル伝)


さて、東の敵を滅ぼしたイスマーイールは西に目を向ける。
アナトリアとバルカン半島にまたがる大国、オスマン帝国……。そこではメフメト2世征服王の死後、祖父のムラト2世に似て敬虔なバヤズィット2世が国を治めている。

イスラーム神秘主義に関心が深いバヤズィットは、当初サファヴィー教団に好意的だった。しかしイスマーイールの急激な台頭が両国の緊張をもたらした。
東部アナトリアの遊牧民たちはクズルバシュ同様にイスマーイールを神の化身と信じ、次々に国境を越えてサファヴィー朝に流れ込んだ。
さすがに危機感を覚えたバヤズィットは、サファヴィー朝に同調する者たちをバルカン半島に強制移住させはじめた。一方、サファヴィー朝は1507年にオスマン帝国の属国ドゥルカディルに侵攻する。
そして1511年、事態は決定的な局面を迎える。サファヴィー朝の檄文に応じた東部アナトリアの遊牧民たちが、「シャー・クル(王の奴隷)」と称する人物に率いられて大反乱を起こしたのだ。
この危機のさなか、オスマン帝国の帝都イスタンブルでクーデターが発生した。


神々の黄昏

我が名はシャー・イスマーイール、神の秘密なり。
これら全ガーズィーの頭なり。
我が母はファーティマ、我が父はアリー、そして我自身は十二イマームの長なり。
余はイスマーイール、この世に来たり。
余はアリーなり。アリーは余なり。

完全なる導師が来たぞ。すべてのイマームなり。
全ガーズィーよ、歓喜せよ。預言者の封印が来たぞ。
真実の体現であるぞ。跪け。
サタンに従うな。アダムが再び衣を新たに纏ったぞ。

神が来たぞ。神が来たぞ。
マフディーの時代が始まるぞ。
未来永劫の光が世にやってきたぞ。


(安藤史朗訳、シャー・イスマーイールがクズルバシュに与えた詩)



バヤズィット2世には三人の息子がいた。長男と次男は良くも悪くも平凡だったが、三男のセリムだけは際立った軍事の才を示してイェニチェリたちに支持されていた。
しかしセリムには人を人とも思わぬ冷酷さがあり、父王バヤズィットに嫌われていたという。

1512年4月24日。
バヤズィット2世がシャー・クルの反乱鎮圧に手こずるなか、帝都のイェニチェリたちがセリムを担いで蜂起した。
セリムは冷たい眼をしてトプカプ宮殿に乗り込むと驚くバヤズィットを玉座から突き落とし、配下の者たちに二人の兄と甥たちの処刑を命じた。
即位後、セリム1世は西のハンガリーと和睦してオスマン軍の態勢を立て直し、シャー・クルの反乱を徹底的に粉砕した。オスマン帝国全土のシーア派7万人のうち、4万人がセリムの命によって処刑された。
敵も味方もセリムの苛烈さに恐れおののき、彼をこう呼ぶことになる。

――ヤヴズ(冷酷王)。

セリムのクーデターの翌月、先帝バヤズィットが突然の死を遂げた。誰もが目くばせしあい、無言で確信を共有した。
冷酷王は、己の実の父をも手に掛けたのだと……。

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(セリム1世冷酷王)

実はセリムはかつてトレビゾンドの太守を務め、イスマーイールの台頭を間近で観察し続けていた。
だからセリムはイスマーイールの異様な求心力と、彼のためには生命を惜しまぬクズルバシュたちの狂熱を誰よりも警戒している。恐れているといっても良い。
1514年、セリム1世は6万以上、一説には20万ともいわれる大軍を率いて東征の途に就いた。コンスタンティノポリス包囲以来、これほどの大軍が動員されたことはない。名分は異端者への聖戦。目的はサファヴィー朝ペルシアの打倒である。

ŞahİsmayılXətai
(シャー・イスマーイール1世)

8月22日、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアの両軍は東部アナトリアのチャルディラーンで相見えた。

サファヴィー軍は1万2千とも4万ともいわれ、オスマン軍より明らかに少数だった。たしかにクズルバシュはいまだ敗北を知らぬ世界最強の騎馬軍団であり、君主イスマーイールは無謬の救世主。だが……
サファヴィー軍の左翼を受け持つ部将、ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーは一抹の不安を禁じ得なかった。

「オスマン軍のイェニチェリは精鋭で、その銃砲の威力は強力です。敵方の態勢が整う前に夜襲を……」
「馬鹿な!!」

大声でこれを遮ったのは右翼の部将、ドルミーシュ・ハーン・シャームルーだった。

「言葉を慎め! 貴様、我が陛下の神威を疑うのか!!」

不信者だ、不信者だ……囁きが軍議の席に広がる。が、イスマーイールは瞑目して口を開こうとしなかった。クズルバシュの諸将は常にない主君の様子に戸惑う。それでもドルミーシュはさらに言い募った。

「ウスタージャルーは田舎者よ! そんな合戦はディヤルバクルでやっておれ、これは王と王との決戦ぞ!」

王と王との決戦。この言葉が発せられた瞬間、イスマーイールは目を見開いた。

「イスカンダル・ズルカルナイン(アレクサンドロス大王)がダーラー(ダレイオス3世)との戦いを前にしたとき、夜襲を進言した者がいた。イスカンダルはこう言った。『私は勝利を盗まない』と」

27歳のイスマーイールは、いまも変わらぬ天使の微笑みを浮かべた。

「ぼくも、勝利は盗まない」

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(チャルディラーンの戦い)

翌朝、日の出とともにサファヴィー朝の騎馬軍団が怒涛の突撃を開始した。教主のためには死をも恐れぬクズルバシュ。その猛攻に押されてオスマン軍の右翼は崩れたつ。
が、セリムが右翼に送ったイェニチェリたちが一斉射撃を開始すると形勢が急変した。押し寄せるクズルバシュたちは次から次に銃撃を浴びて舞うように落馬した。
さらにオスマン軍の中央に据えられた大砲が火を噴き、支援に向かうサファヴィー騎兵を薙ぎ倒した。夜襲を進言したウスタージャルーは勇戦虚しく戦死した。
濛々と砂塵があがり、膨大な火力が紅帽の軍団を血と肉の塊に変えていく。イスマーイールは拳を握りしめたまま凝然と立ち尽くしていた。
信じられない。救世主が、救世主の軍隊がなにゆえ異端の徒に敗れつつあるのか。これは間違いだ。そうだ、何かの間違いに決まっている。

イスマーイールは白馬に乗って最前線に駆けだした。親衛隊が慌てて後を追う。
救世主の出陣にクズルバシュたちは奮い立ち、鬨の声をあげて馬首を揃えて突撃し……そして銃火に薙ぎ倒された。
砲弾がイスマーイールの目の前で炸裂し、馬が悲痛な嘶きをあげて棒立ちになり、救世主を振り落とした。

「陛下! お退きください! どうか、陛下!!」
クズルバシュが泣き叫んでいた。


――西暦1514年8月23日、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝ペルシアのシャー・イスマーイール1世は生涯最初の敗北を喫した。
致命的な敗北だった。
サファヴィー朝は西アジアの覇権をオスマン帝国に奪われた。東部アナトリア、アルメニア、クルディスタン、アゼルバイジャンを失い、王都タブリーズに敵の入城を許した。
そしてなにより、無謬の導師イスマーイールの光輝はこの日この敗北によって永遠に喪われた。
イスマーイールは自分が神の化身でも救世主でもなく、ひとりの人間に過ぎないことを骨の髄まで思い知った。彼を神のごとく崇めていたクズルバシュたちも同じだった。
クズルバシュはもはやシャーの権威を重んじず、私欲に駆られて無秩序に争いだす。
そしてイスマーイール自身は心を病んだ。
常勝を誇った若者は、これよりのち二度と戦場に立つことなく、酒色に溺れて37歳でこの世を去ったという。

加えてこの戦いは、二千年以上にわたってユーラシア大陸を制してきた遊牧騎馬軍団が火砲を駆使する定住歩兵軍団に決定的な敗北を喫した点でも、世界史上特筆されるに値する。
草原を駆ける勇者たちの時代は終わり、やがて常備軍と官僚の時代が始まる……これは「神々の黄昏」であった。


終章・マルジュ・ダービク

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(マムルーク朝の領土)

マムルーク朝エジプト、第54代スルタンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーは灼熱の夏の太陽のもとで無数の軍勢を見下ろしていた。
西暦1516年8月24日。1250年に樹立されたマムルーク朝はすでに250年以上にわたってエジプトとシリア・ヒジャーズを支配し、イスラーム世界でもっとも富強を誇っている。
いま、彼はマムルーク朝の最北端、シリアのアレッポ郊外に広がるマルジュ・ダービクの野でオスマン帝国との決戦に備える大軍勢を閲兵しているのだった。
赤い軍旗のもと、70歳を越える老スルタンを囲むように、四人の首席カーディー(法官)と最高位の将軍たちが並び、右にはこの国の名目上の主権者であるアッバース朝のカリフ、ムタワッキル3世の姿もある。

2年前、オスマン帝国のセリム1世は常勝不敗を誇っていた若き英雄、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールを打ち破った。
カーンスーフにとってこれは誤算だった。北の新興二大国の力が伯仲している限り、マムルーク朝は安泰なはずだった。
いまや均衡は崩れた。ゆえにこのシリア北部に、イスラーム世界最強の軍団を率いて彼は来た。オスマン帝国に古く強大なマムルーク朝の力を見せつけるべく。
オスマンの子らにはアナトリアを、クズルバシュの王にはイランの地を。されど二つの聖都を守護する者は、マムルーク朝エジプトのみ!

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(アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー)

オスマン軍の果てしない太鼓の連打とともに運命の戦いは始まった。
オスマン軍の無数の銃火はマムルーク軍の騎馬軍団を嵐のように打ち倒し、右翼を壊滅させた。左翼の司令官ハーイル・ベイはとうのむかしにセリムに内通しており、危機的な状況のなかで致命的な裏切りに出た。
カーンスーフは周囲で次々に自軍が倒されていくさまを、血も凍る思いで見つめていた。祈れ、さあアッラーの加護を早く祈れと彼はカーディーたちを急き立てる。
一人の将軍が軍旗を下ろし、それを畳んでカーンスーフに向き直った。

「スルタンよ、我々は敗北しました。お命を守るため、アレッポへお退きください」

カーンスーフがその言葉を理解するまでに一瞬の間があった。それから突然、彼はよろめいた。従者たちが慌てて駆け寄り、彼を馬上に担ぎあげる。馬に乗ろうとしたカーンスーフは転げ落ち、その場で息絶えた。
親衛隊は老スルタンの遺体を放置して走り去った。


マルジュ・ダービクの野でマムルーク朝は7万の大軍を失った。セリム冷酷王はなんら抵抗を受けずにアレッポに入り、ダマスクスを占領した。
そして1517年1月、オスマン帝国軍はエジプトに侵入した。

カイロの町は恐慌状態になり、多くのマムルークたちが出陣を拒否して身を隠した。マムルーク朝最後のスルタン、トゥーマンバーイは身分も出自も問わず掻き集められる限りの男たちを集めてオスマン軍を迎え撃った。
1月23日、カイロ北郊のわずか1時間の戦いでマムルーク軍は完全に崩壊した。勝ち誇るオスマン軍はカイロに雪崩れ込み、町を3日にわたって略奪した。

「二つの大陸と二つの海の支配者たるスルタンの子、イラーク・アジャミーとイラーク・アラビー、両聖都の守護者、勝利に満てるスルタン・セリム・シャー万歳! 二つの世界の主たる汝に永遠の勝利あれ!」

遠くアッシリア帝国の時代から入れ代わり立ち代わり外国の征服者たちに支配されてきたエジプトの民は、二世紀半にわたるマムルーク朝の時代の終焉を悟り、オスマン帝国スルタンの支持を宣言した。
捕えられたトゥーマンバーイはズワイラ門に連行され、固唾をのむ群衆たちの前で絞首刑に処せられた。トゥーマンバーイが息絶えると恐怖とも興奮ともつかぬ叫びが街を満たした。

アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがるイスラーム世界最後の大帝国が、ここに完成した。

ジュチ裔諸政権史の研究

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(ジョチ・ウルス後継諸国家の系譜と歴史を解明する)


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イスラーム世界の歴史29 征服者の時代

承前・新月の系譜

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(コンスタンティノポリスを望むメフメト2世)

帝都コンスタンティノポリスは、その始まりから世界の首都たる運命を背負っていた。

紀元330年、ローマのコンスタンティヌス大帝がこの都を築いた。
アジアとヨーロッパが指呼の間に向かい合い、地中海と黒海が接するこの場所は、ほどなく世界でもっと豊かな都市のひとつとなった。
その豊かさゆえに、帝都コンスタンティノポリスは幾度も敵襲にさらされた。しかし激しい潮流と巨大な城壁があらゆる攻撃を撥ね返し、何世紀ものあいだこの都は難攻不落の誉をほしいままにした。

古代ローマ帝国の分裂後、コンスタンティノポリスに拠る東の帝国ビザンツはさらに千年の齢を保った。
栄光と暗黒がこもごも来たり、国威は浮沈を繰り返した。
アラブの大征服によってシリアとエジプトは永遠に帝国の手を離れたが、マケドニア朝の時代に帝国は東地中海の覇権を取り戻した。しかし11世紀には西のノルマン人、東のテュルク人が腹背から帝国を猛襲する。
ときの皇帝アレクシオス1世は窮余の策として西方から傭兵を呼集するが、この「十字軍」と呼ばれる集団はたちまち帝国の統制を離れてシリアに自立し、1204年には帝都そのものを奪う。
ニカイアに成立した亡命政権は半世紀ほどのちに帝都奪還を果たすが、すでにビザンツ帝国はエーゲ海北部の渺たる小国と化していた。

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(紫色が1450年頃のビザンツ帝国)

アナトリアで最初のテュルクの国、ルーム・セルジューク朝の繁栄はモンゴル襲来によって終わりを告げた。
14世紀のアナトリアは「ガーズィー」と呼ばれる群雄たちが互いに争う戦乱の地となった。そんななか、半島西北隅にオスマン君侯国と呼ばれる小国が誕生した。
動乱に追われる難民たち、安住の地を求めるデルヴィーシュ、異教徒との聖戦を夢見る戦士たちが次々にこの最果ての国に流入した。

1354年、オスマン君侯国はダーダネルス海峡を越え、異教の大陸に初めて橋頭堡を得た。
1365年、オスマン朝はアドリアノープルあらためエディルネを都と定め、本格的な西方進出を開始する。
1373年にビザンツ帝国を属国とし、1389年にはコソヴォの戦いでセルビア王国を崩壊させる。1396年にはニコポリスで欧州連合軍を撃破し、第二次ブルガリア帝国を併合する。

ティムールの到来と続く十数年間の継承戦争によって欧州は束の間の安息を得るが、無力化した東欧諸国は態勢立て直しに失敗した。
まもなく復活を遂げたオスマン朝は、バルカン半島への進撃を再開した。
セルビアはオスマン朝に屈服し、公女マーラをスルタンに献上した。ハンガリーはヴァルナで大敗し、東欧最強と謳われた摂政フニャディ・ヤーノシュの勢威は失墜した。
いまやオスマン朝への抵抗を続けるのはアルバニアの英傑スカンデルベクのみとなり、ビザンツ帝国はオスマン朝の顔色を伺いながら、ペロポネソス半島の一部と、帝都コンスタンティノポリスを細々と維持するばかりである。


その前夜

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(ムラト2世)

1421年にオスマン朝の第6代スルタンとなったムラト2世は温和な人だった。
決して戦いに怯むことはなかったが、敗者を追い詰めることは好まず、いずれ隠棲してスーフィズム(イスラーム神秘主義)の道を歩むことを望んでいた。
しかし時代と立場は彼の願いを容易に叶えはしなかった。東においてはカラマン君侯国やゲルミヤン君侯国、西においてはハンガリー王国やポーランド、そしてヴェネツィア共和国がオスマン朝に敵対した。

1444年、ヴァルナでハンガリー軍に圧勝したムラト2世は君主の地位を三男メフメトに譲り、ようやく希望を実現した。
だが12歳の新スルタンは国家の統制に失敗した。


ムラト2世ははじめ、メフメトの存在をほとんど気にかけていなかった。ところが長子と次子が相次いで不慮の死を遂げたため、メフメトが11歳にしてオスマン朝で唯一の王位継承権者となる。
それまでメフメトの教育はなおざりにされていた。初めてメフメトとまともに会話を交わしたとき、ムラトは我が子の無知に呆れ果てた。
それから一年、詰め込み教育の甲斐あってメフメトは六ヶ国語を操る秀才児となったが、国政を担うにはまだ早過ぎたのだろう。

メフメトはいきなりコンスタンティノポリス攻撃を命じて高官たちを仰天させた。
ビザンツ帝国が本音のところで何を考えているかは知れたものではないが、いちおうかの国はオスマンの属国である。これといった大義名分もなく、多大な犠牲を払って難攻不落の帝都を攻めるなど馬鹿げている。

ザドラザム(大宰相)チャンダルル・ハリル・パシャは少年王の命令をやんわりと拒絶した。メフメトは激怒したが、廷臣と民衆と軍隊はことごとく大宰相を支持し、新スルタンへの不満を露わにした。
大宰相は軍の不穏な動向を見て取って、隠棲していたムラト2世に復位を求めた。
1446年秋、やむなくムラトが復位。エディルネは喜びに沸き立った。少年メフメトは廃位され、西部アナトリアのマニサへ送られた。

1448年、形勢挽回を図るハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュがオスマン朝への攻撃を再開したが、ムラトはコソヴォでこれを撃破。ハンガリーの脅威は消滅した。
それから三年後、1451年2月にムラト2世はエディルネで息を引き取った。

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(ビザンツ帝国最後の皇帝、コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガゼス)

ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世は、かつて兄帝のもとでペロポネソス半島の統治を委ねられ、モレアス専制公を称していた。
彼はパレオロゴス朝成立後もこの地に居座っていたラテン人たちを駆逐し、ヴァルナの戦いに際してはオスマン朝からの自立を目指して北進した。
だが、ハンガリー軍の敗走が彼の夢を打ち砕く。押し寄せるオスマン軍はコリントス地峡の防壁を徹底的に破壊し、コンスタンティノスはおよそ半月にわたる攻防の末、ムラト2世に屈服した。

この敗北が皇帝としての彼の原点にある。
もはやビザンツはどう足掻いてもオスマン朝に対抗し、名実備えた帝国として蘇ることはできない。東欧の諸国も頼むに足りぬ。
それゆえ彼は西欧との連携を試みた。だが何世紀にもわたるローマ・カトリックとギリシア正教の分裂ゆえに、西方諸国は帝国の支援を渋り、帝国内部でも西との連携を支持する者は稀だった。

焦るコンスタンティノスはムラト2世の死を好機と見た。
その頃、オスマン朝の遠縁の皇族が帝都コンスタンティノポリスに亡命していた。コンスタンティノスはこの皇族の監視費用をメフメトに請求した。
ビザンツ帝国がオスマン朝の王位請求権者を抱えていることを示して、メフメトの政権基盤確立を妨害するつもりだった。

19歳の新スルタンは凍るような眼で皇帝の使者を、そしておのれの臣下たちを見つめた。いまや彼の望みを妨げるものは何もない。

「――師よ、あの町を俺にくれ」

大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは一瞬息を呑み、肩を落として嘆息した。

「――御意のままに」

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(メフメト2世ファーティフ)

オスマン朝第7代君主、メフメト2世
ムスリムとしての正規の教育を受けるよりもずっと前に、乳母の寝物語で聞いた古代ギリシアの神話伝説、とりわけアレクサンドロス大王の英雄譚に彼は深く憧れていた。

千年の歳月を閲してきた帝都コンスタンティノポリス。
そこで絢爛たる古代の廃墟のなかに、ローマ人の最後の末裔たちが居座っている。
これを完全に滅ぼし、コンスタンティノポリスをイスラームの都と化すことができれば……それは父祖たちの誰もが果たし得なかった偉業。預言者ムハンマドの昔からムスリムたちが抱いてきた征服の夢。

1451年冬、メフメト2世はストルマ流域の町々からギリシア人を追放し、領土全域から何千人もの石工を召集した。
翌1452年4月、ボスポラス海峡西岸に「ルメーリ・ヒサール」と呼ばれる城塞の建設が始まった。
帝都コンスンタンティノポリスは不安と疑惑に覆われ、疑惑は急速に確信へと変化した。オスマン朝は再び帝都攻囲を目論みつつある。

コンスタンティノス11世はスルタンに城塞建設の意図を問い質す使節を送ったが、彼らはことごとく首を刎ねられた。
8月、ルメーリ・ヒサール完成とともにメフメト2世は海峡の封鎖を命じた。
そしてエーゲ海沿岸各地で軍船の建造を指示し、大軍の動員準備に取り掛かる。

皇帝は諸外国に救援を求める使者を送った。だが東や北の正教諸国は遠く無力だった。西のカトリック諸国は互いの内紛と長年の宗派対立から、帝国の嘆願を黙殺した。
千年帝国は孤立無援となった。

1453年4月5日、オスマン朝の全軍が帝都コンスタンティノポリス外周に集結した。
城壁から見はるかす野も丘も海上も、二つの大陸から召集されたオスマン朝の大軍勢に埋め尽くされた。その数、およそ10万。対するに帝都防衛軍は、多少なりとも戦いに耐え得る男たちをすべてあわせても8千名に満たない。
かくてビザンツ帝国最期の戦いが開幕する。


帝国の終焉

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(コンスタンティノポリスの包囲)

戦いは激しい砲撃とともに始まった。メフメト2世はこの戦場に、ウルバンという技師が鋳造した8メートルの巨砲を持ち込んだ。これまで世界で作られた中で最大の大砲だった。
絶え間ない砲撃によってテオドシウス城壁はたちまち崩れはじめた。この城壁は最初の火薬兵器が登場するよりはるか以前に築かれたものだった。
しかし防衛軍は死の危険を省みずに城壁を修復し、果敢な抵抗を続けた。

海上ではオスマン艦隊が帝都の内港、金角湾への侵入を試みたが、湾口に張られた鉄鎖に阻まれて失敗。4月20日には南から来援した四隻のジェノヴァ船がオスマン艦隊を突破して金角湾に入った。
激怒したメフメトは艦隊司令官を更迭し、コロを使って艦隊を陸から金角湾に侵入させた。それでも帝都の抵抗は続く。

とはいえ防衛軍は日が経つにつれて疲弊の色が濃くなり、絶望が帝都を覆っていく。
ヴェネツィア艦隊を探索に出た船が決死の覚悟で帝都に戻り、エーゲ海のどこにも援軍は見当たらないと告げた。
帝都コンスタンティノポリスは、帝都を築いたヘレナの子コンスタンティヌスと同じ名前の皇帝の御代に滅亡するであろう……古い言い伝えが人々の口の端にのぼりはじめた。

5月24日、満月。この夜、月食が起こり、闇が三時間にわたって地上を覆った。
不安に駆られた市民たちが聖母のイコン(聖画)を掲げて市街を巡回すると、突然イコンが台座から滑り落ちた。駆け寄った人々はイコンの重さに驚いた。誰もそれを持ち上げて台座に据え直すことはできなかった。
その後、にわかに激しい雷雨と雹が帝都を襲い、翌日には深い霧が立ち込めた。誰も言葉にこそ出さないが、今や疑問の余地はなかった。神は帝都コンスタンティノポリスを見捨てたのだ。

廷臣たちは皇帝コンスタンティノスに帝都脱出を進言した。
皇帝コンスタンティノスはこのとき48歳。温厚で思慮深く、誰に対しても声を荒げることはついぞなかった。帝都の人々は政策への賛否を問わず、等しくこの皇帝を敬愛していたという。
亡命を勧められた皇帝は静かに、だがきっぱりと首を振った。
神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。されど、聖なる臨在が帝都を見捨てても、皇帝は最期まで帝都に留まるであろう。皇帝は帝都の民とともに生き、帝都の民とともに死ぬであろう。

月は下弦に転じ、ゆっくりと新月に向かっていった。オスマンの赤い軍旗に染め上げられた新月に。

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実のところ、包囲軍の士気も日を追って沮喪しつつあった。

陸でも海でも決定的な勝利は一度もおさめられず、城壁はいまだ突破できず、包囲の開始からすでに1ヶ月半が経過しようとしている。兵士たちは不満を漏らし、スルタンの威信は低下しはじめている。
大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは御前会議で包囲の断念を主張した。
それに対し、スルタンの信任厚いサガノス・パシャが激しく反論した。キリスト教諸国は四分五裂し、帝都救援に来る者はいない。かのアレクサンドロス大王のごとく撤兵など念頭に置かず、遮二無二攻撃を続行すべし。
メフメトはこれを採った。

「――アッラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり……」

10万の兵士たちの祈りの声が夕暮れの空と大地にうねるように広がっていく。皇帝コンスタンティノスはブラケルナエ宮殿の外壁の上に立ち、長いあいだ無言で宵闇の広野を見つめ続けた。

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(城壁の名残り)

5月28日午後、オスマン軍は全線にわたって激烈な攻勢を開始した。間断なく太鼓が打ち鳴らされ、兵士たちは次々に城壁に突撃した。絶え間なく激しい砲撃が続いた。
戦いは夜になってもおさまる気配がなく、メフメトは次から次へと新手の部隊を繰り出した。

夜明け前のもっとも暗い刻限に、オスマン朝で最強を誇るイェニチェリ親衛隊が前進を開始する。メフメトは最前線に出てこれを督励した。皇帝コンスタンティノスも前線に馬を進めた。

激闘に次ぐ激闘で、城壁を守る兵士たちは疲労の極みに達していた。そのとき、一閃の矢が守備隊を指揮するジェノヴァの傭兵隊長ジュスティニアーニの胸に突き立った。
痛みに耐えかねて絶叫するジュスティニアーニ。守備隊が動揺するなか、オスマン軍の一隊が城壁の脇の古い小門が開き放しになっていることに気付いた。

「街はもはや我々のものだ!!」

砲弾が防柵をなぎ倒す。メフメトが大喝する。イェニチェリたちが我先に突撃をはじめる。
守備隊は狼狽して為す術もなかった。階段を駆け上ったイェニチェリは小塔に翻る双頭の鷲の旗を引きずりおろし、するすると赤い新月の旗を揚げた。

城壁の下に身を置く皇帝コンスタンティノスは退路を閉ざされた。いまや帝国の希望も尽き果てた。
彼は無言で明けゆく空を見上げた。先ほどまで闇に覆われていた空はいつしか濃紺に変わり、東の空は茜色に染まりつつあった。流れる雲のなかに白い新月が上りはじめていた。
皇帝は馬を降り、帝位を示す徽章を捥ぎ取った。紫のマントを外し、鞘を投げ棄て、抜身の剣を掲げた。

「いまここで、私を殺してくれる一人のキリスト教徒もいないのか?」

寂しげに呟いた皇帝は、敢然と前を向いて歩きだした。10万の敵軍が怒涛のように殺到し、たちまちその姿は黒い人波のなかに飲み込まれていく。その後、二度と彼を見た者はいなかった。
後の世の人々は、コンスタンティノス11世は神の祝福を受けて聖人となり、いつの日かギリシアの民を救うために天から降ってくるのだと信じた。
死を越え、恐れを越え、滅びを越え、人の世の生死を抜けて、ローマ帝国最後の皇帝はとこしえの栄光に上っていったのだ。


征服王の時代

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(コンスタンティノポリスに入城するメフメト2世)

Sultan Muhammad Al-Fateh Penakluk Konstantinople

(コンスタンティノポリス陥落を大迫力で描くトルコの映画)

21歳の若さでビザンツ帝国一千年の歴史に終止符を打ったメフメト2世。
彼はその偉業を讃えて、「ファーティフ(征服者)」と呼ばれることになる。

メフメトが見た帝都は空虚だった。かつて百万の人口を誇った都に暮らす人々は、今では五万に満たなかった。
城壁のなかには田園と雑木林が広がり、古代の宮殿や修道院の廃墟が点在している。人々は13ほどの集落に身を寄せ合い、貧しい暮らしを送っていた。

若き征服者が最初に行ったのは、キリスト教徒たちの敬愛を受けていたゲオルギオス・スコラリオスという神学者を、新しいコンスタンティノポリス総大主教に叙任することだった。
かつてビザンツ帝国の皇帝たちが果たしていたのと同じ役目を、今はスルタンが果たす。不思議な光景だった。

「多き幸をもて総大主教たれ。我らの友愛の念を信じ、汝に先立つ総大主教たちが享受せるすべての特権を享受し続けよ」

メフメトは祝福の言葉とともに、法衣を、司教杖を、そして美しい十字架を手ずからゲオルギオスに授けたという。

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(ゲオルギオスとメフメト2世)

メフメトはビザンツ帝権の後継者、ローマの継承者を自認した。
オスマン朝、いや、すでに「オスマン帝国」と呼ぶべきだろう。これ以後、オスマン帝国の皇帝たちは「スルタン」のみならず、「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」とも呼ばれることになる。

キリスト教徒たちは総大主教のもとで一定の自治と信仰の自由を認められた。とはいえ、メフメトは全てを元通りに留めたわけではない。
アナトリアから、バルカンから、無数の人々がこの都に呼び寄せられた。その中にはキリスト教徒もムスリムもユダヤ教徒もいた。
荒れた土地に新しい家々や商店が生まれ、街路や水道が整備され、都に活気が蘇ってきた。しかし、そこに暮らす人々は数十年前とは見違えるほどに多様だった。
そして、いたるところに見られた修道院や教会は姿を消し、かわってモスクやマドラサが続々と建設された。

メフメトはエディルネを去って、征服間もない「コンスタンティニエ」を国都とした。
程なくこの都は新たに到来したオスマン人たちに「イスタンブル」と呼ばれるようになった。
海峡を見下ろす高台のうえには壮麗なトプカプ宮殿が築かれた。

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(トプカプ宮殿)

この頃からスルタンの権威と権力は大きく強化される。
初期オスマン朝を支えてきた名門チャンダルル家出身の大宰相ハリルは、征服直後に利敵行為の故をもって処刑された。かわって大宰相となったのは奴隷出身のサガノス・パシャ。
メフメトは家門の後ろ盾を持たないカプクルやイェニチェリを重用し、御簾の背後の高い玉座に座し、臣民の視線から己を隔離した。
のちに「地上における神の影」とすら呼ばれる、絶対君主の時代が始まったのだ。


メフメトはその後も各地に征戦を続けた。
1459年にセルビアを直接統治下とし、1461年にペロポネソス半島を征服し、同年にトレビゾンド、さらに1463年にはボスニアを併合した。
とはいえ彼の征戦が常に勝利を約束されたわけではない。
フニャディ・ヤーノシュはベオグラードでオスマン軍を敗走させ、アルバニアのスカンデルベクは死ぬまで屈服せず、ワラキアのヴラド3世やモルダヴィアのシュテファン・チェル・マーレも頑強に抵抗した。

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(ヴラド3世がメフメトの心胆を寒からしめたトゥルゴヴィシュテの夜襲)

メフメトはむしろ東方で赫々たる成果を収めた。
長きにわたって潜在敵国であり続けたカラマン君侯国を1468年に併合し、さらに東進してイラン高原で勃興しつつあった白羊朝のウズン・ハサンを撃破する。1475年にはクリミア・ハン国を臣従させ、黒海をオスマンの海と化す。

晩年のメフメトは西ヨーロッパ遠征を目論み、ゲディク・アフメト・パシャ率いる艦隊に南イタリアのオトラントを占領させた。
イタリア半島南部を抑えるナポリ王国は混乱に陥り、教皇は恐怖した。
だが、西欧が悪夢の顕現に怯えるなか、奇跡が起こった。イスタンブルを出陣したメフメトが急病となり、1481年5月3日に陣没したのだ。

オスマン帝国ではメフメトの二人の遺児、バヤズィットとジェムとのあいだで帝位継承をめぐる争いがはじまる。
内乱はほどなくバヤズィットの勝利によって終結したが、敗れたジェムはエジプトを経てヨーロッパに亡命し、フランスやイタリアを転々とする。
オスマン帝国第8代皇帝となったバヤズィット2世は、潜在的な帝位継承権者である弟を人質に取られる形となり、メフメトの時代とは一転して消極外交に甘んじるのだった。

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(日本語で読めるものでは唯一であろうメフメト2世の伝記)



羊たちの喧騒

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(ティムール帝国)

オスマン帝国が興隆する頃、イスラーム世界東部は混迷のなかにあった。
14世紀末に巨大な版図を築いたティムール帝国は、偉大な建国者の死とともに解体しはじめた。その機に乗じて台頭してきたのが、黒羊朝(カラ・コユンル)と呼ばれる勢力だった。


黒羊朝はティムール到来以前から西北イランに展開していた遊牧部族連合である。当時の指導者をカラ・ユースフという。
彼はティムールに国を追われてマムルーク朝に亡命するが、ティムールとの取引材料として幽閉されてしまう。ところが、彼はそこで数奇な出会いを果たした。
相手はかつてイラーク平原と西部イランを領有していたジャライル朝のスルタン・アフメドである。
 ※この二人については「イスラーム世界の歴史27 鉄の嵐、炎の槍」を参照。

ともに亡国の憂き目を見た二人の元君主に、奇妙な絆が生まれた。
彼らはマムルーク朝の牢獄のなかで誓いを交わす。いつの日か運命に恵まれて国を取り戻せたら、イラーク全土はスルタン・アフメドのもの、アゼルバイジャンはカラ・ユースフのものとして、決して仲違いをすまいと。

運命は意外と早く彼らに微笑んだ。アンカラの戦いでオスマン朝を屈服させたティムールは明国遠征のために東へ帰り、マムルーク朝は1404年に二人の身柄を解放したのだ。
翌年にティムールが死ぬと王族たちのあいだで継承戦争がはじまる。アフメドとユースフは直ちに兵をあげ、1408年にティムールの三男ミーラーン・シャーを倒して旧領回復を成し遂げた。
だが、ここでジャライル朝のスルタン・アフメドが誓いを破り、カラ・ユースフの取り分たるべきアゼルバイジャンのタブリーズを占領してしまう。
裏切りを怒ったカラ・ユースフは直ちにタブリーズに進軍し、1410年にスルタン・アフメドを捕えて縛り首にする。これでイラン高原西部は黒羊朝の天下となった。

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(カラ・ユースフ)

1419年にカラ・ユースフが死ぬと、一時的にティムール朝が盛り返す。
継承戦争を制したティムールの四男シャー・ルフがイラン高原に兵を進め、黒羊朝をアゼルバイジャンまで押し戻して臣従させたのだ。
しかし帝国再統一を目指して東奔西走したシャー・ルフが1447年に没すると、ティムール朝に影が差す。
シャー・ルフの後を継いだウルグ・ベクは博覧強記にして超人的な記憶力を誇り、偉大な文人・数学者・天文学者だった。長年サマルカンドの総督を務め、行政手腕にも不足はない。
しかし戦争だけは彼の不得手とするところだった。
1449年、ウルグ・ベクは実子アブドゥッラティーフ率いる反乱軍に惨敗し、あえなく敗死する。ティムール朝は再び混乱状態となった。

カラ・ユースフの子ジャハーン・シャーはシャー・ルフが死ぬやいなや、たちまちティムール朝への反攻を開始した。
彼は葡萄酒と阿片を愛して放縦極まる生活を送ったが、その軍才だけは本物だった。1440年にはグルジアのティフリス、1452年には中部イランのイスファハーンを奪い、1458年にはヘラートまで攻め込む。
ところがその頃、彼の足元で次代の主役が頭角を現しつつあった。

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(ジャハーン・シャー)

黒羊朝(カラ・コユンル)の勃興当初より、その西側に白羊朝(アク・コユンル)と呼ばれるもうひとつの勢力が存在した。
両者の関係は必ずしも明確でないが、いずれもトゥルクマーンを主要構成員とする遊牧部族連合としてよく似た性格を持っていた。
ディヤルバクルを中心にアナトリア高原東部を支配した白羊朝は、早くからビザンツ帝国と接触を持ち、ビザンツ系国家の一つであるトレビゾンドのコムネノス王家と通婚を繰り返した。
それゆえ、白羊朝にはギリシアの血が色濃く流入している。

ティムールが侵攻してきたとき、白羊朝はいち早く服従を誓って領土を保全した。ところがティムールの死と黒羊朝の再興によって雲行きが怪しくなり、1435年に初代君主のカラ・オスマンが戦死すると同族争いがひたすら続いた。
が、1453年に英主ウズン・ハサンが王位に就くと流れが変わる。

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(このあたりの記述は、この本をかなり参考にしています)


ウズン・ハサンは黒羊朝に従属しつつ、じわじわと力を蓄えた。
まずはトレビゾンドの皇女を迎えて西を固め、次にシェイフ・ジュナイドという宗教家を庇護する。
彼は13世紀からカスピ海西南岸に近いアルダビールに拠点を構えてきたイスラーム神秘主義教団、サファヴィー家の長だった。
サファヴィー家は預言者ムハンマドの娘婿にして第四代カリフであるアリーの子フサインと、ササン朝ペルシアの王女の血を引くと称し、代々「アルダビールの聖者」として西部イランの人々に崇敬されてきた。
これを取り込んだことにより、ウズン・ハサンの信望も高まった。

1467年、ウズン・ハサンは黒羊朝のジャハーン・シャーをムーシュ平原で奇襲し、あっさりその首級を獲った。かくて白羊朝の天下となる。白い羊の軍旗は二年のうちにイラン全土を覆い、ティムール朝の領域まで達した。

ここではティムールの曾孫にあたるアブー・サイードが、イスラーム神秘主義の一派であるナクシュバンディー教団と結んで、ホラーサーン地方一帯である程度の安定政権を維持していた。
彼は黒羊朝の急激な崩壊を好機と見て西方進出を図ったが、ウズン・ハサンに大敗を喫して殺される。ティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂し、さらに弱体化していく。

その後、ウズン・ハサンはオスマン帝国との対決に向かうが、すでに記した通りメフメト2世に敗れてユーフラテスより西への進出は阻まれたのだった。
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混迷の15世紀にあって、エジプトのマムルーク朝だけは安定を維持し続けているかに見える。だが、その内実も決して平穏ではなかった。
モンゴル帝国解体と時を同じくしてユーラシア大陸を黒死病が襲った。一説によれば、この疫病は旧世界の5億の人々のうち、8500万人の生命を奪ったという。
オスマン朝の勃興やティムール朝の崩壊、黒羊白羊の争いといった激しい変動の背後では、強弱の差こそあれペストの禍が荒れ狂っているのだ。
惨害はとりわけ人口の多いヨーロッパで甚大だったが、イスラーム世界では交易の要衝であるシリア・エジプトが最大の影響を受けた。
都市は衰退し、農村から人影が消え、地中海と航海の交易は低調となった。黒い病はマムルーク朝の繁栄に濃い影を落とし、この大国をじわじわと蝕み続けている。

コンスタンティノープル陥落す

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(英国の歴史家ランシマンがビザンツ帝国滅亡を描いた古典的名著)





非常に久々に「イスラーム世界の歴史」シリーズ更新です。
かなり中途半端なところで終わっていますが、当初の予定(ビザンツ滅亡~イラン高原の情勢~キプチャク平原の情勢~チャルディラーンの戦い)ではあまりにも長くなりすぎるので、ここでひとまず分割します。
続きはあまり間を空けずに載せたいと……思い・・・・・・ます……(汗


イスラーム世界の歴史28 夜明けの稲妻

Eski çobanları(古き遊牧の民)

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その男はいつも月を見ていた。
深まる老いのなかで、白髯を撫でながら西の空の月を見ていた。
百人ほどの一族を後ろに従えて、痩せ馬のたてがみを撫でながら月を見ていた。
夕暮れの空に沈む月を追って、彼は西へ進み続けた。一族は黙々とこの老人の後をついて来た。
彼の名前はギュンドゥズ・アルプという。その男は遠い昔、ユーフラテスの岸辺で死んだ。

この一族は地獄を背後にして来た。
オグズ・トゥルクマーンのカユ部族は何世紀ものあいだ中央アジアで暮らしてきた。アム川とシル川に挟まれた、マー・ワラー・アンナフル(川の間の土地)と呼ばれる豊かな国で。
そこにある時、はるか東北の荒野から神を信じぬ侵略者たちがやって来た。
チンギス・カンと呼ばれる魔王に率いられた異教の遊牧民たち、モンゴル。
彼らは来た。彼らは殺し、彼らは破壊し、彼らは焼き払い、彼らは何物も残さずに去って行った。
だから一族は西を目指した。異教の侵略者たちの馬や毒矢の届かぬはるか彼方へ。

ギュンドゥズ・アルプは遠い昔に死んだ。
次に族長となったのはエルトゥールル。エルトゥールルは父が死んだ川を越えて、アナトリアと呼ばれる土地に来た。
ここで彼は一人の王に出会った。
ルーム・セルジューク朝のカイ・クバード。己の王国の没落が近づきつつあることを王は知らず、誇り高く強壮で、心の寛い王だった。
王はこの亡命者たちを哀れんで、小さな封地を与えてくれた。
「ソユト」と呼ばれる土地だった。
そこはイスラームの地の西の果てで、「ルーム」の都からも遠からぬところだった。
そこではムスリムもキリスト教徒も同じ顔をして同じ言葉を喋り、同じ暮らしを何百年も続けていた。
エルトゥールルの一族は、この土地にゆっくりと馴染んでいった。
冬は谷間の町で過ごし、夏は山の草原で羊を放牧する。その時は財産と妻や娘たちを谷間の修道院に預けておいた。キリストを信じる素朴な人々の修道院に。
そして彼らは山の上でアッラーを礼拝するのだった。


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この帝国の物語は西暦1270年代の西部アナトリアに始まる。
その頃、エルトゥールルの長男オスマンは、ソユトのシャイフ(長老)の娘、マルカトゥンへの恋に落ちた。彼女は糸杉のようにすらりとして、月のような眉と、夜明け前の空の色をした瞳を持ち、この地方ではまず一番の美人と言ってよかった。
オスマンは悩んだ。なぜなら、祖父の代に遠く東の国から流れ着いたカユ部族は貧しく、マルカトゥンを貰いうけるための婚資を用意できる当てがなかったのだ。
ある夜のこと、煩悶するオスマンは夢を見た。


  わたしはひとり広野に立っている。と、丘の向こうに愛しいマルカトゥンの父親、シャイフの姿が見えた。
  そのシャイフの胸から突然輝く月が出現し、高く天頂に昇ると見るや、急転直下してわたしの胸に飛び込んだ。
  思わず胸を押さえた手の隙間から一本の若木が生え出た。その樹はたちまち天を覆いつくし、四本の根は大河に変じた。
  何故かは分からないが、わたしはそれらの川の名前を知っていた。ティグリス、ユーフラテス、ナイル、ドナウという名前だった。
  その時、不意に激しい風が沸き起こった。見上げると、天を覆う大樹の葉は無数の剣と化し、一斉にはるか彼方の壮麗な都を指し示した。



「シャイフよ、私の夢を説き明かしてください」
オスマンは意を決して、夢の発端に登場したマルカトゥンの父親のもとを訪れた。シャイフ(長老)はこのあたり一帯では並ぶもののない知恵者として通っている。
一通り夢の経緯に耳を傾けたシャイフ(長老)は、黙りこくったまま、若いオスマンの顔を穴の空くほど見つめた。
「シャイフ……?」
「――エルトゥールルの子、オスマンよ。君に頼みがある」
「はい、何なりと」
「我が娘、マルカトゥンを娶ってほしい」
「いま、なんと?!」
「君の夢が告げていることはこうだ。月はマルカトゥン。君の胸から生え出た大樹は君とマルカトゥンの血を受け継ぐ子孫たち。君の子孫はやがて世界を支配し、ルームの帝都コンスタンティーニエをすらその手に握る」
「――正直に申し上げればまったく信じられません」
「君が信じるか否かは問題ではない。運命はすべて、偉大なるアッラーの御意志のうちにある」

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(「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」)


時は乱世になりつつあった。時代の奔流はソユトの町の平穏と、一族の安らかな暮らしを容赦なく押し流しはじめた。

1243年、アナトリア半島にモンゴル帝国のバイジュ・ノヤンが侵入する。7万の兵をもってこれを迎え撃ったカイ・クバードの子、カイ・ホスロウ1世はキョセ・ダウの戦いで大敗。ルーム・セルジューク朝はモンゴルの属国となった。
1277年にはエジプト・マムルーク朝のバイバルスがアナトリアに侵入、ルーム・セルジューク朝を事実上崩壊させる。
ほどなく、アナトリア半島は「ベイリク(君侯国)」と呼ばれる数十の小国に分裂した。

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(1300年頃のアナトリア半島)

戦乱はアナトリア西辺にも及んだ。「ガーズィー」と呼ばれる自由戦士たちが横行し、「異教徒への聖戦」を称してキリスト教徒の住民たちを襲撃し、キリスト教徒の側も自衛を固めはじめた。

1284年、三年程まえに父エルトゥールルの死によって族長を継いだオスマンは、例年のように羊の群れを連れて山から谷へ降りていく途中でおかしな光景を眼にした。町の住民たちが街道に柵を立てているのだ。
徐々に近づいていくと、数十人の若い男たちが敵意に満ちた視線をこちらに向けてきた。どうも自分たちを町に入れまいとしているらしい。
不穏な気配を見て取って、一族のなかで血の気の多い連中が棍棒を握りしめて前に出た。その数、およそ70名。

「――何のつもりだ」
「異教徒の羊飼いどもは山に帰れ。この町に入ってくんじゃねえ」
「――ふざけんな、俺らは毎年この道を通ってるだろうが!」

一族の男たちが一斉に飛び出すと、道を塞いでいた連中は意外にあっさりと逃げ出した。そのままオスマンの一族は町に乱入した。
長老たちが慌てて飛び出してきて土下座した。若い衆が勝手にやったことだから、どうか勘弁してくれという。その後ろから年かさの連中が次々に賠償金を積み上げた。
オスマンは賠償金をすべて一族の男たちに分配し、この町を立ち去った。

これが噂になって、オスマンのもとには家を焼かれた農民や、ガーズィーを名乗る流れ者たちが次々に押し掛けてきた。喧嘩がうまくて気前のよい大将の下についていれば、しばらくは食いはぐれなくて済むだろうという算段である。
オスマンとしてはいい迷惑だったが、仕方ないので彼らを食わせていくために手頃な敵を襲撃して食料を奪うことにした。
ちょうど良いことにこのあたりはビザンツ帝国との国境地帯で、ビザンツ方の領主たちを襲うのはルーム・セルジューク朝の国益にもイスラームの大義にもかなう。
もっともそのルーム・セルジューク朝は形骸化して久しかったし、オスマンの周囲には無二の親友の「髭無しミハル」をはじめ、キリスト教徒の連中も当たり前のように集まって来たのだが。

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(ガーズィーを連れて出陣するオスマン)

オスマンは彼らの先頭に立って近隣の砦や町への襲撃を重ね、勇敢に戦った者には土地や財物を惜しみなく与えた。
10年ほどのあいだに8つの町や砦を占拠し、1299年には要所イェニシェヒルをビザンツ帝国の守備隊から奪い取った。
この頃から、オスマンの周囲に集まった者たちは、彼を「オスマン・ベイ(オスマン侯)」と呼ぶようになった。吹けば飛ぶような規模とはいえ、オスマンの勢力はすでに一個の「ベイリク(君侯国)」と化しつつある。

しかしそれからまもなく。
泡を食らって飛んできた「髭無しミハル」の報せを聞いて、オスマン・ベイと食客郎党たちは一気に青ざめた。

「やり過ぎた、インパラトルルウが来るぞ。イイスス・フリストスよ、我らを救い給え!」
「なんということだ、アッラーよ、お助けを!」

帝都コンスタンティノポリスの目と鼻の先を荒らす「オスマン・ベイリク(オスマン君侯国)」の狼藉を腹に据えかねて、ついにインパラトルルウ――すなわち「帝国」の正規軍が出動したのである。

※「ルーム」はトルコ語で「ローマ」、「コンスタンティーニエ」は「コンスンタンティノポリス」、「インパラトルルウ」は「帝国」を意味する。


Yeşil Bursa(緑のブルサ)

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(14世紀前半のビザンツ帝国)

帝国との最初の衝突は、終わってみれば大騒ぎしたのが馬鹿馬鹿しくなるほどあっけないものだった。オスマン一党は伝説的な「ルームのインパラトルルウ」を、どうやら著しく過大評価していたらしい。
パレオロゴス朝ビザンツ帝国は衰退の一途を辿っていた。帝国軍は最初から弱腰で、一当たりして撃退されるや早々に海峡の向こうへ姿を消した。
なかば状況に流されてきたオスマン・ベイが野心らしきものを初めて抱いたのは、逃げる帝国軍を丘の上から見下ろしていたときだった。

愛妻マルカトゥンの父親が何年も前におかしな予言をした。忘れかけていた記憶が不意によみがえった。
帝都コンスタンティーニエは遠く遥かに聳えている。とはいえ、そこにたどり着くことは不可能ではないのかもしれない。
自分自身がそこに至ることはあり得ないだろうが、子や孫や曾孫たちの時代になれば、我々はその都に手が届くのかもしれない。


それからオスマン・ベイは俄然、征服活動に力を注ぎ始めた。それも闇雲に四囲を切り取るのではなく、明確な意図と戦略をもって。
彼が目指したのはウル山の斜面に位置する「ブルサ」という地方都市だった。
オスマン・ベイは辺境に生まれ、馬で数日の距離にある帝都コンスタンティーニエすらも噂に聞くばかりで、実際に訪れる機会は一度もなかった。
オスマンが自分の眼で見たなかで、もっとも美しく、もっとも富み栄えている町がブルサだった。
温泉が滾々と湧き、樹々と庭園に囲まれたブルサは、「イェシル・ブルサ(緑のブルサ)」と呼ばれることもある。
広い世界を旅する人々はブルサをありふれた田舎町と評するかもしれない。けれども、古き遊牧の民の血を引くオスマン・ベイにとって、ブルサは楽園にもっとも近い町だった。

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(初期オスマン君侯国)


オスマン・ベイは何年もかけて近隣の町や砦を占領していった。
ニコメディアを取り、アク・ヒサールを取り、カロリムニ島を奪う。
オスマン・ベイの勢力が拡大するにつれ協力者も増えた。治安と政情の安定を望む町々の寄合衆(アヒー)や、放浪のスーフィー行者たちが彼を積極的に支援し、進んで軍資金や情報を提供した。
歳月は飛ぶように過ぎ去り、いつしかオスマンの腰は曲がり、髭もすっかり白くなった。愛しいマルカトゥンはすでに亡く、代わりに力強い息子たちが彼の身辺を守った。

1326年、オスマン・ベイはいまや数千人となったガーズィーたちを率いて孤立したブルサを完全包囲した。彼は68歳に達していた。

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(オスマン・ベイ)

「――オルハン、ブルサは美しいな」

ウル山の斜面に沿って古い城壁に囲まれたブルサの町。それを見やりながら、オスマン・ベイは傍らに立つ息子に低く呟いた。

「――わしの親父殿は貧しい羊飼いの長老で、そのまた親父殿ははるか東の国からここまで旅をしてきた。羊飼いだったわしは、これまで何十年もブルサを目指してきた。そのブルサが、いま、手の届くところまで来た……」
「――父上」
「――ブルサは、わしの夢であった……」

医師には固く口止めされているが、オスマンの身体はすでに病魔にむしばまれ、余命は僅かだという。
父は夢を手にするまで生きていられるのだろうか。オルハンは小さなため息をついた。

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(オスマン帝国最初の首都、ブルサ)

1326年の夏の盛り、ブルサ陥落を目前にオスマン・ベイはこの世を去った。のちにオスマン帝国初代皇帝、「オスマン1世」と呼ばれる人物である。
父の亡骸をブルサの丘の頂きに葬ったオスマンの子オルハン・ベイはさらに征服を進めていった。
マルマラ海の南岸をニカイア(イズニク)、ニコメディア(イズミト)と東進し、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世の親征軍をペレカノンで撃退。1338年には、狭い海峡を隔ててコンスタンティノポリスを指呼の間に望むスクタリ(ユスキュダル)までを制圧した。
かたわら、西隣のカレスィ君侯国を王位継承争いに乗じて併合し、オスマン君侯国は急速に西部アナトリア有数の大勢力へと成長していった。

そうするとこれまでのような牧民集団の延長のようなかたちでは、巨大化した領土を統治しきれなくなる。
オルハンは先進地域である東部アナトリアやイラン高原から流れてきたウラマー(学者)やカーディー(法官)を積極的に登用し、そのなかのひとりであるアラエッディン・パシャという人物を初代宰相とした。
また、これまでオスマン君侯国の軍隊はカユ部族の族民や寄せ集めのガーズィー、さらにはオスマン家と個人的に親交を重ねていた近隣のキリスト教徒領主たちまでを含む雑多な集団だったが、オルハンは直属常備軍の編成に着手した。

オルハンは誕生まもないオスマン君侯国を真の意味での国家へと飛躍させた優れた指導者だったが、決して玉座にふんぞり返っていたわけではない。
1332年、稀代の旅行家イブン・バットゥータがブルサを通過し、建国まもないオスマン君侯国の姿を生き生きと書き記している。それによればオルハンは日々領国を馬に乗って巡察し、戦いでは最前線で兵士たちと共に戦っていたという。
オルハンは無名の庶民とも同じ目線で世間話を交わし、貧民には自ら施しのスープを配って回った。この時代のオスマン君侯国はかように素朴な小国だった。

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(オルハン・ベイ)


Altın İmparatorluğu(黄金の帝国)

古代ローマ帝国の片割れ、東ローマ帝国。
すでに一千年の歴史を閲し、かつて「ビザンティウム」と呼ばれたコンスタンティノポリスの街を帝都とするこの国を、後世の我々は「ビザンツ帝国」と呼ぶ。

第四次十字軍による帝都失陥後、帝国有数の大貴族テオドロス・ラスカリスが西部アナトリアのニカイアに亡命政権を築く。
そして1261年、ニカイアの第4代皇帝ミカエル・パレオロゴスが帝都を奪還し、パレオロゴス朝ビザンツ帝国を創建する。
しかし古き黄金の帝国はすでに満身創痍の有様で、北をブルガリア王国、西をセルビア王国、南をイタリアの海港都市国家、ジェノヴァやヴェネツィアの艦隊に脅かされていた。
また、アナトリア西部にはサルハン君侯国とアイドゥン君侯国という二大国があり、これこそがビザンツ帝国にとって最も警戒すべき相手だった。それに比べれば新興のオスマン君侯国など、まだしも与しやすい。

ために皇帝アンドロニコス3世はペレカノンの戦い以後、オスマン君侯国とは手を結ぶことを選択した。
和議締結にあたってビザンツ帝国側の窓口となったのが、「メガス・ドメスティコス(帝国最高司令官)」の地位にあるヨハネス・カンタクゼノスという大貴族だった。

カンタクゼノスは有能で精力的な軍人にして政治家、かつ当代随一の教養人だった。ブルサの君侯オルハン・ベイはカンタクゼノスと接するなかで、広い世界と異文化への眼を開かれた。
カンタクゼノスにとってもオルハンとの出会いは心躍るものだった。
帝都コンスタンティノポリスの黄金の宮殿を行き来する貴族たちは骨の髄まで野心の塊で、あらゆる社交や会話の裏には陰険な術策が潜んでいる。だが、爽やかな夏の風が吹き抜けるブルサではそんなことはあり得ない。
オルハンも、彼の周りの戦士たちも、どこまでも誠実で真っ直ぐな気性の人々だった。

つまるところ、オルハン・ベイとカンタクゼノスは知己としての交わりを結ぶ。そんなカンタクゼノスが、まもなく海峡の向こうで政変を起こした。

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(ヨハネス6世カンタクゼノス)

1341年にアンドロニコス3世が死去し、幼いヨハネス5世パレオロゴスが帝位を継ぐ。
カンタクゼノスは宮廷最大の実力者となったが、彼の政敵たちが悪しき噂を流した。野心家カンタクゼノスは幼帝を廃して帝位簒奪を目論んでいるというのだ。彼は「祖国の敵」と宣言され、首都コンスンタンティノポリスを追放された。
セルビアに逃れたカンタクゼノスは「君側の奸を除く」と称して兵を挙げ、本当に「副帝ヨハネス6世」を名乗った。
内乱が拡大するなか、カンタクゼノスは海峡の東に密使を送り、かねてからの盟友オルハンに助勢を依頼した。
オルハンはこれに応じ、5500の兵とともにチャナッカレの瀬戸(ダーダネルス海峡)を渡ってヨーロッパ大陸に足を踏み入れた。西暦1346年のことである。

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(1355年頃のビザンツ帝国とセルビア、ブルガリア、オスマン君侯国)

オスマン君侯国の支援を得たカンタクゼノスはついに帝都コンスタンティノポリスに入城し、盟友オルハン・ベイに実の娘を娶らせた。ここにオスマン家はビザンツ帝国大貴族の血統を取り込んだのである。

皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの治世は苦悩多きものだった。
衰えゆくビザンツ帝国は内憂と外患にこもごも見舞われた。
海にあってはイタリア半島の海港都市国家、ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国の艦隊がエーゲ海の島々を襲撃し、陸にあってはブルガリアとセルビアの脅威が途絶えることなく、国内においては貴族たちの政争が延々と続いた。
その最たるものは、お飾りにされた「共同皇帝」ヨハネス5世と支持者たちである。彼らは1352年にセルビアの大王ステファン・ドゥシャンと組んで反乱を起こした。

ステファン・ドゥシャンといえばマケドニア、テッサリア、エピロス、アルバニアを征服し、「ドゥシャンの法典」を発布し、「セルビア人とローマ人の皇帝」を称した東欧史上で屈指の英傑である。
カンタクゼノスは再びオルハンに支援を求めた。オルハンは長子スレイマンに2万の兵を預けて海峡を渡らせた。
スレイマンはステファン・ドゥシャンのテッサロニキ攻撃を阻止し、戦況を膠着させる。そのさなかにステファン・ドゥシャンが急死し、辛うじて帝国は守られた。
カンタクゼノスは支援の見返りとしてオルハンにダーダネルス海峡西岸、ガリポリ半島先端部の小さな砦を与えた。オルハンはここにスレイマンと駐留軍を置いた。
オスマン君侯国はルメリア(バルカン半島)に永続的な橋頭堡を獲得したのである。

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(オルハンの治世下におけるオスマン君侯国の拡大)

1354年3月2日、この地方を大地震が襲う。
震災は海峡両岸にわたったが、最も早くに衝撃から立ち直ったのはガリポリ半島のオスマン君侯国駐留軍だった。
オルハン・ベイの子スレイマンはささやかな騎兵隊を率いて古い小砦を出陣し、一路半島を北上した。帝国の諸城砦はいずれも城壁が崩れおち、瓦礫の山となっていた。
呆然と立ちすくむ人々をよそに、オスマン軍は次々に新月の旗を立てていった。
皇帝カンタクゼノスは愕然としてブルサに急使を送ったが、オルハンは返還に応じなかった。
君侯オルハンと皇帝カンタクゼノスのあいだにいかに長年にわたる敬意と友情の絆があろうとも、オスマン君侯国はそもそも異教の大地を征服すべきガーズィーの国。
古き帝国の障壁は崩れ、黄金の輝きは色褪せた。ルメリアの巨大な大地を前に、オルハンが猛り逸る戦士たちに停戦を命じる理由など何もなかった。

世界の歴史〈11〉ビザンツとスラヴ (中公文庫)

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(中世東欧の歴史について、詳しくはこれを)



Yaşın Hüdavendigar(帝王ムラトの時代)

1360年頃、オスマン君侯国の実質的な建国者ともいうべきオルハン・ベイはこの世を去った。将来を嘱望された長子スレイマンは数年前に鷹狩り中の事故によって早逝しており、次男ムラトが君侯国を継承した。
ムラト1世、異名はヒュダヴェンディギャール。ずばり「帝王」という意味である。
彼は父や祖父と同じように全軍の先頭に立って戦うことを厭わなかったが、父祖たちよりも広大な領土を支配し、いくつもの属国を従える君主であり、ときに「ベイ(君侯)」ではなく「スルタン」と称することもあった。
オスマンの国は「君侯国」の枠を超え、強大な一王国へと変貌しつつある。それゆえ、今後この国を「オスマン朝」と表記する。


ムラトは即位後アナトリアでの反乱鎮圧と勢力拡大に専念し、その後は一介の行政官から抜擢した大宰相チャンダルル・カラ・ハリル・パシャとともに軍制整備に勤しんだ。

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(イェニチェリの再現)

王朝草創期に主力を担ったガーズィーたちはアクンジュ(尖兵)と呼ばれるようになり、不正規兵として未征服地に随時侵入し、略奪や攪乱を行なう使命を与えられた。
一方、正規軍とされたのはカプクル(軍人奴隷)である。その主力となったのはイェニチェリと呼ばれる常備歩兵軍だった。
イェニチェリは、被征服地のキリスト教徒の少年たちを強制徴用(デウシルメ)し、イスラームに改宗させ、洗脳に近い教育を施してスルタンへの絶対的な忠誠心を植え込んだものである。
彼らは妻帯を禁じられ、スルタンを父と仰ぎ、ベクターシュというイスラーム神秘主義教団の戒律に従って集団生活を送った。平時にはスルタンの周囲を護衛し、戦時にはスルタンの親衛隊となった。
その規律は実に見事なもので、警備に立つイェニチェリは何時間も身じろぎもしないので、まるで彫像のように見えたと伝えられる。


この時期もっぱら前線の指揮をとったのは、ベイレルベイ(全軍司令官)としてルメリア方面における軍事全権を委ねられたララ・シャヒーン・パシャである。
はやくも1362年、ララ・シャヒーン・パシャはビザンツ帝国第二の都市ハドリアノポリス(アドリアノープル)を占領した。この町は以後、トルコ語で「エディルネ」と呼ばれることになる。
エディルネはバルカン半島各地から集まった諸街道が帝都コンスタンティノポリスを前に合流する地点である。帝国にとってみれば、ハドリアノポリス陥落は、すなわち帝都孤立を意味する。

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(オスマン草創期を飾る猛将、ララ・シャヒーン・パシャ)

帝国ではヨハネス6世カンタクゼノスが廃位され、カンタクゼノスによって実権を奪われていたヨハネス5世パレオロゴスが単独皇帝となった。
ヨハネス5世はオスマン朝の進撃に対して手も足も出ない有様で、かつて帝都コンスタンティノポリスを奪った教皇や欧州諸国にまで援軍を嘆願した。

欧州はようやくオスマン朝という新興勢力の存在を認識しはじめた。いつの間にかこの異教徒たちはダーダネルス海峡をわたり、ヨーロッパ大陸の一角に地歩を固めつつある。今のうちに叩かねば、遠からず巨大な災禍となるやもしれぬ。
フランス・アヴィニョンの教皇ウルバヌス5世は欧州に反オスマン十字軍の結成を呼び掛け、ハンガリー・ブルガリア・セルビア・ワラキア・ボスニアがこれに応じた。
だが、オスマン軍は五ヶ国連合軍をマリッツァ川で奇襲し潰走させる。世にいう「セルビア崩れ」である。アナトリアからルメリアに戻ったムラトは、まもなくエディルネをブルサと並ぶ王朝の首都と定めた。

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(ムラト1世のもとでのオスマン朝の拡大)

1371年、雪辱を期す東欧諸国はセルビア皇帝ステファン・ウロシュ5世を中心に連合を組み、ムラト不在の隙をついてエディルネに急迫した。
が、わずか数百の手勢を率いたララ・シャヒーン・パシャは因縁のマリッツァ河畔で敵陣を夜襲し、数万にのぼる東欧諸国軍を壊滅させた。セルビア副帝ヴカシンまでが首級を挙げられる有様だった。
ララ・シャヒーン・パシャは勢いに乗ってマケドニアとギリシア北部を制圧し、セルビアの勢威は一気に衰える。また、彼は同年のうちにブルガリアも破り、この東欧で一、二を争う大国にオスマン朝への従属を強制した。

そんななか、ビザンツ帝国でお決まりの政変が起こる。皇太子がクーデターを起こして皇帝ヨハネス5世を幽閉したのである。
ムラトは頼まれもしないうちに出陣し、ヨハネス5世を帝座に復帰させた。そして支援の代償を強要した。すなわち、帝国の臣従である。
吹けば飛ぶような弱小国まで落ちぶれたビザンツこと「ローマ帝国」は、泣く泣くオスマン朝への服従を誓約した。ヨハネス5世は次男マヌエルをブルサのオスマン宮廷に人質として差し出した。

ムラトは軍事的圧力と政略結婚を駆使してアナトリア方面でも着々と支配を拡大し、ゲルミヤン君侯国とハミド君侯国の大部分を制圧し、アナトリア西部の覇権を握った。

マリッツァ川の大敗、ビザンツ帝国の屈服、ブルガリアの降伏……相次ぐ急報を受けて欧州諸国、ことにアヴィニョン教皇庁は急速にオスマン朝への警戒を強めつつある。
教皇庁はひそかに中部アナトリアの大国、カラマン君侯国に使者を送ってオスマン朝への敵意を煽った。
これに対し、ムラトは直属のイェニチェリやアクンジュに加え、ルメリアの諸属国からも多数の兵を集めてカラマン君侯国の本拠コンヤに進軍し、圧倒的な勝利を収めた。
いまやバルカン半島でもアナトリア半島でも、オスマン朝に真っ向から挑める勢力は見当たらない。

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(ムラト1世を殺したミロシュ・オビリッチ)

オスマン朝の主力軍が中部アナトリアに向かう。その隙をついてルメリア、すなわちバルカン半島で炎が上がった。
1389年、セルビア公ラザール・フレベリャノヴィチを中心に、ボスニア国王スチェパン・トヴルトコ、ワラキア公ミルチャ1世など、東欧諸侯が大連合軍を結成してオスマン朝への決戦を挑んだのである。
オスマン軍は急遽ルメリアに引き返し、6月15日にセルビア南部のコソヴォ平原で東欧連合軍と合い見えた。

東欧諸侯は決して一枚岩ではなく、自身と一族の利益のためには日常的に敵と味方を取り換える。この戦いでも東欧キリスト教圏の少なからぬ貴族たちがオスマン朝の陣営に馳せ参じた。
連合軍の盟主ラザールは目を怒らして平原の向こうに並ぶ同族たちの軍旗を睨みつけ、やがて広く知れることになる呪いの言葉を投げつけた。

  セルビアの民としてセルビアの地に生まれ、セルビアの血脈を受け継ぎながら、我らとともにコソヴォで戦わぬ者たちよ。
  汝らはどれほどに望もうとも子孫を残すことはできぬ。男児を生すことも女児を生すこともできぬ。
  その手から蒔かれた麦が実ることは決してない。黒い葡萄も白い小麦も、決して実ることはない。


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(コソヴォ古戦場の記念塔にラザールの呪いが記されている)

「――父と子と聖霊の御名において、そして祖国セルビアのために……騎士たちよ、前へ!」

ラザールが大音声を発すると、セルビアの騎士たちは一斉に剣を抜き放った。並足、早足、駈足、そして疾走。たちまち軍馬の群れは怒涛の勢いで突撃に移る。

オスマン軍の陣営からは一切の鬨の声が揚がらず、かわりに不気味な太鼓の音が鳴り響いた。
一定のリズムを刻む太鼓の音とともに、機械のように歩調を合わせてイェニチェリたちが前進を開始する。
湿原で翼を休めていたクロウタドリたちが時ならぬ気配に怯えて一斉に空へ飛び立った。その羽音にもかき消されることなく、オスマン軍の太鼓は鳴り続ける。
その響きはオスマン帝国がアジア・アフリカ・ヨーロッパの覇者となる日まで、決して消えることはないだろう。

コソヴォの戦い」は、この戦場に集った誰もが記憶にないほど激しいものになった。
オスマン朝がバルカン半島の覇権を確立するか、ダーダネルス海峡の彼方に追い返されるか。誰もが今日の戦いこそ、今後数世紀にわたる東欧の運命を決するのだと知っている。
が、激闘のさなかにとんでもないことが起こった。連合軍の配置を密告すると称してオスマン軍の本営に入ったセルビア騎士が、スルタン・ムラト1世を刺し殺したのだ。
繰り返すがセルビア諸侯は連合軍とオスマン軍の両陣営に参加している。敵味方の区別が不分明ななか、一瞬の隙を衝いての暗殺だった。


Yıldırım Bayezid(バヤズィット稲妻王)

Битва на Косовом поле.
(セルビアか旧ソ連の映画っぽい)


オスマン軍の本営は大混乱に陥った。打ち鳴らされる太鼓の響きも一瞬途絶えかけた。事情を知らない前線の兵士たちも太鼓の響きの異変を感じて思わず手を止めた。
そのとき一人の若者が馬を駆って本営に駆け込んできて、慌てふためく兵士たちに怒声を浴びせた。

「打て、打て、なぜ打たぬ! 我らの勝利は決して揺らぎはせぬ!」

彼はムラト1世の子、バヤズィットであった。
時ならぬ混乱の理由を知ったバヤズィットは直ちにスルタンとして即位し、即刻、同じ戦場で戦っていた実の兄弟たちを全員殺害した。王位継承に異を唱える可能性がある者たちを事前に抹殺したのである。
折しもオスマン軍は左翼をセルビア騎兵に突破され、敗走寸前の状態だった。バヤズィットは最前線に取って返すと自ら戦いに加わった。
バヤズィットの勇戦につられて兵士たちも態勢を立て直し、セルビア軍を押し返す。バヤズィットは連合軍の盟主ラザールをはじめ多数のセルビア貴族たちを捕え、オスマン軍を勝利へと導いた。

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(バヤズィット1世)

それからのバヤズィットは東へ西へと息つく間もなく戦争に明け暮れることになる。
「ヒュダヴェンディギャール(帝王)」と謳われたムラト1世の横死によって、オスマン朝に降った諸属国による反乱や、近隣諸国の侵攻が相次いだのだ。

アナトリアではカラマン君侯国がサルハン・アイドゥン・メンテシェなどの周辺諸国を糾合してオスマン領に侵攻。
バヤズィットはラザールの遺児ステファンをセルビア公に立てて臣従を誓わせると、電光石火の勢いでアナトリアに向かい、たちまち戦線を押し戻した。
属国としたビザンツ帝国から人質として出された皇太子マヌエルを伴ってアナトリア最後のビザンツ帝国領フィラデルフィアを攻め落とし、1391年にはカラマン君侯国の首都コンヤを包囲して広大な領土を割譲させる。

直後にマヌエルがオスマン軍を脱走した。コンスンタンティノポリスで父帝ヨハネス5世が死去したことを知り、帝位継承とオスマン朝からの自立を目論んだのだ。
バヤズィットはこれを追跡してコンスンタティノポリスを包囲し、新帝マヌエル2世に臣従を誓約させた。
ところが二年後の1393年にマヌエルの弟テオドロスがモレアス(ペロポネソス半島)でオスマン朝への敵対姿勢を露わにした。激怒したバヤズィットは再びコンスタンティノポリスを囲んだ。

帝都コンスタンティノポリスは千年の時を経て、なお難攻不落を誇る要塞都市である。
バヤズィットは一隊をこの都を張りつけ、遠巻きに包囲した。海軍力を持たないオスマン朝はダーダネルス海峡を封鎖することこそできなかったが、陸路で帝都内外を行き来することは不可能となった。包囲は実に七年に及んだ。

その一方、バルカン半島での勢力拡大も着々と進め、ボスニアやアルバニアに兵を進め、ブルガリアの反乱を粉砕して首都タルノヴォを占領し、ドナウ以南を完全に制圧。
バヤズィットの進撃は常に雷のように迅速で、その戦いは稲妻のように苛烈だった。いつしか人々は彼を「ユルデュルム(稲妻王)」と呼ぶようになった。
しかし、そんな稲妻王がどうしても勝てなかった相手もいる。

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(ワラキアは現在のルーマニア南部)

ドナウの北にワラキア公国という国がある。
ワラキアはブルガリアやハンガリーやジョチ・ウルスといった諸大国が衰退するなか、東欧辺境にいつの間にやら出現した小国である。
しかしその国民は自分たちをローマ人の末裔と信じ、その土地を「ロマニア」と呼んで誇っていた。今日の「ルーマニア」である。

当時ワラキアを支配していたのは国公ミルチャ1世。のちに「ミルチャ老公」と呼ばれる人物である。
外交と内政の才によって国内を安定させたミルチャはドナウ下流域への進出を図り、同じ地域を狙っていたバヤズィットと衝突した。
バヤズィットはワラキアごとき簡単にひねりつぶせると思っていたに違いない。しかし、ミルチャは1394年10月にカラノヴァサの戦いで稲妻王を見事に打ち破った。バヤズィットにとって人生で最初の敗戦であったと思われる。
雪辱を期すバヤズィットは4万の軍を集めてドナウを渡り、真っ直ぐワラキア中部に侵攻した。ミルチャは国中の農民や豪族をかき集めても1万弱の軍しか組織できなかったが、ワラキアの森と湿地に潜んでしつこくオスマン軍への襲撃を繰り返した。
オスマン軍は徐々に疲弊し、1395年5月にロヴィネ平原で本格反攻に転じたミルチャによって徹底的に叩きのめされた。

ミルチャの勝利は伝説となり、彼は「キリスト教徒の諸侯のうちでもっとも勇敢にして聡明な人物」と称えられるようになる。

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(ミルチャ老公)


ワラキア公ミルチャの背後には、それよりもはるかに強大な敵がいる。それをバヤズィットは知っていた。ハンガリー国王ジギスムント。のちの神聖ローマ帝国皇帝である。

そもそもハンガリーは欧州中部で最強の大国だった。数百年前にアジアの草原からやってきたハンガリーの民は今なお尚武の気風を保ち、騎馬戦闘にも熟達している。
また、ハンガリーを支配したアールパード朝やアンジュー朝の王たちは巧みな政略結婚や野心的な対外攻勢によって、北はポーランドから南はダルマチアまで、幾度も王国の領土を拡張した。

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(中世ハンガリー王国の最大勢力圏)

バルカン半島の二大国、セルビアとブルガリアがともにオスマンに屈服したいま、ハンガリー王国はオスマン朝と直接国境を接するに至った。
ジギスムントは欧州諸国に使者を遣わし、いま一度の反オスマン大連合軍の結成を呼び掛けた。教皇庁はこの連合軍に「十字軍」のお墨付きを与えた。

まもなく、野心と功名心に燃える騎士たちが欧州各地から続々とハンガリー王国の首都、ブダ(現在のブダペスト)に集まりはじめた。
ジギスムントはオスマン軍をブダに引きつけ、長途の行軍に疲弊させる策を立てた。だが、西欧から来た諸侯はこの戦略に激しく異を唱えた。
彼らはオスマン軍と戦った経験を持たない。莫大な戦費を費やしてここまで来たからには、一日も早く異教徒どもを討ち滅ぼして武勇の誉と山のような戦利品を勝ち得たいではないか。

10万の「十字軍」がハンガリー平原を全速で南下する。ジギスムントは現地事情に精通したワラキアのミルチャ老公に「十字軍」の指揮を委ねようとしたが、西欧諸侯は当然これにも猛反発した。
バルカン半島の町々は「十字軍」によって次々に略奪された。正教を奉じる東方のキリスト教徒たちは、西欧の騎士たちから見れば異教徒同然にしか思えなかったのだ。
現地のキリスト教徒たちは「十字軍」から逃げ惑い、むしろオスマン朝の側に進んで情報を提供した。バヤズィットは満を持して「十字軍」を待ち構えた。

1396年9月、「十字軍」はブルガリア北端のニコポリスに到達し、この町を包囲した。
ニコポリスはドナウ南岸の高台の上に聳える要害である。攻めあぐねた「十字軍」は包囲態勢を敷いたままダラダラと酒宴を続け、前哨戦で捕虜にしたオスマン軍の将兵たちを気慰みに処刑して過ごした。
そこをバヤズィット率いるオスマン朝の大軍が急襲する。
まさに夜明けの稲妻のごとく。

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Doğu'da Şeytan(東の魔王)

敵軍急襲を知った「十字軍」では、待ち望んだ武功に目がくらんだ西欧の騎士たちがジギスムントやミルチャ老公の制止も聞かず、我先に陣営を飛び出していった。統制も何もない滅茶苦茶な開戦だった。
オスマン軍の側はまったく対照的に、隅から隅まで統制が行き渡っていた。イェニチェリ、アクンジュ、スィパーヒ騎兵隊、属国の補助軍や不正規軍らはバヤズィットの意志を完璧に体現し、機械のように正確に機動した。
「十字軍」の騎士たちはオスマン軍によって次々に粉砕され、殺され、捕えられた。
ジギスムントとミルチャ老公は、ただただ唖然として惨状を見つめるばかりだった。これほど馬鹿げた戦いは見たことも聞いたこともなかった。

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(ジギスムントの敗走)

戦場を辛くも逃れたジギスムントはドナウ川を下ってコンスタンティノポリスに辿りつき、地中海を経てハンガリーに帰国した。
ジギスムントが狭いダーダネルス海峡を通過するとき、オスマン軍は海岸に捕虜たちを並べて嘲ったと伝えられている。
ミルチャ老公はハンガリーによる支援の望みを絶たれ、オスマン朝との最前線でひとりはかない抵抗を続けるしかなかった。

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(その後のジギスムントが登場する)


バヤズィット1世率いるオスマン軍がニコポリスの戦いで圧倒的な勝利をおさめたことが知れ渡ると、全ヨーロッパは恐怖に包まれた。

長い包囲に苦しむコンスタンティノポリスでは、皇帝マヌエル自身が西欧諸国に遊説の旅を決意した。
幸いにも海はオスマン軍に封鎖されていない。イタリアの艦船に乗り込んだ皇帝は地中海を越え、遠くフランスやイングランドまで足を運んで必死に援軍を乞い求めた。
だが、ニコポリスの衝撃を受けた西欧諸国では、誰ひとり帝都救援を名乗り出ようとはしなかった。

第二のアッティラが東の地平に登場した。今や彼らの大陸の一角を制した異教大国の勢いは止めようもない。稲妻王の進撃を阻むには奇跡を待つしかないと思われた。
その奇跡は、ほどなく顕在する。


――アミール・ティムール・キュレゲン

その男の名前がオスマン朝の人々の口の端に上りはじめたのはいつ頃からだろうか。
遠くマー・ワラー・アンナフルを拠点として、わずか十数年のうちにイランを制し、キプチャクを制し、西ユーラシアを覆う巨大な帝国を築き上げつつある男。
東の魔王。

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(ティムール)

ルメリア方面からの脅威を絶ったバヤズィットは以後数年間、もっぱらアナトリアでの勢力拡大に専念する。
1398年にエルテナ君侯国とカラマン君侯国、1400年にエルジンジャン、1402年にゲルミヤン君侯国を征服し、オスマン朝の領土はアナトリア半島のほぼ全域を覆う。
そこにティムールに追われた黒羊朝の君主、カラ・ユースフが庇護を求めて亡命してきた。この事件がオスマン朝とティムールとの関係を決定的に悪化させる。

1402年、「七年戦役」のさなかにあるティムールは20万近い大軍を率いてアナトリアに侵入した。オスマン朝に追われた東部アナトリアの旧君侯たちを加え、ティムールの軍容はさらに膨らみ続けた。
折しもコンスタンティノポリス包囲陣のなかにあったバヤズィットは、七年にわたった包囲をついに解いて全軍を海峡の東に移動させる。
両軍は7月20日、中部アナトリアのアンカラで激突する。

ティムールは世界の歴史上で最強の名将である。

アンカラの戦い」は夜明けから夕暮れまで続き、激闘の果てにオスマン軍は一万数千の戦死者を出して崩壊した。
残軍のほとんどは王朝の血脈を維持するために王子たちとともに戦場を離脱。孤立したバヤズィットは直属軍が全滅すると単騎逃走を図ったが、馬から振り落とされて捕虜となった。

魔王はバヤズィットをきわめて丁重に待遇したが、バヤズィットの自尊心は捕囚の屈辱に耐えられなかった。1403年、バヤズィットは捕虜として護送されているなかで病死した。
オスマン・ベイの建国からおよそ一世紀。羊飼いの一族からルメリアとアナトリアにまたがる大国にまで発展したオスマン朝はここに滅亡した。


Amaç Konstantinopolis(帝都を夢見て)

――というのは正しくない。
オスマン朝は滅亡寸前に追い込まれた。ティムールの軍勢はアナトリア全土を制圧し、バヤズィットに追われた君侯たちをすべて元の領土に据え直した。
しかしアンカラの戦場から逃れたオスマン家の王子たちと軍隊は一時ルメリアに退避して、魔王の嵐を凌ぎ切ったのだ。

ティムールが去ると、バヤズィットの遺児たちのあいだで王位継承をめぐる内乱がはじまった。
およそ10年にわたった内乱の末、最後に勝利したのはアマスィヤの総督をしていたバヤズィットの子メフメトだった。

1413年に正式にスルタンとして即位したメフメト1世は「チェレビー(典雅王)」という綽名で知られる。
彼は内乱に勝利するためにビザンツ皇帝マヌエル2世や、再び自立に傾いたセルビア公ステファンと同盟を結び、内乱平定後も積極的に外征をしようとはしなかった。
国内においては名門チャンダルル家をはじめとするテュルク系貴族たちを優遇し、ひたすら国力の回復につとめた。

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(メフメト1世と高官たち)

1421年にメフメト1世が死去すると、その子ムラトが即位する。オスマン朝で二人目のムラトなので、後世には「ムラト2世」と呼ばれるスルタンである。
それまで再興されたオスマン朝はビザンツ帝国との小康を維持していたが、この時にわかに関係が悪化する。
メフメト1世の死を好機と見たビザンツ帝国が、アンカラの戦いで死んだはずのメフメト1世の兄弟、ムスタファを名乗る人物をオスマン朝の新スルタンとして擁立し、内政干渉を図ってきたのだ。
ムラト2世は激怒し、この「偽ムスタファ」を討ち滅ぼすとコンスタンティノポリスを包囲した。オスマン朝は再び牙を剥く大国として蘇りつつあった。

ムラト2世の時代にはハンガリー王国との争いが断続的に続いた。
この頃、ハンガリー王国では名将フニャディ・ヤーノシュが実権を掌握し、王国南部に広大な私領地を得て、強力な常備軍によってオスマン朝と熾烈な攻防を繰り広げたのだ。

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(フニャディ・ヤーノシュ)

フニャディ・ヤーノシュはボヘミア(チェコ)で神聖ローマ帝国の大軍に対して頑強に抵抗を続けたキリスト教の少数派、フス派の戦術を取り入れ、多量の火薬兵器によってオスマン軍を圧倒した。
フニャディ・ヤーノシュの軍隊を前に幾度も敗走したオスマン軍も急速に火器を導入し、イェニチェリたちに大量の小銃を支給した。15世紀初期のバルカン半島はユーラシア世界における戦術革新の中心であった。

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(小銃を持つイェニチェリ)

フニャディ・ヤーノシュとオスマン朝の最終決戦は1444年のヴァルナの戦いである。
急速に国力を増強していくオスマン軍に勝ち続けられなくなったフニャディ・ヤーノシュはハンガリー国王ウラースローを名目的な最高指揮官に戴き、欧州諸国に援軍を呼びかけてブルガリアに進軍した。

秋の小雨が降り続くなか、ヴァルナの湿地帯で十数万の軍勢が衝突する。ハンガリー王国摂政として実質的な全軍指揮の任にあたっていたフニャディが本営を離れたとき、国王ウラースローが突然オスマン軍に向かって自ら突撃を始めた。
ハンガリー軍はオスマン軍の中央を突破し、スルタンの本陣を守るイェニチェリたちのただ中に突入した。不意を衝かれたイェニチェリたちは大混乱となり、ハンガリー軍はムラト2世の眼前まで迫った。
ところが、ここで悲劇が起こった。まさしく目と鼻の先にムラト2世の姿を捉えながら、ハンガリー王ウラースローの馬が転倒したのだ。
泥濘に投げ出されたハンガリー国王はたちまちイェニチェリたちに殺害された。これによってハンガリー軍の指揮系統は崩壊した。
フニャディ・ヤーノシュは辛くも残軍を取りまとめて撤退する。バルカン半島の覇権は再びオスマン朝の手に帰した。

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(ハンガリー王ウラースローの突撃)

ハンガリーの力が後退したいま、東欧でオスマン朝に従おうとしない勢力はほとんど残っていない。ミルチャ老公の子で、長年フニャディ・ヤーノシュと共闘してきたワラキア公ヴラド2世もオスマン朝に臣従した。
ただひとつだけ、オスマン朝の領土の中心に小さな都市国家が独立を維持している。それこそはかつて地中海全域を支配した古代ローマ帝国の成れの果て、今や帝都のみを辛うじて維持するビザンツ帝国である。

ムラト2世の頃になると、オスマン朝はいつでもビザンツ帝国を滅ぼせるだけの力を取り戻している。だが、オスマン朝はあえてこの小さな「帝国」を温存し続けた。

その理由はいろいろとある。
いかに衰えたりといえども、この国は紛れもなく「ローマ帝国」そのものである。千数百年にわたる歴史はあまりに重く、見えざる鎧となって侵略の手を止めさせる。
さらに、うかつに帝国を滅ぼせば欧州諸国がどのような反応を見せるか、想定しづらいところもある。

また、オスマン朝内部の事情もある。
メフメト1世の帝国再興以後、オスマン朝ではチャンダルル家をはじめとするテュルク系貴族たちの権益が大きくなっている。
大規模な戦争を行なえばスルタン直属のイェニチェリやアクンジュが前面で活躍をすることになり、貴族たちの立場が脅かされる。
過度の王権強大化を避けたい宮廷貴族たちは、スルタンが帝都に色気を見せるたびにそれとなく反対し、結果としてビザンツ帝国を延命しつづけて来た。

だが、ここで。

1451年、ムラト2世が病死し、19歳の若きスルタンがエディルネで即位する。彼の名はメフメト。後世に「メフメト2世」と呼ばれる君主である。
古代ギリシアの伝説に憧れ、アレクサンドロス大王を崇拝するこの若者は、永遠の都コンスタンティノポリスを陥落させて歴史に名を刻むことを熱望していた。

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(メフメト2世の即位)

玉座についたメフメト2世は、父が定めた師傅にして大宰相たるチャンダルル・ハリル・パシャを呼び出した。そして反論を許さぬ口調で、彼は口にしたのだった。

「ラーラ、リュトフェン・コンスタンティーニエ!(師よ、あの町を俺にくれ)」、と。

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(オスマン帝国前半期の歴史について要領よくまとまっている)

イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐

鉄の嵐、炎の槍

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(ミハイル・ゲラシモフによるティムールの復顔)

フレグ・ウルス崩壊後に群雄割拠となったイラン高原で大勢力となったのは、バグダードを都にアゼルバイジャンまでを押さえるジャライル朝と、イラン高原中南部に版図を広げたムザッファル朝だった。
ジャライル朝はフレグ・ウルスを構成する有力部族のひとつ、ジャライル部によって打ち立てられた政権で、英主シャイフ・ウヴァイスの時代に宿敵チョバン朝とジョチ・ウルスを退けてアゼルバイジャンまで版図を拡大。
ムザッファル朝はアラブ系の政権で、残虐非道で知られるムバーリズッディーンという一代の梟雄が、フレグ・ウルス崩壊後の混乱に乗じて建国した国である。

トクタミシュの侵入によって第一次西イラン遠征(「三年戦役」)を中途で切り上げたティムールは、1392年に再びこの地に舞い戻って来た。今度の遠征は5年間に及び、「五年戦役」と通称されることになる。
その頃ジャライル朝はシャイフ・ウヴァイスの子スルタン・アフメドの治下にあり、ムザッファル朝ではムバーリズッディーンの孫たちが内紛に明け暮れていた。

5年戦役
(五年戦役)

前回ティムールが制圧した地域では、覇王不在のうちに在地勢力が占領軍を追い払って続々と独立を回復していた。ティムールはそれらを次々に叩き潰していく。
破壊と虐殺を繰り広げながらカスピ海南岸のマザンデラン地方を西進し、クルディスタンとルリスタンを制圧。
将来の後継者と定めていた嫡孫ムハンマド・スルタン(早逝した嫡男ジャハーン・ギールの忘れ形見)にフレグ・ウルスの故都スルターニーヤ攻略を命じ、自身は南イランに転進して難攻不落の要塞ガルエ・セフィードを攻め落とした。
ここで彼を待ち受けていたのがシャー・マンスールという男だった。

シャー・マンスールはティムール不在に乗じてイスファハーンとシーラーズを奪還したムザッファル朝の王族である。対立する親族の両目を潰して権力を獲得したとも伝えられる。人道的観点からすれば、ティムールと大差はない。
1393年5月、彼は三万のティムール軍をわずか四千騎で迎撃し、全軍を率いてティムール本隊に突入した。狙いはただ一つ、ティムールの首級のみ。
混戦のなかでティムールは親衛隊から引き離された。馬を走らせて迫ったシャー・マンスールは大剣を抜き放ち、ティムールの頭を二度斬りつけた。
このときティムールは57歳。「鉄」を意味する名の通り、頑健な体躯と堅固な精神力を誇っている。
大剣を脳天で受け止めたティムールは、兜のひさしから炯々と光る目で頭上の敵を睨みつけた。そこに恐怖や動揺の影は全く窺えなかった。
三度目の打撃を与えようと剣を振りかぶったシャー・マンスールは、その眼光に射られて思わず身を凍らせた。その瞬間、一群の兵士たちが駆けつけて、たちまち覇王と野心家のあいだに人間の壁を作った。

「退け!」

大音声をあげて馬首を翻したシャー・マンスールは、たちまちティムールの末子シャー・ルフに出くわした。刃を交えること数合、この野心家はあえなく打ち取られた。ティムールは残るムザッファル朝の王族を全て処刑したという。
次の目標はジャライル朝である。イラーク平原へ兵を進めたティムールはスルタン・アフメドに無条件降伏の要求を突き付けた。

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(ティムールはチェスの原型である「シャトランジ」の達人だった)

スルタン・アフメドは山のような財宝と、ペルシア修辞学の精華というべき外交書簡を寄越してきた。使者は美辞麗句を洪水のようにまくしたてた。
しかし無用の虚飾や虚言を嫌悪するティムールに対して、それらはまったく功を奏さなかった。

「もうよい、黙れ。――結論はバレ(YES)かネヘイル(NO)か?」
「ね、ね、ネヘイル……」

交渉失敗を悟るや、スルタン・アフメドは即刻遁走。
ティムールは大軍を率いて古都バグダードに入城し、庶長子ウマル・シャイフをファールス総督、三男ミーラーン・シャーをアゼルバイジャン総督に任命した。イラン高原西部の二大勢力は、これで事実上消滅した。
ところがこの頃、はるか北方で異変が起こっていた。一昨年にクンドゥズチャの戦いで大敗したトクタミシュが再び兵を集めることに成功し、キプチャク平原奪還に乗り出したのである。

トクタミシュを屈服させたティムール
(トクタミシュを破るティムール)

アゼルバイジャン北部で勢力を立て直したトクタミシュは諸国に密使を送り、反ティムール包囲網を築き上げた。
ジャライル朝のスルタン・アフメド、グルジア王ゲオルギウス7世、リトアニア大公ヴィタウタス、黒羊朝のカラ・ユースフ、オスマン朝のバヤズィット1世、そしてエジプト・マムルーク朝のスルタン・バルクークらがこれに参画した。
ティムールに追われたジャライル朝のスルタン・アフメドはマムルーク朝に亡命し、黒羊朝のカラ・ユースフはオスマン朝の庇護を求めた。いずれも逃亡者引き渡しを要求するティムールの使者を殺害して敵意を露わにした。
ティムールは策謀の中心にいるトクタミシュに対する膺懲を決意する。決戦の場はカフカス山脈北麓のテレク河畔となった。

1395年4月14日、ティムール軍の突撃によってテレク河畔の戦いが幕を開ける。

激戦は三日三晩続いた。白昼の空は飛び交う矢で暗くなった。白兵戦のさなかにトクタミシュ軍の最精鋭がティムール本営に突入し、またも覇王は親衛隊から切り離されて絶体絶命の危機に陥った。
馬はなかった。59歳のティムールは砂塵のなかで次々に矢を放ち、矢が底をつくと槍を手にして戦った。槍が折れると刀を振るって敵を怯ませた。
そこにようやく親衛隊が駆け付け、直ちに円陣を組んで主将を守った。

「大アミールは危機にあり!!」

軍旗が高く掲げられ、激しく打ち振られる。
七つの大隊に分かれたティムール軍の兵士たちが四方八方から結集し、まさにティムールの眼前が大戦闘の中心となった。このときティムールの軍勢は恐るべき新兵器、「炎の槍」を斉射した。
「炎の槍」は原始的な火縄銃と推測されている。轟音とともに放たれる鉄と炎の嵐を前に敵軍は大混乱に陥った。キプチャク騎兵たちは雪崩を打って潰走し、膨大な戦死者によってテレク川は真っ赤に染まった。
ティムールは最も迅速な騎馬部隊に命じてトクタミシュを千キロ近くも追撃したが、彼は追手を振り切ってシベリアの密林へ逃げ去った。

この激闘によってティムール軍の側も全軍の約半数が死傷した。通常、これほどの損害が生じれば軍事行動は不可能となる。だが、覇王は退かなかった。
そのまま北進してトクタミシュに従属するルーシ(ロシア)諸公国を蹂躙し、ジョチ・ウルスの旧都サライを完全に破壊。アストラハンを劫掠し、膨大な戦利品を得る。
これ以前ティムールによってジョチ・ウルスの君主に任命されていたテムル・クトルグと補佐役エディゲは改めてティムールに忠節を誓い、キプチャク平原が再び背反する気遣いはなくなった。
帰途は草原を焼いてティムール軍を妨害した北カフカスのチェルケス人を粉砕し、ダゲスタンの山地民を殺戮しながら進軍。北部イランを経由して5年ぶりにサマルカンドに帰還した。

ティムールは都市を奪い、国を滅ぼすたびに、学者や技術者をサマルカンドに送ってモスクや学院や病院の建設に従事させた。
各地から強制移住された人々が周辺に多くの集落をつくり、現世の楽園かと見紛う数々の庭園も散在する。
西ユーラシア全土を戦乱の嵐が覆うなか、覇王の都サマルカンドだけは年ごとにいよいよ壮麗の度を増していくのだった。

ティムールの宮廷
(ティムールの宮廷生活)


デリー興亡史

モンゴル帝国がイスラーム世界のほぼ半分を制圧した時代、インド亜大陸北部に強大なムスリムの政権が自立を維持していた。
奴隷王朝ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝
ヤムナー河畔の帝都デリーを中心として、およそ三世紀にわたって興亡した五つの王朝を「デリー・スルタン朝」と総称する。

その興隆はモンゴル帝国とほぼ同時期。
アフガニスタンに興ったゴール朝の東方総督、クトゥブッディーン・アイバクがデリーで独立したのは、まさにチンギス・カンが即位した西暦1206年のことだった。
奴隷王朝はイルトゥトゥミシュや女王ラズィーヤのような優れた君主を輩出しながらも、「チャハルガーニー(四十人衆)」と称されるテュルク系貴族たちの統制に苦しみ、政権の安定を維持できなかった。
建国当初にアイバクが征服した南部の諸城砦、カーリンジャル、グワーリオル、アジメールなどはヒンドゥー諸侯に奪還され、デリーから遠い東部のビハールやベンガルでは独立の動きが絶えなかった。モンゴル帝国への警戒も怠れなかった。

1266年に即位したバルバンは公正な施政によって民衆の支持を得るとともに、スパイを放って貴族たちの動向を監視し、不正を冒した者は法に則って処断した。
街道を荒らす盗賊団を壊滅させ、反抗的なラージプート(ヒンドゥー軍事貴族)の砦を打ち壊し、王権を確立すべく、廷臣たちには平伏して自身の足先に接吻するよう要求した。
宮廷では笑うことも冗談を口にすることもせず、乱れた姿を人に見られぬように酒も口にしなかったという。「賤しい者を目にすると余の眼は怒りに燃え、余の手は剣を掴む」という言葉も伝えられる。
1287年にバルバンが死ぬ頃までにはチャハルガーニーは抑えつけられ、スルタンの独裁が確立された。
だが、バルバンの統治は多方面の不満と反感を買っており、わずか3年後にはジャラールッディーン・フィールーズなる軍人がデリーを襲って奴隷王朝を滅ぼした。

ジャラールッディーン・フィールーズはもともとアフガニスタン南部のヘルマンド渓谷からやって来たハルジー族という部族の長で、バルバンの時代には西北国境でモンゴル帝国からの防衛を担っていた。
部族名にちなみ、彼が築いた王朝はハルジー朝と呼ばれることになる。
彼はすでに高齢で、この時代としては慈悲深く温厚な人物だった。
アフガン人の支配に不満を持ったテュルク系貴族たちが反抗しても宥免し、兵士の生命を損ずることを恐れて敵城の包囲を解き、モンゴルの捕虜たちをイスラームに改宗させて助命した。しかし、そんな人柄が彼の死を早めた。

アラーウッディーン・ハルジー
(アラーウッディーン・ハルジー)

ジャラールッディーン・フィールーズの甥、アラーウッディーン・ハルジー
アワドの長官であったこの若者は、伯父の寛容な施政に不満を抱く貴族たちを集めてデカン高原に向かった。
これまでデリー・スルタン朝の勢力はヒンドゥスターン平原一帯に限定されており、ヴィンディヤ山脈とナルマダー川を越えた中部インドや南部インドはほとんど未知の土地だった。
見知らぬ大軍の接近に混乱するヤーダヴァ朝の都デーオギリ。アラーウッディーンはそこを襲撃し、莫大な財宝を奪い取った。
彼は財宝を献上すると称してカラの町に伯父を呼び出した。スルタンは顧問官たちの警告を無視し、ごく少数の供回りだけを連れて甥の陣営にやってきた。
甥が足元に跪くと、スルタンは幼い頃からやってきたように甥の頬を優しく叩き、頭を撫でた。そのとき、突然兵士たちが雪崩れ込んだ。
伯父の手を撥ね退けて立ち上がったアラーウッディーンは冷厳な声で兵士たちに命じた。

「この老いぼれを斬り捨てろ」

倒された老人は驚愕に目を瞠ったまま斬首された。


アラーウッディーンはデーオギリから持ってきた財宝を貴族たちにばら撒いて買収し、買収を拒んだ者たちは捕えて両目を潰し、地下牢に放り込んだ。
彼は強力な物価統制令を発布。商品の備蓄を禁じ、余剰穀物は国庫に収納した。目方をごまかした商人に対しては、足りない目方の分をその身体から切り取るという厳刑を科した。商人が反抗したり逃散すれば軍隊を派遣して連れ戻した。
農民に対しては全ての耕作地と牧草地を徹底的に調査し、全収穫の五割を課税した。農民たちがそれを拒否したり逃散すれば、同じように軍隊を派遣して連れ戻した。
貴族たちには密偵を放ち、無許可での通婚や宴会を陰謀のもととして禁止し、私有財産も制限した。秘密警察と軍隊、恐怖と暴力が彼の治世の特色だった。

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(ランタンボール城塞を攻撃するアラーウッディーン・ハルジー)

こうしてかき集めた富を使って途方もない規模、「公称」ではなく「実数」で三十万から五十万にのぼると見られる騎馬軍団を編成してモンゴル軍に備えた。
その頃モンゴル帝国では「カイドゥの乱」が終わろうとしており、カイドゥの副将ドゥア(後のチャガタイ・ウルス建国者)が起死回生を策してインド遠征に乗り出した。
アラーウッディーンは伯父がイスラームに改宗させ、デリーに住居を与えた四千人のモンゴル人たちを虐殺。デリー北郊でモンゴル軍を撃破し、和平を求めるモンゴルの使節団を象に踏みつぶさせた。

モンゴルの脅威が消えるとアラーウッディーンは有り余る軍事力を南へ向けた。ラージプート諸侯の諸王国、ランタンボール、チトール、マールワー、グジャラートを攻略し、ついでにイスラーム商人の居留地カンバートも略奪した。
そこで捕えたマリク・カーフールという宦官を「マリク・ナーイブ(王の副将)」に取り立て、大軍を与えてさらに南方の征服を命じる。
ハルジー朝の軍隊はデカン高原を南下し、ヤーダヴァ朝、カーカティヤ朝、ホイサラ朝といったヒンドゥー諸王国を次々に屈服させる。続々とデリーにもたらされる戦利品は天文学的な数量に達した。
驕るアラーウッディーンは「イスカンダル・サーニー(第二のアレクサンドロス)」を自称し、イスラームに代わる新宗教の創始すら目論んだという。
だが、1316年1月にアラーウッディーンが病死すると無理に無理を重ねたハルジー朝の大帝国はたちまち崩壊しはじめた。
専横を極めたマリク・カーフールはスルタンの死の翌月に貴族たちに殺害され、無能な後継者のもとで内乱が広がった。

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(アラーウッディーンが建設したアラーイー・ダルワーザー)

1320年、テュルク人とモンゴル人のあいだに生まれ、モンゴルの侵略軍を29回退けたという武将ギヤースッディーン・トゥグルクがデリーに入り、新しい王朝を創建した。これが「トゥグルク朝」である。
だが、彼は5年後に実の息子ムハンマド・ビン・トゥグルクに謀殺される。

ムハンマド・ビン・トゥグルク
(ムハンマド・ビン・トゥグルク)

ムハンマド・ビン・トゥグルクは父王ギヤースッディーン・トゥグルクのために離宮を建設した。その建物は一定の加重と震動によって崩落するように設計されていた。
父が離宮に入ると、彼は祝賀のために前庭で戦象を行進させた。たちまち離宮は崩れ落ち、ギヤースッディーン・トゥグルクは圧死した。1325年のことである。


ムハンマド・ビン・トゥグルクに一時仕えた大旅行家イブン・バットゥータは彼をこう評した。

「この王ほど施しと流血がやみつきになっている人間もいない。王宮の門前には裕福になった貧者がいないときも、処罰を受ける人間がいないときもない」

彼は書家として名高く詩歌に通じ、科学や医学、そして神学に対する深い知識を持っていた。信仰に厳格だったが、しばしば異端として糾弾された哲学にも大いに関心を持ち、ヒンドゥーの聖者たちとも好んで語り合った。
性格は寛大だが非情、慈悲深いが残虐。そしてその行動は、良かれ悪しかれ己ひとりの独断に満ちていた。

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(イブン・バットゥータの旅行記全訳)


ムハンマド・ビン・トゥグルクはデリー・スルタン朝が既にインド亜大陸の大部分を制圧し、略奪遠征による財源調達が不可能となったことから、ホラーサーン地方への遠征を計画して六十万の軍隊を集めた。
六十万の軍隊が集まるとデリーの食糧事情が逼迫したので、彼は遷都を思い立った。直ちに宮廷をはるか1500キロの彼方、ヤーダヴァ朝の都であったデーオギリ(ダウラターバードと改名)に移し、デリーの全市民もこれに従うべきことを命じた。
折しも真夏のこととて、炎熱のさなかに行われた強制移住によって何万もの人々が死んだという。

加えて、集めた兵士たちに支払う貨幣が物理的な意味で足りなくなったので、青銅や真鍮の貨幣を大量に鋳造した。
当然ながら経済はアラーウッディーン・ハルジーの時代並みに大混乱し、六十万の軍隊は一向に動きが取れないまま約1年間で自然消滅したという。
一方遷都はといえば、ダウラターバードにいては北インドを統治できないことが判明したため二年後に沙汰やみとなり、再び何万もの人々が北への移住を強いられたのだった。
なお、ムハンマド・ビン・トゥグルクは別途中国遠征を計画したこともある。このときはヒマラヤ山脈を越えて中国に攻め込もうと強引に山岳地帯に分け入ったものの、進軍不可能となって撤退している。

トゥグルク朝の最大版図
(トゥグルク朝の最大版図)

ムハンマド・ビン・トゥグルクは決して愚者ではない。税制改革や農地改良に熱心に取り組み、運河や街道の整備も進めている。また、家柄ではなく才能を重視して人材を取り立て、ヒンドゥー教からの改宗者をも重用した。
ただ、どのような政策をとっても、何もかもを自分一人で決定して周囲の進言を一切聞き入れなかったのが仇となった。結局はあらゆる階層の人々がムハンマド・ビン・トゥグルクに不満を持ち、彼の治世が続くにつれて反乱が相次いだ。

1347年には南部に派遣されていたアラーウッディーン・ハサンという部将が独立し、バフマニー朝を建てた。
1356年には同じく南部でヒンドゥー教徒のハリハラとブッカの兄弟が反乱を起こし、ヴィジャヤナガル朝を建てた。
バフマニー朝は南インドで最初の本格的なイスラーム国家であり、やがてデカン高原西部の大半を制圧する。
また隣接するヒンドゥー国家ヴィジャヤナガル朝は、後に「ヴィジャヤナガル帝国」といわれるほどの大国となる。両者は南インドの覇権をめぐって果てしなく争いを続けることになる。

ムハンマド・ビン・トゥグルクが1351年に病死した後、北インドでもマールワ、ベンガル、ゴンドワナ、シンド、グジャラート、ジャウンプールなど地方政権が続々と誕生し、デリー・スルタン朝は分裂と弱体化を極めた。

――世界の主の領土はデリーからパーラムまで

これは14世紀末の戯れ歌である。世界の主とはデリーのスルタン、そしてパーラムとは現在デリー国際空港が位置する首都近郊の地名である。
中央アジアの大征服者ティムールが突如インド亜大陸に侵攻したのは、まさにそのような時代であった。

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(14世紀の南インド)


憤怒の被造物

「余は、神が自らの憤怒のなかで創った者、神の憤怒によって運命づけられ、絶対の権力を授けられた者である。神は余の心から一切の哀れみの念を追放し給うた」

(ティムール、マムルーク朝への書簡より)


「ヒンドゥスターンの王らは異教徒どもに対してあまりに弱腰である。よって余はアッラーのために彼らを征伐する。すなわちこれは聖戦である」

五年戦役から帰還したティムールがそう宣言したのは1397年のことだった。かねてインド進出を命じていた孫のピール・ムハンマドが苦戦していたこと、そして何よりデリーの莫大な財宝も遠征の理由となった。

翌1398年初頭、ティムールは9万8千の大軍を率いてサマルカンドを進発した。このたびも莫大な血と炎が大地にまき散らされることは疑うべくもない。
全軍を三つに分け、ティムール自身は手始めにヒンドゥークシュの山々を根城とする山岳民の殲滅に乗り出した。ティムールの鉄の意志に導かれ、大軍は標高数千メートル、氷雪に覆われた山々の上を徒歩や橇で進軍した。

秋にインダス川を渡る。ピール・ムハンマドを圧倒していたムルターンの敵軍はティムールの接近を知って逃げ散った。
パーニーパットでデリーのスルタンがかき集めた大軍勢が待ち受けていた。将兵は巨大な戦象の群れを目にして動揺を露わにした。
ティムールは抑留していた数千人のインド人捕虜たちを処刑し、占星術師が不運を予告すると激昂した。

星々の予兆が何だ! サーヒブ・キラーン(吉兆星の結合)が何だというのだ! 余の喜びも、余の悲しみも、余の幸福も、余の不幸も、すべて星とは何のかかわりもない! 余が信じるのは全知全能のアッラーのみ!

コーランが開かれ、文字を解さぬティムールは開いたページを従者に読み上げさせた。

――彼らに出会ったら、どこであろうと、見つけ次第これを殺せ。捕え、追い込み、伏兵を置いて待ち伏せよ

もはや反論する者はいなかった。

ティムールとトゥグルク朝の戦い
(ティムールとトゥグルク朝の戦い)

翌朝、デリーの軍勢5万とティムール軍の戦端が開かれた。ティムールはあらかじめ前線に長い濠を掘らせ、兵士たちに原始的な投擲弾を配布していた。
さらに、多くの水牛を集めて背中に枯れ枝の束を括り付け、それに火をつけて両翼から象軍に向かって突進させた。インドの象たちは大混乱し、敵味方の見境なく人間と馬を踏みつぶして無秩序に逃げまわった。
圧勝したティムールはデリーに入城してトゥグルク朝の玉座に座り、市民に安全を保障した。
だが、ここでもイスファハーンと同様に兵士と市民のトラブルが発生し、略奪と市街戦が始まった。ティムールはいつもの通り学者と職人を保護すると、残る数万人の人々を虐殺した。

この遠征によってティムールは再び膨大な戦利品をサマルカンドに持ち帰った。インドでは衰退を極めていたトゥグルク朝が完全に崩壊し、ティムール帝国に服属を誓うサイイド朝が成立することになる。

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(インド遠征の成功を祝して建設されたビービーハーヌム・モスク)

ティムールの鉄の魂は60歳を過ぎてなお休息を知らない。彼は大モンゴル帝国を再建すべく、生涯最後の大事業として、はるか中国への遠征を計画した。だが、すぐにそれを許さぬ事情が生じた。
トクタミシュが築いた西方諸国による「ティムール包囲網」はまだ生きていた。とくにバルカン半島からアナトリアに支配を広げるオスマン朝のバヤズィット1世がここのところ東部アナトリアへの攻勢を強めている。
おまけに、アゼルバイジャン総督に任命した三男ミーラーン・シャーが乱心状態に陥って側近たちを斬り殺しまくっているという。
あの軽躁な息子はむかしヘラートの王子を酒宴の席でゆえなく殺した前科もある。これでは一国を預けることなどできぬ。ティムールは自分の絢爛たる虐殺歴を棚に上げてそう考えた。

サマルカンド帰還後わずか数ヶ月でティムールはイラン高原に出陣した。「七年戦役」のはじまりである。
まずはアゼルバイジャンでミーラーン・シャーを更迭し、その側近を大量処刑して決着をつける。ミーラーン・シャーの側近たちは何にしても殺されるしかなかったわけで、不運と言わざるを得ない。
1400年、東アナトリアを経てティムールはシリアに南下した。包囲網を構成する二強のひとつ、エジプト・マムルーク朝との対決に向かったのだ。

インドで獲得した大量の戦象を先頭に立て、軍鼓の音を響かせながら南進するティムールの大軍勢。
シリア・エジプトの人々は「シャイターン(魔王)が襲来した」と恐れ惑い、第一次十字軍が来たときのように町や村を棄てて逃げ散った。果敢に抗戦したアレッポは数の暴力であっという間に陥落し、頭蓋骨の山が築かれた。
シリア北部を平定した大軍は古代ローマの街道を南へ進む。
12月、ティムールはダマスクス城外に全部隊を展開した。

7年戦役
(七年戦役)

ダマスクスにはマムルーク朝のスルタン、アブール・ファラジ率いる大軍が待ち受けていた。マムルーク朝はこの軍事力を背景に休戦を要請した。
覇王はこれを受け入れ、ダマスクス西側に布陣していた軍の主力を北東に移動させて撤退を開始した。それを見たエジプト軍は城門を開け放ってティムール軍に後方から襲い掛かった。
ところがその瞬間、撤退をはじめた筈のティムールの軍勢は即座に反転して完璧な迎撃態勢を示したのである。三方が原で若き徳川家康を迎撃した武田信玄のごとく、すべては覇王の手の内にあった。
短い激戦の末にエジプト軍は崩壊し、ティムールは再びダマスクスを包囲した。アブール・ファラジと近臣たちは夜陰に紛れて脱出し、本国エジプトへ逃げ去った。

騙し討ちに失敗したダマスクスの人々は何としても覇王の怒りを宥めるべく、ティムールが尊崇する学者たちを和平嘆願の使者として敵陣に送り込んだ。
そのなかに彼はいた。北アフリカに生まれ、不滅の大著『イバルの書』を著し、折しもダマスクスに滞在中であった大歴史家、イブン・ハルドゥーンである。

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(イブン・ハルドゥーンの『イバルの書』の序説部分)


イブン・ハルドゥーンは後年、回想録にこのときのことを書き記した。
彼の眼にティムールは厳しい支配者というよりも、熱心な歴史の愛好者として映った。ティムールはイブン・ハルドゥーンを親しく隣に座らせ、夜食を取りながら北アフリカの地理や文化について盛んに尋ねた。
そして食事が終わるころ、イブン・ハルドゥーンは切り出した。

「偉大なる陛下にアッラーの加護あれ。わたくしはすでに何十年もの間、陛下との出会いをお待ちしておりました」
「それは何故」
「陛下は世界の支配者であり、世の始まりから今日に至るまで陛下のような支配者はおりませんでした。人類の大部分はアラブとテュルクからなり、陛下は今やテュルクの全種族を支配しておられます」
「ふむ」
「キスラー(ホスロー)もカイザリ(カエサル)も、イスカンダル(アレクサンドロス)もネブカドネザルもこれに比肩することはありませぬ。キスラーはペルシアの王、カイザリはルームの王でしたが、テュルクはこれら民族よりもはるかに膨大で強力なのですから」

ティムールは苦笑して応えた。

「余はひとりのアミールに過ぎぬ。汝は余を陛下と申すが、真の王は、ほれ、そちらにおられる御方、チンギス・カンの血を引かれる御方だ」

それから二人はネブカドネザルがいかなる民族に属するのかを議論し、刻限に別れたという。

イブン・ハルドゥーンは後に記した。
辺境の地で生まれる征服王朝は質素な生活と不毛な環境に耐え、同胞意識と激しい情熱を備えた集団によって建設される。
しかしおよそ三世代もすれば、都市の奢侈に慣れた後継者たちは堕落して、次の征服者に滅ぼされるのだと。
優れた歴史家は永遠の相の下で諸勢力の興亡を冷徹に観察する。しかし彼がこのときティムールとその子孫の運命についてどのような予見をしたのか、これ以上のことは何も伝えられていない。

ティムール帝国支配層の研究

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(『成立史の研究』と並ぶティムール帝国二大研究書のひとつ)


ティムールはダマスクス市民と守備隊の生命を許したが、城塞の破壊と財貨の略奪は通例通りに行なった。この美しい都は激しい炎のなかで燃えていき、翌年のシリアは大飢饉に襲われた。
まさしく「シャイターン(魔王)」のごとくシリアを荒らしたティムールはバグダードに転進した。ここではエジプトから舞い戻ったジャライル朝のスルタン・アフメドが支配を回復していた。

ティムール襲来を聞いたスルタン・アフメドは前回同様に遁走した。残された守備隊は時間を稼ぐため、「ティムールの部下には降伏しない、ティムール自身になら降伏する」と宣言した。
北部イラークの諸城を攻撃していたティムールはすぐにバグダードの城門前に姿を現した。まさか本当に本人が来ると思わなかった守備隊は、ティムールが城門前にいることを市民に秘匿した。
そこでティムールは戦いと虐殺によって自分の存在を全市民に知らせることにした。バグダードは程なく陥落し、また頭蓋骨の山が築かれた。

アンカラの会戦
(アンカラの戦い)

最後にティムールはアナトリアに兵を進め、黒羊朝のカラ・ユースフを匿ってティムールの属領エルジンジャンを奪ったオスマン朝のバヤズィット1世に決戦を挑んだ。
オスマン朝第4代スルタン、バヤズィット1世ユルデュルム(雷光王)
ここ十数年のあいだに破竹の勢いで四方に勢力を拡大し、ブルガリアを制圧し、セルビアを征服し、ニコポリスで欧州諸侯を撃破し、アナトリア諸侯国を次々に併呑してきた風雲児である。

両雄決戦の地は中部アナトリアのアンカラ
ティムールは常のごとく中央と両翼に前衛後衛の各二部隊、そして後方の予備隊という七部隊で布陣した。
両翼前衛が敵を捕捉し、両翼後衛が敵の背後を囲み、予備隊が敵に蓋をする。ティムールが長年の経験で磨き上げた不敗の戦術である。
15世紀初頭のユーラシアを代表する名将同士の戦いは一進一退の激戦となった。双方ともに次々に予備隊を繰り出し、戦況はわずか数時間のうちに目まぐるしく移り変わった。
ティムールの軍勢は巨大な戦象の上から煮えたぎる油を敵兵に浴びせ、「炎の槍」の改良版である小型大砲を乱射した。
オスマン軍では常勝不敗を誇るイェニチェリ歩兵軍団が一糸乱れぬ戦いを続け、漆黒の甲冑に身を固めたセルビアの騎士たちはティムールが感嘆するほどの勇戦を見せた。

だが正午を過ぎる頃、ティムールが最後に投入した予備隊がオスマン軍の中央を分断することに成功し、勝敗が決した。
オスマン軍は総崩れとなり、士官たちは王家の血脈を残すために、スルタンの王子たちとともに敗走していった。
バヤズィットは少数のイェニチェリたちとともに夕方まで奮戦し、イェニチェリが全滅すると馬に乗って逃走を図った。そしてついに捕えられた。

「――世界は二人の王に値せぬ」

ティムールがそんな言葉を残したのは、この時のことだろうか。

バヤズィットを見舞うティムール
(バヤズィットを見舞うティムール)


オスマン朝の脅威から一時的に解放された欧州諸国は、この「タメルラン」なる人物の実像をほとんど理解しないまま神に感謝し、フランスのパリでは想像上のティムールの銅像が建てられたという。

捕虜となったバヤズィットは厚遇されたが、捕囚の辱めに悶々としたまま程なく病死した。ティムールはアナトリア西部に進み、地中海の沿岸までを制圧して兵を返した。
もはや包囲網は消滅した。この上は積年の宿願、中国遠征を果たさねば。残された人生はいくばくも無いのだろうから。
1404年8月、ティムールはサマルカンドに凱旋した。彼は68歳になっていた。

遙かなるサマルカンド

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(最晩年のティムールの宮廷を訪れたカスティーリャ王国の使節の記録)



夢果てて後

中華の地では乞食僧から身を起こした朱元璋(しゅげんしょう; 太祖洪武帝)が1368年に「大明帝国」を樹立し、クビライが築いたカンバリク(大都、現在の北京)からモンゴル帝国大カアン、トゴン・テムルを追って中華帝国復活を宣言していた。

しばらくのあいだ大元ウルスはドロンノール(上都)、あるいは旧都カラコルムを拠点として長城以北を抑え、東は朝鮮半島から西はチベット・雲南に及ぶ広大な地域に威令を及ぼしていた。
だが明は繰り返し「北伐軍」を派遣し、長きにわたる中華世界での生活に慣れたモンゴル人の多くは父祖たちが生きた草原での暮らしに耐え切れず、相次いで投降した。
1387年、遼東で二十万騎が明に投降。慌てて対処に赴いた大カアンのトグス・テムルは明の将軍・藍玉(らんぎょく)に大敗し、わずか16騎で逃走した。
その途上、クビライの弟アリク・ブケの末裔であるイェスデルという人物が大カアンを襲撃した。

「我が遠き祖の復讐と思え」

クビライ王朝はここに断絶した。


ところが今度は明で変事が起こる。初代朱元璋の死後、第二代皇帝となった朱允炆(しゅいんぶん; 建文帝)と、その叔父である燕王・朱棣(しゅてい)のあいだで「靖難の変」と呼ばれる内戦が勃発したのだ。1399年のことである。
朱棣が甥を打倒して第三代、永楽帝として即位したのは1402年。その政権はまだ決して盤石ではない。

ティムールの征服域
(ティムール晩年の支配圏)

ティムールがサマルカンドに帰還した頃、東方からオルジェイ・テムルという貴人が亡命してきた。彼はイェスデルの孫で、紛れもなく大カアンの血脈に連なっている。
ティムールはオルジェイ・テムルを擁立して東征し、モンゴル高原と中華世界を再び統合し、大モンゴル帝国を再建することを神に誓った。
それを果たせばティムールの名は人類の歴史が続く限り、最も偉大な征服者として記憶され続けることだろう。

しかし、ティムールの老体はもはやその使命に耐えることができなかった。
1405年初頭、二十万騎を率いてサマルカンドを出陣したティムールは激しい吹雪に行く手を阻まれた。これまで経験したことがないほどの寒さだった。
実はそれは錯覚ではない。モンゴル帝国が全盛に達した西暦1260年前後を境に世界の平均気温は下降に転じ、「中世温暖期」から「近世小氷期」へと向かいつつあった。年ごとに寒さが厳しくなるのは当然だった。

それでもティムールは進軍を命じた。無数の兵士たちが凍傷になり、意識を失って路傍に倒れていった。ティムールは寒さを忘れるためにひたすら酒を飲んだ。その末にティムール自身も意識を失った。
そして2月18日、シル川南岸のオトラルで稀代の覇王は、ついにその生涯を終える。享年69歳。
二世紀近く前、モンゴル帝国による世界征服の発端となったオトラルがティムール終焉の地となったのは、果たして偶然なのだろうか。


ティムールは早逝した長子ジャハーンギールの子、ムハンマド・スルタンを帝国の後継者としていた。
だが、ムハンマド・スルタンは七年戦役のさなか、1403年3月に29歳の若さで戦死した。
己の希望の全てを託し、全てを授けた後継者が死んだ……。そのとき、重臣たちはありうべからざる光景を見た。
ティムールは玉座から立ち上がろうとして果たせず、倒れ落ち、着ている物を引き裂いて低い呻き声を漏らした。床に顔を打ち付けたティムールの口から嗚咽が、そして弱々しい泣き声が漏れ出した。
稀代の征服者はこの瞬間、愛する孫を喪ったひとりの老人となっていた。

ハリール・スルタン
(ハリール・スルタン)

そういうわけでティムールは急遽、ムハンマド・スルタンの弟のピール・ムハンマドを後継者に指名し直した。
とはいえインド進出の使命に失敗したこの頼りない孫には、これまで何の帝王学も授けてきてはおらず、広大な領地と巨大な軍隊を持つ一族を統御していける才があるかは疑わしい。
ティムールの不安はすぐに現実となった。アフガニスタンのカンダハルにいたピール・ムハンマドが駆け付けるより早く、東征軍右翼を率いていたミーラーン・シャーの子、ハリール・スルタンがサマルカンドを奪い取ったのだ。
4年後に叔父のシャー・ルフに追い払われるまで、彼はこの都に居座り続ける。

インドやイラン高原の征服地ではティムールに追われた旧支配者たちが続々と復権した。スルタン・アフメドもカラ・ムハンマドも、ティムールの死を聞いた途端に帰国して旧臣たちに迎え入れられた。
マー・ワラー・アンナフルからホラーサーンとアフガニスタンにかけての一帯まで急激に縮小した「ティムール帝国」では、ティムールの子や孫たちが血で血を洗う争いを何年も続けた。

どうにかこうにかこの一帯を再統合したのはティムールの末子シャー・ルフである。
だが、シャー・ルフの子で天文学者としても名高いウルグ・ベクが1449年に殺害されるとティムール帝国は再び内乱に陥り、やがてサマルカンドとヘラートの二つの政権に分裂していく。

ウルグ・ベクの天文台
(ウルグ・ベクの天文台)

ティムールの東方遠征軍が崩壊して梯子を外されたオルジェイ・テムルは、それでも単独で東進を続けて何とかモンゴル高原に帰還した。
だが、彼は間もなく西モンゴリアで勃興したオイラト部族連合と明帝国に挟撃される形で没落し、モンゴリアは際限なき争いのなかに沈んでいく。

ティムールがついに抑えきれなかったモグーリスターン地方では、この後もまだ混乱が続く。

そしてキプチャク平原ではテレク河畔の戦いの後、リトアニアの支援を受けたトクタミシュが三度目の勢力挽回を図った。
彼はティムール生前の1397年にリトアニアの援軍を受け、例の「炎の槍」も装備してクリミア半島に入った。ここでトクタミシュはティムールが残置したエディゲとテムル・クトルグを破るが、翌年に打ち破られてまたリトアニアへ逃走した。
結局1406年、シベリアの森で追い詰められたトクタミシュは無名の兵士に殺されて波乱に満ちた生涯を終えた。ティムールの死に遅れること一年であった。

ティムールとトクタミシュ亡きあとのキプチャク平原の覇者となったのはエディゲだった。
チンギス家の血を引かないエディゲは長年の同盟者テムル・クトルグの一族を名目的なハンに擁立し、ヴォルガ流域を統一してノガイ・オルダと呼ばれる政権を築くが、キプチャク全域を再統合することまではできなかった。
エディゲは1419年にトクタミシュの遺児に殺害されるが、今もその名はヴォルガ流域に暮らすタタール人たちの叙事詩のなかで英雄として語り伝えられている。

エディゲ
(エディゲ)

なお、トクタミシュの別の遺児は1410年に中欧北部でポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団とのあいだに勃発したタンネンベルク(グルンヴァルト)の戦いに参戦。このとき同じ戦場にはヤン・ジシュカという名の傭兵がいた。
約20年後、ヤン・ジシュカはチェコのフス戦争の指導者となり、小銃と荷馬車を用いた集団戦術で神聖ローマ帝国の騎士たちを打ち破る。
その愛弟子であった傭兵隊長ヤン・イスクラ(ギシュクラ・ヤーノシュ)は後にハンガリー王に仕え、極度に火力を高めた「黒衛軍」と呼ばれる精鋭部隊を率いて、ティムールによる損害から立ち直ったオスマン朝を幾度も翻弄する。
オスマン朝はその戦訓から大量の火薬兵器を導入し、1453年に巨砲を駆使してビザンツ帝国を征服し、チャルディラーンの会戦でサファヴィー朝ペルシアを、マルジュ・ダービクの会戦でマムルーク朝エジプトを圧倒して東地中海の覇者となっていく。
そしてまた、師と仰いだサファヴィー朝の建国者シャー・イスマーイールがオスマン朝の火砲に打倒されたのを見たティムール五世の孫バーブルも、火薬兵器を大量に導入してインド亜大陸に兵を進めるのだ。
無敵の騎馬軍団を率いたティムールが自軍を補強するために利用した「炎の槍」は、その後数十年のうちに急速に発達し、いずれ遊牧騎馬帝国の時代そのものに終焉をもたらすこととなろう。
とはいえ、差し当たってそれはまだ先の話。


エディゲの手に余った旧ジョチ・ウルスの他の地域では、ジョチの数多い子孫たちによって、さまざまな政権が生まれた。
クリミア半島では1441年にハージー・ギレイがクリミア・ハン国を建国。
同じ頃、ノガイ・オルダに追われたジョチの末裔ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流にカザン・ハン国を築き、その北東ではケレイト族のタイ・ブカがシビル・ハン国を建国した。
シビル・ハン国はウラル山脈の東、チンギ・トゥラを拠点にオビ川中流を支配し、極北に散在する狩猟民族たちを極めて緩やかに従属させた。
シビル・ハン国の影響下でオビ川流域にコミやコンダ、オブドルなど狩猟民の小王国群が相次いで誕生し、イスラームの教えは北極海の岸辺までゆっくりと浸透していった。

ウグラ河畔の対峙
(ウグラ河畔の対峙)

そんなジョチ家末裔たちの争いのなかで、西北からもう一つの勢力が登場する。
長くジョチ・ウルスに抑え込まれ、一時は独立を果たすもトクタミシュによって再び服従を強いられたモスクワ大公国である。
14世紀から15世紀にかけてモスクワは近隣のルーシ諸公国を次々に併呑し、ジョチ・ウルス崩壊後の西北ユーラシアにおける列強のひとつとして台頭する。
1480年、モスクワ大公イヴァン3世(大帝)はウグラ河畔でエディゲの子孫、アフマト・ハンと対峙した。
何週間にもわたるにらみ合いの末、アフマト・ハンの率いるキプチャク軍――ルーシの人々の呼び名では「タタール」は為すところなく撤退していった。
この「ウグラ河畔の対峙」以降、モスクワはそれまで名目的に続けてきたノガイ・オルダへの貢納を停止した。
ルーシはここに完全な独立を達成し、ジョチ・ウルス旧領を分割した多くの国々を次々に飲み込んでいく。
やがてイヴァン3世の孫、イヴァン4世(雷帝)はカザンを征服し、「チャガン・ハーン(白きハーン)」と恐れられることになる。北方の巨人、ロシア帝国の目覚めは遠くない。

グーリ・アミール廟内部
(黒いのがティムールの棺)

そして最後に。

ティムールの死から536年後、1941年6月20日にソビエト科学アカデミーのミハイル・ゲラシモフらがサマルカンドのグリ・アミール廟に葬られたティムールの棺を掘り起こした。
廟の中央に安置される黒軟玉の模棺の真下、地下数十メートルにこの大征服者の真の棺がある。
覇王の棺にはこう記されていた。

――余が深き眠りより覚めるとき、世界は大いなる災厄に見舞われるであろう

ゲラシモフは敢然と棺の蓋を取り外し、ついに稀代の征服者の頭蓋骨をその手に取った。
アドルフ・ヒトラー率いるドイツ第三帝国が突如ソビエト連邦に侵攻、いわゆる「バルバロッサ作戦」によって第二次世界大戦におけるもっとも壮大かつ悲惨な「独ソ戦」が始まったのは、その二日後のことだった。

ТАМЕРЛАН АРХИТЕКТОР СТЕПЕЙ! Полчища Великого Эмира Тимура Тамерлана!
(10分あたりで禁断の棺が……)



ティムール帝国 (講談社選書メチエ)

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(ティムールの王権や儀礼に重点を置いている)





何年も前にサマルカンドで閉館寸前にグリ・アミール廟を見に行ったとき、黒い棺の方は管理人さんにこっそり素手で触らせてもらいました。
「で、地下の棺に行く階段とかないの?」と訊いたら、管理人さんは真っ青になって「ノーノー!」と連呼しました。

おわり



イスラーム世界の歴史26 力と美の王者

ジェテとカラウナス

264.jpg
(「跛行の世界征服者」、ティムール)

「世界の帝王チンギス・カンが、災難を与えるべしとの神の命令によってイランとトゥランの諸国の征服者となり、
彼の幸運の太陽が権威の頂に昇った時、彼は彼の王国の領域を息子たちに分け与えた。
その内、イランの諸地方の全てを自分の息子である皇子チャガタイに委ねた」

(ティムール、オスマン朝バヤズィット1世宛て書簡より)


かつて、モンゴル帝国はチンギス・カンの死後、「オゴデイ・ハン国」、「チャガタイ・ハン国」、「キプチャク・ハン国」、「イル・ハン国」、「元朝」の五つに分裂したというのが通説だった。
だが、今ではそれは否定されている。モンゴル帝国の変容は「分裂」という言葉で表現できるほど単純ではないし、帝国の政治領域が同時に分かれたわけではないし、その数も簡単に五つと断定はできない。
ついでにいえば「ハン」より「カン」のほうが中世モンゴル語の発音に近い。一定の領土を前提とする「国」よりも人間集団を本質とする「ウルス」のほうが実態に相応しい。

しかも、上記の内で「オゴデイ・ハン国(オゴデイ・ウルス)」には実体がなく、中央アジアを支配したとされる「チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)」も胡乱な存在である。

モンゴル帝国が誕生してから半世紀以上、中央アジアに独自の分国は存在しなかった。諸王家の私領として設定された牧地はそこかしこにあったが、中央アジア全体は大カアンと諸王家の共有財産とされていた。
そこに初めて独立政権を築いたのは、クビライとアリク・ブケの帝位継承戦争に乗じて台頭したオゴデイ家のカイドゥ
中央アジアの一隅に私領を持っていたチャガタイ家のバラクはカイドゥの奸計に嵌められて謀殺され、残るチャガタイ一族はカイドゥの従属下に組み込まれた。
結論から先にいえば、チャガタイ一族が「カイドゥの国」を乗っ取って中央アジアを掌握するのは14世紀に入ってからで、その支配をまともに維持できたのは半世紀足らずだった。

(参考:イスラーム世界の歴史24 群狼たちの相克

ティームール朝成立史の研究

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(以下の詳細はこの本を参照)


チャガタイ家による中央アジア支配の礎を築いたのはバラクの遺児、ドゥアである。
彼は父を謀殺された恨みを忘れたように長年カイドゥを支え、副将として各地を転戦した。1301年秋、アルタイ地方で大元ウルスに大敗し、そのまま死の床に就いたカイドゥは嫡子オロスに言い残した。

「いよいよわしも旅立ちの時が迫っている。同志諸王のなかでドゥアが最年長で、実直で賢明じゃ。わしはこれまで彼をことのほか目にかけてきた。ドゥアも恩に感じておろう。今後は何事もドゥアに相談し、彼を頼れ」

ところがドゥアはカイドゥの死を見届けるや豹変した。

「カイドゥ・アカの後継はチャパル殿こそふさわしい」
「なんだと! 嫡子はこのオロスだぞ!」
「皆みな方、これをご覧じよ。畏れ多くも大カアン直筆のジャルリク(勅令)じゃ。ここにしっかと、チャパル殿をカイドゥ・アカの後継に任ずと記されておる」
「貴様どういうことだ、クビライに内通しておったのか!!」
「今の大カアンはクビライではなくて孫のテムルぞ。クビライはとうに死んでおる。ほれこの通り、時勢に暗いお方じゃ」
「論点をそらすな!!」

ドゥアは大元ウルスの支援のもとにカイドゥの嫡子オロスを失脚させ、傀儡として担ぎ出したチャパルも廃位し、オゴデイ一族を粛清して父の無念を晴らした。


1307年、ドゥアが世を去る。
幾度かの揺り返しを経ながらもチャガタイ一族の中央アジア統治は徐々に安定し、ドゥアの子ケベクのもとでチャガタイ・ウルスなる国家は束の間の黄金時代を迎えた。
この頃までモンゴル人たちはマー・ワラー・アンナフルの農耕地帯にほとんど足を踏み入れず、北の草原や東の山岳地帯で遊牧生活を送っていた。しかしケベク・カンはマー・ワラー・アンナフル南部に宮殿を築いて定住したという。
彼はイスラームに改宗することはなかったが、公正な統治者としてムスリムの歴史家たちに称賛された。
たとえば、戦いに行くときに他の指揮官たちが道々略奪しながら行軍したのに対して、彼は兵士たちに耕作をさせながら進軍した。
惜しくも敗戦したが、定住民たちはケベクの部隊を歓迎して様々な食物を持ち寄ったので、平穏に撤退ができたと伝えられる。

ケベクの政策は伝統的な遊牧生活を維持する諸部族の反感を呼んだ。そこでケベクはチャガタイ一族を支えてきた有力部族、ジャライル部バルラス部の有力者たちにマー・ワラー・アンナフルの都市や領地を分け与えた。
マー・ワラー・アンナフルに移住した諸部族は徐々に定住社会に馴染み、イスラーム文化を受け入れ、「チャガタイ人」と自称するようになった。
彼らの話すモンゴル語もテュルク語やペルシア語の影響を受けて変化しはじめた。「チャガタイ・トルコ語」と呼ばれるクレオール言語の誕生である。

東方の草原に残った諸部族は自分たちこそ真のモンゴル人(モグール)であると自認し、西に移住したチャガタイ人たちを「カラウナス(混血)」と嘲った。
チャガタイ人たちは東に残った同族たちを「ジェテ(野盗)」と罵り、両者の対立は次第に激しいものになっていった。

チャガタイ・ウルス
(チャガタイ・ウルス)


ふたりのティムール

ジェテとカラウナスの文化的摩擦や利害対立。そして地方領主と化した部族長たちの自立志向。ケベクにはじまる政策転換は、長い目で見てチャガタイ・ウルスの禍根となった。

1346年、マー・ワラー・アンナフルでカザガンというアミールが反乱を起こし、チャガタイ家のカザン・カンを殺害した。これよりマー・ワラー・アンナフルは有力アミールたちが覇を競う戦国時代となる。
もっともアミールたち自身がカンを称することはなかった。アミールたちは所詮「カラ・キシ(平民)」に過ぎず、カンを名乗れるのはチンギス・カン家の末裔だけというのが常識だった。

同じ頃、天山山脈北方のイリ流域ではトゥグルク・ティムールという男が東部で最強の部族、ドゥグラト部に擁立されてカンを称し、独立政権を樹立した。
トゥグルク・ティムールはチャガタイ・ウルスの事実上の建国者、ドゥアの子エミル・ホージャの落胤と自称した。実際のところ彼の出自や前半生は謎に満ちているが、いちおうチンギス・カン家の一員と見なされたらしい。
こうして成立したのが東チャガタイ・ウルス、またはモグーリスターン・ハン国として知られる国である。(近世モンゴル語では「カン」が「ハン」に変わる)

トゥグルク・ティムールはモグーリスターンの長に相応しい伝統的な遊牧戦士だったが、一方でイリ地方に初めて本格的にイスラームを導入している。
彼は狩猟中に一人のスーフィー(イスラーム神秘主義の修行者)に出会い、イスラームの教義に興味深く耳を傾けた。
1354年にトゥグルク・ティムールの本拠地アルマリクに招かれたスーフィーは、指一本で巨漢のモグール戦士を跳ね飛ばすという奇跡を演じて見せた。これを目にして感嘆した16万人のモグール戦士がイスラームに改宗したという。
イスラーム圏の東北限は何世紀も天山北麓のタラス付近に留まっていたが、モグーリスターンの改宗によって千キロほど東のジュンガリア西縁まで前進した。

モグーリスターン国
(東チャガタイ・ウルス、通称モグーリスターン・ハン国)

さて、モグーリスターンを統一したトゥグルク・ティムールは1360年にマー・ワラー・アンナフルへ侵攻した。
その頃、マー・ワラー・アンナフルにはジャライル部やバルラス部、ヤサウル部などの諸部族が割拠していた。彼らはすでに季節移動を伴う本格的な遊牧は行わず、郊外の農村で暮らしながら小競り合いに明け暮れていた。

チャガタイ・アミール」と呼ばれる部族長たちは、定住化しつつある自分たちが「ジェテ」に勝てるわけなどないと知っていた。彼らは何ら抵抗せずに侵略軍に降伏するか、あるいはさっさとホラーサーンに逃げ出した。
南部マー・ワラー・アンナフルで一二を争う大部族、チンギス・カンの千人長カラチャル・ノヤンの血を引くバルラス部の長、ハージーも逃げ出した一人だった。
空位となった族長の座に一人の若者が手をかけた。サマルカンド南方、ケシュの領主。族長ハージーの甥といわれるティムールである。

Tamerlan.jpg
(同時代に描かれたティムールの肖像画)

ティムールの父はタラガイというバルラス部のアミールだった。従者数十名を抱える程度の小豪族だったという所伝もあれば、チャガタイ・ウルスで有数の大貴族だったという記録もあり、実像は定かでない。
その子ティムールは生まれてすぐに母親を亡くし、男手だけで育てられた。彼は幼い頃から独立不羈の気性を持ち、近隣諸部族との争いに明け暮れながら成長した。
少年の頃から彼はほとんど笑いを知らず、どんな危地に直面しても顔色ひとつ変えず、敵に対しては一切の慈悲を見せなかった。一方で仲間に対しては寛大で気前がよく、成長するにつれてティムールの周囲には若者たちが寄り集まった。

トゥグルク・ティムールのもとに出頭したティムールは幸運に恵まれた。その場に父の旧友だったモグーリスターンのアミール、ハミードが居合わせたのだ。
ハミードの取り持ちと推挙もあってティムールはケシュ周辺の支配を安堵され、逃亡したハージーに代わるバルラス部の長として認められた。ハージーはホラーサーンで現地住民に殺された。

1361年、モグーリスターンに帰国したトゥグルク・ティムールは長子イリヤス・ホージャにマー・ワラー・アンナフルの統治を委ね、ティムールをその補佐役に任命した。
ティムールは印璽の保管者となり、摂政の地位と1万の軍勢の指揮権を手にした。彼は26歳にしてマー・ワラー・アンナフル屈指の実力者となったのだ。

だが、それらすべてを彼は突然投げ打った。

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(出典不明ながら魅力的なエピソードに多く言及されているティムール伝)



サマルカンドの王座

ティムールが妻と僅か60人の支持者だけを伴って山中に逃れた理由は明らかでない。
所詮イリヤス・ホージャの補佐役という地位は不安定なものであり、モグール人は侵略者として忌み嫌われていた。おそらく彼は自らの王座を欲したのだろう。
荒野でティムールは思いがけぬ人物と出会った。かつてチャガタイ王家のカンを滅ぼしてマー・ワラー・アンナフルの実権を握った大アミール・カザガンの孫、アミール・フサインである。
ティムールは青年時代にカザガンの宮廷に出仕し、同年輩のフサインと親交を結び、その妹のウルジャイ・トゥルカン・アガを妻に迎えた。
マー・ワラー・アンナフル在地勢力の象徴だったフサインは、モグール軍から身柄を隠していたのだ。

イリヤス・ホージャはティムールとフサインに追手を出した。ヒヴァの領主が千人の兵士で彼らを包囲した。激戦の末に領主はティムール自身の槍で打ち倒され、敵勢は逃げ散った。
ティムールとフサインに従う者たちはわずか5名となった。彼らは飢渇に苛まれながら沙漠をさまよった末、モグール軍に捕えられた。
ティムールは縛り上げられ、妻や盟友とともに62日間を牢獄で過ごした。
しかし彼らはここで死ぬほどの小物ではない。脱獄し、物乞いに身をやつしてサマルカンドに潜入。衛兵に正体を見抜かれるも間一髪で脱出し、千人の騎兵を集めてモグール打倒の旗揚げをしたのである。

彼らは軍資金を得るためにシースターン(アフガニスタン南部)で傭兵となったが、戦いが終わると報酬を惜しんだ雇い主が昨日までの敵と組んで彼らを襲撃した。
敵はティムールに雨あられと矢を浴びせたが、激しい抵抗に辟易して退散した。ティムールは右ひじと右ひざに終生癒えぬ傷を負い、「ティムール・ラング(跛者ティムール)」という異名で知られるようになる。

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(マー・ワラー・アンナフル南部とホラーサーン)

ティムールとフサインの旗揚げを知ったイリヤス・ホージャは討伐軍を派遣した。
両軍は川を挟んで対峙する。ティムールはフサインが指揮する全軍の半分を残して深夜に川の上流を渡り、敵の背後の丘を占拠した。
明くる朝、戦闘開始とともにティムールは丘の上で篝火を焚いて太鼓を打ち鳴らした。大軍に包囲されたと思い込んだ討伐軍は川を渡って退却しようとするところをティムールとフサインに挟撃され、算を乱して敗走した。
ティムールは馬の尾に木の枝を縛り付けた一隊をケシュへ走らせた。モグール人たちは巻き上がる砂塵を見て逃走し、ティムールは戦わずして故郷奪還を果たした。

ついにイリヤス・ホージャ自身が大軍を率いてケシュに来襲する。
これはティムールの桶狭間だった。彼は夢で神が勝利の兆しを示すのを見た。夜明け前に起き上がり、わずかな手勢を引き連れてモグール軍の本営を急襲した。この攻撃を予期していなかった敵軍は大混乱に陥って潰走した。
ティムールとフサインはサマルカンドに入城した。1364年のことである。

だが勝利の高揚のなかで不和が芽生えた。
勝利に対してより大きく貢献したのはティムールだった。だがアミール・カザガンの孫であるフサインは、かつてマー・ワラー・アンナフルの盟主となった祖父と自分を重ね合わせていた。

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(ティムールとフサインについても詳しく書いてある)


モグーリスターンではトゥグルク・ティムールが死に、イリヤス・ホージャが新たなカンとなった。
本国で態勢を立て直したイリヤス・ホージャは、年明けとともに大軍を率いて再来した。ティムールとフサインは急遽軍勢を集めてタシケント付近で迎撃を挑んだが、思いもかけぬ暴風雨に襲われた。
伝説によれば、このときモグール軍は呪術を使って嵐を呼んだのだという。ティムール・フサイン軍に雨を防ぐ用意はなく、軍馬は泥濘で足掻き、勝ち誇るモグール軍から無数の矢を浴びせられた。
かれらは残兵を取りまとめて南へ敗走し、アム川を渡って身を隠した。
イリヤス・ホージャはそのままサマルカンドに進撃したが、独立の美味を知ったこの町では「サルバダール」と呼ばれる民兵が立ち上がってモグール軍に抵抗した。
「サルバダール」とは「絞首刑に処せられた者」を意味する。サマルカンド市民たちはモグールに屈するよりは絞首刑に処せられた方がましだと思っていた。

城市を攻めあぐねるモグール軍の陣営では疫病が発生し、軍馬がバタバタと倒れた。
イリヤス・ホージャはついにマー・ワラー・アンナフル再征服を断念して兵を退いた。モグーリスターンの国境まで戻った時、この不運な敗将は兇刃に倒れた。
手を下したのはかつてトゥグルク・ティムールを擁立したイリの大部族、ドゥグラト部のカマルッディーンである。この男は宰相(ウルス・ベギ)の地位を甥に奪われたことに不満を抱いて謀反に踏み切ったのだ。
イリヤス・ホージャを殺したカマルッディーンはカンを自称した。モグーリスターンは混乱状態となり、マー・ワラー・アンナフルへの脅威は当面消失した。

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(バルフを攻撃するティムール)

さて、モグール軍の撤退を知ったティムールとフサインは直ちにサマルカンドに取って返した。
ふたりはサルバダールたちを褒め称えて面会を申し出た。ところがその席上でフサインがサルバダールの指導者たちを捕え、サマルカンド全市を制圧してサルバダールたちを処刑した。
ティムールは苦い顔だった。騙し討ちは彼の本意ではなかった。
昨年来ふたりの友情には影が差していた。モグール軍に惨敗した「泥濘の戦い」の責任をめぐって、その仲はさらに険悪化した。
ウルジャイ・トゥルカン・アガは兄と夫の仲を健気に取り持っていたが、サマルカンド奪還と前後して病死した。
若き日のティムールは彼女をこよなく愛した。彼女もまたティムールを愛し、ふたりはともに戦場に出て馬を駆り、無数の危機を潜り抜けてきた。
ウルジャイの死の床でティムールは号泣した。鉄の自制心を持つこの男が公然と泣き叫び、涙を流したのは後にも先にもこの時だけだった。そして彼女の死とともにティムールの青春は終わった。

フサインはアミール・カザガンの孫であることを理由にマー・ワラー・アンナフルの支配者として振る舞い、本拠バルフを改築するために重税を課した。
ティムールはフサインを諌め、聞き入れられぬと見れば私財を投げ打ってアミールたちを支えた。決裂はもはや避けられなかった。


1370年4月、大軍を率いてアム川を越え、バクトリアに侵攻したティムールはバルフでフサインを滅ぼした。
マー・ワラー・アンナフル各地のアミールがティムールに服従を誓い、彼を白のフェルトに乗せて黄金の冠を捧げ、王として推戴した。だが、彼はチンギス・カンの子孫ではない。

「真のカンはこちらにおわす。余はカンにお仕えするひとりのアミールに過ぎぬ」

ティムールはオゴデイ・カアンの末裔、ソユルガトミシュという人物をカンとして擁立し、チャガタイ家の血を引くサライ・ムルク・ハーヌムという女性を二度目の妻に迎えた。
人々は彼を「カンの娘婿(キュレゲン)」、「サマルカンドの大アミール」、あるいは「サーヒブ・キラーン(吉兆の支配者)」と呼ぶことになる。
彼はサマルカンドに凱旋した。この町がティムールが築く新たな帝国の中枢となる。

ティムールの凱旋
(ティムールの凱旋)


サーヒブ・キラーン

マー・ワラー・アンナフルの事実上の王者となったティムールは、すぐさま国外に打って出た。このとき彼が直面していた危険な隣国は二つあった。ひとつは言うまでもなく東のモグーリスターン、そしてもう一つは西のスーフィー朝である。

スーフィー朝はマー・ワラー・アンナフルの北西に隣り合うホラズム地方を支配していた。
もとはジョチ・ウルスの系列の政権で、1360年代にキプチャク平原が無秩序状態に陥るなかで独立政権化。つまり自立を果たしたのはつい最近である。

「アミール・サーヒブ・キラーンは国をよそ者たちの手から解放し、王権をチャガタイ家に定め、その諸規則を復興した。ヒヴァとカートの町はチャガタイ・カンに属する地ゆえ、速やかに我らに返還せよ」

ティムールはスーフィー朝に領土割譲を迫り、それが無視されるとホラズム地方に侵攻した。たちまちヒヴァとカートを占領し、スーフィー朝の首都ウルゲンチを包囲。たまらずスーフィー朝は王女をティムールに差し出して和を請うた。

ウルゲンチ包囲
(ウルゲンチ包囲)

スーフィー朝との講和が成ると、ティムールは直ちに軍を反転させてモグーリスターンに侵攻した。
イリヤス・ホージャを殺してカンを称したカマルッディーンは手ごわい武将で、山地での待ち伏せや奇襲を得意としていた。
ティムールの戦略戦術は申し分なかったが、カマルッディーンは常に逃げおおせ、ティムールが帰国すると再び勢いを盛り返した。
ティムールは七度モグーリスターンに遠征してイリ流域を蹂躙したが、最後までモグーリスターンの完全制圧は果たせなかった。

一方で、この時期は有力なチャガタイ・アミールたちの反乱が相次いだ。
幾度も辛酸を舐めながらマー・ワラー・アンナフルの覇者となったティムールは、既存の諸部族に依存せずに自分の軍隊を組織した。
部族の長たちはティムールの政権から疎外され、遠征に参加しても十分な見返りを得られていないと不満を抱いていた。
ティムールは反乱を起こした部族を容赦なく解体し、族長の首を挿げ替え、部族民を直属臣下たちに分与した。諸部族の反乱はむしろティムールへの権力集中に繋がった。

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(たぶん現在唯一のティムールを主役とする小説)



1379年にアミールたちの最後の反乱が起こり、ホラズムのスーフィー朝が和約を破棄してサマルカンド近辺まで侵入した。
モグーリスターンに遠征中だったティムールは直ちに取って返すと反乱を粉砕し、ウルゲンチを再び包囲した。
予想以上に素早い敵の対応で危機に陥ったスーフィー朝の君主ユースフ・スーフィーは、なんとティムールに決闘を挑んだ。

「どうせ奴は右半身がろくに動かせんのだからな!」

が、眉一つ動かさずに決闘を受諾したティムールが指定された刻限にウルゲンチの城門前に現われると、ユースフは突然怖気づいた。
黒い甲冑をつけて愛馬にまたがったティムールは、槍を掲げて城門の前を幾度か旋回し、敵手が出てくる気配がないのを確認すると悠然と自陣へ戻っていった。
ウルゲンチの全住民がユースフ・スーフィーに軽蔑の眼差しを注いだ。この男は絶望して数週間後に死に、町は陥落した。
これがスーフィー朝の短い歴史の結末であった。

ジョチ・ウルスとモスクワ大公国
(14世紀のジョチ・ウルス、緑はルーシ諸公国)

1376年4月、ティムールのもとにひとりの亡命者が現われた。彼の名はトクタミシュ。カスピ海東岸のマンギシュラク半島を支配していたジョチ家の末裔、トゥイ・ホージャの遺児であった。
その頃、西北ユーラシアのジョチ・ウルスは大乱のさなかにあった。
トクタミシュはキプチャク平原東部を支配するオロス・カンに父を殺され、ティムールのもとに庇護を求めて来た。
かねてオロス・カンを警戒していたティムールは、ジョチ家の血を引くトクタミシュをジョチ・ウルスの新たなカンとして擁立することを企て、トクタミシュとともに西北遠征の途に就いた。

1377年、ティムール・トクタミシュ連合軍はカスピ海東岸のウスチユルト台地でオロス・カンと対峙した。
対陣中にオロスは病死し、後を継いだトキタキヤもわずか三ヶ月で死去。次にカンとなったテムル・メリクは泥酔して寝ている最中にトクタミシュの奇襲を受け、目が覚めた時にはすべてを失っていた。

ウスチユルト台地
(ウスチユルト台地)

ジョチ・ウルス西部を支配するキヤト・ママイは1359年に暗殺されたバトゥ家の実質的に最後のカン、ベルディベクの娘婿で、クリミア半島を拠点としている。
彼は手痛い敗北を経験したばかりだった。敵は長らくジョチ・ウルスに忠誠を誓ってきた北の属国、モスクワ大公国である。

モスクワ大公国は森林の定住民族、「ルーシ」(ロシア)と呼ばれる小国群の取りまとめ役で、毎年ルーシ諸公国の貢納を集めてサライに献上する役目を任されていた。それがジョチ・ウルスの内乱を知って牙を剥いた。
1377年、モンゴルからの独立を決断したモスクワ公ドミトリーはドン川上流のクリコヴォでママイに戦いを挑み、奇跡的な勝利を収めた。

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(クリコヴォの戦いをネタにした銀行のコマーシャル)


そんなわけでママイの兵力は疲弊している。
1380年、アゾフ海に近いカルカ河畔でトクタミシュを迎え撃ったママイはあっという間に打ち破られ、クリミア半島に逃げ込んだあげく、カッファの町で彼の財布を狙ったジェノヴァ商人に殺されたと伝えられる。
トクタミシュはモスクワを焼き打ちしてルーシ人どもに身の程を知らしめ、火事場泥棒を狙ったリトアニア軍を叩き出し、復興した旧都サライに拠点を構え、ついにジョチ・ウルス再統一を達成した。
彼もまた、この時代における英傑の一人である。

ママイ
(キヤト・ママイ)

そして同盟者トクタミシュの成功により、ティムールにとって北西の脅威は完全に消滅した。
彼の称号「サーヒブ・キラーン」とは、正確には「吉兆を示す二つの惑星の会合に運命づけられた者」といった意味である。ティムールの運命の星はまさに中天に昇りつつあった。


力と美と

「その当時、イーラーン・ザミーンには国ごとに部族が台頭し……王権の基礎を置き……独立と専制の御旗を掲げていた。
そのため、かの陛下の日々増す吉祥がトゥランの諸国の征服と支配を完成し、全チャガタイ・ウルスと全ジョチ・ウルスをその繁栄する代理人たちのもとに置いたとき、神慮の兆したる御意志はイランの征服に向かった」

(シャラフッディーン・アリー・ヤズディー『勝利の書』より)



1380年代に入ると、ティムールはイラン高原への進出を開始した。その名分はチンギス・カン家による支配が途絶えて争乱状態にあるイランの秩序を回復し、チャガタイ家にその地を捧げるためであったという。
ティムールが奉じているソユルガトミシュ・カンはオゴデイ家の系統なのだが、そのへんはあまり気にしても仕方ないのだろう。たぶん。

1381年にヘラートを落とし、この地のクルト朝を服従させる。二年後にヘラートが反乱を起こすとティムールはヘラートを再征服し、頭蓋骨の山を積み上げて見せしめとした。クルト朝は130年の歴史を閉じた。
東部イランのサブザワールを拠点とするサルバダール朝もあっという間に滅ぼし、同じく頭蓋骨の山を築く。

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(これから何度もやるので注意)

さらに、カスピ海に沿って東西に長く広がるマザンデラン王国が降伏勧告を拒否したため、見せしめとしてイスファラーインの町を破壊。城壁を破壊し、住民を殺戮し、家屋を壊し、堀を埋め、イスファラーインで残ったものは町の名前だけになった。
アフガニスタン方面にも侵攻し、山地民を動員して山の砦を落とし、シースターンでは反乱者への見せしめとして捕虜を生きたまま城壁のなかに埋め込んだ。
ティムールにとって、東部イランとアフガニスタンの平定は至極順調なものだった。

東部イランの平定をもってひとまずサマルカンドに帰還したティムールは、1386年から3年におよぶ西部イランの征服戦争(三年戦役)に取り掛かった。
まずはかつてのフレグ・ウルス中心部、アゼルバイジャンを支配するジャライル朝である。

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(実際には1360年頃にジャライル朝がチョバン朝の領域も制圧している)

「スルタン・アフメドなんぞ、両目のついた肉片に過ぎん」

ジャライル朝の君主をひとことで切って捨てたティムールはほとんど抵抗を受けずにアゼルバイジャンを横断し、グルジア王国に攻め込んだ。
ここでティムールはとんでもない不覚を取った。王都ティフリス(トビリシ)を包囲されたグルジア王バグラト5世が決死の勢いで出撃し、ティムール本隊を敗走させたのだ。
この大征服者がマー・ワラー・アンナフル統一以降に戦場で敗れたのはこの時だけである。もっとも翌日すぐに雪辱したので、どうも無かったことにされているらしい。

ティムールは投石機を投入してティフリスに猛攻を加えたが、グルジア軍の抵抗は非常に激しかった。ティムールは大きな鋼鉄の網を攻城部隊と機具の上にかぶせて前進させ、破砕機で城壁を打ちこわし、城門を突き破って突入した。
ティムールはバグラト5世をようやく捕えると、キリスト教(グルジア正教)からイスラームへの改宗を迫った。
バグラトは国民に改宗を受け入れさせるために兵士の借用と時間の猶予を求めた。ティムールがこれを認めると、バグラトは狭い峡谷にティムールの兵士たちを誘導して殲滅させた。

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(グルジア王国とその周辺)

グルジアを後回しにしたティムールは翌年にアルメニアとルリスタン(イラン西南部)を席捲し、東部アナトリアに展開するトゥルクマーンの遊牧国家、黒羊朝(カラ・コユンル)を屈服させた。
さらにイラン高原南部を押さえるムザッファル朝を降すためにイスファハーンに進撃した。
イスファハーンは一度は開城を受け入れたが、市内に入ったティムール軍の兵士たちと市民たちのあいだでトラブルが起こって兵士が殺された。ティムールは激怒し、イスファハーンの住民7万人を殺して頭蓋骨の山を築いた。
学者や職人だけは助命され、彼の本拠地であるサマルカンドに送られた。イラン各地の美しい都市を目にしたティムールは、自らの都サマルカンドをそれ以上に壮麗な建築物で飾り上げる望みに駆られたのだ。

ティムールは何ら躊躇なく破壊と虐殺を命じたが、地上の美を解さぬ人柄ではなかった。むしろ、彼は誰よりも美を愛し、美に焦がれた帝王だった。教養豊かで文雅を解する人物でもあった。

この頃、ティムールはイランの伝説的な詩人ハーフィズと出会った。

 かのシーラーズの乙女が我が心を受けなば
  その黒きほくろに代えて我は与えん
 サマルカンドもブハーラーも
  酌姫よ、残れる酒を汲め
 天国にても求め得ぬのは
  ルクナーバードの流れとムサッラーの園


ハーフィズの詩を聞き知っていたティムールは彼に詰問した。

「余が剣をふるって多くの国々を滅ぼしたのは、ひとえに余の愛するサマルカンドとブハーラーを飾りたてんがためだ。それを汝は、たかがシーラーズの乙女のほくろごときと引き換えようというのか!」

「おお、偉大なる大王よ。そのような気前の良さゆえに、哀れハーフィズはかくも落ちぶれ果てましてござります」

「さようか! 今後は自分の持ち物を大切にするがよい。とりわけ余の首都についてはな」

当意即妙の応えにティムールは膝を打って感心し、ハーフィズにサマルカンドへ来るように誘った。しかしシーラーズを愛するハーフィズはこの地に留まることを選んだという。


そんななか、本国の留守を預かる王子ウマル・シャイフからの急報が遠征軍を震撼させた。
ティムールの支援によってジョチ・ウルスを復興したトクタミシュがスーフィー朝の残党、そしてモグーリスターンの梟雄カマルッディーンと結んでマー・ワラー・アンナフルを急襲したのである。

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(サマルカンドのシャーヒズィンダ廟群)

チンギス・カンの血を引くトクタミシュにとって、「サマルカンドの大アミール」は所詮カラ・キシ(平民)に過ぎない。確かに彼には恩義があるが、キプチャク平原制圧を完遂したのは己の力量による。
ジョチ・ウルスの君主としての立場になってみれば、中央アジアやアゼルバイジャンに支配を広げるティムールの帝国は、恐るべき潜在敵国に他ならない。
彼はいつまでもティムールの下風に立ち、属国の地位に甘んじるつもりなど毛頭なかった。

1387年末、彼は「雨滴のように無数」の軍勢を率いてマー・ワラー・アンナフルに攻め入り、ティムールが冬営地としてきた「鎖の宮殿」に火をかけた。「大アミールがサマルカンドで包囲された」という噂が飛び交い、パニックが広がった。
イラン高原南部から猛烈な勢いで大返ししたティムールは3万の騎兵部隊をサマルカンドに急派し、自ら少数の騎兵を引き連れて故郷ケシュに乗り込んだ。トクタミシュは撤退したが、3年に及ぶイラン遠征の成果は台無しになった。

1389年2月、ティムールは公称20万の騎兵を率いてシル川対岸に居座るトクタミシュに決戦を挑んだ。ティムール軍が吹雪を衝いて現われると、トクタミシュの軍勢は混乱状態となり、草原の奥深くに退却した。
ティムールは第七次モグーリスターン遠征を行ない、イリ川を渡ってトルファンまで侵攻した。本拠アルマリクを追われたカマルッディーンはアルタイ山脈まで遁走し、そのまま歴史から姿を消した。
さらにスーフィー朝の旧都ウルゲンチを徹底的に破壊して更地に変え、住民をサマルカンドに連行。いよいよ残るはトクタミシュだけである。

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(ティムールの北方遠征)

1391年1月、折しも重病に陥っていたティムールは身体に鞭打ち、全軍の先頭に立って広大なキプチャク平原に出陣した。
無数の偵察部隊が放たれたが、トクタミシュの正確な所在は杳として知れない。軍は無辺のステップをひたすら北へ進んだ。
兵士もティムールも同じ食べ物を食べた。次第に糧食が減り、野草が食べ物に混ざりはじめた。糧食が尽きるとティムールは巻狩りを命じた。
タシケントを発して3か月。トボル川上流にいたトクタミシュは西のヤイク川へ、さらにヴォルガ川へと後退した。ティムールはそれを追跡した。これもまた壮大な狩猟だった。
ヴォルガ中流、サマーラ付近でティムールはようやくトクタミシュに追いついた。トクタミシュ軍は大河ヴォルガを前に停滞し、組織的な退却ができない状況だった。

1391年6月18日、名高いクンドゥズチャの戦いが幕を開ける。
両軍はともに疲弊しきっていた。激戦の果てにトクタミシュの軍は数千人の戦死者を出して崩壊した。
トクタミシュの姿は消え失せた。彼の旗持ちが土埃のなかに横たわり、チンギス・カン以来の伝統を受け継ぐ「九尾のヤク」の大軍旗が夏草の上に倒れ伏していた。

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(ヴォルガ中流域の草原)

ティムールはヴォルガ河畔で26日間にわたる大祝宴を催し、従軍していたジョチ家の子孫、テムル・クトルグをトクタミシュに代わるキプチャクのカンとし、マンギト部のエディゲをその補佐役とした。
だが、勝利の歓喜のなかでもティムールは醒めていた。
トクタミシュを捕えることはできなかった。あの不屈の男はこの巨大な草原のどこかで、いまも生きて再起の時を窺っているに違いない。

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(キルギスの歴史家ラフマナリエフによるティムール伝の邦訳)



ティムールがいろいろ派手すぎてまたまた分割

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