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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」、ただし読みかけ

中華世界の歴史かイスラーム世界の歴史を先に進めて、さっさと孔子とガズナのマフムードを登場させないといけないのだが、最近いまいちアウトプットに気が乗らない。

というわけで、歴史も歴史以外も合わせて、さしあたりブログ本流にあまり関係のない分野の本をいくつか並行して読んでいる。

そのなかで、たったいま目の前にあるのがこれ↓

ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」: 宗教対立の潮目を変えた大航海

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いわゆる「大航海時代」のなかでも、世間によく知られているのはスペインが担った西方進出、アメリカ大陸の征服史だと思う。
ポルトガルのアジア進出については、辛うじてインド航路を「発見」したヴァスコ・ダ・ガマの名前が教科書に載ってる程度で、直後にインド洋世界に嵐を巻き起こしたアフォンソ・デ・アルブケルケの名前は用語集にすら載っていない。(と断定したが、面倒なので裏は取っていない)

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(アルブケルケ。英語だと「アルバカーキ」だが、ニューメキシコ州の都市の由来は同名別人らしい)



そもそもヴァスコ・ダ・ガマという人物からして、何者なのかいまいちイメージがわかない。(少なくとも自分は)
コロンブスであれば、一般的イメージでは偉人、歴史マニア的イメージでは妄想狂の大山師()とか、ちゃんと印象が定まっている感じなのだが。

しかし同時代のインパクトからすれば、ガマのほうがコロンブスより上だと思うのだ。
コロンブスは死ぬまで自分が到達した土地が新大陸だということを認識していなかった。
何十年かすると南アメリカからわんさか金銀が輸出されて世界経済が大変なことになるのだが、とりあえずリアルタイムで考えますと。
そもそもイベリア二国が海に乗り出した主目的はアジア直通航路の開拓であって、それに成功したのはガマであってコロンブスではない。
「西欧の世界制覇」という観点から考えても、ユーラシアこそが真の征服対象であって、両アメリカはそのための手段という感じが。

そんなわけで最近本屋で見かけたこの本が気になり、このほど入手した次第である。


読んでみると、この本はガマの伝記というよりもポルトガルの海洋進出史全体を扱っているらしい。
「らしい」というのは、実はまだ4分の1ぐらいしか読んでいないからである。
完読もしないうちに記事にするとは適当な話ではあるが、たまには更新をしないとブログが干からびてしまう。

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(サンマの干物は値がつくが、ブログの干物は値がつかない)


で、今のところヴァスコ・ダ・ガマ本人はプロローグにチラッと出てきてからとんとご無沙汰なのだが、ポルトガルの海洋進出史というのはこれが実になかなか波乱万丈で面白い。


まず、前史としてポルトガル建国の頃の話。

1357年に王位についたペドロ1世は「正義王」とも「残酷王」とも呼ばれる人物だった。
ただしほとんど同時代に活躍し、まったく同じ本名と全く同じあだ名を持ち、青池某先生の漫画の主人公になったカスティーリャ国王とは別人である。

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(青池某先生の漫画)


イベリア半島にはどうも同名別人が多いのでややっこしい。カタルーニャ伯家なんて「ラモン・ベランゲール」と「ベランゲール・ラモン」をひたすら反復している始末である。
(時々「ラモン」単体と「ベランゲール」単体が混じる)


さて、ポルトガル版ペドロ1世は王位に就く前、カスティーリャから迎えた妻の侍女であった「イネス・デ・カストロ」と熱烈な恋に落ちた。

なお、「カストロ」というとキューバの某老人を連想してしまうが、これはただの名字なので問題ない。
キューバの某老人の個人名は「フィデル」。これは男性名。本件の美女の個人名は「イネス」。これは女性名。

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(イネス・デ・カストロとの血縁関係はない。たぶん)

王子は政略結婚のために迎えた妻にまったく興味を示さず、どうでもいい侍女に熱をあげている。
父王は困惑し、ついで激怒し、最終的に家臣に命じて元凶のイネスを殺させた。まあ、この程度なら世界史上べつに珍しくもない展開である。

が、そこからが振るっている。

やがて王位についたペドロは、最愛の恋人を殺した貴族たちを呼び出し、「生きながら前と後ろから心臓を掴みださせて引き裂き、スパイスをぶっ掛けてそれを貪り食った」という。

さらに「埋葬されたイネスの遺骸を掘り出し、王妃の衣を着せて玉座にもたれかからせ、貴族たち全員に彼女の手に接吻することを命じた」という。

これは「悲恋」なのだろうか。
個人的にはむしろ「狂恋」じゃないかと思うのだが、どうもポルトガル王家には尋常ならざる情熱的な血が流れていたんだろう。


さて、いよいよ「大航海時代」がはじまる。

ペドロ1世の子のジョアン1世には三人の王子がいた。ドゥアルテ、ペドロ(またか!)、そしてエンリケである。
王子たちが成人に達したとき、父王は騎士叙任のために華やかなパーティーを開く計画を立てた。
ヨーロッパ中から貴顕を招き、一年中馬上槍試合と一騎打ちとダンスとゲームをして過ごそうというのだ。親馬鹿というやつだろう。
しかし、情熱あふれるポルトガル王家の子供たちは納得しなかった。

「父上! 私たちは騎士になるのだから戦いとうございます!」

もっともではある。
だが、ここに大きな問題がある。目下ポルトガルには戦うべき敵がいないのだ。

そもそもポルトガル王国は、レコンキスタの過程でわりと早いうちから対イスラーム前線を失った。
つまり東の国境を全部カスティーリャ王国に蓋をされ、異教徒と戦う必要が無くなったのだ。カスティーリャ王国との小競り合いもままあるにせよ、総じて暇である。

「陸に敵がいないなら海から行きましょ! 行きましょ!」

王子たちは父王を説き伏せて大借金をさせ、艦隊を作ってジブラルタル対岸のセウタを襲撃した。
その頃のポルトガル人はまったく海に不慣れであったので、新造の艦隊はセウタの目の前で何時間も行ったり来たりした。騎士たちはみな船酔いした。

ようやく上陸に成功すると、王子たちは俄然若さに任せた力攻めでセウタを奪い取った。
奪い取ったは良いものの、セウタを抑えていたイスラーム商人たちはすぐに近隣のタンジールに移住したので、この勝利はポルトガル王国の国庫にまったく益することなく、ただ莫大な借金だけを残して終わった。

まあ、偉業というのはたいていこうした馬鹿らしい事件が発端になるものだ。
あとから見れば、このセウタ攻略がポルトガルの海上進出の発端であるらしい。


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(セウタ。こんな地形じゃ、陸から攻めるのも海から攻めるのもさぞ難しかろう)


次にはジョアン2世に散々こき使われたあげく、エチオピア皇帝の顧問官になって生涯を終えた男について書こうと思ったのだが、なんだか長くなりそうなのでひとまずここで。


個人的に、こういう歴史の大きな流れの陰に隠れた挿話をたくさん知ることができる本は大好物である。

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中華世界の歴史9 晋楚争覇

春秋诸侯大国简图
(主に色が綺麗という理由で再掲・春秋時代の主要諸国)

中原の誇り

周王朝の東遷からおよそ130年が過ぎた。

最初の「覇者」にして華夏東方の盟主、中原の守護者たる斉の桓公(在位前685~前643)は紀元前643年に死去し、斉は公位争いの泥沼に沈んでいった。
その争いに介入しつつ斉の覇権を継承しようとしたのが、中原中部の小国「」である。


宋は河南にあり、鄭の東隣、衛と魯の南隣にあたる。
伝承によれば宋は殷王朝の末裔といわれ、古い文化を残す一方で時勢に乗ることの苦手な旧弊の国と見られていた。
それでも宋人には殷の正統を受け継ぐ由緒正しい古国としての誇りがある。
当時の国公、宋の襄公(在位前651~前637;じょうこう)はことのほかその誇りが強かったようだ。

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(宋の襄公・子茲父。画像小さい……)


前642年、襄公は斉に出兵して公位継承争いに介入し、桓公の太子、「姜昭」(斉の孝公、在位:前642~前633)を擁立し、山東諸国の軍勢を引き連れて淮水流域に進出した。
古き殷王朝の末裔として、宋には斉はおろか、周王朝をも凌駕するほどの中原支配の正統性がある。襄公はそう考えていたのかもしれない。
だが、中原の国々は宋の急速な台頭を警戒してひそかに対宋包囲網を結成しはじめた。
とりわけ、宋のすぐ南に位置する陳や鄭は楚に接近する。なかば蛮夷視される南の大国も、召陵の盟のあたりから徐々に中原のパワーゲームに組み込まれつつあったのだ。

紀元前639年、宋の襄公は「盂(う)の会盟」を呼びかけた。斉の桓公亡きあと、第二の「覇者」として中原の政局を主導しようとしたのだ。
集まったのは大国・楚に加えて、陳・蔡・鄭・許・曹の五ヶ国。ほとんどが楚の息のかかった中原南部の小国群である。
この席上で変事が起こった。

秋。宋公・楚子・陳侯・蔡侯・鄭伯・許男・曹伯・會于盂。執宋公以伐宋。

(『春秋左氏伝』僖公二十一年条)


なんと参集した諸侯が席上で襄公を捕えてしまったのだ。首謀者は当然ながら楚である。

「宋?! あんな旧弊の小国が中原の覇者とは笑止千万!」
「いかにもいかにも、真の強者の力を示すべし」
「さようさよう」
「いかにも然り」

会盟に出席した楚国の猛将「令尹子玉(れいいんしぎょく)」は襄公を人質として抱えたまま、諸侯とともに宋に攻め込み、至るところを荒らしまわった。
子玉の気が済んだところで襄公は釈放されたが、「覇者」としての面目はものの見事に丸つぶれになった。
(※「令尹」とは個人名ではなく、楚国の国制で宰相に相当する地位)

だが、襄公の誇りはそんなことで砕けはしない。
翌、紀元前638年夏、襄公は宋・衛・許・滕の連合軍を率いて楚の保護国の鄭に攻め込んだ。
なお、このうちの許は前年に楚とともに襄公を捕縛した側であるあたり、弱小国の右顧左眄を感じさせる。

冬、楚の成王(在位:前671~前626)は鄭国救援のため北進し、河南の泓水(おうすい)で宋軍と遭遇した。ここは宋国の勢力圏(この時代、「領土」というものはまだ確立していない)の西端にあたる。

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(泓水の戦い)


楚軍は粛々と渡河を開始した。崖の上からそれを見下ろす襄公に側近が進言した。

「公よ、敵は多勢ゆえ、川を渡りきらぬうちに攻撃をしかけましょう。ご命令を」

襄公は拒否した。

「ならん。敵が渡りきるまで待て」
「なにゆえ?」
「古より戦陣には法がある。両軍陣を整えて正々堂々と相打つべし。渡河のさなかに敵を討つは卑怯なり。これは華夏の覇者たるものの取るべき策ではない」
「しかし!」

数において宋軍に遥かに勝る楚軍はいまや川を渡り、陣形を整えはじめた。

「公よ、敵の態勢が整わぬうちに攻撃開始を!」
「ならぬと申しておろう!」

襄公はあくまでも拒否した。

「敵は南の蛮夷、我は中原の覇者だ! 中原には中原の戦法がある。あくまでも大義をもって戦うべし!」
「それでは負けますぞ!」
「我は亡国の末裔といえども、敵の弱みに乗じるごとき、さよう、蛮夷のごとき戦は許さん! 礼をもって矛を交わすべし!」
「公よ……公は戦を存じ上げぬ御方か」

側近は絶句した。

襄公が断固として開戦を拒否し続けるうちに、ついに楚軍は陣形を完全に整え、一挙に宋軍に攻め込んできた。

宋は本陣まで楚軍に蹂躙され、襄公は腿に重傷を負って退却し、この傷がもとで翌年に死亡した。

宋は頑迷なほど古い仕来りを重視する国で、わけても襄公は誇り高い人物だった。
ましてすでに実力によって覇者としての権威を剥ぎ取られた襄公は、圧倒的不利を覚悟してでも古来の「礼」に則って戦うことで威信を呼び戻そうとしたのだろう。しかし現実の非情さを前に夢は破れたのだ。


流浪の公子

この頃、周王朝はすでに洛邑周辺を保持する小国に過ぎず、東方随一の大国・斉は内紛後まもない。宋の覇者への挑戦は挫折し、河南諸国は風に靡く草のごとく楚に従った。
だが、ここで中原北部から新たな強国が出現し、北進を続ける楚軍の前に立ちはだかった。
山西地方にあって騎戦に長けた「狄(てき)」と呼ばれる諸部族と抗争しつつ力を蓄え続けて来た大国、「晋(しん)」である。

晋は周王朝とおなじ姫姓の国で、開祖は周の文王の子の「唐叔虞(とうしゅくぐ)」だとされている。

伝説によれば、文王の子で幼くして即位した成王が、あるとき庭で木の枝を拾い、弟に向かって「これでお前を某国に封じよう」と封建の儀式を真似して戯れたのが発端だという。
たまたまこれを見た宰相が、真顔で「では虞殿を何処に封じましょう」と王に尋ねた。
成王は驚いて「これはただの遊びだ」と答えたが、宰相は厳然として告げた。
「綸言は汗の如し。天子の言葉に戯れはありませぬ。ひとたび口にされたことは必ず実現されねばならぬのです」

唐叔虞が封じられた山西地方は紛うかたなき未開辺境の地であった。
邑を築いて入植した周人たちは、圧倒的多数の異族たちに囲まれて国造りを進めるうちに、中原とは幾分異なる文化を築いていった。土地の測量は先住の狄族たちのやり方を見習い、国制も伝説上の夏国に倣って整備した。
周人の理想とする国を築くには、そこはあまりに辺鄙な場所だったのだろう。


紀元前7世紀初頭、晋では本家と分家の争いが起こり、前678年に分家の「姫称」なる人物が本家を倒して第18代晋国公、武公(在位:前677~前675)として即位した。
世が世であればこうした下剋上は決して許されなかっただろうが、時はすでに乱世である。
武公が献上した賂に気を良くした周王はあっさり公家の交替を認めたのだった。


さて、武公の後を継いだのは第19代、献公(在位:前676~前651)である。おおよそ斉の桓公と同時代の人物といえる。
彼は自家同様に下剋上を狙いかねない諸分家を粛清し、周辺の小国群を併呑し、狄の諸部族と融和するなどかなりの治績をあげたが、いささか晩節を汚した。

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(「古代中国四大妖女」呼ばわりされている驪姫)


献公の治世が半ばを過ぎる頃、「驪戎(りじゅう)」と呼ばれる狄の部族から「驪姫(りき)」という名の美女が献公の後宮に迎えられれた。
当初は見知らぬ異国へ嫁がされたことを嘆いていた驪姫だったが、やがて豪奢な公宮の暮らしに慣れると昔の嘆きを後悔し、人生を前向きに切り開くことにした。
彼女は美しく聡明で、老いた献公の寵愛を勝ち得た。そこで彼女は既に定められた太子や継子たちを蹴落とし、自分の子を次なる晋国の公位につけるべく画策した。

彼女は周到に策謀を巡らして、献公の胸中に徐々に太子への猜疑を掻き立てる。
たとえばあるとき、彼女は自分の髪に蜂蜜を塗って庭に出た。蜂が彼女の髪に付きまとい、居合わせた太子が逃げ惑う驪姫から蜂を追い払った。
逃げる女と追う男、その構図を遠くから夫が見ていることを彼女は知っていた。

献公の不信が頂点に達したとき、彼女は決定的な一手を打つ。
太子から公に献上された肉に毒を盛って夫の前に運ぶ。毒見役が献公と驪姫の前で泡を吹いて悶絶し、何も知らぬ太子は父なる国公の暗殺を謀った罪によって死を命じられた。
太子の弟たちは父の後妻の罠が自分たちの身にも迫ることを恐れて国を出た。紀元前655年のことである。

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亡命した公子は二人いた。兄を「重耳(ちょうじ)」、弟を「夷吾(いご)」という。実はこの二人の母親も狄から迎えられた女性であったという。
彼らははじめ、母方の狄の部族に身を隠していたが、4年後に献公が死んで驪姫一派が失脚すると、まずは弟の夷吾が帰国して公位についた。
しかし彼は混乱する晋国をまとめることができなかった。

重耳は晋の貴族たちによる推戴を辞退し、慎重に時勢を見極めようとした。
彼は一握りの従者たちとともに中原の諸国を巡るあてどない旅に出る。旅は19年間に及び、軌跡は衛、斉、曹、宋、鄭、楚、そしてはるか西方の秦国にまで及んだ。
至るところで彼はさまざまな待遇を受けた。ときに厚遇され、ときに冷遇され、生命を狙われることもあった。

時は斉の覇権の末年。名宰相の管仲はすでに世を去り、晩年の桓公は政治に倦みつつあったが、中原の守護者を自任するこの国公は流浪の公子に二十乗の戦車と娘を与えて歓待した。
楚軍に大敗して夢破れた宋の襄公も彼を温かく迎えた。
次に赴いた楚国でも成王は重耳を厚遇し、戯れて彼に尋ねた。

「卿がもし国を取り戻したら、わしの振舞に何か礼をしてくれるかね?」
「そうですな……世の中なにが起こるか分からぬものとて、もしいつの日か私が国へ帰り、軍を率いて貴国と合い見えることがありましたら、三日の距離を後退しましょう」
「はは、その言葉、忘れるでないぞ」


城濮の戦い

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(秦の穆公。晋の文公の帰国を援け、のちにその晋を破り、「西戎の覇者」と称された)


紀元前636年、夷吾系統の晋国政権と対立した秦の穆公(在位:前659~前621;ぼくこう)は重耳に兵を与えて故国帰還を支援した。
重耳はついに晋国に入り、夷吾(恵公)の子、懐公(在位:前637~前363)を破って「晋の文公」として即位した。斉の桓公が世を去ってより七年の後。意外と時間差は少ない。

このとき彼はすでに62歳に達していた。古代にあってはもはや余命いくばくもない老人である。
実際、文公に残された歳月は9年しかない。しかしこの9年のあいだに彼は晋国を建て直し、中原に再び秩序をもたらし、「第二の覇者」と讃えられることになるのである。

文公帰国
(晋の文公重耳、故国へ帰る)


長きにわたる流浪の歳月は文公に人間に対する深い洞察の力を与えた。
彼は長年付き従ってきた側近たちと馴染みの薄い晋の貴族たちとを分け隔てなく扱い、おおむね国人の信望を得た。
さらに自ら見聞した諸外国の国情についての知見を活かし、積極的な対外政策を展開していった。

最初に彼が直面したのは周の内乱だった。
文公帰国とほとんど時を同じくして周王家で王弟によるクーデターが発生し、ときの周王が鄭に亡命して諸侯に助けを求めたのだ。文公は秦の穆公と協力して出兵し、周王を復位させた。
春秋動乱の世といえども、中原の正統な主権が周王室にあるという意識はまだ残っている。
王家の危機を救ったことにより、晋は諸侯から一目置かれるようになった。

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(晋の名将、「士会」の物語)


この頃、泓水で大敗した宋の襄公が死んだ。
楚軍はかの「令尹子玉」の統率のもと、河南・山東を荒らしまわった。黄河以南はほぼ楚の勢力下に入った。

襄公亡きあと、楚の圧迫を受けた宋は晋に接近する。これを察知した楚の成王は、麾下に加えた陳・蔡・鄭・許の軍を集めて紀元前633年に宋の商邑を包囲した。

「なにとぞ援兵を! 我らはもはや晋公だけが頼りでございます!」

文公は秦・斉と結び、10万近い大軍を率いて楚との対決に向かった。
楚の成王は状況の不利を悟って本国へ引き上げるが、中原侵攻作戦を指揮してきた子玉はあくまでも晋と雌雄を決するべく、王の帰国命令を拒否して河南に留まった。彼の手元に残った楚軍は3万数千。

紀元前632年4月、南と北の大国はついに激突した。
このとき、文公はかつて楚国で成王と交わした約束を守り、律儀に三日に渡って後退する。
北へ退く晋軍を追撃した令尹子玉は、四日目の朝に満を持して待ち構える晋軍を目の当たりにした。
世にいう「城濮(じょうぼく)の戦い」である。

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(城濮の戦いまでの動き)


夜明けとともに晋軍は虎皮を被せた馬に戦車を引かせて楚の右軍に突入した。嫌々楚に従っていた河南弱小諸国の軍は魔物が攻めてくると錯覚し、恐慌を来たしたところを殲滅された。
戦場の反対側では晋の別部隊が柴木を馬車の後ろに引きずりながら後方へ疾走しはじめた。
砂塵に目をくらまされ、大軍が敗走しはじめたと錯覚した楚の左軍は勇躍して追撃を開始する。そこに晋の中軍が横から突っ込んだ。
楚軍は大混乱に陥った。令尹子玉が声を嗄らして叱咤するが、兵士たちは狼狽え騒ぎながら先を争って潰走した。

城濮の戦い
(城濮の戦い)


こうして楚の中原侵攻は頓挫した。
這う這うの体で帰国した令尹子玉は、王命不服従および敗戦の罪によって成王に激しく面詰され、恥を雪ぐべく自裁した。

一方、楚から中原を救った晋の文公は、斉の桓公に続く第二の「覇者」として認められた。
楚に従っていた河南の諸侯は次々に晋に鞍替えし、平身低頭して罪を詫びた。そんな彼らを率いて、文公は「践土(せんど)の会盟」を催した。

このとき、文公は践土に仮の王宮を築き、洛邑から周王自身を招いている。
招いたとはいうが、本来諸侯たちすべての上に位置する周王が、臣下の寄合にすぎない会盟などに参列する筋合いはない。要は力ある覇者が更なる権威づけのために王を呼びつけたのだ。周王朝の権威も落ちたものである。

文公は楚軍から奪った戦車や兵器を王に献上し、これに応えて王は文公に銅車と塗矢、五百人の勇士を下賜した。
これより数十年間にわたり、晋が華夏随一の強国として黄河流域の覇権を握り、楚の北進を阻み続けることになる。

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(春秋第二の覇者、晋の文公重耳)


鼎の軽重を問う

それから20年以上の歳月が流れた。
周の東遷からおよそ160年。紀元前614年に楚国で第6代の荘王・熊侶(ゆうりょ)(在位:前614~前591)が即位した。斉の桓公・宋の襄公・晋の文公と渡り合った、あの成王の孫である。

彼は若かった。その頃、楚国は大いに飢え、離反する者が相次いだ。あげくある日、王は突然謀叛人に人質として拉致された。
どうにかこうにか帰ってくると、以来荘王は政治を放棄して日夜酒を飲み、美女を侍らせて遊び暮らした。なお、喪中である。

「まったくしょうもない馬鹿殿じゃ。ありがたいことよ」

楚では貴族の力が強い。彼らは若い王の暗愚をよいことに、思うさま権勢を追求した。王は王で諫言を嫌った。

「諌める者があれば斬る!」

それでも、なかには命知らずもいる。

「王よ、丘の上に鳥がおりました。鳥は三年鳴かず飛ばす。これはなんという鳥ですかな?」
「ふん、お前が何を言いたいかは分かっている。鳴かず飛ばずに三年過ごした鳥は、いずれ天まで羽ばたくだろう」

王は赤く濁った酔眼をあげて睨みつけると、また酒杯を煽った。斬られはしなかった。


しかし、ある日突然、本当に鳥は天へと舞い上がった。
自分で言ったとおりに放蕩三年目、荘王は仮面を外して私利私欲を追求してきた悪臣たちを一網打尽にし、死を恐れずに諫言してきた忠臣たちを枢要の位につけた。
己の欲しか考えぬ貴族たちに囲まれ、即位早々さんざんな目にあった荘王はあえて痴愚を装うことで取り巻く人間たちの本性をじっと見極め続けていたのだ。
少なくとも史書にはそう書いてある。実は本気でひたすら遊び暮らした挙句、とうとう遊びに飽きただけかもしれないが。

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(古代中華の「戦車」)


荘王は祖父の成王が挫折した中原進出に再び挑戦しはじめた。
紀元前606年、楚軍は漢水を遡上して中原に姿をあらわし、「陸渾戎」なる部族を討ち、河南諸侯を威圧しながら北上を続けた。
楚国の歴史始まって以来の大遠征である。楚軍は黄河を望んで西に針路を転じ、洛邑に迫った。ここに北の王と南の王は史上初めて直接合いまみえた。

城壁の奥から周王と貴族たちが見つめていることを十二分に意識しつつ、荘王は洛邑の目の前で大閲兵式を行なった。
周王は「王孫満」なる人物を楚の陣営に派遣した。
ちなみに周王は楚国の王号など認めていないので、「楚王」と呼びかけることはない。「子爵」の称をもって楚国の君主を呼ぶ。

「楚子よ、王は楚子が遠路はるばる洛邑に至った忠勤を嘉し、慰労のためにそれがしを遣わされた」
「それは重畳。尋ねたいことがあったのだ」
「尋ねたいこととは」
「他でもない。九鼎の重さは如何ほどか」

「九鼎(きゅうてい)」とは、伝説の禹王が華夏九州の青銅を集めて造らせたという鼎で、当時は王権の象徴と見なされていた。その重さを知りたいとはどういうことか。あまりにも不遜ではないか。
王孫満は怒りをこらえて答えたという。

軽重は徳に在りて鼎にあらず。周室衰えたりといえども天命は未だ改まらず。鼎の軽重を問うことなかれ!

荘王は無言で冷笑して席を立った。
徳? 天命? そんなものは我らは知らぬ。なにしろ我らは「蛮夷」だからな。

夏王朝、殷王朝、そして周王朝。それらはいずれも「黄河文明」の王統である。
楚は「長江文明」の系譜に連なる国であり、周王朝が築き上げた国際秩序の枠外にある。
楚人にとって、天命を受け継ぐ周王とやらは北隣の君主でしかない。

といっても、このとき荘王は周を滅ぼしはしなかった。中華の南北を問わず、当時は「国」というものを完全に滅ぼすことはごく稀である。
何故ならばいずれの国も強力な祖霊の庇護を受けており、みだりに国を滅ぼして祖霊への祭祀を絶てば、恐るべき祟りがあると信じられていたからだ。
だからこそあの殷王朝ですら根絶やしにはされず、「宋」という小国として血脈を保つことが許されたのだ。
まして楚人は神霊を畏敬すること中原の比ではない。荘王は存分に武威を見せつけ、周王などいつでも滅ぼせることを天下に示した。まずはそれで十分であった。

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(楚の荘王・熊侶)


中原の諸侯は動かなかった。周王の権威が辱められても、尊皇攘夷を唱えて兵を発するには当時の楚はあまりに強大だった。
それから楚軍は連年中原に侵攻し、陳・蔡・衛といった河南諸国を従属させ、七度にわたって鄭を攻めた。

「晋も楚も徳をおさめず、兵をもって争う。いずれの国にも信義はない。我らとて信義をもって国を守ることはできぬ」

鄭の統治者たちは慨嘆して楚王の王号を認めた。
しかし信義によって国は守れぬ時勢なのだ。北の晋が動き出して楚軍が去ると、鄭は今度は晋に従った。

鄭は春秋時代初期にしばしのあいだ中原の覇権を握ったが、立地が悪い。
中原のまさに中央、交通の要衝に位置するために、斉や晋や楚といった強大国の動きに翻弄され、始終あちらへついたりこちらへついたりしていなければ、とても国を保てない。
その結果、「鄭の不実」は天下の共通認識となっていた。

「噂に違わず鄭とはまことに信義なき国よ。またも北へ征かねばならんようだ」

紀元前596年春、楚の荘王は第八次鄭国遠征に出陣し、三か月にわたる包囲のすえに鄭伯を降伏させた。
あの難攻不落の新鄭城に楚軍の侵攻を許した鄭伯は、かつて殷人が周の武王に降ったときのように、もろ肌を脱いで羊を引き、街路に額づいて王を迎えた。

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(楚国強盛の頃、運命に翻弄された鄭国の美姫の物語。楚の荘王の英傑ぶりが描かれている)


その頃、晋では覇者・文公の死後数十年を経て、実権は国公家から「六卿(りくけい)」と呼ばれる六人の貴族たちの手に移っていた。
六卿は互いに意見利害を異にし、ことあるごとに政争を繰り広げたため、晋の政治方針は二転三転し、楚の進出に対してまともに対抗できなかった。

しかし中原の要衝たる鄭が完全に楚の隷下に入るとなれば、もはや捨て置けない。ついに六卿筆頭の「荀林父(じゅんりんぽ)」が晋の三軍を率いて出撃するはこびとなった。

ところが進軍中に鄭伯降伏の報が入り、晋国指導部の意見は割れた。
総大将の荀林父は鄭国救援の意味が無くなった以上本国へ帰還すべきと主張したが、六卿第二位の「先穀(せんこく)」は晋の三軍が出陣しながら一戦も交えずに帰ることはできぬと主張し、荀林父の指示を待たずに黄河を渡ってしまった。
こうなっては全軍ともに先へ進むしかない。晋軍は統制も戦略の一致もないまま南進を続けた。

いよいよ楚軍を眼前にした状況で晋軍はまたも内部の対立を露呈する。
荀林父は六卿の合意を得ずに楚との和平工作を開始した。ところが和睦の軍使たち自身は主戦派であったので、勝手に楚軍本陣を奇襲した。
楚軍は大軍だが王の親衛隊は少数だった。このとき危機に陥った荘王は見知らぬ勇士に救われた。

「余は徳が薄く、これまでそなたの名を知らなかった。そなたは何という者か」
「王よ、名乗るほどの者ではありません。私はかつて王の寛度に生命を救われましたゆえ、いつかこうして御恩に報いることを願っておりました。私は『絶纓(ぜつえい)』の者です」


伏線はこうだった。
数年前、荘王は臣下たちと酒宴を催した。王の寵愛する美女たちも同席した。
突然風が吹いて燭が倒れ、灯が消えた。そのとき突然、一人の女性が声をあげた。
「王よ、わたしに無礼を働いた不埒者がおります! 私はその者の纓(冠の紐)を引きちぎりました! 灯りがつきましたら、纓のない者を糾明してください!」
ざわめきが広がり、暗闇の中で覚えがあるものもない者も思わず冠の纓を確かめた。犯人は蒼白になった。
ところが荘王はざわめきを制してよく通る声で告げた。
「皆の者よ、今宵はめでたい宴だ。無粋なことはせずともよい。全員、すぐに自分の纓を引きちぎるのだ!」

荘王とは、こういう君主であった。


さて、危うく難を逃れた荘王は本隊と合流すると直ちに猛反撃を開始した。なし崩し的に始まった戦いで晋軍は大混乱に陥った。

「逃げよ逃げよ、最も早く川を渡った者に千金を授けん!」

荀林父は叫ぶ。
兵士たちは先を争って黄河に殺到し、船を奪い合った。先に船に乗り込んだ者たちは、船べりに縋り付く仲間たちの指を切り捨てて全力で逃げていった。

この「邲(ひつ)の戦い」のあと、楚は鄭・陳・宋を完全に従属させ、黄河以南をすべて勢力圏に組み込んだ。
意気上がる楚軍では、王に「京観(けいかん)」を築くことが進言された。これは敵軍の戦士者たちの屍を山のように積み上げて、勝利の記念碑とすることである。
しかし、荘王は迷いなくそれを退け、南へ帰っていった。

「武という字は『戈を止める』と書く。武勇は戦を終えるためにあるのだ。すでに戦が終わった以上、ことさらに他国の恨みを掻き立てる要などあろうか」

力においても徳においても、楚の荘王はまさに「覇者」であった。

春秋五霸
(春秋時代の主要な「覇者」たちを「春秋五覇」と呼ぶが、誰がそれにあたるかは定説がない。これは司馬遷の『史記』による整理)


混迷のなかへ

周の東遷から二百年が経とうとする。華夏の覇権は鄭から斉へ、斉から晋へ、そして楚へと移り変わった。
周王朝の権威は地を掃い、天下の争乱は激化するばかりである。

楚の覇権も決して安定したものではない。
紀元前591年に荘王が死去し、楚の力は徐々に衰えていく。

一方、邲の戦いに敗れた晋国は北辺の異族、「狄(てき)」の諸部族を抑えることに力を注ぎ、紀元前588年に狄の大半を滅ぼして山西地方を統一した。
都市国家のネットワークは、面としての広がりを持つ領域国家へと変質しつつあった。晋は狄を滅ぼすことで北方異族の騎戦技術を取り込み、国力を回復させていった。

同時期、晋は魯の要請に基づいて中原東部に出兵し、山東の大国・斉を撃破する。

楚では荘王の弟にあたる老将、「令尹子重(れいいんしちょう)」が晋の国力回復を察知し、楚と従属諸国の全軍を動員して中原に入った。
今にして晋を叩かねば、亡き兄の偉業は水泡と帰そう。彼は魯を破り、十三ヶ国の諸侯を集めて会盟を行い、斉国再建を宣言した。
晋は正面切ってこの動きに対抗することができず、楚軍が去った後に八ヶ国の諸侯を集めて会盟を行なった。
実は中原の小国の多くは、この二つの会盟の両方に出席している。
春秋に義戦はすでにない。いずれの国も信義誠実によって自国の保全をはかることなどできず、北の強国と南の大国とに挟まれて右往左往するばかりだった。


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(鄢陵の戦いにいたる動き)

紀元前575年6月末、鄭と宋の紛争を機に、南北両大国はまたも全面対決に踏み切った。世にいう「鄢陵(えんりょう)の戦い」である。

この戦いは凄まじい激戦となり、早朝から夜更けまで続いた。楚の共王(在位:前591~560)は目を射られ、鄭伯はあわや戦死しかけたところを影武者の援けで辛うじて脱出した。
伝説的な楚軍の射手、「養由基(ようゆうき)」は一矢で二人を殺し、「叔山冉(しゅくさんぜん)」は晋の戦士を晋軍の戦車に投げつけて、軾(手すり)を折ったという。

ようやく陣営に引き上げた晋軍では、楚軍の士気を挫くために一策を案じた。明朝決戦の命令を下したうえで、捕虜の一部を釈放したのだ。
自陣に戻った捕虜たちから晋軍の動きを聞いた楚の共王は軍議を行うため将軍の司馬子反(しばしたん)を呼びにやるが、司馬子反はすっかり気が緩み、酒を飲んで泥酔していた。
共王は激怒したが、これではとても晋軍に勝てるわけがない。夜が明ける前に王は全軍に撤退を命じ、楚軍はそのまま本国へ去っていった。

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(鄢陵の戦いは春秋時代屈指の激戦となった)


こうして楚の覇権も終わり、中原は再び晋の影響下に入った。

しかし晋国の内部は混乱を極めていた。相変わらず「六卿」をはじめとする有力貴族たちが国政を左右し、戦勝に驕った厲公(在位:前581~573;れいこう)も彼らに殺害された。
下剋上の風潮は他国も変わらない。楚でも公族や貴族たちが王を傀儡化して政争に明け暮れ、宋では「戴族」と「桓族」が争い、鄭では「七穆」が実権を握り、魯でも「三桓氏」が昭公(在位:前541~510)を追放した。

紀元前546年、ついに晋と楚の歴史的な講和が成立した。「弭兵(びへい)の会盟」である。

これは宋の政治家、「向述(しょうじゅつ)」の主導によるもので、十四ヶ国の代表を集めて行われた一大和平会議であったが、この会盟には主催国たる宋の国公を除いて、一人の諸侯も参列していない。
いずれの国においても、実権は「卿大夫」と呼ばれる貴族階層の手に移っていたのである。

より広く当時の状況を見ると、青銅に加えて大量生産が可能な鉄器が普及しはじめ、農業生産力と軍の規模が飛躍的に拡大しつつあった。
戦争は支配階層同士の儀礼的な闘争から、一般民衆を巻き込んだ総力戦に移行し、周王朝によって封建された諸国は次々に淘汰された。
卿大夫といえども絶対ではない。その下には多くの商工民がおり、兵士がおり、農民がいる。群盗がおり、侠客がいる。
彼ら「名もなき庶民」はこれから続々と歴史の表舞台に姿を表わしてくることだろう。


弭兵の会盟は晋楚いずれの覇権も否定し、両大国の並立という現実を追認するものだった。
大戦は阻止されたが、中小諸国は晋楚の双方に貢納を強いられて疲弊の度を増した。
和平は不確かなものだった。これ以後、晋と楚が再び全面対決に出なかったのは、この会盟以上に両大国が内外の新たな脅威に直面したことが大きな理由だった。
晋では国政を牛耳る「六卿」たちの内紛が修復不能なまでに激化し、これ以後一世紀半をかけて国家そのものが分解していく。
楚でも公族や貴族たちが激しい対立を繰り広げた。加えて長江下流域に相次いで新興国が誕生し、楚の側背を脅かした。

中華世界は混迷のなかへ向かっていく。その先になにが待っているのか誰にも分からない。
「戦国」と呼ばれる時代はもう遠くない。

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