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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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ISIL(いわゆるイスラム国)がニネヴェの城壁を爆破

イスラム国、貴重な歴史的遺産・ニネヴェ城壁を爆破
イスラム国は、イラク北部に位置する貴重な歴史的遺産・ニネヴェ遺跡を破壊をおこなった。彼らは1月上旬から同遺跡の破壊を計画していたが、現地時間27日夜に実行されたと伝えられている。


Wikipedia「ニネヴェ(メソポタミア)」
ニネヴェは、古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェと言う名は旧約聖書(ヨナ書など)の表記によるものであり、アッカド語ではニヌアと呼ばれる。新改訳聖書では、ニネベと表記される。



ふざくんな



いや、本件まだ詳細が不明でガセネタの可能性もなきにしも非ずなのですが(英語の信頼できる情報があまり見当たらず)、事実であっても不思議はない一方、事実であったら酷い事件です。
ただ、ネット上では「ふざくんな」という意見は多いながら、当のニネヴェ遺跡がどのような存在であったかについて、あまりまともに説明されていないようなので、そのへんも書いていきます。

ちなみに自分、古代オリエントは専門外です。
(わかりやすい予防線)
(なお、イスラーム史も古代中国史も専門外)



ニネヴェはアッシリア帝国最後の都でした。

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(アッシリア帝国)


アッシリア帝国は二つのことで、世界の歴史に不滅の名を残しています。

第一は、世界の歴史上で最初の「帝国」として。
そして第二は、残虐極まりない恐怖の国として。


歴史の黎明において、国家とはすなわち都市国家でした。城壁に囲まれた都市の内部だけが「国」であるという状況が長く続きました。
それが変わるのは紀元前3200年頃のエジプト、そして紀元前2500年頃のメソポタミア。
都市と都市との間にネットワークが生まれ、有力都市国家は連合し、都市と都市とのあいだに横たわる荒野に勢威を広げ、いつしか「点」から「線」へ、そして「線」から「面」へと支配を拡大していったのです。
「領域国家」の誕生です。

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(新アッシリア帝国末期のニネヴェ、想像図)


エジプトにおいては第一王朝創建者のナルメル王、そしてメソポタミアにおいてはウルクの僭主ルーガル・ザゲシがこれを達成しました。

その後、千年以上にわたって領域国家は増殖し、拡大と縮小を繰り返します。
しかしそれはあくまでも、コンパクトな領域を緩やかに統治する政体にしか成り得ませんでした。

エジプト歴代王朝の直接支配はほぼナイル渓谷に限定されていました。
新王国時代、トトメス三世やラムセス二世はアジアへ遠征を繰り返しますが、彼らは地中海東岸に古くから存在していた小国群にエジプト王の半ば名目的な宗主権を強要しただけであり、直接統治は確立していません。

メソポタミアではアッカドのサルゴンやナラムシン、バビロニアのハンムラビが「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)まで」といわれる領域を統一して「四方世界の王」と号しました。
しかし彼らもまた遠隔の異民族たちを個別に掌握することなどできず、諸国の王たちに名目的な従属を強いたに過ぎません。

最大の理由は機動力の欠如でしょう。
古代オリエントには、いや、黄河流域にもインダス流域にも当時は「馬」がほとんど存在せず、いたとしても馬を車の牽引や騎乗に用いるという発想はありませんでした。
そもそも古典古代以降の戦馬は品種改良の積み重ねによって体格の向上した「人工的な動物」です。
先古典期ユーラシアの馬は、どだい騎乗に耐え得る生き物ではなかったのです。

が、紀元前1000年前後。
南ロシア草原で騎馬遊牧民の先祖たちが馬の品種改良と戦車技術の洗練を進めたことにより、人類の支配者たちはかつてない「速度」を手中にしました。
オリエント世界においてそれを最大限に活用したのがアッシリア帝国、わけても紀元前883年に即位したアッシュールナシルパル二世と、紀元前745年に即位したティグラトピレセル三世のふたりです。

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(ティグラトピレセル三世、戦争と虐殺)


彼らは強固な中央集権的国家体制を構築し、画期的な新兵器や新戦術を次々に導入しました。
とりわけ威力を発揮したのは、これら強大な王たちが振りまいた圧倒的な「恐怖」です。

アッシリア後期の王たちは凄まじいばかりの恐怖戦略を採用したと伝えられます。
皮剥ぎ、串刺し、大量処刑、強制移住、のちにモンゴル帝国やドイツ第三帝国が行った(とされる)蛮行の大部分は彼らによって創始され、誇らしげに宣伝されました。
その「恐怖」に実体を与えたのはいうまでもなく「速度」です。

いかなる辺境の地であっても、アッシリアの大王に反逆した者は、旬日を出ずして残虐無比な戦車軍団に猛襲され、苛烈を極める拷問の末に苦痛に満ちた死を迎えるであろう。
諸国は震え上がり、アッシリアを「狼」と、「恐怖の国」と呼びならわしました。

かくてアッシリアは紀元前671年にザグロス山脈からエジプトまでを征服、史上はじめて全オリエント世界を統一するに至ったのです。

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(現在のニネヴェ)


しかし・・・・・・「恐怖の帝国」、「アッシリアの残虐」といった世評は著しく誇張されたモノなのかも知れない、というのが最近の学説です。
戦犯は『旧約聖書』。

古代ユダヤ人にとって、アッシリアは北から襲い来る恐ろしい敵国であり、神の鞭でした。
預言者たちはアッシリアを神の怒りの器と見なし、ありとあらゆる修飾でもってその力と恐怖を描き出しました。
どだい合理的に考えれば、アッシリアは恐怖を「道具」として利用したのでしょう。

より重要なのは、やはりアッシリアが史上最初にひとつの「文明圏」を覆うほどの版図を達成し、多種多様な諸民族に強力な支配を敷いたこと。
いうなれば、「主観的には世界の覇者」にまでなりおおせたことです。

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(神のごとき高みに達したトゥクルティニヌルタ一世は、もはや空位となった神の玉座を礼拝する)


近代以前において、人々にとって「世界」はこの惑星の全てではなく、彼らの属する社会における地理的認識の限界までを意味していました。
古代オリエントの人々にとって、人間が住む既知の世界はイラン高原から地中海とナイル川まで。
アッシリアはその全土を従え、「世界を統一」したのです。

ここから二千年以上にわたる「帝国」の時代が始まります。
アッシリア帝国の成立から、それこそ20世紀の初頭まで。
人類の大部分は地球上のさまざまな地域に成立し、それぞれ「主観的には世界の覇者」となった「帝国」のなかで生きていました。

世界史のもっとも豊穣な部分を彩る数多の「帝国」の先駆者たるもの、それが「恐怖の帝国」と呼ばれたアッシリア。

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(ISILがニネヴェの城壁を爆破した写真、とされる画像)


アッシリア帝国は全オリエントの統一を達成した直後、実に呆気なく崩壊します。
長年にわたる圧制と恐怖政策によって諸国の民の怨念は臨界に達し、あまりに巨大な版図ゆえにさしものアッシリア軍といえども至るところで火を噴く反乱を全て鎮圧するのは不可能となっていたのです。


主は その威厳ある声を聞かせ、激しい怒りと、焼きつくす火の炎と、豪雨と、暴風と、ひょうとをもって その腕の下ることを示される。
主が そのむちをもって打たれる時、アッスリヤの人々は 主の声によって 恐れおののく。
主が 懲しめのつえを 彼らの上に加えられるごとに鼓を鳴らし、琴をひく。主は 腕を振りかざして、彼らと戦われる。
焼き場は すでに設けられた。しかも 王のために深く広く備えられ、火と多くのたきぎが積まれてある。主の息は これを硫黄の流れのように燃やす。
(中略)
アッスリヤびとは つるぎによって倒れる、人のつるぎではない。
つるぎが彼らを滅ぼす、人のつるぎではない。
彼らはつるぎの前から逃げ去り、その若い者は奴隷の働きをしいられる。
彼らの岩は恐れによって過ぎ去り、その君たちはあわて、旗をすてて逃げ去る。


(旧約聖書「イザヤ書」第30章~第31章)


紀元前612年、メディア、新バビロニア、そしてスキタイの連合軍が帝国の首都ニネヴェを急襲。
積年の恨みに報いるがごとくアッシリアの民は老いも若きも男も女もことごとく虐殺され、地上から消滅したと伝えられています。(きっと誇張なんだろうけどね)


しかし、ニネヴェは廃墟となって残りました。

はるかのちに、とある学者がニネヴェの廃墟で膨大な粘土板を擁する大図書館の跡を発見します。
アッシリア帝国最末期の王、アッシュールバニパルが建設したと伝えられるものです。
ここにはシュメール・アッカド以来の記録文章や伝承文学の数々が収められていました。
無論、世界の歴史上で最初の「帝国」が、いかにして「支配」という技術を磨いていったかという痕跡も。

そう、ニネヴェは最初の「帝国」の首都であったからこそ、そこにはその後の二千年にわたる「帝国の時代」を理解するための鍵が今も眠っているはずなのです。



さて、ようやっと本題に戻ると(今までのは余談だったのか!)。

ISILの構成員と話したことはないから彼らの内在論理は知らないけれど、イスラーム原理主義の過激派という典型的な理解が正しいとすれば、彼らの遺跡破壊は「イスラーム以前(ジャーヒリーヤ時代)の遺物に価値なんぞない」という思想と、「そんなもんを有難がるのは偶像崇拝だろ」という憤懣と、「アムリーキーヤ(アメリカ)がムカつくからせいぜい嫌がらせしたれ」という心情に基づくのかなと。

(かなり適当である。ちゃんと検証すれば、もうちょっと戦略的な狙いがあるんだろうけど)

誰しも自分が間違った行為をしていると思って行為するわけではない。
価値観は相対的なもの。
破壊もまた歴史の一部。
形あるものはいつか壊れる。

そうした言葉はどれもおそらく真実であって、ただ闇雲にISILを野蛮と罵るだけでは何の意味もないのだろうと思います。
ただ、ニネヴェの爆破が真実であれば、それはとても残念なことです。

三千年前に世界で最初の「帝国」を築いた人々は、彼らが栄光の極みにおいて作り上げた帝都が、こんな結末を迎えるとは予想もしていなかったはずですから。
21世紀に生きる我々は、先古典時代から伝わる世界遺産を未来に承継する使命を果たせなかったのですから。

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(アッシリア帝国末期、ニネヴェの図書館を舞台とした怪奇譚『文字禍』を収録)






ですます調で文章書くと疲れマスね。(ぼそっ)

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イスラーム世界の歴史17 大セルジューク朝の勃興

鷹の王、トゥグリル

これまで多くの遊牧戦士が「マムルーク(奴隷軍人)」としてイスラーム世界に「輸入」され、各地で活躍してきた。
高官や将軍に上り詰める者、果てはガズナのアルプテギンのように一国の支配者となる者すらいた。
ただし彼らは全て出身部族から引き離され、個人としてイスラーム世界にやってきた者たちだった。ところが「テュルク西進」の大津波は、そんな「緩和措置」を吹き飛ばした。

カラ・ハン朝の成立に刺激されてバルハシ湖畔からアラル海東南のジェンド付近に移動した「オグズ部族連合」は、10世紀後半から徐々にイスラームに改宗しはじめた。おそらくその方が交易や出稼ぎに便利だったのだろう。

ムスリムたちは改宗したオグズ族たちを「トゥルクマーン」と呼んだ。「テュルク人もどき」とか、「テュルク人っぽい連中」という意味である。
テュルク人といえば草原で精霊を崇めて踊り狂っているべきものであって、「文明化」したテュルク人は紛い物だということらしい。

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(テュルクの故地、大いなる草原)

その頃、オグズ改めトゥルクマーンを率いていたのは「セルジューク」(セルチュク)という名の大族長だった。彼については事績も風貌もほとんど分からない。

セルジュークには二人の子がいた。兄の方を「イスラーイール」、弟の方を「ミーカーイール」という。
イスラーイールといえばイスラエル。ミーカーイールといえば天使ミカエル。ムスリムというより、ユダヤ教徒やキリスト教徒のような名前である。
勘繰れば、当時のトゥルクマーンはこれら宗教の教義も相違もろくに理解していなかったのではなかろうか。いずれにせよ、トゥルクマーンとしてはなかなかにハイカラな名前であった。

セルジュークの二人の息子は、若い頃には部族ぐるみでカラ・ハン朝の傭兵として仕えていたらしい。
999年にはカラ・ハン朝がサーマーン朝を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルに進出する。彼らの率いるトゥルクマーンもこれに伴って大挙してシル川を越え、豊かなオアシス地帯に足を踏み入れた。

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(2007年にウズベキスタンに行ったときに、バスの中から撮ったシル川の分かりにくい写真)

ところがまもなくカラ・ハン朝で内紛が起こった。
兄のイスラーイールは部族が内紛に巻き込まれることを嫌い、1025年に民の半分を率いてさらに南を目指した。
アム川を越えてガズナ朝の支配するホラーサーン地方に入り、征服王マフムードに自分たちを売り込もうとしたのだ。

イスラーイールを迎えたマフムードは、彼に問うたという。
「汝はどれほどの兵士を引き連れて参ったのか」
イスラーイールは弓を取り上げ、誇らしげに答えた。
「この弓を我が部族のもとに送れば、直ちに三千の戦士たちが馬を駆って馳せ参じましょうぞ」

逆効果だった。

大征服王マフムードは、この貧しげな半蛮族の長が予想以上の動員能力を持つことを知り、強い警戒心を覚えた。
三千の純騎馬軍団というのは、近代以前のユーラシア世界においては相当の威力を発揮し得るのだ。
マフムードは即刻イスラーイールを捕縛し、問答無用とばかりに地下牢に放り込んだ。人質にしたのである。

イスラーイールが連れて来たトゥルクマーンたちは待てど暮らせど族長が帰ってこないことにしびれを切らし、ホラーサーン北部で勝手に家畜を放牧し始めた。
馬や羊が耕地に入り込み、土地が荒廃する。マフムードはトゥルクマーン討伐に出陣したが、彼らはガズナ軍が迫るとアム川を越えて北に逃げ、ガズナ軍が去ると再びホラーサーンに舞い戻って都市を略奪しはじめた。
彼らも生きていかなければならないのだ。


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(鷹狩りをする遊牧民)

「なに、伯父上がガズナから戻らんだと?」
「おまけにガズナ軍がわしらをいきなり襲って来たんでさ!」

その頃、マー・ワラー・アンナフルに残った弟のミーカーイールは他部族との戦いで戦死し、「トゥグリル」という名の息子が族長の位を継いでいた。993年頃の生まれとされるから、この頃には30代半ばに達していたはずだ。

トゥグリルとはテュルク語で「鷹」を意味する。のちには「王」、「卿」などに相当する尊称の「ベグ」を付けて、「トゥグリル・ベグ」、すなわち「鷹の王」という名で知られることになる男である。
トゥグリルは長男ではなく、「チャグリー・ベグ」と呼ばれる兄がいた。こちらの名前は「小さな鷹」を意味する。
なぜ兄ではなく弟が族長なのか、なぜ兄が「小さな鷹」で弟が普通の「鷹」なのか。いろいろと疑問は生じるが、とにかくそういうことになっている。


なんにせよトゥグリルとチャグリーは仰天し、伯父の釈放を要求して大々的にホラーサーンに侵攻した。
折悪しくガズナではマフムードが1030年に病死し、王位継承をめぐって反乱が勃発する。なお、イスラーイールはこの頃には獄中で死んでいたらしい。

ホラーサーン諸都市はセルジューク家の大侵攻に困り果てた。
ガズナの政権はアフガニスタンの山奥で内輪揉めを続けるばかりで、自分たちを助けてくれる気配はない。

各地の都市で昔ながらのアイヤール(「任侠の徒」)が登場し、てんでに堅気衆をまとめてトゥルクマーンに抵抗したり、彼らと取引したりしはじめた。
要はホラーサーンはガズナ朝の手を離れた。

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(マー・ワラー・アンナフル南部とホラーサーン地方)

トゥグリル・ベグはホラーサーンのトゥルクマーンたちをまとめ上げて秩序を回復し、「自分たちはアッバース朝カリフの忠実なしもべである」と主張しはじめた。

「トゥグリル・ベグはガズナの圧制からホラーサーンを解放するためにやって来た」
「トゥグリル・ベグはいとも公正な君主なり」

海千山千のホラーサーン人たちがそんな宣伝を素直に信じたわけではないが、征服王を失ったガズナよりも新興のセルジューク一族につく方が未来は明るいように思えてきた。


1038年、ホラーサーン地方最大の都市、ニーシャープールにトゥグリル・ベグからの使者がやって来た。

「我が君はイーラーン・ザーミーン(イランの地)の誉れにして、諸都市の女王たるニーシャープールが城門の鍵を捧げることを望んでおられる」

ニーシャープールのアイヤールや有力商人たちは鳩首して侃侃諤諤の議論を交わした末、セルジューク一族の傘下に降ることを決定した。

「解放王、トゥグリル・ベグ!」

トゥグリル・ベグは歓呼の声を浴びながらニーシャープールに無血入城した。この年をもって「大セルジューク朝」の建国とされる。

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(セルジューク朝の国章)


「東洋と西洋のスルタン」

二年後、アフガニスタンの山奥からホラーサーン回復を呼号するガズナ朝の大軍が出撃してきた。
セルジュークの軽騎兵たちは行軍するガズナ軍への襲撃を繰り返した。補給を脅かされ、ガズナ軍は飢えと渇きに苦しんだ。

砂塵吹きあげる1040年5月23日、トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグの率いるセルジューク軍2万は、メルヴ近郊のダンダンカーンでガズナ軍5万を迎え撃った。
二倍を超える兵力差にも関わらず疲労困憊していたガズナ軍は大敗を喫し、ホラーサーン以西の喪失が確定した。
ガズナではまたしても内乱が起こり、国王マスウード1世はインド方面で殺害される。こののちガズナ朝が西南アジアの覇権を握ることは二度となかった。

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(ダンダンカーンの戦い)


この戦いの直後であったらしい。
トゥグリル・ベグはドヤ顔をして兄のチャグリー・ベグに二本の矢を渡した。

「折ってみよ」

ぽきり。

白けた間があって、トゥグリルは三本の矢を渡してもう一度同じことを命じた。

ばきばき、ぽきり。

「・・・・・・もう一度」

四本の矢を渡されたチャグリーは、膝の上に矢束を置いて渾身の力を込めた。

「ふんぬう・・・・・・」

「いや、いい。兄者。そこまで」
「なんだよ」
「何が言いたいかというとな」
「まあ、そろそろ読めてきたんだが」
「一本の矢は折れるし、二本でも折れる。三本でも・・・まあ馬鹿力を揮えば折れるけど、四本になると無理だろ。これと同じように一族が結束していればどんな敵が現われても負けることは」
「そうかそうか」

ぼぎっ。

「・・・・・・つい力の加減が」
「・・・・・・そうかそうか」

ちなみに、後のセルジューク朝は同族争いに明け暮れることになる。

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(?)


ガズナ朝を撃退したトゥグリル・ベグとチャグリー・ベグは、イラン高原への進出に乗り出した。
何といってもスンナ派カリフへの忠誠を大義名分とする大セルジューク朝としては、イランを抑えるシーア派のブワイフ朝が当面最大の敵手であった。
それに、おそらく当時のテュルク人はひたすら西へ、輝けるイスラーム世界の中央を目指すことが民族的本能になっていたのだ。

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(大セルジューク朝の最大版図)

イランの地に入った大セルジューク朝は、都市の知識人たちの蒐集に力を入れた。
異教世界から来たトゥルクマーンは戦うことには長けていても、国を治めることにはまるで素人である。
定住民の社会を知悉し、国際共通語であるアラビア語やイスラーム法に通暁したイラン系官僚の協力が不可欠だった。

イスラーム世界には「忠臣は二君に仕えず」といった価値観はないし、同じムスリムであれば民族的差異に拘る者も少ない。
ガズナ朝に仕えていた官僚や、各地の都市で学んでいた学生などが相次いでトゥグリル・ベグに仕官した。


セルジューク朝ではペルシア語が公用語となった。
これは当時宮廷に馳せ参じた知識人たちの多くがペルシア語を母語としていたことにもよるし、そもそもテュルク人たちが最初にイスラーム文明に触れた中央アジアがサーマーン朝以来のペルシア語文化圏だったことにもよる。
トゥグリル・ベグやチャグリー・ベグはペルシア語なら話せたが、アラビア語は全く理解できなかったらしい。

テュルク人は「剣の人」として武威を揮い、イラン人は「筆の人」として統治する。
この明白な役割分担が以後の東方イスラーム世界の主流となる。
言語についても大セルジューク朝からはペルシア語が東の共通語となり、アラビア語は単なる宗教上の言語と化すことになる。


数十年間にわたって内紛を続けていたブワイフ朝は大セルジューク朝の攻勢によって急速に崩壊した。
1055年、トゥグリル・ベグは殺伐たるトゥルクマーンの騎馬軍団を率いてイラーク平原に下り、ついに帝都バグダードに入城した。
この頃、異様に明るい未知の星が夜空に出現する。人々は地獄の門が開き、全く新たな時代が到来する予感に慄いていた。

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(1054年におうし座の超新星爆発が世界各地で観測され、かに星雲となる)

このとき、アッバース朝のカリフは第26代カーイム(在位:1031~1075)。
トゥグリル・ベグはカリフを武力で恫喝し、その娘を下賜させた。さらにカリフはトゥグリル・ベグに「東洋と西洋のスルタン」なる称号を与えることを強要された。
スルタン」とはアラビア語で「支配者」を意味する言葉で、この頃からイスラーム世界各地の君主に使用されるようになる。


ブワイフ朝を滅ぼし、アッバース朝を膝下に組み伏せたトゥグリル・ベグはさらに旌旗を進め、イラーク平原を北上してシリア・アナトリアに向かった。
彼の軍隊がユーフラテス川を渡るとき、従軍する詩人がトゥグリル・ベグを祝福した。

「東洋と西洋のスルタンよ、貴方様は只今、マムルークを除くテュルク人として初めて、この川を越えられました」
「さもあろう。これよりは我等の時代が来るのだ」

トゥグリル・ベグは傲然と答えて、馬首を地中海へ向けた・・・・・・。


大セルジューク朝の偉大な創建者は、1061年に71歳でこの世を去った。
その最期は「鼻血が止まらずに失血死」という異様なものであったと伝えられている。


獅子王アルプ・アルスラーン

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(アルプ・アルスラーン)

トゥグリル・ベグの死後、スルタン位継承をめぐる同族争いが勃発した。
トゥグリル・ベグ自身にも子供や孫はいただろうが、彼らについての情報は乏しい。早々に抹殺されたのだろう。
有力候補はチャグリー・ベグの子でホラーサーン総督を務めていたアルプ・アルスラーンと、トゥグリルの伯父でガズナ朝に捕殺されたイスラーイールの子、クトゥルミシュだった。

トゥルクマーンの騎馬軍団はおのおのの支持する後継候補に加担して戦い合ったが、その多くはクトゥルミシュについたらしい。クトゥルミシュはトゥグリル・ベグの下で常に最前線に立ち、トゥルクマーン戦士たちと苦楽を共にしてきたからだ。

だが、征服戦争の途上で大セルジューク朝に仕官したイラン人官僚たちはクトゥルミシュに不安を感じていた。
彼は粗野で、昔ながらの遊牧戦士の気風を漂わせる人物だった。クトゥルミシュがスルタンとなれば自分たちの立場は軽んぜられ、被支配者から収奪することしか頭にないトゥルクマーンたちによってイランの地は荒れ果てるのではなかろうか。

一方、アルプ・アルスラーンには期待が持てる。
彼も好戦的なことではクトゥルミシュに引けを取らないが、イラン人官僚たちの立場は尊重しており、余計な口を挟むことはなさそうだった。
アルプ・アルスラーンには少年時代から「ハサン・イブン・アリー」というイラン人の学者が傅役(アター・ベグ)としてつけられていたのだが、彼はこの傅役をいたく尊敬し、彼の言うことは何事も素直に受け入れるというではないか。


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(アルプ・アルスラーンとは何も関係ない)


勝ったのはアルプ・アルスラーンだった。

トゥルクマーンと競合するマムルークたちも一致してアルプ・アルスラーンを支持したことに加え(大セルジューク朝は自由身分のトゥルクマーンとともに、解放奴隷のテュルク人マムルークをも多く利用していた)、傅役のハサン・イブン・アリーがイラン人官僚団をまとめあげたのが大きい。


敗れたクトゥルミシュやトゥルクマーン戦士たちの多くはアルプ・アルスラーンの手の及ばない西方、シリアやアナトリア高原に去っていった。
彼らはその地でファーティマ朝やビザンツ帝国の領域を徐々に蚕食し、いくつもの「諸侯国(ベイレルベイリク)」を建てる。
そうした動きが思いがけず巨大な波紋を呼ぶことになるのだが、それはまだ二十年以上先のことである。


なお、のちにアルプ・アルスラーンはクトゥルミシュが異郷で窮死したことを伝え聞いて涙を流し、彼の遺児のスライマーンを西方諸州の総督に任じた。
後年、スライマーンは大セルジューク朝の本家から独立し、アナトリアに「ルーム・セルジューク朝」と呼ばれる国を建てることになる。
こうしてテュルク西進の波は地中海に到り、今日の「トルコ共和国」の領域にまで到達したのだった。

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(ルーム・セルジューク朝)


1064年4月、アルプ・アルスラーンはスルタンの位についた。
彼の名はテュルク語で「獅子(アルスラーン)のごとき英雄(アルプ)」を意味する。意訳すれば「獅子王」となるだろう。
獅子王は大功あった傅役のハサン・イブン・アリーを宰相に任じ、「ニザーム・アルムルク」、すなわち「国家の柱石」という称号を与えた。
彼こそ前期イスラーム史を代表する偉大な政治家として、高校世界史の教科書にも言及される名宰相に他ならない。

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(ニザーム・アルムルク)

ニザーム・アルムルクは「筆の人」たるイラン人官僚団の筆頭として、粗野なテュルク人たちを醇化して秩序を維持することに努めた。

まずは軍事財政制度の確立である。
大セルジューク朝もブワイフ朝と同様にイクター(分与地)の授与によって軍人たちの忠誠を繋ぎとめたが、ニザーム・アルムルクは前政権を反面教師として、イクター制の運用について種々の改善を試みた。
たとえば、軍人たちに宛がうイクターを頻繁に入れ替えることによって私領化を阻止し、政府の監督官を派遣して無制限な収奪を防いでいる。

また、彼は文教政策にも注力した。
各地に「ニザーミーヤ」と呼ばれるマドラサ(学院)を建設し、スンナ派イスラーム法学の研究・講義を支援したのだ。
これにはいくつかの目的があった。
まず、文化政策に力を入れることでセルジューク朝の粗野なイメージを払拭し、知識人たちの支持を獲得すること。
また、イスラーム法学を振興することで将来の優秀な官吏候補を養成すること。
そしてもうひとつの隠れた意図は、スンナ派法学を盛んにすることによって、長年にわたってイラン高原に根強く残るシーア派の影響力を削ぐことだった。

大セルジューク朝は一貫してスンナ派を奉じ、東方イスラーム世界で最初のシーア派の大国、ブワイフ朝を滅ぼした。
それもあって、宰相ニザーム・アルムルクはシーア派から信仰の抑圧者として激しい敵意を受けることになる。


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(11世紀半ばのビザンツ帝国)


さて、名宰相の補佐を得た獅子王アルプ・アルスラーンは即位直後からグルジア・アルメニアに遠征し、アナトリア高原に侵入した。

この頃、東部地中海を支配するビザンツ帝国はマケドニア朝時代(867年~1059年)の中興を経て、初期イスラームの大征服を迎えた頃に比べれば、だいぶ力を取り戻していた。
東方からの新たな脅威を受けて、ビザンツ帝国は大軍を東部アナトリアに押し出した。
セルジューク軍は相次いで敗退し、一時はユーフラテス川まで後退した。やはり「ルーム(ローマ)」は恐るべき大国である。


ビザンツ帝国の人々は大セルジューク朝に対抗するため、強力な軍事政権の誕生を望んだ。
その声を受けて、1068年にカッパドキア地方の軍人ロマノスが帝位につき、皇帝ロマノス四世ディオゲネスと称した。

ロマノスは1071年初夏、6万の軍を率いてアナトリア高原を東へ向かった。

この頃のビザンツ帝国は、北欧から来たヴァリャーギ(ヴァイキング)やバルカン半島のスラヴ系諸民族、カフカス地方の諸部族など多様な国々の援軍や傭兵をかき集めることで、自国を実態以上に偉大な帝国に見せかけるという外交方針をとっていた。「幻影の世界帝国」と呼ばれる所以である。
だからこの6万の軍というのも、実際には有象無象の寄せ集めで、指揮系統もいい加減なものだったと思われる。

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夏のアナトリア高原の行軍は長く厳しいものだった。
ロマノスは帝都コンスタンティノポリスから持ち出した様々な財物を傭兵たちに分け与えて士気を維持しようとした。

軍のなかでも遠く西方のヨーロッパから来た「フランク人」と呼ばれる連中はことに粗暴で、沿道の民衆や軍の他の部隊から物資の強奪を繰り返した。やむなく皇帝はフランク人傭兵との契約を破棄し、彼らを全員帰国させた。
さほど遠くない先に、彼らの同族が巨大な津波となってアナトリアに押し寄せることになるのだが、そのときの惨状を予感させるかのような振舞だった。
一方で、不平ひとつ零さず黙々と歩を進めるのは最近東からやって来た「トルコマン」とかいう連中である。
これから戦うセルジューク朝の連中の同族だが、内乱に敗れて亡命してきたらしい。


テュルクの騎兵は神出鬼没である。
アルプ・アルスラーンは三万の軍を率い、東部アナトリアのヴァン湖のほとりでビザンツ軍を待ち受けていた。
セルジューク軍はビザンツ側の動きを完全に把握していたが、鈍重に行軍を続ける帝国軍はアルプ・アルスラーンの居場所をまったく把握できていなかった。

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(マラズギルトの戦いまでの両軍の動き)

The Battle of Malazgirt / Manzikert 1071 HD - (Seljuq Turks vs Byzantines)
(これはなかなか面白い)

the battle of manzikert
(こんなのもあり)


8月末、マラズギルトの荒野で両軍はついに接触した。
セルジューク軍は決戦前に突出したビザンツ軍の騎兵隊を次々に包囲殲滅し、8月26日の決戦を迎えた。
セルジューク軍は長大な三日月形の横陣を敷いた。ビザンツ軍はセルジューク軍に倍する大軍である。色とりどりの旗が風に靡き、色とりどりの武具が陽光に煌めく。中央アジアからきた遊牧戦士たちは今更に「ルーム」の武威に慄いた。

「スルタンよ、敵が我等に迫ってまいりますぞ・・・・・・」
「案ずるな。我等も敵に迫っておる!」

獅子王は右手を掲げ、自軍の中陣に緩やかな後退を命じた。三日月の両翼が激しく騎射を繰り返して敵の接近を牽制する一方、中央部は徐々に後退していった。弦月は弓を引き絞るかのごとく大きく歪んでいった。

まもなく皇帝ロマノス率いるビザンツ帝国軍の本隊はアルプ・アルスラーンの本陣に突入した。本陣はもぬけの空だった。
意気上がるビザンツ軍の将兵は、ふと背後に轟く馬蹄の響きに築いた。
彼らが振り向くと、あにはからんや、いつの間にか左右両翼はセルジューク軍に蹴散らされ、背後から敵が迫ってくるではないか。

副帝ドゥーカス率いるビザンツ軍の後方部隊は、敵中に孤立した皇帝ロマノスを放置して退却を開始した。
皇帝を守るヴァリャーギ親衛隊は四方から殺到するトゥルクマーン騎兵の大軍に対して死にもの狂いの抗戦を続けたが、所詮多勢に無勢である。
日没が迫るころ、ヴァリャーギ親衛隊はほぼ壊滅し、ロマノス四世ディオゲネスはアルプ・アルスラーンの本陣でアルプ・アルスラーンに降伏した。
ローマ帝国皇帝が戦場で敵国の捕虜となるなど、三世紀のヴァレリアヌス帝以来かつてなかった出来事であった。

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(ロマノス四世を辱めるアルプ・アルスラーン)

ロマノスは最初、奴隷と間違えられて鞭打たれ、耳輪をつけて連行されてきたという。
アルプ・アルスラーンはこの男が「ルーム」の皇帝であるなど信じられなかった。
なにしろ「ルーム」は世界でもっとも富み栄えたおとぎの国で、皇帝はつねに黄金で刺繍した紫の衣をまとっているはずではないか。

このとき二人が交わした会話が記録されている。

「皇帝よ、もし私が貴殿の捕虜となっていたならば、貴殿は私をどうしたであろうか」
「スルタンよ、おそらく貴方を処刑するか、コンスタンティノポリスで晒し者にしたでしょうな」
「私の下す刑はそれより重いぞ。私は貴方を釈放して自由の身とするのだから」

アルプ・アルスラーンはロマノスを釈放し、護衛兵を与えて丁重に送り出した。
しかし、スルタンの言葉は正しかった。ロマノスが帰国したとき、帝都ではすでに新しい皇帝が即位していた。
捕囚の辱めを受けながらおめおめと生きて帰って来た「前皇帝」は捕えられ、両目を抉り取られて追放されたのだった。

マラズギルトの戦いの敗北によって、ビザンツ帝国は「中規模な帝国」から「並みの強国」程度までランク落ちする。


「――余は、夜明けに夢を見た。手を伸ばすと空の星を掴み取ることができたのだ。余はそれを軍旗に縫い付けた。見よ、これがその旗だ」

トルコ国旗


アルプ・アルスラーンの勝利は西ユーラシアの歴史の分岐点となった。
これよりテュルク人たちは怒涛のようにアナトリアへの進出を開始し、ビザンツ帝国は押される一方となる。
何世紀ものあいだギリシア語と東方正教の文化に属していたアナトリアが、「トルコマニア」や「トゥルキーヤ」と呼ばれるようになるまで、さほど長い時はかからなかった。

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(古典的名著は古典であってもやっぱり名著)



ビザンツ帝国に痛撃を加えた獅子王は、一転して中央アジアに馬首を向けた。
セルジューク朝の故地であるマー・ワラー・アンナフルは、帝国がひたすら西へ拡大するうちにいつの間にか統制が緩み、無秩序状態に陥りはじめていたのだ。
ところがこの遠征が獅子王の命取りになった。

1072年秋、セルジューク軍はアム川南岸のとある砦に猛攻を加え、中に籠っていたユースフ某なる人物をひっ捕らえてアルプ・アルスラーンの本営に引き据えた。

「殺せ、つまらん奴だ」

スルタンは不興気に吐き捨てて背を向ける。それに向けてユースフが毒づいた。

「つまらん奴とはなんだ、大層な護衛どもに囲まれてふんぞり返った軟弱者め! 男なら男らしく俺と勝負しろ!」

色白のアルプ・アルスラーンは「男らしく」というところに刺激され、激昂して命じた。

「そやつの縄を解け! 俺が手ずから殺してくれる!」

衛兵たちが必死に止めるが、獅子王は聞かずに弓に矢をつがえてユースフを睨み据えた。
ユースフは縄を解かれるなりそばの兵士の短剣をひったくって突進する。獅子王は弓を引き絞ったが、矢を放つ直前に足を滑らせて玉座の段から転落した。そこにユースフが襲い掛かり、スルタンの脇腹に深々と短剣を突き刺した。

「昨日、余は我が足元で兵士たちが行軍し、大地が震えるのを感じた。余は己が力をいたく誇った。されど神は余の驕りを見抜きたまい、今日は余を大地に突き落としたもうた・・・・・・」

1072年11月25日。
獅子王アルプ・アルスラーンは42歳にして非業の死を遂げた。


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セルジューク朝はひとつの記事に纏める予定だったんだけどなあ。

陳舜臣先生が逝去(15/1/21)

小説家の陳舜臣さん 死去

中国を舞台にした歴史小説を数多く発表してきた小説家の陳舜臣さんが、21日朝、老衰のため神戸市内の病院で亡くなりました。90歳でした。



陳舜臣(Wikipedia)

陳 舜臣(ちん しゅんしん、1924年(大正13年)2月18日 - 2015年(平成27年)1月21日)は、推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。神戸市出身。本籍は台湾台北だったが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、その後、1989年の天安門事件への批判を機に、1990年に日本国籍を取得している。日本芸術院会員。


まずは御冥福をお祈りします。高齢なのは知っていたものの、まさか大正生まれだったとは。


陳先生は、田中某先生や宮城谷某先生が登場して本屋の棚が賑やかになるよりもずっと前から、日本人がふと中国史に興味を持った時に手に取れる本を書いてくださってきた方でした。
思えば自分も、中国史に初めてまともに接したのは中学の時に読んだ陳先生の『中国の歴史』シリーズ。

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有名な『小説十八史略』とは別のシリーズで、小説というよりも通史という雰囲気で(興味を引き、読みやすくするための脚色はいろいろあるけど)、先史古代から現代までを語っていく内容でした。

小説のほうはそれほど多く読んだわけではないけれど、『阿片戦争』や『インド三国志』は印象に残っています。
『耶律楚材』や『桃源郷』、『魏の曹一族』も読もうと思いつつまだ読んでないや。


使い古された言葉ではあるけど、また「ひとつの時代が終わった」という感慨が去来します。


謝謝.我們非常感謝你.
聽到陳舜臣老師突然逝去的消息我們都很愕然,謹致以深切的同情和問候.

(しかし考えてみると陳先生の母語は日本語だったのかな?)




次はあまり遅くならないうちにイスラーム世界の歴史の続編、セルジューク朝についてアップします。

イスラーム世界の歴史第1部 用語集(「東西の暗雲」まで)

固有名詞が増えて来たので用語集を作ります。これは随時追加していきます。(多分)



※アラビア語の固有名詞は馴染みがなくて覚えにくいといわれるけど、これを知っていると若干助けになるかもしれない。
  「AイブンB」・・・・・・「Bの息子A」(例:「アブドゥッラー・イブン・アッズバイル」 = 「ズバイルの息子アブドゥッラー」)
  「アブーA」・・・・・・「Aの父親」(例:「アブー・ターリブ」 = 「ターリブの父親」)
  「アブドA」・・・・・・「Aの奴隷」(例:「アブドゥッラー」 = 「神の奴隷」、 「アブドゥルマリク」 = 「王(=神)の奴隷」)
  「Aアル(アッ、アン)B」・・・・・・「BのA」(例:「サイフ(剣)ッラー(神の)」、 「ハリーファト(代理人)・ラスール(使徒)ッラー(神の)」)


※他に歴史書とかでよく見かけるような気がする単語(うろ覚え)
  「イラーフ」・・・神  「サラーム」・・・平和  「ダウラ」・・・王朝  「マリク」・・・王  「スルタン」・・・支配者
  「アミール」・・・将軍、太守  「マディーナ」・・・都市  「ターリーフ」・・・歴史  「ナフル」・・・川
  「バフル」・・・海  「ジハード」・・・聖戦、努力  「ディーン」・・・信仰  「ルクン」・・・支柱  「アドル」・・・正義
  「アーディル」・・・公正  「サラーフ」・・・誠実、純粋  「ワズィール」・・・宰相  「カーディル」・・・強者

このへんの単語と上の文法の組み合わせで、そこそこ人名や地名の意味が読み解けたりする。
ブワイフ朝の「ルクン・ウッダウラ」とか、アイユーブ朝の「サラーフッディーン」とか、バグダードの正式名称「マディーナト・アッサラーム」とか。



 ◇ あ ◇
・アーイシャ : 預言者ムハンマドの妻の一人で最も寵愛されたといわれる。初代カリフ、アブー・バクルの娘。第4代カリフ アリーに反対して駱駝の戦いを起こした。
・アクスム王国 : 古代末期から中世前期にかけてエチオピアに栄えた王国。キリスト教の一派、エチオピア正教を奉じる。
・アズラク派 : ハワーリジュ派の最過激派。悪を見過ごす者は背教者であるとの倫理観に立ち、事実上自分たち以外のあらゆる勢力を敵視し無差別に虐殺した。第二次内乱でアラビア半島東部からイラン高原南部にかけて拡大するが、ウマイヤ朝によって徹底的に根絶された。
・アッバース : 預言者ムハンマドの叔父。ヒジュラ後もマッカでムハンマドに敵対していたが、やがてイスラームに改宗した。アッバース家の祖。
・アッバース朝 : 750年から1258年まで続いたイスラーム帝国。首都はおおむねバグダード。
・アブー・アルアッバース : アッバース朝初代カリフ。異名はサッファーフ(「恩恵を注ぐ者」、あるいは「血を注ぐ者」)。酷薄な性格で知られる。
・アブー・ジャアファル : →マンスール
・アブー・スフヤーン : マッカのクライシュ族のウマイヤ家の当主。620年代のマッカの実力者で、長らくムハンマドに敵対した。ウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウィヤの父。
・アブー・ターリブ : ムハンマドの叔父で育ての親。アリーの実父。
・アブドゥッラー・イブン・アッズバイル : ズバイルの子。第二次内乱でアラビア半島からイラクにかけて勢力を広げ、ウマイヤ朝に対抗してカリフを称した。
・アブドゥルマリク : ウマイヤ朝第5代カリフ。第二次内乱を平定し、内政を整え、大征服を再開してウマイヤ朝の全盛期を築いた。
・アブドゥルラフマーン1世 : ウマイヤ朝の王族。アッバース革命の際にウマイヤ家への粛清から辛うじて逃れ、言語に絶する苦難の末に母方のベルベル族が暮らすマグリブに亡命。この地で支持を集めてアンダルスを征服し、後ウマイヤ朝を築く。
・アブー・バクル : 初代正統カリフ。ムハンマドの親友。リッダ戦争に勝利して大征服への足掛かりを築いた。
・アブー・ムスリム : アッバース革命の立役者。ホラーサーンの反乱を煽り、ウマイヤ朝打倒を主導する。アッバース朝成立後に粛清された。
・アブラハ : アクスムの将軍。6世紀後半に南アラビアに侵攻し、ヒムヤル王国を滅ぼした。
・アミール・ムウミニーン : カリフの異称。「信徒の指揮官」ないし「信徒の長」を意味する。
・アミーン : アッバース朝第6代カリフ。ハールーン・アッラシードの嫡子。異母兄のマアムーンと争って敗死した。
・アムル・イブン・アルアース : 初期イスラームの名将。知略に長け、当時を代表する政治的天才といわれる。エジプトを征服し、第一次内乱ではムアーウィヤの副官として活躍した。
・アッラー : 「アッラーフ」と表記することもある。アラビア語で「神」を意味する。イスラームの教義における世界創造者・超越的唯一神のこと。
・アラブの大征服 : イスラーム成立から8世紀前半まで続いたアラブ族による爆発的な征服活動。これにより中央アジアからイベリア半島までが政治的に統合された。
・アリー・イブン・アビー・ターリブ : 第4代正統カリフ。ムハンマドの従弟であり、ムハンマドの娘ファーティマの婿でもある。第一次内乱でムアーウィヤに敗れた。シーア派はアリーをイマームとして崇拝する。
・アリー・リダー : シーア派イマーム。アッバース朝第7代カリフのマアムーンに擁立されるも、程なく謎めいた死を遂げた。現代のイランではエマーム・レザーと呼ばれ、崇拝されている。
・アル・カーヒラ : 現代エジプトの首都カイロのこと。エジプト北部、ナイルデルタの扇のかなめの部分に位置する。ファーティマ朝が従来のフスタートに代わるエジプト統治の中心として築き、やがてイスラーム世界の経済的中心となった。
・アンダルス : アラビア語でイベリア半島のこと。ヴァンダル族に由来。
・イスマーイール・サーマーニー : サーマーニー朝第二代国王。初代ナスルの弟。王朝の実質的な創始者で、多くの知識人を庇護した。英主として名高い。
・イスマーイール派 : シーア派で第二の勢力を持つ分派。ジャアファル・アッサーディクの死後に長子イスマーイールがイマーム位を継承したと信じる集団で、七イマーム派ともいう。
・イスラーム暦 : 622年のヒジュラを起点とするイスラーム世界の暦法。地球の公転ではなく月の12公転を1年とするため、いわゆる西暦による年代算定とはズレが生じる。
・イマーム : 原義は「指導者」、「導師」。スンナ派の用法では礼拝の先導者または学識の高い法学者への尊称。シーア派の用法では預言者ムハンマドと正統カリフのアリーの子孫で、クルアーンを正しく解釈する能力と知的・道徳的な無謬性を備え、イスラーム共同体を指導する権能を持つ者。シーア派はアリーの子孫の誰をイマームと見なすかによっていくつもの分派に分かれたが、現在は全ての分派においてイマームは不在とされている。
・イラーク : メソポタミア地方のこと。イラク。
・ウクバ・イブン・ナーフィ : ウマイヤ朝初期のエジプト総督。683年にイスラーム史上はじめて大西洋まで遠征したが、帰途に戦死した。
・ウスマーン・イブン・アッファーン : 第3代正統カリフ。ウマイヤ家出身。クルアーン(コーラン)を編纂した。
・ウバイドゥッラー : ファーティマ朝の建国者。870年代からイスマーイール派の武装蜂起を指導し、のちにイマーム・マフディー(救世主)を称して北アフリカでファーティマ朝を建設した。
・ウフドの戦い : 625年、マディーナ近郊でマッカ軍がイスラーム軍を破った戦い。
・ウマイヤ朝 : ムアーウィヤ1世が築いたイスラーム史上最初の世襲王朝。
・ウマル・イブン・ハッターブ : 第2代正統カリフ。イスラーム国家の基礎を確立した。
・ウマル2世 : ウマイヤ朝の第8代カリフ。敬虔な人物だった。
・ウンマ : アラビア語で「共同体」。イスラームを受容した人々をひとつの共同体と見なして使われることが多い。ウマイヤ朝より前の「イスラーム国家」を便宜上ウンマと呼ぶこともある。

 ◇ か ◇
・「革命の子」 : ホラーサーン軍の異称。
・ガイバ : 「幽闇」、「お隠れ」と訳されるシーア派独自の信仰。最後のイマームは神の意志によって人々の目から隠されたまま生存しており、世界終末に際して再臨するというもの。史上しばしばイマームの再来を自称する者による反乱が発生した。
・カーディー : イスラーム法学者。
・カーディシーヤの戦い : 637年、イスラーム軍がサーサーン朝ペルシアを破り、メソポタミアの征服を確定した戦い。
・カーヒナ : 7世紀末、宗教的権威をもってアルジェリアでアラブ軍に抵抗したベルベル人の女性指導者。「カーヒナ」は「巫女」という意味のアラビア語で、本名は不詳。
・カリフ : 「ハリーファト・ラスールッラー」(神の使徒の代理人)のこと。ウンマの最高指導者だが宗教的権威は持たず、宗教と不可分な立法の権限もない。
・カルバラー : クーファの北西、ユーフラテス川西岸の地名。ここでアリーの子のフサインが680年10月にウマイヤ朝軍に殺害された。
・カルバラーの悲劇 : 680年10月にカルバラーでフサインが殺害された事件。
・カルマト派 : シーア派イスマーイール派の一派に分類される。ファーティマ朝の建国者ウバイドゥッラーのイマーム宣言を認めず、アラビア半島周辺で独自勢力を築いた集団。マッカのカアバ神殿を襲撃するなどアッバース朝の足元を脅かした。
・カール・マルテル : 8世紀前半のフランク王国の分国アウストラシアの事実上の支配者。宮宰(マヨール・ドムス)。アラブ軍の北上を阻止して名声を高める。カール大帝の祖父。
・ギリシアの火 : ビザンツ帝国の兵器。原材料や製法は秘密にされ、現在では詳細不明となっている。原始的な火薬兵器と推測される。
・クタイバ・イブン・ムスリム : ウマイヤ朝中期の名将。マー・ワラー・アンナフルを征服した。
・クテシフォン : メソポタミア中部、古代のバビロンや後世のバグダード付近にあった都市。サーサーン朝ペルシアの首都。
・クーファ : 中部イラクに築かれた軍営都市。初期のシーア派の拠点となった。
・クライシュ族 : マッカの支配部族。預言者ムハンマドの出身部族。ウマイヤ朝やアッバース朝もクライシュ族の末裔が建てた王朝。
・グラーム : 「奴隷軍人」のこと。主に中央ユーラシアの草原地帯に暮らすテュルク系遊牧民の青少年で奴隷として中東へやって来たものが、権力者によって買い取られ、自由身分と軍事訓練を施されて軍隊を構成したもの。マムルークが代表的、あるいはほぼ同義。
・クルアーン : コーランとして知られる。ムハンマドが受けた啓示を集大成したもので、イスラームの基本聖典。
・軍営都市 : アラブの大征服にあたり、アラブ人たちが征服した土地に築いて集住した都市。南イラクのバスラ、中部イラクのクーファ、エジプトのフスタート、チュニジアのカイラワーンなどが有名。
・後ウマイヤ朝 : アッバース朝成立後、イベリアに逃れたウマイヤ朝王族のアブドゥルラフマーンが同地に建てた王朝。のちにカリフを称し、繁栄を極めた。
・高仙芝 : 唐の開元年間に西域で活躍した高句麗系の名将。パミール高原を越えてソグディアナに進出するが、751年にタラス河畔で敗れた。安史の乱の勃発後、潼関で安禄山と対峙中に冤罪で処刑された。
・コプト教徒 : キリスト教単性論の一派、エジプトの宗派。
・コプト語 : エジプトの民衆語。古代エジプト語の直系にあたる。現在は死語。
・コンスタンティノポリス : コンスタンティノープルとして知られる。古代のビュザンティオン、近世のイスタンブル。アジアとヨーロッパ、黒海と地中海の接する地点に築かれた難攻不落の都市で、ビザンツ帝国とオスマン帝国の首都となった。

 ◇ さ ◇
・サアド・イブン・アビ・ワッカース : 初期イスラームの名将。イラクとペルシアの征服者。
・サカーリバ : 白人奴隷。とくにイスラーム時代前期において、東欧スラヴ系の奴隷を指すことが多い。西方イスラーム世界で多用された。
・サーサーン朝ペルシア : ササン朝ペルシアとも。226年から651年までイラン高原とメソポタミアを中心に西アジアを支配した帝国。首都はおおむねクテシフォン。ゾロアスター教を国教とする非常に専制的な国で、後期ローマ帝国/東ローマ帝国/ビザンツ帝国とたびたび戦った。
・サッファーフ : →アブー・アルアッバース
・サッファール朝 : 9世紀後半にイラン高原東部を支配した国家。ターヒル朝を滅ぼすが、ブワイフ朝やガズナ朝に圧迫されて一地方政権にまで縮小した。
・サハーバ : 教友と訳される。ムハンマドに直接教えを受けた最初期のムスリムたち。
・サーマッラー : 836年から半世紀ほどアッバース朝の首都となった町。バグダード北方に位置する。発掘がほとんど行われていないため不明な点が多いが、判明しているだけでもイスラーム世界の都市遺跡のなかで最大級の規模を誇るという。
・サーマーン朝 : 9世紀末にマー・ワラー・アンナフルで成立したイラン系国家。ペルシア文化を復興し、マムルークの輸出で繁栄するが、10世紀末にガズナ朝とカラ・ハン朝に滅ぼされた。
・ザンジュ : スワヒリ地方出身の黒人奴隷。多くは劣悪な環境のもとで肉体労働に使役された。
・ザンジュの乱 : 869年から883年まで南イラークで続いた反乱。本来はシーア派主体の蜂起であったが、多くの逃亡ザンジュが反乱に加わったことからザンジュの乱と呼ばれる。
・シーア派 : シーア・アリー(アリー派)のこと。第4代正統カリフのアリーおよび彼の男系子孫のみがイスラーム世界を正しく指導する権能を持つと信じる宗派。ウマイヤ朝を激しく敵視した。
・十二イマーム派 : シーア派の最多数派。アリーとフサインの血を引く十二人の男系子孫をイマームとして崇拝する。
・ジズヤ : 人頭税。異教徒に課せられた。
・使徒 : アラビア語では「ラスール」。預言者とほぼ同義。召命を受けて神に仕える者。
・天使ジブリール : ユダヤ教・キリスト教の天使ガブリエルをアラビア語でジブリールと呼ぶ。ムハンマドに最初の啓示をもたらしたとされる。
・ジャウハル : エジプト方言でゴーハルともいう。ファーティマ朝中期の名将で、969年にエジプトを征服してアル・カーヒラ(カイロ)を建設した。その後シリアやアラビアにも遠征したが、やがて失脚した。
・ジャーヒリーヤ : イスラームの歴史観でイスラーム誕生以前の時代。原義は「無明・無知」。
・ジャーファル・アッサーディク : シーア派第6代イマーム。シーア派神学・法学を大成した。彼の死後にイマーム位の継承をめぐって十二イマーム派とイスマーイール派が分裂した。
・ジャアファル・イブン・ヤフヤー : アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの宰相にして親友。バルマク家出身。803年に突如粛清された。
・シリア : アラビア語ではシャーム。現代のシリア共和国領だけでなく、歴史的には地中海東岸全域を意味した。
・スィッフィーンの戦い : 656年、第4代正統カリフのアリーとウマイヤ朝初代カリフのムアーウィヤとの間で起こった戦い。引き分けに終わった。
・ズィヤード・イブン・サーリフ : アブー・ムスリムのもとでマー・ワラー・アンナフルの統治を委任されていた。タラス河畔で唐軍に勝利するが、まもなく中央政権に通じてアブー・ムスリムの失脚を図ったとして処刑された。
・ズバイル : 初期イスラームの有力者。第一次内乱の発端となった駱駝の戦いでアリーと戦って敗死した。アブドゥッラー・イブン・アッズバイルの父。
・スライマーン : ウマイヤ朝第7代カリフ。名前は旧約聖書のソロモンのアラビア語読み。ビザンツ帝国征服を目指すも失敗。
・スワヒリ地方 : 東アフリカ沿岸地域。早くからアラブ人やペルシア人の交易商人が来航し、現地のバントゥー諸語とアラビア語が混淆した「スワヒリ語」という共通語が広まった。統一王国はなく、キルワやマリンディなど多くの都市国家が海沿いに連なり、内陸地域との間で象牙や奴隷や黄金の交易を行なっていた。ここから黒人奴隷のザンジュが輸出された。
・スンナ : 字義通りには「慣行」。主に預言者ムハンマド生前の言行や生活習慣、法的判断を意味する。スンナ派はイマームの無謬性を認めるシーア派とは異なり、ムハンマド亡きあとに神の意志を正確に理解できる個人はおらず、スンナに基づいて学者たちが合意した規範が宗教法の法源になると見なしている。
・正統カリフ : アラビア語ではラーシドゥーン。イスラーム初期の4人のカリフ、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのこと。
・ゾロアスター教 : 古代イランの宗教。世界を善神アフラマズダと悪神アングラマインユの抗争の場として捉え、アフラマズダの象徴である火を崇拝する。浄化儀礼が多いが世俗生活を縛る戒律は少なかった。

 ◇ た ◇
・ダイラム地方 : イラン高原北部、カスピ海とエルブルーズ山脈に挟まれた湿潤な森林地帯。精強な歩兵として知られるダイラム人の居住地で、イスラームの浸透は比較的遅かった。
・タキーヤ : 「信仰隠蔽」と訳される。シーア派などに見られる、ある種の方便として信徒が信仰を偽ることを容認する教義。
・ターヒル・イブン・フサイン : アッバース朝第7代カリフのマアムーンに仕えたホラーサーン出身の勇将。のちに自立してターヒル朝を建てた。
・ターヒル朝 : 8世紀にホラーサーンを支配した半独立政権。サッファール朝に滅ぼされた。
・ダマスクス : ダマスカスとも呼ばれる。アラビア語ではディマシュク。ウマイヤ朝の首都。世界最古の都市といわれる。
・ターリク・イブン・ズィヤード : ウマイヤ朝の武将。8世紀初めにイベリア半島に侵攻した。彼の名前が「ジブラルタル」の語源になった。
・単性論 : キリスト教の一派。正教やカトリックの基本教義である三位一体説(イエスと神と精霊は一体)を否定し、イエスは神性を持たない人間(単性)であると主張する。アジアやアフリカに多く、正教のコンスタンティノポリス教会と対立していた。イスラームの教義に近いことから単性論派のキリスト教徒たちはアラブの大征服に協力的だった。
・知恵の館 : アッバース朝第7代カリフのマアムーンがバグダードに設立した翻訳・研究センター。ヘレニズム時代の諸文献をアラビア語に翻訳し、イスラーム文明の発展に多大な影響を与えた。
・ディナール : ウマイヤ朝によって発行され、以後イスラーム世界の基軸通貨となる金貨。古代ローマのデナリウス金貨が語源で、4.5グラムの金で鋳造された。
・ディルハム : ウマイヤ朝によって発行され、以後イスラーム世界の基軸通貨となる銀貨。時代によって上下するが、おおむね15~20ディルハムが1ディナールの価値に相当した。
・ディーワーン : 中央政府の官庁のこと。ムアーウィヤ1世が最初に設置した。
・唐王朝 : 618年から907年まで中国を支配した王朝。8世紀前半には東ユーラシア全域に勢威を及ぼす大帝国であった。アラビア語では「タムガチ」と呼ばれた。都は長安(アラビア語では「クムダン」)。
・ドゥーマト・アルジャンダルの和議 : 第一次内乱におけるムアーウィヤとアリーの和議。この際に行われた裁定により、アリーのカリフとしての正統性が否定された。
・トゥール・ポワティエの戦い : 732年にフランス北部のトゥールとポワティエの中間付近で、フランク王国のカール・マルテルがアラブ軍の北上を阻止した戦い。
・トゥールーン朝 : 9世紀後半に短期間、アッバース朝から事実上独立してエジプトを支配した国家。

 ◇ な ◇
・ナスル・サーマーニー : サーマーン朝の建国者。サーサーン朝ペルシア貴族の末裔を自称した。
・西ゴート王国 : 西ローマ帝国の崩壊後、イベリア半島を支配したゲルマン系の王国。首都はトレド。ウマイヤ朝に征服された。
・ニハーヴァンドの戦い : 642年、イラン高原西南部でイスラーム軍がサーサーン朝ペルシアを破った戦い。のちに「勝利の中の勝利」といわれた。この戦いに敗れたことにより、サーサーン朝は事実上崩壊した。

 ◇ は ◇
・バグダード : アッバース朝の帝都マディーナト・アッサラーム(「平安の都」)の通称。ティグリス川中流右岸に位置する大都市で、前期イスラーム世界の中心となった。
・ハザール : カスピ海北方から黒海北岸にかけて勢力を広げた遊牧民。西突厥の崩壊以降、半農半遊牧国家に発展する。ビザンツ帝国とアッバース朝への対抗上、ユダヤ教を国教とした。
・ハージブ : 侍従。アッバース朝や後ウマイヤ朝においてカリフの近臣・取次役として仕え、強大な権力をふるった。
・ハーシム家 : マッカのクライシュ族を構成する家門のひとつ。ムハンマドの曽祖父にあたるハーシムの子孫たち。ムハンマドやアリーの子孫、ムハンマドの叔父アッバースの末裔のアッバース朝王家もハーシム家。現代のヨルダン王家やモロッコ王家も自称ハーシム家。
・ハッジャージュ・イブン・ユースフ : ウマイヤ朝中期の武将。第二次内乱で活躍し、のちに東方総督に任じられて大征服を推進した。冷酷非情な性格で知られる。
・バスラ : 南イラクに築かれた軍営都市。
・ハディージャ : ムハンマドの最初の妻。ムハンマドより15歳年上で、最初にイスラームを受け入れた。
・ハディース : 預言者ムハンマドや初期の信徒たちの言行を集成したもの。イスラーム法理論ではコーランに継ぐ第二の法源とされる。
・バドルの戦い : 624年、ムハンマドがマッカ軍を破った戦い。イスラーム史上最初の聖戦とされる。
・ハラージュ : 地租。土地税。
・ハーリド・イブン・アルワリード : 初期イスラームの名将。「神の剣」(サイフッラー)の異称を持ち、リッダ戦争やシリア征服で活躍した。
・バリード : 駅逓。駅伝。
・バルマク家 : 中央アジアのバルフ出身の一門。アッバース朝初期に宰相を輩出するも、803年に突如粛清された。
・ハールーン・アッラシード : 在位786~806.アッバース朝第5代カリフで王朝全盛期を現出するが、実際は治世の大半をバルマク家の傀儡として過ごした。
・ハワーリジュ派 : 第4代正統カリフ、アリーがウマイヤ家と講和したことに反対して離脱した勢力。アリー家とウマイヤ家の双方を敵視し、神の裁定の絶対性を強調する。
・ハンダクの戦い : 627年、マッカ軍によるマディーナ包囲戦。イスラーム側が塹壕を掘って抵抗したため、マディーナ軍は撤退した。
・ビザンツ帝国 : ビザンティン帝国とも。実態としては古代ローマ帝国が東西に分裂したうち東ローマ帝国と同じものだが、分裂後さらに千年以上にわたって独自の国家として存続したため、ローマ帝国とは別物としてビザンツ帝国と呼ばれることが多い。首都はコンスタンティノポリス。
・ヒジャーズ : アラビア半島西岸の紅海に面する南北に細長い地域。マッカやマディーナなどのオアシス都市が栄えた。
・ヒジュラ : 「聖遷」と訳される。622年に迫害から逃れるため、ムハンマドとムスリムたちがマッカからマディーナに移住したこと。イスラーム暦の起点。
・ファーティマ朝 : 909年に北アフリカで成立したシーア派国家。のちにエジプトを征服し、西方イスラーム世界の覇権を握った。
・フサイン : 第4代正統カリフ、アリーの子。クーファのアリー支持者の要請に応じて挙兵を図るが、680年10月にカルバラーでウマイヤ朝軍に殺害された。シーア派はイマームとして崇拝する。
・フランク王国 : 西ローマ帝国の崩壊後に現在のフランスからドイツ西部にかけてを支配したゲルマン系の王国。8世紀後半にカール大帝(シャルルマーニュ)が西欧の大陸部ほぼ全域におよぶ大版図を築く。
・ブワイフ朝 : ダイラム人の漁師ブワイフの三人の息子たちがイラン高原で建設したシーア派の連合国家。10世紀後半から11世紀までイラン高原からイラーク平野にかけてを支配し、アッバース朝のカリフを傀儡化した。
・ヘラクレイオス1世 : 在位610~641。ビザンツ帝国の皇帝。ホスロー2世と戦って勝利するが、直後にイスラーム勢力によって広大な領土を奪われた。
・ベルベル人 : 北アフリカの先住民族。勇猛で誇り高い戦いの民として知られる。
・ホスロー2世 : 在位590~628。サーサーン朝末期の皇帝。異名はパルヴィーズ(勝利王)。ビザンツ帝国と戦って一時は帝国史上最大の版図を築くが、息子カワードに暗殺された。
・ホラーサーン : イラン高原東北部。アフガニスタンとマー・ワラー・アンナフルに接する。
・ホラーサーン軍 : ウマイヤ朝時代にイラン高原東部に駐留させられたアラブ族の軍団。ウマイヤ朝の体制に不満を持ち、アッバース革命の主力となった。

 ◇ ま ◇
マアムーン : アッバース朝第7代カリフ。ハールーン・アッラシードの庶子。嫡出の弟アミーンを打倒し、学芸を庇護する一方で苛烈な異端審問も行った。
・マグリブ : マグレブとも。アラビア語でリビア以西の北アフリカのこと。サハラ砂漠と地中海に挟まれた回廊状の農耕地帯。
・マッカ : 一般にメッカとして知られる。ヒジャーズ中部に古くから存在したオアシス都市。イスラーム創生の地で、カアバ神殿がある。
・マディーナ : マッカの北方に位置するオアシス都市ヤスリブのこと。ヒジュラ後、正統カリフ時代末期までイスラーム世界の中心となった。
・マディーナト・アッサラーム →バグダード
・マニ教 : ゾロアスター教から分離して成立した宗教。世界は悪の神によって創造されたもので、人間は善行によって彼方に存在する善なる神の光の世界への帰還を目指すべきとした。キリスト教、ユダヤ教、仏教など諸宗教の影響を受けて広く伝播したが、各地で迫害されて消滅した。「幻の世界宗教」と呼ばれる。
・マフディー : (1)救世主 (2)アッバース朝第3代カリフ。
・マムルーク : グラームとほぼ同義。白人の奴隷軍人。
・マルワーン2世 : ウマイヤ朝の最後のカリフ。アッバース革命軍に敗れ、殺害された。
・マー・ワラー・アンナフル : 原義は「川の間の土地」。パミール高原に発しアラル海に注ぐ二つの川、アム川とシル川に挟まれた中央アジアのオアシス地帯。「トランスオクシアナ」とも呼ばれる。10世紀以降は「西トルキスタン」とほぼ同義。
・マワーリー : 非アラブ族で新たにムスリムとなった者。
・マンスール : 本名アブー・ジャアファル。アッバース朝第2代カリフだが、事実上の建国者といえる。多くの功臣を粛清する一方、内治に尽力して王朝繁栄の基礎を固め、帝都マディーナト・アッサラーム(バグダード)を建設した。
・ムアーウィヤ1世 : ウマイヤ朝の初代カリフ。第一次内乱でアリーと戦い、世襲王朝ウマイヤ朝を開いた。アブー・スフヤーンの子。
・ムイッズ : ファーティマ朝第4代カリフ。エジプト征服を達成した。
・ムイッズ・ウッダウラ : ブワイフ朝の王。ブワイフ三兄弟の末弟で、本名アフマド。945年にバグダードに入城し、カリフを脅迫して「大アミール」の称号を獲得し、イラーク地方を統治した。
・ムウタスィム : アッバース朝第8代カリフ。グラーム軍団を拡充し、サーマッラーに遷都した。なぜかやたらと「8」という数字に縁の深い人生を送った。
・ムウタズィラ派 : 8世紀に流行した思潮で、人間の自由意志を認め、理性主義・合理主義的な傾向を持つ。知識人に信奉者が多かったが一般大衆からは敵視され、まもなく衰微した。
・ムカンナー : 776年から783年までホラーサーンでアッバース朝に反乱した人物。常に黄金の仮面あるいは覆面をつけ、預言者を自称した。
・ムーサー・イブン・ヌサイル : ウマイヤ朝中期の名将。マグリブとアンダルスを征服した。
・ムスリム : イスラームの信徒。
・ムハンマド : 預言者ムハンマド。ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ。イスラームの開祖。イスラームの教義では人類最後の預言者とされる一方、ムハンマドは神性を持たない普通の人間であることが強調される。(偶像崇拝回避のため)
・ムハンマド・イブヌル・カーシム : ウマイヤ朝中期の名将。イラーク総督ハッジャージュの従弟で、弱冠二十歳でインドに侵攻し、インダス地方征服の足掛かりを築いた。
・ムハンマド・ムンタザル : 十二イマーム派が第十二代目のイマームとして崇拝する人物。874年に第11代イマームが没した直後、わずか半日だけ姿を現した。十二イマーム派は今もムンタザルが神によって隠された(ガイバ)状態で生き続けており、世界終末に際して再臨すると信じている。
・ムフタール : 第二次内乱の際に、クーファでシーア派(正確にはカイサーン派)を糾合して自立した人物。イブン・アッズバイルによって滅ぼされた。
・メソポタミア : ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な農耕地帯。アラビア語では「イラーク」と呼ばれ、現代のイラクにほぼ相当する。

 ◇ や ◇
・ヤアクーブ・イブン・アルライス : サッファール朝の建国者。元は銅細工師兼アイヤールで、873年にターヒル朝を滅ぼしてイラン高原東部を制圧した。
・ヤズデギルド3世 : サーサーン朝ペルシアの最後の皇帝。
・ヤスリブ : マディーナの旧名。
・ヤフヤー・アルバルマキー : アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの宰相。ジャアファルの父。帝国の実権を掌握してホラーサーン人の官界進出を後押しするが、803年に突如粛清された。
・ヤマーマ : アラビア半島中央部。リッダの「偽預言者」ムサイリマやアズラク派など、ウンマの中央政権に対抗する勢力の拠点となることが多かった。
・ヤルムーク河畔の戦い : 636年、イスラーム軍がビザンツ軍を破り、シリア征服を確定した戦い。
・有徳者同盟 : マッカのクライシュ族の長老会議。マッカの市政をつかさどった。
・預言者 : アラビア語で「ナビー」。ペルシア語では「ペイガンバル」。神の言葉を聴き、人々に伝える者。

 ◇ ら ◇
・駱駝の戦い : 656年、アーイシャとタルハとズバイルが第4代正統カリフ、アリーの即位に反対して起こした戦い。第一次内乱の発端となった。
・ラーフィー・イブヌル・ライス : 806年に中央アジアでアッバース朝に反乱を起こした人物。のちに帝国内戦が始まるとマアムーンに帰順した。
・リッダ戦争 : リッダの原義は「離反」。ムハンマド死後にウンマから離反した諸部族とイスラーム側との戦い。
・レコンキスタ : スペイン語で「再征服」。8世紀から15世紀まで続いたイベリアにおけるキリスト教勢力とイスラーム勢力の抗争。
・ロドリーゴ : ロデリックとも。西ゴート王国の最後の王。

 ◇ わ ◇
・ワリード1世 : ウマイヤ朝第6代カリフ。アブドゥルマリクの子で、大征服を推進した。



作ってみたら、予想よりはるかに面倒くさかった。








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イスラーム世界の歴史16 ガズナの征服王

マムルーク序説

西暦10世紀末、イスラーム世界は混乱を極めている。

かつて西南アジアに君臨したアッバース朝イスラーム帝国はほとんど名ばかりの存在となり、東にあってはブワイフ朝、西にあってはファーティマ朝という二大シーア派国家が台頭。
ムスリムたちの唯一の長であったはずのカリフすら、バグダード、カーヒラ(カイロ)、コルドバに鼎立する有様である。

その状況のなか、イスラーム世界のいたるところで存在感を増しつつあるのが「マムルーク」と呼ばれる「奴隷軍人」たちだった。
(※これまでは「グラーム」と表記してきたけど、この頃からは「マムルーク」と呼ばれることの方が多い印象)


灼熱の太陽のもとで鎖に繋がれ、冷酷な主人から容赦なく鞭を振るわれる半裸の男。
「奴隷」という言葉からはこんな情景が思い浮かぶ。
しかし中世イスラーム世界の「奴隷」は、それとはまったく異なる存在である。

イスラーム法の規定によれば、異教徒の戦争捕虜か、奴隷の子供として生まれた者だけが奴隷とされる。
多くの奴隷は家内労働(召使)か兵士として利用され、単純な肉体労働に使役される場合は稀だったという。

奴隷は自由身分を有さず、贈与や売買の対象とされる。しかし預言者ムハンマドはことあるごとに奴隷への慈悲や奴隷解放の大切さを説いた。
それもあって、中世イスラーム世界の「奴隷」は相当な権利を認められていた。

奴隷身分の者が公的な権威を持つ職に就くことは禁じられていた。
しかし下級官吏や礼拝の先導役となること、主人の代理として売買契約を結ぶことなどは十分に許容範囲だった。
建前として私有財産は認められなかったが、一定の金額を支払うことが奴隷身分からの解放条件とされた場合には、そのための資金を蓄えることが当然の権利と見なされていた。
それどころか、奴隷身分の男性が自由身分の女性と結婚することすら容認されていた。


預言者ムハンマドに仕えた奴隷のザイド・イブン・ハーリサは一説では最初のムスリム男性といわれており、後に自由身分を与えられてムハンマドの従妹を娶っている。
また、同様にムハンマドに仕えた奴隷のビラール・イブン・ラバーフは美声であったため、世界で最初のムアッジン(礼拝の呼びかけ役)に任じられている。
他にも奴隷や奴隷の血を引く者が高い身分を得た例はいくらでもある。
アッバース朝の事実上の創始者であった第2代カリフのマンスール、後ウマイヤ朝を樹立したアブドゥルラフマーン1世など、いずれも女奴隷の子であった。

Pelourinho.jpg
(こういうイメージは間違い)

アッバース朝が衰退をはじめると、王朝建設の元勲であったホラーサーン軍はカリフへの忠誠を忘れて勝手気ままに振る舞いはじめた。このときカリフたちが目をつけたのが奴隷だった。

イスラーム世界では奴隷解放が美徳として盛んに行なわれていたが、奴隷と主人の関係は奴隷解放で終わるわけではない。
解放された奴隷は旧主に深い恩義を感じて忠誠を尽くし、旧主は解放奴隷を保護民(マワーリー)として庇護するのが一般的だった。古代ローマの「パトローヌス(庇護者)」と「クリエンテス(被保護民)」の関係によく似た構図である。

そこでアッバース朝のカリフたちは大量の異教徒奴隷を購入し、軍事訓練と教育を授けてイスラームに改宗させ、然る後に自由身分を与えた。
解放された奴隷たちは頼りにならぬアラブ兵やホラーサーン軍とは対照的に、(少なくとも最初のうちは)カリフに無私の忠誠を誓って戦場で奮闘した。


この新機軸は他の王朝でも次々に模倣された。
後ウマイヤ朝の実権を握ったムハンマド・イブン・アビー・アーミルや北アフリカに成立したファーティマ朝も大量のマムルークを利用、ブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラも同族であるダイラム人より子飼いのマムルークを信頼していたという。
なにしろ彼は遺言で、「マムルークは軍隊の中核だ。たとえダイラム人が離反してもマムルークを使って鎮圧できる」などと、とんでもないことを言っている。

王侯たちはマムルークに高い給金と豪奢な邸宅を与え、戦功を挙げれば指揮官や政府の高官にも任命した。マムルークとは決して恥ずべき身分ではなく、人々の畏怖と敬意の対象ですらあった。

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(今回の主要参考文献)


マムルークの主な供給源は、中央ユーラシアのテュルク系遊牧民である。

「テュルク」という名は「トルコ」と同義である。今日、アジア大陸の西の果てに暮らすトルコ人たちもかつては東方の広大な草原に生きる遊牧民であった。
今も中央アジアやイラン高原北部、カフカス山脈の人々はトルコ語とよく似た言葉、「テュルク系諸語」を話し、馬や羊を追って暮らしている。
彼らとその先祖たちこそがテュルク系遊牧民、ひっくるめて言えば「テュルク人」である。
(厳密にいえばトルコ共和国の国民は、遺伝的にはほぼ100パーセント古代アナトリアの定住民の子孫だし、「人種」と「民族」はまったく別の概念で、「民族移動」というのも人間集団の移動というより文化的アイデンティティの転移といったほうが正しいのだけど、そのあたりをきっちり書いていくと多分わけがわからなくなる)

それに対して、モンゴル高原東部から中国北方にかけては別系統の「モンゴル系諸語」を話す「モンゴル系遊牧民」がいたとされる。
しかし草原世界の外から見れば、テュルクであれモンゴルであれ、その文化や社会に大きな違いがあるわけではない。
また、広漠たる草原に興亡した数多の遊牧諸国はいずれも多種多様な部族の混成体であって、それらをことさらにテュルクとモンゴルに弁別することにさほど意味があるとは思えない。
大雑把にいえば、「テュルク人」とは「中央ユーラシアの遊牧民」とほとんど同義といってよい。
(こういうことを書くとたぶん専門家から怒られる)

中央ユーラシア概念図
(「中央ユーラシア」と「中央アジア」の地理概念)

テュルク人たちは幼いころから馬とともに暮らし、騎射に熟達していた。
これは疾走する馬の上から次々に弓を引いて敵を翻弄する戦法で、前近代の戦場では絶大な威力を発揮した。
9世紀の文人ジャーヒズはテュルク戦士の強さを説き、「彼らは他の兵士が一本の矢をつがえるあいだに十本の矢をつがえ、馬上から獣や鳥や人間を自在に射る。平地を走るかのように山や谷を走り回り、頭の前後にふたつずつの目を備えている」と表現している。


王侯たちの信任と武力を独占するテュルク人たちは諸国の実権を握り、いずれは彼ら自身の政権を樹立するだろう。

「テュルク族の西進」

西南アジアから北部インドにいたる広大な領域の姿を一変させた巨大な民族移動は、はるか東方の嵐から始まった。


東方の嵐

西暦755年、東ユーラシアの大唐帝国で未曾有の大乱が勃発した。河北三鎮の節度使を兼任し、十数万の軍を握る安禄山(あんろくざん)が突如挙兵したのだ。
洛陽・長安は瞬く間に陥落し、皇帝の玄宗・李隆基は四川に逃れて退位した。唐軍が西のかた葱嶺(パミール高原)を越え、タラス河畔で黒衣大食(アッバース朝)と激突してからわずか4年後のことだった。

唐は独力で反乱を鎮圧できず、「回鶻(かいこつ)」、すなわちウイグル可汗(カガン)国の支援を求めた。
ウイグル可汗国はそのころ草原世界の東半に台頭しつつあったテュルク人の遊牧国家で、745年には東突厥(ひがしとっけつ)を滅ぼしてモンゴル高原を制していた。
ウイグルは唐の要請に応えて華北に兵を進めるとともに、唐が撤退した後のタリム盆地に侵攻し、チベット高原の吐蕃(とばん)とこの地の争奪を繰り返した。
まもなく唐は無数の藩鎮が割拠する混乱状態に陥っていき、ウイグル可汗国が東ユーラシアの覇者となった。

Uyghur_Khaganate.png
(ウイグル可汗国の最大版図)

ところが840年にウイグルの本拠地、モンゴル高原を大寒波が襲った。次々に家畜が斃死し、民も凍えて死んだ。そして春先に南シベリア方面からキルギス部族連合十万騎が急襲してきた。
帝都オルドバリクは炎上し、巨大な牙帳(がちょう;天幕の王宮)も焼き払われた。
ウイグル可汗国は崩壊し、生き残った民は四散した。これこそ「テュルク族の西進」の発端だった。

Ordu-baliq.jpg
(モンゴル高原中部のオルホン河畔にあったウイグルの都オルドバリク。現在はカラバルガスン(黒き廃都)と呼ばれる)


およそ三十万人にのぼるウイグル人が西方へ移動を開始し、天山山脈北西で「カルルク族」と遭遇した。
両者はここで一体化し、まもなく「カラ・ハン朝」と呼ばれる国を建てる。これがテュルク西進の第一波だった。

続いて第二波。
カラ・ハン朝の成立はさらに西方のバルハシ湖周辺にいた「オグズ族」を刺激した。
オグズ族は最も早くパミール高原の西側まで進出していたテュルク人の一派で、「オグズ・ハン」なる伝説上の始祖の血を引く二十数氏族の連合体だった。

彼らはこの時点でイスラーム世界と接触を持ちはじめていたが、これ以後それは一層加速する。
東の同族に脅威を感じたオグズ族は西へ向かい、アラル海南部にいたペチェネグ族を駆逐して、すでにイスラーム化されたマー・ワラー・アンナフル地方の北部に姿を現したのだ。


なお、追い散らされたペチェネグ族は南ロシア草原に乱入し、同地のハザール王国を崩壊させた(第三波)。ハザール族とブルガール族はバルカン半島に向かい(第四波)、その一派のマジャール人はハンガリー平原に入り、ウイグル崩壊の余波は欧州世界まで及ぶことになる(第五波)。
最後にテュルク西進の波を食い止めた「東フランク王国」のオットー1世は、この業績をバネに「神聖ローマ帝国初代皇帝」となるのだが、それはまた別の話であろう。

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(ウイグル崩壊から105年後、レヒフェルトの戦いでマジャール族が大敗して西進の波は止まる)


テュルク到来

テュルク族の西進という大津波をイスラーム世界で真っ先に被ったのは、アム川とシル川に挟まれた中央アジアの肥沃なオアシス地帯、マー・ワラー・アンナフルを統治するサーマーン朝だった。
873年に独立したこの国は、この頃まだ草創期にあった。
サーマーン朝はシル川でテュルク諸部族の侵入を阻止する一方、テュルク人の少年たちを戦いと交易で獲得し、軍事学校で教育を施したうえで軍人奴隷候補生としてイスラーム世界全域に輸出した。
タシケントやサマルカンドには大規模な奴隷市場が成立し、サーマーン朝はこの交易によって大いに繁栄した。

富の集積は文化の向上を促す。
サーサーン朝貴族の末裔を自称するサーマーン朝のもとで、ペルシア語文芸が花開いた。
多くの文人や学者がサーマーン朝の宮廷に集って王を讃え、さまざまな学術研究や著述に勤しんだ。首都のブハラには巨大な図書館が建設され、膨大な書物が集められた。
マー・ワラー・アンナフル地方ではゾロアスター教徒やマニ教徒、仏教徒などの異教徒がまだまだ少なくなかったが、サーマーン朝治下でのイスラーム文化の開花や交易の活性化からか、イスラームへの改宗が大きく増大する。
アッバース朝が衰退した今、サーマーン朝こそは西のファーティマ朝、後ウマイヤ朝に比肩する東方イスラーム世界の輝ける中心だった。

サーマーン朝の文化的影響は異教世界にも及ぶ。
カラ・ハン朝では10世紀なかばに伝説的な王であるサトゥク・ボグラ・ハーンが、この頃東方イスラーム世界で盛んになりはじめていた「スーフィズム」に感化されて改宗し、まもなく二十万帳の天幕に暮らすテュルク人たちが王に従ってアッラーとムハンマドの教えを受け入れた。

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(スーフィズムの一派、メフレヴィー教団の舞踏)

スーフィズムというのは、アッラーの名をひたすら唱えたり、忘我の境地で乱舞して神と一体化しようとする思想で、「イスラーム神秘主義」と呼ばれることも多い。

それまでのイスラームはある意味、醒めた宗教だった。伝承に則って冷静に規範を策定し、それを素直に遵守することだけが突き詰めれば信徒の務めだった。
しかし戦乱の時代を迎えて、ムスリムたちはきっとそれでは物足りなくなったのだろう。
スーフィズムの行者たちは神への信仰を男女の愛や戦士の戦いにたとえ、異教徒たちの間にも積極的に分け入って教えを説いた。
難解な神学や法理論よりも感性を重視し、誰にでも分かりやすい言葉で教義を説き、時に「奇跡」を実演して見せるスーフィズムは、シャーマニズムの伝統を持つ遊牧民の心に強く訴えたのだろう。

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(中華人民共和国新疆ウイグル自治区アルトゥシュ市のサトゥク・ボグラ・ハーン廟)


サーマーン朝はテュルク人の奴隷たちを輸出するばかりでなく、自国の兵士としても活用した。そのなかから、やがて一人のマムルークが頭角を表わしてきた。

彼の名は「アルプテギン」。最初は王の衛兵で、やがて親衛隊長となった。
アルプテギンは才気と勇敢さを備え、内乱が頻発した後期サーマーン朝で活躍を重ねた。
彼の発言は徐々に宮廷で重視されるようになり、最後には「侍従(ハージブ)」にまで上り詰めた。
これはほとんど同時代にイスラーム世界の最西端で、後ウマイヤ朝のムハンマド・イブン・アビー・アーミルが到達したのと同じ地位で、宰相以上の権力を持つ。
アルプテギンは何百もの村や庭園を所有し、何万もの兵士を統率した。異教徒出身の元奴隷として、まさに出世を極めたといえるだろう。

ところがあまりにも力を持ちすぎたアルプテギンは宮廷貴族たちの嫉視を一身に浴びることになった。
彼は961年にホラーサーン総督に任命された。これは軍人としては最高の地位だったが、総督である以上は首都を離れて任地に赴任しなければならない。要するに失脚したのだ。

そこでアルプテギンは自立した。
子飼いの兵士たちを連れてアフガニスタンの山岳地帯に入り、中央から来た討伐軍を打ち破ってアフガニスタン南部のガズナを占領した。

「別にわしはブハラと積極的にことを構えようというわけではない。だがわしも生きていたいし、部下たちも生かしてやらねばならんのでな」

史上、この年をもって「ガズナ朝」の成立とする。イスラーム史上はじめて、テュルク人のマムルークが一国を打ち立てた時だった。

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(ガズナ地方の情景)


ガズナはアフガニスタン南東部の、標高二千メートルを超える高原に位置する。
ここは別に軍事的・行政的な要地というわけではなかったし、交通幹線上の要所でもなかった。アルプテギンがこの町に拠点を構えたのは単に成り行きでしかない。

ただ、ひとつ特筆すべき点がある。
ガズナはアフガニスタン地方のなかでもイスラーム勢力支配領域のほぼ東端にあたり、インドへの関門であるカーブル渓谷の入り口に当たるのだ。
古くウマイヤ朝時代に最初のインド遠征が行われて以来、この地方は「ガーズィー」と呼ばれる聖戦志願者たちを惹きつけて来た。
聖戦志願者というと聞こえが良いが、要するに異教の地に略奪に行って一山当ててやろうと目論むならず者たちである。
そこに乗り込んできたアルプテギン一党も、眼前の山々の彼方にあるインドという大国を強く意識し始めるのだった。


ガズナの征服王

アルプテギンの死後、ガズナ朝は乱れた。流浪のマムルーク集団の政権は、確固とした世襲制度を確立するに至らなかった。
ひとしきり内乱が続いた後、勝利を収めたのは「サブクテギン」という名の南シベリア出身のマムルークだった。また随分と遠い土地の生まれである。
ちなみに「テギン」(アラビア語・ペルシア語風に発音すると「ティギーン」、漢文史料では「特勤」)というのは、テュルク語で「王子」とか「太守」といった意味である。
ガズナ朝ともなると、人名ひとつとってもこれまでのイスラーム世界の大物たちとは全く違う響きになる。

サブクテギンは977年に「大ハージブ(侍従)」を称してガズナ朝の指導者となったが、そのころ旧宗主国のサーマーン朝は落日の時代を迎えていた。
ガズナ朝の成立によってアフガニスタン地方を失ったうえ、北からはイスラーム化して間もないカラ・ハン朝が迫りつつあったのだ。
992年、カラ・ハン朝の大軍がマー・ワラー・アンナフルに侵攻し、サマルカンドとブハラを陥落させた。
僅かばかり残されたサーマーン朝の領土では、これに呼応する反乱が一斉に勃発した。

背に腹は代えられない。サーマーン朝は意を決して、ガズナ朝の支援を求めた。
「大ハージブ」は早速兵を出してホラーサーン諸都市の反乱鎮圧に協力。これでガズナ朝の独立は旧宗主国からも正式に認められ、「侍従」は「王」になることができた。

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(ガズナ朝の旗)

そして998年、いよいよガズナ朝の全盛期を現出する偉大な支配者が登場する。
彼の名はマフムード。この時27歳。
世に「ガズナのマフムード」と称され、イスラーム世界の全歴史を通じて屈指の大征服王とされる人物である。


マフムードはガズナ朝の地政学的優位を完全に把握していた。
険しいアフガニスタンの山岳地帯に拠点を置き、自国の安全を確保しながら四方の国々に自由に出撃できる。
とりわけ都ガズナの眼前にはカーブル渓谷が開け、そこを東へ攻め下れば伝説的なインドの富が唸っている。
すでに父王サブクテギンの時代からガズナの戦士たちはカーブル渓谷に侵入を開始し、その地を抑えるインド系の「ヒンドゥー・シャーヒー朝」と交戦を繰り返していた。

マフムードは即位早々ホラーサーンに出撃し、カラ・ハン朝と挟撃するかたちでサーマーン朝を滅ぼした。
120年余りにわたってマー・ワラー・アンナフルを統治し、東方イスラーム世界の太陽だった国はこうして歴史を閉じた。
マフムードはカラ・ハン朝と和議を締結し、東方の新たな覇者としてアッバース朝カリフより「ヤミーン・アッダウラ(王朝の右手)」なる称号を授けられた。
ホラーサーン諸侯や文人たちは続々とマフムードの宮廷に伺候し、好むと好まざるとに関わらず彼をサーマーン朝に代わる庇護者として、せいぜい華々しく持ち上げた。


もっとも中にはひねくれ者もいる。
サーマーン朝時代最後にして最大の天才、偉大な医学者にして哲学者のイブン・スィーナーは祖国を滅ぼしたマフムードを嫌悪し、彼の再三の招請を蹴りまくった。
マフムードはとうとうイブン・スィーナーの身柄に賞金をかけたが、天才は追手を撒いてイラン方面へ姿を消してしまった。

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(中世イングランドの貧しい少年は数奇な運命を経て、やがてイブン・スィーナーの愛弟子となる)


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(アッバース朝カリフから賜った衣装を着るマフムード。周囲には諸侯が集まっている)


後顧の憂いを断ったマフムードは、彼のライフワークともいうべきインド遠征に本格的に着手した。

1001年、カーブル渓谷に居座るヒンドゥー・シャーヒー朝に侵攻し、国王ジャヤパーラを撃破。捕虜になったジャヤパーラは釈放後に恥辱に耐えかねて焼身自殺した。
ジャヤパーラの跡を継いだアーナンダパーラ王は1009年にラホール付近でマフムードの率いるガズナ軍と対峙した。
ムスリム勢力の侵入を防ぐため、「ラージプート」と呼ばれる西北インドの諸王が次々に馳せ参じた。

しかしテュルク人たちの精強さは、インド諸王の想像を超えていた。
ガズナの騎兵軍団は疾風のように戦場を駆け巡り、たちまち寄せては嵐のように矢を放ち、たちまち退いたかと思えば思いもかけぬ方向から再度襲撃し、インドの大軍を翻弄した。
こうしてヒンドゥー・シャーヒー朝は滅亡し、インダス上流のパンジャブ地方はマフムードの手に落ちた。

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(その頃北インドでつくられたシヴァ神と女神パールヴァティーの像)


「異教徒どもを虐殺せよ! 大地を不浄な者どもの紅き血で染めよ!」
「おお、マフムード! マフムード!」

「偶像崇拝者どもを殺戮せよ! あらゆる金を、銀を、宝玉を略奪せよ! 彼奴等の崇める石像を打ち砕け!」
「おお、マフムード! マフムード!」

ガズナのマフムードは記録に残るだけで17回も北インドへの侵攻を繰り返した。彼はひたすら異教徒を捕え、殺戮し、あらゆる偶像と神殿を破壊し略奪した。

1001年 第一次インド遠征(カブール、カシミール、ムルターン)
1004年 第二次インド遠征(ベーラ)
1005年~1006年 第三次インド遠征(ムルターン、ペシャワール)
1008年 第四次インド遠征(ペシャワール)
1010年 第五次インド遠征(ムルターン)
1010年 第六次インド遠征(ゴール)
1012年~1013年 第七次インド遠征(ターネーシュワル)
1013年 第八次インド遠征(ブルナート)
1015年 第九次インド遠征(ラホール、カシミール)
1017年 第十次インド遠征(カナウジ、メーラト、ヤムナー、マトゥラー)
1018年~1020年 第十一次インド遠征(カナウジ、マトゥラー、ブンデルカンド)
1021年 第十二次インド遠征(ラホール)
1021年 第十三次インド遠征(カナウジ、アジメール)
1023年 第十四次インド遠征(ラホール、カリナール、グワリオル)
1024年 第十五次インド遠征(アジメール、カーティヤワール半島)
1024年 第十六次インド遠征(カーティヤワール半島)
1025年 第十七次インド遠征(ジャート、カーティヤワール半島)

1018年の遠征では、長駆に長駆を重ねてガズナから1200キロも離れたヒンドゥスタン平原のカナウジまで侵攻した。
ここは三百年のあいだ北インドの盟主だったプラティーハーラ朝の都である。衰退しつつあったプラティーハーラ朝はガズナのマフムードによって完全に止めを刺された。

1024年にはグジャラート地方のカーティヤワール半島ソムナートに到達し、同地のヒンドゥー神殿を破壊した。
黄金の神像を叩き壊すと、何世紀にもわたって巡礼たちが寄進した宝石が雪崩のように溢れ出てきた。
そう、まるでこんな風に。

スロット大当たり
(いめーじ@ソムナート略奪祭り)

ガズナ軍は全てを奪って持ち帰った。このときの戦利品はあまりに多かったので、マフムードはそれから何年ものあいだ徴税をしなかったという。


偶像破壊者(ブットシカン)

ムスリムたちは畏敬と称賛を込めて、ヒンドゥー教徒は恐怖と憎悪とともに、ガズナのマフムードをそう呼んだ。
マフムードはインドにおける領土獲得をまったく考えていなかった。異教の大地はひたすら収奪すべき対象だった。
しかし彼が行なった度重なるインド遠征によって北部インドの盟主プラティーハーラ朝は息の根を止められ、ラージプート諸王の力も大きく衰えた。
イスラーム勢力はヒンドゥークシュ山脈を越えたパンジャブ地方にラホールとムルターンという橋頭堡を獲得し、これ以後インド進出を本格的に開始することになる。

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(マフムードの軍事遠征)

ガズナのマフムードの矛先は東方だけに向けられたわけではない。彼はインド遠征と並行して、イラン高原への侵攻も繰り返した。
彼はどうやら割と真面目にアッバース朝のカリフに敬意を持っていたらしく、カリフ宮廷を牛耳るイランのブワイフ朝を不倶戴天の敵と見なしていたのだ。
熱烈なスンナ派ムスリムとして、シーア派国家の存在も容認しがたいものであった。

ガズナの騎兵軍団はイスラーム世界内部にあっても恐るべき威力を発揮する。
マフムードは次々にイラン高原の諸都市を降し、晩年にはレイやハマダーンなど、ザグロス山脈付近にまで勢力を拡大していた。


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(ガズナのマフムードに「シャー・ナーメ」を献げるフェルドウスィー)

ガズナの宮廷は黄金で満ち溢れ、詩人たちはますますこの征服王を称賛した。
ペルシア文学史上、もっとも名高い詩人のフェルドウスィーも1010年に彼のもとにやって来て、30年の歳月を費やして書き上げた大叙事詩、「シャー・ナーメ(王書)」を彼に献呈した。

人類の祖カユーマルスから聖王ジャムシード、蛇王ザッハーク、英雄ロスタムらの活躍を経てサーサーン朝ペルシア、そしてイスラーム時代へ。
古代ペルシアの神話と伝説を集成したこの作品を、フェルドウスィーは最初サーマーン朝の君主に捧げるつもりだった。
しかし作品が完成するよりはるか前にサーマーン朝は滅亡してしまったので、仕方なくマフムードのもとに持ってきたのだ。
伝説を持ち出せば、テュルク人は「シャー・ナーメ」において敵役とされている「トゥーラーン」の民の末裔になるのだが、「イーラーン」の王は現在不在なので、やむを得ない。

「よくわからんが素晴らしい作品と聞いている。金貨二万枚を授けよう」

ところが献呈当日、フェルドウスィーへの中傷を聞いたマフムードは前言を翻し、金貨二万枚ではなく銀貨二万枚をフェルドウスィーに与えた。
詩人は失望し、銀貨を城門の脇にいた子供に投げ与えてガズナを去った。

数年後、この時のことを悔やんだマフムードは改めて六万枚の金貨をフェルドウスィーに与えようとしたが、使者が着いたときにはフェルドウスィーは既に息を引き取っていたという。


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(マフムードの廟所)

マフムードは1030年、比類なき栄光のうちにガズナで世を去った。享年59歳であった。
彼が死んだとき、ガズナ朝の版図は北はアラル海から南はペルシア湾、西はザグロス山脈から東はインダス川まで広がっていた。
東方イスラーム世界にかくも巨大な国家が出現したのはアッバース朝以来のことだった。
順当にいけば、ガズナ朝はこのあとさらに領土を拡大して西南アジアに新時代をもたらしたかもしれない。

ところが運命は分からないもので、これより程なくテュルク人の新しい一派が登場し、彼らがガズナ朝に代わって地中海まで広がる巨大な帝国を築くことになるのである。
その名を「セルジューク」という。いずれその名は中華世界からヨーロッパまで、全ユーラシアに知れ渡ることになるだろう。

マフムードの始めたインド遠征もまた、別の王朝に引き継がれることになる。
アフガニスタンの山岳地帯の奥の奥、謎めいた谷あいの部族が兵を挙げる。
「世界を炎上させる者」が叛旗を掲げ、ガズナを蹂躙してヒンドゥスタンへの道を駆け下っていく。
赤い城壁に囲まれた、多重都市デリーに君臨する五つの王朝が誕生する。

ガズナの征服王の死はひとつの時代の終わりではなく、むしろ始まりというべきであった。


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(フェルドウスィーが三十年の歳月を費やして完成させた大叙事詩)


中華世界の歴史10 枢軸の時代

枢軸の時代

この時代には、驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子と老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生し、墨子や荘子や列子や、そのほか無数の人びとが思索した、—インドではウパニシャットが発生し、仏陀が生まれ、懐疑論、唯物論、詭弁術や虚無主義に至るまでのあらゆる哲学的可能性が、シナと同様展開されたのである、—イランではゾロアスターが善と悪との闘争という挑戦的な世界像を説いた、—パレスチナでは、エリアから、イザヤおよびエレミアをへて、第二イザヤに至る予言者たちが出現した、—ギリシャでは、ホメロスや哲学者たち-パルメニデス、ヘラクレイトス、プラトン—更に悲劇詩人たちや、トゥキュディデスおよびアルキメデスが現われた。以上の名前によって輪廓が漠然とながら示されるいっさいが、シナ、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、ほぼ同時的にこの数世紀間のうちに発生したのである。

(カール・ヤスパース『歴史の起源と目標』)



春秋時代。
それはかつて華夏中原に君臨した周王朝の勢威が衰退し、各地の諸侯が台頭し、合い争った時代である。

中原の覇権は、はじめは鄭、次いで斉、そして南の楚と北の晋との間で目まぐるしく争奪された。
古の周王朝と諸侯の血の絆は時とともに薄れた。
封国内における諸侯と貴族の血縁も徐々に忘れ去られた。
大量動員のために常備軍と官僚制の整備が進められた。力ある者が台頭し、名門の末裔であっても力なき者は没落した。

人々は富を求めて旅し、異なる習俗を見聞きした。
辺境の諸国はさらなる異域に版図を広げ、一方でもとは華夏に属していなかった地域も華夏の文化を取り入れた。
その過程で華夏を華夏たらしめる文化自体も徐々に変質した。ある者は新奇な習俗を好んで取り入れ、ある者は古き伝統の衰えを嘆いた。

時とともに人間は増加した。紀元前500年、東ユーラシアでもっとも巨大な都市、斉の臨淄には五万人が暮らしていた。
民は城壁に囲まれた邑(都市国家)から原野に溢れだし、封君や貴族たちの統御を離れて広がっていった。

西方から「鉄」という新しい金属を用いる技術が伝えられ、青銅を駆逐しはじめた。

オリエントでも中華でも鉄の威力は質より量にある。
ときに誤解されていることだが、劣悪な鉄刀で青銅の矛を叩いたとしても矛が砕けるわけではない。
しかし鉄鉱は至るところに存在し、鉄の採掘と加工は容易である。鉄器の登場によって、少数の支配階層だけでなく、無数の兵士たちに武器を与えることが可能となった。
紀元前500年までには900度に達する炉が導入され、大量の鉄器が生産された。鉄は農具にも採用され、生産力が飛躍的に向上した。それがまた人間の数を増大させた。

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(鉄の刀幣)


世界は変化する。
それはこの「大陸の極東」だけの現象ではない。広大なユーラシア大陸のほぼ全域で巨大な変革の時代が始まっていた。

紀元前800年頃より徐々に気候が寒冷化し、南シベリアに二頭立ての戦車を駆る原初の遊牧民たちが出現した。画期的な新戦術はたちまち東と西に伝播した。遊牧戦士たちはさまざまな地方に侵攻し、さまざまな名で怖れられた。

ユーラシア大陸全土において、死と流血が荒れ狂った。
春秋戦国と時を同じくして、バーラト・ヴァルシャ(インド)ではソーラサ・マハージャナパダ(十六大国)が相い攻伐し、アルヤーン(イラン)ではアーリア人が無数の小国を築き、やがてその中から大いなるマーダ(メディア王国)やパールサ(ペルシア帝国)が誕生する。
キブラーティム・アルバイム(オリエント)ではアッシリア帝国が台頭し、大量虐殺や強制移住を多用した。北の草原からは荒馬に跨るキンメリアやスキタイの戦士たちがやって来た。
ヘラス(ギリシア)ではアカイア人やドーリア人の諸都市が際限なく争いを続けた。

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(スキタイ人は史上最初の遊牧帝国を築き上げた)


戦いと死、悲しみと嘆きはどこにでも存在した。この時代の多くの人々にとって、人生は苦しみ多く希望少なきものだった。
ヘラスの詩人ヘシオドスは彼自身の生きる時代を「鉄の時代」と呼んだ。神々と英雄たちの時代は終わり、卑俗な人間たちが欲望に駆られて愚かな争いを続ける時代の謂いである。

古い価値観が次々に否定され、新たな規範と秩序が模索されるなか、世界各地に相次いで偉大な思想家たちが出現した。
はるか後にドイツの哲学者ヤスパースは、これを「枢軸の時代」と呼んでいる。なぜならば、この時期登場した哲人たちの教えが、以後の世界諸文明の方向性を定めたからである。
おそらく、いつの世にもある種の人々は世俗に背を向け、深遠な思索に耽って一生を過ごしてきた。しかし、それらの思想家たちが導いた数々の哲理を、かくも多くの人々が熱烈に希求した時代は、人類の歴史上あとにもさきにも他にない。


中華世界にあって、当時の哲人たちは「諸子百家」と総称されている。
その思潮はおおむね三種の志向に分類することができる。

現状の乱世を悪しきものと見て、太古の秩序を回復しようとする者たち。
現状の乱世を受け入れて、そのうえで積極的に新たな秩序を築こうとする者たち。
現状の乱世に背を向けて、内面の安寧を求める者たち。

第一の道を代表するのは儒家である。彼らはかつて周王朝の初期に存在したと見なされる「先王の礼」なるものを追求し、それを復活することが世界救済の方途であると信じた。

第二の道に分類される諸子は数多い。
「法家」と総称されるプラグマティストたちは現実の国家をより効率的に統治し、富国強兵を実現することを目指した。斉の桓公を輔弼した管仲(管子)が法家の起こりとされるから、広い意味では当時の優れた政治家たちはみな法家に連なると見なすこともできるだろう。
「兵家」は軍事理論を洗練させ、やや後に登場する「縦横家」は弁舌をふるって外交活動に活躍した。
やや微妙であるが「農家」や「陰陽家」、「墨家」もここに含めることができそうだ。

第三の道を行く者は「道家」と呼ばれる。
謎に満ちた思想家・李耳こと「老子」、そして荘周こと「荘子」。
彼らは小国寡民を良しとし、夢と現実の弁別を放棄し、太古の渾沌に還ることを理想とした隠逸の人々である。

これら三つの道を彩る諸思想は、いずれもその後の中華文明の性格をさまざまな側面から規定していくことになる。
春秋時代末期、そして戦国時代初期とは、そうした意味を持つ時代でもあった。

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賢相たちの闘い

紀元前546年、晋と楚の歴史的な講和を実現せしめたのは小国・宋の宰相、向戌(しょうじゅつ)であった。
この講和は、鄭・晋・楚の三国をはじめ、周辺諸国の宰相級政治家たちによる相互調整によってまとまった。各国の封君たちは講和の成立にほとんど寄与していない。
いずれの国においても実権は卿や大夫といわれる貴族層に移りつつあったのである。

そのなかでも賢相として名高かったのは、斉の晏嬰(あんえい)晋の叔向(しゅくきょう)、そして鄭の子産(しさん)といった人々である。
彼らはそれぞれに新たな時代に適応し、明確な理念をもって国家を統治し、内外の安寧と富国強兵に尽力した。


紀元前548年、斉の荘公(在位:前553~前548)が死去した。
それは尋常な死ではなかった。勇武にして好色な荘公は宰相・崔杼(さいちょ)の妻と密通しており、それを知った崔杼によって殺害されたのだ。
荘公に目をかけられていた多くの勇士が崔杼打倒を叫ぶなか、晏嬰は淡々と形式だけの哭礼を行なった。

「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。しかし君主の私事のために死んだのであれば、臣下に責任はないし仇討や殉死をする義理もない」

晏嬰の忠誠は個人としての君主ではなく、制度としての国家に向けられていた。


紀元前536年、鄭の子産は史上はじめて成文法を作った。
具体的な内容は伝えられていないが、法が文字として明示されたことは社会規範が流動化していたことの裏返しに相違ない。
また、子産は都市と農村や貴賤の区別を明確化し、農村に五人一組の相互監視制度を組織した。そうでもせねば国家の秩序を保てぬ時代が訪れていた。

「国を治めるに際しては、徳を以て水の如く統治するのが最上だ。しかし聖人ならざる身としては、むしろ火の如く恐怖を以て治めるほうが良い」

子産の言葉は来たるべき時代を予感させる。

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(鄭の宰相・子産)

施政に与る者として、賢相たちは時に応じて古き掟を支持し、時に応じて新たな規範を定め、容赦なき時流の浸食に抗おうと苦闘した。
だが急速に変貌する華夏の世界は彼らを非情に翻弄する。


賢相たらんとして挫折した政治家たちはさらに数多い。
泰山の麓の小国・魯(ろ)に現われた孔丘(こうきゅう)もそのひとりである。

魯ではかねて「三桓氏(さんかんし)」と呼ばれる公族たちが国政を壟断しており、紀元前517年に三桓氏の打倒を企てた第25代国公の昭公(在位:前541~前510)は斉に追放されてしまった。

紀元前500年、第26代国公の定公(在位:前509~前495)は三桓氏を滅ぼすため、彼らを支援する晋と手切れし、新たに斉と結んだ。「夾谷(きょうこく)の会」と呼ばれる盟約である。
このとき、斉の晏嬰は弱小な魯を威圧すべく、会盟の場に武装した兵士たちを潜ませた。
ところが魯の使節団のひとりで中都の宰(長官)を務めていた孔丘はこれを見抜き、決然と斉に抗議した。おそらく誇張であろうが、彼は踊り手に扮した兵士たちの手首を斬らせたとも伝えられる。

孔丘は身長2メートルを超え、弓と御者術に熟達した豪傑であった。さらに古代の伝承や詩文に通じ、儀式や易占にも精通していた。
衆に抜きんでる風貌と才知を持つ者は呪術的な力を秘めていると見なされる時代である。
魯の定公は孔丘にいたく感銘を受け、帰国後に彼を大司寇(だいしこう)、つまり司法長官に任命した。

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(魯国の大司寇・孔丘)


孔丘は復古主義者だった。

彼は貧しい「士」(下級貴族)と、ほとんど名もなき巫女とのあいだに生まれた。古文献はその生誕を、正式な婚姻関係ではなく「野合」によるものと記している。
幼いうちに両親を失った孔丘は天性の知識欲を備えていた。彼は三桓氏の末端に家畜番として仕えながら学問を積み、次第に世の有り様に深甚な疑問を抱くようになった。

魯国は周王朝の礼制を定めた周公旦を開祖とする由緒正しい古国である。しかし現状、公室は無力で三桓氏が専横を極めている。外に目をやれば周王朝の勢威は衰え、至るところで争乱が続き、古来の良き秩序や規範は失われつつある。
孔丘はさまざまな機会に往昔の伝承や礼制を学んだ。彼にとって、儀式も舞踏も詩も音楽も、すべて初期周王朝の正しき世の遺風を探るための道しるべだった。
彼が生きた時代は二千五百年後の現在から見れば遠い昔である。しかし彼自身にとっては、さらなる遠い過去にこそ目指すべき理想の社会が存在したのだ。

やがて彼は決意した。
あるべき世界を回復するためには、かつて偉大なる周公旦が定めた礼制秩序を地上に蘇らせなければならない。
その第一歩は、この魯国にあって欲しい侭に権力を弄ぶ三桓氏を放逐し、国公による統治を再開せしめることである。

大司寇となった孔丘は職権を活かして魯国の風紀を粛正し、わずか数ヶ月のうちに飛躍的に治安を改善した。これによって民の支持を確保すると、紀元前498年に兵を集めて三桓氏を急襲した。
しかし、孔丘は剛毅な闘士ではあっても戦場の名将ではない。今回も三桓氏は反撃に成功し、孔丘は定公に見捨てられて一団の信奉者たちとともに魯国を去った。


孔丘は周公旦の姿を夢に見るほど周初の秩序に憧れていた。
しかし彼は真の周代初期を知っていたわけではない。現代の歴史学の教えるところとしては、周王朝の数々の儀礼は周公の時代より遠く隔たった紀元前850年頃、西周も衰退を始める頃に整備されたという。
斉の晏嬰は現実を知っていた。魯国を追われて斉を訪れた孔丘と会ったとき、晏嬰は斉公に告げたという。

「公よ、孔丘の説く先王の儀礼なるものを実施すれば斉の国庫はたちまち空になります。空論を弄ぶ輩は採用なさりませぬよう……」

孔丘の挑戦は挫折し、彼は二度と現実政治の舞台に立つ機会を与えられなかった。
しかし長い後半生を通じて彼はさらに思索を深め、古代の伝承を集成し、理想の社会とそれを実現するための日々の立居振舞、心の持ちようについて語り続けた。
孔丘に従った人々は、彼の言行を『論語』という書物に纏めた。後世の人々はこの「賢相」になり損ねた人物を、政治家としてではなく思想家として敬慕し、「孔子」と呼んで称え続けることになる。

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江東の新興国

さてその頃、長江流域でも新たな動きが始まっていた。

ながらく長江中流に蟠踞して華夏中原を威圧し続けた楚国ではあるが、その国土はあまりに広大で、民はあまりに少ない。
成王や荘王のような力ある君主がいなくなると地方諸侯が台頭し、紀元前6世紀半ばから激しい権力争いがはじまる。

紀元前589年、巫臣(ふしん)という楚の大貴族が晋に出奔した。伝説によれば、それは「夏姫(かき)」と呼ばれる絶世の美女との事実上の駆け落ちであったという。
夏姫を狙っていた政敵たちは、腹いせに楚に残った巫臣の親族たちを皆殺しにした。
巫臣は復讐を決意し、晋公に一つの進言をした。

「晋の宿敵、楚の南東に呉(ご)という小国があります。なかば蛮夷の地ですが、民は甚だ勇猛で死を恐れません。願わくは私を呉国へ遣わされたい。晋のために呉国に戦の技を伝え、楚を背後から脅かしましょう」

呉は長江下流にあたる。
この地はあの良渚文化の栄えた地域であり、決して未開と断じることはできない。
しかし熾烈な争いの続く黄河流域から離れていたがゆえに、国家の統合や軍事技術の発展が遅れていたことは否めない。
巫臣は呉の大族長、寿夢(じゅぼう;在位:前585~前561)に出会い、中原流の戦車戦術を伝授した。
寿夢は呉の歴史上はじめて「王」を名乗り、楚国に従う江南の諸部族を次々に併合していった。これより呉は急速に台頭し、楚は東と北の二面作戦を強いられることになる。

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(長江下流の「Wu」とあるのが呉で、その左の「Chu」が楚)

紀元前6世紀末、呉は二人の亡命者によってさらに強大化する。

まずは楚からやって来た「伍子胥(ごししょ)」という貴人である。
伍子胥は代々にわたる呉の大貴族の家に生まれるが、若年の頃に宮廷紛争の巻き添えを食らい、父や兄をはじめ一族尽くを楚の平王(在位:前528~前516)に処刑されてしまった。ちなみに平王は覇者・荘王の孫にあたる。
伍子胥にも追手が掛かったら、彼は辛苦の末に辛うじて国境を越えて隣国・呉に逃げ込む。その胸に燃えるのは楚王への憎悪と復讐である。

伍子胥は呉の公子・光(こう)に仕え、やがて彼を王位につける。呉国の第6代国王、闔閭(こうりょ;在位:前514~前496)である。闔閭は寿夢の孫にあたる。

ここで登場するのがもう一人の亡命者、史上に名高い軍事理論家の「孫武(そんぶ)」である。
孫武は斉の人であるが、血族の争いを逃れて呉国に流遇し、山奥に籠って『孫子兵法』なる書物を書き綴っていた。
たまたまこれを目にした伍子胥は孫武の才能に驚嘆し、幾度も闔閭に勧めて彼を登用させた。

闔閭は孫武の実力を測るべく、宮中の美女たちを兵士に見立てた模擬戦闘を命じた。
ところが美女たちは号令を聞いても笑い転げているばかり。突然孫武は剣を抜き、二人の美女の首を刎ね飛ばした。
愕然とする王に、彼は淡々と告げた。

「私は委曲を尽くしてこの女たちに幾度も命令を下し、噛み砕いて説明をしました。しかしこの女たちは将軍の命に服従しようとしませぬ。将帥が戦陣において服従せざる配下を処断するのは陣法の常道。お怒りとあらば私の首を刎ねられよ」
「何ということをしてくれた! 余はこのようなことまで望んでおらん!」
「ほう、王の志は口先だけのものでしたか」

闔閭は返事につまり、ついに孫武の仕官を認めた。

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紀元前506年、闔閭親卒のもとで伍子胥と孫武は楚国に兵を進めた。
二十万に及んだ楚軍は二人の仕掛けた陽動作戦にはまって疲弊しきったあげく、柏挙(はくきょ)の戦いでわずか三万の呉軍に惨敗した。
呉軍はついに楚都の郢(えい)に入城した。伍子胥は怨み積もる平王の墓を暴いて王の屍を引きずり出し、幾度も鞭打ったと伝えられている。

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(復讐の鬼、伍子胥)


復讐の連鎖

だが、楚はしぶとかった。
平王の子の昭王(在位:前515~489)は宮廷を引き連れて奥地へ逃れ、西北の強国・秦の援軍を呼び込んだ。
加えて、背後では呉よりもさらに東南の「越(えつ)」が呉の本国に攻め込んだ。呉軍は楚国占領を断念し、急遽撤退した。

北の華夏中原から見れば楚は言葉も通じぬ異民族であり、その向こうにある呉はほとんど蛮夷である。呉よりもさらに遠い越ともなればもはや人間扱いにも値しないということになる。
もちろんこれは文化的偏見というものであって、客観的に見れば華夏の人々と越人との習俗がそれだけ懸隔していたということでしかない。

なお、補足すれば当時黄河流域と長江流域を結ぶ幹線は洛邑から鄭や宋を経て漢水流域を南下するルートであり、東の淮水流域の情勢はほとんど知られていなかった。
それゆえ黄河流域から見れば楚がもっとも中原に近く、越がもっとも遠いということになる。


華夏の文献によると、越人は系譜不詳で、文身断髪をし、海辺で魚食し、舟戦に長けていたという。つまり全身に入れ墨を施して髪を短く切りそろえた海洋民族であったらしい。

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(越人の像)

紀元前496年、越王允常(いんじょう;在位:?~前497)が没し、子の勾践(こうせん;在位:前496~前465)が即位した。呉軍はこの機を逃さず越を急襲した。

呉軍を迎え撃った越王勾践は奇策を打った。

両軍が対峙するなか、越軍の陣営から一団の戦士たちが歩み出す。彼らは呉越両軍のちょうど中央まで来ると立ち止まり、突然剣を掲げて一斉に自刎した。

呉軍は怯えた。中原から蛮夷と見下される呉人にとっても、越人はさらに得体の知れない未開の異族である。謎の集団自殺は勇士たちの生命を代償とする強力な呪詛に違いない。
呉軍の混乱を見てとって、越王勾践は全軍突撃を命じた。
かくて呉軍は壊乱し、呉王闔閭は重傷を負って落命した。


夫差よ、勾践が汝の父を殺したことを決して忘れるな!

闔閭の後を継いだ呉王・夫差(ふさ;在位:前495~前473)は、父が今際の際に叫んだ言葉を日夜家臣に復唱させ、毎晩薪の上に寝て復讐の念を骨身に刻み付けた。伍子胥が若き王を補佐した。
まもなく夫差は越に再戦を挑んだ。今度は呉軍が大勝し、越王勾践は会稽(かいけい)で捕縛された。

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(呉王夫差の矛)

夫差は仇敵を一思いに殺すよりも、生かして屈辱を与え続けることを選んだ。
勾践は馬小屋の番人にされ、馬糞にまみれて呉王の馬の世話をした。一説によれば王の健康管理のため、毎朝夫差の排泄物を舐める役目を強制されたともいう。

「必ずや会稽の恥を雪がん……」

勾践は呉への忠誠を誓って帰国を許された。帰国すると彼は毎日熊の肝を舐めて復讐を夢見た。


越を服従させた夫差は今や得意絶頂である。
伍子胥と孫武が整備し続けた精強な国軍を率いて淮水流域を北上し、紀元前485年に山東の大国・斉を破る。

「王よ、勾践が生きておることをお忘れなく。中原にのめり込みすぎると背後を越に襲われますぞ」
「小うるさいじじいじゃ……」

功臣伍子胥は復讐の専門家である。楚の平王への復讐を完遂し、呉王夫差の復讐を成就させた伍子胥は、いま越王勾践の呉への復讐を危惧し始めていた。
しかし、蛮夷と呼ばれ続けた屈辱を晴らして中原の覇者となることを目指す夫差に伍子胥の諫言は届かない。もはや越など夫差の眼中にない。
尋常の人間には敵を永遠に憎悪し続けることなどできはしない。復讐を果たせば、あとはその存在を忘れ去るだけである。

度重なる諫言に辟易した夫差は斉を破った翌年に伍子胥に死を賜った。
自裁を命じられた伍子胥は、こう言い残したという。

「我が亡きあとにはわしの両目を刳り貫いて都の東門に架けよ。越が呉を滅ぼす有様をしかと見届けてくれよう!」


果たして紀元前482年、越軍が突如呉の本国を急襲した。
中原で晋と対峙していた呉王夫差は狼狽して帰国した。復讐に燃える越王勾践は仮借なき攻勢を重ね、紀元前473年についに呉を完全に滅ぼした。
夫差は「伍子胥に合わせる顔がない」と嘆き、布で顔を覆って自殺したという。

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(越王勾践)

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(固有名詞が多すぎるので本文から省略されてしまった越の名臣、范蠡)

巫臣の楚への復讐、伍子胥の平王への復讐、呉王夫差の越王勾践に対する復讐、そして越王勾践の呉王夫差に対する復讐。復讐の連環劇は越王勾践の勝利によってようやく幕を閉じた。
人間たちの怨讐をよそに長江の流れは昨日も今日も悠々と流れ続ける。

千五百年近くのち、会稽(紹興)の「越王台」と呼ばれる宮殿の遺跡を訪ねた唐の詩人・李白は切々と詠った。

越王勾践破呉帰
義士還家尽錦衣
宮女如花満春殿
只今惟有鷓鴣飛

――越王勾践、呉を破って帰る/義士、家に還るに尽く錦衣す/宮女、花の如く春殿に満つ/只今、惟だ鷓鴣の飛ぶ有るのみ

(李白「越中覧古」)




これよりのち越は長江下流から海伝いに山東南部まで版図を拡大し、中華東方の雄邦となった。
春秋中期まで南方唯一の大国であり続けた楚も、東に強力な隣国を迎えることになったのだ。


晋国三分

長江流域で呉越の抗争が繰り広げられたのと同じ頃、黄河流域では賢相たちの苦闘にも関わらず諸国内部が最終的な崩壊に向かい始めた。


北方最大の雄国、晋ではかねてから「六卿」とよばれる名門貴族たちが実権を握っていたが、紀元前6世紀末から六卿相互の対立が激化した。

六卿とはもともと三軍(上軍・中軍・下軍)それぞれの指揮官(「将」)と副指揮官(「佐」)を総称した呼称であったが、時とともにこれらの地位は范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏という、六つの氏族によって独占されるようになっていた。

紀元前497年、趙氏に内紛が起こり、漁夫の利を狙った范氏と中行氏が兵を動かした。この情勢を利用したのが智氏だった。

「平地に乱を起こす者を皆で討つべし」

智氏の主導により、韓氏と魏氏を加えた三氏連合軍が范氏と中行氏を滅ぼした。こうして六卿六氏族は六卿四氏族に減少した。
この時点で四氏族のうちもっと強力なのは范氏・中行氏の討伐を主導した智氏である。

紀元前457年、四氏族が范氏と中行氏の旧領を分割し、私物化しようとした。
本来の晋の国主である出公(在位:前474~前457)は彼らの身勝手な行為に憤懣やるかたなく、斉や魯と結んで逆クーデターを試みた。
しかし実権なき国公は復権に失敗する。半世紀ほど前の魯の定公と同じように、出公も国主でありながら自国を追放されてしまい、これ以後の晋公家は完全な飾り物に堕した。

六卿四氏族の頂点に立つ智氏の家長、智瑶(ちよう)は晋国の完全掌握を目指し、手始めに趙氏を滅ぼすことにした。
紀元前453年、智瑶は韓氏と魏氏に呼びかけ、三氏族連合軍を率いて趙氏の本拠地、晋陽を水攻めにした。

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(晋陽は現在の山西省太原市にあたる)

趙は一年にわたって水攻めに耐え続けたが、水は日に日に嵩を増し、城楼の二階の高さまでが水没し、落城は時間の問題となった。
智瑶は才知に長け、傲慢な男だった。
ある日、彼は戦車に乗って晋陽包囲陣を巡察した。韓氏と魏氏の長が御者と護衛を強制された。

「水は一国を滅ぼすに足る。これほど強力な武器が他にあろうか」

智瑶がふとつぶやいた。韓氏と魏氏は互いに肘をつつき、足を踏んで目配せした。

(聞こえたか。いま智瑶がほざきおった言葉を)
(智瑶め、次は我らを水攻めにする気か?)

そんな折、趙氏の家長、趙無恤(ちょうぶじゅつ)が韓氏と魏氏の陣営に密使を送って来た。

「『唇亡びて歯寒し』という諺がある。智瑶は強欲な男だ。趙を滅ぼしたら、次に餌食になるのは韓と魏だぞ」
「・・・・・・いかにも、否定はできん」
「・・・・・・では」
「・・・・・・殺るか」

その夜、趙無恤は闇にまぎれて堤防を決壊させた。
大量の水が智軍の陣営に流れ込み、軍は大混乱になる。そこに韓軍と魏軍が攻め込んだ。
智瑶は殺害され、智氏の勢力は瓦解した。

晋の領土は勝ち残った三氏に分割され、晋の公室はまったく影のような存在と化した。
紀元前403年、周の第32代威烈王(在位:前425~前402)はついに趙・魏・韓の独立を公認し、西周初期より続いた中原最大の国家、晋は消滅することになった。

はるかに遠い将来のこととなるが、北宋時代の歴史家・司馬光はこの晋国三分を画期と見て、この紀元前403年より大著『資治通鑑』の記述を開始している。
長く華夏中原の盟主として長江流域の楚と覇を競い続けた晋の終焉。
ここをもって中華世界は「春秋時代」を終え、「戦国時代」に突入することとなる。


晋の解体はひとつの例でしかない。
西方辺境で強力な王権を維持し続けた秦をほとんど唯一の例外として、華夏の諸国はこの時期次々に崩壊し、再編されていく。

禹王の時代、天下には一万の国があったという。
周代初期に封建された諸侯は三千といわれる。
西周が破滅し春秋時代が始まった時、記録に見られるかぎりでも148の国があった。そのうち最も主要な国々を「十二諸侯」と通称した。

紀元前450年、中華世界に残ったのはわずか14ヶ国。それらの中でも国際政局に影響を及ぼすに足る強国は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七ヶ国に過ぎない。世に「戦国七雄」と呼ばれる国々である。

戦国時代(紀元前350年頃)三晋地図
(晋国は趙・魏・韓に三分される)


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アクセスログ見てたら「マンスール 死体塩漬け」って検索してブログにたどり着いた人がいるらしい。
ちょっと噴いた。

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