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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史20 反撃の狼煙

屈従の時代

第一次十字軍が築いた植民国家、「ウトラメール(十字軍国家)」の泣き所は、征服者たるフランク人(西欧人)の数があまりにも少ないことだった。
諸侯のほとんどはアスカロンの戦いのあとに帰国したので、当初「聖地」に残ったのはわずか数百人の騎士たちだけだった。

程なく十字軍の第二陣がやって来たが、クルジュ・アルスラーンと賢者ダニシュメンドは前回の失敗から教訓を学んでいた。
彼らはビザンツ帝国の国境から東部アナトリアまで、フランク軍の予想ルートに存在するありとあらゆる水場に毒を投げ込み、遠征軍を干上がらせた。
絶望的な渇きから鎧を着ける気力もなくしたフランク人たちは次々に確固撃破され、大半が途上で戦死した。
これ以後ルーム・セルジューク朝は安定を取り戻し、アナトリアは十字軍の鬼門となる。

ウトラメールのフランク人たちは人的損耗を少しでも抑えるために強固な城砦群を築き、国境の守りを固めることに専念した。

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(ウトラメールを代表する名城、クラク・デ・シュヴァリエ)

とはいえ、いざ戦いとなれば有象無象のシリア諸勢力のなかでフランク人の強さは群を抜いている。
なによりも彼らは真剣に戦う。
当時のムスリム諸侯にとって合戦はある種の「馴れ合い」で、本気で敵を殲滅しようとすることは稀だった。しかしフランク人たちには、(とりわけ最初の頃は)そのあたりの機微はまるで通じなかった。


セルジューク家のダマスクス王ドゥカークは七千もの兵を集めながら、トゥールーズ伯レイモン率いるわずか三百騎に打ち破られ、みすみす「トリポリ伯国」の建国を許した。


アレッポ王リドワーンは、暗殺教団の息がかかった怪しげな占星術師に心酔し、イスマーイール派とファーティマ朝への支持を公言して民心の離反を招く。

1108年、モスルのアターベク(ケル・ボガの後継者)と対立したリドワーンは、躊躇なく異教徒アンティオキア公に支援を要請した。
代償としてリドワーンはそれから毎年二万ディナールを貢納し、ムスリム諸侯はアンティオキア公を「大アミール」と呼んで恐れ憚った。


同年、ダマスクス王国もエルサレム王と休戦協定を締結。ダマスクスとエルサレムの間に広がる広大な農耕地帯を両国で分割することに合意した。
両国の協定はこれ以後半世紀近く維持され、ウトラメールは当分のあいだ東からの大規模な攻撃を心配する必要がなくなった。

シリアの二つのセルジューク家は、早々に異教徒フランク人の下風に立つことを選択したのだ。


一方、ファーティマ朝の宰相アル・アフダルは幾度も北征を試みるが、そのたびごとに失敗。最後はアル・カーヒラ(カイロ)の街頭で群衆に殺された。

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(再掲、ウトラメール=十字軍国家)

誰も彼も情けない限りだった。
名もなき庶民たちや非力な中小領主たちのあいだに、暗愚な支配者たちと、横暴な異教徒に対する憤懣が募った。

1111年、一度はエルサレム王国に占領されたアスカロンで住民が蜂起し、フランク人の駐留軍を皆殺しにした。

1112年、フランク軍に包囲された海港都市ティールは4ヶ月近くも激しい抗戦を続け、侵略軍を撃退した。

そして1119年6月28日、フランク軍は白昼の野戦で大敗を喫した。

この戦いの勝者は北イラークのマールディーンから来たテュルク系の武将、「イル・ガーズィー」である。
彼は大酒飲みとして有名だったが(当時のムスリム、とくにテュルク系の軍人は酒を飲むのが普通だった)、戦の才能は確かだった。

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(最初の勝者、ナジュムッディーン・イル・ガーズィー・イブン・アルトゥク)

イル・ガーズィーは1118年にアレッポ領主として招請された。
この町は5年前にリドワーンが死んでから無政府状態に陥っており、秩序を回復するために剛腕の軍人が必要とされたのだ。

翌年にアレッポ併合を目論むアンティオキア公国が侵攻してきた。
イル・ガーズィーは森の中に兵を伏せ、進軍中のアンティオキア軍を奇襲した。矢はイナゴの大群のように空を覆い、フランク人の騎士たちは壊滅。アンティオキア公ロジェ自身も戦死した。
これはムスリムの歴史書では「サルマダの戦い」、フランク人の年代記では「血染めの合戦」として記録されている。

ムスリムたちは勝利に沸き返ったが、これがまずかった。
イル・ガーズィーは祝宴で酒を飲みまくった挙句、急性アルコール中毒で人事不省となってしまうのだ。
3年後にイル・ガーズィーが死ぬと、後を継いだ19歳の息子は「シリアはフランク人との戦争が多すぎる」と言ってマールディーンに帰ってしまう。いろいろな意味で残念な親子であった。

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(アレッポ城)


反撃の狼煙

フランク人に対する真の反撃を開始したのは、1128年にアレッポの新たな主となった「イマードゥッディーン・ザンギー」である。

1127年にバグダードでアッバース朝第29代カリフ、「アル・ムスタルシド」が発動した「逆クーデター」が彼の人生の転機になった。
このとき25歳のカリフはセルジューク諸王朝が内紛に明け暮れているのを見て、かつての大帝国を復興させる好機が来たと判断し、14歳のセルジューク家スルタンに慇懃無礼に提案した。

「そろそろ故国のイランに戻られてはいかがか?」

スルタンはまだほとんど子供なので平然としていたが、周囲の軍人たちは色めき立った。
近隣でまとまった兵力を抱えていたのは、当時バスラの総督を務めていたザンギーだった。
バグダードに呼び寄せられたザンギーは「信徒の長の乱」を鎮圧するのに成功し、モスルとアレッポの総督(アターベク)に任命された。

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(イマードゥッディーン・ザンギー)

ザンギーは不屈の意志と野心を合わせ持った武人で、兵士たちに鉄の規律を叩き込み、あらゆる町々に密偵を放って、日夜戦いと策謀に明け暮れた。
彼が最も渇望したのはシリアの首邑ダマスクスで、セルジューク家断絶後にこの地を抑える「ブーリー朝」と虚々実々の駆け引きを繰り返した。並行してフランク人へも攻撃を続ける。

1137年にはホムス近郊でエルサレム王フールクを包囲し、5万ディナールの身代金を獲得した。

1138年には久方ぶりにビザンツ帝国軍がシリアに姿を見せるが、ザンギーは流言をばら撒いてウトラメール諸侯とビザンツ皇帝の相互不信を掻き立てた。

「フランク人たちは皇帝が一日も早く帰国することを切望している」
「皇帝はザンギーを倒したら次はフランク人の国々を併合するつもりだ」

折しも陣頭指揮をとっていたビザンツ皇帝ヨハネス・コムネノス(アレクシオスの息子)は、エデッサ伯とアンティオキア公が天幕のなかで呑気にサイコロ博打をしているのを目撃。激怒して本当に帰国してしまった。

そして1144年、ザンギーはついに彼の人生で最大の武勲をあげる。エデッサ征服である。

「11月30日、彼はエデッサの城壁の下にいた。その部隊は大空の星のように数知れなかった。町を取り巻く大地は彼らでいっぱいだった」
(アブール・ファラジ・バシル)


エデッサ陥落の報にフランク人は震撼し、ムスリムは歓喜した。欧州では半世紀ぶりに大規模な十字軍遠征が企画され、シリア諸都市では難民たちが早くもエルサレム奪還を叫び始めた。


ところがザンギーは、わずか2年後にあえない最期を遂げる。

ある夜、敵城包囲中に泥酔して寝ていたザンギーは、ふと物音を聞きつけて目を覚ました。見るとフランク出身の宦官が彼の呑み残しをこっそり拝借している。
頭にきたザンギーは宦官を思う存分怒鳴りつけてから寝なおした。
朝になったらどんな目にあわされることか。震え上がった宦官はいびきを立てるザンギーの胸に全力で短剣を突き刺し、即刻逃亡した。

しばらくしてひとりの側近が彼の天幕に入り、惨状を目の当たりにして驚愕する。
ザンギーは致命傷を負っていたが、まだかすかに意識が残っていた。彼は敵がとどめを刺しに来たと思い、指で命乞いのしぐさをして事切れたという。

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(緑がザンギーの支配した版図)

陣営が大混乱に陥るなか、ザンギーの子の「ヌールッディーン・マフムード」が後継者として登場した。
ヌールッディーンはこのとき29歳。長身で色浅黒く、容姿端麗で澄んだ眼差しをした若者だった。

四方の諸国と絶え間なく戦った父とは違い、若きアターベクは敵を限定することから取り掛かった。
東のモスルを兄に任せ、南のダマスクスとは婚姻関係を締結。「信仰の光」を意味する名前の通り、彼が剣を向けるのは異教徒フランク人のみである。
また、これも父とは違ってヌールッディーンは酒を嗜まず、民政の充実や学問の庇護にも熱心だった。

「彼は公正な王にして敬虔な禁欲者、神を畏れ、善良な民にイスラームの法を施し、神の道に精進する者である」
(イブン・ハッリカーン『名士列伝』)

「ヌールッディーンはイスラーム法を重んじ、それにのっとって政治を行った。また、諸都市に『公正の館』を建設し、裁判官を脇において自ら民の訴えを裁いた」
(イブン・アルアスィール『完史』)


「ヌールッディーン殿は酒も音曲も断ち、粗服を着てウラマーと語り合うのを好まれるそうだ」

「ヌールッディーン殿は常々、自分の金はムスリムのために管理しているに過ぎないと公言され、己のためには一文たりとも使おうとせぬそうだ」

「ヌールッディーン殿が征服した土地では税が撤廃されたそうだ」

意図的に流布されたものも含めて噂が口から口へ伝えられ、庶民は目を輝かせて若きアレッポ領主の名を語り合った。
そのうえ、ヌールッディーンはシリア各地の知識人にこんな内容の檄文を送る。

「アッラーの他に神なし。今こそ全ムスリムは一丸となって聖戦(ジハード)を敢行すべし! 神を冒瀆する異教徒の支配を終焉させ、奪われた領土と聖なる都を取り戻すべし!」

聖戦

これはもう何百年ものあいだ、シリア地方では忘れ去られた概念だった。
ヌールッディーンは敵であるフランク人に見習うように「信仰のための戦い」という理念を歴史の中から掘り起し、シリアの民の心に火をつけたのだ。

反撃の狼煙はアレッポから上がる。


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(イナブの戦い)

1149年、ヌールッディーンはアンティオキアを攻撃。
結果は圧勝だった。アンティオキア公レイモンは「イナブの戦い」で、ヌールッディーン麾下の「シールクーフ」という勇将に討ち取られた。

エデッサ奪還を呼号して欧州より来襲した「第二次十字軍」は現地情勢を理解せず、長年エルサレム王国と協力関係にあったダマスクスを攻撃した。
攻囲が開始されて数日後、地平線に砂塵が立上った。ヌールッディーンが北部シリアの諸侯を率いて救援に駆けつけたのだ。
十字軍は恐慌状態に陥って敗走し、何の成果もなく帰国していった。


1154年4月、「諸都市の花嫁」と謳われた古都ダマスクスは、ついにヌールッディーンの馬前に城門を開いた。
シリア内陸の諸城は次々にヌールッディーンに降り、沿岸のフランク人たちは東部国境全面からの容赦なき攻勢を覚悟せざるを得なかった。
エルサレム王アモーリー(アマルリック)1世は挽回の一手として南に目を向けた。
衰退しきったファーティマ朝を併合し、シリアの覇者となったヌールッディーンに対抗しようというのだ。こうして舞台はエジプトへ移動する。


ファーティマ朝の落日

969年にエジプトを征服したファーティマ朝はまもなく故地のイフリーキヤ(北アフリカ)への統制力を失ったものの、最初の半世紀あまりは陰りなき繁栄を謳歌した。
アッバース朝が衰退し、東西交易の幹線がペルシア湾から紅海に移行したことで、首都のアル・カーヒラ(カイロ)と旧都フスタートはイスラーム世界の経済的中心となった。

ただ、政治面では比較的早い時期からカリフは実権を失う。
その契機になったのは1021年に起こった、第6代カリフ「アル・ハーキム」の「失踪事件」だった。


アル・ハーキムは世界の歴史上でも極めつけの奇矯な君主だった。
996年に11歳で即位。初めは「バルジャワーン」という宦官がハーキムを軟禁して国政を壟断していたが、16歳のときにバルジャワーンの油断を衝いて自ら刺殺。親政を開始した。
こういう生い立ちが彼の人格形成に悪しき影響を与えたのかもしれない。
ハーキムは一面において文化学芸を保護し、庶民の生活に心を配る名君であったが、他面においてはしばしば近臣を殺害し、理不尽な法令を濫発する暴君でもあった。

ファーティマ朝の建前としては、カリフはマフディー(救世主)であり、絶対的な権威を持つ。
ハーキムはこの建前を現実のものとするためイスマーイール派の教義の宣布に力を入れ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を厳しく弾圧した。
異教徒は特定の衣裳以外を着てはならず、馬に乗ることも禁止され、ムスリムとの判別のために常に鈴を腰につけるように命じられた。
民に戒律を遵守させるために娼館を閉鎖し、国中のワインをナイル川に捨て、ブドウ園の樹々を伐採。ハーキムが犬を「悪魔の使い」と信じたことから、エジプト中の犬の殺害も命じられた。
風俗紊乱の源ということで浴場も閉鎖され、過去のスンナ派カリフたちが好んでいたという理由でエジプト名物のモロヘイヤを食べることも禁じられた。
いかなる理由であっても、法を犯した者は身分にかかわりなく極刑に処せられた。

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(エジプトを代表する料理のひとつ、モロヘイヤのスープ)

ハーキムは日常生活でも奇行が多く、夜な夜な宮殿を抜け出しては「爬虫類のような眼」でアル・カーヒラの街を徘徊するのが習慣だった。
そんなある夜、いつものようにわずかな従者を連れて宮殿を抜け出したハーキムは、そのまま何処へともなく姿を消してしまった。
数日後に砂漠でハーキムの着ていた服が発見されたが、カリフ自身はどこにもいない。

エジプトの大部分の人々はハーキムに対して恐怖と嫌悪しか感じていなかったが、ごく一部に彼の異様なカリスマに魅入られる支持者もいた。
彼らはハーキムが神の化身であったと信じ、やがてハーキムを崇拝する特異な分派、「ドルーズ派」を形成することとなる。


ともあれカリフの失踪という怪事件によって政局は大混乱となり、以来、宮廷の有力者が次々に傀儡のカリフを立てて権力を争奪するのがファーティマ朝の常態となってしまったのだ。

1065年にはナイル川の水位が異常に低下し、七年間もの大飢饉が始まる。同じ時期にテュルク・ダイラム系の軍人たちと黒人奴隷軍団とのあいだで国を南北に分けての内乱も勃発した。
事態を収拾するためシリアからアルメニア系の「バドル・アルジャーマリー」という人物が宰相として招かれ、精強なシリア軍を率いて内乱を鎮圧する。
ところが軍事的空白状態となったシリアにセルジューク朝のトゥルクマーン戦士たちが乱入し、ほどなくフランク(十字軍)の侵攻もはじまる。
ファーティマ朝はエルサレム王国に金を払って平和を買い、国内で権力争いに明け暮れた。歴代宰相のなかで天寿を全うしたものはごくわずかで、ほとんどは暗殺されたり処刑されたり、ろくな最期を遂げていない。


……そんな経緯を経て、1150年代のファーティマ朝はアラブ系軍人出身の「シャーワル」と「ディルガーム」という人物が栄誉と危険に満ちた宰相の椅子を奪い合っている状況だった。


1163年、エルサレム王アモーリーが最初のエジプト遠征をおこなった。これはナイルの増水に阻まれて失敗に終わるが、ヌールッディーンは警戒を強めた。
その直後、ディルガームに追い落とされたシャーワルがシリアに亡命して来た。エジプト宰相の地位を奪還するため、何としてもヌールッディーンの支援が欲しいという。

ヌールッディーンはこの奇貨を喜び、直ちに腹心の勇将シールクーフにエジプト出兵を命じた。この事件が次の時代の主役を舞台に呼び出す契機となる。

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(現代のクルド人の居住地域)

シールクーフ」はクルド系の軍人で、「アイユーブ」という名の兄がいる。この兄弟が歴史に登場するきっかけというのがなかなか面白い。

1131年、あのアッバース朝のカリフ、アル・ムスタルジドがセルジューク朝スルタンの病死を好機と見て、二度目の「逆クーデター」に打って出た。
モスルとアレッポの総督となって間もないザンギーは、東に勢力を広げる好機と見てバグダードに進軍。
ところが今度のカリフ軍は予想外に強く、ザンギーは彼の人生では珍しいことに惨敗を喫してしまった。


アル・ムスタルジドの方はほどなく勢力を盛り返したセルジューク勢に敗れて殺害され、ホラーサーンを本拠とするアフマド・サンジャルがセルジューク朝の再統合に向けて動き出すのだが、それはこの物語にはさしあたり関係ない。


ザンギーはモスルへ逃げ帰ろうとするが、彼の前には大河ティグリスが滔々と流れている。川の渡し場があるタクリート(ティクリート)の町でザンギーは追手に追い詰められ、絶体絶命の危機に陥った。
この時、救いの手を差し伸べたのがタクリートの長官を務めていたアイユーブ兄弟だったのだ。彼らの生年は不詳だが、おそらくまだ二十歳前だったと思われる。

「義を見てせざるは勇無きなり、と申す。渡し船があるゆえ、はよう川を越えられよ」
「かたじけない、この恩は決して忘れぬ」
「なんの、武士は相身互いでござろう」

ザンギーは本当に恩義を忘れなかった。
数年後、血の気の多いシールクーフが口論の末に役人を殺してしまい、アイユーブ兄弟はタクリートを夜逃げする羽目になった。ザンギーは流亡の一族を温かく迎え入れ、地位と領地を与えてくれたのだ。
このとき、シールクーフの兄のアイユーブは一人の赤子を連れていた。
一家が夜逃げをする当日に生まれたこの赤子の名を「ユースフ」という。
のちに「信仰の救い」を意味する「サラーフッディーン」、縮めて「サラディン」という通称で知られることになる、イスラーム史上最も名高い英雄である。


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(ナイル下流域とシナイ半島)

シールクーフの支援でファーティマ朝の宰相に返り咲いたシャーワルは、今度は強力すぎるシリア勢が目障りになった。
老獪な策謀家(を自任する)シャーワルはシリア勢を牽制するため、もうひとつの外国勢力を呼び込むことにした。先年エジプト侵攻を試みたばかりの異教徒、エルサレム王アモーリーである。
これ以来、エルサレムとダマスクスを天秤にかけるシャーワルによって、両国が代わる代わるエジプト出兵を繰り返すという喜劇的な状況がはじまる。


第一回目ではシールクーフの退路を防ぐようにアモーリーがナイルデルタ東端のビルバイスに布陣。シールクーフはやむなく三万ディナールを支払って遠征軍の帰国を認めさせた。


第二回目は恩知らずのシャーワルに制裁を下すべく、一万二千のシリア勢がエジプトに侵攻したことで始まる。シャーワルはアモーリーに援軍を求め、両軍はほとんど同時にエジプト国境を越えた。
考えてみれば北シリアからエジプトへ向かうにはエルサレム王国の目の前を通らないといけないのだから、シナイ半島に入る頃には両軍はほとんど横並びで進軍していたのだろう。

シールクーフはアル・カーヒラ前面で待ち構えるエジプト・エルサレム連合軍を躱してナイル川を西に越え、10日にわたって南下しながら連合軍を上エジプト地方へ引き込んだ。
突然反転したシールクーフは連合軍を圧倒。そのまま今度は北へ進撃し、10日で南下した距離を一夜で駆け戻ってナイル河口のアレクサンドリアを占領した。
連合軍がアレクサンドリアを囲むと、シールクーフはわずかな手勢を率いて深夜に敵陣を突破し、再び上エジプトに走って民兵を蜂起させた。連合軍はシールクーフに翻弄された。

このとき三ヶ月にわたって主将不在のアレクサンドリアを守り抜き、最後に停戦協定をまとめ上げたのが、当時30歳のアイユーブの息子ユースフ、すなわちサラディンであったという。


「わたしはエジプトになど行きたくありません。なんであんな遠い国へ出かけて苦労せねばならんのですか」
「ユースフ、頼む。俺は戦いのことしか分からんから、おまえの頭が頼りなんじゃ」

渋る甥を無理して引っ張ってきた甲斐があったというものだった。

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(サラーフディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ。アイユーブ朝の創始者)


次に先手を打ったのはアモーリーだった。
彼はシリア軍が不在のうちにエジプトを掌握しようと目論み、1168年11月にエルサレムを出陣。宰相シャーワルは依然アモーリーを支持していたが、傀儡のカリフがヌールッディーンに助けを求めたのだ。

アモーリー率いるフランク軍はビルバイスを略奪し、ナイルデルタを進軍してアル・カーヒラに迫った。
ここに来てようやく慌てたシャーワルは、異教徒に物資を渡さないために、エジプト経済の中枢だった旧都フスタートを焼き払うことを決断した。

二十万壺ものナフサが集められ、全住民が避難させられたうえで、11月13日にフスタート全市に一斉に火が放たれた。
大征服時代にアムル・イブン・アルアースによって建設された軍営都市は、これより54日間にわたって燃え続ける。
自ら古都に火を放ったエジプト人たちにドン引きしたアモーリーは、1月2日にエジプトを撤退した。
わずか1週間後、入れ替わるようにシールクーフとサラディンの率いるシリア軍が現われる。彼らは濛々と煙を上げ続けるフスタートの傍らを通過し、帝都アル・カーヒラに入城した。

「異教徒と通じ、由緒ある古都を灰燼と化した悪逆の男はどこにおるっ!」

宰相シャーワルは直ちに捕えられ、カリフの承認のもとに絞首される。
代わってシールクーフがカリフのアーディドによってファーティマ朝の宰相に任じられ、「勝利王」なる称号を得た。

ちなみにこの時点でシールクーフはザンギー朝の一武将なので、これはいわゆる兼帯ということになる。たとえるならば子会社に出向して、出向先の役員になったという状況に近い。
衰え果てたファーティマ朝はシリアのザンギー朝の属国と化したのだ。

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(知られざる名著。イスラーム征服以降のエジプト史を彩る数々のエピソードが記されている)



シリアの稲妻

ここで事態が狂う。ザンギー朝のエジプト進駐軍総司令官にしてファーティマ朝宰相を兼任するシールクーフが、わずか3か月後に急死するのだ。
死因は食べ過ぎによる腸閉塞と推測されている。シールクーフは大食漢であった。

ちなみに「シールクーフ」という名前はクルド語だかペルシア語だかで「山のライオン」を意味する。
彼にはアラビア語の「アサド・アッディーン」という呼び名もあって、こっちは「信仰のライオン」を意味する。
「ライオン」という名前を二つも持つぐらいだから、きっと頬髯ぼうぼうで獅子鼻の巨漢だったのだろう。


さて、シールクーフの急死を受けて宮廷も進駐軍もいろいろと揉めたが、結局甥のサラディンが進駐軍司令官兼宰相を継ぐこととなった。
カリフのアーディドはすぐに彼を後任の宰相に補任した。サラディンはまだ32歳になったばかりだった。


このあたりの動きについて主君ヌールッディーンは全く関知していない。サラディンとしてもいちいちダマスクスに伺いを立てている余裕はなかったのだが、ヌールッディーンから見れば独断専行もいいところである。
日本史でいえば、源義経が兄・頼朝の許可を得ずに後白河法皇から任官を受けた件に似ている。


ヌールッディーンは驚愕した。

「私の命令もなしにサラディンはどうしてこんな事をしでかしたのだ!」

ダマスクスやアレッポの高官たちは脅しめいた書簡を送って来た。

ユースフ、汝は行き過ぎ、限度を超えた。ヌールッディーン殿の僕に過ぎないのに、今では権力を独占しようというのか。心せよ! 汝を無から引き出した我らは、汝を元へ引き戻すことができるのだぞ!」

サラディンは詰問状をすべて黙殺した。

「私はエジプトになど来たくはなかった。叔父が私をここへ連れて来て、エジプトを征服して死んだ。そして神は望みも期待もせぬのに私の手の中に権力を押し付け給うたのだ……」

距離の遠さは心の隔たりを生む。流動的な現地情勢を前に主君の意向を気にしているゆとりはなく、進駐軍が生き延びるためにはエジプトでの独立政権樹立すら視野に入れねばならないだろう。


ファーティマ朝の支持者たちは異国から来た若造など叩き潰してやろうと手ぐすね引いている。エルサレム国王のアモーリーはいつまた侵攻してくるかわからない。
いや、はっきり言えば主君ヌールッディーンが誅伐軍を率いて乗り込んでくる可能性もある。
サラディンは数千騎にのぼる直属軍を編成し、ファーティマ朝の軍人たちのイクターを没収して部下に分配した。
自分たちの生活基盤が掘り崩されたことでファーティマ朝の軍部は蜂起を決断した。

1169年8月22日、帝都アル・カーヒラの中心部を南北に貫く大通り、「バイナル・カスライン」でサラディン率いる進駐軍と5万を超えるファーティマ朝の黒人奴隷兵が激突した。
壮絶な市街戦の末に奴隷兵たちはズワイラ門から敗走し、ギザのピラミッドの真下で全滅した。

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(バイナル・カスライン南端のズワイラ門)

サラディンは軍事力を失ったファーティマ朝の宮廷を完全に支配下に置き、エジプトをスンナ派国家に改造していった。
1170年よりスンナ派法学派の学院(マドラサ)を次々に建設し、シーア派カーディー(司法官)を追放し、スンナ派カーディーに置き換える。
そして1171年9月、サラディンはフスタートとカイロのモスクで集団礼拝に際して、スンナ派ムスリムたちの長であるアッバース朝カリフの名を高らかに読み上げさせる。
それまで常に唱えられていたファーティマ朝カリフの名前は抹消された。

このとき、22歳のカリフ、アーディドは重病の床にあった。

「陛下にはこのことをお告げするな。病癒えればあとでいくらでも知る機会はあろうし、そうでなければ心に無用の苦しみを負うことなくアッラーの御許へ向かわれるほうが良かろう」

サラディンはこのあたり、心優しい。6日後にアーディドが自らの廃位を知ることなく息を引き取り、シーア派最初の大帝国、ファーティマ朝の歴史は幕を閉じた。
サラディンは公式にはザンギー朝の一武将に過ぎないが、事実上新たな王朝の創始者となった。彼の父親の名にちなみ、「アイユーブ朝」と呼ばれる王朝である。


サラディンはファーティマ朝の残党粛清を進めるとともに、アラビア半島西岸に遠征軍を送って聖地マッカとマディーナに加え、南アラビアのイエメンまでを制圧した。

ダマスクスではもはやヌールッディーンの前でサラディンの名前が口にされることはない。人々は顔をゆがめ、「忘恩の徒」、「逆臣」、「成り上がり」、「身の程知らず」と吐き捨てる。
名目上サラディンの主君であるはずのヌールッディーンは懊悩し、ついにエジプト討伐を決意した。

が、ヌールッディーンは1174年5月、討伐軍の出陣を前に病に倒れ、生涯を終えた。扁桃腺の化膿から高熱を発しての死であったという。
ことさらに陰謀の存在を疑うべきではないだろうが、サラディンにとってまことに幸運な結果であった。

サラディンを生んだ者

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(ザンギー、ヌールッディーン、シールクーフら、そしてサラディンの前半生の物語)


ヌールッディーンの死によってシリアの情勢は一挙に流動化した。
後継者のサーリフはまだ11歳である。ヌールッディーンが兄に任せたモスルがこの機に乗じて版図拡大に乗り出す。フランク諸侯が出陣する。そして何より、エジプトのサラディンはどう動くのか。

ダマスクスの宮廷は不測の事態を避けるため、幼君サーリフを抱えて「本国」アレッポに撤退した。


サラディンはサーリフの保護者を自称し、疾風のようにシリアに進撃した。
10月、空城となっているダマスクスに無血入城し、北シリアに軍を展開する。
12月、サーリフを取り巻く「奸臣」を討伐するためアレッポを包囲。少年王は市民に向かって演説した。

「神も人をも顧みず我が国を余の手から取り上げようとする不義不忠のこの男を見よ。おまえたちをかくも愛した亡き父を思い出し、孤児となった余を守ってくれ」

サラディンははなはだ辟易して兵を退いた。折しも風を読んだアッバース朝のカリフからサラディンにエジプトとシリアの支配を公認する書状が届く。
これを盾にとってサラディンはアレッポ、モスルのザンギー朝政権と和約を結び、シリアの新しい覇者となったのだった。

同じ頃にエルサレム王アモーリーも熱病で死去し、後を幼く病に冒されたボードゥワン4世が継ぐ。
北の大国ビザンツ帝国は中部アナトリアのミュリオケファロンでトゥルクマーンに大敗し、とうていシリア・エジプトに介入する余力はない。
サラディンの時代が来ようとしていた。

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(アイユーブ朝の軍旗は黄一色)


ここまでの経緯を見れば、サラディンは確かにザンギー朝の人々がいうとおり、権謀術策を駆使する野心家にしか見えない。
その一方で、サラディンは少なくとも日常生活のレベルではとても大らかで他者への配慮を怠らない性格であったともいう。

部下に間違って氷水を浴びせられても笑って咎めず、臣下の戦死を聞いて号泣する。敵であるフランク人の女性に悲惨な境遇を聞かされて涙を流したこともある。
奮戦する敵将が馬を失えば自分の馬を与え、捕えた敗将に薔薇水を振る舞う。
権威を振りかざすことを嫌い、横柄な部下をも咎めない。ことあるごとに貧者に施しをするので側近たちが財貨を隠したともいう。

サラディンは大偽善家だという者もいれば、偽善の極みは善だという者もいる。
野心なくして権力を握った幸運児という評もあれば、彼の政敵がいつも好都合なタイミングで死亡する不自然さを指摘する意見もある。

実際どうなんだというのは難しいが、普通の人間は自分の性格を何十年も偽れはしない。
個人としてのサラディンは本当に寛大で心優しい人物だったのだろうと思う。そして政治家としても可能な限りはそれを貫いたのだろう。
とはいえやむに已まれぬ状況であれば、彼はいくらでも非情にも野心的にもなれた。つまりは「有能な政治家」だったのだろうと思う。

(この時期の事績だけ追っていると悪役にしか見えないので、余計なつけたしをしてしまった。サラディンの不徳の至りだよ!)

イスラームの「英雄」 サラディン――十字軍と戦った男 (講談社学術文庫)

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(だからなんだ的なアレだけど、著者の佐藤次高先生が亡くなる前に一回だけお話ししてサイン貰いました)




(「外伝」的な位置づけの十字軍戦争史は一回にまとめるつもりだったけど、内容が膨らみ過ぎというか詰め込み過ぎたのでここでまた分割)

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イスラーム世界の歴史第2部 用語集(2/18 「アンダルスの栄華」関連を反映)

第2部といっても2章だけなんですが。
「歴史14 アンダルスの栄華」と「歴史15 ナバス・デ・トロサへの道」の新出用語。

ざざっと作ったので見落としもあるかも。


【人名】

◇ あ~お ◇
【アブドゥルラフマーン一世】 : 後ウマイヤ朝の初代君主(アミール)(在位:756~788)。ウマイヤ朝の王族で、ウマイヤ朝滅亡後にイベリアへ奔って王国を建てた。「アブド・アッラフマーン」などとも表記される。
【アブドゥルラフマーン二世】 : 後ウマイヤ朝の第四代君主(在位:822~825)。後ウマイヤ朝を中興した。
【アブドゥルラフマーン三世】 : 後ウマイヤ朝の第九代君主(在位:929~961)。王朝全盛期を現出し、929年に「カリフ」を称した。

◇ か~こ ◇
【カール大帝】 : カロリング朝フランク王国の君主(在位:768~814)。バイエルン、ヒスパニア、ランゴバルド、ザクセン、パンノニアへと遠征を重ね、西ヨーロッパ大陸部の大半を統一。800年に教皇レオ三世より「ローマ皇帝」の帝冠を受けた。「ヨーロッパの父」といわれる。
フランス語で「シャルルマーニュ」、イタリア語で「カルロマーニョ」、ドイツ語で「カール・デア・グロッセ」、ラテン語で「カロルス・マグヌス・インペラートル」。

◇ さ~そ ◇
【サンチュエロ】 : 後ウマイヤ朝末期の侍従。ムハンマド・イブン・アビー・アーミルとナバーラ王女の子。ベルベル人を重用してコルドバ市民の反感を買い、殺害された。
【ジルヤーブ】 : ?~?。本名アブー・アルハサン・アリー・イブン・ナーフィー。8世紀末から9世紀にかけて活躍したアラブの文人・音楽家・歌手。初めアッバース朝の宮廷に伺候していたが、のちにアンダルスへ移住し、後ウマイヤ朝に東方の華麗な宮廷文化をもたらした。
【スブフ】 : ?~?。後ウマイヤ朝後期にハカム二世の寵愛を受けたバスク人の美姫。もとはコルドバの歌姫だったという。ヒシャーム二世の母で、侍従ムハンマド・イブン・アビー・アーミルの後ろ盾となった。

◇ は~ほ ◇
【ハカム一世】 : 後ウマイヤ朝の第三代君主(在位:796~822)。彼の時代にサカーリバ(白人奴隷兵)の利用が本格化した。
【ハカム二世】 : 後ウマイヤ朝の第十代君主、カリフ(在位:961~978)。非常に読書を好んだことで知られる。
【ヒシャーム二世】 : 後ウマイヤ朝の第十一代君主、カリフ(在位:976~1013)。治世前期には侍従ムハンマド・イブン・アビー・アーミルの傀儡であった。のちにアーミルの息子サンチュエロを重用し、臣民の不満を買う。治世後期から後ウマイヤ朝は急速に衰退を始めた。
【ペラーヨ】 : ?~737。通称「髭のペラーヨ」。西ゴート王国の貴族で、西ゴート王国征服後にイベリア半島北部に逃れ、イスラーム勢力に対するレジスタンスを開始した。アストゥリアス王国の祖。

◇ ま~も ◇
【ムハンマド・イブン・アビー・アーミル】 : ?~1002。後ウマイヤ朝後期の侍従(ハージブ)で、事実上の最高権力者。幼君ヒシャーム二世を傀儡化して新都マディーナト・アッザーヒラを建設し、70回にわたって北方キリスト教諸国への遠征を繰り返した。「アル・マンスール」(勝利者)の異称で知られる。

◇ ら~ろ ◇
【ローラン】 : ?~778。フランク王国のブルターニュ辺境伯? カール大帝のヒスパニア(イベリア)遠征に従い、帰途にピレネー山脈のロンスヴォー峠でバスク人の奇襲を受けて戦死した。のちに「ローランの歌」の主人公とされた。ほぼ伝説上の人物。


【地名】

◇ あ~お ◇
【アラゴン王国】 : 1035~1715。中世イベリア半島の東部を支配した王国。ナバーラ王国とカタルーニャ伯領に起源をもつ。全盛期には地中海中部に勢力を扶植。のちにカスティーリャ王国と結合してスペイン(エスパーニャ)の母体となる。
【アンダルス】 : イベリア半島、あるいはイベリア半島のイスラーム支配地域に対するアラビア語の呼称。「アンダルシア」の語源。

◇ か~こ ◇
【カスティーリャ王国】 : 1035~1715。中世イベリア半島の中部を支配した王国。ナバーラ王国とレオン王国に起源をもつ。レコンキスタを強力に推進。のちにアラゴン王国と結合してスペイン(エスパーニャ)の母体となる。
【ガリア】 : フランスの古名。
【後ウマイヤ朝】 : 756~1031。アンダルス(イベリア半島)を支配したウマイヤ家のイスラーム王朝。首都はコルドバ。
【コルドバ】 : イベリア半島南部の都市。後ウマイヤ朝の都となり、王朝全盛期には数十万の人口を擁する。その後もアンダルスを代表する都市として栄えた。アラビア語では「クルトゥバ」。

◇ は~ほ ◇
【フランク王国】 : 481~987。ゲルマン民族の一派、フランク人が創建した王国。最初ライン下流域に成立したが、徐々に勢力を拡大し、カロリング朝時代には現在のドイツ・フランス・イタリア北部を覆った。フランス王国と神聖ローマ帝国の前身でもある。

◇ ま~も ◇
【マディーナト・アッザーヒラ】 : 後ウマイヤ朝後期の侍従ムハンマド・イブン・アビー・アーミルがコルドバ郊外に築いた新都市。意味は「輝きの都」。
【マディーナト・アッザフラー】 : アブドゥルラフマーン三世がコルドバ郊外に築いた壮麗な離宮および都市。「輝きの都」を意味する。


【その他】

◇ さ~そ ◇
【サカーリバ】 : 西方イスラーム世界で広く使われた白人奴隷。主に東欧のスラヴ系諸民族が供給源となった。

◇ た~と ◇
【タイファ】 : 「分立諸王朝」、「群小諸国」といった意味。後ウマイヤ朝の崩壊後、アンダルス各地に成立した地方政権群のこと。

◇ は~ほ ◇
【ハージブ】 : 「侍従」と訳される。カリフに近侍する役職で、宰相以上の権力を持つ。

◇ ま~も ◇
【モサラベ】 : 中世アンダルスで、イスラーム政権の支配下で暮らしていたキリスト教徒のこと。ムスリムに比べて一部の権利に制約があったものの、後ウマイヤ朝の時代にはおおむね信仰を尊重され、ムスリムたちと共生していた。文化的にはアラブ化した。ムラービト朝の時代からは抑圧が強まり、北方のキリスト教諸国へ逃亡する者が増えた。

◇ ら~ろ ◇
【ローランの歌】 : カール大帝のヒスパニア(イベリア)遠征と異教徒との戦い、帰途のロンスヴォー峠におけるブルターニュ辺境伯ローランの死を題材とする英雄叙事詩。中世ヨーロッパで非常に広く愛好された。


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(百聞は一見に如かずということで)


イスラーム世界の歴史19 フランク襲来

「十字軍戦争」序説

「フランクが為すことをよっく見よ。われらムスリムが聖戦を行う熱意をいささかも持ち合わせておらぬのに、彼らフランクはおのが教えのためかくも激しく戦うのを」

(サラディン)


唐とアッバース朝イスラーム帝国という二大帝国の没落後、ユーラシア大陸はかつてない激動の時代を迎える。

広域権力の消滅によって戦乱が広がっただけではない。人間集団の移動自体が活性化した。
とりわけ840年のウイグル可汗国崩壊からはじまるテュルク系遊牧民の大西進は、次から次に連鎖反応を起こしながら北部インド、西南アジア、東ヨーロッパにまで波及した。
一方で、南進したテュルク系沙陀族は華北に乱入して「五代十国」の大乱世を巻き起こし、その後に成立した遼の耶律大石はテュルク族の後を追うように西へ向かい、中央アジアに到達した。
西方でもサハラ砂漠の奥地から「アルモラビッドの聖戦」が開始され、欧州世界の北方では「ヴァイキング」とも「ノルマン人」とも「ヴァリャーギ」とも呼ばれる人々が北大西洋からロシア平原までを襲撃した。

そんな時代背景のなかで、11世紀末に西北ヨーロッパから中近東への大々的な軍事侵攻がはじまる。
欧州世界の人々はこれを「十字軍」と呼び、イスラーム世界の人々はこれを「フランク人の襲来」と呼んだ。

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(「十字軍」の遠征)

「十字軍」は数え方にもよるが、六回ないし九回ほど繰り返されたといわれる。しかしその内実は多様である。

1096年に始まった「第一次十字軍」は欧州世界のキリスト教徒たちが至高の聖地と見なすエルサレムの「解放」を目的とし、それを達成した。そしてエルサレム防衛を大義名分として、地中海東岸に数個の植民国家群(十字軍国家、ウトラメール)を建設した。
当初、レバント(地中海東岸)の諸勢力は分裂したセルジューク諸国と衰退するファーティマ朝の狭間にあって、西方からの不意打ちに対応することができなかった。
しかし、程なくムスリム勢力は体制を建て直し、エルサレムを奪還する。
その後は和戦両様の手段で聖都の争奪が繰り返されるが、13世紀末までにレバントの植民国家群はすべて失陥し、「十字軍戦争」は欧州の敗北によって終焉した。

二百年におよぶ戦争にいかなる意義があったのかは、見る人の立場によって違うだろう。

極言すれば、これはイスラーム世界にとって「蛮族の襲撃」でしかなかった。
ユーラシア大陸全体を視野に入れれば、「十字軍戦争」は如上の大動乱期における事象のひとつでしかなく、同時代および爾後数世紀に対しては、「テュルク人の西進」のほうがはるかに巨大な影響を及ぼしている。

仮に「現代」という歴史上の一時点に対する影響を無視してイスラーム世界の歴史を語るならば、「フランク人の襲来」は一片の挿話にしかならない。
しかし千年ののちにヨーロッパ人が世界の覇権を握ったがために、欧州世界とイスラーム世界の長く複雑な愛憎の起源として、断じてこの戦争を無視することはできなくなったのだ。

では、この長い対立はいかなるきっかけで始まったのか。
それを知るためには、黄金と虚栄に満ちた古き帝国の歴史を振り返らなければならない。

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(この双書、カラー図版の豊富さで群を抜く)


生き残った帝国

二千年前、ユーラシアの西の果てに「ローマ帝国」と呼ばれる巨大な国家が栄えていた。
全地中海を統一し、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三つの大陸にまたがる偉大なる帝国。世界は讃嘆してローマの栄光を仰いだ。

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(古代ローマ帝国)

時は流れ、繁栄に影が差した。
帝国は首都をイタリアのローマからバルカン半島東端のコンスタンティノポリスに遷し、蛮族の侵入に喘ぐ西方を切り捨て、堅固な城壁と強大な艦隊によって国家の存続をはかった。
後世の歴史家はこれを「東ローマ帝国」、あるいは「ビザンツ(ビザンティン)帝国」と呼ぶ。
しかしこの国に生きる民にとって、彼らの国は依然「ローマ帝国」であり続ける。古都のローマを失い、自国を名指す言葉もラテン語の「インペリウム・ロマーヌム」からギリシア語の「バシレイア・トーン・ローマニオーン」に変わったが、いまも市民と元老院と皇帝は健在だった。

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(帝都コンスタンティノポリス)

帝国の新たなる首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)は二つの大陸と二つの海の交わる場所に建設され、三重の城壁によって鉄壁の防御を誇る。
地上のあらゆる民族がここを訪れ、富を追い求めた。いたるところに黄金色の宮殿と教会がそびえ立っていた。
多くの時代においてここは全世界でもっとも輝かしい文化都市で、かつまた全世界でもっとも繁華な交易都市であった。

地方の諸都市では絹や工芸品が盛んに生産され、農村の民も平和のうちに耕作に励んだ。
あまねく初等教育が行き渡り、貧しい庶民でも文字を知っていた。優れた官僚たちが効率的に国政を切り回し、貴族たちは権謀術策に明け暮れた。
帝国の正規軍は弱体である。
しかし「ローマ皇帝」の権威は絶大だったし、帝国の国庫は財貨に満ち溢れていたから、忠節を尽くす従属国や打算的に指揮に従う傭兵たちに不足することはなかった。
軍事力に自信がなければノミスマ金貨にものを言わせて平和を買い、敵国に不和の種を蒔いてもいい。帝国人は理知的で狡猾だった。

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(「中世のドル」といわれるノミスマ金貨)

幾世紀にもわたり、数多の国々が生まれては消え、生まれては消えた。
膨大な時の流れの中で、ひとりビザンツ帝国のみは変わることなく生き残り続けた。

いや、変わることなくというのは語弊がある。

ゴート人とランゴバルド人の南下によってイタリアを失い、フランク王国によって西欧への主権を否定され、イスラーム勢力によって広大なシリア・エジプト・北アフリカを奪われた。
アヴァール人やブルガル人、アラブ人やルーシ人が幾度も帝都を包囲した。
それでも、帝国は生き残り続けた。

そして11世紀。
大セルジューク朝のアルプ・アルスラーンがアナトリア半島に馬を進め、マラズギルトの戦いで帝国軍を大敗させた。

わずか数年のうちに残存する国土の東半がテュルク人に奪われた。
傭兵がかき集められ、増税が繰り返された。農民たちは村を逃散した。
苦慮した政府は債権を餌に官職を公募した。富裕な商人や豪族は年金目当てで官職を購入した。金利の支払いによって国庫はますます枯渇し、貨幣の悪鋳が繰り返された。
官職保有者への年金支払いは停止された。宮殿の蔵は空になり、扉に鍵も掛けられなくなった。膨大な財貨を蓄えるために深く掘り下げられた床には虚しく埃が積もっていた。
地方に領地を有する軍事貴族たちは私兵を養い、ことあるごとに蜂起した。

生き残った帝国は、いまや息を引き取ろうとしていた。救国の英主、アレクシオス・コムネノスが現われたのはその時だった。

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(アレクシオス・コムネノス)

アレクシオスはビザンツ帝国を代表する名門の軍事貴族、コムネノス家に生まれた。かのマラズギルトの戦いの際には僅か14歳でありながら従軍を志願し、皇帝ロマノス四世から直々に諭されて断念している。
相次ぐ貴族たちの反乱鎮圧と外敵からの防衛。24歳で将軍となったアレクシオスは数々の戦功を重ね、1081年に帝位を手に入れた。まだ38歳の若さだった。

アレクシオスは旧来の皇帝専制が維持不可能であることを認識していた。一方で地方の貴族たちは各々の私領にあって確固たる地盤を維持している。

「皇帝は地上の神ではない。貴族たちの友だ」

勇敢で寛大なアレクシオスには人望があった。
彼は同輩であった貴族たちと政略結婚を重ね、貴族たちの土地私有と徴税権を公認した。いわゆる「プロノイア制」である。これによってビザンツ帝国は明確に封建国家への道を歩むことになった。
そして彼らの強固な支持を背景に通貨切り下げと官職制度の大改革を断行し、国家財政を再建する。

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(ビザンツ帝国入門に最高の一冊)


外敵への対処も欠かせない。
当時、ビザンツ帝国は二つの強敵に苦しめられていた。

西方の敵はヴァイキングの血を引くノルマン人である。
彼らは北欧からフランスを経由して南イタリアに辿りつき、ビザンツ帝国への襲撃を繰り返していた。
首領は「世界の恐怖」と謳われたロベルト・グイスカルド。徒手空拳でアプリア・カラブリアを奪い取り、自軍の数倍の敵軍を幾度も破り、ローマ皇帝の地位をも窺った中世ヨーロッパ屈指の梟雄である。
アレクシオスはバルカン半島西岸でノルマン人との激戦を繰り返し、グイスカルドの死後に息子のボヘモンドを屈服させた。

そして東方の敵はいわずとしれたトゥルクマーン
1071年のマラズギルトの戦い以降、トゥルクマーンの戦士たちが続々とアナトリア半島に流入し、都市を破壊し農村を襲撃し、ビザンツ帝国の守備隊を追い散らして土地を奪っていた。教会は略奪され、人のいなくなった農地は荒れ果てた。多くの人々が奴隷にされ、あるいはイスラームへの改宗を強いられた。
ほどなくトゥルクマーンはエーゲ海の岸辺にまで姿を現した。

1080年代の末には「チャカ・ベイ」という名のトゥルクマーンの首領がスミルナを奪い、ギリシア人船主から艦隊を買い取り、エーゲ海の島々を占拠し、あろうことか「バシレウス」(ローマ皇帝)とまで僭称した。

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(中央ユーラシアの遊牧民の孫や曾孫たちは、ギリシアの青い海までやって来た)


ちょうどその頃、東のほうからトゥルクマーンたちの長であるセルジューク家の少年王、13歳のクルジュ・アルスラーンが登場した。アレクシオスはまずクルジュ・アルスラーンを懐柔し、チャカ・ベイを殺させた。
次にこのクルジュ・アルスラーンをどう始末するか。
皇帝は東の蛮族に対抗するために、同じぐらい野蛮な西の異民族を利用することにした。「フランク人」と総称される西方ヨーロッパの騎士たちである。

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(第一次十字軍直前のビザンツ帝国)


西欧世界の事情

イスラーム世界の交易商人たちはインド洋を縦横に行き来し、東アフリカや中国にまで到達したが、地中海の北側にはほとんど足跡を記しておらず、関心も持っていなかったらしい。
それはこの地域があまりにも貧しかったからかもしれないし、異なる文化や信仰を持つ人々に対して異常なまでに排他的だったからかもしれない。あるいは単純に、地中海の南や東に造船用の木材が乏しかったからかもしれない。

「ヨーロッパ」

この地理的概念は、この時代にはまだ確立していない。
地中海の北、ビザンツ帝国の西方、ユーラシア大陸の極西地域は西ローマ帝国の滅亡後、長らく薄闇のなかに沈滞していた。

ゲルマン諸部族のローマ帝国侵入に端を発する大混乱のなかで古典古代の文明は崩壊し、昼なお暗い森と湿地の広がる未開の土地で「蛮族」と「ローマ市民」の血を引く人々はその日その日を必死に生きた。
彼らの心を支えたのは、古代帝国末期に広まり始めたキリスト教だった。

「蛮族」の首領たちはやがて「王」となった。王たちは互いに争い、西暦800年までには最強の王であるフランク王国のカール1世が西北欧州の大半を統一。「ローマ教皇」ことローマの総主教の祝福のもと、「ローマ皇帝」を自称した。
ビザンツ帝国はこの「僭称者」に厳しく抗議を申し入れたが、撥ね付けられた。ビザンツの力はもはや西方には及ばないし、信仰の形すらも東と西では異なるものになりはじめていたからだ。

カールの帝国はほどなく分解した。
北からはヴァイキング、東からはマジャール人、南からはアラブ海賊が欧州を襲い、人々は武装豪族のもとに寄り集まって自分たちの集落を必死に守った。豪族たちはやがて「騎士」と呼ばれるようになる。

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(ヴァイキングの活動。彼らはビザンツ帝国ではヴァリャーギと呼ばれ、西方ではやがてノルマン人と呼ばれる)

ゆっくりと状況は好転しはじめた。
ヴァイキングとマジャール人は徐々に欧州辺境の一員として受け入れられ、彼ら自身の国家を築いて落ち着いた。
分裂したフランク王国の残骸から、東に「神聖ローマ帝国」、西に「フランス王国」というゆるやかなまとまりが生まれる。
気候が温暖化し、修道士たちは神に祈りを捧げながら未開の森を切り開いた。「大開墾時代」の到来によって人口が急速に増えた。人間の数ではこの頃すでに欧州はイスラーム世界を凌駕していた。
イベリア半島で後ウマイヤ朝が滅亡し、キリスト教徒によるレコンキスタが本格化した。ローマ教会は布教に力を入れ、紀元千年を前にしてボヘミア・ポーランド・ハンガリー・デンマーク・スウェーデン・ノルウェーなどが相次いでキリスト教に改宗した。

ローマ教会は東方ビザンツ世界との腐れ縁も断ち切った。何世紀にもわたって繰り返された文化的・政治的な論争の果て、1054年にローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が相互に破門状を突き付けたのだ。
これによってヨーロッパ大陸のキリスト教は完全に西と東にわかれ、「ローマカトリック」と「ギリシア正教」に分裂する。


西方の人々はこの時代、自信と活力に満ち溢れていた。騎士たちは力を持て余し、ほとんど意味もなく私闘を繰り返した。
王権と教会は誕生したばかりの欧州世界の支配をめぐって競い合った。ヴァイキングの血を引くノルマン人たちは冒険を求めて、いまだ辺境のイングランドや、イスラーム世界に近い南イタリアを襲撃した。

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(11世紀のノルマン騎士)

ビザンツ皇帝アレクシオスはおぼろげながらも西方の活力を認識していた。何しろ彼は長年、南イタリアのノルマン人たちと死闘を続けていたのだ。
これまで帝国は幾度か西方からの冒険者たちを傭兵として利用したことがあった。今度もまた西からの傭兵を募集すべく、彼はローマ教皇に口利きを依頼した。


ときの教皇はウルバヌス二世。彼には彼の思惑がある。

粗暴な騎士たちの力をうまく発散させて、あわよくば教会の力を強めることに資してくれよう。
世俗の王たちを抑え、教会こそが地上の主権者たることを証してくれよう。
コンスタンティノポリスの「異端者」どもに目にもの見せてくれよう。

折しも1095年、フランス中部のクレルモンで教会会議が開催された。
毎回決議されて毎回黙殺される騎士たちへの平和の呼び掛け。聖職者は無償で埋葬を執り行うべきこと。民衆は復活祭まで1ヶ月半にわたって食事を制限すべきこと。
おなじみの議題が次々に消化された後、教皇は最終日にビザンツ皇帝からの支援依頼を読み上げた。危機を大幅に誇張し、騎士たちの信仰心と名声欲を煽ろうとした。

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(クレルモン教会会議)

東方の兄弟たちは凶暴な異教徒どものために辛苦を舐めている。聖都エルサレムも汚された。東方の兄弟たちを救い、主イエスの復活されたエルサレムを解放し、我らの大地から異教徒どもを絶滅せよ!

「主は欲し給う!」

主は欲し給う!!

主は欲し給う!!!」

演説は教皇ウルバヌスの予想を超えた反響を呼び、まもなく欧州の津々浦々にまで噂が広がっていった。


フランク人の襲来

クレルモン会議から程なく、「隠者ピエール」と「一文無しのゴーチエ」なる二人組が、フランス北部からドイツ西部にかけての農民たちに聖地巡礼を熱烈に説いて回った。人々は老いも若きも男も女も熱狂し、日常生活を放り出して二人の後についていき、景気づけに手近な異教徒のユダヤ人たちを殺しながら東へ向かった。
ドイツの南東、ハンガリー国王は突然国境を越えてきた謎の貧民たちに仰天し、彼らが領民への略奪を始めると急ぎ軍隊を出して鎮圧にかかった。ここでだいぶ数を減らしながらも、貧民たちは意気軒昂にさらに東へ向かった。

ビザンツ皇帝アレクシオスはさらに仰天した。教皇に傭兵の斡旋こそ依頼したが、こんな貧民連中を寄越せとは言っていない。皇帝は早々に彼らを海峡の向こうへ追い出した。
1096年の夏の終わり、ニカイアの守備兵がアスカニオス湖の向こう岸に見出したのは、この連中だった。


ルーム・セルジューク朝の少年王、クルジュ・アルスラーンは緒戦で不意を打たれたが、10月に入ると反撃に出る。
ドイツの貧しい農民たちは夜明け前に剽悍なトゥルクマーン騎兵に急襲され、雨のような矢を浴びて逃げ惑った。女と少年は奴隷にされ、二万人の男たちが殺された。

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(民衆十字軍の壊滅)

クルジュ・アルスラーンはこれで事態が片付いたものと認識し、ニカイアに僅かな守備部隊を残して東へ出陣した。

アナトリア半島中部の荒涼たる高原地帯に若い王の不倶戴天の敵がいる。
当時のトゥルクマーン諸侯のなかでは例外的に文字の読み書きができたゆえに「賢者ダニシュメンド」と尊称される、謎めいた梟雄である。
中央アジアの何処からかアナトリアに流れ着き、権謀を駆使してアンカラ周辺を切り取った傑物で、後世にはトルコ人の民話でメインキャラクターとなる。
翌1097年4月、クルジュ・アルスラーンがダニシュメンドの居城マラティヤの城壁前に陣を構えた時、息せき切った急使が駆け付けた。

「殿、またしてもフランク人がニカイアを攻撃しております! 昨年のような烏合の衆ではございません!!」

教皇ウルバヌス二世の呼び掛けに応じて十字の記章を身に着けた欧州諸侯と騎士たちが、ついにアナトリアに現われたのである。


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(ニカイア城内に生首を投げ込みまくる十字軍)

第一次十字軍には諸国の国王は参加しておらず、領地の相続を期待できない諸侯の次男三男が新天地を求めて出陣した例が多い。
真剣に聖地奪還の理想に燃える者もいれば、土地と財宝と名誉を追い求める者も多い。どちらかというと後者の方が多い。

1096年の後半からコンスタンティノポリスに続々と欧州諸侯が到着した。
皇帝アレクシオスはまたしても仰天した。自分が期待していたのはせいぜい二千か三千の傭兵部隊であって、数万もの異国の軍隊ではない!

粗野な欧州人たちは煌びやかな帝都で狼藉の限りを尽くした。とりわけアレクシオスが慨嘆したことには、あの宿敵ロベルト・グイスカルドの遺児、ボヘモンドまでが何食わぬ顔をして十字軍に参加している。
諸侯は黄金の酒杯を回し飲みして高価な葡萄酒をあおり、脂まみれの指でベタベタと装飾品を弄くり、壁のタペストリーを引きちぎり、鶏肉の骨を床に投げ散らかした。
祝宴で泥酔したボヘモンドは勝手に帝座に腰を下ろし、ビザンツ宮廷の人々はあまりの無礼さに卒倒しそうになった。

とにもかくにもアレクシオスは欧州諸侯たちに臣従の誓いを強く求めた。彼らの思惑がどうあろうと、帝国としてはアナトリアの旧領回復のための援軍として欧州勢を呼んだのであって、彼らが占領した土地は当然ビザンツ帝国に併合されるべきだった。
「誓いをせぬとあらば、貴君らを海峡の向こうへ渡す船を提供することはできぬ」
諸侯たちは嫌々ながら皇帝に臣従を誓い、異教イスラーム世界の西端たるアナトリアに足を踏み入れた。


マラティヤ攻撃中に急報を受けた少年王は、急遽ダニシュメンドと和議を結ぶと夜を日に継いで馳せ戻った。
5月、ニカイアを前にして彼が見たのは、おそらく5万を超える敵軍が蟻の這い出る隙間もないほどに首都を包囲し、やぐらを並べ投石機を備え付けている有様だった。少年王は首都を諦めるしかなかった。

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(ドリュラエウムの戦い)

東へ撤退したクルジュ・アルスラーンはダニシュメンドと手を結び、7月にニカイアから100キロほど東南のドリュラエウムで野営中のフランク人たちを急襲した。
テュルクの騎兵たちは欧州騎士たちの周囲を疾風のように馳せ巡りながら嵐のように矢を浴びせた。中央ユーラシアの遊牧戦士たちが何千年にもわたって磨きぬいてきた「騎射」の戦技である。
ところが信じがたいことに、この戦術はフランク人たちに対して全く効を奏さなかった。彼らは全身を分厚い金属の甲冑で多い、馬にも鎧を被せている。騎士たちはほとんど無傷だった。それはまるで人間の要塞だった。

夕暮れにクルジュ・アルスラーンは兵を退いた。彼はニカイアを諦め、アナトリア西部の支配を断念し、高原の奥深く姿を消した。
ルーム・セルジューク朝はアナトリア内陸のイコニウムに都を遷す。クルジュ・アルスラーンはこれよりのち、二度とニカイアの町を目にすることも、エーゲ海の岸辺に馬を進めることもなかった。


真紅の征路

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(フランク人の進路)

フランク人たちがアナトリアを東進していた頃、中東情勢は混沌としていた。
先年、大セルジューク朝のマリク・シャーが没して以来、西南アジアは四分五裂の状況にある。
シリア北部を抑える「シリア・セルジューク朝」では、セルジューク家の二人の兄弟「ドゥカーク」と「リドワーン」が王位をめぐって延々と不毛な争いを続けていた。
この二人に挟まれつつ、シリア最北端の大都市アンティオキアを領主「ヤーギ・スィヤーン」が押さえる。
南のファーティマ朝ではすでにカリフの権威が衰え、「アル・アフダル」なる宰相が実権を握ってセルジューク朝に奪われたシリアの奪還を目論む。
イラーク地方ではセルジューク家のアターベク(傅役)、「ケル・ボガ」が実権を握り、北部のモスルで「モスル・アターベク朝」といわれる独立政権を築いていた。
彼らは全員揃って同じぐらい先が見えず、同じぐらい無能だった。

遠くイラン高原ではアルプ・アルスラーンの血を引く「ベルキヤルク」や「ムハンマド・タパル」、そしてあの「アフマド・サンジャル」がしのぎを削っていたが、遠すぎるのでフランク人の襲来に対して目立った反応は見せていない。
いちおうムハンマド・タパルはシリアに援軍を送ろうとしたのだが、その指揮官が途中でイスマーイール派の刺客に暗殺されたことは既述の通り。
なお、バグダードにはまだアッバース朝のカリフが存在するが、彼には何の実権も影響力も残っていない。

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(ボードゥワンのエデッサ入城)

第一次十字軍は諸侯の寄合所帯で明確な指揮官がいない。
元より一癖も二癖もある欧州諸侯に協調性など期待できない。アナトリアを抜ける頃には、早速隊列を離れる者が現われた。

北フランスから来たブーローニュ伯の三男、ボードゥワン・ド・ブーローニュはシリアに入る前に東の奥地に直進し、ユーフラテス川上流のエデッサに向かった。
この地方はその頃、東方キリスト教の一派、アルメニア正教を奉じるアルメニア人たちの支配下にあった。
エデッサの領主は「トロス」という老人で、名目上ビザンツ皇帝に服属しつつ、長年セルジューク一族の圧迫を受けていた。というわけで、トロスは同じキリスト教を奉じるフランク人の接近を知ると、狂喜して支援を要請したのだ。

ボードゥワンは老トロスの養子に迎えられ、この地の仕来りに従って縁組の儀式を行った。衆人環視のなか、上半身裸になって養父の服の下に潜り込み、肌と肌をこすり合わせる。次には同じく養母と肌をこすり合わせる。

そして数日後、ボードゥワンは住民を煽ってトロス夫妻を虐殺させた。
養子なのだから当然、エデッサの次の領主はボードゥワンである。1098年4月、ブーローニュのボードゥワンは十字軍諸侯のなかでいち早く東方に一国を建てた。世にいう「エデッサ伯国」である。


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(アンティオキア包囲戦)

フランク本隊は1097年10月にシリアに入り、アンティオキアを包囲した。
紀元前300年にセレウコス朝によって建設されたアンティオキアは、この時までに1400年の歴史を経た古都で、ローマ時代から一貫してシリアを代表する大都市だった。

領主ヤーギ・スィヤーンは半年以上にわたって異教徒たちの攻撃に耐えたが、まともな援軍はついぞ現れなかった。
最初に救援に来たセルジューク家のドゥカークはアンティオキアに辿りつく前に恐怖に駆られて撤退した。
次にやって来たリドワーンはフランク軍と接触した途端に潰走した。
最後にモスルのケル・ボガは三万もの兵士を率いて威風堂々と居城を出陣したが、アンティオキアを取り囲むフランク人の大軍に恐れをなし、方向違いのエデッサを三週間も囲んで時間を浪費した。
そしてケル・ボガがたどり着く前に、1098年6月3日に内部の裏切りによってアンティオキアは陥落した。フランク人たちはムスリム住民を虐殺し、街路は血の川となった。

ようやく姿を現したケル・ボガは遅ればせながらアンティオキアを占領するフランク軍を包囲した。
飢えに苦しむフランク軍のなかで、一人の農民が夢のお告げを受けた。

「聖ペトロ教会の地下を掘るだよ! キリスト様を刺した聖槍が埋まってるだよ!」

半信半疑で人々がお告げの場所を掘ると、果たして古錆びた槍が発見された。
多分事前に誰かがぼろ槍をそこに埋めておいたのだろう。とはいえこれでフランク人の士気は見事に回復し、たちまち城外に打って出る。町を取り囲むケル・ボガの軍は訳も分からぬうちに全面敗走を開始し、地平の彼方へ消えていった。

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ここでフランク諸侯は重大な決断を下す。ビザンツ皇帝、アレクシオスへの臣従の誓いを破棄したのである。

「我らは占領した土地を皇帝に献上すると誓言した。しかし皇帝は飢えと異教徒の攻撃に苦しむ我らに何の助けも与えなかった。かような者を主君と仰ぐことはできん」

ロベルト・グイスカルドの息子、ボヘモンドが不敵に笑いながら言い放った。

「貴公らは聖都エルサレムを目指されよ。吾輩はこのアンティオキアの守りを固めて裏切者の皇帝に備えようほどにな……」

有力な指導者のひとり、トゥールーズ伯レイモンがボヘモンドの野心を見抜いて激しく反発する。冬が迫り、飢えと疫病が蔓延する。
ムスリムたちはフランク人が飢餓に駆られて敵兵の死体を貪ったと噂した。そしてフランク人はそれを誇った。

「これは野獣どもの放牧場なのか、それともわが家、わが故郷なのか、私にはわからぬ」
(マアッラの無名の詩人)

「マアッラで、われらが同志たちはおとなの異教徒を鍋に入れて煮た上に、子どもたちを串焼きにしてむさぼりくらった」
(カーンのラウール)

「わが軍は殺したトルコ人やサラセン人ばかりでなく、犬も食べることをはばからなかった」
(エクスのアルベール)



1099年1月、十字軍は分裂した。
トゥールーズ伯レイモンはブーローニュ伯の次男ゴドフロワ・ド・ブイヨン(エデッサを占領したボードゥワンの兄)とともに多数派を率いて南へ出発した。征戦に飽いた者たちはボヘモンドとともにこの地に留まり、アンティオキア公国を建設した。

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(初代アンティオキア公ボヘモンド)


聖都陥落

1097年4月、ファーティマ朝の首都アル・カーヒラ(カイロ)をビザンツ皇帝アレクシオス・コムネノスの使者が訪れ、宰相アル・アフダルに一報をもたらした。

「友よ。余はセルジュークに攻撃を加えるため西方に支援を求め、フランク人の援軍を得た」

中央アジアから興り、シリア・アナトリアを制圧した大セルジューク朝はファーティマ朝にとってもビザンツ帝国にとっても宿敵である。同じ敵を抱える同士として、数十年にわたってビザンツ帝国とファーティマ朝は友好関係にあった。

アル・アフダルは皇帝の報せに大いに喜び、アンティオキアを包囲するフランク軍に使者を送って共闘を申し入れた。
北シリアはフランク軍、すなわちビザンツ皇帝に。そしてダマスクス以南パレスティナまでの南シリアは自分のものに。

皇帝アレクシオスの悲願はアナトリアの回復である。既にビザンツ=フランク軍はクルジュ・アルスラーンを敗走させ、アンティオキアをも手中にしようとしている。
二百年前に「サラセン人の蒼ざめた死」といわれたニケフォロス二世フォカス以来の快挙であろう。ビザンツ側は十分に果実を得たのだから、決して不当な取引ではないはずだ。


使者は非礼にも追い返された。アル・アフダルは愕然とした。

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(南シリア地方)

事情が呑み込めないまま、とにかくにもアル・アフダルは動き出す。大軍を率いてエジプトを出陣し、セルジューク一族が押さえる南シリアの制圧を開始する。そして7月にはエルサレムを占領する。
ムスリムたちが「アル・クドゥス」と呼ぶこの町は、預言者ムハンマドが天使ジブリールに導かれて天に昇ったとされる聖地である。
宮廷詩人たちは聖地を「異端」スンナ派から奪還した宰相を褒め称えた。
だが、年が明けて1099年1月、フランク人は突如南進を開始した。


「友よ、深く謝罪する。いまやフランク人は自分たち自身の望みのために行動しており、余には彼らを抑えることはできぬ。彼らはアンティオキアの返還を拒否し、自分たちの国を作ろうとしている。彼らはエルサレムを目指している」

驚き、怒り、恐怖。
皇帝アレクシオスからの追報を受けて、アル・アフダルは言葉を失った。

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(エルサレムの攻撃)

「われらは総勢でエルサレムへ行く! 戦闘隊形を組み、槍を立ててな!」

フランク人は宣戦布告し、1099年5月19日にファーティマ朝の領域に侵入した。
人肉を食らう凶悪な異教徒の接近を受けて、村々の住民のほとんどは逃げ散り、都市は次々に無血開城した。フランク人は文字通り無人の野を進撃した。1099年6月7日、ついに彼らはエルサレムの城壁を望んだ。

エルサレムの守備隊は開戦前にキリスト教徒の住民を城外に追放し、井戸に毒を投げ込み、大量の食糧を蓄えて異教徒たちを待ち構えていた。
ところが隊列を敷いたフランク人たちは声を限りに聖歌を歌い上げ、梯子も持たずに城壁に突進して来た。
守備隊は呆れ果て、雨あられと矢を浴びせた。フランク人は意気消沈して退いた。

だが、フランク人はすぐに作戦を変えた。どうやら神は信徒が手抜きをすることをお許しではないようだった。
攻城やぐらが組みあげられ、連日激しい戦闘が展開された。だが、エルサレムは頑として落ちなかった。

フランク人はまたも意気消沈した。神は一筋縄ではいかない。
彼らは再び最初の作戦を試みた。断食し、聖歌を歌い、無帽裸足で項垂れながら一週間にわたって城壁のまわりを巡り続けたのだ。最初は嘲笑していた守備隊も、次第に不気味に感じてきた。
その最終日、とある兵士が城壁の綻びを発見した。

主は欲し給う!

翌7月15日の朝、フランク人たちは猛攻を再開した。守備隊は矢だの石だのギリシアの火だの、ありったけの手を尽くして敵兵の侵入を防ごうとしたが、謎の狂熱に駆られたフランク人たちは比喩ではなしに死を恐れず、終日攻撃の手を緩めなかった。
そして夕刻。
手薄になった城壁の一角についにフランク軍がよじ登り、城門の跳ね橋を落とす。
ゴドフロワ・ド・ブイヨン率いる一隊がヘロデ門から市内に乱入し、たちまち言語を絶する大虐殺が始まった。

フランク人は餓狼と化した。
エルサレム市内の住民たちは老いも若きも情け容赦なく殺された。鮮血は街路を浸し、騎士たちのくるぶしまで達した。
夜を徹して殺戮が続けられ、名高いモスクの数々が破壊され、騎士たちは血に塗れて聖墳墓教会で礼拝した。

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(ヘロデ門)


アル・アフダルはエジプトから援軍を率いて北進中に、アスカロンでエルサレム陥落を知った。急報とほとんど同時にフランク軍が出現した。ファーティマ朝の大軍はフランク騎士たちに鎧袖一触で破られた。


教皇ウルバヌス二世は遠くローマにあって、聖都陥落の二週間後に、十字軍遠征の帰結を知ることなくこの世を去った。


目的を達成した諸侯の多くは帰心に駆られた。
事後の処理をめぐる話し合いの末、ゴドフロワ・ド・ブイヨンが聖都エルサレム守護の任を負うこととなり、「聖墓の守護者」という称をとった。
騎士たちの大半は帰国するが、若干の欧州人たちがレバントに残存した。

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(エルサレム王国の初代君主、ゴドフロワ・ド・ブイヨン)

ボードゥワンの築いたエデッサ伯国、ボヘモンドの築いたアンティオキア公国、程なくトゥールーズ伯レイモンの築くトリポリ伯国、そしてゴドフロワ・ド・ブイヨンを初代君主とするエルサレム王国

当時は「ウトラメール」(海の彼方)、後には「十字軍国家」と呼ばれる四つの植民国家が地中海東岸に誕生し、これより二世紀にわたる波乱の歴史を開始する。

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(ウトラメール)

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(最近の研究成果を反映し、一般向けに読みやすく興味深い本)


メインキャラクター目次@イスラーム世界の歴史(半分ネタ)

「イスラーム世界の歴史」の各章ごとにメインキャラクターを一人選出して、キャッチコピーと略伝並べて目次化します。
気になる人物がどこで登場したかがわかります(?)


(キャッチコピー考えるのが好きなだけである)
(こういう余計な記事をつくると後で手間が増える)



イスラーム世界の歴史1 夜明け前

「象の将軍 アブラハ」
エチオピアのアクスム王国という世界史のなかでもかなりマニアックな国の将軍。
ムハンマド誕生直前にイエメンからヒジャーズまで攻め上って来たらしい。
本当に実在したのかどうか、何年に生まれて何年に死んだのかもよくわからん人。
ネット上だと英語版ウィキペディアぐらいしかまとまった情報がない人。
いかんせん、この章では他に選択肢がなさすぎる。


イスラーム世界の歴史2 時代の使徒ムハンマド

「時代の使徒 ムハンマド」
まんま。
ちなみに「時代の使徒」という意味不明なタイトルは、「過去の数多の時代の諸使徒の最後に、いまこの時代に現われた使徒」なる表現を無意味に短縮したもの。
かっこよくしたかった。


イスラーム世界の歴史3 アラビア半島の支配者

「神の敵 アブー・スフヤーン」
ここも選択肢があまりない。
マディーナ時代のムハンマドに対抗してマッカをまとめ上げた有徳者同盟の盟主。
でも最後にはイスラームに改宗してムハンマドに従う。本心からなのかどうかは知らない。
ちなみにこんな経歴の人物でありながら、実はウマイヤ朝の初代ムアーウィヤの実父である。
ウマイヤ朝の闇は深い。


イスラーム世界の歴史4 代理人の時代

「最初の代行者 アブー・バクル」
ここはどう考えてもこの人しかいない。この人はどう考えてもここに入れるしかない。
地味だけどすごく重要な役割を果たした人。キリスト教でいえばパウロみたいなもん。
このときここにアブー・バクルがいなければ、イスラーム世界は生まれなかったかもしれない。


イスラーム世界の歴史5 大征服の序章

「信仰の獅子 ウマル・イブン・アルハッターブ」
二人目の正統カリフ。ここもどう考えてもこの人しかいない。神の剣も惜しいけれどね。
「信仰の獅子」というのはむかしどっかで見かけた(ような気がする)ウマルのあだ名。
ちなみにこの人、「イスラームのパウロ」と呼ばれることもある。
あれ、するとアブー・バクルはペテロか?


イスラーム世界の歴史6 内乱と分裂

「善き人の血が流れる ウスマーン・イブン・アッファーン」
消化試合になってきた。
ウスマーン。支配者としての評価は低いけど、個人としてはとても善良な人だった印象がある。


イスラーム世界の歴史7 シーア派誕生

「開扉の主 アリー・イブン・アビー・ターリブ」
消化試合続き。
「開扉の主」というのは奇をてらっただけで深い意味はない。
コーランに「開扉の章」というのがあるのと、彼の治世がいろんな意味で次の時代の幕開けかなと。


イスラーム世界の歴史8 第二次内乱

「冷酷非情 ハッジャージュ・イブン・ユースフ」
芸も何もないことは認める。
第二次内乱を力づくで叩き潰した人。
クーファ大虐殺の伝説は絶対大幅に誇張されているんだろうけど、ドラマチックすぎるのでそのまま記事にした。


イスラーム世界の歴史9 諸国征服の世紀

「極西の征服者 ターリク・イブン・ズィヤード」
ジブラルタルの語源として有名で、実は某中学英語教科書(プログ○ス)の長文問題にチラッと顔まで出している割に、実質活躍期間はほとんど一瞬。
ちなみにスペインのナショナリズム的傾向の強い研究者の中には、ターリクは実はゲルマン系の人物で、アラブのアンダルス征服なんて後世の捏造だと主張する人もいるとか。


イスラーム世界の歴史10 黒旗の革命軍

「裁きの日の先触れ アブー・ムスリム」
イスラーム世界前半期の歴史を通じて、いちばん魅力的な人物の一人だと思う。
素性不明で煽動の天才で、アッバース革命を演出してあっけなく粛清された人。
稀代の男よ。何処より来たり、何処へと去りゆく・・・・・・。


イスラーム世界の歴史11 神の給うた都

「鏡の王 アブー・ジャアファル・アルマンスール」
世界の歴史上屈指の巨大帝国、アッバース朝の実質的な建国者。
というわけで、いまの百倍ぐらい有名になってもいいだろうと思っている。
名前の響きも好き。声に出してみよう、あぶー・じゃあふぁる・あるまんすーる。
この記事書いた直後に本屋で、おそらく日本史上初であろうマンスールの伝記が売っているのを発見してびっくりした。


イスラーム世界の歴史12 ザンジュとグラーム

「千夜一夜物語のカリフ ハールーン・アッラシード」
なんでこんなのが名君扱いされてるんだと、昔から疑問を禁じ得ない。
なお、彼について論じる場合、「ドラ○もん」の某映画への言及は必須事項。


イスラーム世界の歴史13 東西の暗雲

「来たるべき救済の父 ジャアファル・アッサーディク」
この章については候補者がいっぱいいるんだけど、西暦九世紀が「シーア派の時代」と呼ばれることに鑑みて、キーパーソンはこの人かなと思う。


イスラーム世界の歴史14 アンダルスの栄華

「畏るべき侍従 ムハンマド・イブン・アビー・アーミル」
「クライシュの鷹」も捨てがたいけど、個人的にこの人の方に謎の磁力を感じる。
教養、武力、権謀、美貌までありとあらゆる武器を駆使して野望の極みにまで上り詰めた男。
こんなバイタリティあふれる人物はそうそういない。治世の能臣、乱世の姦雄とはこのことか。


イスラーム世界の歴史15 ナバス・デ・トロサへの道

「忘れられた覇王 ユースフ・イブン・ターシュフィーン」
レコンキスタといえばエル・シードが定番だけど、イスラーム側の代表選手としてはこの人を推したい。
サハラ砂漠からイベリアまでを席捲したわりに知名度が振るわなすぎる。
映画エル・シドにちゃんと登場してるんだけどね。なぜか最後に馬に踏みつぶされて死ぬけど。


イスラーム世界の歴史16 ガズナの征服王

「世界史の心臓を抑える男 ガズナのマフムード」
考えてもみて欲しい。
ガズナのマフムードといえば西暦二千年間のちょうど中間時点に、ユーラシア大陸のちょうど真ん中を支配した人物。
まさに世界史の主役、というのは過言か。
イスラーム世界ではのちのちまで史上最も偉大な征服者の一人として、アレクサンドロス大王並みの扱いを受けていたっぽい。


イスラーム世界の歴史17 大セルジューク朝の勃興

「獅子的英雄 アルプ・アルスラーン」
昭和の頃に翻訳された歴史書で「アルプ・アルスラーン」を「獅子的英雄」と訳していてウケた。直訳すぎる。
実際のところ彼の業績ってマラズギルトに始まりマラズギルトに終わるんだけど、この戦いがあったからこそ今のトルコ共和国があるわけで、影響は大きい。
この時代までアナトリア半島は何の疑問の余地もなく東方正教世界の一部だったんだから。


イスラーム世界の歴史18 暗殺者の王国

「チンギス・ハーンの先駆者 耶律大石」
ハサン・サッバーフを出せよ、という感もあるのだが。
耶律大石、これまで知名度的にも評価的にも過小もいいところだろうと思う。どんだけ劇的なことやっているんだよと言いたい。
西遼ことカラ・キタイ。漢文史料の世界から見ても、ペルシア語史料の世界から見ても、謎に満ちた王国である。
でもって彼の大西走。これは紛れもなく、一世紀後のチンギスの露払いともいうべき事業じゃないですかと。
西遼成立、なかんずくカトワーン平原の戦い以降、東と西は俄然接近しはじめている。

イスラーム世界の歴史18 暗殺者の王国

ファーティマ朝の刺客

テュルク人の西進とほぼ時を同じくして、北アフリカにファーティマ朝という大帝国が成立した。

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(ファーティマ朝の最大版図)

969年にエジプトを制圧したファーティマ朝は、ナイル河畔の旧都フスタートを覆うように、帝都「アル・カーヒラ(カイロ)」の建設を開始する。

アジアとアフリカ、地中海とインド洋の結節点に位置するアル・カーヒラは、程なくイスラーム世界の経済的中心となった。
ファーティマ朝は二百万ディナールを費やして壮麗な宮殿を建設し、数万のモスクや商店、隊商宿や浴場を整備した。

この国の支配者たちは自らマフディー(救世主)と称してイスラーム世界の主権を主張したが、異教徒に対しては総じて寛大だった。
キリスト教徒やユダヤ教徒もこの時代のエジプトではおおむね安んじて生活し、幸運に恵まれれば高位高官に上ることもできた。
宮殿には常に一万二千の召使と二千の衛兵が控えていた。カリフは二万の集合住宅と二万の店舗を商人たちに貸し出した。市場では「ムフタシブ」と呼ばれる役人たちが、不公正な商取引や奴隷の虐待がないか絶えず目を光らせていた。

アル・カーヒラには地上のあらゆる民族が集い、人口は五十万を超えた。
下エジプトの広大な緑野では亜麻や砂糖黍が盛んに栽培された。都市の工人たちは精巧なガラス器や様々な細工物を手掛けた。
「カーリミー商人」と呼ばれる交易商たちがインド洋を往来し、中国の陶器やアフリカの象牙をもたらした。


特筆すべきは988年に設立されたアズハル学院である。
アズハル学院はファーティマ朝の最高学府であり、国教というべきイスマーイール派神学と宗教法学の研究拠点だった。
有為な学生たちはイスラーム世界各地にダーイー(教宣員)として派遣され、イスマーイール派の宣教とスンナ派諸国の攪乱を画策した。

そんなダーイーの一人が、1078年にイラン高原北部から「ハサン・サッバーフ」という名の若者を連れてきた。


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(ハサン・サッバーフ)

ハサン・サッバーフはシーア派の聖地、クムで生まれた。
少年時代から天才の名を欲しい侭にし、長じてはレイの町で諸学の研鑽に励んだ。しかし知れば知るほど世界は謎に満ち、青年は苦悩した。
そのさなか、彼に天啓を与えたのがファーティマ朝から派遣されたダーイーの言葉だった。

「この世の真理を知りたければミスル(エジプト)へ行くがよい。彼処にはマフディー(救世主)が君臨したまい、真の教えがあまねく広まっている・・・・・・」

アズハル学院の門を叩いたハサン・サッバーフは、わずか数年のうちにイスマーイール派神学の奥義を究め、並み居る教師たちの度肝を抜いた。

やがて彼自身もダーイーとなって故国に帰る。その頃、イラン高原では大セルジューク朝が第3代スルタン、マリク・シャーの下で繁栄を謳歌し、稀代の名宰相ニザーム・アルムルクが数々の国政改革を推進していた。
しかしながらシーア派の人々にとって、この大政治家こそはブワイフ朝を滅亡させ、彼らの信仰を抑圧する怨敵に他ならなかった。
ハサン・サッバーフは宰相ニザーム・アルムルクを抹殺し、大セルジューク朝を打倒すべく活動を開始した。


宰相ニザーム・アルムルク

1072年、大セルジューク朝の第二代スルタン、アルプ・アルスラーンの死を受けて、王子マリク・シャーが即位した。
新スルタンはまだ17歳。実権はペルシア人の宰相にしてアターベク(傅役)のニザーム・アルムルクが掌握するところとなった。

マリク・シャーはニザーム・アルムルクを「師父」と呼び、絶大な信頼を置いた。
マリク・シャーは狩りを偏愛し、朝から夜まで野山を駆け巡っていた。だから、帝国はすべて宰相の掌握するところとなった。

といってもニザーム・アルムルクには、そこらの陰謀家のように主君に取って代わろうという野心はない。
彼が考えていたのはもっと大それたこと。
遊牧テュルク人の征服王朝たる大セルジューク朝を、定住イラン人の世界を統治するに相応しい官僚制国家に改造してしまおうということだった。


遊牧国家の名残を色濃く残す大セルジューク朝に首都はない。スルタンと宮廷は絶えず諸方を巡り歩き、その時々でスルタンが所在する場所が「玉座の脚」と呼称される。

宰相はマリク・シャーに説いてブワイフ朝の旧首都イスファハーンを都と定めさせた。
ここはイラン高原のほぼ中央にあたり、街道が四通八達する。
スルタンがイスファハーン近郊のオアシスでウサギやライオンを追い回しているあいだに、宰相は金曜モスクを修復し、天文台を築き、キャラバンサライ(隊商宿)を整備し、「ニザーミーヤ学院」も建設した。

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(イスファハーンの金曜モスク)

天文台では当時世界最高の天文学者のひとり、オマル・ハイヤームが「ジャラーリー暦」という暦を制定した。この暦は5000年に1日の誤差しか生じず、今日のグレゴリウス暦以上の正確性を誇っている。


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(オマル・ハイヤームによる三次方程式の解法)


ルバイヤート―中世ペルシアで生まれた四行詩集

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(オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」はペルシア文学史を代表する抒情詩集)


宰相は広範な国政改革も断行した。

軍事においては奴隷軍人マムルークによる親衛軍を強化し、旧来のトゥルクマーンを政権から遠ざけて、できる限り西方のフロンティアへと厄介払いした。
彼は自著の『シャーサト・ナーメ(統治の書)』で、トゥルクマーンをマムルーク同様に扱うべきことを主張している。
定住世界の帝国へと脱皮しつつある大セルジューク朝にとって、とりわけニザーム・アルムルクをはじめとする宮廷官僚たちにとって、王家の同族たるトゥルクマーンは扱いづらく危険な集団だったのだ。

政治においてはイクター制をさらに洗練させ、徴税機構を強化した。
軍人たちが多少なりとも農民を愛護するように、ある程度までイクターの永年保有や世襲も認めた。
また町々で跳梁するアイヤール(任侠の徒)を取締り、マムルークによる警察組織を整備して治安を維持した。

こうしてニザーム・アルムルクが八面六臂の活躍を続けるさなか、ハサン・サッバーフがイスファハーンの宮廷に姿を現した。

Malik Shah
(狩猟狂いのマリク・シャー)


暗殺教団、誕生

伝説によれば、ハサン・サッバーフは有能で謙虚な若者としてイスファハーンの宮廷に伺候し、辞を低うして宰相に拝謁し、書記の末席を与えられんことを乞うたという。
無論、世俗の立身出世のためではない。大セルジューク朝の懐深く入り込み、内から帝国を倒壊させることこそがハサンの目的だった。

その頃、大セルジューク朝は有能な官吏候補生を喉から手が出るほどに欲しがっていた。天才青年はたちまち官房で頭角を表わし、宰相の信任を得てスルタンの御前会議にも席を連ねるようになった。

ある日、マリク・シャーが宰相ニザーム・アルムルクに国勢調査を命じた。ニザーム・アルムルクは三年の猶予を乞うた。ハサン・サッバーフが謙虚さの仮面を外したのはこの時だったという。

「陛下、私であれば半年で調査結果をご報告しましょう」

スルタンと宰相は驚いた。

「ハサンよ、戯れを申すな!」

非礼にも宰相の言葉を無視してハサンは言葉を継いだ。

「なにとぞわたくしめにご下命を。期限に間に合わなければ如何様な処罰も謹んで御受けしましょう」

サマルカンド年代記―『ルバイヤート』秘本を求めて (ちくま学芸文庫)

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(第一部でオマル・ハイヤームを中心に宰相ニザームとハサン・サッバーフの角逐を描く)


書記官ハサン・サッバーフの事務処理能力は本物だった。彼は言葉に違わず、本当に半年で国勢調査の結果をまとめ上げた。
ひそかに彼の報告書を検分した宰相は驚愕した。驚くべき才能である。これでは目下権勢を極める自分も追い落とされてしまう。
珍しく狼狽したニザーム・アルムルクは、隙を見てハサンの書類を滅茶苦茶に並べ替えた。


マリク・シャーの前で調査報告を読み上げようとしたハサンは愕然とした。
ハサンは次々に紙束をめくる。会議の間には不穏な沈黙が立ち込め、高官たちは若い書記官に苛立ちの視線を向けた。

宰相ニザーム・アルムルクは呆れ果てたように立ち上がり、スルタンに言上した。

「大言壮語を吐いたハサンめは、所詮口先だけの無能者でしたな。かような愚か者は宮廷より放逐されよ」

「師父の申す通りだ! 失せろハサン、二度と余の前に顔を見せるでない!」

ハサン・サッバーフの計画はあえなく失敗した。彼はいっそうイザーム・アルムルクへの憎悪を滾らせつつ、北へ去った。


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(アラムートの山城)

生まれ故郷の北部イランに戻ったハサンは、難攻不落を謳われるエルブルーズ山脈中の要害、アラムート城に潜入した。
名前と姿を偽って城に入り込んだハサンは城内の人々を次々に洗脳し、セルジューク朝から派遣された代官を追放して城を乗っ取ることに成功する。

ファーティマ朝の最高学府で奥義を究めたハサン・サッバーフは、天才的な煽動の才を発揮して周囲の人間たちを次々にイスマーイール派に改宗させた。
信徒たちはハサンの説教に陶酔し、彼の指令に絶対的な服従を誓った。
伝説では、ハサンはハシーシュ(大麻)を用いて信徒たちを洗脳していたともいう。アサッシン(暗殺者)の語源である。

「汝ら聞け、この世を乱す悪魔の化身はニザーム・アルムルク。あやつを殺した者は栄誉ある殉教者として天国へ迎え入れられよう!」

1092年、アラムートの刺客はイスファハーンに潜入し、集団礼拝に参加するニザーム・アルムルクを発見した。
礼拝が終わった直後、おもむろに宰相に近づいた刺客は、何万人もの人々の只中で突然白刃をニザーム・アルムルクの脇腹深く差し込んだ。
中央アジアから地中海に至る巨大帝国の事実上の最高権力者は、一声呻いて床に倒れ伏した。

見よ、不正なる者に正義の裁きが下るのを! アラムートの怒りを思い知るがよい!

かくて史上に名高い「イスマーイール派暗殺教団」が誕生した。

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(ニザーム・アルムルクの暗殺)


東方から来る者

ニザーム・アルムルクの死から一ヶ月もしないうちに、スルタンのマリク・シャーも38歳の若さで急死した。
スルタンの座を巡って激しい内乱が開始され、大セルジューク朝は急速に混乱した。
セルジューク一族は国土を争奪し、イラーク地方やケルマーン地方、シリアやアナトリアで次々に独立政権を確立した。

アラムートの刺客たちは次々に敵を屠る。イラン高原北部の山々にはハサン・サッバーフを盟主とする事実上の宗教国家が形成された。
同時期、地中海の彼方から「フランク人」と呼ばれる異教徒たちが大挙して侵攻してきた。セルジューク一族はこの危機に一致団結して対抗することもできない。
マリク・シャーの子のムハンマド・タパルがフランク人に備えるべくシリアに派遣した将軍たちもアラムートの刺客に殺害される始末だった。

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(分裂セルジューク諸王朝時代につくられた真鍮の水差し)

そんな混乱をひとまず鎮めることに成功したのは、ホラーサーン地方を拠点とするアフマド・サンジャルだった。
マリク・シャーの五男であり、内乱のさなかに北から侵入してきたカラ・ハン朝を撃退し、アフガニスタンの山岳地帯で存続していたガズナ朝に攻め込んで都ガズナを占領し、1119年に甥を破ってイラーク地方を掌握し、その後再びカラ・ハン朝を討ってサマルカンドを手中にする。

セルジューク一族諸領のあらかたを再び掌握したサンジャルを、人々は「スルタンたちのスルタン」と呼んで恐れ憚った。彼はまさしく「中興の英主」だった。
サンジャルは大セルジューク朝を蘇生させるために東奔西走したが、不幸にしてその頃、はるか東方の別世界で彼のまったく関知しない大事変が始まっていた。

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(トルクメニスタンの紙幣に描かれたサンジャル)

ユーラシア大陸の東方――

そこではかの大唐帝国が西暦10世紀初頭についに崩壊し、「五代十国」と呼ばれる大乱世がはじまった。
華北には五つの王朝、華中華南には十の小国が興亡し、天下は麻のごとく乱れた。
なお、華北五王朝の大半は「沙陀」とよばれるテュルク系の半遊牧民による軍閥政権であった。ウイグル可汗国の解体後、テュルク族は西へ向かったばかりでなく、南や東にも離散したのだ。

960年、華北後周国の近衛軍団司令官、「趙匡胤(ちょうきょういん)」がクーデターを起こし、「宋王朝」を建てた。
宋は黄河中流の「東京開封府(とうけいかいほうふ)」を都とし、やがて南方諸国をも平定して、中華世界をおおむね再統合することに成功した。

しかし同時期、宋王朝と隣り合うようにして内蒙草原にモンゴル系遊牧民、「契丹(きったん)族」が「イェケ・キタイ・オルン」、または「遼(りょう)」と呼ばれる大国を形成しつつあった。

遼と宋は数次の交戦を経て互いの打倒を断念して1004年に和議を締結し、緊張を孕んだ共存関係に入った。
以後、およそ一世紀。
遼の東方、のちに「満洲」と呼ばれることになる酷寒の森林地帯において、契丹族に勝るとも劣らぬ勇猛な狩猟民族たちが台頭をはじめた。

女真、一を以て十に当たり、十を以て百に当たり、百を以て千に当たり、千を以て万に当たる。
女真は万に満たず。女真、万に満つれば敵すべからず。



1115年1月1日。
鬱蒼たる針葉樹林の奥深くで、凍り付いたアルチュカ川のほとりで、女真(ジュルチェン)と呼ばれる東北の民は「完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)」という名の英雄を万民の王として推戴した。
青空に鷹が飛び立つように女真は出陣した。百年を超える平和に慣れた契丹族は敗走を重ねた。

アイシン・グルン(黄金の国)!

完顔阿骨打は己が民たちの国の名前を定めた。
永遠に錆びることも褪せることもなく輝き続ける金のごとき帝国、「金王朝」と。

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(耶律大石の西走)


1125年、遼王朝滅亡。

だが、このとき金軍の包囲を破って西北へ疾走する一隊があった。
遼の皇族、耶律大石(ヤルート・タイシ、やりつたいせき)に率いられた一隊は金軍の激しい追撃を受けながら砂漠と草原の境を西へ西へと走り続け、ついに追撃を振り切った。

斜陽万里の彼方、いまなお遼の威徳を慕う草原諸部族の支援を受けて軍を拡大しつつ、耶律大石はアルタイ山脈を越えて、後にジュンガリアと呼ばれる地方に足を踏み入れた。

1132年に「天山ウイグル王国」を服属させ、イリの渓谷を抜け、セミレチエの豊かな流れを渡って、東西に分裂していたカラ・ハン朝を従えた。

「我らは今や新天地を手にした。大遼国は諸君とともに健在なり! この地で兵を養い、時至らば東のかた故国を回復せん!」

耶律大石はここに「西遼(せいりょう)」と呼ばれる亡命国家を樹立する。
草原の民は耶律大石を「グル・カン(世界の王)」と尊称した。西方諸史料はこの国を「カラ・キタイ(黒い契丹)」として言及する。
東西文献の記録の狭間にあって西遼の歴史や文化には謎が多い。
漢語・契丹語・ウイグル語・ペルシア語が併用され、仏教・キリスト教・マニ教・イスラームが共存し、中国文化とイラン文化が混淆する不思議な国であったらしい。

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(耶律大石と彼を取り巻く人々を主題とする異色の歴史小説)



カトワーン平原の決戦

1137年、現在のタジキスタン北部のホジェンド付近で耶律大石は西カラ・ハン朝のマフムード2世を降伏させた。
マフムード2世はセルジューク朝のスルタン、サンジャルの甥である。

「なに、ヒターイーの軍が攻めてきただと?!」

甥から救援を嘆願されたサンジャルは驚いた。
中華世界とイスラーム世界は広大な砂漠と重畳たる山々に隔てられ、モンゴル帝国以前の時代においてはほとんど直接に顔を突き合わせる機会がなかった。
751年のタラス河畔の戦い以来、数世紀ぶりに「異世界からの侵入者」が出現したのである。

なにはともあれサンジャルはマー・ワラー・アンナフルに出陣し、1141年に7万余の兵を率いてサマルカンドに入城した。
このときサンジャルが動員できる最大限に近い兵力だっただろう。得体の知れない異教徒たちの出現を受けて、サンジャルは全力を結集して勝負に打って出たのだ。

耶律大石はセルジューク朝のホラズム総督から寝返ったアトスズの手引きを受け、中国軍およそ3万と、ほぼ同程度のカルルク騎兵を率いて現れた。

1141年9月9日、両軍はサマルカンド近郊で激突した。
戦いは長時間に及び、一進一退の攻防を繰り返したが、徐々にセルジューク軍が劣勢となる。
耶律大石は軍を三つに分けてセルジューク軍を三方から攻撃し、狭隘な涸れ谷に追い込んでいった。
退路を断たれたセルジューク軍は壊滅し、サンジャルは辛うじて戦場を脱出するも、彼の后を含む多くの貴人たちが捕虜となった。

この「カトワーン平原の戦い」によって、スルタン・サンジャルの威光は失墜した。
耶律大石は三か月間サマルカンドに滞在し、マー・ワラー・アンナフルの諸侯を臣従させた。
ホラズム総督アトスズはこの地方の世襲支配を認められ、「ホラズム・シャー朝」と呼ばれる政権を確立することになる。

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(野牛の乳を搾るトゥルクマーン)

1153年、トゥルクマーンの反乱を鎮圧するために出陣したサンジャルは、ホラーサーン地方のバルフで大敗して捕虜となった。
トゥルクマーンの首長たちは昼はサンジャルをスルタンとして玉座に座らせ、夜はサンジャルを捕虜として檻に閉じ込めていたぶった。
三年後にサンジャルは隙を見て脱出に成功するが、高齢に加えて幽閉生活によってその身体は深く蝕まれていた。
ほどない1157年5月に、セルジューク帝国の中興王は72歳でこの世を去った。


スルタン・サンジャルの死によってアルプ・アルスラーンの直系は断絶し、セルジューク諸王家の分裂は決定的となった。

ホラーサーン地方は将軍たちの内紛を経て、北のホラズム・シャー朝に併合された。
イラーク地方ではセルジューク一族の内紛が続き、諸王の後見役として実権を握ったアターベク(傅役)たちが各地で独立して地方政権を築いていった。


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(イスマーイール派暗殺教団の城塞群)


アラムートの山城から指令を下すハサン・サッバーフの後継者たちは健在である。


アフマド・サンジャルの軍勢がアラムートを囲んだとき、ハサンはサンジャルの陣営に刺客を潜入させ、床に毒塗りの短剣を突き立てさせた。

「サンジャルよ、そなたの運命は思いのままだ。我がひとたび心を決めれば、そなたは臥所で喉を切り裂かれ、苦悶のうちに死を迎えることになる」

枕元に残された書簡を目にしたサンジャルは総身が粟立つような恐怖を覚えて急遽撤兵した。


以来、暗殺教団は四方八方のあらゆる政敵たちに兇刃を揮いはじめた。
アッバース朝のカリフを二人も暗殺し、ファーティマ朝の影響からも自立を強め、エルブルーズ山脈からザグロス山脈、さらにレバノン地方にまで拠点を増やしていく。
ランバサール、ギルドクーフ、マイムン・ディズなど、イラン北部の山々には暗殺教団の城塞が次々に建設された。
教団の歴代の指導者はほとんどアラムートの本城を出ることなく、岩室のなかで沈黙と瞑想のうちに歳月を過ごした。
西南アジアの王侯たちは暗殺者の短剣と毒薬を怖れ、鎖帷子を身にまとって寝床に伏した。
シリアの人々は青年を麻薬と美女の幻影で惑わし、政敵の暗殺を命じる「山の老人」について噂した。

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(イスマーイール派暗殺教団を元ネタにしたゲーム)



そして西方から来る者

そんな情勢の中、西のアナトリア半島にはセルジューク一族の分家のひとつ、ルーム・セルジューク朝が比較的繁栄を保っている。
「ルーム」というのは東方諸語で「ローマ」のことである。ムスリムたちは長らくビザンツ帝国=東ローマ帝国の支配下にあったアナトリア地方を当時「ルーム」と呼んでいた。

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(ルーム・セルジューク朝の最大版図)

とはいえ、この国の歩みも決して平穏なものではない。
かつての大セルジューク朝の領土のなかでもっとも西方に位置するゆえに暗殺教団や西遼の脅威を受けることはなかったが、西には西の敵がいるのだ。


少し時代をさかのぼる。
アルプ・アルスラーンとスルタンの地位を争ったクトゥルミシュの遺児スライマーンはルーム総督に任じられ、マラズギルドの戦い以後に弱体化したビザンツ軍を蹴散らしながら西へ進撃し、1075年にエーゲ海に面するニカイアを奪った。
その後は一転してビザンツ帝国と講和し、アナトリアで自立を図る。
ところが同族のシリア・セルジューク朝に敗れ、スライマーンはあえなく敗死。
7歳の遺児、クルジュ・アルスラーンはイスファハーンに連行され、マリク・シャーのもとで人質とされることになった。


1092年。
大セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクが兇刃に倒れ、直後にマリク・シャーも急死する。これも暗殺であったかもしれない。
たちまち帝国は大混乱となった。その混乱に紛れてクルジュ・アルスラーンはイスファハーンを脱出し、アナトリアに舞い戻った。

父が築いた王国に戻った時、彼が見たのはこれまた混沌だった。
ニザーム・アルムルクの政策によってトゥルクマーンたちが続々とアナトリア半島に流れ込んだ結果、各地で一旗揚げようと欲する野心的な族長たちが縄張りをつくり、アナトリアの正統支配者であるべきルーム・セルジューク朝はアルメニア付近まで後退してしまっていたのだ。

少年は地団太を踏んで怒り狂った。自分の非力さが、浪費された歳月が、途轍もなく悔しかった。
亡き父の夢を受け継いでセルジューク家のもっとも西の王国を再建するために、彼は旧臣たちを集めて国土再征服を開始した。

少年には確かな軍事的才能があった。
クルジュ・アルスラーンは一気にエーゲ海まで進撃し、ニカイアを奪い返した。

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(ニカイアの城門)

トゥルクマーンに征服されたニカイアの住民の大半はキリスト教を奉じるギリシア人である。彼らは祈りの際に、いまも心の中で忠誠を誓うもうひとりの君主の名を呟く。
馬で三日の距離に位置する永遠の都コンスタンティノポリス。
そこに君臨するビザンツ帝国の君主。黄金で縁取りした青の長衣をまとう小柄な皇帝、「アレクシオス・コムネノス」。

アレクシオスはマラズギルトの戦い以後に衰退した帝国を建て直した中興の英主で、トゥルクマーンに奪われたアナトリアの奪還を今も諦めていなかった。
皇帝は風の吹き抜ける宮殿を歩み、回廊にたたずんでマルマラ海の彼方を見つめた。灰色の瞳がニカイアの玉座に座る16歳の少年を幻視する。

「クルジュ・アルスラーンよ。一千年の歳月を閲してきた我が帝国を侮ることは許さぬ」


1096年の夏の終わり。

ニカイアの守備兵はアスカニオス湖の青い湖面の向こうに陽炎が揺らめくのを見た。
程なく彼は気づく。陽炎に見えたものは、実は途方もない数の大群衆だった。
世にいう「第一次十字軍」のはじまりである。


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イスラームの「本質」について

最近、某掲示板のどこかのスレで、件の「いわゆるイスラム国」に関連して、「キリスト教や仏教の本質はなんとなくわかるけど、イスラームの本質っていうのが何なのか、いまいちぴんと来ない」という書き込みがあった。

なるほど。

文系コースに乗っかっていれば、高校の授業でいちおうイスラームの概要について説明される機会がある。
世界史の授業ではイスラームの成り立ちとイスラーム世界の変遷について、そして倫理の授業では教義の概要について。具体的には「六信五行」(アッラー・天使・啓典・預言者・来世・天命を信じ、信仰告白・断食・礼拝・巡礼・喜捨を行う)についての説明があると思う。

でも、これだけだといまいちイメージが湧かない。

なにしろ仏教やキリスト教は身近な存在だ。
どこの町にも寺や教会はある。多くの日本人は冬にクリスマスを祝い、寺で葬式をやる。結婚式をキリスト教式で挙げる夫婦も多い。

かたやイスラームはといえば、日本国内にいる限りモスクを日常的に目にする機会は少ないし、生身のムスリムと接することも通常稀だろう。
となれば、格段の興味をもって自分で調べない限り、イスラームについての情報源は学校で学んだほんの「さわり」程度の知識と、ニュースで断片的に伝えられる情報ばかりということになる。

「豚肉を食べない」、「酒を飲まない」、「妻を四人持てる」、「ジハードをする」、「テロリストが多い」。

合ってる間違っているは別として、なんとなくこんなイメージに集約されて終わると思われる。


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さて、自分の場合はもともと世界史全般に興味があったので、その繋がりでイスラームについてもある程度勉強してきた。
ただし、勉強してきたというのはあくまで「外側から眺めた」というだけであって、信徒になって信仰の実感を伴ってイスラームの神髄的なものを体得したわけではない。
それにイスラームという宗教自体が関心の中心にあるわけでもない。興味の中心はあくまで歴史であって、宗教としてのイスラームはそれに関連する範囲で随時学んだに過ぎない。


ただ、わりと重要かもしれないのが、自分の場合はじめてイスラームについて本を読んで学び始めたのが「例の911事件よりも前だった」ということ。
具体的には2000年の後半頃だったと思う。

人間は「第一印象」というものに想像以上に影響を受ける。
テロというイメージとはほとんど無縁な時代に、中世のユーラシア世界に対する関心を背景としてイスラームに触れた自分にとって、この宗教の第一印象は驚くほどの寛容性と合理性だった。
後発の世界宗教であったイスラームは、教義のなかに最初から「異教徒との共存」が前提として組み込まれている。
聖典コーラン(クルアーン)のなかで、「預言者」ムハンマドは「敵対する異教徒からの防衛としてのジハード」について語るとともに、「融和的な異教徒との共存および信仰の相互尊重」についても明確に述べているのだ。

実際、近代までのイスラーム世界は原則として、多種多様な宗教がおおむね平和裏に、一定の権利を保障されつつ共存する社会だった。
初期のイスラーム国家の支配者たちは税収確保を重視する関係から、むしろ非アラブ人のイスラームへの改宗を制限すらした。
信仰を他者に強制する傾向に乏しいから、11世紀頃までイラン以東の住民の半数以上が非ムスリムだった。アンダルス(イベリア半島)では最後までムスリムが多数派となることはなかった。オスマン帝国時代の帝都イスタンブルも、帝国最末期までユダヤ教徒やキリスト教徒が都市人口の過半を占めていた。

確かに異教徒は「ジズヤ」と呼ばれる人頭税を課せられ、司法や居住などの面で各種の制限を課せられていた。
それはあくまでもムスリムの優位を前提とした寛容性に過ぎないと指摘されることも多い。
しかし、寛容と共存が教義自体のなかで保障されていたということはやはり大きいのではなかろうか。

慈悲の宗教とされるキリスト教は人類普遍の愛を説くといわれることが多いが、異教徒に対しては福音を宣べ伝えるべきことが強調され、異教徒を異教徒のままに尊重するという論理は内包されていない。
近代ヨーロッパ世界の「寛容性」というのは、ポーランドのパウルス・ウラディミリやスペインのサラマンカ学派からパスカル、モンテーニュ、ルソーやディドロ、ヴォルテール、さらにそれ以後まで及ぶ何百年もの知的格闘の末に辛うじて生み出されたものでしかないのだから。


って、なんか話が逸れてるではないか。
まあ要するに、「ジハード」や「テロ」は別にイスラームの本質ではないよ、ということである。
現在たまたまイスラーム世界におけるテロの跳梁が際立っているだけで、過去にはキリスト教徒も仏教徒もその他の諸宗教の徒も、散々テロや宗教戦争や残虐行為をやってきた前科はあるわけで。

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結論から言うと、イスラームの教義をとことん突き詰めた末に凝縮されるのは偶像崇拝の禁止ではないかと思う。


六信五行のなかに出てくる「信仰告白」(シャハーダ)というのは、新たにムスリムとなるべきものが証人の前で唱え、その後も様々な機会にムスリムが証言すべきものとされる文言で、仏教でいう般若心経や西方キリスト教でいうニカイア信経と同じようにイスラームの根本教理を集約したものと言われている。

その内容は以下のとおり。


ラー・イラーハー・イッラッラーフ・ムハンマドン・ラスールッラー」
(アッラーの他に神なく、ムハンマドは神の使徒なり)



「アッラーの他に神はない」、これがムスリムたるべき者が最低限受け入れるべきこと、最後に死守すべき一線なのだ。
「ムハンマドが神の使徒である」というのは、それを補強する役割を持っているといえよう。

六信でいえば、第一項の「アッラーの存在を信じること」と第三項の「預言者を信じること」が信仰告白の内容に直接対応する。
さらに預言者を信じる以上は、預言を伝達した天使の存在、預言を記録した啓典の存在も当然信じるべきであり、さらにアッラーを信じる以上はアッラーの万能性の象徴としての運命の支配権をも信じなければならないということになる。

それに比べれば、豚肉を食べるなだの、妻の数がどうこうだのは、語弊はあるが、いわば枝葉末節のことに属する。
枝葉末節だから融通もきく。たとえば異教徒の国に旅してやむなく、強制されてやむなく、飢えのあまりやむなく、ついうっかり間違えて・・・・・・豚肉を口にすることは許容範囲となる。


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で、イスラームの成立当初の状況を見ると、「預言者」ムハンマドが「アッラーの他に神なし」という原則を具現化するにあたって、一貫して精力を注いだのが偶像崇拝の根絶だった。
コーランのなかでは繰り返し繰り返し、「生命なき偶像」を信仰してはならないことと、アッラーが全知全能であることが強調されている。
ムハンマドが自分の教えを既存の諸宗教から区別したのもまさにその一点であって、コーランのなかでは三位一体を信じるキリスト教が、あるべき唯一神信仰から堕落して複数の神への偶像崇拝に転じたものとして批判されている。

後世のイスラーム神学でも「タウヒード」、つまり「神の唯一性」ということが常に最重要視された。
イスラーム文明において絵画、ことに人物画が忌避されたのもそのせい。

「神ではないモノを神として扱うことこそが最大の罪である」

この原則を貫くべく、コーランでは「預言者」ムハンマド自身も、絶対的な存在であるアッラーから一方的に召命された「預言者」という特性を除けば、徹底徹尾「ただの人間」であることが幾度も主張されている。
神ではないモノを神として扱ってはならないから、のちのイスラーム帝国のカリフたちも神の前では凡人と変わることなき一個人と見なされ、立法権を認められなかった。
なぜならば、イスラーム世界における法とはすなわち宗教法であり、それは「預言者」の啓示に基づくもので、法の制定は神にだけしか許されないからである。

正確にいえば慣習法や細かな行政規範レベルのものであれば世俗支配者の管轄に属するのだが、それらは明確な宗教法に対しては完全に劣位となる。



偶像崇拝、「神ではないモノを神として扱う」ことに対する忌避は、こうして他方において「神以外のあらゆるモノが等しく無価値」という原則を導き出す。そこからイスラーム世界の際立った「平等性」が生まれる。
それを象徴するのが、イスラーム世界における祭司階級の不在。


たまに「イスラームの宗教家」などと言われているものは、正確には宗教法学者か修行者でしかない。

宗教法学者はイスラーム神学に精通し、各種の預言や伝承をいかに現実社会に適用すべきかという法解釈を宣言する。
しかし突き詰めればそれは単なる「学説」であって、個々の信徒に対する拘束力などない。
個人としての修行者はなおのこと。他者が彼の人格風貌に敬意を払って追随することはあれど、修行者が神の意志を代弁することは、正統神学においては決して許されない。
その点が、「教会」を有するキリスト教や「僧侶」を有する仏教との違い。
まあ、仏教の僧侶も厳密にいえば修行者に過ぎないのだけど。


ときどき「イスラム教徒はイスラム国があかんと思うなら、イスラム教徒の法王みたいなのが破門宣言出せよ」とかいう意見を目にすることがあるけど、イスラーム世界にそんな人物は存在しない。
それができるとしたら、神の代弁者である預言者しかいない。
そして預言者はムハンマドで最後とされているのだから、あとは「多数意見」の圧力と現世的な武力で抑え込んでいくしかないのだ。
先日アズハル大学の総長が「いわゆるイスラム国」を批判する声明を出した。
しかし彼は法学的知識において尊敬される存在でこそあれ、宗教的権威など一片も持ってはいない。だからスンナ派社会を代表したり、指導したりすることなどできないのだ。


シーア派はムハンマドの娘ファーティマと、四代カリフ、アリーの子孫を「イマーム」として、預言者に限りなく近い権能を持つ存在と見做している。
このイマームが健在であればシーア派は彼の意見に従うだろうけど、こちらも千年以上も前に姿を消してしまった。



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個人と神が他者を介在せずに直接結びつくという特徴からすると、イスラームはキリスト教のなかでもプロテスタントに近いのかもしれない。
個人主義社会の宗教なのだ。


司法においてもイスラーム法は徹底した外形主義に基づき、人間の内心を忖度しない。
イスラーム法の世界ではカタチとなって現れた結果が全てで、基本的に過失責任だの未必の故意だのといった理屈は成立しない。人の心の中が読み取れるのは神だけなのだから、裁判官が被告の心理を推測することは神の権能を侵すことになる。
近頃ニュースに登場する某元教授が、某大学の学生の「いわゆるイスラム国」への渡航について、学生の申告した渡航意図のみを尊重したのも、おそらくそのためだろう。

「いや、こいつどう見ても自分探しごっこやりたいだけだろ」なんて、他人の本音を推測してはいけないのだ。



中東関係のニュースを見るとことあるごとに「部族」の存在がクローズアップされるけれど、あれは中国における「宗族」と同じように、とっくの昔に擬似「近代」的な個人主義に到達した社会において、バラバラになった個人が身を守るために寄り集まったコミュニティーなのかもしれない。
そんなこともふと思う。

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ところで元ネタの某掲示板書き込みで「なんとなく分かる」と書かれている、キリスト教や仏教の「本質」のほうは何なんだろうか。
キリスト教の本質としてよく言われるのは「信仰・希望・愛」なのだけど、個人的には「人は罪ある存在である」っていうことかなと思う。
一方、仏教の本質というのは「安らぎを求める知恵」だろうか。その辺については、いつか「欧州世界の歴史」や「南アジア世界の歴史」について書き始めたあとに書いてみるかもしれない。




ああ、また埋め草でツッコミ祭り不可避の戯言記事ですね。


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(大セルジューク朝の記事の続きはまだ途中までしか書いていません)

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