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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史21 交錯する聖戦

聖都奪還

ヌールッディーンの死から7年が過ぎた。
1181年にアレッポの領主サーリフが18歳で世を去り、近東一帯はほぼサラディン(サラーフッディーン)の勢力圏となった。
フランク人(西欧人)がシリア沿岸に築いた植民国家群(「ウトラメール」)だけは例外だったが、エルサレム王ボードゥワン4世は無だな争いを望まず、1180年にサラディンと休戦協定を締結した。
この地の人々は信仰を問わず、束の間の平穏を享受した。

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(ボードゥワンは若くして不治の病に冒されるも聡明かつ勇敢、1177年にはモンジザールでサラディンを破った)


しかしエルサレム王国にはこの状況に飽き足らず、異教徒との対決を強硬に主張する人物がいた。
その男はカラクの城主、ルノー・ド・シャティヨン
札付きの「強盗騎士」として敵味方問わず悪名高い。

死海の東南に位置するカラクは交通の要衝で、アイユーブ朝の軍隊がエルサレム王国を迂回してシリアとエジプトを行き来する際には必ずこの付近をを通る。
シリアやエジプトからマッカに向かう巡礼もここを通過する。
ルノーはことあるごとに彼らの往来を妨害し、休戦協定から半年も経たないうちにムスリムの隊商を襲って商品を略奪し、紅海に艦隊を浮かべてヒジャーズ地方への襲撃を開始した。
サラディンはボードゥワン4世に厳重に抗議を申し入れ、カラクを囲んで圧力をかけた。しかしルノーの動きは止まらない。
対ムスリム融和派のボードゥワン4世が没すると、彼は巡礼と隊商への襲撃を再開した。とあるムスリム商人が休戦協定の存在を持ち出すと、ルノーは唇を捻じ曲げてうそぶいた。

「汝らの『預言者バフォメット』とやらは助けに来ないのか。悔しいのう、悔しいのうwwwww」

これがサラディンの逆鱗に触れた。

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(この時代の話となれば、この映画を抜きにして語れない)


1187年4月、サラディンは聖戦(ジハード)を発令した。休戦協定は破棄された。
エジプト、シリア、北イラークから続々とアイユーブ朝の兵士たちが動員され、2万5千の軍勢がダマスクスに集結した。

6月、サラディンはティベリアス湖畔に兵を進めた。
ティベリアス湖とはすなわち、新約聖書においてイエス・キリストが数々の奇蹟をあらわしたと記されるガリラヤ湖のことである。
エルサレムからは新王ギイ・ド・リュジニャン率いる3万余のフランク軍が出撃。両軍は7月3日にヒッティーンの丘陵で衝突した。

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(ヒッティーンの戦い)


サラディンは先に水場を占拠し、フランク軍への襲撃を繰り返した。騎士たちは渇きと疲労に苦しみながら行軍を続け、水場を取り巻くムスリムの大軍を目にして絶望した。
サラディンの兵士たちは枯草に火を放った。フランク軍は渇きと炎と煙に責め立てられ、岩山に追い上げられた。

脱水症状で朦朧とする騎士たちは、水場を守るムスリム軍に向かってめくらめっぽうに突っ走り、次々に剣と槍の壁にぶつかって粉砕された。
エルサレム王国の至宝「真の十字架」が奪われ、王の天幕が倒れ、フランク軍は壊滅した。


サラディンはエルサレム王ギイを温かく迎え、自分の隣に座らせてシャーベットを与えた。
ギイはサラディンの温情に感謝し、傍らのルノーにもそれを分け与えようとした。
ところがやにわに立ち上がったサラディンは、ルノーを激しく叱責した。

「私には、そなたのような悪党にかける慈悲などない!」

サラディンは自らルノーの首を刎ねたという。

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(エルサレム王ギイの降伏)


エルサレム王国にもはや残存兵力はない。
アッカ、ナブルス、ハイファ、ナザレ、ヤッファ、サイダ、ベイルート、アスカロン、ガザ……アイユーブ朝の軍旗の進むところ、キリスト教徒の諸都市は続々と開城した。
そして9月20日、アイユーブ朝の大軍はついに聖都を包囲する。
エルサレムに籠城したフランク人たちは、誇張であろうが老若男女あわせて6万人と伝えられる。
彼らは必死に抵抗したが、衆寡敵せず6日後に降伏した。

10月2日、サラディンは軍を率いて念願の聖都入城を果たした。
ヒジュラ歴583年ラジャブ月27日、奇しくも預言者ムハンマドが天使ジブリールとともにマッカからエルサレムへの「夜の旅」を行なったという聖日である。
城壁の上にはアイユーブ朝の黄色い軍旗が翻る。兵士たちは略奪を厳しく禁じられ、暴動や虐殺の気配は微塵も見られなかった。
キリスト教徒の聖地である聖墳墓教会はサラディンによって保護された。
岩のドームの上から厳かに十字架が取り外され、アル・アクサー・モスクが薔薇水で清められた。


「讃えあれ、慈悲深く慈愛あまねきアッラー……」

ダヴィデ王が神殿を建て、救世主イエスが死して蘇り、預言者ムハンマドが天に昇り、世の終わりにアッラーが死者たちを呼び起こす町、エルサレム。
ザンギ―もヌールッディーンもこの町を取り戻すことなく世を去った。
88年にわたる異教徒フランク人の支配を経て、この日ムスリムたちはついに聖都奪還を成し遂げた。
勝者サラディンはまもなく50歳を迎えようとしていた。

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(アル・アクサー・モスク)

エルサレムの住民は、ごく僅かな身代金を条件に退去が認められた。
それすら払う資力がない者の身代金はサラディン自身が肩代わりした。
アイユーブ朝の兵士たちが彼らを港市ティールまで護衛した。最後まで一滴の血も流れなかった。

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(エルサレム征服後のアイユーブ朝)

Kingdom of Heaven DC: Saladin Tribute [HD]
(やっぱりサラディンといえばこれしかない!)




交錯する聖戦

だが、栄光は陰る。

フランク人たちを聖都から叩き出したムスリムたちは、これですべての戦いが終わったものと思ってサラディンの指示を待つこともなく帰郷していった。

アッバース朝のカリフ、ナースィルは想定を超えたサラディンの成功を妬み、叱責の書簡を送って来た。

二度とムスリムに刃を向けないことを条件に釈放されたギイ・ド・リュジニャンとフランク騎士たちは、たちまち誓いを反故にしてアッカを包囲した。
サラディンは慌てて軍を再動員し、アッカを囲むフランク軍をさらにその外側から包囲した。
城の守備隊とサラディンの援軍に挟まれたフランク軍は塹壕を掘って守りを固めた。

City_of_Acre,_Israel_(aerial_view,_2005)
(アッカ、またはアクレ、またはアッコンは、今日ではイスラエルの北端近くにあたる)


二重包囲状態で戦況が膠着したまま二年間が経過。
敵も味方も暇を持て余し、戦闘の合間に交歓の宴を開いたり、少年兵の相撲大会を開催したりした。
なんだかんだいってウトラメールで世代を重ねたフランク人たちは近東の水を飲んで育っている。
本音を言えば、彼らにとって遠い西方の同胞より近場の異教徒の方が親しみを感じる相手だったのかもしれない。


こんな逸話もある。
ある時、一人のフランク女性が髪を振り乱して泣き叫びながらサラディンの本営にやって来た。
聞けば、幼い子供がムスリムの兵士にさらわれたという。
フランク人の将軍たちは彼女に向かって、「ムスリムの王は慈悲深いお方だから、あっちへ行って助けを求めてみろ」と助言したらしい。
サラディンはいたく同情し、さっそく側近に彼女の子供を探しに行かせた。
さらわれた子供はすぐに発見され、母親は大喜びでフランク人の陣営に帰っていったという。


だが、馴れ合いめいた空気は突然一掃された。地中海の彼方からフランク人の大増援がやって来たのだ。
第三次十字軍」の開幕である。

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(伝説の戦いがはじまる)


エルサレム陥落が欧州世界に与えた衝撃の巨大さはサラディンの想像をはるかに超えていた。
直ちに教皇が聖都再征服のための十字軍結成を呼びかけ、欧州各地の諸侯が奮い立った。
諸国の王は領民に「サラディン税」なるものを課して軍備を整え、自ら陣頭に立つ決意を固めた。
欧州全土から出陣する十字軍は総勢60万と称された。いくらなんでも過大だが、実数でも10万程度は動員されたと思われる。


第一陣は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭王)
彼はドイツ・中欧・北イタリアに威を揮った英傑で、中近東のムスリムたちは「アレマニヤのマリク(王)」が十万の騎士を率いて故国を発ったと聞いて腰を抜かした。
だが、バルバロッサは早々に脱落する。東部アナトリアのキリキア・アルメニア地方で渡河中に落馬し、心臓麻痺だか溺死だかで急死したのだ。
帝国軍の大半は帰国した。オーストリア公レオポルトが有志を率いて進軍を続けたが、アッカに到着した彼らの身なりはボロボロで、フランク軍はむしろ意気阻喪したという。


第二陣には難物がいた。
こちらを率いるのはフランス国王フィリップ2世オーギュスト(尊厳王)、そしてイングランド国王リチャード1世ライオン・ハーティド(獅子心王)である。

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(プランタジネット朝イングランド王国第2代国王、リチャード1世獅子心王)


リチャード1世獅子心王。
最初のトルバドゥール(吟遊詩人)といわれるアキテーヌ公ギヨーム9世を曽祖父にもち、「黄金の鷲」と謳われた絶世の美女アリエノール・ダキテーヌを母に持ち、梟雄ヘンリー2世を父に持つ。
だが、そんな先祖たちとは裏腹に、彼は三度の飯より戦を好む脳筋国王であった。

「諸君、余は戦争が好きだ。殲滅戦が好きだ。電撃戦が好きだ。打撃戦が好きだ。防衛線が好きだ……」

リチャードは激烈な親族争いを制して王位を手にするや、たちまち自国を後にウトラメール遠征の途に就いた。
敵に背を向けては戦士の名がすたるので宮殿の東壁を破壊して出陣し、異教徒に勝利するまでは剣を鞘に収めぬと宣言。
行きがけの駄賃にシチリア島とキプロス島を占領し、1191年6月に25隻の艦隊を率いてアッカに上陸。
フランク人たちは篝火を焚いて、この高名な戦士を歓迎した。

「クール・ド・リオン(獅子心王)!」

ムスリムたちは意気消沈した。「アルマリク・インキタル」(イングランド国王)の勇名は中東にまで伝わっていた。


リチャードは以前からサラディンに憧れており、到着早々サラディンに会見を申し込んだ。
私は遊び半分で戦争をしているのではない! サラディンは呆れて拒絶した。

「王は戦いが終わってから初めて顔を合わせるものだ。互いに知り合い、同じ食卓で和やかに食事をすれば、戦いなど不可能になってしまう」


フランスとイングランドの援軍を得たフランク軍はアッカへの猛攻を開始した。
守備隊はサラディンの陣営に決死の使者を送って支援を嘆願したが、アッカの城壁とサラディンの軍のあいだに陣取るフランク勢はあまりにも膨大で、なす術がない。

サラディンは絶望のあまり慟哭し、全軍直ちにアッカ救援のためにフランク軍を総攻撃するように命じた。
しかし部将たちは拒否した。自殺行為だというのだ。

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(アッカの降伏を受け入れるフィリップ2世尊厳王)


1191年7月11日、力尽きたアッカ守備隊は降伏した。
リチャードは降伏条件の履行を求めてサラディンに使いを送ったが、鬱病状態になっていたサラディンには対応ができなかった。
苛立ったリチャードは捕虜の皆殺しを命じる。三千人近い兵士たちとその家族が、アッカの城壁の下で剣と槍と石によって虐殺された。


アッカ陥落後、フランスのフィリップ尊厳王とオーストリア公レオポルトは早々に帰国した。
リチャード獅子心王は残る十字軍を率いて南下を開始した。


サラディンは暗澹たる気持ちでリチャードを追尾した。
フランク人を駆逐することなど不可能なのだろうか。我らムスリムは一世紀近くかけてエルサレムを取り戻したが、たちまち海の向こうから新手のフランク人が現われるのだから……。

9月6日、サラディンはアルスフの海岸で十字軍を奇襲した。
しかしリチャードは冷静に応戦し、7000の損害を与えてアイユーブ朝軍を撃退した。

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(アルスフの戦い)

南下を続けたリチャードは、エルサレムのほぼ真西に位置するヤッファに入城した。十字軍は聖都回復の希望に燃え立った。
しかしリチャードは戦争にかけてはリアリストである。これから海岸を離れて内陸に進軍すれば、後方との連絡を寸断されて異教徒の国の只中で孤立する危険がある。
エルサレムを抑えたとしても、逆襲に耐えて聖都を維持することは難しい。


リチャードはひそかにサラディンと停戦交渉を開始した。

「余の妹とサラディンの弟が結婚してエルサレムを共同統治するというのはどうだ」
「一考には値するが……」

「――兄上! わたしは異教徒になど嫁ぎません!!」

交渉は難航したが、両者ともに戦争を終えたい気持ちに変わりはない。
一年近い折衝を経て、1192年9月2日に講和が成立。エルサレムはムスリム勢力の手に留まるが、フランク人はスールからヤッファまでの沿岸地帯を維持することになった。

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(西暦1200年頃の状況。エルサレム王国は聖都を失ったものの、沿岸に領土を維持している)


リチャードは一度だけ、偶然ある丘の上から聖都エルサレムを目にした。彼は自分が見ているものが何であるか気がつくと、即座に顔を背けた。

「聖都を回復できぬ者に聖都を見る資格はない」

リチャード獅子心王はエルサレムを取り戻すことができないまま聖地を後にする。
サラディンは最後に彼を和解の宴に招いたが、リチャードは出席を固辞し、両雄はついに対面の機を持つことなく別れたという。


獅子心王は帰途、オーストリア公レオポルトに捕えられた。アッカ陥落のさいにイングランド兵が城壁に掲げられたオーストリアの軍旗を引きずりおろしたことを、レオポルトは深く恨んでいたのだ。
リチャードは莫大な身代金を代償に釈放されるが、イングランドの王位は弟に奪われかけていた。
数年後、リチャードはアキテーヌ地方で流れ矢に当たって戦死した。

Richard the Lionhearted: Ja nuns hons pris
(リチャードは確かに脳筋国王だったが、さりげなく音楽と詩作の才能もあった。伝リチャード獅子心王作詞作曲、「囚われ人」)



サラディンに残された歳月も少ない。
1192年10月、リチャードの帰国を見送ったサラディンは聖地を後にし、各地の兵士たちを労りながらダマスクスに帰還した。
翌1193年2月16日、寒さをおしてマッカから戻る巡礼団を迎えたサラディンは高熱を発した。病状は急速に悪化し、不眠と衰弱が続いた。

3月4日の夜明け、サラディンはこの世を去った。55歳だった。
ダマスクスの町は深い悲しみに包まれ、市民たちは誰に強いられることもなく喪に服した。


彼の残した巨大な版図は一族で分割され、やがて内乱がはじまった。
7年を経てサラディンの弟アル・アーディルがアイユーブ朝の統一を辛うじて回復する。
しかしシリア沿岸にはフランク人が勢力を維持し、遠い欧州の動向を窺い知ることはできなかった。


サラディンの後継者

「彼(アル・アーディル)は賢明かつ良識があり、狡知と策略に長け、忍耐強く、温和で、艱難辛苦に耐えた。
自身を不快にさせることも耳に入れ、例え謂れ無きことであってもそれを意に介さなかった。
必要とあらばすぐさま激怒し、手段を選ばなかったが、必要のない時はその限りではなかった」


(イブン・アルアスィール『完史』)


アル・アーディルは異文化への偏見を持たず、無用の流血を嫌う人物だった。
フランク人に対しても兄のサラディン以上に寛大で、沿岸にへばりつくウトラメールの残存勢力を無理に駆逐しようとせず、休戦協定を更新して平和を維持しつづけた。

アル・アーディルはイタリアの海洋都市国家、ヴェネツィア共和国とも友好関係を結ぶ。
海の彼方の頑迷なフランク人が万一再度の侵略を企てたとしても、船がなければ地中海は渡れない。
地中海北岸随一の艦隊を擁するヴェネツィアと手を結んでおけば、奴らは船出もできないという算段だ。

この読みは早々に的中する。
1201年に「第四次十字軍」が開始されるが、この軍は資金難に苦しんで船賃の捻出すらままならず、ヴェネツィアの口車に乗ってダルマチアのザーラを攻撃したり、ビザンツ帝国の内紛に巻き込まれてコンスタンティノポリスを占領したりと脱線を繰り返し、シリアにもエジプトにも指先すら触れないまま終了したのだった。

エルサレムはムスリムの手に戻り、海の彼方のフランク人は来るに来られず、海のこちらのフランク人は現実を理解している。
海沿いの狭い平地に多少の異教徒が暮らしていたからって、何の問題がある?
聖戦の時代は過ぎ去ったのだ。アル・アーディルは心からそう信じていた。

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(アル・アーディル・サイフッディーン、通称「サファディン」)


ところが1217年、欧州で「第五次十字軍」が発動された。
ときのローマ教皇は、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したインノケンティウス三世である。
彼は聖都がなおも異教徒の手にあることが我慢できなかった。
大した成果もなく終わった第三次十字軍と、無用の脱線に走った第四次十字軍の体たらくに業を煮やし、自分の目の黒いうちに何としても聖都を回復しようと意気込んでいたのだ。


73歳のアル・アーディルは、十字軍の再来を信じなかった。
海賊が少々暴れているだけじゃろう? 異教徒との平和はもう四半世紀も続いているのじゃぞ?

だが、老王は現実を突きつけられる。
1218年夏、一万数千の欧州艦隊がナイル河口の港市ダミエッタの沖合に出現。
こたびの十字軍は聖都エルサレムを直接目指すのではなく、アイユーブ朝の本国エジプトを最初に撃つことにしたのだ。
アル・アーディルはダミエッタ陥落の報を受けた直後に急性心不全を起こし、そのまま帰らぬ人となった。

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(ダミエッタを攻撃する十字軍)

アル・アーディルの急逝を受けて、この年38歳の長子アル・カーミルが即位した。

「エジプトから兵を退いてくれるなら聖都エルサレムを返還しよう」

アル・カーミルはいきなり太っ腹な提案をした。
フランク軍はスルタンの真意を推し量りかねて動揺した。提案を受け入れようとするウトラメール諸侯と、異教徒との交渉を拒絶する教皇派とが激しく対立し、軍はダミエッタから動けなくなった。
アル・カーミルはそんなフランク人たちをしり目に、静かにナイルの川面を眺めていた。
それは常日頃とまるで同じ姿だった。アル・カーミルは治水に深い関心を持ち、しばしはナイルの岸辺をめぐって堤防を点検した。彼はナイル川の性質を知り尽くしていた。


1121年8月、フランク軍内部の論争に決着がついた。彼らはダミエッタを出陣し、アイユーブ朝の首都、アル・カーヒラ(カイロ)を目指して南下しはじめた。
アル・カーミルは微笑んで命じた。

「頃合いはよし。堤防を切れ」

ナイルは増水期を迎えていた。
堤防から溢れ出た水は平坦な下エジプトの大地に静かに広がっていき、進軍する十字軍の足元で大地は泥濘と化した。
馬がつまづき、騎士たちが転落する。従士が足場を求めてもがく。半日も経たないうちにフランク軍は泥のなかで行動不能に陥った。


アイユーブ朝の軽騎兵団が乾いた土手の上に姿をあらわし、無言で侵略者たちを威圧する。

「フランク人たちよ、聖都エルサレムは諦めよ。生命惜しくば、大人しく故郷へ帰るがよい」

第五回目の十字軍は壮図虚しくここに終結した。

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(なんか違う)


皇帝とスルタン

聖都エルサレムを失ってから30年以上が経過し、二つの十字軍が敗退した。
だが、それでも欧州世界は諦めない。アル・カーミルが呆れたことに、第五次十字軍を撃退してから数年のうちに、教皇は再び十字軍計画を発動した。
噂によれば、今度の主力になるのはシチリア島に宮廷を構える「アル・エンボロル」なる君主であるという。
アル・カーミルは敵情を探るべくシチリアに外交使節団を派遣した。そして驚嘆した。
この島を治める「アル・エンボロル」は、これまで幾度もやって来た粗野な西方のフランク人たちとは全く異なる人物だったのだ。

報告によれば、彼は新月刀を帯びたアラブの護衛兵たちに囲まれて姿を現し、アル・カーミルの使節団に流暢なアラビア語で歓迎の辞を述べたという。
首都パレルモには数知れぬモスクが聳え、朗々たるアザーンの声が街に響いていたともいう。信じがたい話だった。


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(シチリア王国)

シチリア島はイタリア半島の南、地中海の中央に位置する。
ここは西ローマ帝国崩壊後も長いあいだビザンツ帝国の支配下で繁栄を維持し続けた。

だが7世紀に「アラブの大征服」がはじまると、島はウマイヤ朝やアグラブ朝の侵攻を受け、イスラーム勢力とビザンツ守備隊との攻防が延々と続く。沖合にはベルベル人の海賊が徘徊し、南イタリア沿岸への襲撃を繰り返す。
人々は山上の砦に籠って自衛し、各地で小領主が生まれて絶え間なく抗争する。
そんな状況を一変させたのはノルマン人の到来だった。

北欧のヴァイキングの血を引くノルマン人は、土地と富と冒険を求めて欧州世界を荒らしまわった。
彼らが地中海に姿を現したのは西暦11世紀。勇猛果敢なノルマン戦士たちは南イタリアとシチリア島の有象無象を圧倒し、ビザンツ帝国の残存勢力とムスリムの領主たちを等しく打ち従えた。


1071年、ノルマン人の指導者ルッジェーロ1世がシチリア全土を統一し、「シチリア伯」を自称する。
その子ルッジェーロ2世のときにローマ教皇から正式な国家承認を受け、「オートヴィル朝シチリア王国」が成立する。
(ちなみに、ルッジェーロ1世はあのロベルト・グイスカルドの弟で、アンティオキア公ボヘモンドの叔父にあたる)


圧倒的な力によってすべての対立が止揚されたとき、そこに生まれるのは多様さと寛容さに満ちた社会であった。

もともと敬虔な信仰心など持ち合わせていないノルマン人たちは、宗教の相違を気にせず、役に立つものや快いものはなんでも取り入れた。
ビザンツ帝国に倣って精緻な官僚制を組織し、精強なアラブ・ムスリムの傭兵を徴募する。
東方の優雅な絹の衣裳に身を包み、富をもたらすムスリム商人を歓待し、鷹狩りやチェスを楽しみ、葡萄酒の杯を手にして騎士物語に耳を傾ける。
地中海の中心に位置する小さな島国で、東西の宗教と民族は平和に共存していたのだ。

中世シチリア王国 (講談社現代新書)

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時は流れてオートヴィル朝シチリア王国は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に併合されたが、シチリアの社会は変わらなかった。
ハインリヒ6世は北の故国に戻る前に、最後のシチリア王女とのあいだに生まれた幼子を、シチリアの王位と神聖ローマ皇帝位の継承権者としてこの地に残した。
シチリア人たちは、この皇子を彼らの言葉で「フェデリーコ」と呼んだ。

フェデリーコは天才だった。少年時代から6つの言語を操り、馬術や狩猟に熟達し、自然科学に熱中した。
しかし、ハインリヒ6世の死後にシチリアでは宮廷陰謀が荒れ狂い、少年王はたびたび諸侯の人質とされて日々の食事にも事欠いた。
鋭い知性に恵まれた少年王は醜い大人たちの姿を嫌というほど目にし続けたためか、冷酷なリアリストに成長した。

「そもそも神などおらぬのだ。アリストテレスの書物を紐解いて自然界の万象を観察しても、神の影など見えはせぬ」

フェデリーコ――すなわち神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は神を信じず、宗教と宗教を信じる凡人たちを軽侮した。
歴代の教皇たちはしばしばフリードリヒ2世と対立し、彼を幾度も破門した。
だが彼はさして意に介さず、ムスリムの兵士たちで身辺を固め、豪奢なハーレムを営み、科学的好奇心に駆られては非情な動物実験や人体実験を繰り返した。
反抗する者はキリスト教徒であろうとムスリムであろうと討伐し、従う者にはふんだんに富を分かち与えた。

そんなフリードリヒがいくつかの偶然により、1225年にエルサレム王位を得た。

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(「世界の驚異」、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)

フリードリヒは地中海中央のシチリア島から地中海東部のパレスティナに勢力を拡大し、古代ローマのごとき一大帝国を築く夢を抱いた。
教皇はフリードリヒの東方志向を都合よく解釈した。あの異端者が殊勝にも十字軍の大義に目覚めたというわけだ。

ところが1227年、遠征を開始したフリードリヒは南イタリアのプリンディジで病に倒れる。
日頃の信用のなさがものを言い、教皇はこれを仮病と見なしてフリードリヒを何度目かの破門に処した。

フリードリヒは気にしない。1228年6月、病癒えたフリードリヒは破門宣告を解除されないまま遠征を再開した。彼には思うところがあった。

「教皇庁もウトラメールも愚か者ばかりだ。アル・カーミルは十字軍撤退の見返りとしてエルサレムの譲渡を申し出たというではないか。戦うばかりが手ではない」


アル・カーミルが初めてシチリアに使節団を送ってから2年が経つ。この2年のうちに、皇帝とスルタンは幾度となく文通を繰り返した。
アリストテレスの論理学について。霊魂の不滅について。宇宙の起源について。野生の猛獣について。そしてエルサレム問題の平和的解決について。

アイユーブ朝の歴代君主はフランク人の宗教的情熱に辟易し、宗教戦争の無益さを骨の髄まで理解していた。
外交交渉を重ねて相互の妥協範囲を探り、手ごろな着地点を見つければ事は済む。
それを理解できるフランクの指導者がついに現われたのだ。アル・カーミルとしてもまことに歓迎すべき事態だった。


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(アル・カーミルとフリードリヒ2世)

1228年9月、フリードリヒ2世はアッカに上陸した。
異教徒の兵士たちを引き連れ、破門宣告を受けた「エルサレム王」に対して、ウトラメールの諸侯は総じて冷ややかだった。
それでもフリードリヒは意に介さない。早速アル・カーミルと交渉を開始した。

「お互い愚かな狂信者どもには苦労させられる」
「愚者たちを黙らせるために戦うふりだけはしておこう」

フリードリヒは臨戦態勢でヤッファに進軍し、アル・カーミルは全土に動員令を発した。

「このくらいでよかろう」
「実のある話に入るとしよう」

数週間後、一戦も交えることなく合意文書が成立した。
フリードリヒは沿岸地方とエルサレムおよび両者を結ぶ回廊地帯、そしてナザレやベツレヘムといったキリスト教徒の聖地を確保する。
アル・カーミルはその他の地域の主権を維持し、エルサレム市内のムスリムの聖地における安全保障を認めさせる。


1229年3月、フリードリヒはエルサレムに赴いた。
アル・アクサー・モスクと岩のドームの美しさを絶賛し、福音書を抱えてモスクに入ろうとした司祭を怒鳴りつける。
夜更けのアザーンが聞こえないことを問い質し、「皇帝に配慮してアザーンを自粛した」と説明されると、「余はアザーンを聞くためにエルサレムに来たのだ」と言い放つ。

アル・カーミルはさておき、大多数のムスリムはこの異教徒の君主にむしろドン引きしたらしい。
中世の西ユーラシアの人々にとって、宗教は人間存在の根幹に関わるものである。
それが自分と同じ信仰であれ、異なる信仰であれ、とにかく何らかの信仰を胸に抱くのが普通の人間というものだった。
ところがこの異教徒の君主は、明らかにムスリムではないが、自分自身の宗教をも軽蔑している。
この君主はそもそも、いかなる神の存在をも信じていないのではないか?

後世のとある歴史家は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を「玉座の上の最初の近代人」と呼んだ。
神なき時代の思考を先取りした皇帝は、キリスト教徒にもムスリムにも理解不能で嫌悪すべき存在でしかなかったのだ。


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(フリードリヒ2世についててっとり早く知るのにおすすめ)


フリードリヒ2世とアル・カーミルの協定によるエルサレム譲渡は、ふたりの合理主義者の予想に反してキリスト教世界でもイスラーム世界でも激しく批判された。

キリスト教徒たちは異教徒と対等の立場で協定を結んだ皇帝を、十字軍の精神を侮辱するものとして非難した。
ウトラメールの諸侯はエルサレムから戻った皇帝をそれまで以上に冷たく出迎えた。
シチリアへ帰国するために港に向かう皇帝の一行に、沿道の群衆は石やゴミを投げつけた。

イスラーム世界でも反応は同じようなものだった。
ダマスクスでは反乱が起こり、バグダードではアル・カーミルへの抗議集会が開かれた。


1238年3月、アル・カーミルは病に倒れて世を去った。
フリードリヒは教皇や北イタリア諸都市、ドイツ諸侯の支持を受けた息子の反乱に直面し、イタリアの主権をめぐる終わりなき戦いに苦しみ続けた。

そしてアル・カーミルの死後の1239年11月、アイユーブ朝の王族ナーシルがエルサレムを急襲し、聖都を再びムスリムの手に取り戻す。
皇帝とスルタンの合理主義的解決は、たった10年で破綻したのだ。


欧州では再び十字軍の機運が高まり、フリードリヒ2世の対極に位置するフランスの「聖王」ルイ9世が登場する。
アイユーブ朝は混迷を深め、急速に衰退をはじめる。

だが、キリスト教徒もムスリムも、近東の地で争い続ける者たちはまだ知らない。
ユーラシア大陸のはるか東方より巨大な津波が迫りつつあることを。
その津波は恐怖と死をもたらしたのちに、世界の様相を大きく変えることになる。



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アミン・マアルーフ『光の庭―小説マニの生涯』

「イスラーム世界の歴史」の続きがちょっと行き詰っているので(「中華世界の歴史」の続きは十字軍シリーズが終わってから)、また番外編の記事を。
今回の記事で紹介したいのは、『アラブが見た十字軍』や『サマルカンド年代記』の著者として知られるレバノン出身の作家、アミン・マアルーフの『光の庭―小説マニの生涯』です。

光の庭―小説マニの生涯

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ローマ帝国が衰退し、イスラームが未だ出現せぬ時代。
諸宗教がごった煮のように混ざり合っていた3世紀中東で生まれた「第四の世界宗教」マニ教の開祖、「預言者マニ」(マーニー・ハイイェー)の生涯を主題とする小説です。


マニの生きた世界はアルサケス朝パルティア末期からサーサーン朝ペルシア初期にかけての西南アジアです。
極めて史料に乏しい時代で、マニ自身についても史実として確証できることはごくわずかです。
この小説はそのわずかな記録や伝承を最大限に駆使し、それでも足りない隙間は小説家の想像力で巧みに埋め合わせ、マニという稀有の宗教家の全生涯を描き出しています。

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(アルサケス朝パルティア。ただしササン朝のような強力な中央集権帝国ではない)


物語はマニの父、パッディクがパルティア王国の帝都クテシフォンで、古代メソポタミア以来崇敬されてきた叡智の神ナブの祭儀に立ち会う場面から始まります。
荘重に運ばれるナブの神像が突然地面に転げ落ちる。呆然とするパッディクの前に謎めいた男、シッタイが現われる。
偶像崇拝を否定し、白い装束をまとって禁欲生活を送る奇妙な教団の指導者シッタイ。
真理の把持者を自認するシッタイに惹かれるまま、パッディクは愛する妻を捨てて白装束の「兄弟たち」に身を投じます。
残された妻のマルヤムが産み落としたのが物語の主人公であるマニ。

マニは幼くしてシッタイの教団に連れ込まれ、その教団のなかで育つことになります。
やがてあるとき、少年マニは水に映った自分の顔のなかに、「もうひとりの自分」を見出します。
心理学的に考えれば幼年期からの種々の抑圧によって解離症状を云々ってことになるんでしょうが、とにかくマニは「双子」にして「光の庭の王の使者」である「もうひとりの自分」の声に励まされ、やがてシッタイの教団を去り、クテシフォンへ、そしてさらなる遠い異国へ旅立つことになります。


マニの唱えた宗教はどのようなものなのか。

彼によれば始原の時代より「光の神」と「闇の神」が永遠の闘争を続けており(ゾロアスター教的世界観)、物質的世界は邪悪な「闇の神」によって創造されたもの(グノーシス主義に似ている)。
肉体としての人間も不浄な闇の要素を色濃くまとった忌むべき存在であるといいます(キリスト教の原罪論っぽい)。
しかし人間の内なる精神は「光の神」に属するものであり、人間は魂のなかの「光の種子」を認識し、肉体の牢獄を逃れて彼方に存在する「光の神」の世界へ脱出すべきであるといいます(新プラトン主義っぽい)。
そして、そのためには物質的世界への欲望を断ち、世界の真実を認識し、慈悲と生命の尊重を心掛けなければならないとのこと(ここは仏教的)。

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(より詳しくはこのへんを)


しかし、この小説ではこうした「マニ教」と呼ばれる宗教の詳細よりも、マニが既存の様々な教えの相互尊重と寛容を説いていたことが強調されます。

インドのデブ(ディウ?)の町でサーサーン朝の王子ホルミズドの知遇を得たマニは、クテシフォンに戻ってサーサーン朝第二代のシャープール1世に仕えることになりますが、そのとき彼が語った言葉が象徴的です。

「私はバベルの国の医者です」


マニはバビロニア出身であり、「バベルの国」というのは単なる地名として、彼自身が書き残した書簡に見られる表現のようです。
そして彼に医術の心得があったことも伝えられています。

とはいえ同時に「バベル」といえば旧約聖書に出てくる「バベルの塔」を想起せずにはいられません。
世の始まりに神ヤハウェは天に挑まんとする人間の高慢を怒り、彼らの言葉を幾千にも分かち乱したもうた。
かくて人々は互いに意志を疎通するすべを失い、あまねく地の面に離散していった……。

その分裂、混沌、不和の癒し手として彼は現れます。

「新たな時代が始まりました。新たな時代には、新たな信仰が必要です。すなわち、ひとつの民、ひとつの民族、ひとつの教えだけの信仰、というわけではない信仰が」



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(ヴァフラーム1世に審問されるマニ)


仄聞するところでは、サーサーン朝ペルシアの君主(諸王の王、シャーハンシャー)は絶対的な権威と権力を握り、その宮廷は非常に壮麗なものであったそうです。
この小説のなかでも、シャープール1世の驚くべき威容が描写されています。

……君主に声をかけるために、人は名前も称号も使うことはできなかった。
「閣下、神的なお方よ」「不死なる神々よ」、あるいは少なくとも「汝が神格よ」などと、決まった言い方が定められており、それから逸脱することは許されていなかった。

……不動の偶像、目をくらますほどの多量の金を身にまとった者として、君主はそこにいた。服にもクッションにもすだれにも、金は縫い込まれており、玉座にはふんだんに金が仕込まれていた。
首飾りも金細工、指輪も金、服の留め金も金、ひげにすら金がまぶされており、まばゆい塵は唇やまつ毛やまゆげの上でもきらめいていた。
君主の頭上には、かの伝説的な王冠が見えた。これは人間一人よりも重く、いかなる頭といえども――皇帝の頭であっても――それを支えることができない代物だった。



そして青木健先生の『ゾロアスター教』(講談社選書メチエ)によれば、サーサーン朝ペルシアという国家自体はゾロアスター教の絶対的な権威のもと、支配者たるアーリア人を至高の支配階級とする祭政一致の国家であったそうです。
そもそも王朝の祖であるサーサーン、バーバク、アルダシールら自身が、イスタフルのゾロアスター教大神官であったそうなので。
帝国の国土は「エーラーン・シャフル」と称され、善なる神アフラマズダを象徴する聖火の結界に守られた清浄の地として観念されていました。

いわば、「アーリア人による神聖イラン帝国」。
この物語の主人公であるマニは、そんな帝国の中心で信仰の多様性を主張したわけです。

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(今のところ、日本でいちばん入手しやすいゾロアスター教入門書)


宮廷を牛耳る大神官「キルディール」――サーサーン朝の宗教政策を決定づけたこの時代の傑物――が即座にマニを異端のナザレ派(キリスト教徒)であると弾劾しますが、シャープール1世はマニの言葉に耳を傾けます。

急速に拡大し、諸民族を呑み込んでいくペルシア帝国の支配者として、シャープールは多様な宗教の相互尊重と普遍的真理への信仰を説くマニの教えを有益であると判断したのです。

「我が主君の帝国は、西ではアラム、アディアベネ、オスロエネ、つまりナザレ派が多くいる地に広がりました。東ではバクトリアナ、インド、トゥラン、つまりブッダが崇敬されている地に広がりました。
遠くない将来には、王朝の支配は、アフラ・マズダを拝む習慣のない国々へと広がり、ありとあらゆる信仰を告白する無数の臣民を抱えることになるでしょう」

「私マニは、すべての民に対して新しいメッセージを届けるべくやってきました。
……皆さんはイエスの言葉をお聞きなさい。彼は賢者であり清い方です。
が、ゾロアスターの教えもお聞きなさい。まだ世界全体が無知と迷信の中にあった時に、他の誰にも先立って彼の中に輝いた光を、発見なさることです」

「私はあらゆる宗教を唱えており、また、いかなる宗教も唱えていません。人々は、人が一つの民族、一つの部族に属しているように、一つの信仰に帰属しなければならない、と教えられてきました。
が、私はそのような人々に言います。あなたがたは騙されてきたのだ、と。どの信仰、どの考えの中にも、光り輝く実質を見つけ出し、残りの屑は、これを退けることです。
私の道に従う人は、アフラ・マズダにもミトラにも、キリストにもブッダにも祈願することができます。私が建てるであろう神殿に於いては、各々は自分の祈りを持ってやって来るでしょう」



絶対君主であるシャープール1世は、その実、影のように周囲を取り巻くゾロアスター教の神官たちを怖れていました。
神官たちは王の勅令を判定し、王の世継ぎを承認する権威を持ち、「諸王の王」といえども彼らの意向を無視することはできないのです。
マニを利用しようとしたシャープールは、次第にマニに友情と敬意を感じはじめます。
しかし帝国の支配者であるシャープールと生命の尊重を説くマニとの関係は常に緊張を孕み、やがて決裂の時が来ます。

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(西暦260年、シャープール1世はローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕囚とする。それはマニとの別れの時でもあった)


物語のその後、シャープール1世の死とマニの悲劇的な最期、彼の説いた教えがユーラシア世界にあまねく広がり、歪み、弾圧され、融解し、歴史の闇に消えていく次第については省きましょう。

とにかく読み応えのある小説です。
「パルティア末期からサーサーン朝初期の西アジア」という、他にまず例のなさそうな時代背景は興味深く、サーサーン朝の宮廷やローマ帝国との戦争、悲劇の王ホルミズドの暗殺など、見所がたくさんあります。
マニの実父で最初の弟子となるパッディク、マニの庇護者にしてある意味で敵でもあるシャープール1世、悪役のキルディールや王子ヴァフラームといった人々もとても魅力的です。

最後に、この小説のなかでいちばん印象に残った対話のひとつがこれです。

「過ぎし時、現在、そして将来のあらゆる賢者に幸いあれ。イエスに、釈迦牟尼に、ゾロアスターに幸いあれ。唯一の光が彼らの言葉を照らし、その同じ光が今日デブに注いでいます。
皆さんの中で私の教えに従う人は、自分がいつも祈りの場としてきた神殿を捨ててはならず、また、父祖たちの霊を敬う場としてきた祭壇を捨ててはなりません」

「メシアやブッダと同じことをあなたが言うのなら、なぜあなたは新しい宗教を建てようとするのか?」

「西に立った者、彼の希望は、東ではほとんど花開きませんでした。東に立った者、彼の声は、西には届きませんでした。それぞれの真理が、それを受け取った者の装いと訛りとを身に帯びることは必要でしょうか」


ああ、だからこの時代のこの地域で「マニ教」という稀有の混淆宗教が誕生したんだなと、なんとなく腑に落ちるものがありました。
やがて「イスラーム」というもうひとつの普遍宗教がマニの知っていた「東」と「西」を繋ぎ、サーサーン朝をも超える巨大な統一帝国を現出させます。
マニの到来はその予兆でしたが、彼の教え(として本書で描かれるもの)自体は今なお人々のあいだで受け入れられてはいないようです。

「人々は、私を断罪するために一つになるでしょう……しかし、彼らが儀式や神話や呪詛に飽きるようになった時に、彼らは思いだすでしょう。
かつて、偉大なるシャープールが支配した時に、一人のつましい死すべき者が、世界中に叫び声を響かせていた、と」



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