世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史13 虎狼の国の王

奇貨、居くべし

その頃、趙の国都・邯鄲(かんたん)に秦の昭襄王の孫が暮らしていた。
どの時点でかは分からないが、秦と趙との何度目かの停戦協定のさいに秦側からの人質として送り込まれたのである。

趙国には秦人への憎悪が渦巻いていた。
無理もない。長平の戦いで秦軍は45万の趙人を生き埋めにしたのだ。邯鄲の民の誰もが家族のひとりふたりを秦人に奪われていたに違いない。

人質は昭襄王の太子安国君の庶子の一人、「異人(いじん)」という奇妙な名前の王孫である。
史書は異人の生母が安国君に愛されていなかったために、異人が人質に出されたのだと解説している。
異子は「その他大勢」の王孫でしかなかった。何百人という子や孫を持つ昭襄王に存在を認識されていたかどうかすら疑わしい。

趙も異人が捨て駒であることを理解している。彼らは異人を冷遇し、憎悪と怨念を浴びせかけた。
このとき、異人はまだ二十歳そこそこの若者だった。祖父からも父からも事実上見捨てられ、まことに寄る辺なき身の上であった。
しかしこの都にたった一人、彼の味方が現われた。「呂不韋(りょふい)」という名の豪商である。

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(文信侯・呂不韋。邯鄲で異人と出会ったときはもっと若かったはず)


呂不韋は濮陽(ぼくよう)に生まれ、諸国を往来して種々の財貨を取引し、若くして千金の富を築いた。
当時、趙の邯鄲は華夏北方で随一の大都市であり、人口二十万を数えた。
交易のためにこの都を訪れた呂不韋は、ある日、路上で秦の王子を見た。そのとき、彼に天啓が閃いた。

此れ奇貨、居くべきなり!」

呂不韋は王子の馬車に駆けよって叫んだ。

「待たれよ! それがし、貴殿の開運の門とならん!」

突然迫る謎の富豪。異人は呆気にとられた。

「私ごときに近寄っても何の得にもならんぞ」
「貴殿は御存じないようですな。それがしは貴殿の開運の門となり、それがしの屋敷の門も貴殿のおかげでさらに大きなものとなるのです」

まあしばし・・・・・・呂不韋は人の良い王孫を誘って路傍に腰かけ、声を潜めて説いた。


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(呂不韋の生涯を描いた大河小説)


「――そも、秦王すでに老いたり」

このとき、秦の昭襄王は在位50年近く、年齢は60代の半ばを過ぎていた。有り体にいえば、いつ死んでもおかしくはなかった。
であれば・・・・・・と、呂不韋は説く。

「貴殿の父君にあたる秦の王太子、安国君は華陽夫人を寵愛されている。しかし華陽夫人には実子がない。然らば今の秦王と次の秦王が亡きあと、誰が王位を受け継ぐのかは未定というわけです」
「だからといって私に陽が当たることはなかろう」
「いやいや、華陽夫人の心を掴めば事態はどう転ぶか分かりませんぞ。それがし、憚りながら少々の蓄えがござる。これをもって秦国に赴き、華陽夫人に面会すれば・・・・・・」

ほどなく呂不韋は秦の咸陽に向かった。
華陽夫人に面会を許されると言葉を尽くして異人の人格才幹を褒め称え、異人が常に華陽夫人のことを気にかけていると吹聴し、数々の高価な贈り物を献上した。
実子のない華陽夫人は夫である安国君の寵愛を失えばたちまち寄る辺なき身の上となる。
そんな自分を敬慕しているという義子のことを聞いて、彼女は感泣した。

「もしわらわに子が生まれなければ、いずれ異人どのを養子とし、必ず太子に立てるよう力を尽くしましょうぞ」


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(戦国時代の鍍銀青銅壺。呂不韋はこういった珍奇な品を献上したと思われる)


異人は呂不韋の邸宅に居を移し、下にも置かぬ厚遇を受けた。これまでの不遇な日々とはまるで別天地のようだった。
いや、異人にとっては下にも置かぬ厚遇と思われたかもしれないが、呂不韋にとってはさしたる負担でもなかったことだろう。
なんといっても彼は天下の豪商で、元より何千人もの食客を養っている。出費としては食客がひとり増えた程度のことだった。

そんなとき、異人が恋をした。相手はある夜の酒宴で呂不韋が披露した名もなき舞姫である。史書は彼女のことを「趙姫(ちょうき)」と記している。
実は趙姫は呂不韋の愛人であった。それを知らない異人は、ぜひにと彼女を求めた。
呂不韋は考えた。事情を説明すれば異人は趙姫を諦めるかもしれないが、そうすれば自分と異人とのあいだにしこりが生まれる。

呂不韋は趙姫を異人に譲ることに同意した。趙姫が自分の愛人であることも、彼女が既に自分の子を孕んでいる可能性があることも、あえて告げはしなかった。
一年ほど経って、趙姫は一人の男児を産み落とした。その子は「政(せい)」と名付けられた。
秦の昭襄王の在位48年、紀元前259年正月のことであったという。


秦が停戦を破棄し、邯鄲を包囲したのは翌々年のことだった。
趙人は呂不韋の邸宅を取り囲み、秦の王孫を殺そうとした。呂不韋と異人は財貨をばら撒いて囲みを抜け、城外に展開する秦軍の陣営に逃げ込むことができた。


だが、趙姫と幼い「政」は邯鄲に取り残された。
物心ついたばかりの「政」は母に抱きかかえられて、夜闇の中で街を逃げ惑った。声を立てないように口を母の手できつく覆われ、怯えた目だけを大きく見開いていた。
追手の叫びが街路に響く。母子は貧民たちの暮らす裏通りに身を隠した。
突然逃げ込んできた母子は住民たちに白い眼を浴びせられ、嫌がらせの的になった。趙姫は残飯をあさり、物乞いをしながら「政」を育てた。
自分が秦の王子の寵姫であり、我が子が秦王の血を引くことは絶対に知られてはならなかった。

春申君と信陵君の援軍が現われて、秦軍は邯鄲の囲みを解いて消えていった。
秦はあまりに遠く、呂不韋と異人からの便りも絶えて無い。二人を救ってくれる者は広い世界のどこにもいなかった。

・・・・・・きっと、そんな境遇だったのだ。愛情に飢え、猜疑と人間不信に満ちた「始皇帝嬴政」の幼年時代は。

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(司馬遷の『史記』「秦始皇本紀」)


終章開幕

紀元前256年、ついに周王朝が滅亡した。
韓への侵攻を周に妨害された秦軍が洛邑を占領し、周王を捕えたのである。かつて楚の荘王が望んだ周王家の重宝、九鼎(きゅうてい)も咸陽へ運び去られた。
東周君」と呼ばれる残存勢力がなおしばらく河南に存続するが、それもやがて秦に滅ぼされる。

同じ年であったらしい。
楚国の北端に近い「沛(はい)」という地方で、とある農民に一人の子が生まれた。
農民の姓は「劉」といったが、個人としての名前は持っていなかった。別段、個人を識別する記号などなくても事足りる程度の身分であった。
生まれた子にも名前はない。何十年かしてこの子がいっぱしのヤクザ者になると、周囲の無頼仲間たちは彼のことを「劉の兄貴」、正しくは「劉邦」と呼ぶようになる。
ただし、この男が歴史の表舞台に登場するのは半世紀ちかく先のことである。


周王朝の終局を見届けて、紀元前251年の秋に秦の昭襄王が崩御した。
王の56年間の在位において、秦は史書に記録されているだけでも119万6千人の他国人を殺戮し、天下のなかばを制圧した。

昭襄王の死を受けて太子の安国君が即位するが、なんと彼はわずか三日で崩御してしまう。

孝文王元年、立ちて即ち死す。

(雲夢秦簡・編年記)


天下に冠たる虎狼の国、秦の宮廷で「何か」が起こった。天下の誰もがそう思ったに違いない。
だが、今に残る史書はこのときの真相について何も語っていない。

安国君こと孝文王の急死を受けて、直ちに「異人」が王位を継いだ。むろん華陽夫人の強力な後押しと、秦の高官となった呂不韋の支援を受けてのことである。
史上、彼を荘襄王(そうじょうおう)と称する。

ここに及んで趙は邯鄲に潜んでいた趙姫と政の母子を秦に「帰国」させた。
いや、正確にいえば母子はこのとき生まれて初めて秦国の土を踏んだことになる。荘襄王の子である嬴政(えいせい)は数えで9歳になっていた。
邯鄲の悲惨な貧民街から壮麗な秦の宮廷へ。
ほとんど記憶に残っていなかった父親は、この強大な国の新しい王であるという。
それでは、それほど偉大な父親は何故これまで自分と母親の苦しみを救ってくれなかったのか。いままでの生活はいったいなんだったのか。
趙から来た少年は見るものすべてが新しい咸陽の地で、たった一人馴染みのある母の後ろにぴったりとくっついて、一言も喋らずに怯えた目を見開いていたことだろう。


かつて呂不韋と初めて出会ったころ、異人は事成ったあかつきには秦の半分を呂不韋に与えようと約束した。
年が改まって紀元前249年春、王は象徴的なかたちでかつての約束を果たした。
呂不韋は「相国(しょうこく)」、すなわち宰相となった。

さらにこの年、秦は河南で抵抗を続けていた周王家の残存勢力「東周君」を滅ぼして周王朝の祭祀を絶ち、東周君が保持していた七つの都市を併合した。
かつての周の王都・洛邑はこの時代から「洛陽」と呼ばれはじめる。
河南洛陽十万戸はまるごと呂不韋の私領となり、彼は秦国最大の貴族となった。呂不韋はこれ以後、「文信侯」と称されることになる。
破格の待遇というほかなく、異人への呂不韋の投資は見事に実ったことになる。


秦は破竹の進撃を再開した。
紀元前249年、韓の諸城を奪って「三川郡」を設置。
紀元前248年、趙の37城を占領。
紀元前247年、趙の上党郡を制圧して「太原郡」を設置。

六国は危機感を抱き、かつて邯鄲で秦の包囲を解いた魏の信陵君を総司令官とする諸国連合軍を結成。
信陵君は秦軍を破り、函谷関まで追撃した。ただし函谷関を破って秦の本国に逆侵攻する力まではなかった。
戦国時代の終わりが近いこの時期、いまだ秦と六国の攻防は一進一退であった。

信陵君が秦軍を河南から撃退したこの年、咸陽で荘襄王が崩御した。わずか三年の在位であった。
代わって趙から来た王子、嬴政がわずか13歳で即位する。

このところ短命の王が続いた秦国であるが、年少の王は再び昭襄王のような長期の在位を続け、秦の王権を更に盤石ならしめる恐れがある。六国は警戒を強めた。
といっても、さしあたっては若い王が自ら万機を総攬するのは難しい。政治は万事、相国の呂不韋が代行することになった。
秦王政は呂不韋を「仲父(ちゅうほ)」と呼び、少なくとも表面上は大いに敬った。

統一前夜
(嬴政即位時の秦の版図)


紀元前241年、楚・趙・魏・韓・衛の五ヶ国連合軍が再び函谷関に攻め寄せた。しかし関中から出撃した秦軍が連合軍を打ち破った。
秦は連合軍を追って黄河下流域まで侵攻し、かつて殷王朝の最後の都が置かれた朝歌や、呂不韋の故郷の濮陽を占領した。
これよりのち、秦帝国の落日のときまで他国の軍勢が函谷関に迫ることはない。


さて紀元前238年、秦を揺るがす一大変事が発生した。
この年、秦王政が成年に達し、祖霊に対する儀式を行うために西方の古都・雍に赴いた。そこで王は、見てはならぬものを見た。

王の生母・趙姫はかつて、呂不韋の愛人であった。
おそらく荘襄王の死後だろう。相国・呂不韋と、太后となった趙姫の関係が復活した。これには趙姫のほうがより積極的であったという。
もっとも、中華文明における史書の叙述はことさら女性に厳しい。
趙姫と少年王の政はもともと秦国に基盤を持たない。趙姫は実権を握る呂不韋との近しさを保つことで、自分たち母子を宮廷の陰謀から守ろうとしたのかもしれない。

さて、周囲に関係が露見することを恐れた呂不韋は、身代わりに「嫪毐(ろうあい)」という男を太后の近くに送り込んだ。
その際、男子禁制の後宮に入れるように嫪毐は宦官を装ったという。

実際には宦官でない嫪毐は太后・趙姫に寵愛された。
この二人のあいだにも肉体関係が生じ、こともあろうに王の生母にして秦の国母である太后・趙姫は嫪毐とのあいだに子を生してしまう。少なくとも史書にはそのように記されている。

太后・趙姫はこの頃、雍の離宮で生活していた。雍に赴いた秦王政が見たのは、この不倫の子供たちだった。

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(呂不韋が三千人の食客を動員して編纂した百科全書)


後宮の奥でひそかに展開していた事態をすべて把握したとき、政王は震怒した。
この少年はこれまで常に物静かで、呂不韋を「仲父」と敬い、母に従順であった。信じてきたものすべてに裏切られたことを理解したとき、少年の人格は変貌した。

事態の発覚を悟った嫪毐は王命を偽って軍を動員し、咸陽でクーデターを起こした。政王はこれを破り、嫪毐を車裂きの極刑に処した。
嫪毐が太后とのあいだに生した罪の子たちも当然処刑する。
さらに事態の根源である呂不韋を免職し、巴蜀の地への流刑を命じた。

君、秦に何の功ありて河南十万戸に封ぜらる! 秦に何の親ありて仲父の号を称す! 其の家属とともに徙りて蜀に処れ!

天運窮まったことを悟り、呂不韋は毒を仰いで自害した。
秦王政は母を事実上喪い、実の父であったかもしれない男に死を命じ、まったく孤独な身となった。

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(秦の統一戦争で活躍した将軍・李信を主人公とする歴史漫画)



虎狼の国の王

「そもそも呂不韋のような他国者を重用するからこのような事が起こる。今後、秦国の枢機は秦人のみが司るべし!」
「そうだ、宮廷に巣食う余所者はすべて放逐すべし!」

これまで呂不韋一派に圧迫されてきた秦の王族や大臣たちが声高に他国出身者の追放を主張した。秦王政は彼らの主張を聞き入れ、「逐客令」を公布しようとした。
だが、「李斯(りし)」という官人が強力な反論を申し立てた。

「これまで秦に繁栄をもたらしてきたのは他国から来た優秀な人材たちです。商鞅しかり、張儀しかり、范雎しかり。彼らに何の罪がありましょう。秦は自国で産出しない宝玉を他国から輸入しますが、人も同じです。王者は細事にこだわらず、大河は細流をも受け入れるものです」

政王は深く頷いた。
あるいは王はこれまで頼りにしていた呂不韋を失って、代わりに依るべき支柱を求めていたのかもしれない。
李斯はこれ以後、政王の政策に深く関わり、やがて丞相(宰相)の地位にまで上ることとなる。

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(李斯「逐客を諌むるの書」)


打って変わって政王は広く諸国に人材を求めた。

たとえば、韓の公族に韓非(かんぴ)という法家の理論家がいる。
韓は中原中部の小国で、常に国際政局に翻弄された。自然、生存のためには手段を問わない現実主義的な政治論が発達する。
それを極めたのが韓非であり、彼はその著作において法と刑罰による徹底的な君主独裁を主張した。
政王は韓非の著作を読んで深く感激し、彼を得るために戦争を起こした。大軍をもって韓に侵攻したのである。王都を包囲された韓は和平を乞うために韓非を咸陽に派遣した。これが王の狙いだった。
もっとも、韓非が政王に仕えることはなかった。あまりにも優秀な韓非によって自分の地位が脅かされることを恐れた李斯が、彼を獄中で謀殺したのである。
権謀術策の理論家、韓非も自分自身の身を守ることはできなかった。しかし彼の現した政治理論書、『韓非子』は今なお読み継がれている。

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(韓非子の原典も和訳されているけれど、この解説書もなかなかの良書)


また、「鄭国(ていこく)」という人物がいる。彼も韓の出身で、土木技術に長けていた。
実は彼はもともと秦の国力を弱めるために意図的に送り込まれた一種の間諜であった。
韓は秦に無意味な大土木工事をさせて国力を浪費させようとしたらしい。
あるとき、鄭国の素性が発覚し、彼は政王の前に引き立てられた。そこで鄭国は必死に弁解した。

「確かに私は韓の密命を受けて送り込まれた人間ですが、私がいま建設している灌漑水路が完成すれば、関中の実りは飛躍的に増えるのです!」
「秦の力を弱めるために送り込まれた人間の言うことなど信用できるか」
「これまで私はこの工事を永遠に完成させないように策動しておりましたが、これからは心を入れ替えて工事の完成を目指します・・・・・・」
「であれば許そう。だが、もし今そちが申したことを違えれば、九族ことごとく死罪と思え」


これら他国の人材を得て、秦王政は明確な戦略を掲げた。
これまで幾世にわたって秦の征服戦争は一進一退の歩みを続けてきた。昭襄王の長い治世を経ても、いまだ秦国は天下の半ばを覆うに過ぎぬ。
これよりのちは、そのような中途半端なことはしない。
氷の如く冷徹に、炎の如く仮借なく、秦の鉄騎は中原を蹂躙する。
六国をことごとく滅ぼし、その王族を降し、その祭祀を絶やし、その国土を秦の郡県に編入する!
周王朝を超え、三皇五帝を超え、華夏内外の万国を一つとし、東西南北九千里の天下をことごとく秦の版図とせん!


統一戦争

秦灭六国形势图
(秦の統一戦争)

紀元前230年、秦の将軍・内史騰(ないしとう)が韓王を捕え、韓の祭祀を絶やし、その地に「穎川郡」を設置した。

韓は滅亡した。

ついに戦国七雄の一角が崩れたのである。
秦は次の狙いを趙に定めた。


さて、長平の戦い以後、上下一体となって国家復興に努めてきた趙には「李牧(りぼく)」という将軍がいた。
李牧は趙の北辺の良将である。
ゴビ砂漠や陰山山脈に近い趙の北部には「林胡」や「楼煩」と呼ばれる遊牧諸部族が割拠していたのだが、胡服騎射を導入した武霊王がそれら諸部族を駆逐し、黄河の大湾曲部の北側に長く長城を築き、雲中・雁門・代の三郡を設置していた。
ところが秦との抗争で趙の国力が弱まった頃、遊牧諸部族がひとつに纏まりはじめた。
その立役者となったのは、黄河大湾曲部の内側、のちに「オルドス」と呼ばれる半砂漠地帯で暮らしていた、「ヒュンヌ」という小さな集団であったらしい。
華夏の史書はこの集団に「匈奴(きょうど)」という文字を当てている。

当時、匈奴に「トゥメン」、すなわち「万人の長」と尊称される英傑が現われた。華夏の史書はこの英傑に「頭曼(とうまん)」という文字を当てている。
匈奴の指導者は「単于(ぜんう)」というので、トゥメンは「頭曼単于(とうまんぜんう)」と呼ばれる。

匈奴集団は頭曼単于に率いられて林胡や楼煩の諸部族を糾合し、趙の北部に襲撃をかけはじめた。
雁門の守備隊長であった李牧は、匈奴がやって来ると城に籠り、匈奴騎兵が野や村々を蹂躙するのを黙視した。

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(雁門関、ただし後世に建造されたもの)

頭曼単于は李牧を侮り、大軍を率いて長城を越えた。遊牧の民は野山を埋め尽くし、ほしいままに馬や羊に草を食ませた。
李牧は匈奴騎兵を趙国深くに誘い込み、伏兵で退路を遮断した。左右両翼から代わる代わる匈奴騎兵に猛攻を加え、匈奴十数万騎を討った。
誇張も大きいだろうが、相当な損害が出たに違いない。匈奴を中核とする部族連合は大きく動揺した。
頭曼単于は李牧を恐れて長城の外へ去り、これより十数年にわたって趙の国境を侵さなかったという。


その李牧が、いま秦への強力な抑止力として存在する。
秦王政は勝利のための手段を選ばない。彼は間者を趙に送り、王の側近に大金を渡して李牧を誹謗中傷させた。結果、李牧は無実の罪によって処刑された。
三か月後、秦の将軍・王翦(おうせん)が趙軍を撃破し、邯鄲を陥とした。

趙は滅亡した。


秦王政はその生涯を通じて、一度たりとも自ら戦場に立ったことはない。しかしこの時は陥落間もない邯鄲に姿を現し、むかし自分と母を苦しめた貧民たちを皆殺しにしたと伝えられる。
趙の残党は東北方に逃れ、燕と結んで徹底抗戦の構えを見せた。

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(秦始皇帝兵馬俑から出土した秦の兵士像)


瞬く間に韓と趙を併呑した秦は、これまでとはまるで違う国になったようだ。その苛烈さ、従来の比ではない。
北辺の燕も、ここに来て深刻に脅威を感じはじめている。
とくに、かつて人質として秦に滞在していたことのある燕の太子・丹(燕丹)は秦王政の恐ろしさを身をもって知り、何としても秦の進撃を阻止することを主張した。
もはやこれまでのように列国の合従によって秦の攻勢を防ぐ余裕はない。非常のときには非常の策を用いねばならない。

燕丹は荊軻(けいか)という名の壮士に、咸陽に潜入して秦王政を刺殺することを依頼した。
秦王に近づくための方策として、秦王の不興を買って燕に亡命していた将軍が自分の生命を差し出した。

「わしの首級を持っていけば、秦王は必ずや貴公を宮殿で謁見するじゃろう。殿上では秦王以外の誰一人、武器を帯びることを許されておらぬ。そこまで行けば、秦王の生命を奪うことは容易い」

むろん秦王暗殺に成功したとしても、荊軻が生きて帰れる見込みは万に一つもない。
燕丹をはじめ、秦王暗殺計画を立案した人々は白い喪服を身にまとい、国境の易水(えきすい)で荊軻を送別した。
荊軻は悲憤慷慨し、高声で別れの辞を歌い、後を振り向くことなく去っていった。

風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還

風は蕭蕭として易水寒し。壮士一度去って又た還らず


彼は燕国の秦への降伏の使者であると称し、咸陽で秦王政に謁見を許された。
降伏の証として秦から亡命していた将軍の首級と、燕国の地図を持参した。荊軻は秦王に地図を献上し、荊軻の面前で王は巻物になった地図を開いていった。

軻、既に図を取りて之を奏す。秦王、図を発く。図、窮まりて匕首見わる。

(司馬遷『史記』刺客列伝)


地図が尽きて短剣が現われた。荊軻はそれを掴むや秦王に躍りかかった。

因りて左手に秦王の袖を把え、右手に匕首を以て之を揕う。
未だ身に至らずして、秦王驚きて自ら引きて起つ。袖絶ゆ。
剣を抜く。剣長くして其の室に操す。時に惶急にして剣堅く、故に立ち抜くべからず。
荊軻秦王を逐い、秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒に起つを意ず、尽く其の度を失う。

(司馬遷『史記』刺客列伝)


殿上の群臣は周章狼狽し、秦王は柱をめぐって刺客から逃げ走った。
衛兵も文武百官も誰一人武器を身に帯びておらず、王の剣は長すぎて鞘から抜くことができなかった。
機転を利かせた侍医が薬袋を荊軻に投げつけた。左右の人々は王に叫んだ。

「王よ、剣を背中に背負いなされ!」

秦王は長剣の鞘を背中にまわしてようやく剣を引き抜いた。荊軻は短剣を投げつけるが、それは王の身体を逸れて銅柱に突き刺さった。
王は剣を手に幾度も荊軻に斬りかかり、八つの傷を負わせた。おそらく秦王政が自ら武器を手にして闘ったのは人生でこの瞬間だけであろう。


荊軻は死んだ。秦王政は激怒し、王翦に燕への進撃を命じた。
紀元前226年10月、秦軍は燕の国都・薊(けい;現在の北京周辺)を落とした。燕王と太子・燕丹は精兵を率いて遼東へ逃れた。秦軍はこれを追撃した。燕王は我が子の丹を殺し、その首級を献上した。

燕は滅亡した。

The Emperor And The Assassin 荊軻刺秦王
(日本では「始皇帝暗殺」として公開され、呂不韋の失脚や趙の滅亡から秦王暗殺未遂までを描く)




紀元前225年、将軍・王賁が魏国に兵を進め、黄河の水を引いて魏の都・大梁を水攻めにした。三ヶ月を経て城壁が崩れ、魏王は降伏。秦軍はこれを処刑した。

魏は滅亡した。


ついで楚への大攻勢が計画された。
将軍・李信は二十万の兵士を求め、王翦は六十万人の兵士が必要だと主張した。

「王翦は老いたか」

政王は李信に二十万を与えて楚に侵攻させたが、楚軍は激しく反撃した。
当時、楚には項燕(こうえん)という猛将がいた。おそらくこのときの楚軍の司令官は項燕であろう。秦軍は7人の指揮官を失って撤退した。
秦王は激怒し、自ら王翦に詫びて出馬を求めた。

「わしは病でしてな」
「そんなことを言うな!」
「六十万は絶対に必要ですぞ」
「万事そちに任せる」

紀元前225年、王翦は六十万人を率いて楚に出陣した。
このとき、王翦は見送りに来た政王に向かって幾度も褒賞を求めた。王と別れてからも、不安になったのか使いを送って、褒賞を忘れないようにと念押しをした。
側近があまりにも情けないと王翦を諌めると、王翦はくろぐろとした眼を向けて静かに説明した。

「そうではない。王は人間を信じることができぬ御方だ。いま秦の本国は空となり、軍はすべてわしが預かっておる。褒美のことしか頭にない欲深な老人と思って頂かなければ、わしは王に殺される」


王翦は軍を何ヶ月も楚との国境に止めて無為に過ごした。年が明けた。
楚軍は王翦が本気で攻め入るつもりがないと考えて撤収した。秦軍の将兵は暇を持て余した。

「頃合いか」

突然、王翦は堰を切って濁流が溢れるような勢いで軍を楚国に侵攻させた。東へ逃れる楚軍を急追し、将軍項燕を斬った。翌年、楚王を捕え、楚都を陥落させた。

楚は滅亡した。

かねてより秦を憎む楚の人々の恨みは骨髄に徹した。「楚は三戸と雖も必ずや秦を滅ぼさん」という予言が風のように広がった。
この頃、項燕の末子の「項梁(こうりょう)」という青年が一剣を腰に帯び、「籍(せき)」という名の甥とともに行方をくらませた。
彼らが歴史の表舞台に登場するのは、これから十数年後のことである。

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(戦国時代の青銅剣)


そして最後に斉が残る。

斉はこの頃、数十年にわたって戦火を免れ、国情は弛緩しきっていた。
秦は統一戦争を始めるにあたって斉の宮廷の貴人たちに金をばら撒いて不介入政策を維持させた。
そして天下に秦の他に残るのが斉一国となったいま、斉の高官たちは王に向かって異口同音に秦への降伏を勧めた。
だが、斉王が秦に向かって出発しようとしたときに、城門の前で王を諌める忠臣がいた。

「王が王であるのは何故ですか。王が王だからですか。それとも社稷の神々が王を王と認めるからですか」
「社稷の神々ゆえだ」
「であるならば、いま王は社稷を捨ててどこへ行かれようというのです」

とはいっても、もはや斉の取りうる手段は無条件降伏以外にない。
明けて紀元前221年、王賁の率いる秦軍が燕から南下を開始した。抵抗を試みる者はなく、秦軍は無人の野を行くごとく進撃した。
斉王は秦軍に連れ去られ、途上で飢え死にしたという。

斉は滅亡し、秦はついに六国を平定した。


始皇帝の帝国

秦王政は華夏を統一した。
その版図はかつての周王朝を上回る。周王朝の勢力圏外であった長江流域や、異族の蟠踞する北辺や東方沿海の地域も秦の支配下となったからだ。
さらに、その支配は周王朝とは比べ物にならないほど強固である。秦は天下列国の王たちをことごとく廃位または殺害し、旧六国の領域を秦王に直属する郡県に再編したからだ。
華夏世界の歴史上はじめて、東西南北九千里、およそ270万平方キロメートルにおよぶ天下全域が、たったひとりの絶対君主の直轄支配下に置かれたのである。


六国平定の祝宴において、秦王政は自らの未曾有の地位を表わすに相応しい称号を群臣に諮問した。
かつて、華夏の盟主であった周の支配者は「王」を称したが、戦国時代に入ってから列国は次々に王号を称したため、これではもはや物足りない。王を凌駕する権威が必要だった。

丞相・李斯は古書を博捜した。
かつて殷王朝の支配者は「帝」を称したといわれている。近年では斉王と秦王が東帝と西帝を自称したこともある。だが、彼の主君がこうした前例ある称号に甘んじるとは思えなかった。

秦王政は最後に自ら新しい天子の名乗りを定めた。
神話時代の三皇と伝説の五帝の称号を合わせ、「皇帝」と称する。その意味はいうなれば「光り輝く至高の神」。
政は自らの徳は三皇を匹敵し、功績は五帝を凌ぐものと信じたのだ。

歴史上で最初に出現した「皇帝」である政は、死後に「始皇帝」と呼ばれることになる。

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(小篆体で書かれた「始皇帝」)


始皇帝・嬴政は多様なる天下の統合を新たなる帝国の理念とした。
あらゆる不調和は唯一の秩序へ止揚されるべきだった。戦国の諸国の異なる文字、車軌、度量衡が統一された。

天下は旧来の七つの王国から36の「郡」に再編された。
「郡」はいくつかの「県」から成り、個々の「県」は城郭で囲まれた県城を中心におよそ百里(約40キロ)四方を管轄する。
「県」の下はまた複数の「郷」に分かれ、郷はさらに複数の「里」を管轄する。この「里」が行政の最終単位で、個々の集落にあたる。
「郡」と「県」までは帝国中央の咸陽から直接官吏が派遣される。
郡県の長は地域の実力者(父老)や現地雇用の末端行政官を通じて郷里を統制し、最終的には四千数百万にのぼる人民ひとりひとりにまで、唯一なる「皇帝」の支配が貫徹された。
個別的人身支配」と呼ばれる、華夏に前例を見ない統制国家の時代がはじまったのでである。

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(秦の始皇帝・嬴政)


だが、いかに制度を整えたところで社会の実情は容易に変わらない。相変わらず旧六国の文化は秦とは異風であり、東方の人々は始皇帝のことも遠い秦の「王」としか認識していない。
それゆえ、始皇帝は統一直後に咸陽から諸地方に向けて「直道」と呼ばれる軍事道路を整備し、度重なる天下巡幸をはじめた。
精強な秦の大軍勢と壮麗な宮廷をまるごと引き連れて征服まもない東方地域を巡り歩き、「皇帝」というものがいかに尊貴な存在であるかを人々に見せつけなければならなかったのだ。
決して身体頑健ではない始皇帝にとって、それはとても辛いことだったに違いない。


さらにもうひとつ、理念と現実には悩ましい齟齬があった。秦帝国はかつて周王朝が封建した国々の領域をことごとく併せ、夏の禹王の「九州」を覆ったが、現実の大地はさらにその外縁へ果てしなく広がり、そこには数多の「まつろわぬ民」がいる。
これら異族の輩にも「皇帝」の権威を認めさせなければ、天下の統合は終わったことにならない。


「華夏」と呼ばれるユーラシア大陸東方の文明早熟なる沃土。それを取り巻く世界は当時どのようであったか。

北には趙に駆逐されつつも華夏再侵の機を伺う頭曼単于の匈奴をはじめ、遊牧諸民族が割拠する。

秦の西方には「河西回廊」と呼ばれる砂漠が連なり、はるか遠くのタリム盆地にはイラン系諸民族の都市国家(セリンディア諸国)が点在する。もっとも、そこまでは始皇帝の視界にない。

巴蜀(四川盆地)からはどの方向に進んでも険しい高山が続くが、はるか南の雲南には楚人とタイ系諸民族の混淆した「滇(てん)」と呼ばれる小王国が成立していた。もっとも、おそらくこれも始皇帝の視界には入っていない。

長江流域の楚の地の南には「百越」と総称される諸民族が割拠し、「閩越」(現:福建地方)、「東越」(現:広東地方)、「アウラック」(現:ベトナム北部)など、いくつかの集団はそれなりに国家らしきものを形成しつつある。
彼らは銅鼓を崇拝していた。インドシナ半島のドンソン文化に通ずる習俗である。

燕の東には「朝鮮」と呼ばれる小国が存在したことがおぼろげに伝えられる。華夏の史書によればこの国は殷人の末裔が建てたというが、疑わしい。
戦国末期の燕はゆるゆると東へ勢力を広げつつあったが、秦の統一戦争によってこの動きは一時的に停止した。
「朝鮮」の向こうには半狩猟・半農耕民族の部族集団が割拠する半島が南に伸び、その先にはまだ名前のない列島がある。
当時、このあたりの動向はすべて曖昧模糊として定かでない。

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(始皇帝晩年における秦帝国の最大版図)


始皇帝は楚地の経略に続いて、南のかた百越諸部族の平定を厳命した。
秦軍は長江を越えて、深く暑熱の地に入った。密林と山々、謎めいた諸部族が展開するゲリラ戦、未知の疫病が蔓延する瘴癘の地。
秦の将兵は十のうち八、九が生命を落としつつ、皇帝の意志を体現すべく、とにもかくにも南進を続けた。
当然ながら、帝国の支配は百越の地を面として覆うには至らない。ただ、史書には断片的にしか記されていない苦闘の末に、秦の将兵は天下の南を画する「南海」に到達した。
始皇帝はこの地にまで郡県を設置した。まつろわぬ百越諸部族に帝国の実効支配を貫徹するには、おそらく長い歳月が必要であろうと思われた。

また、始皇帝は将軍・蒙恬(もうてん)に30万もの大軍を預けて北方に侵攻させた。
秦軍は帝国の威信をかけて、黄河大湾曲部の南側(オルドス地方)から遊牧諸民族を一掃し、戦国列国が築いた長城を接続し、華夏北域のすべてを長大な城壁(長城)で囲い込もうとした。

天下の統一は平和と秩序の訪れを意味せず、むしろさらに果てなき混沌の始まりを意味していたのだった。

始皇帝 -勇壮なる闘い-
(天下統一後の匈奴との戦いを描く)




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中華世界の歴史12 四海帰一の予兆

凡冠帯之國、舟車之所通、不用象譯狄鞮、方三千里。
「およそ礼制にかなった服装を身につけ、水陸の交通が通じ、通訳を必要としない領域は、三千里四方である」
 ――(『呂氏春秋』第十七巻 審分覧第五 慎勢篇)

自恆山至南河、千里而近。自南河至於江、千里而近。自江至於衡山、千里而遥。自東河至於東海、千里而遥。自東河至於西河、千里而近。
自西河至於流沙、千里而遥。西不盡流沙、南不盡衡山、東不盡東海、北不盡恆山。凡四海之内、斷長補短、方三千里。
「恆山から南河に至るまでは千里にやや及ばず、南河から長江に至るまでは千里にやや及ばず・・・・・・およそ四海のうちは、長短補正すれば三千里四方である」
 ――(『礼記』王制篇)



六国合従

紀元前340年、秦は強国・魏を破って関中統一を達成し、周王朝より覇者と認められた。これより列国は秦に対する強い警戒を開始する。
この状況のなかで、ひとりの伝説的な戦略家が登場した。その名を「蘇秦(そしん)」という。


蘇秦は洛邑の人で、若くして斉に赴き、兵書と弁論遊説の術を学んだ。それをもって大国の王の知遇を得て、天下に名を知らしめることが望みであった。
最初、彼は秦国へ赴き、恵文王に自分の才能を売り込もうとした。
しかし質実剛健な秦国では蘇秦のような人物は受け入れられず、幾度献策を行なっても王からは何の返事もなかった。
諦めて洛邑に帰れば、両親も妻もそしらぬ顔をして仕事の手を止めない。

「あたりまえじゃないの、いい年した男がまともな職にも就かないでほっつき歩いてさ! 情けないったらありゃしないよ」


発奮した蘇秦は一年間部屋に籠ってさらに勉学に励み、ついに「王者の心を自在に操る術」なるものを会得する。
蘇秦はその術を引っ提げて、再び天下を巡った。

「燕王陛下、燕国が秦の脅威を免れているのは趙国が貴国の南を守っているからです。趙国とのよしみをさらに固くすることが大切です」
「趙王陛下、秦が趙国に全面攻勢をかけないのは、韓と魏の動向を気にするからです。韓と魏は小国で、単独で秦に対することはできません。韓と魏を後援しましょう」

各国それぞれに隣国との融和を説き、そしてダメ押しをする。

「西のかた、秦は他国併呑の野望を蔵する虎狼の国です。いま、諸侯の土地は秦の五倍、諸侯の兵卒は秦の十倍。韓、魏、斉、楚、燕、趙の六国がひとつとなり、団結して秦に対抗すべきです。この件、なにとぞ熟慮の程お願い申し上げます」

於是蘇秦爲従約長、幷相六国、北報趙、車騎輜重擬於王者。
(『資治通鑑』巻二・周紀二・顕王三十六年条)



紀元前333年、ついに蘇秦は六国(りっこく)の大同盟を成立させ、六国の宰相を一身に兼任した。
華夏の歴史が始まって以来、もっとも大規模な国際協調である。目的はいうまでもなく、いまや六国すべての脅威となった秦への対抗である。
これを世に「合従(がっしょう)」という。東方列国が縦に連なり、秦に備える故である。

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(合従連衡)


紀元前318年、秦が逢沢で諸侯会盟を目論んだことを機として楚・趙・魏・韓・燕の五国連合軍が秦に攻め込んだ。
ところが、この連合軍は函谷関で秦軍に大敗してしまった。


北方から流れ下った黄河の激流が渭水と合流して大きく東へ向きを変えるあたり、南北より急峻な山が迫り、狭隘な渓谷を一筋の細い道が通っている。それが中原と関中を結ぶただひとつの幹線である。
そこに秦の孝公が築いた函谷関の要塞は、高さ70メートルの城壁を備えていたといわれる。

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(古代の函谷関があった渓谷)

空前の大要塞を前に呆然とする五国連合軍を秦軍が急襲。たちまち連合軍は雪崩を打って敗走した。
秦軍はこれを追撃し、最後尾の韓軍を破って斬首8万の戦果を挙げた。
翌年、蘇秦が斉国で殺害され、魏が大同盟から離脱して秦に和を請うた。
合従は瓦解した。


秦の逆襲

五国連合軍を撃退した秦国は逆襲に打って出る。
その第一弾は、巴蜀征服である。

秦の本土である関中盆地の南には険しい秦嶺山脈と米倉山脈が聳え、その向こうに四川盆地が広がっている。
四川は東・北・南の三面をいずれも峻険な山々に囲まれ、西はチベット高原に接する。
出入りは困難を極めるが、内部の盆地は肥沃で、外界とほとんど接触を持たないまま独自の歴史を刻んできていた。

紀元前9世紀頃に三星堆文化が滅亡した後には、西の成都地方を拠点とする「蜀(しょく)王国」と、東の重慶地方を拠点とする「巴(は)王国」が成立した。
蜀地を治めた伝説の帝王、蚕叢(さんそう)、柏灌(はくかん)、魚鳧(ぎょふ)。
死から蘇って蜀王の宰相となった鼈霊(べつれい)。鼈霊の妻への道ならぬ恋に身を焦がし、ついにホトトギスと化した望帝杜宇(とう)。
巴蜀の歴史は神話的な物語が僅かに伝えられているだけだが、春秋戦国の戦乱をよそに何百年ものあいだ安定を維持していたことは確からしい。
いずれも周王朝の主導する国際秩序とは最初から無縁で、華夏の一員と見なされたことは一度もなかった。

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(戦国時代前期の四川盆地周辺)

華陽国志 (中国古典新書続編)

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(古代蜀国の歴史をわずかながら伝える文献)


華陽国志1 妖姫の末裔 (C★NOVELSファンタジア)

(「華陽」とも呼ばれた古代蜀国を舞台とする小説で、もちろん人名その他設定はほとんどすべて想像)


紀元前316年、巴国と蜀国の対立に乗じて、将軍・司馬錯率いる秦軍が四川に侵攻した。巴蜀両国は呆気なく崩壊し、秦は一挙に広大な四川盆地を併有した。
今や天下のおよそ三割が秦の領土である。加えて四川から長江三峡を下れば、楚国の側腹を衝くことも可能となる。列強の勢力均衡は大きく揺らいだ。

秦滅巴蜀
(河西を奪還し、巴蜀を滅ぼし、同時期に遊牧民の義渠戎をも駆逐し、秦は目覚ましく版図を拡大した)


第二弾は、楚国孤立化である。
秦は、越を併合して国勢を回復させた楚を怖れ、楚国を六国の他の国々、とくに中原東部の雄である斉国から切り離すことに心を砕いた。
立役者は蘇秦の元学友にして好敵手、「張儀(ちょうぎ)」である。

紀元前313年、張儀は楚に赴き、楚の懐王(在位:前329~前299)に説いた。
「大王よ、斉と断交して秦と和議を締結頂ければ、六百里の土地を献上しましょう」

楚の国論は割れたが、無血で広大な領土が手に入る可能性に目のくらんだ懐王は反対派の口を封じて秦との講和に同意した。
そればかりか、秦に対する誠意を見せようとわざわざ斉に使者を送り、斉の宣王(在位:前319~前301)を散々に罵らせた。
斉は楚の不実に怒り狂い、外交方針を一転して秦と手を結ぶことにした。
楚国を孤立させる戦略は成功した。

ここまでやったところで、張儀は秦の咸陽に現われた楚の使者にぬけぬけと言い放った。

「さあ、これがお約束の六里の土地でございます。謹んで楚王に献上奉ります」
「ろ、六里ですと!? 六百里の約束では!」
「何のことだか分かりかねます」

虚仮にされた楚の懐王は激怒し、秦国出兵を下令した。

紀元前312年春、楚の大軍が関中の東南、丹陽で秦軍と激突する。
このことあるを予期して早くから軍備を整えていた秦軍は、楚軍を撃破して斬首8万の大戦果を挙げ、そのまま漢中郡を奪ってしまった。


楚王はますます怒り狂い、総動員令を発して再び秦に攻め込んだ。
楚軍は関中盆地に突入し、藍田(らんでん)まで侵攻した。咸陽は楚軍の目前にあり、実に戦国時代を通じて秦国最大の危機であった。
しかし、秦はまたしても楚軍を打ち破る。さらに韓と魏が隙に乗じて楚の本国に侵入し、楚の都、郢(えい)を襲撃した。楚の国際的孤立は深刻だった。
楚軍は撤退し、秦に停戦と和議を請うしかなかった。


張儀は六国間の提携を次々に切断し、かわりに六国それぞれが秦と和議を結ぶように活動した。
蘇秦の構築した「合従」に代わり、「連衡(れんこう)」と呼ばれる体制が生み出されたのである。
この状況のなかで、秦は最大の敵手である楚国をさらに追い詰めていく。


昭襄王、登場

紀元前311年、秦の恵文王が崩御。
第2代国王、武王の短い在位を経て、紀元前307年に第3代国王、昭襄王・嬴稷(えいしょく; 在位:前307~前251)が即位した。
昭襄王はまさしく「帝国主義者」だった。
彼は謀臣・范雎(はんしょ)の説いた「遠交近攻策」、すなわち遠方の大国と結んで近隣の小国を併呑していくという戦略を採用し、他国の領土を次々に奪い、征服した土地に秦の法制を施行した。
そこには情も信義も憐れみも入る余地がない。昭襄王は使える策略は何でも使い、屠城や虐殺をもためらわずに命じ、ひとえに自国の拡大を目指した。
彼の半世紀を超える統治を経て、虎狼の国は天下一統への道を駆け上っていく。

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(秦国第28代君主にして始皇帝の曽祖父、昭襄王・嬴稷)


昭襄王は即位当初、ひとまず楚と講和した。
ところが人質となった楚の太子が揉め事を起こして秦人を殺害のうえ、無断で帰国してしまう。
その報復を名分に、紀元前299年に秦が楚の8つの城を奪った。

その後、昭襄王は楚の懐王に書簡を送る。
懸案の太子は現在、斉国へ去ったとのこと。怒りも収まったので仲直りをしようという。


楚の宮廷では、斉と同盟(合従)して秦に対抗しようとする派閥と、秦と同盟(連衡)して安泰を得ようとする派閥とが対立しており、両者が論戦を繰り広げた。
合従派の筆頭は名族出身の「屈原(くつげん)」である。屈原はまなじりを決して叫んだ。

「王よ、これまで我が国は幾度秦の策謀に引っかかってきたことか! 丹陽と藍田の恥辱をお忘れですか! 虎狼の国など信用してはなりませんぞ!」

しかし高官たちの多くは秦との和平を求め、懐王は会盟のために国境の武関に赴いた。
秦はその懐王を拘束し、そのまま咸陽へ拉致してしまった。

「御国へ帰りたければ、領土の西半を割譲して頂こう」
「の、呑めるか! そのような無体を!」

秦は楚国への帰路を閉鎖した。
懐王は趙に逃れようとして果たせず、魏に逃れようとして果たせず、捕えられ、憂悶のうちに咸陽で没した。


我が君は還らず・・・・・・。

懐王の死が伝えられると、楚の人々は誰もが胸も張り裂けんばかりに泣いた。無能な王ではあったが、秦のやり方はあまりにも卑劣だった。
楚だけでなく、他国もこの事件から秦に対する反発を強めた。斉・韓・魏・趙、それに小国の宋を加えた連合軍が秦に出兵するが、またも秦軍に阻まれて虚しく撤退した。

ただ、皮肉なことに楚国で誰よりも強く秦との講和に反対した屈原は、権力闘争に敗れて宮廷を追放されてしまう。
屈原は、遠い昔から祈りや占いをもって楚国の宮廷に仕えた「巫」の末裔だったという。
喪われゆく長江の神々、楚国の栄光と伝統・・・・・・悲しみを胸に屈原は湘水のほとりを彷徨い、数々の詩を残した。

帝子、北渚に降れり。目は眇眇として予れを愁えしむ。
嫋嫋たる秋風、洞庭 波だちて木葉下る。
(「湘夫人」)

屈原、既に放たれて、江潭に游び、行くゆく沢畔に吟ず。
顔色憔悴し、形容枯槁せり・・・・・・。
(「漁夫辞」)

乱に曰く、已んぬるかな。国に人無く、吾を知る莫し、又た何ぞ故都を懐わん。
既に与に美政を為すに足る莫し、吾れ将に彭咸の居る所に従わんとす。
(「離騒」)


絶望の果て、屈原が汨羅(べきら)の淵に身を投げたのは、それから10年あまり後のことだった。


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(屈原)


紀元前294年、秦は若き将軍・白起(はくき)を起用した。
彼こそは春秋戦国時代を通じて最強の軍事指揮官であり、その生涯に百万の敵を屠り、天下の半分を秦に帰せしめた人物である。

紀元前293年、白起は韓・魏連合軍を伊闕(いけつ)で撃破し、24万人を斬首。
紀元前289年、白起は司馬錯とともに魏を攻め、61城を奪取。
秦は大きく河南に勢力を拡大する。

そして紀元前279年、白起は司馬錯とともに楚に攻め込み、楚都の(えい;現在の湖北省荊州)を陥し、楚国歴代王の陵墓である夷陵を焼き、巫郡と黔中郡を奪い、実に楚国の西半分を一挙に制圧した。空前の大功であった。

楚は半世紀ほど前に征服したばかりの淮水流域に拠点を移す。
秦の支配下となった長江中流域では、商鞅の変法にもとづく厳格な法治主義が導入された。それは従来の楚の制度や文化、社会規範とはまったく相容れないものだった。
1975年に湖北省で出土した「睡虎地秦簡」からは、秦の末端行政の現場で、現地住民との間にさまざまな軋轢が続いていたことが窺われる。


楚雖三戸、亡秦必楚(楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすものは必ず楚ならん)

たとえ国破れて、楚人の生き残りがわずか三戸となっても、必ずや楚人の血を引く者が秦を滅ぼすであろう・・・・・・。
欺かれ、王を拉致され、苛烈な征服戦争の末に厳しい占領統治を受けた楚国の人々は、秦への深い怨念を子や孫に語り伝えた。


なお、ちょうどこの時期に楚のとある将軍が、はるか南西の雲南地方に遠征中であった。
遠征軍は実に不運だった。未開の諸部族が割拠する険しい山々を越え、艱難辛苦の末に雲南まで達したところで、帰途を秦に遮断されてしまったのだ。
本国との連絡が不可能になると、やむなく彼らは征服した雲南地方に根を下ろし、自分たちの国をつくることにした。
その国を「滇(てん)国」という。彼らの動向が再び華夏の視界に入るのは、二百年ほど後のことである。


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(白起が陥落させた楚の都・郢の想像図)


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(巴蜀・長江中流域を奪い、秦国はさらに拡大を続ける)


東の覇国

一方その頃、中原ではもうひとつの大国が戦乱を巻き起こしていた。斉である。

事の起こりは紀元前315年、で内紛が勃発したことだった。
かねて燕国第2代国王の噲(かい; 在位:前320~前314)は異常なまでに宰相を信任しており、ついに宰相に王位を譲るとまで言い出した。
燕国内は大混乱となり、斉がこれに乗じて侵攻。燕国全土を制圧し、一躍中原東部の覇権を掌握した。

戦国時代(紀元前350年頃)北方地図
(『戦国策』によれば、燕は東は朝鮮・遼東、北は林胡・楼煩、西は雲中・九原、南は呼陀河・易水を境としていたという)


斉の宣王の子である湣王(びんおう; 在位:前300~前284)は、紀元前288年に「帝」を称した。
列国が王号を称するなかでさらに権威ある称号を模索した結果、伝説の「三皇五帝」にならって、半神ともいうべき「帝」の称号を復活させたのである。

同年に秦の昭襄王も「帝」を称したため、歴史上、斉を「東帝」、秦を「西帝」と称する。
列国は斉秦両国の驕りに色めき立った。両国はすぐに帝号を撤回するが湣王は斉の国威を高めることを諦めず、今度は西隣の小国、宋を力づくで滅ぼした。
さらに楚の国境を侵し、三晋に攻め入る。最終目標は周王朝を滅ぼして、今度こそ華夏全土の王者となることだった。


一方、燕では太子が斉軍を追い出して王位につき、国家再建のために奮励努力していた。
各国の人材を集め、北の遊牧民を退けて東西二千里の長城を築き、秦にならって集権改革を推進。その目的は燕を滅亡寸前に追い込んだ斉への復讐である。

傍若無人な斉への反感が東方諸国に広がると、燕はひそかに対斉同盟を組織した。加わったのは燕・韓・魏・趙・楚の5ヶ国である。
紀元前285年、燕の名将・楽毅(がくき)が諸国連合軍を率いて斉を急襲。このときには同盟諸国に加え、秦までが援軍を出している。
油断しきっていた斉軍は大敗し、首都の臨淄(りんし)も陥落してしまう。今度は斉が滅亡寸前に追い込まれたのである。斉の湣王は逃走先であえなく殺害された。

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(三国蜀漢の諸葛亮も憧れたという名将・楽毅が主人公)


だが、そこで思わぬ事態が起こる。楽毅を信任していた燕王がにわかに崩御するのだ。

隙に乗じて斉の知将・田単(でんたん)が燕の新王と楽毅を離間し、楽毅は趙に亡命してしまった。
燕軍の士気が地に堕ちたのを見て取り、田単は奇策をとる。千頭の牛の角に剣を着け、尾に燃える松明を括り付けて敵陣に放ったのだ。
火に煽られて怒り狂った猛牛の群れが燕軍に突入し、それに続いて五千の斉軍が突撃する。燕軍は潰走した。
これ以後、田単は凄まじい勢いで燕に占領された諸城を奪還していき、たちまち斉国を復活させた。

とはいえ、この一連の戦争を通じて中原東部の雄であった斉と燕はいずれも消耗し、華夏全体を見れば秦の一強ぶりがさらに際立つことになった。


四海帰一の予兆

戦国七雄のうち、小国・魏と韓は秦に対抗しえず、楚は国土の西半を失い、斉と燕は熾烈な対決によってともに疲弊した。
西方より華夏に版図を広げる秦の前に最後に立ちはだかるのは、北の大国・だった。

趙は三晋のなかでもっとも北に位置し、遊牧民族の居住地と境を接している。
華夏の人々は馬にひかせた戦車(チャリオット)に乗って戦うのが常だったが、遊牧諸民族はすでに数世紀前に西方から伝わった新技術、「騎乗」を会得していた。

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(後漢時代の「戦車」)

この時代には足を固定するあぶみが発明されていなかったため、馬にまたがって戦うのは至難の業だった。
しかし直に馬に乗ることができれば高価な戦車をつくる必要がなくなり、軍の機動力も飛躍的に高まる。
そこに目をつけた人物がいる。趙国第6代君主、武霊王(在位:前340~前295)である。

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(華夏の伝統的な衣装を身に着けた武霊王)

紀元前310年、武霊王は趙に隣接する小国、「中山(ちゅうざん)国」と戦った。この国はもとは周王朝に封建されたものではなく、狄と呼ばれる異族が建てた国であるという。
趙軍は中山に敗退を重ねた。武霊王は策を練るために自ら前線を視察し、趙の北方に広がる無窮の砂漠を見たときに、騎乗の利に気づいた。

「中山は強く、我が国の北には燕と東胡がおり、西には楼煩と秦と韓がおる。これらの国々に対抗して広い国土を守るためには、狄の民のごとく、直に馬に乗って弓を射る術を身につけねばならん」

群臣ははじめ、こぞって反対した。
華夏の貴人は伝統的に裾を引きずる長衣を身にまとっており、これを着たまま馬に乗ることなど不可能である。
だからといって華夏の誇りを捨て、蛮夷のように身体に密着する衣服を着て騎乗するなど受け入れがたい。そんなことをすれば趙は戦国七雄どころか、華夏の一員とすら見なされなくなってしまおう。
しかし武霊王は粘り強く群臣を説得し続けた。

「これは趙を守るために不可欠な改革なのだ。わかってほしい」
「いにしえの聖王たちも時に応じて振舞を変えて異民族の風習に合わせたではないか。臨機応変も大切なことだ」

紀元前307年、ついに趙国は武霊王の改革を受け入れ、「胡服騎射」を導入する。
遊牧民に倣って衣服を替え、戦車に乗らず馬に直乗りして戦うことになったのだ。

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(胡服騎射)

武霊王は優れた戦術家で、騎兵を駆って中山を滅ぼし、秦と対峙した。
惜しくも晩年に反乱軍に包囲されて餓死するが、その後も趙は北方の雄国として存在感を維持する。


紀元前279年、武霊王の子の恵文王(在位:前298~前266)が秦の昭襄王と会見した。
昭襄王は祝宴のさなかに恵文王に琴を奏でるように求めた。華夏随一の大国の主として、趙の君主を格下扱いしたのである。
やむなく恵文王は一曲を奏でる。すかさず秦の史官がそれを記録した。

「某年某月、秦王と趙王が相会して飲酒し、秦王は趙王に命じて瑟鼓せしむ」

趙人たちは激怒した。このとき、趙の臣下の藺相如(りんしょうじょ)が昭襄王に迫った。

「秦王も鼓を打たれよ」

昭襄王は拒否する。すると藺相如は昭襄王の胸倉をつかまんばかりの剣幕で怒鳴った。

「それがしと王のあいだは五歩しかない! 打たれぬとあらば、ここでそれがし、己の首を刎ねて秦王陛下に鮮血を注ぎ奉ろう!」

周囲は一斉に緊迫した。昭襄王の護衛兵たちが抜刀すると、藺相如は目を怒らして彼らを睨み据える。昭襄王はやむなく一回だけ鼓を打った。

かくのごとく、趙は強国・秦を前にしても一歩も退かぬ誇り高い国であった。

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(藺相如と昭襄王の対決は京劇の名場面になっている)


だが紀元前262年、秦と韓の戦争が趙に波及し、ついに秦趙決戦の火蓋が切られた。
趙にはこの時代を代表する猛将、廉頗(れんぱ)がおり、刎頸の友である藺相如とともに長年のあいだ趙を守り続けていた。
老練な廉頗は秦軍と無理に戦おうとせず、長平(ちょうへい)の城を固く守って秦の進撃を停滞させた。
いくつかの砦は陥落したものの、戦線は趙国南西の上党郡で二年以上も膠着しつづけた。

苛立つ秦は趙の国内に間者を放ち、盛んに流言を広めた。

「老将の廉頗は城に籠るだけなので、秦は対処がしやすい。若い指揮官が出てきて積極策を採ってくると、秦は対処に困る」

趙王はこの流言に見事に惑わされて廉頗を解任した。後任として指名されたのは趙括(ちょうかつ)という青年将軍である。
趙括は趙国有数の知将・趙奢(ちょうしゃ)の子で、軍事理論に精通する天才青年として知られていた。
兵法書を隅々まで暗記し、机上の戦術論では父の趙奢をも軽く論破する。しかし彼には唯一、致命的な問題点があった。
一度たりとも本物の戦場に出たことがなかったのだ。

老臣たちは趙括の経験不足を危惧して王を諌めたが、趙王は撥ね付けた。

「廉頗の消極策はもうたくさんだ! 秦は趙括を恐れておる!」


趙括は着陣するや、廉頗が定めた軍制をすべて無効とし、全軍を再配置した。完璧に教科書通りの配置であった。

「聞きしにまさる天才よな。惜しむらくはその天才が机上の理論に限定されていることだ」

迎え撃つのは歴戦の名将、白起である。
彼は前線に出た趙括を囮で誘い出し、伏兵で背後を遮断し、騎兵を使って趙軍の指揮系統を寸断した。

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(長平の戦い)

大混乱に陥った趙軍は膨大な損害を被り、われがちに長平へ退却した。
そのまま秦軍は城を囲むこと46日。情勢を打開すべく教科書通りに打って出た趙括は、全身に矢を浴びて戦死した。
趙軍45万人が秦に降伏した。
捕虜の数はあまりに膨大だった。食料を確保するのも大変な難事であり、もし暴動でも起こされれば収拾がつかなくなる。白起は悩んだ末、結局捕虜の45万人をすべて生き埋めにしてしまった。
趙国の軍事体制は崩壊した。


白起賜死

長平の戦いで圧倒的勝利を収めた秦は、三方向から趙国心臓部に侵攻し、首都の邯鄲(かんたん)に向かって怒涛のように進撃した。
邯鄲は震えた。45万人の士卒を殺戮された趙国にもはや残存兵力はない。
――が。
突如秦軍は停止し、年が明けるとともに一斉に趙国から撤退していった。まるで詐術のようだった。


これは秦が趙を併呑してとめどなく強大化することを危惧した韓と魏が秦都・咸陽(かんよう)に密使を送り、秦国宰相の范雎(はんしょ)を説得したためであったという。

「白起将軍が邯鄲を落とせばその功績は比類なく、もはや貴公の椅子を譲るしかないのでは?」
「それに秦が邯鄲を落としたとて、趙の民は秦の統治に安んぜず、四方の諸国が介入して趙の領土を分割し、秦にはなにも残りますまい」

不安を覚えた范雎が昭襄王を説き、王もまた不安を覚えた。両国の停戦が成立し、優勢に戦いを進めていた白起はある日突然撤兵を命じられた。

「何故だ! 咸陽は何を考えている!」

帰国後に事情を知った白起は范雎と昭襄王に対して抜きがたい不信を抱きはじめた。


ほどなく秦と趙は再び戦端を開いた。范雎の旧敵である「魏斉」なる人物を趙が庇護しているというのが理由だった。
だが、出陣を命じられた白起は病を理由に家を出ようとしなかった。秦軍は邯鄲を包囲するも反撃を受け、二千人近くが戦死した。

「白起の病は癒えたと聞く。あらためて出陣を命じる」
「お断りする。いまの趙国は長平の恥を雪ぐべく君臣一体となって国家再建に努めており、諸国も趙を支援する。勝機はすでに去った」

白起の予見通り、楚国の宰相・春申君(しゅんしんくん)と魏国の公弟・信陵君(しんりょうくん)が趙国救援の兵を発し、邯鄲城外で秦軍を撃破した。


白起は聖人君子ではないので、秦軍の苦境を知るとこんなことを言ったらしい。

秦、臣の計を聴せず。今にして如何

この言葉が王の耳に入った。
昭襄王は激怒し、白起の全ての栄爵を剥奪して流罪を命じた。
だが、白起は咸陽郊外に留まって動こうとしない。これがますます王の怒りを煽った。ついに昭襄王は一振りの剣を白起に与えた。

「これは私に死ねということか?」
「いかにも、陛下は貴公に死を賜った。潔く自裁されよ」
「私はこれまでどれほどの罪なき生命を奪ったか、数えることもできぬ。およそ地上に私ほどに罪ある者もあるまい。よかろう、これが私に相応しい裁きだ」

血風万里の名将、白起は自ら生命を絶った。秦の征服戦争はこれ以後しばし停滞する。

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(秦始皇帝兵馬俑より出土した秦の武官像)


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