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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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ポーランド王国の夜明け前 映画「THE レジェンド 伝説の勇者」

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いつのまにか日本でも、かなりマイナーな国のかなりマイナーな歴史を題材にする映画が出回るようになって喜ばしい限り。
たまたま古代(中世?)ポーランドを舞台にした作品なんぞを発見したので、軽く紹介しておきます。

ミハウ・ジェブロフスキー監督「THE レジェンド ―伝説の勇者―」

舞台は9世紀ポーランド。
最初の統一国家であるピアスト朝はまだ生まれず、キリスト教化もしていない時代です。

「ポピエル」という王がいました。王といっても、ポーランド中部の部族連合の盟主レベルのようです。
その王がドイツから来た元奴隷の王妃に唆されて一族を毒殺し、強引に自分の息子に王位を継がせようとする。
それに反発して王の親衛隊長のピアストンという人物が出奔する。王の追手に追われたピアストンを森のなかでジモヴィットという狩人が救う……。

このピアストンがピアスト朝の開祖で、ジモヴィットが2代目ということになっています。
物語にはポーランド建国にまつわる伝説をいろいろ取り込んでいるんでしょうが、元ネタがよくわからないのが残念なところ。


個人的にはキリスト教以前、統一国家以前の西スラヴ族の社会や文化が垣間見られるところがとても興味深いです。
スラヴの太陽神タジボーグかトリグラフと思われる神の木像や、湖のなかの聖堂。
異教の司祭や魔女、「魔術のハチミツ」で媚薬をつくる怪しい老女(でも媚薬は本当に効く!)
篝火を囲んで若い男女が踊り狂う異教の祭り、樫の巨木を囲む部族集会。
オーディンを崇めるヴァイキングたちの襲撃。

白樺の樹の樹液を集めていたり、蜂蜜酒に毒を混ぜたり、神像に三つの頭がついていたりするあたりが、いかにも古代スラヴ文化という感じです。
ポピエルと戦うピアストンが鳩を使った火計で砦を焼き打ちにするときに「ロシアの王女が使った手だ」というのも面白い。
キエフ・ルーシの摂政オリガのことを言っている気がしてならないところです。

この時代だから戦争といっても数百人単位の殴り合いみたいなもの。王の住居も木造の砦みたいなもの。
映像がチープなのがむしろリアリティを醸し出しています。
中世前期の東ヨーロッパは、まさにこんな感じの世界だったに違いない。

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中華世界の歴史15 前漢光芒

未完の統一

劉邦(りゅうほう)、つまり「劉のアニキ」。
またの名は劉季、すなわち「劉家の末っ子」。人に誇るほどの名はない。

旧楚国の北辺。
かつての宋国に近く、一時は斉にも属し、どの国から見ても周縁にあたる土地で、まさに名もなき農民の子として彼は生まれた。

名もなき、というのは比喩ではない。
史書は彼の父親を「劉太公」、母親を「劉媼」と記す。これはそれぞれ「劉家の親父どの」と「劉家の婆さん」という意味でしかない。
劉邦を身ごもったとき、母の劉媼は体の上に龍が乗る夢を見たといい、劉邦の身体には72個のほくろがあったともいう。いずれも後の世に漢王朝に仕えた史家の創作であろう。
端的にいえば、劉邦はどこにでもいる庶民として生涯の半分以上を過ごした。怠け者で農作業を厭い、町をほっつき歩いて無頼の徒と無為徒食するヤクザ者で、一族の鼻つまみだったとも伝えられる。
ただ、彼には不思議な人望があった。欲深で自分勝手でありながら、妙な素直さと可愛げがあって、それが他人を惹きつけたらしい。
そんなわけで乱世が来ると時流に乗って、彼よりはるかに頭の切れる部下たちに担ぎ上げられ、何時の間にか漢王となり、今や項羽を破って天下第一の実力者にまで上りおおせた。

紀元前203年12月。
彼の生年には諸説あるが、紀元前256年の生まれという伝承が正しいとすれば54歳を迎えようとしていたことになる。

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(劉邦)


陳勝・呉広の乱にはじまる「灼熱の七年」を経て秦帝国は崩壊し、西楚の覇王・項羽は死んだ。だが、劉邦はさらに七年を生きる。
それは決して勝者の栄光に満ちた歳月でも、平和と安らぎに包まれた歳月でもなかった。
なぜならば、項羽の滅亡は決して天下の再統一を意味しはしなかったからだ。


紀元前202年正月、劉邦は斉王となっていた韓信を楚王に転封した。これはそう容易なことではないはずだった。
韓信はかつては劉邦の一兵卒に過ぎなかった。だが、いまや彼は独力で中華の北半分を制圧し、項羽に対する勝利においても決定的な役割を果たした。この時点で天下最大の軍事力を擁するのは韓信だった。
ところが韓信は天下を狙うには致命的なほど気弱で、野心が乏しかった。他人がどう見ようと、韓信の自己認識は一兵卒の時代からほとんど変わらず、自分自身を劉邦の部下としか考えていなかった。
ただし、それはあくまでも韓信の内心である。

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(「国士無双」の男、韓信)


ともあれ、韓信は大人しく楚に移動した。
その領地は淮水流域から長江の南北にまたがる。なんのことはない、数ヶ月前まで項羽が支配していた土地が、まるまる韓信のものになっただけだった。

そして黥布(げいふ)彭越(ほうえつ)
彼らはどう見ても劉邦の家臣などではなく、軍事同盟の相手に過ぎない。
劉邦は彼らを懐柔しようと王号を「下賜」したが、本人たちはあくまでも独立不羈。決して劉邦に臣従を誓った覚えなどなく、自前の領土と大兵力を保持している。

これら諸王は2月、定陶の地で会合して漢王・劉邦を「皇帝」に推戴した。
この「皇帝」という称号も過大視すべきではない。この時点で皇帝を称したものは過去に秦王嬴政と胡亥の二人しかいない。
項羽に擁立された楚の懐王は「義帝」を称し、項羽自身は「覇王」を称した。
始皇帝の理念や構想がどうあれ、東方の人々にとっての「皇帝」は無条件に天下の主を意味するものではなく、秦国の王に固有の称号でしかなかった。

そもそも「天下がひとつであるべき」という思想そのものが熟していない。
この時点から過去数世紀を振り返れば、大陸に複数の王国が並立しているさまこそが常態であり、紀元前221年から紀元前209年まで実質12年間の統一国家は異常な例外に過ぎなかった。


秦の旧領である関中と巴蜀を押さえ、最強の項羽を倒した劉邦は秦王朝を継承するものとして、他の諸王とは別格の称号が与えられた。
だが、あくまでも劉邦は諸王の第一人者に過ぎない。間違っても諸王の主ではない。
「皇帝」が真に天下の支配者であることを認めさせるため、というよりも未来の潜在的な敵対勢力を打倒するために、劉邦は残る人生を費やして戦い続けなければならなかった。

功臣の粛清ではない。生存をかけた死闘である。

前漢最初期諸侯王
(劉邦の皇帝即位時における諸王)

初っ端から臨江王の共尉が劉邦への臣従どころか、協調をも拒否した。劉邦は席を温める間もなく討伐軍を送ってこれを討った。

そして5月、劉邦は洛陽を経て関中に入り、兵士たちを家郷に帰した。かつての秦の都の咸陽は荒れ果ててしまったので、咸陽から渭水を挟んだ対岸に「長安」とよばれる新都の建設が始まった。


7月、燕王・臧荼(ぞうと)が兵を挙げた。
臧荼は旧趙国を平定した韓信に威圧されて表面的に降っただけで、項羽討滅戦には参加せず、劉邦の皇帝推戴にも加わっていない可能性が高い。劉邦が軍を解散したのを好機と見て、この隙に自立を明確にしようとしたのだろう。
劉邦は慌てて兵を再び召集し、自ら燕国に出陣した。項羽との戦場となった河南地域よりもはるかに遠く、中華世界の東北の果てへの長征であった。
この戦いの詳細は知られていない。臧荼は2ヶ月の抵抗を経て捕えられ、劉邦の幼馴染で最側近だった盧綰(ろわん)が新しい燕王になった。これで燕は漢王朝の勢力圏に組み込まれた。
長安帰還直後、項羽の旧将が反乱を起こした。劉邦はまたしても出陣した。まことに天下は不穏の気に満ちていた。

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(劉邦を取り巻く人々の物語を中心とする短編集)


劉邦が内心でもっとも恐れていたのは韓信だった。
かつて一兵卒だったあの男は、項羽亡きいま、天下に並ぶものなき戦上手である。項羽の旧領をまるまる支配し、その気になればいつでも劉邦を倒せる立場にいる。

紀元前201年10月、韓信の謀叛を密告する者がいた。とはいえ韓信と劉邦の立場は実質的に対等に近かったから、謀叛というより同盟破棄と言った方が適切であろう。
劉邦は謀臣・陳平(ちんぺい)の献策に従って長江中流の雲夢(うんぼう)で諸王の盟主として会合を行なった。天下の諸王が一堂に会するのは劉邦の即位以来、約一年半ぶりだった。
韓信は何の警戒もせずにその場に現われた。してみれば、「謀叛」など根も葉もない中傷か、もしかすると劉邦の側の捏造だったのだろう。
劉邦は衛兵に命じ、突然韓信を捕縛した。居合わせた諸王は最強の軍事力を擁する楚王を圧する劉邦の迫力に慄いた。

「言い掛かりだ! 中傷だ! 何かの間違いだ!」

至極もっともなことを主張した韓信はほどなく釈放されるが、楚王の地位を奪われ、「淮陰侯」に改められた。
「王」と「侯」では立場がまるで違う。兵権を失い、領地も数十分の一に減る。


人間の悪意や猜疑にまったく無感覚な韓信は、ようやく自分がかつての主人に抜きがたい警戒心を生じさせていたことを悟った。
戦の天才である韓信は、一面で甚だしく臆病で、甚だしく怠惰だった。
謀叛などという面倒なことをするほど自分は愚かではない! どうして劉邦はこんな簡単なことが理解できないのか! そこまで馬鹿だと思われているのか!
韓信は鬱々として屋敷に引きこもり、5年後に本当に謀叛を図り、簡単に捕えられて処刑された。


北の始皇帝

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(ゴビ砂漠)

中華世界の北方に巨大な不毛の地が広がっている。そこを「戈壁(ゴビ)」という。「砂礫の荒野」を意味する名である。
南北1000キロに近いゴビ沙漠を北へ越えていくと、一転して豊かな大草原が広がっている。その草原にひとりの英雄が現われた。

いうなれば彼は「北の始皇帝」。
絶対の権威と苛烈な戦略をもって北方の民を束ね、秦漢帝国と時を同じくして巨大な統一国家を作り上げた傑物。
すなわち、匈奴(きょうど)冒頓単于(ぼくとつぜんう)である。

冒頓単于
(冒頓単于の想像図)


ヒュンヌ(匈奴)の起源は歴史の霧の彼方にある。
史書に初めてその名が明記されるのは戦国時代の末期。紀元前3世紀なかばにはオルドスに拠点を構え、趙の李牧と対決を繰り広げる。
当時の指導者の名は知られていないが、時期的に見て、冒頓単于の父である頭曼がすでに単于(匈奴王)となっていた可能性も少なくない。

紀元前215年、秦の始皇帝は将軍・蒙恬(もうてん)に三十万の軍を与えてオルドスの匈奴を駆逐させた。追われた匈奴ははるか北方に姿を消した。
これがおそらく匈奴の飛躍のきっかけとなった。なぜならばゴビの北方のモンゴリアこそが騎馬遊牧民の天地であり、数世紀前にスキタイ人がアッシリア帝国と戦いながら磨き上げた「騎射戦術」も、この大草原に広がりつつあったからだ。

紀元前209年、父のトゥメン(頭曼単于)を殺して単于となったバガトゥル(冒頓単于)は、東の東胡(とうこ)と西の月氏(げっし)という二大勢力との対決に向かった。


まずは東胡。
東胡は若い冒頓を見くびって千里の馬を要求した。冒頓はこれを素直に与えた。
次に東胡は冒頓の妻のひとりを要求した。冒頓はこれも素直に与えた。
すっかり冒頓を侮った東胡は土地の割譲を求めた。そこは不毛の沙漠であったため、冒頓の臣下たちはこれまた素直に東胡に与えることを勧めた。

「愚か者ども! 土地こそは国の基だ。今後同じことを口にした者は斬る!」

冒頓は東胡を急襲した。油断していた東胡は大敗し、部族は四散。そのまま匈奴集団に取り込まれた。

ついで冒頓は西方の月氏を討った。
はるか後にモンゴル帝国のチンギス・ハンが長子ジョチに与えた、緑豊かなハンガイの山々が匈奴のものとなった。
さらに北方のテュルク(丁零)、キルギス(堅昆)を従え、冒頓単于の匈奴帝国は草原の覇者となった。

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(匈奴帝国)

ここまでおよそ10年。
冒頓単于はゴビ沙漠の彼方から、じっと中華の動乱を観察しつづけていた。
南の定住民が夷狄と侮る匈奴の民は、実際には広大な世界を自在に往来する視野広き人々で、他のいかなる民族よりも諸国の事情に通じていた。

紀元前200年春、楚王・項羽の死によって中華の動乱はひとまず小康を迎え、諸王の盟主となった劉邦は軍を解散した。中華世界は長年の戦乱に疲弊しきっている。
冒頓単于は30万の騎馬軍団を率いてついにゴビ砂漠を越えた。

秦帝国の崩壊によって北の長城は放置され、守備隊は姿を消していた。匈奴軍は長城の周辺で遊牧する白羊(はくよう)や楼煩(ろうはん)といった諸部族を次々に従属させ、燕国・代国の北辺に姿を現した。
これを知った劉邦は、韓王・信を代国に送った。だが、あろうことか、匈奴の力を目の当たりにした韓王・信は冒頓単于に投降してしまった。匈奴軍は40万以上に膨れ上がった。


究極の勝利者

狼狽した劉邦は32万の軍を発して急遽北方に出陣した。
すると匈奴兵は意外にも弱く、漢軍が迫ると戦いもせずに退却していく。ただ、騎兵のみで構成される匈奴軍はやたらと逃げ足が速く、どうにも捕捉しきれない。

劉邦は供回りの騎兵だけを連れて急追し、平城(現;山西省大同)の白登山(はくとうさん)に達した。
折しも真冬が迫り、漢軍の兵士たちは慣れぬ北辺の戦いで凍傷にかかる者が続出した。

そのとき、不意に冒頓単于が登場した。

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(白登山の戦い)


みるみるうちに。

四方の地平線上に騎影が出現し。

雪を帯びた烈風が激しく旗を揺らし。

彼方の冒頓単于が右手を掲げ。

匈奴40万の軍団はことごとく原野を覆い尽くした。


見渡せば匈奴騎兵は、北は黒馬で統一し、西は白馬で統一し、南は赤馬で統一し、東は白面の黒馬で統一し、真冬の風のなかで時に馬が嘶くほかは、ひそとも音を立てずに布陣を完了していた。

皇帝・劉邦は生涯でこれほどの恐怖を味わった記憶がなかった。覇王・項羽と幾度となく戦い、ほとんど身一つで逃げたときですら、これほど絶体絶命を感じたことはなかった。
蟻の這い出る隙も無く、漢軍は白登山で7日にわたって包囲された。このとき、劉邦に従っていためぼしい臣下は謀臣の陳平だけだった。

「陳平、なにか策はないのか、策は!」
「普通に考えて、無いですわ」

顔面蒼白となって詰め寄る皇帝。それを陳平はあっさりと躱した。

「鴻門の時みたいに、ひたすら頭下げるしか無いんとちゃいますかね」
「頭下げてどうにかなる相手か!」
「そりゃそうだ。よほどの条件提示しなきゃ生きて帰れませんぜ」

陳平はずらずらと提案した。
今後、漢は匈奴を兄として敬う。決して戦いを挑まない。皇帝の娘を単于に与える。毎年貢物を献上する。……。

「ばかやろー! それじゃ漢はまるっきり匈奴の属国になっちまうじゃねえか!」
「しょうがないじゃないすか。ムリなもんはムリっす。蕭何がいたって張良がいたって他に策なんぞありませんわ。ついでにいえば、もしここに項羽がいても冒頓単于とやらに勝てるわきゃないですわ。見りゃわかるでしょ」
「なんなんだよ……俺がこれまでどんだけ苦労して、これだけのもん積み上げてきたと思ってんだよ……! ふざけんな、なんで横からいきなり出てきた野郎に全部掻っ攫われなきゃいけねえんだよ!!」


包囲7日目。
冒頓単于は漢軍による和議の懇請に同意した。

遊牧帝国の王である冒頓単于は、自ら定住民の世界を支配する気はないし、そのような能力もない。
それは冒頓単于個人の資質の問題ではない。遊牧国家が定住民族を支配する技術を確立するのは、これから千年以上も後の契丹・遼帝国の時代なのだ。
何もしなくても漢が毎年物資を献上してくるというのならば、これほど冒頓単于の意に適うことはなかった。
包囲を解いた冒頓単于は速やかに漠北に撤収し、月氏の残存勢力を追いながらセリンディア諸国(中央アジアの都市国家群)に侵攻していった。


漢王朝の史書は白登山の死の罠から劉邦たちがいかに生還したかについて、詳細をいっさい伏せている。
だが、数々の状況証拠から見て疑問の余地はない。

建国わずか2年目にして、前漢帝国は匈奴の属国と化したのである。

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(匈奴と漢の関係について詳述されている)


凱歌のあと

白登山での屈辱的な敗北は劉邦の心を折った。
これ以降、劉邦はわき目も振らずに東の王たちの打倒に専念する。せめて匈奴帝国に認められた自分の縄張りのなかで絶対の主権を目指すぐらいしか心の置き所がなかった。

紀元前199年、劉邦の娘を娶っていた趙王・張敖が、皇帝暗殺を企んだ疑いによって王位を剥奪された。天下は震撼した。

紀元前196年、梁王・彭越が反乱を企てたかどによって王位を奪われ、殺害された。彭越の死体は切り刻まれ、塩漬けにされて諸侯王に配られた。服従の証として罪深き彭越の屍を喰ってみよ、という挑発である。

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(彭越)

三大諸王の残るひとり、淮南王・黥布は、彭越の死体が送り付けられてくると軍備の増強をはじめた。皇帝の次の狙いが我が身であるのは明白だった。
黥布が兵を挙げると、60歳を過ぎて病床にあった皇帝・劉邦は、それでも自ら出陣した。
楚漢戦争の生き残り同士の戦いは激戦となった。黥布の布陣が項羽のそれに酷似していることを見た劉邦は怒りの発作に駆られて前線に馬を走らせた。流れ矢が皇帝にあたり、夥しい血が流れた。
敗北した黥布は親族の長沙王・呉広を頼るが、呉広は黥布を謀殺し、劉邦にその首級を献上して忠誠の証とした。


帰途、劉邦は13年前に旗揚げしてから一度も帰っていなかった故郷の沛(はい)県に立ち寄った。
老いも若きも男も女も、故郷の人々が分け隔てなく集められ、盛大な酒宴が開かれた。皇帝は宴たけなわに立ち上がって大勢の子供たちと歌いかつ舞った。

大風起こりて雲は飛揚し
威を海内に加えて故郷に帰る
安くにか猛士を得て四方を守らしめん


劉邦の頬を涙が伝った。これほどの長い闘いを経てもいまだ天下は穏やかならず、不安は胸を去らない。

黥布との戦いで受けた矢傷は、数年前に広武山で項羽の伏兵に撃たれた弩の古傷とともに劉邦を苛んだ。
年が改まって紀元前195年春、慢性的な痛みに呻く皇帝を衝撃的な報せが見舞った。劉邦が絶対の信頼を置く幼馴染の燕王・盧綰(ろわん)が反逆を企てたというのである。

これはいわれなき中傷にすぎなかったが、病床で判断力の低下した劉邦は、中傷を見抜くことができずに討伐軍を派遣した。
盧綰は悠然と構えていた。彼もまた劉邦を絶対的に信頼していたから、皇帝が病から回復すれば真実に気づいてくれると確信していたのである。

だが燕国の山々に春が来る頃、皇帝・劉邦は遠く長安にてこの世を去った。
盧綰は人生の大部分を共に過ごした朋友の死と、自分自身の潔白を証立てるすべが失われたことを嘆きながら匈奴に投降した。
冒頓単于は漢の重臣中の重臣というべき大物の亡命を大歓迎し、彼を「東胡王」に任じたという。


また、このときに燕の東部国境を警備していた衛満なる人物が、漢軍の追跡を逃れるべく軍民を引き連れて東を目指した。
彼は浿水(ばいすい; 現在の鴨緑江か清川江)と呼ばれる大河を越え、深い森林と山々の続く未知の国に入った。

この地方には狩猟と農耕を生業とする先住諸部族が暮らしていたほか、沿岸には燕や斉の交易商人が入植し、中華の戦乱から逃れた亡命者たちの集落も散在していた。
先住の民は石の加工に長けているらしく、時折巨石を組んだ不思議なやぐらが見受けられた。

数年後、衛満の一党は別の大河のほとりに出た。川は東方の山岳地帯からうねりながら西に流れ、川沿いに平地が広がっていた。ここには古くから小さな王国が存在していた。
片言の漢語と身振り手振り、そして筆談。さまざまな手段を駆使して土地の者たちに王国の来歴を尋ねると、不思議な答えが返ってきた。
「我々はむかし殷王朝が滅んだときに、亡命してきた殷の王家の子孫だと語り伝えられている……」
後の世に、この国は「箕氏朝鮮(きしちょうせん)」と呼ばれることになる。

衛満はこの国の王に気に入られて小さな領地を与えられたが、10年程して国が乱れると兵を起こし、王険城を占領した。
衛満が移民と先住民を糾合してこの地に建設した王国は、後に「衛氏朝鮮(ウィシジョソン)」と呼ばれることになる。

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(衛氏朝鮮)


さて、最終的に長沙王の呉氏を除く異姓諸王をすべて排除した劉邦は、各地の王国に自分の子供たちを封じた。
皇帝は天下のおよそ西半分を直接支配し、ここに秦王朝のごとく郡県を置く。
劉氏の諸王は天下のおよそ東半分で、おのおのに与えられた王国を支配する。それぞれの王国には、長安のそれを多少縮小した規模で宮殿や文武百官が置かれた。
全体としてみれば、これはちょうど始皇帝の即位以前、秦が天下の西半を支配していたときの形勢とよく似ていた。
皇帝直轄の郡県制と諸王封建が併存するこの体制を、後世の歴史家は「郡国制」と称している。


劉邦は死後、「高皇帝」とおくりなされた。
漢の歴代皇帝の霊を祀る廟屋において劉邦の位牌は中心に配され、王朝の創建者として「太祖」と尊称される。
いつしかふたつの呼び名は混同され、人々は劉邦のことをもっぱら「高祖」と呼びはじめた。

漢の高祖、劉邦

死後、神となった建国者の名である。

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(生まれ故郷に立つ高祖・劉邦の像)


呂后の闇

高祖・劉邦の死後、帝位を継いだのは劉邦の長男の劉盈(りゅうえい)で、このとき15歳だったという。
最後までヤクザ者めいた気質が抜けなかった父親とは正反対に、温和で礼儀正しく、気弱な性格だった。そのためか父親には気に入られず、何度も廃嫡されかかっている。

実際に国政を切り盛りしたのは、劉盈の母親で劉邦の皇后だった呂雉(りょち)である。歴史上では「呂后(りょこう)」と呼ばれることが多い。
ちなみに始皇帝と二世皇帝の后についてはまったく情報が残されていないので、彼女こそが中華世界の歴史上で最初の、存在が知られている「皇后」ということになる。

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(呂后)

およそ中華世界の南部では伝統的に女性の地位が高い。
これがたとえば楚の王家のような中原の文化に親しんだ高い家柄ならそうでもなかろうが、劉邦も呂后も元はといえば一介の庶民である。
国家の制度が未成熟なこの時期、呂后が政治の前面に出るのは、少なくとも劉邦や呂后自身にとってはまったく違和感のないことだった。

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(「皇后之印」と刻まれ、呂后の印璽と推定されている)

呂后は強気さと弱気さを奇妙な形で併せ持つ性格をしていた。強気さは息子を押しのけて自ら宮廷に立つという形で現われ、弱気さは夫の臣下たちに過剰に猜疑の目を向けるという形で現れた。

劉邦は東方の異姓諸王を打倒することに精力を傾けたが、旗揚げの頃から行動を共にしてきた直臣たちの粛清など考えもしなかった。

だが、呂后は違う。直臣たちは亡き夫の盟友だったかもしれないが、呂后自身にとっては他人に過ぎない。
「皇帝」というのは新しい概念である。後世のような絶対にして侵すべからざる存在ではない。力ある者が力なき者を押しのけて上に立った戦国の世は、まだ遠い昔ではない。
勲功を誇って宮中を闊歩し、礼儀をわきまえずに騒ぎ立てる「功臣」たちは、年若い我が子の地位を脅かしかねない存在だった。
だから呂后は次々に建国の元勲たちの地位を奪い、閑職に追いやり、可能であれば殺した。
代わりに自分自身の一族である呂氏の者たちを要職につけた。

それ以上に呂后が警戒したのは、亡き夫の愛妾と、その子供たちである。
軟弱な劉盈を嫌った劉邦は、晩年に寵愛した「戚夫人」の子の「如意(にょい)」を皇太子にしようとしたことがある。そのことを思い起こすたびに呂后は怒りと嫉妬と不安と恐怖で頭がいっぱいになる。


皇帝・劉盈は薄々、母の抱える闇に気付いていた。
趙王に封じられていた如意が上京してきたとき、彼を見る母親の目にただならぬものを察した皇帝は、この異母弟の身辺に護衛を配し、常に行動を共にした。
劉盈はこの異母弟に何の憎しみもない。皇帝はあくまでも心優しい青年だった。

だが、劉盈がわずかひとときそばを離れた隙に、呂后は如意を毒殺し、生母の戚夫人を捕えて投獄した。
史書は陰惨な物語を伝えている。それによれば呂后は戚夫人の両目を抉り取り、四肢を切断して肥溜めに投げ込み、「人豚」と呼んでなぶり殺しにしたという。
こんな過激な逸話は十中八九、勝者におもねる史家の曲筆に違いない。ただ、それでも如意と戚夫人が何かしら異常な死に方をしたことは事実らしい。

「これは人間の行為ではない……母上の血をこの身に受けて天子たることなどできぬ」

実の母親の闇に直面した劉盈の心は耐えられなかった。皇帝は発狂し、自責と恐怖の檻のなかで悶死した。
紀元前188年、まだ23歳の若さだった。歴史上、彼は「恵帝」と呼ばれている。

凱歌の後

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(表題の元ネタ)

我が子のために鬼となった呂后は、当の我が子を失ってしまった。
心は虚ろだった。恵帝の葬儀で呂后は声をあげて哭いたが、その眼からは一滴の涙も流れなかった。
これ以後、呂后の施政はほとんど行き当たりばったりの様相を呈する。
恵帝の遺児を帝位につけたかと思えば殺し、別の遺児を引っ張り出す。世間では呂后の立てた皇帝は、実は劉氏の血など一滴も引いていない馬の骨なのだという噂がまことしやかに囁かれた。
各地に王として封じられた劉邦の庶子たちは次々に暗殺されるか、あからさまな濡れ衣で強引に処刑された。
これでは劉氏の血脈は途絶えてしまう。だが、軍権を握る呂一族に正面から刃向うことは不可能だった。


呂后とて、自分が出口のない迷路に踏み込んでしまったことは理解していた。
当時、天変地異は君主の不徳に対する天の譴責とされていた。日食が起こった時、彼女は「これは私の罪のせいだ」と呟いたという。


紀元前180年、呂后は死んだ。
元勲の生き残りたちはこの時を待っていた。劉邦の謀臣だった陳平は歴戦の勇将・周勃と協力し、各地の劉氏の王たちと連携して一挙に呂氏の政権を打倒する。
それから二人は、北の代国に封じられていた劉邦の四男、劉恒(りゅうかん)を新帝として擁立した。劉邦の子供たちの世代のなかで最年長であり、本人も后も温和で暴走の気遣いはなかったからだ。
後に「文帝」と諡され、漢王朝の繁栄の基礎を築いたとされる英明な皇帝である。


前漢光芒

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(上林苑で名臣・袁盎の上奏に耳を傾ける文帝)

文帝の施政方針は「民力休養」の一言に尽きる。
彼は徹底的な消極政策に徹した。民の負担になることは一切を却下した。大規模な建設事業や戦争はまったく行わなかった。これこそが当時、最も求められていた統治のあり方だった。

思えば、秦の昭襄王の時代から今に至るまで一世紀以上、中華世界は凄まじい動乱を経験してきた。
戦国末期、諸国の人口はおよそ二千万人と推定されている。そこで数十万から百万という規模の軍隊が動員され、絶え間なく戦争を続けたのである。
とりわけ始皇帝の統一戦争から項羽の滅亡までの二十年あまり、無理に無理を重ねた大量動員と内乱の継続で、民はどれほど疲弊したことか。


「民を駆りて之を農に帰し、皆、本に著き、天下をして各々其の力を食ましめ……」

文帝は当時の名臣、賈宜(かぎ)の上奏を嘉納して繰り返し「勧農の詔」を発布し、自ら耕作の儀式(天子親耕)を行なって天下に模範を示した。
また、当時は貨幣経済の拡大に伴って高利貸しや商人が富を独占する傾向があったため、文帝は一定の穀物を国庫に納入することで爵位を授けるという制度を打ち出した。
多くの富豪が大量の穀物を献上したため、農民への減税が可能となった。具体的にいえば、漢代初期には収穫量の15分の1を納税することとなっていたのを、文帝は一気に30分の1に軽減している。

蛇足ながら古代においては播種量と収穫量の比率が現代とは全く異なり、収穫量の相当分を翌年の播種用に手元に残す必要があった。
当初の15分の1の納税というのは、それなりに重い負担だったと思われる。

また、文帝は法制を改め、権力者に対する誹謗妖言によって人を処罰することを禁じた。一定の言論の自由を認めても良い頃だった。
「入れ墨」「鼻削ぎ」「脚切り」という三つの肉体刑も廃止した。殺伐とした刑罰はもはや時代の精神に合わないものだった。


紀元前157年、死の床についた文帝は後継者に厳命を残した。
自分の死後、決して盛大な墳墓を築いてはならない。自然の丘陵に横穴を掘って棺を納めればそれで十分。諸国の民の服喪も三日間で終わりにするように。
前漢の歴代皇帝の陵墓のほとんどはやがて盗掘の憂き目にあったが、文帝の「覇陵」だけは盗掘の記録がない。
後の世の人々も、「無為の政治」を座右の銘として民衆を思いやり続けた文帝のことを忘れなかったのだ。

文帝覇陵
(文帝の眠る「覇陵」)

なお、文帝の時代に二回だけ重大な危機が発生している。匈奴の大侵攻である。

一回目は紀元前177年、文帝の即位間もないころに発生した。
この年、匈奴帝国の西部を統括する「右賢王」が大軍を率いてオルドスに進出した。
白登山の戦い以降、オルドスの帰属は微妙な扱いになっていた。
黄河の流れに沿った北辺の一部を除いてオルドスの大半は匈奴の勢力圏になっていたが、匈奴直属軍がここまで南下することは稀だった。
文帝は匈奴を牽制するために八万の兵をオルドスに進発させ、追って自ら太原に赴くとともに冒頓単于に抗議の書簡を送った。

冒頓単于は在位30年を超え、生来の老獪さにさらに磨きがかかっている。
単于は右賢王の「暴走」を謝罪し、そのついでの装って事後の処置を伝えてきた。表面的な礼儀とは裏腹に、文面は威圧的だった。

「日月が生み、天地が立てるところの匈奴大単于が皇帝に申し伝える。右賢王には懲罰として西方の月氏を探索させ、これを撃たせた。天運と兵馬の宜しきを得て楼蘭・烏孫・呼掲等の諸国を併せ、北方のもろもろの弓引く民を一家とした」

文帝と漢の重臣たちは次々に並べられる異国の名に戸惑った。誰一人、それらの国々が地上のいずかたに存在するのかを知らなかった。
だが、後世の我々にはわかる。この遠征によって冒頓単于はタリム盆地・天山山脈・バルハシ湖までを制覇し、アジアの北方を覆う巨大な帝国を完成したのだ。
匈奴帝国は漢の北から西を覆い、大陸の東西をかぼそく繋ぐ交易ルートを掌握した。だが、漢がその事実をはっきりと認識するのはもう少しあとの時代になる。
まもなく冒頓単于ははるかなる漠北で波乱に満ちた生涯を終えた。

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二回目の危機はそれから10年あまり後の紀元前166年に発生した。
この年、冒頓単于の後を継いだ匈奴の支配者、老上単于が14万騎を率いて甘粛に乱入し、多数の民を襲って略奪し、長安を視界におさめる甘泉まで至った。
どうやら匈奴軍は文帝に不満を持つ東方諸王と連合し、漢に一大打撃を与えることを目論んでいたらしい。
その背後には、毎年漢から匈奴に贈られる莫大な貢物が徐々に匈奴社会を変質させ始めたという事情がある。匈奴は南方の豊かな物資に対する欲求を抑えられなくなりはじめていた。


これら二回の危機のいずれにおいても、文帝は決して積極的な反撃をしようとはせず、ひたすら守りを固めることに専念した。
強大な宗主国の気まぐれに対して漢は唯々諾々と頭を下げるしかなかった。


さて、文帝の後を継いだのは、早くに兄たちを亡くしたため、五男でありながら皇太子とされていた劉啓で、彼は後に「景帝」と諡される。
彼が即位してから3年後の紀元前154年、久しぶりに天下を揺るがす大乱が発生した。いわゆる「呉楚七国の乱」である。

呉楚七国
(呉楚七国の乱)

文帝期の民力休養によって漢王朝にはある程度の余裕が生まれていた。一方で、劉邦の時代からすでに半世紀を経て東方の諸王と帝室とは疎遠になりはじめていた。
ことに文帝はもともと諸王のひとりであったため、東方の王たちはどこか帝室を軽視する思いも持っていた。

――春秋時代の再来を阻止するため、これ以上の世代を重ねないうちに諸侯王の領地を削減し、その力を削いでいかねばならない。
それは文帝の時代から、ひそかに漢廷で囁かれていた政策課題だった。


景帝は即位早々、楚王・劉戊(りゅうぼう)を皇太后の喪中に女性を近づけたかどで断罪し、死罪に代えて東海郡三十八県を没収した。ついに諸侯王領削減政策が始動したのだ。
むろん東方諸王は反発した。
景帝の在位三年目、紀元前154年に東方諸王は一斉に決起した。彼らの盟主は劉邦の兄の子で、皇族最長老の呉王・劉濞(りゅうひ)であった。

劉濞はすでに60歳を超えている。
彼の封国の呉国は豊かな土地である。銅と海塩の産出だけで王家の財政を賄うのに足りたため、世界史上でも珍しいことに、劉濞は領民から一切の税を取っていなかった。40年以上の統治を経て彼は呉国の民から絶大な支持を受けている。


劉濞には個人的にも、新たに即位した景帝に対する怨恨があった。
景帝・劉啓がまだ皇太子だった頃、長安に入朝した劉濞の息子と博奕(すごろく)を行なったことがあった。二人は勝負をめぐって口論をはじめ、かっとなった皇太子が劉濞の子に碁盤(のようなもの)を投げつけた。
打ち所が悪かったのか劉濞の子は昏倒して大量の血を流し、そのまま生命を失ってしまった。以来、呉王劉濞は長安に入朝しなくなった。

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(漢代の博奕の盤がどんなものかはよくわからないけど)


劉濞は62歳、彼の末子は14歳。彼は呉国全土から14歳から62歳までの男子を総動員し、20万の大軍を組織した。
さらに東方諸王ばかりでなく、南方百越の「東甌国」や「閩越国」とも通じ、反乱軍の総兵力は70万以上に達した。風聞によれば、東方諸王の一部は匈奴とも手を結んだという。

「我は已に東帝為り。尚お誰をか拝せん」

呉王劉濞は「東帝」を称し、帝室からの宥和の使者を門前払いにした。

長安は震撼した。
諸王討伐を命じられた諸侯が軍資金を集めようとすると、高利貸したちはことごとく金を貸すことを拒んだ。誰一人、帝室が勝利を収めるとは思っていなかった。

だが、この動乱は驚くべき短期間で終結した。
景帝は呂氏専権に終止符を打った名将・周勃の子、周亜夫(しゅうあふ)を信任し、彼に全軍を委ねた。
周亜夫は諸王連合軍の糧道を絶った。大軍を集めたことで油断しきっていた王たちは無為無策であった。

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(周亜夫)

諸王の連合軍は四分五裂し、呉王・劉濞は大敗して東甌に逃亡するが、東甌の王は劉濞を見限って殺害した。


長年整備されてきた高度な官僚制、効率的な軍制、西北から輸入された大量の軍馬、そしてなにより蔵に収まりきらないほどに蓄えられた物資の蓄積。すべてにおいて帝室は東方諸王を圧倒している。
かつて未開の蛮地とされた巴蜀の地もこの半世紀で目覚ましく開発された。蜀の成都は人口30万人の中華世界屈指の大都市に成長し、帝室に莫大な税収をもたらしていた。
呉楚七国の乱は実質三ヶ月で平定され、漢朝皇帝の権威はついに中華世界の全域に及んだ。


紀元前二世紀半ば。
前漢帝国の人口は四千万人を超えた。半世紀以上にわたって、呉楚七国の乱を唯一の例外として大規模な戦争は発生せず、銭貨や穀物は蔵に満ち溢れていた。
古代中華世界は果てしない戦乱の末に、ついに大いなる安寧のときを迎えた。はるか西方で興隆しつつあるローマも漢の繁栄には及ばない。
まさに前漢光芒の世であった。


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(漢王朝の正史)


中華世界の歴史14 時の潮

始皇帝の巡行

始皇帝・嬴政は史上最初に出現した「皇帝」なるものがいかに偉大な存在であるのかを知らしめるべく、盛大な車列を連ねて天下を巡行した。
その巡行は最初の一回を除き、すべて旧六国の領域をめぐるものとなった。

旧楚の領域では洞庭湖を渡り、湘水を遡行して太古の舜帝が眠る九疑山を遥拝しようとした。
伝説はいう。このとき、湘水をゆく始皇帝一行を激しい嵐が襲った。始皇帝は大いに怒り、楚国の人々の厚い信仰を集めていた湘山の樹をすべて伐採したという。
湘山には舜帝の妃である湘水の二柱の女神が住まうといわれていた。楚の人々は始皇帝の不敬と傲慢を憎み、秦への恨みをさらに募らせた。

また、このときの嵐で始皇帝が携えてきた「九鼎」が水没したという。
夏の禹王が天下九州の青銅を集めて鋳造させ、夏王朝から殷王朝、周王朝へと伝えられてきた天子の象徴である。九鼎が喪われたのは始皇帝から天命が去った暗示と見なすことができ、不祥の極みだった。
始皇帝はやむなく玉石を削って玉璽(印章)をつくらせ、これを天子の証とした。その後数世紀にわたって「伝国の璽」として伝えられるものである。

始皇帝の巡幸
(始皇帝の天下巡行)


始皇帝は海を見たことが無かった。彼がこれまで生きてきた内陸の地には、乾いた黄土がどこまでも広がっている。その彼が初めて大海に臨んだ。斉の国でのことである。
皇帝はこれほどの水の連なりを心に思い描いたこともなかった。このとき、始皇帝が刻ませた石碑が残されている。

維れ二十八年、皇帝始めを作す
法度を端し平らかにし、万物の紀たらしむ
以て人事を明らかにし、父子を合同す
聖智仁義にして、道理を顕白す
東のかた東土を撫して、以て卒士を省みる
事已に大いに畢り、乃ち海に臨む・・・・・・

・・・・・・六合の内は、皇帝の土なり
西は流沙を渉り、南は北戸を尽くし、東は東海を有ち、北は大夏を過ぐ
人迹の至る所、臣たらざる者は無し
功は五帝を蓋い、沢は牛馬に及ぶ
徳を受けざるもの莫く、各々其の宇のもとに安んず


だが何ヶ月も海原を眺めるうちに、皇帝の心の中にある種の恐怖が生まれた。
海はあまりにも広漠として果てが知れない。世界は始皇帝が信じていたよりはるかに広大で、帝国は実は世界のごく一部を占めるに過ぎないものらしい。
さらに思えば、無限に広がる大海と同様に、時の流れも終わりを知らない。千年、二千年ののちには帝国は滅び、碑文も摩耗し、自分の存在すら忘れ去られてしまうのだろうか。
人の生命はあまりにも儚い。
始皇帝はやがて訪れるであろう死を逃れて、自らの生命と帝国を永続させる方途を探しはじめた。その思いが妄執と化すのに時間はかからなかった。

斉には秘術や霊薬によって不老不死を獲得したと噂される、「方士(ほうし)」と呼ばれる人々がいた。始皇帝は方士たちを呼び寄せて、不死を得る方法を諮問した。
そのうちのひとりは、海の彼方に神仙の住む山々があり、そこに不死の霊薬があると告げた。
晴れた日に斉の海辺で東を望めば、水平線の彼方に蜃気楼が見える。始皇帝は彼の言葉を信じ、莫大な財貨と船団を与えて不死の霊薬を求めにいかせた。

その後、始皇帝は斉国最高の聖山である「泰山(たいざん)」に登り、宇宙をしろしめす天帝に四海の一統を告げた。これを「封禅(ほうぜん)」という。

泰山
(歴代諸王朝の皇帝たちが封禅を挙行した中華最高の聖地・泰山)


巡行から帰った始皇帝は、帝都・咸陽(かんよう)に「阿房宮(あぼうきゅう)」という巨大な宮殿を築きはじめた。
阿房宮の内部には無数の部屋がつくられ、皇帝専用の通廊が張り巡らされた。

皇帝は阿房宮のなかに姿を隠した。とある方士の進言に従って、神仙の降臨を待つために俗人から身を遠ざけたのだという。
誰も皇帝の姿を見ることができなくなった。

日夜、帝国各地から寄せられる膨大な行政文書が阿房宮の奥深く運び込まれ、皇帝は黙々とそれに目を通し、玉璽を手にして朱印を捺し続けた。
皇帝が生きて帝国を統治し続けていることは疑いない。だが、丞相の李斯(りし)ですら生身の皇帝に拝謁することは認められなかった。

阿房宮
(テーマパークとして復元された阿房宮)


妄執の果て

趙高(ちょうこう)という宦官が登場したのはこの頃だった。
男でもなく女でもない宦官は常人とは異なる存在で、たとえ皇帝の傍近く侍っていたとしても、神仙が皇帝を訪ねる障害にはならないと思われたらしい。
加えて、趙高は勤勉で法律に明るかった。法家思想を国是とする秦帝国において、これは君主の信頼を受けるに値する資質だった。

始皇帝は趙高を通して文武百官に様々な命令を発した。
匈奴や百越の掃討、万里の長城や馳道の建設、壮大な陵墓や数多の宮殿の建設・・・・・・過酷な労役に追い使われる旧六国の民の間には帝国への不満が渦巻いた。
だが、人間不信と不死への願望に心を占められた始皇帝は、現実認識能力をとうに失っていた。
帝国を批判した学者たちは生き埋めにされ、彼らの書物は焚書された。それを諌めた太子の扶蘇(ふそ)は北辺に追いやられた。

文武百官は趙高の口から皇帝の命令が伝えられるたびに、皇帝自身がそこにいるかのように趙高に拝跪した。まるで趙高こそが真の皇帝であるかのようだった。

始皇帝陵
(始皇帝は不死を希求する一方で、何故か自分の陵墓の建設にも力を注いだ)


不死を求める始皇帝は幾度も斉の海辺を訪れ、神仙の訪れを待ち続けた。だが、待てど暮らせど神仙は現れず、霊薬を探しにいかせた船団が帰還する気配もなかった。
始皇帝は五度目の巡行の帰途に病を発し、程なく重体となった。硫黄や水銀を含む怪しげな秘薬を服用し続けた結果、深刻な重金属中毒に陥ったのかもしれない。
己の死を口にすることを忌んだ皇帝は後継者を定めていなかった。だが、もはや猶予はない。死への恐怖に苛まれながら、皇帝は趙高に囁いた。

「……わが亡きあと、北辺にある長子・扶蘇をして大喪を司らしめよ」

紀元前210年7月、始皇帝はかつて趙国の離宮であった沙丘の平台でひそやかに息を引き取った。
享年五十歳。皇帝の枕頭に侍るのは趙高ただひとりであった。

趙高
(趙高)


丞相の李斯は数年ぶりに皇帝の姿を見た。彼は死せる皇帝を前にひたすら慟哭した。
嗚咽が鎮まるのを待って、趙高がうっそりと口を開いた。

「陛下の崩御は我らが咸陽に帰還するまで機密とすべきでしょう」

旧六国には帝国への不満が渦巻いている。専制君主の死が知られれば天下は再び動乱の巷となりかねず、自分たちが本国に無事戻ることができるかどうかも心もとない。
また咸陽には多くの公子たちがいる。郡県制を敷く秦帝国では帝位を継承しない公子に領地が与えられることは無く、一生部屋住みで終わる。父帝の崩御を知れば公子たちは次の帝位をめぐって内戦を始めかねない。

だが、趙高の次の発言に李斯は仰天した。

「……閣下はこれまでの秦の将相たちの運命をご存じでしょう。商鞅から呂不韋に至るまで、秦の功臣たちは主君が代替わりすれば弊履の如く捨てられました」
「何を言いたい……」
「陛下は扶蘇どのを後継とされました。賢明な閣下であれば、その意味するところはお判りでしょうな?」

有能で精力的で、先帝の政策に批判的な扶蘇が即位すれば、始皇帝の治世を支えてきた重臣たちは宮廷から一掃される可能性が高い。もちろん何の後ろ盾もない趙高など、真っ先に追放されるだろう。
かわって権力を握るのは、扶蘇とともに北辺で匈奴に備える蒙恬(もうてん)将軍といったところか。

「いま、陛下の崩御を知る者も、遺詔を知る者も、閣下とそれがし以外に誰もおりませぬ。災厄を自ら迎え入れる必要はありますまい」

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(始皇帝の遺骸は馬車に安置され、生けるがごとく装われた)


動揺した李斯は、趙高に説き伏せられて遺詔の改竄に同意した。趙高が偽勅を記し、死せる皇帝の玉璽をもって封印した。

「長く北辺にあって功なく、皇帝を誹謗する扶蘇と蒙恬に死を賜う」

扶蘇は自害した。詔勅を疑って自死を拒んだ蒙恬は処刑された。

代わって、趙高と李斯は巡行に従っていた始皇帝の末子、胡亥(こがい)を「二世皇帝」として擁立した。
一説によれば、胡亥はこのときわずか12歳だったという。どうとでも操れそうだった。
ただし李斯が見落としていたのは、官吏の長たる丞相よりも皇帝の私生活に密着する宦官のほうが、はるかに主君の信頼を得るのが容易だということだった。


二世皇帝元年(紀元前209年)春、皇帝・胡亥は父にならって東方に巡行した。大いなる東の海に臨み、父が各地に残した石碑に追刻をしてまわった。
どの碑文にも主語は「皇帝」としか記されていない。いずれ石碑に記された偉業がどの皇帝のものか分からなくなることを心配して、ひとつひとつの碑文を「始皇帝」と修正してまわったのだ。

咸陽に帰着したあと、少年皇帝はしみじみと述懐した。

「趙高、人の一生というのは駿馬が扉の向こうを横切るように短い。父上のような偉大な方でも死んでしまえばすべては無だ。せめて生きているうちに大いに楽しみを極めたい」
「なんというご明察。これこそ賢主のご思慮と申せましょう」

趙高は内心でほくそ笑みながら、さっそく天下無類の美少女たちや酒食を少年皇帝に献じた。ついでに先帝と同じように、不老不死を得るためには群衆から身を遠ざけることが肝要と進言した。
皇帝は美少女たちとともに宮殿の奥深く引きこもり、再び趙高が事実上の最高権力者となった。

二世皇帝の信任を得た趙高は、最初に李斯とその一族を抹殺した。
先代の重臣たちや帝位継承権を持つ始皇帝の子供たちも次々に処刑された。記録はないが、おそらく李信や王翦といった征服戦争の功臣たちもこの時期に粛清されたのだろう。

始皇帝の陵墓や阿房宮はまだ完成していなかった。権威の確立をはかる趙高と二世皇帝は、七十万人の東方人を駆り立てて建設工事を急がせた。
天下統一を果たした秦の国軍のうち、対匈奴戦に投入された者は三十万人、百越平定に投入された者は五十万人。
彼らは大半が不毛の地に骸をさらし、残余の兵力は咸陽の警備と始皇帝陵の建設に張り付けられた。
だが、旧六国の人々の怨嗟の念も、帝国の軍事力の空洞化も、趙高と二世皇帝の視界に入ることはなかった。

馬鹿の語源
(趙高は皇帝側近たちの服従心を確認するため、二世皇帝の前で鹿を馬だと強弁したという)


炎立つ

始皇帝の死から1年が過ぎた。
二世皇帝元年(紀元前209年)7月、大陸の東方は雨季を迎えた。

淮水下流域に「大沢(だいたく)」と呼ばれる湿地帯がある。ここで九百人あまりの人夫が立ち往生していた。彼らは遥か北方で長城の警備にあたることを命じられていた。
秦の法令では召集期日に遅れたものは腰斬の刑に処せられる。だが、連日の雨で湿地は増水し、前進は不可能となっていた。

人夫たちを率いるのは秦人の県尉(県の長)で、その下に「陳勝(ちんしょう)」と「呉広(ごこう)」という「屯長」が従っていた。
屯長は身分的には一般民衆に毛が生えた程度のものである。彼ら自身も期日に遅れれば死は免れない。
沛然たる雨を見上げた陳勝はやり場のない怒りを感じた。自分たちがこんな理不尽な目に合うのも、帝国があまりにも無慈悲だからではないか。

「どうせこのまま先を急いだところで到底期日には間に合わん。俺らはどうせ殺される。それならいっその事、反乱のひとつも起こしてやろう!」

人夫たちは口々に賛成した。このとき陳勝が叫んだ言葉が、後世非常に有名になる。

王侯将相、いづくんぞ種あらんや!(王様も将軍も大臣も俺らと同じ人間じゃねーか! ビビるこたぁねえ!)

夜更けにキツネが遠吠えをして、陳勝が王になることを予言した。沼の魚の腹を裂くと、同じく陳勝が王たることを記した絹布が現われた。
むろんすべて仕込みである。それでも人夫たちの意気は否が応でも高まった。
陳勝と呉広は県尉を斬り殺し、周辺の県城を次々に奪っていった。

陳勝・呉広の挙兵
(陳勝・呉広の旗揚げ)


長雨のなかで点った小さな火は、大地のいたるところで無数の炎を誘発した。彼方此方の郡県で民衆が蜂起し、秦人の守備隊や役人たちを虐殺した。
嵐の中心は最初に旗揚げした陳勝と呉広である。二人は各地で次々に生まれる反秦勢力を糾合しながら西進し、1ヶ月後にはかつての楚の都であるに入った。
このとき、彼らの勢力は兵車六百、騎兵一千、兵卒数万を擁するまでに膨れ上がっていた。

ここで陳勝は「陳王」を称し、副将の呉広は「仮王」となった。華夏の歴史を通じて名もなき庶民が王となったのはこれが最初である。
陳が楚の都であることにあやかって、国号は「張楚(ちょうそ)」(「大いなる楚」)と定められた。
「楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすものは必ず楚なり」という予言が現実になろうとしていた。

陳勝は各地に使者を送り、軍を派遣した。それに呼応して、いたるところで旧六国の王族や貴族たちが姿を現した。数週間のうちに趙王・魏王・燕王・斉王を称する者たちが出現し、張楚を中心に緩やかな連合を形成しはじめた。
陳勝はかつて楚に仕えていたという「周章(しゅうしょう)」なる人物を将軍に任命し、秦の本国に向かわせた。
周章は道々の反乱勢力を吸収しながら西へ進撃し、たちまち函谷関を突破した。この時点で陳勝たちの挙兵からわずか2か月しか経っていない。

反秦蜂起
(桃色の矢印が陳勝・呉広勢力の進路、緑色の矢印が後の項梁・項羽の進路)


趙高と二世皇帝は反乱を放置していた。
もともと趙高は戦争については素人である。情報伝達の遅延も相まって東方の危機を過小評価していた可能性が高い。
しかも、自分の責任が問われるのを警戒した趙高は、ただでさえ乏しい情報を皇帝の耳に一切入れていなかった。
二世皇帝は関中平野の真っ只中に数十万の反乱軍が雪崩れ込んできた後に、はじめて事態を知った。
だが、十数年前に天下を制した秦の常勝軍は不毛の地に消えてしまい、いまやわずか数万の軍隊が咸陽周辺に駐屯するばかりである。


そのとき、少府(財務官)の「章邯(しょうかん)」という人物が奇策を具申した。
阿房宮の造営に従事する囚人二十万人に武器を持たせ、軍隊に仕立て上げようというのである。一歩間違えれば囚人たちが蜂起して、反乱軍が来る前に帝国が破滅しかねない非常の策だった。
だが、趙高はこれに飛びついた。
趙高は軍事戦略は何一つ分からない。ただ、何でも良いから皇帝に打開策らしきものを示さなければ失脚は必至であった。
彼は章邯を救国の英雄といわんばかりに持ち上げ、自分が最初に彼の真価を見抜いたのだと吹聴した。


章邯の名はこのときはじめて史書に登場する。統一戦争の頃には一介の文官として黙々と吏務を遂行していたのであろう。
にもかかわらず、彼は天才的な軍事指揮官だった。
敵兵を殺せば自由を与えると約束された囚人たちは張楚軍を真っ向から撃破し、そのまま函谷関の東へ打って出た。
風を望んで集まった反秦勢力は風に吹き散らされるように四散した。周章は章邯に追いまくられて戦死した。

周章の敗走が知れ渡るとともに、人心は一挙に陳勝から離反した。
仮王であった呉広は遠征先で殺害され、陳勝が各地に派遣した将軍たちは旧六国の王族を擁立したり、自分自身が王号を称して自立した。
陳勝は御者に殺され、張楚はあっけなく滅亡した。挙兵からわずか半年後のことであった。

章邯
(秦の最後の名将、章邯)


章邯の戦いはまだ終わらない。
陳勝を倒しても、黄河の南北には自称魏王がおり、自称趙王がおり、自称燕王がおり、自称斉王がいる。
函谷関の東で唯一まともな帝国正規軍を擁する章邯はすぐさま転進し、猛烈な勢いで黄河北方に進撃していった。帝国の運命はまさしく章邯の双肩にかかっていたのである。

だが、章邯が北へ去ったことによって淮水流域は軍事的真空地帯となる。そこに新たな勢力が台頭するのは必然であった。


楚国復活

長江の南の太湖周辺、春秋時代末期に呉国が栄えたあたりを、当時「呉郡」といった。
呉郡は秦帝国の東南の辺境である。
ここの郡尉は陳勝・呉広の反乱が拡大したことによって秦の本国との連絡が断ち切られてしまったため、いっそ自分から帝国に叛旗をひるがえしてこの地の支配権を維持しようと考えた。
とはいえ、数年前に咸陽からやって来た郡尉が、いきなり呉人の先頭に立って兵を起こすというのも無理がある。そこで郡尉は、とある人物の名声を頼ろうとした。

その男を「項梁(こうりょう)」という。かつて秦に抵抗した楚国最後の名将・項燕の忘れ形見である。
項梁は出自を隠して呉郡に潜伏し、多くの豪傑と交友し、祭礼や葬儀の世話役を務めて住民たちの信望を得ていたのだった。

始皇帝が死に、天下は動乱の兆しを見せている。項梁は今こそ楚国復興の好機だと見ていた。郡尉がのうのうと自分を呼び出すと、項梁は「項羽(こうう)」という甥に郡尉を斬り殺させ、そのまま呉郡を乗っ取った。

項梁起義
(『西漢演義』より、項梁と項羽が郡尉の殷通を殺して呉郡を奪う)


それからおよそ半年。長江の北で陳勝が敗死し、張楚のもとに結集していた反秦勢力はバラバラになった。
その頃、「召平」という人物が徒党を率いて陳勝の軍に加わろうとしていた。彼は陳勝の死を知って途方に暮れたが、ふと「迷案」を思いつく。
数日後、召平は、陳王の軍使を名乗って呉郡に現われた。驚いて項梁が姿を見せると、召平は居丈高に告げた。
「我は陳王の使者である。陳王は汝が呉郡を安んじた忠節を嘉し給い、汝を張楚の上柱国に任じ給うた。速やかに義兵を起こして江水を渡れ!」

はったりである。召平は陳勝に会ったことすらない。
だが、陳勝の死が広く知られていないうちに軍使を名乗って訪ねていけば項梁は必ず自分に会うであろうし、一度陳勝の軍使と認識されれば、今後も自分の存在は重んじられるであろう。
読みは当たった。項梁は召平を正真正銘の陳王の使節として迎え、楚国の官職を受けた。

まもなく項梁は江東(長江下流右岸)の子弟八千人を率いて長江を渡った。
張楚の残党が続々と項梁のもとに結集した。
とくに存在感を放つのは、顔面に黒々と入れ墨を施した美貌の壮漢と、文官風の穏やかな容貌ながら、剽悍な異民族を数多引き連れる初老の人物である。
前者を黥布(げいふ)といい、かつて黥(入れ墨)刑に処せられて始皇帝陵の建設に従事するも、同輩の刑徒たちを語らって挙兵し、群盗の長として頭角を表わした梟雄である。
また後者を呉芮(ごぜい)といい、元は秦の番陽県令であったが、公正で信義に厚い人柄から百越の信望を集め、指導者に推された人物である。彼ら二人は大軍を率いて項梁の陣営に加わり、以後多くの戦場で活躍する。

わずか数週間のうちに項梁の軍勢は十万を超えた。淮水流域は再び反秦勢力の支配下に入った。

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(本名は「英布」だが、罪人の入れ墨を意味する「黥」という通称で知られる猛将)


陳勝の死を知った項梁は、楚の遺臣たちの献策により、楚国の王家に連なる者を王として擁立することにした。
たまたま、90年ほど前に秦の昭襄王に拉致されて幽死した懐王(在位:前329~前299)の子孫が、どこかの田舎で羊飼いをしているのが見つかった。
彼を懐王の孫と記す史書が多いが、懐王の死からの歳月の隔たりを考えれば、もう少し離れた世代の子孫だったと思われる。
6月、項梁は彼を自分たちの王として推戴し、祖父(?)と同じく「懐王」と名乗らせた。旧楚の人々の秦への復讐心をさらに煽り立てるためだった。


その頃、章邯の率いる秦軍は黄河下流域にいた。自称斉王の勢力を討つため、山東方面で戦っていたのである。
楚軍は斉と結び、黄河の南で秦軍を二度破った。無敵の進撃を続けていた章邯に最初に泥が付いた。
だが、項梁はこの快勝で秦の実力を見誤ってしまう。甥の項羽に軍の過半を預けて西進させた項梁は、章邯に不意を突かれ、秋の初めにあえなく敗死してしまった。
今度も章邯は直ちに軍をひるがえし、猛烈な速度で北へ向かって行った。次に彼が対処しなければならないのは、山西地方を制圧しつつある自称趙王の勢力だった。

10月、章邯は趙の旧都である邯鄲を徹底的に破壊し、自称趙王を鉅鹿(きょろく)に追い込んだ。
秦軍は何重もの包囲を敷き、両側を塀で防備した糧道を無数に建設し、何週間にもわたって趙軍を包囲する。周辺諸勢力は趙の救援を図るが、いずれも秦の大軍に恐れをなして積極的な攻勢に打って出ようとはしなかった。


この冬、鉅鹿は中華世界の焦点となった。
ここで章邯が趙王を降せば、残余の反乱勢力は自壊し、帝国の統一支配は盤石となるであろう。
一方、もし万一にも章邯が破れれば秦帝国の組織的軍事力は消滅し、天下はふたたび戦国の昔に戻るであろう。
万人が固唾をのんで決戦を見守るなか、運命を決したのは人々が予想していなかった若き新星であった。


項羽
(西楚の覇王、項羽)

項梁の死によって楚王勢力は大きく動揺した。前途を見限って離反する者が続出するなか、懐王の側近たちは組織の自壊を防ぐために明確な目標を掲げる必要を感じた。
主要指揮官たちのあいだで軍議が行われ、まずは秦軍に包囲された趙を救援し、北方諸勢力と合従して体制を立て直すことが急務という合意が得られた。
救援軍を率いるのは「宋義」という旧楚国の貴族で、副将として項梁の甥の項羽がつけられた。


なお、このときに数千程度の小規模な別働隊が直接秦の本国を目指すことになった。
この一隊が本当に関中まで行けるとは誰も思っていない。政権崩壊を防ぐために景気の良い戦略目標を掲げただけだった。
これを預けられたのは、農民出身の「劉邦(りゅうほう)」なる47歳の武将。どうでもいい役目を任されたことから分かるように、楚王政権内での立場もわりとどうでもいいレベルの指揮官だった。
劉邦率いる一隊は糧食の確保に苦労し、守りが薄くて物資が多そうな城を探して南へ北へとふらつきながら、どうにかこうにか西へ向かっていった。
そのまま、彼らの存在は皆から忘れられた。

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(鉅鹿の戦い)

項羽、本名は項籍。このとき25歳。
少年の日に始皇帝の行列を見て、「彼、取って代わるべし」と言い放った壮気あふれる若者である。

鉅鹿に向かって出陣した宋義は、途中で1ヶ月半も行軍を停止した。そのあいだ、斉に密使を送って自分の息子を斉王の重臣に取り立ててもらうよう画策したり、無意味に酒宴を開いたりしていたらしい。
華北の冬は、江南からきた楚人には耐えがたい。激情の人である項羽は、兵士たちが飢えと寒さに震えるなかで遊興にふける宋義一派への怒りを抑えられず、彼らを斬って軍権を奪った。
報告を受けた懐王は為すすべもなく、項羽を楚国の上将軍として認めた。

「進発せよ!」

12月、項羽は全軍を率いて黄河を渡った。3日の糧食を残して資材を焼き、船を水に沈めた。兵士たちは死を決して戦場に向かった。
鉅鹿に達した項羽軍は秦軍の糧道を破壊し、自軍の六倍もの大兵力からなる包囲陣を急襲した。
不意を突かれた秦の指揮官たちは混乱のなかで戦死した。たまたま現場を離れていた章邯が戦いの結果を知った時には、すべてが手遅れになっていた。

趙を救った項羽は自称国王たちの軍勢を併せ、これまでとは一転して章邯の軍を圧迫しはじめた。
孤軍転戦すること一年余にして章邯ははじめて本国に援軍を求めた。だが、丞相となった趙高は宮廷深くにこもり、支援の要請を黙殺した。
趙高は二世皇帝に「東方の賊軍は平定されました」と報告していた。いまさら援軍など出せるわけもなかった。
このとき、司馬欣(しばきん)という武将が章邯に進言したという。

「秦は趙高に牛耳られ、我らは功績を立てても謀殺され、功績を立てなくても誅殺されるだけでしょう。将軍はもう十分に秦への義理を果たしたのではないですか」
「そうかも知れぬ……」


帝国の終焉

二世皇帝3年(紀元前207年)7月、章邯は殷墟で項羽に降伏した。
ここはかつて、殷の最後の都である朝歌のあった場所だった。殷の滅亡からこの時代まで800年以上の歳月が流れ、かつての王都は土に埋もれ、夏草の丘が連なるばかりだった。
ひざまずいた章邯は、自分の生命を引き換えに将兵の助命を求めた。項羽は感動して章邯を引き起こし、彼を楚の将軍として、そして王として厚遇することを誓った。
項羽を見上げた章邯は言葉もなく泣き続けた。一年半にわたって帝国のために尽くしながら何一つ報いられることはなく、いま、敵将が初めて自分の価値を認めてくれたのだった。

だが、項羽は秦の将兵の助命は許さなかった。二十万にのぼる秦軍の投降兵たちに与える食料はなく、彼らが暴動でも起こせば取り返しのつかないことになる。
ある夜、楚軍は雄叫びをあげて秦人の兵士たちに突撃した。恐怖に惑って逃げ走った秦兵たちは大地にうがたれた深い裂け目に次々に飲み込まれた。帝国の運命はついに窮まった。


このとき、項羽は驚くべき報せを得た。
一年近く前、自分たちが趙の救援に出発したのとほぼ同時に西に向かった劉邦率いる一隊。彼らがどういう奇跡を起こしたのか、すでに関中に入り、9月には秦王を降して咸陽に入城したというのである。

思えばひどい話だった。
劉邦たちがどんな辛苦を経たのかは知らないが、自分たちが秦の大軍と血戦を繰り広げている隙に、あの食えない中年親父はほとんど敵兵のいない地域を巧妙にすり抜けて関中に忍び込んだ。
挙句がら空きの咸陽に刃を突き付けて降伏に追い込み、美味しいところを全部攫ってしまおうというのだろう。
しかも奴は図に乗って函谷関の門扉を閉ざし、自分たちを閉めだそうとしているらしい。項羽は激怒した。

秦帝国滅亡
(項羽は北方で章邯と戦い、劉邦は南方から秦の本国へ侵攻した)


むろん劉邦の側にも言い分はある。
自分たちは楚の懐王に命じられ、僅かばかりの軍勢で物資も持たずに敵地に向かわされた。その日その日を食いつなぐために糧食を探し回りながら西へ這い進み、強敵に遭遇すれば逃げ惑った。
やっとのことで秦嶺山脈に近づくと、秦は残余の兵力を函谷関に集めており、南の武関はがら空きだった。いまさら引き返しようもなく、そのまま前に進んだ。
そうしたら藍田で秦軍が迎撃して来たので、死にもの狂いで打ち破った。
その後は何の音沙汰もなく、逃げ腰になりながら進軍を続けていると、秦の側で勝手に趙高が二世皇帝を殺し、その趙高もすぐに殺害され、子嬰(しえい)とかいう新しい秦王(「皇帝」とは名乗っていない)が自分から降伏して来た。
どうやら藍田の戦いのあと、秦にはもう一兵も残っていなかったらしい。
それでも張良とか蕭何(しょうか)とか頭の切れる部下がうるさく諫言するので、咸陽の美姫にも財宝にも手を付けずに大人しく項羽の到着を待っていたのだ。


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(鴻門の会)

項羽は函谷関をぶち破って関中平野に突入し、劉邦を鴻門(こうもん)という地点に呼び出した。劉邦は震え上がった。
項羽の側では、軍師役の「范増(はんぞう)」という老人が、その場で劉邦を斬り捨てるように進言した。項羽もそのつもりだった。

項羽の陣営に現われた劉邦は、平身低頭してただもうひたすら謝罪した。自分には野心など毛頭なく、誠心誠意、将軍のご到着をお待ち申し上げていただけで、函谷関の件は何かの間違いだと言い訳した。
自分の親ほどの年齢の男が涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら謝り続ける姿が情けなさすぎて、いたたまれず、つい憐れみを覚えた。項羽はそういう若者だった。

「もういい、済んだことだ。飯でも食おう」

軍師の范増は唖然とした。さっきまで怒りに青筋立てていた項羽が、劉邦の見え透いた言い訳に納得してあっさり矛を収めてしまおうとは!
范増は項羽の従弟の項荘(こうそう)という脳筋男を呼び、剣舞を披露すると見せかけて劉邦を斬るように指示した。
事情を知らない項羽はやんやと囃し、劉邦は白刃の切っ先が鼻先に迫るたびに冷や汗をかき、劉邦の参謀役の張良は青くなった。
このとき、項羽の叔父で張良と旧知の仲だった項伯(こうはく)という人物が剣舞に加わった。身内の陰謀よりも信義や友情を重視するのがこの時代の倫理である。項伯は項荘の舞いをさりげなく妨害しはじめた。
そのあいだに張良が、劉邦の護衛兵の樊噲(はんかい)という男を呼び込んだ。これまた脳筋男であった。

樊噲は髪を逆立てて盾を引っ掴み、衛兵を突き飛ばして宴席に乱入。「俺にも酒をよこせ!」と怒鳴った。項羽はこの「余興」に大喜びし、なみなみと酒を注いだ大杯を与えた。
樊噲はそれを一気に飲み干し、巨大な肉塊を与えられると盾をまな板にして、剣で肉を切って平らげた。こういう豪傑こそ、項羽が最も好む人種だった。

「もう一杯やるか?」
「俺は死ぬのも惜しくねぇ、酒なんぞいくらでも飲み干してやらあ! んなことより項将軍、よっく聞けや! うちの大将は王様に言われて真っ先に咸陽に入ったが、財宝も奪わなきゃ人も殺さねえ、盗賊が荒らさねぇようにご丁寧にも函谷関の門も閉じて将軍の到着を待ってたんでえ! それをなんだ、つまんねえ告げ口でも真に受けたんか、大将呼び出して散々脅そうたぁ、どういう料簡してんじゃい!」
「見事だ! 貴様こそは壮士だ!」

宴席が大盛り上がりになるなか、劉邦はさりげなく席を外して自軍に逃げ戻った。

「申し訳ござらぬ。我が殿は酒に弱く、どうやら将軍の迫力に押されていささか度を越してしまったようでしてな。おおかたどこかで居眠りでもしているのでしょう」
「仕方ない奴だ。拾って帰れ」

張良が適当に言い訳をして場をおさめ、劉邦の件はこれで解決した。


宴席が果てた後、范増は無人の大広間で切歯扼腕して吐き捨てた。

「小童め、ともに事を図るに値せんわ!」

いかに戦場の猛将であっても、いかに激情の人であっても、結局のところ名門貴族の子として生まれ、他人を信じやすい項羽に政敵の謀殺など無理な相談だった。

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(鴻門の会といえば高校の漢文教科書にも載っている名場面)


まもなく諸将を従えて咸陽に入った項羽は、秦王・子嬰以下、秦の王族を皆殺しにし、阿房宮と始皇帝陵に火を放った。
猛火は三ヶ月も燃え続け、始皇帝の栄華の名残りはことごとく灰燼と帰した。
かくて六百年の歴史を持つ秦王朝は滅亡し、中華世界の歴史上で最初の統一帝国は終焉する。紀元前206年11月のことであった。


諸王の戦い

秦帝国の滅亡後、項羽は楚の懐王を「義帝」に格上げし、各地で秦と戦ってきた諸勢力の指導者や秦の降将など18人を各地の王とした。秦のような統一国家体制ではなく、かつての周王朝に似た封建制が採用されたのである。


筆頭はむろん項羽自身で、「西楚(せいそ)王」として長江下流から淮水流域にかけてを治めることになった。これはほぼ戦国最末期の楚国の領域に相当する。
人々は義帝を補佐して天下の諸侯を主導する項羽を「西楚の覇王」と呼びはじめた。

問題は最初に関中に入った劉邦の扱いだった。
項羽と劉邦が出陣したとき、懐王は「最初に関中に入った者を関中の王とする」と宣言していたらしい。
むろんその時点ではただの景気づけだったのだが、今となって約束を破るのは問題がある。とはいえ、天下を制した秦の本拠地を一人の人間に任せるのは危険すぎる。

項羽は劉邦に渭水流域の関中そのものではなく、秦嶺山脈の南の漢水上流域と四川盆地を与えた。ここも長いあいだ秦の統治下にあり、函谷関より西なのだから広い意味では関中に当たると強弁したのである。
とはいえ、淮水流域から出発して遠く関中に入り、そこからさらに秦嶺を南に越えてというのでは、僻地へ島流しになるようなものだった。巴蜀の地に至ってはなかば未開の蛮地である。
封地にちなんで「漢王」を称することになった劉邦は悲嘆に暮れ、部下には彼を見限って離反する者が続出した。

不満を持ったのは劉邦だけではない。調整不十分なまま一方的に決められた十八王分封には大半の王たちが不平を鳴らし、王に成り損ねた実力者たちは実力行使に及んだ。
早くも5月には山東で斉王に成り損ねた「田栄」なる人物が挙兵し、斉を乗っ取った。
また、当初燕王であった韓広は、より遠くの遼東に左遷されたのを不満として赴任を拒み、新しい燕王の臧荼(ぞうと)に攻め滅ぼされた。
そして8月、辺境に押し込められるのが耐えられなくなった漢王・劉邦が叛旗をひるがえし、秦嶺山脈を越えて関中に攻め込んだ。

十八王体制は半年も持たなかった。

項羽の分封
(十八王の分封)


一方、十八王の領域の外でも激しく情勢が変動しつつあった。

南方では趙陀(ちょうた)という人物が勢力を拡大中だった。
彼は北方の出身で、始皇帝の百越征討に動員され、ひととおり戦争が終わったあとは南シナ海沿岸に近い南海郡龍川県の県令に任じられていた。
始皇帝が死に、旧六国で反乱が広がると、この地は秦の本国と完全に連絡が途絶した。
ときの南海郡尉は病床にあり、信頼していた趙陀に「こうなれば、この地で自立してしまうしかない。貴君ならばうまくやり遂げることだろう。任せたぞ!」と言い残して死んだ。
帝国が滅亡する頃、趙陀は南海郡尉代行を称して桂林・象の二郡に兵を進め、現在の広東・広西を統合した。

その西の紅河(ソンホン)流域(現;ベトナム北部)では、蜀の王家の末裔とされる安陽王(アン・ズオン・ヴァン)なる人物が、古螺(コーロア; 現在のハノイ近郊)を拠点に甌駱(オーラック)という国を立てた。
趙陀は計略を用いて甌駱に内紛を起こし、やがてこの地も制圧。「南越の武帝」を称し、北方の移住者たちと先住の百越諸族が融和する独立国を築くことになる。
これより長きにわたり、北方の政権が南越に介入することはなかった。

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(南越の武帝・趙陀)


北方では騎馬遊牧民の匈奴(きょうど)が勢力を立て直しつつあった。

戦国末期に中華の北辺を脅かした匈奴の指導者、トゥメン(頭曼単于(とうまんぜんう))は、始皇帝がオルドスに兵を向けたことにより、黄河大湾曲部からゴビ砂漠の彼方まで追い払われてしまった。
ゴビ砂漠の北にはユーラシア大陸でもっとも豊かな大草原が広がっている。だがこの頃、草原の東半には「東胡」、西半には「月氏」と呼ばれる集団が存在していた。
東胡の勢力はモンゴリア東部から大興安嶺を経てマンリュリアにおよび、月氏の勢力はモンゴリア西部から秦の西方の河西地方まで広がっていたと思しい。
南から逃げ延びてきた匈奴は、先住の二大勢力に水場と牧草を分けてもらうために人質を出して服従を誓うしかなかった。

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(匈奴の戦士)

頭曼単于は長男を月氏に送った。ところがそれからほどなく、頭曼は月氏を急襲した。
人質の生命など知ったことではない。頭曼単于はそのころ寵愛していた妃の子を後継ぎにしようとしており、あわよくば月氏が長男を殺してくれないかとすら思っていた。
だが、人質にされた長男は月氏の駿馬を奪って自力で匈奴部落に帰ってきた。匈奴の人々は驚き、彼をバガトゥル(勇士)と絶賛した。
頭曼単于はさすがに感心し、彼に一万騎を与えて「左賢王」とした。漢語の史料はバガトゥルに「冒頓(ぼくとつ)」という字を当てている。

冒頓は非凡な若者だった。
おそらく、彼は少年時代にオルドスで秦の侵略を目の当たりにして、その精強さのよって来たる所以を問うたことだろう。そして始皇帝という恐るべき専制君主と、秦の臣民を縛る法の鎖を知ったはずだ。
また、青年時代には月氏の王庭に滞在し、スキタイ人から伝えられた最先端の戦闘技術を短期間にしっかと脳裏に刻み込んだに違いない。

彼はいま、自分を未必の故意で殺そうとした父の悪意をまざまざと認識した。狼は復讐の牙を剥く。

冒頓は鳴鏑(かぶら矢)を作り、部下たちに「これで余が射たものを、汝らも必ず射よ」と命じた。

狩猟のたびに訓練を積んで部下たちが服従に慣れた頃、冒頓は月氏から奪った例の駿馬に鳴鏑を放った。
冒頓の生命の恩人ともいうべき馬である。驚いて矢を射ることを躊躇した者がいた。冒頓は彼らを大喝し、全て処刑した。

別の日、冒頓は鳴鏑を用いて自分の愛する妃を射た。今度も多くの部下が矢を放つことを躊躇った。冒頓は彼らも斬り捨てた。
冒頓の部下たちは無念無想で指揮官の一挙一動に追随する戦闘機械と化した。

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(匈奴の弓)

紀元前209年、中華の地で陳勝と呉広が兵を挙げた年。おそらくは秋の大狩猟の折でもあろうか。
冒頓は父の頭曼単于に鳴鏑を放った。無数の戦士たちが無意識に追随し、頭曼単于は全身に矢を浴びて死んだ。
それから冒頓は父に忠誠を誓う一族や大臣たちを次々に射殺した。部下たちは黙々と矢を放った。初秋の草原は血臭に覆われた。

こうして若き冒頓単于は匈奴の旧体制を一掃し、徹底的に服従を叩き込んだ戦士たちを率いて東胡と月氏を次々に破った。
冒頓単于の騎馬軍団がゴビ砂漠を踏み越えて中華の北辺に姿を現すのは、それから10年ほど後のことである。


項羽と劉邦

項羽は多忙である。
まず、用済みとなった義帝を南の辺境に移して暗殺する。ついで次々に叛旗をひるがえす諸王に対処しなければならない。

最初に項羽は斉に向かい、斉の王位を奪った田栄を鎧袖一触で滅ぼした。だが、その弟の田横(でんおう)が斉人を率いて抵抗を続け、戦況が泥沼化した。
その隙に、関中から出撃した劉邦が項羽に不満を持つ諸王と連合し、56万もの大軍をもって項羽の本拠の彭城(ほうじょう)を陥落させた。
項羽は激怒し、わずか3万の軍を率いて急遽彭城に戻った。圧倒的な兵力差にも関わらず、油断しきっていた連合軍は大敗し、劉邦はほとんど身一つで逃走した。劉邦の妻や両親も項羽に捕えられるほどの敗北だった。
劉邦は河南の滎陽(けいよう)で項羽に包囲され、影武者の犠牲でなんとか脱出した。
だが、そんなことをしているうちに、項羽の背後で田横が斉を再び制圧してしまった。

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(楚漢戦争の影の大物、田横を主人公とする小説)


劉邦を支えたのは、本拠の関中にあって途絶えることなく物資の補給を続けた名臣・蕭何(しょうか)と、劉邦の飾らない人柄に魅了された関中の人々だった。
苛酷な法治に疲れ果てた旧秦の人々は、庶民の出身で、面倒な法治など部下に丸投げする劉邦のもとで一息つくことができたのかもしれない。

関中で態勢を立て直した劉邦は、一兵卒出身の韓信(かんしん)という部将に一隊を預けて黄河の北岸に進出させた。
この韓信という人物は、蓋を開けてみれば劉邦とは比較にならないほどの名称で、魔術のように勝利を重ね、旧趙国の領域をみるみる平定し、燕や斉にも侵攻していった。
劉邦は韓信が集めた兵士たちを定期的に呼び寄せては項羽に戦いを挑んだが、猛将・項羽は常に劉邦を撃破した。まさに百戦百敗であった。

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(韓信)

戦場で項羽に敵すべくもない劉邦は、張良や陳平といった謀臣たちと協議して、戦略面で項羽に対抗しようと苦心した。
長江中流を押さえる衡山王の呉苪や九江王の黥布とひそかに同盟し、長江の南側から項羽の拠点を掘り崩そうとした。うかつにも項羽は最後の最後まで、この策動にまったく気づかなかったらしい。
さらに、黄河下流域で群盗を率いて跳梁する彭越(ほうえつ)なる人物と結び、項羽の兵站を攪乱させた。

漢楚戦争
(楚漢戦争)

項羽は百戦百勝、戦場で敵に敗れたことが無かった。だが、いかに敵を破り続けても、真綿で首を絞めるように項羽をとりまく情勢は厳しさを増していく。不思議な事だった。

紀元前203年秋、項羽と劉邦は河南の広武山で対戦した。
両軍は二つの丘に陣を構え、何重にも柵や堀を巡らして激突を繰り返した。両軍の人的損耗の凄まじさは、ほとんど近代戦のそれを思わせた。
ただし両者には決定的な違いがあった。
劉邦が陣を構えたのは秦帝国の食料備蓄基地となっていた丘で、ほとんど無尽蔵に糧食が蓄えられていた。しかも背後の関中では名行政官の蕭何が采配を揮い、途絶えることなく潤沢な物資を送り込んできた。
一方で項羽は彭越の妨害に苦しみながら遠くから食料を運び続けなければならなかった。

――江東の子弟八千人。
西楚の覇王、項羽が率いる旧楚の民は、中原という名の大海を経めぐりながら、もう何年ものあいだ戦い続けてきた。
同族の連帯、故郷への想い、失われゆく長江の神々と伝統への誇り。
そして神のごとく勇猛な彼らの偉大な覇王への揺るぎなき忠誠。
だが、いまや塹壕の中で楚人の戦士たちは戦傷と飢寒に苛まれ、一人また一人と斃れていった。


――呉戈を操り、犀甲を被て、車は轂を錯え、短兵接す
旌は日を蔽い、敵は雲の若く、矢は交も墜ち、士は先を争う
余が陣を凌ぎ、我が行を踏み、左驂は殪れ、右も刃に傷つく・・・・・・
長剣を帯び、秦弓を挟み、首身離るるも、心懲りず
誠に既に勇にして、又た以て武、終に剛強にして、凌ぐべからず
身既に死するも、神以て霊、魂魄毅として、鬼雄と為れり――


(屈原「國殤」)


項羽は捕虜にしていた劉邦の父親を殺すと脅迫した。
一騎打ちを挑んだこともある。
だが、劉邦はまったく取り合わなかった。

ただひとつの快事は、陣頭に現われた劉邦を強弩で狙撃したことだった。
劉邦は胸を押さえて仰向けに倒れ、漢軍は騒然とした。劉邦は死にはしなかったが、肋骨を粉砕され、意識を失ったのだ。
そう、死にはしなかった。


項羽は大局を見るのが苦手だった。
劉邦が自分を餌にして項羽を引きつけているあいだに、背後では西楚の孤立化が進みつつあった。北では韓信が、南では黥布が進撃し、項羽の勢力圏は日に日に縮小し続けていた。だが、項羽はそれに気づかない。


四面楚歌

紀元前202年7月、疲れ果てた項羽は劉邦との停戦に合意した。
ひとまずこの地を境に天下を二分し、西半分を劉邦、東半分を項羽の勢力圏とすることにした。もちろん時間稼ぎである。いちど本拠に戻って将兵の英気を養い、翌年に再戦を挑むつもりだった。

だが、劉邦はその余裕を与えなかった。
撤退をはじめた漢軍は、不意に楚軍の背後を急襲した。項羽は鬼神のごとく奮戦したが、疲弊した楚軍の士気は振るわず、逃亡兵が続出した。

劉邦は韓信、黥布、彭越の軍を呼び寄せた。彼らは皆、内心では項羽と劉邦が共倒れになることを狙って兵を動かそうとしなかった。
やむなく劉邦は戦後の大盤振る舞いを約束し、彼らの軍を併せて垓下(がいか)で項羽を包囲した。
漢軍と諸侯の軍は40万人に達した。

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(垓下の戦い)


項王の軍、垓下に壁す。兵少なく食盡く。漢軍及び諸侯の兵、之を圍むこと數重。
夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞く。
項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢は皆、已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。

(『史記』項羽本紀)


黥布の寝返りを察知していなかった項羽は、敵軍から楚国の歌声が起こるのを聞いて愕然とした。

――フェイイェー、チュウジウェイジィイェー(悲しい哉、秋の気為るや)
――シャオシィシィ、ツォンムヤォルォー、ァルビェンスゥイ(蕭瑟として、草木揺落して変衰す)
――リァオリィシィ、ニュィツァイユェンジン(憭慄として、遠行に在りて)
――ドゥシャンリンシュイシィ、ツォンジァンチィ(山に登り水に臨みて将に帰らんとするを送るが若し)


驚愕は絶望に変わった。

項王則ち夜起ちて、帳中に飲す。
美人有り、名を虞。常に幸せらる。駿馬あり、名を騅。常に之に騎る。
是に於て項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、「力は山を拔き、氣は世を蓋う。時に利あらずして騅逝かず。騅逝かざるを奈何せん。虞や虞や、若を奈何せん」
歌うこと數闋、美人之に和す。項王、泣數行下る。 左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。

(『史記』項羽本紀)


「漢兵已に地を略し、四方は楚歌の声。大王の意気尽きたれば、賤妾何ぞ生に聊んぜん」

(『楚漢春秋』虞美人返歌)


項羽は八百騎を選抜し、夜闇にまぎれて包囲を突破した。劉邦は人生でこれ以上ないほど狼狽した。
最悪の協定破りをしてしまった以上、もはや項羽との和解はあり得ない。ここで常勝不敗の項羽を取り逃がせばすべては終わる。直ちに五千騎が追撃を開始し、続々と後続が出発した。
項羽は馬に鞭打ってひたすら東南を目指した。遅れる者を待つ余裕はなく、次々に従騎が脱落していった。淮水を渡る頃には百騎あまりが従うのみであった。

大湿地帯に踏み込んで道を誤り、わずか二十八騎となって漢軍数千に捕捉された。

項王、自ら脱するを得ざることを度り、其騎に謂いて曰く、
「吾れ兵を起してより今に至るまで八歳なり。身に七十余戦、當る所の者を破り、撃つ所の者を服せしめ、未だ嘗て敗北せず、遂に天下を覇有す。
然るに今卒に此に困しむ。此れ天の我を亡ぼすにして戦の罪に非ざるなり!
今日、固より死を決す。願はくは諸君の為に快戦し、必ず之に三勝し、諸君の為に囲みを潰し将を斬り旗を刈らん。
諸君をして天の我を亡ぼすにして、戦の罪に非ざることを知らしめん!」

(『史記』項羽本紀)


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(項羽を討ち取った名もなき兵士に焦点を当てた短編小説など)


項羽は二十八騎を四隊に分け、何重もの包囲を敷く漢軍に突撃した。
項羽が眼を怒らして吶喊すると漢軍の兵士たちはあまりの畏怖に軍旗を倒して逃げ出した。馬は狂奔して数里の距離を走り去った。
項羽は漢軍の指揮官を斬殺し、数百の兵士を斬り捨てて部下を点呼した。わずか二騎を失ったのみであった。

乃ち其騎に謂いて曰く、「何如ぞや」と。
騎、皆伏して曰く、 「大王の言の如し」と。

(『史記』項羽本紀)


項羽は二十六騎を率いて南下を続け、ついに長江のほとりに到達した。烏江(うこう)という渡し場だった。
ここを渡れば、もう漢軍は追ってこれない。本国の江東に戻って捲土重来を期すことができる。少なくとも項羽はそう信じた。
項羽はすでに長江の向こうの本国が黥布に蚕食されていることや、百越の王である無諸が劉邦に通じて江東を窺っていることを知らなかった。

だが、最後の最後で何故か項羽の心は変わった。
それはここまで従ってきた忠臣たちを見捨てて一人逃れることができないと思ったためかもしれず、自ら語ったように天が己を亡ぼそうとすることを悟ったからかもしれず、故郷の人々のもとに帰る面目がなかったからかもしれない。
項羽には多くの欠点があったにせよ、己の信念を曲げることなく生き続けたことは間違いない。

是に於て項王、乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長、船を檥して待つ。
項王に謂いて曰く、「江東は小なりと雖も、地は方千里、衆は數十萬人、亦た王たるに足れり。願わくは大王、急ぎ渡れ。今、獨り臣のみ船有り。漢軍至るとも、以て渡る無し」と。
項王、笑いて曰く、「天の我を亡ぼすなり、我何ぞ渡らんか。且つ、籍は江東の子弟八千人と江を渡りて西し、今一人の還る無し。
縱い江東の父兄、我を憐れみて王となすとも、我何の面目ありて見えんや。縱い彼言わずとも、籍獨り心に愧ざらんや」

(『史記』項羽本紀)


項羽は幾多の戦場を共にしてきた駿馬、騅(すい)に別れを告げた。従騎もことごとくそれにならって馬を捨てた。
まもなく漢軍数千騎が殺到した。項羽が生涯の最後にあたっていかに激しく戦い、いかに壮烈に死んだかは、はるか後世まで語り伝えられた。
かくて伝説が終わり、歴史がはじまる。

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