世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史24 群狼たちの相克

奇妙な幕間

イスラーム世界とモンゴル帝国
(モンゴル登場前夜における「ダール・アルイスラーム」と、モンゴル帝国の最大版図)


西暦13世紀後半は、イスラーム世界の歴史にとって奇妙な幕間だった。

古典イスラーム法学によれば、世界は「ダール・アルイスラーム(イスラームの家)」と「ダール・アルハルブ(戦争の家)」に二分される。
そのうち「ダール・アルイスラーム」とはすでにイスラーム法(シャリーア)が施行されている地域であり、主権者たるムスリムたちと、彼らに従属する異教の被保護民によって構成される。
逆に「ダール・アルハルブ」とはイスラーム法が施行されていない地域であり、主権者たる異教徒たちと少数のムスリムによって構成される。

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六百年以上のあいだ、「ダール・アルイスラーム」は拡大の一途をたどった。
冬は何ヶ月も太陽の昇らないオビ川下流のツンドラから、泥のモスクが聳えるニジェール流域の熱帯サバンナまで。
波濤打ち寄せる大西洋の岸辺から、万里の長城の西端まで。

歴史家イブン・ハルドゥーンは、ダール・アルイスラームの領域を、南に向かって翼を広げる鳥の姿にたとえた。
右の翼は北アフリカ(マグリブ)、左の翼はイランと中央アジア(マシュリク)、尾はアナトリアとキプチャク平原、そして胴体はシリアとイラーク平原とアラビア半島であり、聖都マッカが心臓にあたる。

イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル帝国)は、その巨大な鳥のほぼ半身を制圧した。モンゴルの支配下となった土地ではイスラーム法の施行は停止されるか、権威と効力を大幅に弱められ、かわってチンギス・カンの「ヤサ」が最高法規となった。
イスラーム世界を「ダール・アルイスラーム」と同一の概念とすれば、この時代にイスラーム世界はその領域の半分を失ったことになる。

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(これのスケールを数百倍に広げてみよう)


だが、「イスラーム世界」にはもうひとつの捉え方がある。
イスラーム法を施行する国家の領土の集積ではなく、イスラームを信仰するムスリムたちの総体(イスラーム共同体:ウンマ)こそが「イスラーム世界」の本質とする見方である。
こちらの観点からすれば、モンゴルの時代にむしろイスラーム世界は大きく拡大した。

ユーラシア大陸の大部分を覆う超広域帝国の出現は、かつてない人的流動性の向上をもたらした。
ムスリムたちは兵士や官僚、学者や商人、奴隷や捕虜など、さまざまな立場で、アフロ・ユーラシアの陸と海を縦横に行き来した。
それまで異世界のように隔てられていた「東」と「西」はモンゴルのもとではじめて単一の主権に覆われた。
確かな記録に残る限り、それは人類の歴史上ではじめてのことだった。


世界の統合者

建国半世紀。
モンゴル帝国初代皇帝チンギス・カンは中央アジアと華北を制し、二代皇帝オゴデイはキプチャク平原とルーシ・東欧に大遠征軍を派遣した。
三代皇帝グユクの短い治世を経て、四代皇帝モンケは弟フレグを西南アジアに送り、モンゴルの版図は地中海に達した。
そしていま、最後にして最大の獲物として残るのが中華世界南半に君臨する南宋帝国である。

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(右のほうの「СУН」と書いてある黄色い領域が南宋帝国)

1259年8月、四川におけるモンケ・カアンの死を契機に、クビライアリク・ブケという二人の皇弟のあいだで帝国始まって以来の大内乱が勃発した。
帝国西方の二つのウルス(分国)クビライの従弟ベルケ(大西征の司令官バトゥの弟)が支配する西北ユーラシアのジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)と、クビライの弟フレグが私領化しつつある西南アジアのフレグ・ウルス(イルハン国)は中立を保った。
いずれも帝国中枢たるモンゴリアからはあまりに遠い。とくにジョチ・ウルスは歳月とともに東方からの自立志向を強めつつあり、面倒ごとに関わる気はまったくなかった。


内戦はクビライの勝利に帰した。
南方からの物資を遮断されたアリク・ブケは帝都カラコルムを追われて中央アジアに逃走。チャガタイ王家の拠点イリ渓谷を強奪して越冬を図るも、猛烈な吹雪に見舞われて全軍崩壊。
1264年春にクビライに無条件降伏に至ったのである。

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(大モンゴル帝国第5代皇帝、クビライ・カアン)

競争者を滅ぼしたクビライは、全帝国の実力者たちを召集して正式のクリルタイ(部族大会議)を開催し、カアンとしての権威を不動のものにしようとした。

だが、その計画は思わぬなりゆきで頓挫した。クリルタイを前に西方の有力者たちが次々に病に倒れたのである。

1265年、フレグ・ウルスの当主フレグが崩御。
数ヶ月後にはジョチ・ウルスの当主ベルケが崩御。
半年を経ずして中央アジアを抑えるチャガタイ家の当主アルグも世を去る。

クリルタイは無期限延期となり、かつてのような挙国一致の軍事行動は不可能となった。かくてモンケ・カアンが夢見た「世界征服」は幻に終わる。


クビライが掌握できたのは帝国の東半分だけだった。それでも彼は諦めなかった。
彼の夢は「世界の征服」ではなく「世界の支配」だった。それはモンケの夢と似ているようで、少し違う。
支配というのは必ずしも絶対的な軍事力の優越を必要としない。見えざる権威や威嚇、あるいは富の力によって世界を操ることもできる。
それならば、地上でもっとも豊かな南宋帝国を従えさえすれば、実現の見込みは十分にある。

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クビライは1276年に念願の南宋征服を果たすとともに、華北に新しい都を造営しはじめた。その名を「大都」という。
当時のアフロユーラシア世界では、大都はむしろ「カンバリク」として知られた。テュルク・モンゴル語で「帝王の都」という意味である。
カンバリクは古代中華の聖典『周礼』に記される理想都市を模していたが、実態は伝統的な中華の帝都とまったく異なるものだった。

幾重もの朱壁に囲まれた宮殿の最奥には茫々と草地が広がっている。それはモンゴルの原風景だった。

宮殿の傍らには「積水潭」と呼ばれる巨大な湖水が広がっている。湖は運河によって百数十キロ彼方の外洋と結ばれ、都市内港として機能した。
湖畔には無数の商館が並び、世界各地から訪れた交易商人たちが商取引に熱中していた。
街角にはあまたの宗教の寺院や聖殿が聳え、さまざまな土地からやって来た人々が賑やかに通りを行き交う。
のちに「北京」と呼ばれるこの都は、クビライ・カアンのもとで「カプトゥ・ムンディ(世界の首都)」として繁栄を極めたのである。

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(大モンゴルの帝都、「カンバリク」)

中央政権の文武の高官たちは、いまやモンゴル人だけではない。
ウイグル人、契丹人、漢人、チベット人、ソグド人、ペルシア人、テュルク人、アラブ人、フランク人……さまざま土地から、多種多様な信仰を抱き、多くの言語を自在に操る人々がクビライ・カアンの宮廷に出仕した。
彼らの顔ぶれは実に多彩だったが、いずれも溢れんばかりの野心と才能を抱え、極めて実利的な価値観の持ち主たちだった。

高官たちは「オルトク」と呼ばれる交易商人の組合に投資し、運河や港湾を整備し、税を軽減し、しばしば賄賂を取り、ときに艦隊を派遣して海外諸国を威嚇し、さまざまな角度から国際通商を推進した。
彼らにとって私利の追及は何ら恥ずべきことではなく、この比類なき時代において己の才と権力を証だて、人生を享受するための最大の手段であった。
帝王クビライ自身は雲南地方からもたらされる莫大な銀をユーラシア各地の同族たちに絶えず賞賜した。銀は世界を環流し、ユーラシアの国際交易を一段と活性化させた。
クビライの帝国は徹底的な重商主義を国是としていたのである。

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それゆえ、クビライの帝国は伝統的な中華王朝とはまるで異質のものとなった。
モンゴルは臆面もなく富を求め、武を弄び、農を軽視した。中華世界に古より受け継がれてきた儒教知識人への尊崇の念などまるで持ち合わせていなかった。
帝国政府も漢人官僚をほとんど当てにしていなかった。価値観、世界観、知識と教養の体系において、モンゴル帝国と漢人とはどうにも相性が悪かった。

代わりに重用されたのは、西方から来たテュルク系・イラン系のムスリムたちだった。
イスラームは商業を重視し、論理や実利的知識の追求を善しとする。彼らの志向や才能はクビライの求めるものに合致していた。

たとえば財務長官アフマド・ファナーカティー
彼は各種の専売制や商業税、縁故に基づく徴税請負制度など、中華世界の伝統とはまったく異なる諸制度を導入して国家財政に大いに貢献するが、それだけに漢人たちには蛇蝎の如く忌み嫌われ、最後には暗殺の憂き目にあう。

また、大都の天文台の長官となったジャマールッディーン・ムハンマド。彼は西方世界の天文学と数学をはじめて中華の地にもたらし、東方世界の天文暦学に多大な影響を与える。

さらに、クビライのもとで各地の行政長官を歴任し、雲南で没したサイイド・アジャッルもよく知られている。
彼は善政によって名高く、被支配者である漢人にも深く敬愛されたという。

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(中華人民共和国福建省泉州市に残るモスクの遺跡)

クビライ・カアンの時代、帝国の宮廷ではペルシア語が共通語として用いられた。
イスラーム世界の人々は海陸さまざまなルートを用いて、大々的にユーラシア東方へ進出した。
クビライの孫で陝西・甘粛・四川におよぶ広大な領国を支配した安西王アーナンダをはじめ、帝国支配層にもイスラームを信仰した者が多い。
彼らの影響を受けてイスラームに改宗した漢人たちも、おそらく決して少なくない。中華世界の西部や南部にいまも点在する「回族」と呼ばれる人々の起源はこの時代にある。

また、クビライ・カアンの重商政策による交易の活性化は、東南アジア島嶼部のイスラーム化をも促した。
スマトラ北端のアチェや、交易の要衝マラッカの王たちがイスラームに改宗するのは、さほど先のことではない。

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(モンゴル時代の末期、北アフリカから中国までを廻ったイブン・バットゥータの旅行記)



従兄弟たちの戦争

一方で、クビライ・カアンの時代には影もある。とりわけ、チンギス・カンの血をひく諸王家の相克は深刻だった。

モンゴル帝国系図
(モンゴル帝国初期系図)

チンギス・カンと正妻ボルテとのあいだには4人の息子が生まれた。
長男ジョチの出生には疑惑があった。彼は母のボルテがチンギス(当時はテムジン)と敵対する部族に何ヶ月も攫われていたあとに生まれたからだ。
チンギスは西方切り取り次第の特権と引き換えに、ジョチを中央から遠ざけた。ジョチの息子たちもモンゴリアからは距離を置き、西北ユーラシアのキプチャク平原で自立の道を歩んでいく。

チンギスの次男チャガタイは厳格すぎて人望に乏しく、チンギスはもっとも才器豊かな末子トルイを後継者に擬した。

だが、1227年に偉大な建国者が身まかると、チンギスの三男オゴデイがトルイに対抗した。
トルイがカアンとして立つより早く、どこからともなく「チンギスは生前に温厚なオゴデイを後継者として指名していた」という風説が囁かれ始めた。
トルイは1232年、金国遠征の帰途に謎めいた死を遂げた。
「国譲り」の美名のもと、トルイの遺児たちが受け継ぐべき軍民や畜群、豊かな中部モンゴルの大草原はオゴデイ・カアンの直轄に移された。中央アジアに拠るチャガタイも、弟のオゴデイを裏から支えた。

モンケやクビライたちは日陰の身分に貶められた。彼らはいつか力をつけてオゴデイとチャガタイの一族に復讐し、「正統な帝位」を奪い返すことを胸に誓った。
ここにトルイ家一門と、オゴデイ・チャガタイ両家との宿命の対立がはじまる。

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(モンゴル帝国第2代皇帝、オゴデイ)

トルイの遺児たちの無念が晴らされたのは1248年、オゴデイの子で第3代カアンとなったグユクが崩御したときである。
トルイの長子モンケは、かつてキプチャク・ルーシ遠征をともにした従兄のバトゥと結んで帝位にのぼり、オゴデイ家とチャガタイ家に大粛清を行なった。

しかし、モンケが1259年に急逝すると、今度はモンケの弟のクビライとアリク・ブケとのあいだで、トルイ家を二つに割っての内戦が勃発してしまう。
それと並行して、帝国西方でももう一つの内乱がはじまった。
クビライの弟でアリク・ブケの兄にあたるフレグが西南アジアで自立したのに対して、ジョチ・ウルスのベルケが激しく噛みついたのだ。この二人は従兄弟同士にあたる。

ベルケ・カン
(バトゥの弟、ベルケ・カン)

ベルケはチンギス・カンの一族のなかで、もっともはやくイスラームに帰依した人物とされている。
なんでも彼の父親のジョチは、自分の子供たちがムスリムの住まうユーラシア西方を委ねられることを見越して、ベルケが生まれた時から彼をムスリムとして育てることに決めたのだという。
ベルケはムスリムの乳母に育てられ、ムスリムとしての教育を受け、長じてはジョチ・ウルスのムスリムの兵士たちをすべて率いることになった。

そんなわけで、ベルケはあの事件を聞いたときに怒り心頭に発した。
ほかでもない、フレグの西征軍によるバグダード攻略とカリフ処刑である。

「軽く二十万人は殺したンゴ。バグダードは死体だらけで臭すぎンゴ(嘘)」
「我ら一族に何の相談もなく信徒の長を殺害したフレグに呪いあれ!」
「知らんがな(´・ω・`)」

モンケ・カアンの死を良いことにフレグがチンギス・カン一族の共有戦利品たる西南アジアを私物化したこと、ジョチ家から派遣された応援軍を無断で麾下に組み入れたこと、それに反発したジョチ家部隊の指揮官を謀殺したこと……従弟フレグのやることなすこと、すべてがベルケの怒りと不信を増幅させた。
もっとも不愉快なのは、ジョチ家がかねて狙っていたアゼルバイジャンの豊かな草原を、フレグが強引にもぎ取ったことである。

「フレグはもはや我が同族にあらず!」
「知らんがな(´・ω・`)」

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(アゼルバイジャンの草原)


フレグ・ウルスとジョチ・ウルスの対立は抜き差しならぬ様相を呈し、1262年9月にベルケはついに3万騎の大軍をアゼルバイジャンに侵攻させた。
一進一退の攻防が続くなか、帝国東側の内戦に決着をつけたクビライ・カアンが大使節団を派遣してきた。


「クビライ・カアンが即位されたぞ。フレグ・カンもベルケ・カンも速やかに矛を収め、カンバリクに集合せよ!」
「知らんがな(´・ω・`)」

「カンバリクだと? あまりにも遠すぎる。キタド(華北)までは片道だけで一年かかる」

「……とにかくクリルタイに参集せよ。来れば分かる。クビライ・カアンはまったく新たな帝国の未来を描いておられるのだ!」


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(玉座に座るフレグとその妃)


しかし、既述のようにこのクリルタイは幻に終わる。
1265年2月、フレグはアゼルバイジャン東部のマラガ近郊で冬営中、癲癇の発作を起こして急死した。
享年48歳。兄のクビライ・カアンが80歳もの長寿を全うしたのに比べて、随分と短い生涯であった。

フレグ・ウルスの玉座を継いだのはフレグの長子、アバガ
ジョチ・ウルスのベルケは仇敵の死を絶好の機会と見なし、公称30万もの大軍を率いてヴォルガ河畔の王都サライを進発した。
しかし今度はベルケが行軍中に急死してしまう。
この従兄弟たち、犬猿の仲だったわりに世を去るタイミングだけは呼吸を合わせたようである。

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(ベルケはカフカス南麓を東流するクラ川の渡河地点を探索中に病に倒れたという)

こうしてジョチ・ウルスとフレグ・ウルスの抗争は無期限継続となった。


カイドゥの「反乱」とその後

アジアの内陸部では帝位継承戦争の間隙に乗じて、トルイ家に圧倒されていたオゴデイ家とチャガタイ家が息を吹き返した。
主導者はオゴデイの孫のカイドゥである。

カイドゥはアリク・ブケに与して西モンゴリアのアルタイ山脈周辺で勢力基盤を固め、アリク・ブケの敗北後もオゴデイ一族を取りまとめてクビライへの服属を拒みつづけた。

そんななか、中央アジアで政変が起こった。
1266年にチャガタイ家の当主アルグが死去した後にクビライ・カアンからチャガタイ一族の監視役として送り込まれたバラクなる人物が、幼主ムバーラク・シャーを追放してチャガタイ王家を乗っ取り、クビライに叛旗をひるがえしたのだ。

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(チャガタイ家の拠点、中央アジアのイリ地方)

1269年、カイドゥは天山山脈西麓のタラスの地で会盟を催した。
参集したのはチャガタイ家のバラク、そしてベルケを継いでジョチ・ウルスを治めるモンケ・テムルの使者である。

「カアンを僭称するクビライはモンゴルの草原を捨て、同族の不和を調停する能も持たぬ。彼奴に従う必要はない。我らはともに手を携えて自立の道を歩もう」

世にいう「タラス会盟」。
カイドゥはカアン直轄領のマー・ワラー・アンナフルをオゴデイ家とチャガタイ家、そしてジョチ家のあいだで勝手に分割した。
さらにジョチ・ウルスからは不可侵不干渉の約束を取り付け、チャガタイ家とは反クビライの軍事同盟を締結する。

「反クビライというか、要はトルイ一族がでかい顔をするのが気に入らん」
「たしかに、そもそも偉大なるチンギス・カンが身罷られたのち、はじめにイェケ・モンゴル・ウルスを領導したのは我らチャガタイ家とオゴデイ家であった」
「そこで提案だ、バラク殿。我らは今の時点でクビライめに真っ向から挑むにはいささか力不足。だが、トルイ家の国はひとつではないぞ」
「……そうか、フレグ・ウルスか!」

カイドゥはチャガタイ家のバラクをけしかけ、フレグ・ウルスに侵攻させた。
カイドゥの意図は晴れやかなものではない。バラクはもともと信頼に値しない。彼がフレグ・ウルスに勝てばよし、負けたら負けたでさっさとバラクを切り捨て、中央アジアをまるごと奪い取ってやればよい。

14世紀フレグ・ウルス
(14世紀のフレグ・ウルスと周辺諸国)


1270年7月20日、フレグ・ウルス第二代当主のアバガはヘラート近郊のカラ・スゥ平原でバラクを撃破した。

「賽の目はそちらに転がったか。ならばよし、バラクには退場してもらおう」

カイドゥは退却してきたバラクを温かく迎え、警護と称して子飼いの兵士たちでバラクの天幕を取り囲んだ。
その夜、バラクは急死した。誰がどうみてもカイドゥによる暗殺だった。こうしてチャガタイ家の勢力を取り込んだカイドゥは、ついにアルタイ山脈からアム川までの中央アジア全土をわがものとしたのである。


こうして西暦1275年頃、モンゴル帝国は大きく4つの政治ブロックに事実上分裂した。

帝国東半を制するクビライ・カアンの政権(「大元ウルス」、あるいは「ウルグ・ユルト」)、中央アジアにあってクビライに対抗するオゴデイ家のカイドゥ政権、トルイ家出身でありながら中央とは一線を画する西南アジアのフレグ・ウルス、そして西北ユーラシアで「栄光ある孤立」を維持するジョチ・ウルス

民間における経済的交流の活性化とは裏腹に、「モンゴル帝国」を構成するこれら諸政権は目まぐるしく攻防を繰り返すことになる。

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(1300年頃のモンゴル帝国)


カイドゥの「反乱」はクビライ・カアンの死後、1301年に西モンゴリアにおけるカイドゥの敗死によって事実上終結した。
14世紀初頭、クビライの孫テムル、カイシャン、そしてアユルバルワダという三人のカアンのもとでモンゴル帝国は束の間の「東西和合」を経験する。
もはやユーラシア各地のチンギス・カン一族が直接顔を合わせることはないが、ほんのひととき大陸全土からほとんど完全に戦火が途絶え、世界経済が空前の活況を呈する一時代が現出した。
だが、その輝きは本当に一瞬で陰る。

カアンお膝元の「大元ウルス」だけをとっても、

1323年 シディバラ・カアン暗殺(南坡の変)。
1328年 イスン・テムル・カアン変死、帝位継承戦争(天暦の内乱)勃発。
1330年 親衛隊長エル・テムルの専権開始、雲南地方で反乱。
1332年 イリンジバル・カアン夭折。
1335年 軍部クーデター未遂。
1342年 黄河氾濫、白蓮教徒の乱勃発。

・・・・・・たちまち各地で再発する内乱、暴政、天災。
ユーラシア全域で帝国はきしみ、ゆがみ、傾き、音たてて崩壊を開始する。


ただし「イスラーム世界の歴史」に焦点を当てるのであれば、モンゴル帝国の崩壊に入るまえにもう少し触れておくべき部分がある。

西南アジアにおけるフレグ・ウルスとエジプト・マムルーク朝の角逐。
マムルーク朝の英主バイバルスとカラーウーンによる「十字軍」の最終的な放逐。
フランス王ルイ9世と王弟シャルル・ダンジューによる最後の挑戦。

そして西北ユーラシアにおけるジョチ・ウルスの光と影、キプチャク平原を血に染めた空前の大乱。
極北の森林から出現する次代の世界帝国、ロシア。

さらには中央アジアにおけるカイドゥ失墜後の錯綜した歴史展開、チャガタイ・ウルスの成立と分裂、混迷の中から登場する「第二の世界征服者」ティムールの物語。


ユーラシア大陸の歴史はほとんどすべて「モンゴル」に流れ込み、そこから再び流れ出す。
オスマン、ムガル、明清、ロシア、オイラト、タタル、サファヴィー朝ペルシア、シャイバーニー朝ブハラ……やがてアジアに君臨する数多の諸帝国も、多くはこの時代に胚胎したのである。

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(「ヨーロッパ」が登場するより前、ユーラシアにはすでに「世界経済」が生まれていた)




モンゴル帝国を一章にまとめようなんて見通しが甘過ぎた。

守谷城検分

土曜日に茨城県守谷市の守谷城址を見てきました。
場所はここですね。利根川を挟んで千葉県柏市と向き合った茨城県の端っこです。

基礎自治体位置図_08224.svg


まずは城址の外観。
かなり大規模な城郭遺構をとどめています。

外観1

外観2

外観3


写真だと説明文が判読不能ですが、この城は平安末期から戦国時代まで、利根川と小貝川に挟まれた下総西北端の北相馬郡を統治してきた下総相馬氏の拠点でした。

案内板

相馬野馬追で有名な福島浜通りの奥州相馬氏の縁戚にあたり、さかのぼれば平将門の家系に連なるという坂東平氏の名族です。
世界の歴史を見渡しても八百年間にわたって同じ一族が同じ土地を治めていた例は非常に珍しく、守谷城の巨大な城郭構造はその歴史の重みを物語っているかのようです。

城址案内

城内にはとくに資料館などはありません。探訪者もあまりいないようで、城の中では他に人を見かけませんでした。
ただひたすら広いです。現存する中世の城跡で、ここまで広い郭が残っているのはかなり珍しいのではないかと思います。

城内

城内2


空堀の跡もしっかりと残っています。

裏口


そして最後に、地味に見所になっているのが城の裏側のこの光景です。

裏側

現在、茨城県東南部から千葉県北部にかけて霞ヶ浦・北浦・手賀沼・印旛沼といった湖沼が点在していますが、中世にはこれらは一つながりになって、「香取海」と呼ばれる入海を形作っていたといわれています。
守谷近辺は香取海の最奥部にあたり、利根川と内海のあいだの地峡になっていました。
ただひたすら草木がぼうぼうと茂っているこの光景、もしかすると往時には巨大な香取海の水面だったのかもしれません。


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中世の関東平野は、地形も自然環境も人々の生業も、現在とはまったく異なるものだったはずです。
それはどんな風景だったのか、一度は見てみたいと思い続けています。



「1ヶ月以上更新のないブログ」になると余計な広告が出てきて邪魔臭いので、チラシの裏的な日記を載せてみた次第。
「イスラーム世界の歴史」の続きをちびちびと書いていますが、なかなか構成が難しいところです。
やはりモンゴル時代というのは一筋縄ではいかないですね。

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