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世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史26 力と美の王者

ジェテとカラウナス

264.jpg
(「跛行の世界征服者」、ティムール)

「世界の帝王チンギス・カンが、災難を与えるべしとの神の命令によってイランとトゥランの諸国の征服者となり、
彼の幸運の太陽が権威の頂に昇った時、彼は彼の王国の領域を息子たちに分け与えた。
その内、イランの諸地方の全てを自分の息子である皇子チャガタイに委ねた」

(ティムール、オスマン朝バヤズィット1世宛て書簡より)


かつて、モンゴル帝国はチンギス・カンの死後、「オゴデイ・ハン国」、「チャガタイ・ハン国」、「キプチャク・ハン国」、「イル・ハン国」、「元朝」の五つに分裂したというのが通説だった。
だが、今ではそれは否定されている。モンゴル帝国の変容は「分裂」という言葉で表現できるほど単純ではないし、帝国の政治領域が同時に分かれたわけではないし、その数も簡単に五つと断定はできない。
ついでにいえば「ハン」より「カン」のほうが中世モンゴル語の発音に近い。一定の領土を前提とする「国」よりも人間集団を本質とする「ウルス」のほうが実態に相応しい。

しかも、上記の内で「オゴデイ・ハン国(オゴデイ・ウルス)」には実体がなく、中央アジアを支配したとされる「チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)」も胡乱な存在である。

モンゴル帝国が誕生してから半世紀以上、中央アジアに独自の分国は存在しなかった。諸王家の私領として設定された牧地はそこかしこにあったが、中央アジア全体は大カアンと諸王家の共有財産とされていた。
そこに初めて独立政権を築いたのは、クビライとアリク・ブケの帝位継承戦争に乗じて台頭したオゴデイ家のカイドゥ
中央アジアの一隅に私領を持っていたチャガタイ家のバラクはカイドゥの奸計に嵌められて謀殺され、残るチャガタイ一族はカイドゥの従属下に組み込まれた。
結論から先にいえば、チャガタイ一族が「カイドゥの国」を乗っ取って中央アジアを掌握するのは14世紀に入ってからで、その支配をまともに維持できたのは半世紀足らずだった。

(参考:イスラーム世界の歴史24 群狼たちの相克

ティームール朝成立史の研究

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(以下の詳細はこの本を参照)


チャガタイ家による中央アジア支配の礎を築いたのはバラクの遺児、ドゥアである。
彼は父を謀殺された恨みを忘れたように長年カイドゥを支え、副将として各地を転戦した。1301年秋、アルタイ地方で大元ウルスに大敗し、そのまま死の床に就いたカイドゥは嫡子オロスに言い残した。

「いよいよわしも旅立ちの時が迫っている。同志諸王のなかでドゥアが最年長で、実直で賢明じゃ。わしはこれまで彼をことのほか目にかけてきた。ドゥアも恩に感じておろう。今後は何事もドゥアに相談し、彼を頼れ」

ところがドゥアはカイドゥの死を見届けるや豹変した。

「カイドゥ・アカの後継はチャパル殿こそふさわしい」
「なんだと! 嫡子はこのオロスだぞ!」
「皆みな方、これをご覧じよ。畏れ多くも大カアン直筆のジャルリク(勅令)じゃ。ここにしっかと、チャパル殿をカイドゥ・アカの後継に任ずと記されておる」
「貴様どういうことだ、クビライに内通しておったのか!!」
「今の大カアンはクビライではなくて孫のテムルぞ。クビライはとうに死んでおる。ほれこの通り、時勢に暗いお方じゃ」
「論点をそらすな!!」

ドゥアは大元ウルスの支援のもとにカイドゥの嫡子オロスを失脚させ、傀儡として担ぎ出したチャパルも廃位し、オゴデイ一族を粛清して父の無念を晴らした。


1307年、ドゥアが世を去る。
幾度かの揺り返しを経ながらもチャガタイ一族の中央アジア統治は徐々に安定し、ドゥアの子ケベクのもとでチャガタイ・ウルスなる国家は束の間の黄金時代を迎えた。
この頃までモンゴル人たちはマー・ワラー・アンナフルの農耕地帯にほとんど足を踏み入れず、北の草原や東の山岳地帯で遊牧生活を送っていた。しかしケベク・カンはマー・ワラー・アンナフル南部に宮殿を築いて定住したという。
彼はイスラームに改宗することはなかったが、公正な統治者としてムスリムの歴史家たちに称賛された。
たとえば、戦いに行くときに他の指揮官たちが道々略奪しながら行軍したのに対して、彼は兵士たちに耕作をさせながら進軍した。
惜しくも敗戦したが、定住民たちはケベクの部隊を歓迎して様々な食物を持ち寄ったので、平穏に撤退ができたと伝えられる。

ケベクの政策は伝統的な遊牧生活を維持する諸部族の反感を呼んだ。そこでケベクはチャガタイ一族を支えてきた有力部族、ジャライル部バルラス部の有力者たちにマー・ワラー・アンナフルの都市や領地を分け与えた。
マー・ワラー・アンナフルに移住した諸部族は徐々に定住社会に馴染み、イスラーム文化を受け入れ、「チャガタイ人」と自称するようになった。
彼らの話すモンゴル語もテュルク語やペルシア語の影響を受けて変化しはじめた。「チャガタイ・トルコ語」と呼ばれるクレオール言語の誕生である。

東方の草原に残った諸部族は自分たちこそ真のモンゴル人(モグール)であると自認し、西に移住したチャガタイ人たちを「カラウナス(混血)」と嘲った。
チャガタイ人たちは東に残った同族たちを「ジェテ(野盗)」と罵り、両者の対立は次第に激しいものになっていった。

チャガタイ・ウルス
(チャガタイ・ウルス)


ふたりのティムール

ジェテとカラウナスの文化的摩擦や利害対立。そして地方領主と化した部族長たちの自立志向。ケベクにはじまる政策転換は、長い目で見てチャガタイ・ウルスの禍根となった。

1346年、マー・ワラー・アンナフルでカザガンというアミールが反乱を起こし、チャガタイ家のカザン・カンを殺害した。これよりマー・ワラー・アンナフルは有力アミールたちが覇を競う戦国時代となる。
もっともアミールたち自身がカンを称することはなかった。アミールたちは所詮「カラ・キシ(平民)」に過ぎず、カンを名乗れるのはチンギス・カン家の末裔だけというのが常識だった。

同じ頃、天山山脈北方のイリ流域ではトゥグルク・ティムールという男が東部で最強の部族、ドゥグラト部に擁立されてカンを称し、独立政権を樹立した。
トゥグルク・ティムールはチャガタイ・ウルスの事実上の建国者、ドゥアの子エミル・ホージャの落胤と自称した。実際のところ彼の出自や前半生は謎に満ちているが、いちおうチンギス・カン家の一員と見なされたらしい。
こうして成立したのが東チャガタイ・ウルス、またはモグーリスターン・ハン国として知られる国である。(近世モンゴル語では「カン」が「ハン」に変わる)

トゥグルク・ティムールはモグーリスターンの長に相応しい伝統的な遊牧戦士だったが、一方でイリ地方に初めて本格的にイスラームを導入している。
彼は狩猟中に一人のスーフィー(イスラーム神秘主義の修行者)に出会い、イスラームの教義に興味深く耳を傾けた。
1354年にトゥグルク・ティムールの本拠地アルマリクに招かれたスーフィーは、指一本で巨漢のモグール戦士を跳ね飛ばすという奇跡を演じて見せた。これを目にして感嘆した16万人のモグール戦士がイスラームに改宗したという。
イスラーム圏の東北限は何世紀も天山北麓のタラス付近に留まっていたが、モグーリスターンの改宗によって千キロほど東のジュンガリア西縁まで前進した。

モグーリスターン国
(東チャガタイ・ウルス、通称モグーリスターン・ハン国)

さて、モグーリスターンを統一したトゥグルク・ティムールは1360年にマー・ワラー・アンナフルへ侵攻した。
その頃、マー・ワラー・アンナフルにはジャライル部やバルラス部、ヤサウル部などの諸部族が割拠していた。彼らはすでに季節移動を伴う本格的な遊牧は行わず、郊外の農村で暮らしながら小競り合いに明け暮れていた。

チャガタイ・アミール」と呼ばれる部族長たちは、定住化しつつある自分たちが「ジェテ」に勝てるわけなどないと知っていた。彼らは何ら抵抗せずに侵略軍に降伏するか、あるいはさっさとホラーサーンに逃げ出した。
南部マー・ワラー・アンナフルで一二を争う大部族、チンギス・カンの千人長カラチャル・ノヤンの血を引くバルラス部の長、ハージーも逃げ出した一人だった。
空位となった族長の座に一人の若者が手をかけた。サマルカンド南方、ケシュの領主。族長ハージーの甥といわれるティムールである。

Tamerlan.jpg
(同時代に描かれたティムールの肖像画)

ティムールの父はタラガイというバルラス部のアミールだった。従者数十名を抱える程度の小豪族だったという所伝もあれば、チャガタイ・ウルスで有数の大貴族だったという記録もあり、実像は定かでない。
その子ティムールは生まれてすぐに母親を亡くし、男手だけで育てられた。彼は幼い頃から独立不羈の気性を持ち、近隣諸部族との争いに明け暮れながら成長した。
少年の頃から彼はほとんど笑いを知らず、どんな危地に直面しても顔色ひとつ変えず、敵に対しては一切の慈悲を見せなかった。一方で仲間に対しては寛大で気前がよく、成長するにつれてティムールの周囲には若者たちが寄り集まった。

トゥグルク・ティムールのもとに出頭したティムールは幸運に恵まれた。その場に父の旧友だったモグーリスターンのアミール、ハミードが居合わせたのだ。
ハミードの取り持ちと推挙もあってティムールはケシュ周辺の支配を安堵され、逃亡したハージーに代わるバルラス部の長として認められた。ハージーはホラーサーンで現地住民に殺された。

1361年、モグーリスターンに帰国したトゥグルク・ティムールは長子イリヤス・ホージャにマー・ワラー・アンナフルの統治を委ね、ティムールをその補佐役に任命した。
ティムールは印璽の保管者となり、摂政の地位と1万の軍勢の指揮権を手にした。彼は26歳にしてマー・ワラー・アンナフル屈指の実力者となったのだ。

だが、それらすべてを彼は突然投げ打った。

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(出典不明ながら魅力的なエピソードに多く言及されているティムール伝)



サマルカンドの王座

ティムールが妻と僅か60人の支持者だけを伴って山中に逃れた理由は明らかでない。
所詮イリヤス・ホージャの補佐役という地位は不安定なものであり、モグール人は侵略者として忌み嫌われていた。おそらく彼は自らの王座を欲したのだろう。
荒野でティムールは思いがけぬ人物と出会った。かつてチャガタイ王家のカンを滅ぼしてマー・ワラー・アンナフルの実権を握った大アミール・カザガンの孫、アミール・フサインである。
ティムールは青年時代にカザガンの宮廷に出仕し、同年輩のフサインと親交を結び、その妹のウルジャイ・トゥルカン・アガを妻に迎えた。
マー・ワラー・アンナフル在地勢力の象徴だったフサインは、モグール軍から身柄を隠していたのだ。

イリヤス・ホージャはティムールとフサインに追手を出した。ヒヴァの領主が千人の兵士で彼らを包囲した。激戦の末に領主はティムール自身の槍で打ち倒され、敵勢は逃げ散った。
ティムールとフサインに従う者たちはわずか5名となった。彼らは飢渇に苛まれながら沙漠をさまよった末、モグール軍に捕えられた。
ティムールは縛り上げられ、妻や盟友とともに62日間を牢獄で過ごした。
しかし彼らはここで死ぬほどの小物ではない。脱獄し、物乞いに身をやつしてサマルカンドに潜入。衛兵に正体を見抜かれるも間一髪で脱出し、千人の騎兵を集めてモグール打倒の旗揚げをしたのである。

彼らは軍資金を得るためにシースターン(アフガニスタン南部)で傭兵となったが、戦いが終わると報酬を惜しんだ雇い主が昨日までの敵と組んで彼らを襲撃した。
敵はティムールに雨あられと矢を浴びせたが、激しい抵抗に辟易して退散した。ティムールは右ひじと右ひざに終生癒えぬ傷を負い、「ティムール・ラング(跛者ティムール)」という異名で知られるようになる。

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(マー・ワラー・アンナフル南部とホラーサーン)

ティムールとフサインの旗揚げを知ったイリヤス・ホージャは討伐軍を派遣した。
両軍は川を挟んで対峙する。ティムールはフサインが指揮する全軍の半分を残して深夜に川の上流を渡り、敵の背後の丘を占拠した。
明くる朝、戦闘開始とともにティムールは丘の上で篝火を焚いて太鼓を打ち鳴らした。大軍に包囲されたと思い込んだ討伐軍は川を渡って退却しようとするところをティムールとフサインに挟撃され、算を乱して敗走した。
ティムールは馬の尾に木の枝を縛り付けた一隊をケシュへ走らせた。モグール人たちは巻き上がる砂塵を見て逃走し、ティムールは戦わずして故郷奪還を果たした。

ついにイリヤス・ホージャ自身が大軍を率いてケシュに来襲する。
これはティムールの桶狭間だった。彼は夢で神が勝利の兆しを示すのを見た。夜明け前に起き上がり、わずかな手勢を引き連れてモグール軍の本営を急襲した。この攻撃を予期していなかった敵軍は大混乱に陥って潰走した。
ティムールとフサインはサマルカンドに入城した。1364年のことである。

だが勝利の高揚のなかで不和が芽生えた。
勝利に対してより大きく貢献したのはティムールだった。だがアミール・カザガンの孫であるフサインは、かつてマー・ワラー・アンナフルの盟主となった祖父と自分を重ね合わせていた。

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(ティムールとフサインについても詳しく書いてある)


モグーリスターンではトゥグルク・ティムールが死に、イリヤス・ホージャが新たなカンとなった。
本国で態勢を立て直したイリヤス・ホージャは、年明けとともに大軍を率いて再来した。ティムールとフサインは急遽軍勢を集めてタシケント付近で迎撃を挑んだが、思いもかけぬ暴風雨に襲われた。
伝説によれば、このときモグール軍は呪術を使って嵐を呼んだのだという。ティムール・フサイン軍に雨を防ぐ用意はなく、軍馬は泥濘で足掻き、勝ち誇るモグール軍から無数の矢を浴びせられた。
かれらは残兵を取りまとめて南へ敗走し、アム川を渡って身を隠した。
イリヤス・ホージャはそのままサマルカンドに進撃したが、独立の美味を知ったこの町では「サルバダール」と呼ばれる民兵が立ち上がってモグール軍に抵抗した。
「サルバダール」とは「絞首刑に処せられた者」を意味する。サマルカンド市民たちはモグールに屈するよりは絞首刑に処せられた方がましだと思っていた。

城市を攻めあぐねるモグール軍の陣営では疫病が発生し、軍馬がバタバタと倒れた。
イリヤス・ホージャはついにマー・ワラー・アンナフル再征服を断念して兵を退いた。モグーリスターンの国境まで戻った時、この不運な敗将は兇刃に倒れた。
手を下したのはかつてトゥグルク・ティムールを擁立したイリの大部族、ドゥグラト部のカマルッディーンである。この男は宰相(ウルス・ベギ)の地位を甥に奪われたことに不満を抱いて謀反に踏み切ったのだ。
イリヤス・ホージャを殺したカマルッディーンはカンを自称した。モグーリスターンは混乱状態となり、マー・ワラー・アンナフルへの脅威は当面消失した。

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(バルフを攻撃するティムール)

さて、モグール軍の撤退を知ったティムールとフサインは直ちにサマルカンドに取って返した。
ふたりはサルバダールたちを褒め称えて面会を申し出た。ところがその席上でフサインがサルバダールの指導者たちを捕え、サマルカンド全市を制圧してサルバダールたちを処刑した。
ティムールは苦い顔だった。騙し討ちは彼の本意ではなかった。
昨年来ふたりの友情には影が差していた。モグール軍に惨敗した「泥濘の戦い」の責任をめぐって、その仲はさらに険悪化した。
ウルジャイ・トゥルカン・アガは兄と夫の仲を健気に取り持っていたが、サマルカンド奪還と前後して病死した。
若き日のティムールは彼女をこよなく愛した。彼女もまたティムールを愛し、ふたりはともに戦場に出て馬を駆り、無数の危機を潜り抜けてきた。
ウルジャイの死の床でティムールは号泣した。鉄の自制心を持つこの男が公然と泣き叫び、涙を流したのは後にも先にもこの時だけだった。そして彼女の死とともにティムールの青春は終わった。

フサインはアミール・カザガンの孫であることを理由にマー・ワラー・アンナフルの支配者として振る舞い、本拠バルフを改築するために重税を課した。
ティムールはフサインを諌め、聞き入れられぬと見れば私財を投げ打ってアミールたちを支えた。決裂はもはや避けられなかった。


1370年4月、大軍を率いてアム川を越え、バクトリアに侵攻したティムールはバルフでフサインを滅ぼした。
マー・ワラー・アンナフル各地のアミールがティムールに服従を誓い、彼を白のフェルトに乗せて黄金の冠を捧げ、王として推戴した。だが、彼はチンギス・カンの子孫ではない。

「真のカンはこちらにおわす。余はカンにお仕えするひとりのアミールに過ぎぬ」

ティムールはオゴデイ・カアンの末裔、ソユルガトミシュという人物をカンとして擁立し、チャガタイ家の血を引くサライ・ムルク・ハーヌムという女性を二度目の妻に迎えた。
人々は彼を「カンの娘婿(キュレゲン)」、「サマルカンドの大アミール」、あるいは「サーヒブ・キラーン(吉兆の支配者)」と呼ぶことになる。
彼はサマルカンドに凱旋した。この町がティムールが築く新たな帝国の中枢となる。

ティムールの凱旋
(ティムールの凱旋)


サーヒブ・キラーン

マー・ワラー・アンナフルの事実上の王者となったティムールは、すぐさま国外に打って出た。このとき彼が直面していた危険な隣国は二つあった。ひとつは言うまでもなく東のモグーリスターン、そしてもう一つは西のスーフィー朝である。

スーフィー朝はマー・ワラー・アンナフルの北西に隣り合うホラズム地方を支配していた。
もとはジョチ・ウルスの系列の政権で、1360年代にキプチャク平原が無秩序状態に陥るなかで独立政権化。つまり自立を果たしたのはつい最近である。

「アミール・サーヒブ・キラーンは国をよそ者たちの手から解放し、王権をチャガタイ家に定め、その諸規則を復興した。ヒヴァとカートの町はチャガタイ・カンに属する地ゆえ、速やかに我らに返還せよ」

ティムールはスーフィー朝に領土割譲を迫り、それが無視されるとホラズム地方に侵攻した。たちまちヒヴァとカートを占領し、スーフィー朝の首都ウルゲンチを包囲。たまらずスーフィー朝は王女をティムールに差し出して和を請うた。

ウルゲンチ包囲
(ウルゲンチ包囲)

スーフィー朝との講和が成ると、ティムールは直ちに軍を反転させてモグーリスターンに侵攻した。
イリヤス・ホージャを殺してカンを称したカマルッディーンは手ごわい武将で、山地での待ち伏せや奇襲を得意としていた。
ティムールの戦略戦術は申し分なかったが、カマルッディーンは常に逃げおおせ、ティムールが帰国すると再び勢いを盛り返した。
ティムールは七度モグーリスターンに遠征してイリ流域を蹂躙したが、最後までモグーリスターンの完全制圧は果たせなかった。

一方で、この時期は有力なチャガタイ・アミールたちの反乱が相次いだ。
幾度も辛酸を舐めながらマー・ワラー・アンナフルの覇者となったティムールは、既存の諸部族に依存せずに自分の軍隊を組織した。
部族の長たちはティムールの政権から疎外され、遠征に参加しても十分な見返りを得られていないと不満を抱いていた。
ティムールは反乱を起こした部族を容赦なく解体し、族長の首を挿げ替え、部族民を直属臣下たちに分与した。諸部族の反乱はむしろティムールへの権力集中に繋がった。

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(たぶん現在唯一のティムールを主役とする小説)



1379年にアミールたちの最後の反乱が起こり、ホラズムのスーフィー朝が和約を破棄してサマルカンド近辺まで侵入した。
モグーリスターンに遠征中だったティムールは直ちに取って返すと反乱を粉砕し、ウルゲンチを再び包囲した。
予想以上に素早い敵の対応で危機に陥ったスーフィー朝の君主ユースフ・スーフィーは、なんとティムールに決闘を挑んだ。

「どうせ奴は右半身がろくに動かせんのだからな!」

が、眉一つ動かさずに決闘を受諾したティムールが指定された刻限にウルゲンチの城門前に現われると、ユースフは突然怖気づいた。
黒い甲冑をつけて愛馬にまたがったティムールは、槍を掲げて城門の前を幾度か旋回し、敵手が出てくる気配がないのを確認すると悠然と自陣へ戻っていった。
ウルゲンチの全住民がユースフ・スーフィーに軽蔑の眼差しを注いだ。この男は絶望して数週間後に死に、町は陥落した。
これがスーフィー朝の短い歴史の結末であった。

ジョチ・ウルスとモスクワ大公国
(14世紀のジョチ・ウルス、緑はルーシ諸公国)

1376年4月、ティムールのもとにひとりの亡命者が現われた。彼の名はトクタミシュ。カスピ海東岸のマンギシュラク半島を支配していたジョチ家の末裔、トゥイ・ホージャの遺児であった。
その頃、西北ユーラシアのジョチ・ウルスは大乱のさなかにあった。
トクタミシュはキプチャク平原東部を支配するオロス・カンに父を殺され、ティムールのもとに庇護を求めて来た。
かねてオロス・カンを警戒していたティムールは、ジョチ家の血を引くトクタミシュをジョチ・ウルスの新たなカンとして擁立することを企て、トクタミシュとともに西北遠征の途に就いた。

1377年、ティムール・トクタミシュ連合軍はカスピ海東岸のウスチユルト台地でオロス・カンと対峙した。
対陣中にオロスは病死し、後を継いだトキタキヤもわずか三ヶ月で死去。次にカンとなったテムル・メリクは泥酔して寝ている最中にトクタミシュの奇襲を受け、目が覚めた時にはすべてを失っていた。

ウスチユルト台地
(ウスチユルト台地)

ジョチ・ウルス西部を支配するキヤト・ママイは1359年に暗殺されたバトゥ家の実質的に最後のカン、ベルディベクの娘婿で、クリミア半島を拠点としている。
彼は手痛い敗北を経験したばかりだった。敵は長らくジョチ・ウルスに忠誠を誓ってきた北の属国、モスクワ大公国である。

モスクワ大公国は森林の定住民族、「ルーシ」(ロシア)と呼ばれる小国群の取りまとめ役で、毎年ルーシ諸公国の貢納を集めてサライに献上する役目を任されていた。それがジョチ・ウルスの内乱を知って牙を剥いた。
1377年、モンゴルからの独立を決断したモスクワ公ドミトリーはドン川上流のクリコヴォでママイに戦いを挑み、奇跡的な勝利を収めた。

Kulikovo pole Dmitry Donskoy
(クリコヴォの戦いをネタにした銀行のコマーシャル)


そんなわけでママイの兵力は疲弊している。
1380年、アゾフ海に近いカルカ河畔でトクタミシュを迎え撃ったママイはあっという間に打ち破られ、クリミア半島に逃げ込んだあげく、カッファの町で彼の財布を狙ったジェノヴァ商人に殺されたと伝えられる。
トクタミシュはモスクワを焼き打ちしてルーシ人どもに身の程を知らしめ、火事場泥棒を狙ったリトアニア軍を叩き出し、復興した旧都サライに拠点を構え、ついにジョチ・ウルス再統一を達成した。
彼もまた、この時代における英傑の一人である。

ママイ
(キヤト・ママイ)

そして同盟者トクタミシュの成功により、ティムールにとって北西の脅威は完全に消滅した。
彼の称号「サーヒブ・キラーン」とは、正確には「吉兆を示す二つの惑星の会合に運命づけられた者」といった意味である。ティムールの運命の星はまさに中天に昇りつつあった。


力と美と

「その当時、イーラーン・ザミーンには国ごとに部族が台頭し……王権の基礎を置き……独立と専制の御旗を掲げていた。
そのため、かの陛下の日々増す吉祥がトゥランの諸国の征服と支配を完成し、全チャガタイ・ウルスと全ジョチ・ウルスをその繁栄する代理人たちのもとに置いたとき、神慮の兆したる御意志はイランの征服に向かった」

(シャラフッディーン・アリー・ヤズディー『勝利の書』より)



1380年代に入ると、ティムールはイラン高原への進出を開始した。その名分はチンギス・カン家による支配が途絶えて争乱状態にあるイランの秩序を回復し、チャガタイ家にその地を捧げるためであったという。
ティムールが奉じているソユルガトミシュ・カンはオゴデイ家の系統なのだが、そのへんはあまり気にしても仕方ないのだろう。たぶん。

1381年にヘラートを落とし、この地のクルト朝を服従させる。二年後にヘラートが反乱を起こすとティムールはヘラートを再征服し、頭蓋骨の山を積み上げて見せしめとした。クルト朝は130年の歴史を閉じた。
東部イランのサブザワールを拠点とするサルバダール朝もあっという間に滅ぼし、同じく頭蓋骨の山を築く。

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(これから何度もやるので注意)

さらに、カスピ海に沿って東西に長く広がるマザンデラン王国が降伏勧告を拒否したため、見せしめとしてイスファラーインの町を破壊。城壁を破壊し、住民を殺戮し、家屋を壊し、堀を埋め、イスファラーインで残ったものは町の名前だけになった。
アフガニスタン方面にも侵攻し、山地民を動員して山の砦を落とし、シースターンでは反乱者への見せしめとして捕虜を生きたまま城壁のなかに埋め込んだ。
ティムールにとって、東部イランとアフガニスタンの平定は至極順調なものだった。

東部イランの平定をもってひとまずサマルカンドに帰還したティムールは、1386年から3年におよぶ西部イランの征服戦争(三年戦役)に取り掛かった。
まずはかつてのフレグ・ウルス中心部、アゼルバイジャンを支配するジャライル朝である。

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(実際には1360年頃にジャライル朝がチョバン朝の領域も制圧している)

「スルタン・アフメドなんぞ、両目のついた肉片に過ぎん」

ジャライル朝の君主をひとことで切って捨てたティムールはほとんど抵抗を受けずにアゼルバイジャンを横断し、グルジア王国に攻め込んだ。
ここでティムールはとんでもない不覚を取った。王都ティフリス(トビリシ)を包囲されたグルジア王バグラト5世が決死の勢いで出撃し、ティムール本隊を敗走させたのだ。
この大征服者がマー・ワラー・アンナフル統一以降に戦場で敗れたのはこの時だけである。もっとも翌日すぐに雪辱したので、どうも無かったことにされているらしい。

ティムールは投石機を投入してティフリスに猛攻を加えたが、グルジア軍の抵抗は非常に激しかった。ティムールは大きな鋼鉄の網を攻城部隊と機具の上にかぶせて前進させ、破砕機で城壁を打ちこわし、城門を突き破って突入した。
ティムールはバグラト5世をようやく捕えると、キリスト教(グルジア正教)からイスラームへの改宗を迫った。
バグラトは国民に改宗を受け入れさせるために兵士の借用と時間の猶予を求めた。ティムールがこれを認めると、バグラトは狭い峡谷にティムールの兵士たちを誘導して殲滅させた。

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(グルジア王国とその周辺)

グルジアを後回しにしたティムールは翌年にアルメニアとルリスタン(イラン西南部)を席捲し、東部アナトリアに展開するトゥルクマーンの遊牧国家、黒羊朝(カラ・コユンル)を屈服させた。
さらにイラン高原南部を押さえるムザッファル朝を降すためにイスファハーンに進撃した。
イスファハーンは一度は開城を受け入れたが、市内に入ったティムール軍の兵士たちと市民たちのあいだでトラブルが起こって兵士が殺された。ティムールは激怒し、イスファハーンの住民7万人を殺して頭蓋骨の山を築いた。
学者や職人だけは助命され、彼の本拠地であるサマルカンドに送られた。イラン各地の美しい都市を目にしたティムールは、自らの都サマルカンドをそれ以上に壮麗な建築物で飾り上げる望みに駆られたのだ。

ティムールは何ら躊躇なく破壊と虐殺を命じたが、地上の美を解さぬ人柄ではなかった。むしろ、彼は誰よりも美を愛し、美に焦がれた帝王だった。教養豊かで文雅を解する人物でもあった。

この頃、ティムールはイランの伝説的な詩人ハーフィズと出会った。

 かのシーラーズの乙女が我が心を受けなば
  その黒きほくろに代えて我は与えん
 サマルカンドもブハーラーも
  酌姫よ、残れる酒を汲め
 天国にても求め得ぬのは
  ルクナーバードの流れとムサッラーの園


ハーフィズの詩を聞き知っていたティムールは彼に詰問した。

「余が剣をふるって多くの国々を滅ぼしたのは、ひとえに余の愛するサマルカンドとブハーラーを飾りたてんがためだ。それを汝は、たかがシーラーズの乙女のほくろごときと引き換えようというのか!」

「おお、偉大なる大王よ。そのような気前の良さゆえに、哀れハーフィズはかくも落ちぶれ果てましてござります」

「さようか! 今後は自分の持ち物を大切にするがよい。とりわけ余の首都についてはな」

当意即妙の応えにティムールは膝を打って感心し、ハーフィズにサマルカンドへ来るように誘った。しかしシーラーズを愛するハーフィズはこの地に留まることを選んだという。


そんななか、本国の留守を預かる王子ウマル・シャイフからの急報が遠征軍を震撼させた。
ティムールの支援によってジョチ・ウルスを復興したトクタミシュがスーフィー朝の残党、そしてモグーリスターンの梟雄カマルッディーンと結んでマー・ワラー・アンナフルを急襲したのである。

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(サマルカンドのシャーヒズィンダ廟群)

チンギス・カンの血を引くトクタミシュにとって、「サマルカンドの大アミール」は所詮カラ・キシ(平民)に過ぎない。確かに彼には恩義があるが、キプチャク平原制圧を完遂したのは己の力量による。
ジョチ・ウルスの君主としての立場になってみれば、中央アジアやアゼルバイジャンに支配を広げるティムールの帝国は、恐るべき潜在敵国に他ならない。
彼はいつまでもティムールの下風に立ち、属国の地位に甘んじるつもりなど毛頭なかった。

1387年末、彼は「雨滴のように無数」の軍勢を率いてマー・ワラー・アンナフルに攻め入り、ティムールが冬営地としてきた「鎖の宮殿」に火をかけた。「大アミールがサマルカンドで包囲された」という噂が飛び交い、パニックが広がった。
イラン高原南部から猛烈な勢いで大返ししたティムールは3万の騎兵部隊をサマルカンドに急派し、自ら少数の騎兵を引き連れて故郷ケシュに乗り込んだ。トクタミシュは撤退したが、3年に及ぶイラン遠征の成果は台無しになった。

1389年2月、ティムールは公称20万の騎兵を率いてシル川対岸に居座るトクタミシュに決戦を挑んだ。ティムール軍が吹雪を衝いて現われると、トクタミシュの軍勢は混乱状態となり、草原の奥深くに退却した。
ティムールは第七次モグーリスターン遠征を行ない、イリ川を渡ってトルファンまで侵攻した。本拠アルマリクを追われたカマルッディーンはアルタイ山脈まで遁走し、そのまま歴史から姿を消した。
さらにスーフィー朝の旧都ウルゲンチを徹底的に破壊して更地に変え、住民をサマルカンドに連行。いよいよ残るはトクタミシュだけである。

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(ティムールの北方遠征)

1391年1月、折しも重病に陥っていたティムールは身体に鞭打ち、全軍の先頭に立って広大なキプチャク平原に出陣した。
無数の偵察部隊が放たれたが、トクタミシュの正確な所在は杳として知れない。軍は無辺のステップをひたすら北へ進んだ。
兵士もティムールも同じ食べ物を食べた。次第に糧食が減り、野草が食べ物に混ざりはじめた。糧食が尽きるとティムールは巻狩りを命じた。
タシケントを発して3か月。トボル川上流にいたトクタミシュは西のヤイク川へ、さらにヴォルガ川へと後退した。ティムールはそれを追跡した。これもまた壮大な狩猟だった。
ヴォルガ中流、サマーラ付近でティムールはようやくトクタミシュに追いついた。トクタミシュ軍は大河ヴォルガを前に停滞し、組織的な退却ができない状況だった。

1391年6月18日、名高いクンドゥズチャの戦いが幕を開ける。
両軍はともに疲弊しきっていた。激戦の果てにトクタミシュの軍は数千人の戦死者を出して崩壊した。
トクタミシュの姿は消え失せた。彼の旗持ちが土埃のなかに横たわり、チンギス・カン以来の伝統を受け継ぐ「九尾のヤク」の大軍旗が夏草の上に倒れ伏していた。

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(ヴォルガ中流域の草原)

ティムールはヴォルガ河畔で26日間にわたる大祝宴を催し、従軍していたジョチ家の子孫、テムル・クトルグをトクタミシュに代わるキプチャクのカンとし、マンギト部のエディゲをその補佐役とした。
だが、勝利の歓喜のなかでもティムールは醒めていた。
トクタミシュを捕えることはできなかった。あの不屈の男はこの巨大な草原のどこかで、いまも生きて再起の時を窺っているに違いない。

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(キルギスの歴史家ラフマナリエフによるティムール伝の邦訳)



ティムールがいろいろ派手すぎてまたまた分割

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インドネシアに行ってみます

5月にインドネシアのジャワ島に行ってみようと思います。
マジャパヒト王国の宰相ガジャ・マダとかに興味があるんですが、マジャパヒト関係の遺跡は発掘調査が進んでいないうえにアクセスも良くないとのこと。
インドネシアは初めてなので、とりあえず初心者向け?のジョグジャカルタでボロブドゥール遺跡@シャイレンドーラ朝とプランバナン遺跡@サンジャヤ朝を見学し、ラーマーヤナのワヤン(人形劇)を見て、陸路でジャカルタに移動して首都も覗いてみようと思います。

1億数千万の人口を擁するジャワ島は昔から農業生産力が高く、東南アジア島嶼世界の中心として数々の大王朝が興亡を繰り返してきました。
サンジャヤ朝、シャイレンドーラ朝、シンガサーリ朝、マジャパヒト王国、クディリ朝、マタラム王国、そしてオランダ東インド会社と。
実に見応えがありそうな土地です。

まあまだ先の話ですが、帰ってきたらブログの更新が遅れるときに旅行記でも載せてお茶を濁しましょう。

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