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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

イスラーム世界の歴史28 夜明けの稲妻

Eski çobanları(古き遊牧の民)

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その男はいつも月を見ていた。
深まる老いのなかで、白髯を撫でながら西の空の月を見ていた。
百人ほどの一族を後ろに従えて、痩せ馬のたてがみを撫でながら月を見ていた。
夕暮れの空に沈む月を追って、彼は西へ進み続けた。一族は黙々とこの老人の後をついて来た。
彼の名前はギュンドゥズ・アルプという。その男は遠い昔、ユーフラテスの岸辺で死んだ。

この一族は地獄を背後にして来た。
オグズ・トゥルクマーンのカユ部族は何世紀ものあいだ中央アジアで暮らしてきた。アム川とシル川に挟まれた、マー・ワラー・アンナフル(川の間の土地)と呼ばれる豊かな国で。
そこにある時、はるか東北の荒野から神を信じぬ侵略者たちがやって来た。
チンギス・カンと呼ばれる魔王に率いられた異教の遊牧民たち、モンゴル。
彼らは来た。彼らは殺し、彼らは破壊し、彼らは焼き払い、彼らは何物も残さずに去って行った。
だから一族は西を目指した。異教の侵略者たちの馬や毒矢の届かぬはるか彼方へ。

ギュンドゥズ・アルプは遠い昔に死んだ。
次に族長となったのはエルトゥールル。エルトゥールルは父が死んだ川を越えて、アナトリアと呼ばれる土地に来た。
ここで彼は一人の王に出会った。
ルーム・セルジューク朝のカイ・クバード。己の王国の没落が近づきつつあることを王は知らず、誇り高く強壮で、心の寛い王だった。
王はこの亡命者たちを哀れんで、小さな封地を与えてくれた。
「ソユト」と呼ばれる土地だった。
そこはイスラームの地の西の果てで、「ルーム」の都からも遠からぬところだった。
そこではムスリムもキリスト教徒も同じ顔をして同じ言葉を喋り、同じ暮らしを何百年も続けていた。
エルトゥールルの一族は、この土地にゆっくりと馴染んでいった。
冬は谷間の町で過ごし、夏は山の草原で羊を放牧する。その時は財産と妻や娘たちを谷間の修道院に預けておいた。キリストを信じる素朴な人々の修道院に。
そして彼らは山の上でアッラーを礼拝するのだった。


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この帝国の物語は西暦1270年代の西部アナトリアに始まる。
その頃、エルトゥールルの長男オスマンは、ソユトのシャイフ(長老)の娘、マルカトゥンへの恋に落ちた。彼女は糸杉のようにすらりとして、月のような眉と、夜明け前の空の色をした瞳を持ち、この地方ではまず一番の美人と言ってよかった。
オスマンは悩んだ。なぜなら、祖父の代に遠く東の国から流れ着いたカユ部族は貧しく、マルカトゥンを貰いうけるための婚資を用意できる当てがなかったのだ。
ある夜のこと、煩悶するオスマンは夢を見た。


  わたしはひとり広野に立っている。と、丘の向こうに愛しいマルカトゥンの父親、シャイフの姿が見えた。
  そのシャイフの胸から突然輝く月が出現し、高く天頂に昇ると見るや、急転直下してわたしの胸に飛び込んだ。
  思わず胸を押さえた手の隙間から一本の若木が生え出た。その樹はたちまち天を覆いつくし、四本の根は大河に変じた。
  何故かは分からないが、わたしはそれらの川の名前を知っていた。ティグリス、ユーフラテス、ナイル、ドナウという名前だった。
  その時、不意に激しい風が沸き起こった。見上げると、天を覆う大樹の葉は無数の剣と化し、一斉にはるか彼方の壮麗な都を指し示した。



「シャイフよ、私の夢を説き明かしてください」
オスマンは意を決して、夢の発端に登場したマルカトゥンの父親のもとを訪れた。シャイフ(長老)はこのあたり一帯では並ぶもののない知恵者として通っている。
一通り夢の経緯に耳を傾けたシャイフ(長老)は、黙りこくったまま、若いオスマンの顔を穴の空くほど見つめた。
「シャイフ……?」
「――エルトゥールルの子、オスマンよ。君に頼みがある」
「はい、何なりと」
「我が娘、マルカトゥンを娶ってほしい」
「いま、なんと?!」
「君の夢が告げていることはこうだ。月はマルカトゥン。君の胸から生え出た大樹は君とマルカトゥンの血を受け継ぐ子孫たち。君の子孫はやがて世界を支配し、ルームの帝都コンスタンティーニエをすらその手に握る」
「――正直に申し上げればまったく信じられません」
「君が信じるか否かは問題ではない。運命はすべて、偉大なるアッラーの御意志のうちにある」

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(「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」)


時は乱世になりつつあった。時代の奔流はソユトの町の平穏と、一族の安らかな暮らしを容赦なく押し流しはじめた。

1243年、アナトリア半島にモンゴル帝国のバイジュ・ノヤンが侵入する。7万の兵をもってこれを迎え撃ったカイ・クバードの子、カイ・ホスロウ1世はキョセ・ダウの戦いで大敗。ルーム・セルジューク朝はモンゴルの属国となった。
1277年にはエジプト・マムルーク朝のバイバルスがアナトリアに侵入、ルーム・セルジューク朝を事実上崩壊させる。
ほどなく、アナトリア半島は「ベイリク(君侯国)」と呼ばれる数十の小国に分裂した。

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(1300年頃のアナトリア半島)

戦乱はアナトリア西辺にも及んだ。「ガーズィー」と呼ばれる自由戦士たちが横行し、「異教徒への聖戦」を称してキリスト教徒の住民たちを襲撃し、キリスト教徒の側も自衛を固めはじめた。

1284年、三年程まえに父エルトゥールルの死によって族長を継いだオスマンは、例年のように羊の群れを連れて山から谷へ降りていく途中でおかしな光景を眼にした。町の住民たちが街道に柵を立てているのだ。
徐々に近づいていくと、数十人の若い男たちが敵意に満ちた視線をこちらに向けてきた。どうも自分たちを町に入れまいとしているらしい。
不穏な気配を見て取って、一族のなかで血の気の多い連中が棍棒を握りしめて前に出た。その数、およそ70名。

「――何のつもりだ」
「異教徒の羊飼いどもは山に帰れ。この町に入ってくんじゃねえ」
「――ふざけんな、俺らは毎年この道を通ってるだろうが!」

一族の男たちが一斉に飛び出すと、道を塞いでいた連中は意外にあっさりと逃げ出した。そのままオスマンの一族は町に乱入した。
長老たちが慌てて飛び出してきて土下座した。若い衆が勝手にやったことだから、どうか勘弁してくれという。その後ろから年かさの連中が次々に賠償金を積み上げた。
オスマンは賠償金をすべて一族の男たちに分配し、この町を立ち去った。

これが噂になって、オスマンのもとには家を焼かれた農民や、ガーズィーを名乗る流れ者たちが次々に押し掛けてきた。喧嘩がうまくて気前のよい大将の下についていれば、しばらくは食いはぐれなくて済むだろうという算段である。
オスマンとしてはいい迷惑だったが、仕方ないので彼らを食わせていくために手頃な敵を襲撃して食料を奪うことにした。
ちょうど良いことにこのあたりはビザンツ帝国との国境地帯で、ビザンツ方の領主たちを襲うのはルーム・セルジューク朝の国益にもイスラームの大義にもかなう。
もっともそのルーム・セルジューク朝は形骸化して久しかったし、オスマンの周囲には無二の親友の「髭無しミハル」をはじめ、キリスト教徒の連中も当たり前のように集まって来たのだが。

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(ガーズィーを連れて出陣するオスマン)

オスマンは彼らの先頭に立って近隣の砦や町への襲撃を重ね、勇敢に戦った者には土地や財物を惜しみなく与えた。
10年ほどのあいだに8つの町や砦を占拠し、1299年には要所イェニシェヒルをビザンツ帝国の守備隊から奪い取った。
この頃から、オスマンの周囲に集まった者たちは、彼を「オスマン・ベイ(オスマン侯)」と呼ぶようになった。吹けば飛ぶような規模とはいえ、オスマンの勢力はすでに一個の「ベイリク(君侯国)」と化しつつある。

しかしそれからまもなく。
泡を食らって飛んできた「髭無しミハル」の報せを聞いて、オスマン・ベイと食客郎党たちは一気に青ざめた。

「やり過ぎた、インパラトルルウが来るぞ。イイスス・フリストスよ、我らを救い給え!」
「なんということだ、アッラーよ、お助けを!」

帝都コンスタンティノポリスの目と鼻の先を荒らす「オスマン・ベイリク(オスマン君侯国)」の狼藉を腹に据えかねて、ついにインパラトルルウ――すなわち「帝国」の正規軍が出動したのである。

※「ルーム」はトルコ語で「ローマ」、「コンスタンティーニエ」は「コンスンタンティノポリス」、「インパラトルルウ」は「帝国」を意味する。


Yeşil Bursa(緑のブルサ)

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(14世紀前半のビザンツ帝国)

帝国との最初の衝突は、終わってみれば大騒ぎしたのが馬鹿馬鹿しくなるほどあっけないものだった。オスマン一党は伝説的な「ルームのインパラトルルウ」を、どうやら著しく過大評価していたらしい。
パレオロゴス朝ビザンツ帝国は衰退の一途を辿っていた。帝国軍は最初から弱腰で、一当たりして撃退されるや早々に海峡の向こうへ姿を消した。
なかば状況に流されてきたオスマン・ベイが野心らしきものを初めて抱いたのは、逃げる帝国軍を丘の上から見下ろしていたときだった。

愛妻マルカトゥンの父親が何年も前におかしな予言をした。忘れかけていた記憶が不意によみがえった。
帝都コンスタンティーニエは遠く遥かに聳えている。とはいえ、そこにたどり着くことは不可能ではないのかもしれない。
自分自身がそこに至ることはあり得ないだろうが、子や孫や曾孫たちの時代になれば、我々はその都に手が届くのかもしれない。


それからオスマン・ベイは俄然、征服活動に力を注ぎ始めた。それも闇雲に四囲を切り取るのではなく、明確な意図と戦略をもって。
彼が目指したのはウル山の斜面に位置する「ブルサ」という地方都市だった。
オスマン・ベイは辺境に生まれ、馬で数日の距離にある帝都コンスタンティーニエすらも噂に聞くばかりで、実際に訪れる機会は一度もなかった。
オスマンが自分の眼で見たなかで、もっとも美しく、もっとも富み栄えている町がブルサだった。
温泉が滾々と湧き、樹々と庭園に囲まれたブルサは、「イェシル・ブルサ(緑のブルサ)」と呼ばれることもある。
広い世界を旅する人々はブルサをありふれた田舎町と評するかもしれない。けれども、古き遊牧の民の血を引くオスマン・ベイにとって、ブルサは楽園にもっとも近い町だった。

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(初期オスマン君侯国)


オスマン・ベイは何年もかけて近隣の町や砦を占領していった。
ニコメディアを取り、アク・ヒサールを取り、カロリムニ島を奪う。
オスマン・ベイの勢力が拡大するにつれ協力者も増えた。治安と政情の安定を望む町々の寄合衆(アヒー)や、放浪のスーフィー行者たちが彼を積極的に支援し、進んで軍資金や情報を提供した。
歳月は飛ぶように過ぎ去り、いつしかオスマンの腰は曲がり、髭もすっかり白くなった。愛しいマルカトゥンはすでに亡く、代わりに力強い息子たちが彼の身辺を守った。

1326年、オスマン・ベイはいまや数千人となったガーズィーたちを率いて孤立したブルサを完全包囲した。彼は68歳に達していた。

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(オスマン・ベイ)

「――オルハン、ブルサは美しいな」

ウル山の斜面に沿って古い城壁に囲まれたブルサの町。それを見やりながら、オスマン・ベイは傍らに立つ息子に低く呟いた。

「――わしの親父殿は貧しい羊飼いの長老で、そのまた親父殿ははるか東の国からここまで旅をしてきた。羊飼いだったわしは、これまで何十年もブルサを目指してきた。そのブルサが、いま、手の届くところまで来た……」
「――父上」
「――ブルサは、わしの夢であった……」

医師には固く口止めされているが、オスマンの身体はすでに病魔にむしばまれ、余命は僅かだという。
父は夢を手にするまで生きていられるのだろうか。オルハンは小さなため息をついた。

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(オスマン帝国最初の首都、ブルサ)

1326年の夏の盛り、ブルサ陥落を目前にオスマン・ベイはこの世を去った。のちにオスマン帝国初代皇帝、「オスマン1世」と呼ばれる人物である。
父の亡骸をブルサの丘の頂きに葬ったオスマンの子オルハン・ベイはさらに征服を進めていった。
マルマラ海の南岸をニカイア(イズニク)、ニコメディア(イズミト)と東進し、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世の親征軍をペレカノンで撃退。1338年には、狭い海峡を隔ててコンスタンティノポリスを指呼の間に望むスクタリ(ユスキュダル)までを制圧した。
かたわら、西隣のカレスィ君侯国を王位継承争いに乗じて併合し、オスマン君侯国は急速に西部アナトリア有数の大勢力へと成長していった。

そうするとこれまでのような牧民集団の延長のようなかたちでは、巨大化した領土を統治しきれなくなる。
オルハンは先進地域である東部アナトリアやイラン高原から流れてきたウラマー(学者)やカーディー(法官)を積極的に登用し、そのなかのひとりであるアラエッディン・パシャという人物を初代宰相とした。
また、これまでオスマン君侯国の軍隊はカユ部族の族民や寄せ集めのガーズィー、さらにはオスマン家と個人的に親交を重ねていた近隣のキリスト教徒領主たちまでを含む雑多な集団だったが、オルハンは直属常備軍の編成に着手した。

オルハンは誕生まもないオスマン君侯国を真の意味での国家へと飛躍させた優れた指導者だったが、決して玉座にふんぞり返っていたわけではない。
1332年、稀代の旅行家イブン・バットゥータがブルサを通過し、建国まもないオスマン君侯国の姿を生き生きと書き記している。それによればオルハンは日々領国を馬に乗って巡察し、戦いでは最前線で兵士たちと共に戦っていたという。
オルハンは無名の庶民とも同じ目線で世間話を交わし、貧民には自ら施しのスープを配って回った。この時代のオスマン君侯国はかように素朴な小国だった。

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(オルハン・ベイ)


Altın İmparatorluğu(黄金の帝国)

古代ローマ帝国の片割れ、東ローマ帝国。
すでに一千年の歴史を閲し、かつて「ビザンティウム」と呼ばれたコンスタンティノポリスの街を帝都とするこの国を、後世の我々は「ビザンツ帝国」と呼ぶ。

第四次十字軍による帝都失陥後、帝国有数の大貴族テオドロス・ラスカリスが西部アナトリアのニカイアに亡命政権を築く。
そして1261年、ニカイアの第4代皇帝ミカエル・パレオロゴスが帝都を奪還し、パレオロゴス朝ビザンツ帝国を創建する。
しかし古き黄金の帝国はすでに満身創痍の有様で、北をブルガリア王国、西をセルビア王国、南をイタリアの海港都市国家、ジェノヴァやヴェネツィアの艦隊に脅かされていた。
また、アナトリア西部にはサルハン君侯国とアイドゥン君侯国という二大国があり、これこそがビザンツ帝国にとって最も警戒すべき相手だった。それに比べれば新興のオスマン君侯国など、まだしも与しやすい。

ために皇帝アンドロニコス3世はペレカノンの戦い以後、オスマン君侯国とは手を結ぶことを選択した。
和議締結にあたってビザンツ帝国側の窓口となったのが、「メガス・ドメスティコス(帝国最高司令官)」の地位にあるヨハネス・カンタクゼノスという大貴族だった。

カンタクゼノスは有能で精力的な軍人にして政治家、かつ当代随一の教養人だった。ブルサの君侯オルハン・ベイはカンタクゼノスと接するなかで、広い世界と異文化への眼を開かれた。
カンタクゼノスにとってもオルハンとの出会いは心躍るものだった。
帝都コンスタンティノポリスの黄金の宮殿を行き来する貴族たちは骨の髄まで野心の塊で、あらゆる社交や会話の裏には陰険な術策が潜んでいる。だが、爽やかな夏の風が吹き抜けるブルサではそんなことはあり得ない。
オルハンも、彼の周りの戦士たちも、どこまでも誠実で真っ直ぐな気性の人々だった。

つまるところ、オルハン・ベイとカンタクゼノスは知己としての交わりを結ぶ。そんなカンタクゼノスが、まもなく海峡の向こうで政変を起こした。

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(ヨハネス6世カンタクゼノス)

1341年にアンドロニコス3世が死去し、幼いヨハネス5世パレオロゴスが帝位を継ぐ。
カンタクゼノスは宮廷最大の実力者となったが、彼の政敵たちが悪しき噂を流した。野心家カンタクゼノスは幼帝を廃して帝位簒奪を目論んでいるというのだ。彼は「祖国の敵」と宣言され、首都コンスンタンティノポリスを追放された。
セルビアに逃れたカンタクゼノスは「君側の奸を除く」と称して兵を挙げ、本当に「副帝ヨハネス6世」を名乗った。
内乱が拡大するなか、カンタクゼノスは海峡の東に密使を送り、かねてからの盟友オルハンに助勢を依頼した。
オルハンはこれに応じ、5500の兵とともにチャナッカレの瀬戸(ダーダネルス海峡)を渡ってヨーロッパ大陸に足を踏み入れた。西暦1346年のことである。

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(1355年頃のビザンツ帝国とセルビア、ブルガリア、オスマン君侯国)

オスマン君侯国の支援を得たカンタクゼノスはついに帝都コンスタンティノポリスに入城し、盟友オルハン・ベイに実の娘を娶らせた。ここにオスマン家はビザンツ帝国大貴族の血統を取り込んだのである。

皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの治世は苦悩多きものだった。
衰えゆくビザンツ帝国は内憂と外患にこもごも見舞われた。
海にあってはイタリア半島の海港都市国家、ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国の艦隊がエーゲ海の島々を襲撃し、陸にあってはブルガリアとセルビアの脅威が途絶えることなく、国内においては貴族たちの政争が延々と続いた。
その最たるものは、お飾りにされた「共同皇帝」ヨハネス5世と支持者たちである。彼らは1352年にセルビアの大王ステファン・ドゥシャンと組んで反乱を起こした。

ステファン・ドゥシャンといえばマケドニア、テッサリア、エピロス、アルバニアを征服し、「ドゥシャンの法典」を発布し、「セルビア人とローマ人の皇帝」を称した東欧史上で屈指の英傑である。
カンタクゼノスは再びオルハンに支援を求めた。オルハンは長子スレイマンに2万の兵を預けて海峡を渡らせた。
スレイマンはステファン・ドゥシャンのテッサロニキ攻撃を阻止し、戦況を膠着させる。そのさなかにステファン・ドゥシャンが急死し、辛うじて帝国は守られた。
カンタクゼノスは支援の見返りとしてオルハンにダーダネルス海峡西岸、ガリポリ半島先端部の小さな砦を与えた。オルハンはここにスレイマンと駐留軍を置いた。
オスマン君侯国はルメリア(バルカン半島)に永続的な橋頭堡を獲得したのである。

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(オルハンの治世下におけるオスマン君侯国の拡大)

1354年3月2日、この地方を大地震が襲う。
震災は海峡両岸にわたったが、最も早くに衝撃から立ち直ったのはガリポリ半島のオスマン君侯国駐留軍だった。
オルハン・ベイの子スレイマンはささやかな騎兵隊を率いて古い小砦を出陣し、一路半島を北上した。帝国の諸城砦はいずれも城壁が崩れおち、瓦礫の山となっていた。
呆然と立ちすくむ人々をよそに、オスマン軍は次々に新月の旗を立てていった。
皇帝カンタクゼノスは愕然としてブルサに急使を送ったが、オルハンは返還に応じなかった。
君侯オルハンと皇帝カンタクゼノスのあいだにいかに長年にわたる敬意と友情の絆があろうとも、オスマン君侯国はそもそも異教の大地を征服すべきガーズィーの国。
古き帝国の障壁は崩れ、黄金の輝きは色褪せた。ルメリアの巨大な大地を前に、オルハンが猛り逸る戦士たちに停戦を命じる理由など何もなかった。

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(中世東欧の歴史について、詳しくはこれを)



Yaşın Hüdavendigar(帝王ムラトの時代)

1360年頃、オスマン君侯国の実質的な建国者ともいうべきオルハン・ベイはこの世を去った。将来を嘱望された長子スレイマンは数年前に鷹狩り中の事故によって早逝しており、次男ムラトが君侯国を継承した。
ムラト1世、異名はヒュダヴェンディギャール。ずばり「帝王」という意味である。
彼は父や祖父と同じように全軍の先頭に立って戦うことを厭わなかったが、父祖たちよりも広大な領土を支配し、いくつもの属国を従える君主であり、ときに「ベイ(君侯)」ではなく「スルタン」と称することもあった。
オスマンの国は「君侯国」の枠を超え、強大な一王国へと変貌しつつある。それゆえ、今後この国を「オスマン朝」と表記する。


ムラトは即位後アナトリアでの反乱鎮圧と勢力拡大に専念し、その後は一介の行政官から抜擢した大宰相チャンダルル・カラ・ハリル・パシャとともに軍制整備に勤しんだ。

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(イェニチェリの再現)

王朝草創期に主力を担ったガーズィーたちはアクンジュ(尖兵)と呼ばれるようになり、不正規兵として未征服地に随時侵入し、略奪や攪乱を行なう使命を与えられた。
一方、正規軍とされたのはカプクル(軍人奴隷)である。その主力となったのはイェニチェリと呼ばれる常備歩兵軍だった。
イェニチェリは、被征服地のキリスト教徒の少年たちを強制徴用(デウシルメ)し、イスラームに改宗させ、洗脳に近い教育を施してスルタンへの絶対的な忠誠心を植え込んだものである。
彼らは妻帯を禁じられ、スルタンを父と仰ぎ、ベクターシュというイスラーム神秘主義教団の戒律に従って集団生活を送った。平時にはスルタンの周囲を護衛し、戦時にはスルタンの親衛隊となった。
その規律は実に見事なもので、警備に立つイェニチェリは何時間も身じろぎもしないので、まるで彫像のように見えたと伝えられる。


この時期もっぱら前線の指揮をとったのは、ベイレルベイ(全軍司令官)としてルメリア方面における軍事全権を委ねられたララ・シャヒーン・パシャである。
はやくも1362年、ララ・シャヒーン・パシャはビザンツ帝国第二の都市ハドリアノポリス(アドリアノープル)を占領した。この町は以後、トルコ語で「エディルネ」と呼ばれることになる。
エディルネはバルカン半島各地から集まった諸街道が帝都コンスタンティノポリスを前に合流する地点である。帝国にとってみれば、ハドリアノポリス陥落は、すなわち帝都孤立を意味する。

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(オスマン草創期を飾る猛将、ララ・シャヒーン・パシャ)

帝国ではヨハネス6世カンタクゼノスが廃位され、カンタクゼノスによって実権を奪われていたヨハネス5世パレオロゴスが単独皇帝となった。
ヨハネス5世はオスマン朝の進撃に対して手も足も出ない有様で、かつて帝都コンスタンティノポリスを奪った教皇や欧州諸国にまで援軍を嘆願した。

欧州はようやくオスマン朝という新興勢力の存在を認識しはじめた。いつの間にかこの異教徒たちはダーダネルス海峡をわたり、ヨーロッパ大陸の一角に地歩を固めつつある。今のうちに叩かねば、遠からず巨大な災禍となるやもしれぬ。
フランス・アヴィニョンの教皇ウルバヌス5世は欧州に反オスマン十字軍の結成を呼び掛け、ハンガリー・ブルガリア・セルビア・ワラキア・ボスニアがこれに応じた。
だが、オスマン軍は五ヶ国連合軍をマリッツァ川で奇襲し潰走させる。世にいう「セルビア崩れ」である。アナトリアからルメリアに戻ったムラトは、まもなくエディルネをブルサと並ぶ王朝の首都と定めた。

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(ムラト1世のもとでのオスマン朝の拡大)

1371年、雪辱を期す東欧諸国はセルビア皇帝ステファン・ウロシュ5世を中心に連合を組み、ムラト不在の隙をついてエディルネに急迫した。
が、わずか数百の手勢を率いたララ・シャヒーン・パシャは因縁のマリッツァ河畔で敵陣を夜襲し、数万にのぼる東欧諸国軍を壊滅させた。セルビア副帝ヴカシンまでが首級を挙げられる有様だった。
ララ・シャヒーン・パシャは勢いに乗ってマケドニアとギリシア北部を制圧し、セルビアの勢威は一気に衰える。また、彼は同年のうちにブルガリアも破り、この東欧で一、二を争う大国にオスマン朝への従属を強制した。

そんななか、ビザンツ帝国でお決まりの政変が起こる。皇太子がクーデターを起こして皇帝ヨハネス5世を幽閉したのである。
ムラトは頼まれもしないうちに出陣し、ヨハネス5世を帝座に復帰させた。そして支援の代償を強要した。すなわち、帝国の臣従である。
吹けば飛ぶような弱小国まで落ちぶれたビザンツこと「ローマ帝国」は、泣く泣くオスマン朝への服従を誓約した。ヨハネス5世は次男マヌエルをブルサのオスマン宮廷に人質として差し出した。

ムラトは軍事的圧力と政略結婚を駆使してアナトリア方面でも着々と支配を拡大し、ゲルミヤン君侯国とハミド君侯国の大部分を制圧し、アナトリア西部の覇権を握った。

マリッツァ川の大敗、ビザンツ帝国の屈服、ブルガリアの降伏……相次ぐ急報を受けて欧州諸国、ことにアヴィニョン教皇庁は急速にオスマン朝への警戒を強めつつある。
教皇庁はひそかに中部アナトリアの大国、カラマン君侯国に使者を送ってオスマン朝への敵意を煽った。
これに対し、ムラトは直属のイェニチェリやアクンジュに加え、ルメリアの諸属国からも多数の兵を集めてカラマン君侯国の本拠コンヤに進軍し、圧倒的な勝利を収めた。
いまやバルカン半島でもアナトリア半島でも、オスマン朝に真っ向から挑める勢力は見当たらない。

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(ムラト1世を殺したミロシュ・オビリッチ)

オスマン朝の主力軍が中部アナトリアに向かう。その隙をついてルメリア、すなわちバルカン半島で炎が上がった。
1389年、セルビア公ラザール・フレベリャノヴィチを中心に、ボスニア国王スチェパン・トヴルトコ、ワラキア公ミルチャ1世など、東欧諸侯が大連合軍を結成してオスマン朝への決戦を挑んだのである。
オスマン軍は急遽ルメリアに引き返し、6月15日にセルビア南部のコソヴォ平原で東欧連合軍と合い見えた。

東欧諸侯は決して一枚岩ではなく、自身と一族の利益のためには日常的に敵と味方を取り換える。この戦いでも東欧キリスト教圏の少なからぬ貴族たちがオスマン朝の陣営に馳せ参じた。
連合軍の盟主ラザールは目を怒らして平原の向こうに並ぶ同族たちの軍旗を睨みつけ、やがて広く知れることになる呪いの言葉を投げつけた。

  セルビアの民としてセルビアの地に生まれ、セルビアの血脈を受け継ぎながら、我らとともにコソヴォで戦わぬ者たちよ。
  汝らはどれほどに望もうとも子孫を残すことはできぬ。男児を生すことも女児を生すこともできぬ。
  その手から蒔かれた麦が実ることは決してない。黒い葡萄も白い小麦も、決して実ることはない。


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(コソヴォ古戦場の記念塔にラザールの呪いが記されている)

「――父と子と聖霊の御名において、そして祖国セルビアのために……騎士たちよ、前へ!」

ラザールが大音声を発すると、セルビアの騎士たちは一斉に剣を抜き放った。並足、早足、駈足、そして疾走。たちまち軍馬の群れは怒涛の勢いで突撃に移る。

オスマン軍の陣営からは一切の鬨の声が揚がらず、かわりに不気味な太鼓の音が鳴り響いた。
一定のリズムを刻む太鼓の音とともに、機械のように歩調を合わせてイェニチェリたちが前進を開始する。
湿原で翼を休めていたクロウタドリたちが時ならぬ気配に怯えて一斉に空へ飛び立った。その羽音にもかき消されることなく、オスマン軍の太鼓は鳴り続ける。
その響きはオスマン帝国がアジア・アフリカ・ヨーロッパの覇者となる日まで、決して消えることはないだろう。

コソヴォの戦い」は、この戦場に集った誰もが記憶にないほど激しいものになった。
オスマン朝がバルカン半島の覇権を確立するか、ダーダネルス海峡の彼方に追い返されるか。誰もが今日の戦いこそ、今後数世紀にわたる東欧の運命を決するのだと知っている。
が、激闘のさなかにとんでもないことが起こった。連合軍の配置を密告すると称してオスマン軍の本営に入ったセルビア騎士が、スルタン・ムラト1世を刺し殺したのだ。
繰り返すがセルビア諸侯は連合軍とオスマン軍の両陣営に参加している。敵味方の区別が不分明ななか、一瞬の隙を衝いての暗殺だった。


Yıldırım Bayezid(バヤズィット稲妻王)

Битва на Косовом поле.
(セルビアか旧ソ連の映画っぽい)


オスマン軍の本営は大混乱に陥った。打ち鳴らされる太鼓の響きも一瞬途絶えかけた。事情を知らない前線の兵士たちも太鼓の響きの異変を感じて思わず手を止めた。
そのとき一人の若者が馬を駆って本営に駆け込んできて、慌てふためく兵士たちに怒声を浴びせた。

「打て、打て、なぜ打たぬ! 我らの勝利は決して揺らぎはせぬ!」

彼はムラト1世の子、バヤズィットであった。
時ならぬ混乱の理由を知ったバヤズィットは直ちにスルタンとして即位し、即刻、同じ戦場で戦っていた実の兄弟たちを全員殺害した。王位継承に異を唱える可能性がある者たちを事前に抹殺したのである。
折しもオスマン軍は左翼をセルビア騎兵に突破され、敗走寸前の状態だった。バヤズィットは最前線に取って返すと自ら戦いに加わった。
バヤズィットの勇戦につられて兵士たちも態勢を立て直し、セルビア軍を押し返す。バヤズィットは連合軍の盟主ラザールをはじめ多数のセルビア貴族たちを捕え、オスマン軍を勝利へと導いた。

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(バヤズィット1世)

それからのバヤズィットは東へ西へと息つく間もなく戦争に明け暮れることになる。
「ヒュダヴェンディギャール(帝王)」と謳われたムラト1世の横死によって、オスマン朝に降った諸属国による反乱や、近隣諸国の侵攻が相次いだのだ。

アナトリアではカラマン君侯国がサルハン・アイドゥン・メンテシェなどの周辺諸国を糾合してオスマン領に侵攻。
バヤズィットはラザールの遺児ステファンをセルビア公に立てて臣従を誓わせると、電光石火の勢いでアナトリアに向かい、たちまち戦線を押し戻した。
属国としたビザンツ帝国から人質として出された皇太子マヌエルを伴ってアナトリア最後のビザンツ帝国領フィラデルフィアを攻め落とし、1391年にはカラマン君侯国の首都コンヤを包囲して広大な領土を割譲させる。

直後にマヌエルがオスマン軍を脱走した。コンスンタンティノポリスで父帝ヨハネス5世が死去したことを知り、帝位継承とオスマン朝からの自立を目論んだのだ。
バヤズィットはこれを追跡してコンスンタティノポリスを包囲し、新帝マヌエル2世に臣従を誓約させた。
ところが二年後の1393年にマヌエルの弟テオドロスがモレアス(ペロポネソス半島)でオスマン朝への敵対姿勢を露わにした。激怒したバヤズィットは再びコンスタンティノポリスを囲んだ。

帝都コンスタンティノポリスは千年の時を経て、なお難攻不落を誇る要塞都市である。
バヤズィットは一隊をこの都を張りつけ、遠巻きに包囲した。海軍力を持たないオスマン朝はダーダネルス海峡を封鎖することこそできなかったが、陸路で帝都内外を行き来することは不可能となった。包囲は実に七年に及んだ。

その一方、バルカン半島での勢力拡大も着々と進め、ボスニアやアルバニアに兵を進め、ブルガリアの反乱を粉砕して首都タルノヴォを占領し、ドナウ以南を完全に制圧。
バヤズィットの進撃は常に雷のように迅速で、その戦いは稲妻のように苛烈だった。いつしか人々は彼を「ユルデュルム(稲妻王)」と呼ぶようになった。
しかし、そんな稲妻王がどうしても勝てなかった相手もいる。

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(ワラキアは現在のルーマニア南部)

ドナウの北にワラキア公国という国がある。
ワラキアはブルガリアやハンガリーやジョチ・ウルスといった諸大国が衰退するなか、東欧辺境にいつの間にやら出現した小国である。
しかしその国民は自分たちをローマ人の末裔と信じ、その土地を「ロマニア」と呼んで誇っていた。今日の「ルーマニア」である。

当時ワラキアを支配していたのは国公ミルチャ1世。のちに「ミルチャ老公」と呼ばれる人物である。
外交と内政の才によって国内を安定させたミルチャはドナウ下流域への進出を図り、同じ地域を狙っていたバヤズィットと衝突した。
バヤズィットはワラキアごとき簡単にひねりつぶせると思っていたに違いない。しかし、ミルチャは1394年10月にカラノヴァサの戦いで稲妻王を見事に打ち破った。バヤズィットにとって人生で最初の敗戦であったと思われる。
雪辱を期すバヤズィットは4万の軍を集めてドナウを渡り、真っ直ぐワラキア中部に侵攻した。ミルチャは国中の農民や豪族をかき集めても1万弱の軍しか組織できなかったが、ワラキアの森と湿地に潜んでしつこくオスマン軍への襲撃を繰り返した。
オスマン軍は徐々に疲弊し、1395年5月にロヴィネ平原で本格反攻に転じたミルチャによって徹底的に叩きのめされた。

ミルチャの勝利は伝説となり、彼は「キリスト教徒の諸侯のうちでもっとも勇敢にして聡明な人物」と称えられるようになる。

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(ミルチャ老公)


ワラキア公ミルチャの背後には、それよりもはるかに強大な敵がいる。それをバヤズィットは知っていた。ハンガリー国王ジギスムント。のちの神聖ローマ帝国皇帝である。

そもそもハンガリーは欧州中部で最強の大国だった。数百年前にアジアの草原からやってきたハンガリーの民は今なお尚武の気風を保ち、騎馬戦闘にも熟達している。
また、ハンガリーを支配したアールパード朝やアンジュー朝の王たちは巧みな政略結婚や野心的な対外攻勢によって、北はポーランドから南はダルマチアまで、幾度も王国の領土を拡張した。

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(中世ハンガリー王国の最大勢力圏)

バルカン半島の二大国、セルビアとブルガリアがともにオスマンに屈服したいま、ハンガリー王国はオスマン朝と直接国境を接するに至った。
ジギスムントは欧州諸国に使者を遣わし、いま一度の反オスマン大連合軍の結成を呼び掛けた。教皇庁はこの連合軍に「十字軍」のお墨付きを与えた。

まもなく、野心と功名心に燃える騎士たちが欧州各地から続々とハンガリー王国の首都、ブダ(現在のブダペスト)に集まりはじめた。
ジギスムントはオスマン軍をブダに引きつけ、長途の行軍に疲弊させる策を立てた。だが、西欧から来た諸侯はこの戦略に激しく異を唱えた。
彼らはオスマン軍と戦った経験を持たない。莫大な戦費を費やしてここまで来たからには、一日も早く異教徒どもを討ち滅ぼして武勇の誉と山のような戦利品を勝ち得たいではないか。

10万の「十字軍」がハンガリー平原を全速で南下する。ジギスムントは現地事情に精通したワラキアのミルチャ老公に「十字軍」の指揮を委ねようとしたが、西欧諸侯は当然これにも猛反発した。
バルカン半島の町々は「十字軍」によって次々に略奪された。正教を奉じる東方のキリスト教徒たちは、西欧の騎士たちから見れば異教徒同然にしか思えなかったのだ。
現地のキリスト教徒たちは「十字軍」から逃げ惑い、むしろオスマン朝の側に進んで情報を提供した。バヤズィットは満を持して「十字軍」を待ち構えた。

1396年9月、「十字軍」はブルガリア北端のニコポリスに到達し、この町を包囲した。
ニコポリスはドナウ南岸の高台の上に聳える要害である。攻めあぐねた「十字軍」は包囲態勢を敷いたままダラダラと酒宴を続け、前哨戦で捕虜にしたオスマン軍の将兵たちを気慰みに処刑して過ごした。
そこをバヤズィット率いるオスマン朝の大軍が急襲する。
まさに夜明けの稲妻のごとく。

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Doğu'da Şeytan(東の魔王)

敵軍急襲を知った「十字軍」では、待ち望んだ武功に目がくらんだ西欧の騎士たちがジギスムントやミルチャ老公の制止も聞かず、我先に陣営を飛び出していった。統制も何もない滅茶苦茶な開戦だった。
オスマン軍の側はまったく対照的に、隅から隅まで統制が行き渡っていた。イェニチェリ、アクンジュ、スィパーヒ騎兵隊、属国の補助軍や不正規軍らはバヤズィットの意志を完璧に体現し、機械のように正確に機動した。
「十字軍」の騎士たちはオスマン軍によって次々に粉砕され、殺され、捕えられた。
ジギスムントとミルチャ老公は、ただただ唖然として惨状を見つめるばかりだった。これほど馬鹿げた戦いは見たことも聞いたこともなかった。

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(ジギスムントの敗走)

戦場を辛くも逃れたジギスムントはドナウ川を下ってコンスタンティノポリスに辿りつき、地中海を経てハンガリーに帰国した。
ジギスムントが狭いダーダネルス海峡を通過するとき、オスマン軍は海岸に捕虜たちを並べて嘲ったと伝えられている。
ミルチャ老公はハンガリーによる支援の望みを絶たれ、オスマン朝との最前線でひとりはかない抵抗を続けるしかなかった。

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(その後のジギスムントが登場する)


バヤズィット1世率いるオスマン軍がニコポリスの戦いで圧倒的な勝利をおさめたことが知れ渡ると、全ヨーロッパは恐怖に包まれた。

長い包囲に苦しむコンスタンティノポリスでは、皇帝マヌエル自身が西欧諸国に遊説の旅を決意した。
幸いにも海はオスマン軍に封鎖されていない。イタリアの艦船に乗り込んだ皇帝は地中海を越え、遠くフランスやイングランドまで足を運んで必死に援軍を乞い求めた。
だが、ニコポリスの衝撃を受けた西欧諸国では、誰ひとり帝都救援を名乗り出ようとはしなかった。

第二のアッティラが東の地平に登場した。今や彼らの大陸の一角を制した異教大国の勢いは止めようもない。稲妻王の進撃を阻むには奇跡を待つしかないと思われた。
その奇跡は、ほどなく顕在する。


――アミール・ティムール・キュレゲン

その男の名前がオスマン朝の人々の口の端に上りはじめたのはいつ頃からだろうか。
遠くマー・ワラー・アンナフルを拠点として、わずか十数年のうちにイランを制し、キプチャクを制し、西ユーラシアを覆う巨大な帝国を築き上げつつある男。
東の魔王。

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(ティムール)

ルメリア方面からの脅威を絶ったバヤズィットは以後数年間、もっぱらアナトリアでの勢力拡大に専念する。
1398年にエルテナ君侯国とカラマン君侯国、1400年にエルジンジャン、1402年にゲルミヤン君侯国を征服し、オスマン朝の領土はアナトリア半島のほぼ全域を覆う。
そこにティムールに追われた黒羊朝の君主、カラ・ユースフが庇護を求めて亡命してきた。この事件がオスマン朝とティムールとの関係を決定的に悪化させる。

1402年、「七年戦役」のさなかにあるティムールは20万近い大軍を率いてアナトリアに侵入した。オスマン朝に追われた東部アナトリアの旧君侯たちを加え、ティムールの軍容はさらに膨らみ続けた。
折しもコンスタンティノポリス包囲陣のなかにあったバヤズィットは、七年にわたった包囲をついに解いて全軍を海峡の東に移動させる。
両軍は7月20日、中部アナトリアのアンカラで激突する。

ティムールは世界の歴史上で最強の名将である。

アンカラの戦い」は夜明けから夕暮れまで続き、激闘の果てにオスマン軍は一万数千の戦死者を出して崩壊した。
残軍のほとんどは王朝の血脈を維持するために王子たちとともに戦場を離脱。孤立したバヤズィットは直属軍が全滅すると単騎逃走を図ったが、馬から振り落とされて捕虜となった。

魔王はバヤズィットをきわめて丁重に待遇したが、バヤズィットの自尊心は捕囚の屈辱に耐えられなかった。1403年、バヤズィットは捕虜として護送されているなかで病死した。
オスマン・ベイの建国からおよそ一世紀。羊飼いの一族からルメリアとアナトリアにまたがる大国にまで発展したオスマン朝はここに滅亡した。


Amaç Konstantinopolis(帝都を夢見て)

――というのは正しくない。
オスマン朝は滅亡寸前に追い込まれた。ティムールの軍勢はアナトリア全土を制圧し、バヤズィットに追われた君侯たちをすべて元の領土に据え直した。
しかしアンカラの戦場から逃れたオスマン家の王子たちと軍隊は一時ルメリアに退避して、魔王の嵐を凌ぎ切ったのだ。

ティムールが去ると、バヤズィットの遺児たちのあいだで王位継承をめぐる内乱がはじまった。
およそ10年にわたった内乱の末、最後に勝利したのはアマスィヤの総督をしていたバヤズィットの子メフメトだった。

1413年に正式にスルタンとして即位したメフメト1世は「チェレビー(典雅王)」という綽名で知られる。
彼は内乱に勝利するためにビザンツ皇帝マヌエル2世や、再び自立に傾いたセルビア公ステファンと同盟を結び、内乱平定後も積極的に外征をしようとはしなかった。
国内においては名門チャンダルル家をはじめとするテュルク系貴族たちを優遇し、ひたすら国力の回復につとめた。

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(メフメト1世と高官たち)

1421年にメフメト1世が死去すると、その子ムラトが即位する。オスマン朝で二人目のムラトなので、後世には「ムラト2世」と呼ばれるスルタンである。
それまで再興されたオスマン朝はビザンツ帝国との小康を維持していたが、この時にわかに関係が悪化する。
メフメト1世の死を好機と見たビザンツ帝国が、アンカラの戦いで死んだはずのメフメト1世の兄弟、ムスタファを名乗る人物をオスマン朝の新スルタンとして擁立し、内政干渉を図ってきたのだ。
ムラト2世は激怒し、この「偽ムスタファ」を討ち滅ぼすとコンスタンティノポリスを包囲した。オスマン朝は再び牙を剥く大国として蘇りつつあった。

ムラト2世の時代にはハンガリー王国との争いが断続的に続いた。
この頃、ハンガリー王国では名将フニャディ・ヤーノシュが実権を掌握し、王国南部に広大な私領地を得て、強力な常備軍によってオスマン朝と熾烈な攻防を繰り広げたのだ。

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(フニャディ・ヤーノシュ)

フニャディ・ヤーノシュはボヘミア(チェコ)で神聖ローマ帝国の大軍に対して頑強に抵抗を続けたキリスト教の少数派、フス派の戦術を取り入れ、多量の火薬兵器によってオスマン軍を圧倒した。
フニャディ・ヤーノシュの軍隊を前に幾度も敗走したオスマン軍も急速に火器を導入し、イェニチェリたちに大量の小銃を支給した。15世紀初期のバルカン半島はユーラシア世界における戦術革新の中心であった。

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(小銃を持つイェニチェリ)

フニャディ・ヤーノシュとオスマン朝の最終決戦は1444年のヴァルナの戦いである。
急速に国力を増強していくオスマン軍に勝ち続けられなくなったフニャディ・ヤーノシュはハンガリー国王ウラースローを名目的な最高指揮官に戴き、欧州諸国に援軍を呼びかけてブルガリアに進軍した。

秋の小雨が降り続くなか、ヴァルナの湿地帯で十数万の軍勢が衝突する。ハンガリー王国摂政として実質的な全軍指揮の任にあたっていたフニャディが本営を離れたとき、国王ウラースローが突然オスマン軍に向かって自ら突撃を始めた。
ハンガリー軍はオスマン軍の中央を突破し、スルタンの本陣を守るイェニチェリたちのただ中に突入した。不意を衝かれたイェニチェリたちは大混乱となり、ハンガリー軍はムラト2世の眼前まで迫った。
ところが、ここで悲劇が起こった。まさしく目と鼻の先にムラト2世の姿を捉えながら、ハンガリー王ウラースローの馬が転倒したのだ。
泥濘に投げ出されたハンガリー国王はたちまちイェニチェリたちに殺害された。これによってハンガリー軍の指揮系統は崩壊した。
フニャディ・ヤーノシュは辛くも残軍を取りまとめて撤退する。バルカン半島の覇権は再びオスマン朝の手に帰した。

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(ハンガリー王ウラースローの突撃)

ハンガリーの力が後退したいま、東欧でオスマン朝に従おうとしない勢力はほとんど残っていない。ミルチャ老公の子で、長年フニャディ・ヤーノシュと共闘してきたワラキア公ヴラド2世もオスマン朝に臣従した。
ただひとつだけ、オスマン朝の領土の中心に小さな都市国家が独立を維持している。それこそはかつて地中海全域を支配した古代ローマ帝国の成れの果て、今や帝都のみを辛うじて維持するビザンツ帝国である。

ムラト2世の頃になると、オスマン朝はいつでもビザンツ帝国を滅ぼせるだけの力を取り戻している。だが、オスマン朝はあえてこの小さな「帝国」を温存し続けた。

その理由はいろいろとある。
いかに衰えたりといえども、この国は紛れもなく「ローマ帝国」そのものである。千数百年にわたる歴史はあまりに重く、見えざる鎧となって侵略の手を止めさせる。
さらに、うかつに帝国を滅ぼせば欧州諸国がどのような反応を見せるか、想定しづらいところもある。

また、オスマン朝内部の事情もある。
メフメト1世の帝国再興以後、オスマン朝ではチャンダルル家をはじめとするテュルク系貴族たちの権益が大きくなっている。
大規模な戦争を行なえばスルタン直属のイェニチェリやアクンジュが前面で活躍をすることになり、貴族たちの立場が脅かされる。
過度の王権強大化を避けたい宮廷貴族たちは、スルタンが帝都に色気を見せるたびにそれとなく反対し、結果としてビザンツ帝国を延命しつづけて来た。

だが、ここで。

1451年、ムラト2世が病死し、19歳の若きスルタンがエディルネで即位する。彼の名はメフメト。後世に「メフメト2世」と呼ばれる君主である。
古代ギリシアの伝説に憧れ、アレクサンドロス大王を崇拝するこの若者は、永遠の都コンスタンティノポリスを陥落させて歴史に名を刻むことを熱望していた。

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(メフメト2世の即位)

玉座についたメフメト2世は、父が定めた師傅にして大宰相たるチャンダルル・ハリル・パシャを呼び出した。そして反論を許さぬ口調で、彼は口にしたのだった。

「ラーラ、リュトフェン・コンスタンティーニエ!(師よ、あの町を俺にくれ)」、と。

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(オスマン帝国前半期の歴史について要領よくまとまっている)

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イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐

鉄の嵐、炎の槍

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(ミハイル・ゲラシモフによるティムールの復顔)

フレグ・ウルス崩壊後に群雄割拠となったイラン高原で大勢力となったのは、バグダードを都にアゼルバイジャンまでを押さえるジャライル朝と、イラン高原中南部に版図を広げたムザッファル朝だった。
ジャライル朝はフレグ・ウルスを構成する有力部族のひとつ、ジャライル部によって打ち立てられた政権で、英主シャイフ・ウヴァイスの時代に宿敵チョバン朝とジョチ・ウルスを退けてアゼルバイジャンまで版図を拡大。
ムザッファル朝はアラブ系の政権で、残虐非道で知られるムバーリズッディーンという一代の梟雄が、フレグ・ウルス崩壊後の混乱に乗じて建国した国である。

トクタミシュの侵入によって第一次西イラン遠征(「三年戦役」)を中途で切り上げたティムールは、1392年に再びこの地に舞い戻って来た。今度の遠征は5年間に及び、「五年戦役」と通称されることになる。
その頃ジャライル朝はシャイフ・ウヴァイスの子スルタン・アフメドの治下にあり、ムザッファル朝ではムバーリズッディーンの孫たちが内紛に明け暮れていた。

5年戦役
(五年戦役)

前回ティムールが制圧した地域では、覇王不在のうちに在地勢力が占領軍を追い払って続々と独立を回復していた。ティムールはそれらを次々に叩き潰していく。
破壊と虐殺を繰り広げながらカスピ海南岸のマザンデラン地方を西進し、クルディスタンとルリスタンを制圧。
将来の後継者と定めていた嫡孫ムハンマド・スルタン(早逝した嫡男ジャハーン・ギールの忘れ形見)にフレグ・ウルスの故都スルターニーヤ攻略を命じ、自身は南イランに転進して難攻不落の要塞ガルエ・セフィードを攻め落とした。
ここで彼を待ち受けていたのがシャー・マンスールという男だった。

シャー・マンスールはティムール不在に乗じてイスファハーンとシーラーズを奪還したムザッファル朝の王族である。対立する親族の両目を潰して権力を獲得したとも伝えられる。人道的観点からすれば、ティムールと大差はない。
1393年5月、彼は三万のティムール軍をわずか四千騎で迎撃し、全軍を率いてティムール本隊に突入した。狙いはただ一つ、ティムールの首級のみ。
混戦のなかでティムールは親衛隊から引き離された。馬を走らせて迫ったシャー・マンスールは大剣を抜き放ち、ティムールの頭を二度斬りつけた。
このときティムールは57歳。「鉄」を意味する名の通り、頑健な体躯と堅固な精神力を誇っている。
大剣を脳天で受け止めたティムールは、兜のひさしから炯々と光る目で頭上の敵を睨みつけた。そこに恐怖や動揺の影は全く窺えなかった。
三度目の打撃を与えようと剣を振りかぶったシャー・マンスールは、その眼光に射られて思わず身を凍らせた。その瞬間、一群の兵士たちが駆けつけて、たちまち覇王と野心家のあいだに人間の壁を作った。

「退け!」

大音声をあげて馬首を翻したシャー・マンスールは、たちまちティムールの末子シャー・ルフに出くわした。刃を交えること数合、この野心家はあえなく打ち取られた。ティムールは残るムザッファル朝の王族を全て処刑したという。
次の目標はジャライル朝である。イラーク平原へ兵を進めたティムールはスルタン・アフメドに無条件降伏の要求を突き付けた。

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(ティムールはチェスの原型である「シャトランジ」の達人だった)

スルタン・アフメドは山のような財宝と、ペルシア修辞学の精華というべき外交書簡を寄越してきた。使者は美辞麗句を洪水のようにまくしたてた。
しかし無用の虚飾や虚言を嫌悪するティムールに対して、それらはまったく功を奏さなかった。

「もうよい、黙れ。――結論はバレ(YES)かネヘイル(NO)か?」
「ね、ね、ネヘイル……」

交渉失敗を悟るや、スルタン・アフメドは即刻遁走。
ティムールは大軍を率いて古都バグダードに入城し、庶長子ウマル・シャイフをファールス総督、三男ミーラーン・シャーをアゼルバイジャン総督に任命した。イラン高原西部の二大勢力は、これで事実上消滅した。
ところがこの頃、はるか北方で異変が起こっていた。一昨年にクンドゥズチャの戦いで大敗したトクタミシュが再び兵を集めることに成功し、キプチャク平原奪還に乗り出したのである。

トクタミシュを屈服させたティムール
(トクタミシュを破るティムール)

アゼルバイジャン北部で勢力を立て直したトクタミシュは諸国に密使を送り、反ティムール包囲網を築き上げた。
ジャライル朝のスルタン・アフメド、グルジア王ゲオルギウス7世、リトアニア大公ヴィタウタス、黒羊朝のカラ・ユースフ、オスマン朝のバヤズィット1世、そしてエジプト・マムルーク朝のスルタン・バルクークらがこれに参画した。
ティムールに追われたジャライル朝のスルタン・アフメドはマムルーク朝に亡命し、黒羊朝のカラ・ユースフはオスマン朝の庇護を求めた。いずれも逃亡者引き渡しを要求するティムールの使者を殺害して敵意を露わにした。
ティムールは策謀の中心にいるトクタミシュに対する膺懲を決意する。決戦の場はカフカス山脈北麓のテレク河畔となった。

1395年4月14日、ティムール軍の突撃によってテレク河畔の戦いが幕を開ける。

激戦は三日三晩続いた。白昼の空は飛び交う矢で暗くなった。白兵戦のさなかにトクタミシュ軍の最精鋭がティムール本営に突入し、またも覇王は親衛隊から切り離されて絶体絶命の危機に陥った。
馬はなかった。59歳のティムールは砂塵のなかで次々に矢を放ち、矢が底をつくと槍を手にして戦った。槍が折れると刀を振るって敵を怯ませた。
そこにようやく親衛隊が駆け付け、直ちに円陣を組んで主将を守った。

「大アミールは危機にあり!!」

軍旗が高く掲げられ、激しく打ち振られる。
七つの大隊に分かれたティムール軍の兵士たちが四方八方から結集し、まさにティムールの眼前が大戦闘の中心となった。このときティムールの軍勢は恐るべき新兵器、「炎の槍」を斉射した。
「炎の槍」は原始的な火縄銃と推測されている。轟音とともに放たれる鉄と炎の嵐を前に敵軍は大混乱に陥った。キプチャク騎兵たちは雪崩を打って潰走し、膨大な戦死者によってテレク川は真っ赤に染まった。
ティムールは最も迅速な騎馬部隊に命じてトクタミシュを千キロ近くも追撃したが、彼は追手を振り切ってシベリアの密林へ逃げ去った。

この激闘によってティムール軍の側も全軍の約半数が死傷した。通常、これほどの損害が生じれば軍事行動は不可能となる。だが、覇王は退かなかった。
そのまま北進してトクタミシュに従属するルーシ(ロシア)諸公国を蹂躙し、ジョチ・ウルスの旧都サライを完全に破壊。アストラハンを劫掠し、膨大な戦利品を得る。
これ以前ティムールによってジョチ・ウルスの君主に任命されていたテムル・クトルグと補佐役エディゲは改めてティムールに忠節を誓い、キプチャク平原が再び背反する気遣いはなくなった。
帰途は草原を焼いてティムール軍を妨害した北カフカスのチェルケス人を粉砕し、ダゲスタンの山地民を殺戮しながら進軍。北部イランを経由して5年ぶりにサマルカンドに帰還した。

ティムールは都市を奪い、国を滅ぼすたびに、学者や技術者をサマルカンドに送ってモスクや学院や病院の建設に従事させた。
各地から強制移住された人々が周辺に多くの集落をつくり、現世の楽園かと見紛う数々の庭園も散在する。
西ユーラシア全土を戦乱の嵐が覆うなか、覇王の都サマルカンドだけは年ごとにいよいよ壮麗の度を増していくのだった。

ティムールの宮廷
(ティムールの宮廷生活)


デリー興亡史

モンゴル帝国がイスラーム世界のほぼ半分を制圧した時代、インド亜大陸北部に強大なムスリムの政権が自立を維持していた。
奴隷王朝ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝
ヤムナー河畔の帝都デリーを中心として、およそ三世紀にわたって興亡した五つの王朝を「デリー・スルタン朝」と総称する。

その興隆はモンゴル帝国とほぼ同時期。
アフガニスタンに興ったゴール朝の東方総督、クトゥブッディーン・アイバクがデリーで独立したのは、まさにチンギス・カンが即位した西暦1206年のことだった。
奴隷王朝はイルトゥトゥミシュや女王ラズィーヤのような優れた君主を輩出しながらも、「チャハルガーニー(四十人衆)」と称されるテュルク系貴族たちの統制に苦しみ、政権の安定を維持できなかった。
建国当初にアイバクが征服した南部の諸城砦、カーリンジャル、グワーリオル、アジメールなどはヒンドゥー諸侯に奪還され、デリーから遠い東部のビハールやベンガルでは独立の動きが絶えなかった。モンゴル帝国への警戒も怠れなかった。

1266年に即位したバルバンは公正な施政によって民衆の支持を得るとともに、スパイを放って貴族たちの動向を監視し、不正を冒した者は法に則って処断した。
街道を荒らす盗賊団を壊滅させ、反抗的なラージプート(ヒンドゥー軍事貴族)の砦を打ち壊し、王権を確立すべく、廷臣たちには平伏して自身の足先に接吻するよう要求した。
宮廷では笑うことも冗談を口にすることもせず、乱れた姿を人に見られぬように酒も口にしなかったという。「賤しい者を目にすると余の眼は怒りに燃え、余の手は剣を掴む」という言葉も伝えられる。
1287年にバルバンが死ぬ頃までにはチャハルガーニーは抑えつけられ、スルタンの独裁が確立された。
だが、バルバンの統治は多方面の不満と反感を買っており、わずか3年後にはジャラールッディーン・フィールーズなる軍人がデリーを襲って奴隷王朝を滅ぼした。

ジャラールッディーン・フィールーズはもともとアフガニスタン南部のヘルマンド渓谷からやって来たハルジー族という部族の長で、バルバンの時代には西北国境でモンゴル帝国からの防衛を担っていた。
部族名にちなみ、彼が築いた王朝はハルジー朝と呼ばれることになる。
彼はすでに高齢で、この時代としては慈悲深く温厚な人物だった。
アフガン人の支配に不満を持ったテュルク系貴族たちが反抗しても宥免し、兵士の生命を損ずることを恐れて敵城の包囲を解き、モンゴルの捕虜たちをイスラームに改宗させて助命した。しかし、そんな人柄が彼の死を早めた。

アラーウッディーン・ハルジー
(アラーウッディーン・ハルジー)

ジャラールッディーン・フィールーズの甥、アラーウッディーン・ハルジー
アワドの長官であったこの若者は、伯父の寛容な施政に不満を抱く貴族たちを集めてデカン高原に向かった。
これまでデリー・スルタン朝の勢力はヒンドゥスターン平原一帯に限定されており、ヴィンディヤ山脈とナルマダー川を越えた中部インドや南部インドはほとんど未知の土地だった。
見知らぬ大軍の接近に混乱するヤーダヴァ朝の都デーオギリ。アラーウッディーンはそこを襲撃し、莫大な財宝を奪い取った。
彼は財宝を献上すると称してカラの町に伯父を呼び出した。スルタンは顧問官たちの警告を無視し、ごく少数の供回りだけを連れて甥の陣営にやってきた。
甥が足元に跪くと、スルタンは幼い頃からやってきたように甥の頬を優しく叩き、頭を撫でた。そのとき、突然兵士たちが雪崩れ込んだ。
伯父の手を撥ね退けて立ち上がったアラーウッディーンは冷厳な声で兵士たちに命じた。

「この老いぼれを斬り捨てろ」

倒された老人は驚愕に目を瞠ったまま斬首された。


アラーウッディーンはデーオギリから持ってきた財宝を貴族たちにばら撒いて買収し、買収を拒んだ者たちは捕えて両目を潰し、地下牢に放り込んだ。
彼は強力な物価統制令を発布。商品の備蓄を禁じ、余剰穀物は国庫に収納した。目方をごまかした商人に対しては、足りない目方の分をその身体から切り取るという厳刑を科した。商人が反抗したり逃散すれば軍隊を派遣して連れ戻した。
農民に対しては全ての耕作地と牧草地を徹底的に調査し、全収穫の五割を課税した。農民たちがそれを拒否したり逃散すれば、同じように軍隊を派遣して連れ戻した。
貴族たちには密偵を放ち、無許可での通婚や宴会を陰謀のもととして禁止し、私有財産も制限した。秘密警察と軍隊、恐怖と暴力が彼の治世の特色だった。

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(ランタンボール城塞を攻撃するアラーウッディーン・ハルジー)

こうしてかき集めた富を使って途方もない規模、「公称」ではなく「実数」で三十万から五十万にのぼると見られる騎馬軍団を編成してモンゴル軍に備えた。
その頃モンゴル帝国では「カイドゥの乱」が終わろうとしており、カイドゥの副将ドゥア(後のチャガタイ・ウルス建国者)が起死回生を策してインド遠征に乗り出した。
アラーウッディーンは伯父がイスラームに改宗させ、デリーに住居を与えた四千人のモンゴル人たちを虐殺。デリー北郊でモンゴル軍を撃破し、和平を求めるモンゴルの使節団を象に踏みつぶさせた。

モンゴルの脅威が消えるとアラーウッディーンは有り余る軍事力を南へ向けた。ラージプート諸侯の諸王国、ランタンボール、チトール、マールワー、グジャラートを攻略し、ついでにイスラーム商人の居留地カンバートも略奪した。
そこで捕えたマリク・カーフールという宦官を「マリク・ナーイブ(王の副将)」に取り立て、大軍を与えてさらに南方の征服を命じる。
ハルジー朝の軍隊はデカン高原を南下し、ヤーダヴァ朝、カーカティヤ朝、ホイサラ朝といったヒンドゥー諸王国を次々に屈服させる。続々とデリーにもたらされる戦利品は天文学的な数量に達した。
驕るアラーウッディーンは「イスカンダル・サーニー(第二のアレクサンドロス)」を自称し、イスラームに代わる新宗教の創始すら目論んだという。
だが、1316年1月にアラーウッディーンが病死すると無理に無理を重ねたハルジー朝の大帝国はたちまち崩壊しはじめた。
専横を極めたマリク・カーフールはスルタンの死の翌月に貴族たちに殺害され、無能な後継者のもとで内乱が広がった。

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(アラーウッディーンが建設したアラーイー・ダルワーザー)

1320年、テュルク人とモンゴル人のあいだに生まれ、モンゴルの侵略軍を29回退けたという武将ギヤースッディーン・トゥグルクがデリーに入り、新しい王朝を創建した。これが「トゥグルク朝」である。
だが、彼は5年後に実の息子ムハンマド・ビン・トゥグルクに謀殺される。

ムハンマド・ビン・トゥグルク
(ムハンマド・ビン・トゥグルク)

ムハンマド・ビン・トゥグルクは父王ギヤースッディーン・トゥグルクのために離宮を建設した。その建物は一定の加重と震動によって崩落するように設計されていた。
父が離宮に入ると、彼は祝賀のために前庭で戦象を行進させた。たちまち離宮は崩れ落ち、ギヤースッディーン・トゥグルクは圧死した。1325年のことである。


ムハンマド・ビン・トゥグルクに一時仕えた大旅行家イブン・バットゥータは彼をこう評した。

「この王ほど施しと流血がやみつきになっている人間もいない。王宮の門前には裕福になった貧者がいないときも、処罰を受ける人間がいないときもない」

彼は書家として名高く詩歌に通じ、科学や医学、そして神学に対する深い知識を持っていた。信仰に厳格だったが、しばしば異端として糾弾された哲学にも大いに関心を持ち、ヒンドゥーの聖者たちとも好んで語り合った。
性格は寛大だが非情、慈悲深いが残虐。そしてその行動は、良かれ悪しかれ己ひとりの独断に満ちていた。

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(イブン・バットゥータの旅行記全訳)


ムハンマド・ビン・トゥグルクはデリー・スルタン朝が既にインド亜大陸の大部分を制圧し、略奪遠征による財源調達が不可能となったことから、ホラーサーン地方への遠征を計画して六十万の軍隊を集めた。
六十万の軍隊が集まるとデリーの食糧事情が逼迫したので、彼は遷都を思い立った。直ちに宮廷をはるか1500キロの彼方、ヤーダヴァ朝の都であったデーオギリ(ダウラターバードと改名)に移し、デリーの全市民もこれに従うべきことを命じた。
折しも真夏のこととて、炎熱のさなかに行われた強制移住によって何万もの人々が死んだという。

加えて、集めた兵士たちに支払う貨幣が物理的な意味で足りなくなったので、青銅や真鍮の貨幣を大量に鋳造した。
当然ながら経済はアラーウッディーン・ハルジーの時代並みに大混乱し、六十万の軍隊は一向に動きが取れないまま約1年間で自然消滅したという。
一方遷都はといえば、ダウラターバードにいては北インドを統治できないことが判明したため二年後に沙汰やみとなり、再び何万もの人々が北への移住を強いられたのだった。
なお、ムハンマド・ビン・トゥグルクは別途中国遠征を計画したこともある。このときはヒマラヤ山脈を越えて中国に攻め込もうと強引に山岳地帯に分け入ったものの、進軍不可能となって撤退している。

トゥグルク朝の最大版図
(トゥグルク朝の最大版図)

ムハンマド・ビン・トゥグルクは決して愚者ではない。税制改革や農地改良に熱心に取り組み、運河や街道の整備も進めている。また、家柄ではなく才能を重視して人材を取り立て、ヒンドゥー教からの改宗者をも重用した。
ただ、どのような政策をとっても、何もかもを自分一人で決定して周囲の進言を一切聞き入れなかったのが仇となった。結局はあらゆる階層の人々がムハンマド・ビン・トゥグルクに不満を持ち、彼の治世が続くにつれて反乱が相次いだ。

1347年には南部に派遣されていたアラーウッディーン・ハサンという部将が独立し、バフマニー朝を建てた。
1356年には同じく南部でヒンドゥー教徒のハリハラとブッカの兄弟が反乱を起こし、ヴィジャヤナガル朝を建てた。
バフマニー朝は南インドで最初の本格的なイスラーム国家であり、やがてデカン高原西部の大半を制圧する。
また隣接するヒンドゥー国家ヴィジャヤナガル朝は、後に「ヴィジャヤナガル帝国」といわれるほどの大国となる。両者は南インドの覇権をめぐって果てしなく争いを続けることになる。

ムハンマド・ビン・トゥグルクが1351年に病死した後、北インドでもマールワ、ベンガル、ゴンドワナ、シンド、グジャラート、ジャウンプールなど地方政権が続々と誕生し、デリー・スルタン朝は分裂と弱体化を極めた。

――世界の主の領土はデリーからパーラムまで

これは14世紀末の戯れ歌である。世界の主とはデリーのスルタン、そしてパーラムとは現在デリー国際空港が位置する首都近郊の地名である。
中央アジアの大征服者ティムールが突如インド亜大陸に侵攻したのは、まさにそのような時代であった。

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(14世紀の南インド)


憤怒の被造物

「余は、神が自らの憤怒のなかで創った者、神の憤怒によって運命づけられ、絶対の権力を授けられた者である。神は余の心から一切の哀れみの念を追放し給うた」

(ティムール、マムルーク朝への書簡より)


「ヒンドゥスターンの王らは異教徒どもに対してあまりに弱腰である。よって余はアッラーのために彼らを征伐する。すなわちこれは聖戦である」

五年戦役から帰還したティムールがそう宣言したのは1397年のことだった。かねてインド進出を命じていた孫のピール・ムハンマドが苦戦していたこと、そして何よりデリーの莫大な財宝も遠征の理由となった。

翌1398年初頭、ティムールは9万8千の大軍を率いてサマルカンドを進発した。このたびも莫大な血と炎が大地にまき散らされることは疑うべくもない。
全軍を三つに分け、ティムール自身は手始めにヒンドゥークシュの山々を根城とする山岳民の殲滅に乗り出した。ティムールの鉄の意志に導かれ、大軍は標高数千メートル、氷雪に覆われた山々の上を徒歩や橇で進軍した。

秋にインダス川を渡る。ピール・ムハンマドを圧倒していたムルターンの敵軍はティムールの接近を知って逃げ散った。
パーニーパットでデリーのスルタンがかき集めた大軍勢が待ち受けていた。将兵は巨大な戦象の群れを目にして動揺を露わにした。
ティムールは抑留していた数千人のインド人捕虜たちを処刑し、占星術師が不運を予告すると激昂した。

星々の予兆が何だ! サーヒブ・キラーン(吉兆星の結合)が何だというのだ! 余の喜びも、余の悲しみも、余の幸福も、余の不幸も、すべて星とは何のかかわりもない! 余が信じるのは全知全能のアッラーのみ!

コーランが開かれ、文字を解さぬティムールは開いたページを従者に読み上げさせた。

――彼らに出会ったら、どこであろうと、見つけ次第これを殺せ。捕え、追い込み、伏兵を置いて待ち伏せよ

もはや反論する者はいなかった。

ティムールとトゥグルク朝の戦い
(ティムールとトゥグルク朝の戦い)

翌朝、デリーの軍勢5万とティムール軍の戦端が開かれた。ティムールはあらかじめ前線に長い濠を掘らせ、兵士たちに原始的な投擲弾を配布していた。
さらに、多くの水牛を集めて背中に枯れ枝の束を括り付け、それに火をつけて両翼から象軍に向かって突進させた。インドの象たちは大混乱し、敵味方の見境なく人間と馬を踏みつぶして無秩序に逃げまわった。
圧勝したティムールはデリーに入城してトゥグルク朝の玉座に座り、市民に安全を保障した。
だが、ここでもイスファハーンと同様に兵士と市民のトラブルが発生し、略奪と市街戦が始まった。ティムールはいつもの通り学者と職人を保護すると、残る数万人の人々を虐殺した。

この遠征によってティムールは再び膨大な戦利品をサマルカンドに持ち帰った。インドでは衰退を極めていたトゥグルク朝が完全に崩壊し、ティムール帝国に服属を誓うサイイド朝が成立することになる。

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(インド遠征の成功を祝して建設されたビービーハーヌム・モスク)

ティムールの鉄の魂は60歳を過ぎてなお休息を知らない。彼は大モンゴル帝国を再建すべく、生涯最後の大事業として、はるか中国への遠征を計画した。だが、すぐにそれを許さぬ事情が生じた。
トクタミシュが築いた西方諸国による「ティムール包囲網」はまだ生きていた。とくにバルカン半島からアナトリアに支配を広げるオスマン朝のバヤズィット1世がここのところ東部アナトリアへの攻勢を強めている。
おまけに、アゼルバイジャン総督に任命した三男ミーラーン・シャーが乱心状態に陥って側近たちを斬り殺しまくっているという。
あの軽躁な息子はむかしヘラートの王子を酒宴の席でゆえなく殺した前科もある。これでは一国を預けることなどできぬ。ティムールは自分の絢爛たる虐殺歴を棚に上げてそう考えた。

サマルカンド帰還後わずか数ヶ月でティムールはイラン高原に出陣した。「七年戦役」のはじまりである。
まずはアゼルバイジャンでミーラーン・シャーを更迭し、その側近を大量処刑して決着をつける。ミーラーン・シャーの側近たちは何にしても殺されるしかなかったわけで、不運と言わざるを得ない。
1400年、東アナトリアを経てティムールはシリアに南下した。包囲網を構成する二強のひとつ、エジプト・マムルーク朝との対決に向かったのだ。

インドで獲得した大量の戦象を先頭に立て、軍鼓の音を響かせながら南進するティムールの大軍勢。
シリア・エジプトの人々は「シャイターン(魔王)が襲来した」と恐れ惑い、第一次十字軍が来たときのように町や村を棄てて逃げ散った。果敢に抗戦したアレッポは数の暴力であっという間に陥落し、頭蓋骨の山が築かれた。
シリア北部を平定した大軍は古代ローマの街道を南へ進む。
12月、ティムールはダマスクス城外に全部隊を展開した。

7年戦役
(七年戦役)

ダマスクスにはマムルーク朝のスルタン、アブール・ファラジ率いる大軍が待ち受けていた。マムルーク朝はこの軍事力を背景に休戦を要請した。
覇王はこれを受け入れ、ダマスクス西側に布陣していた軍の主力を北東に移動させて撤退を開始した。それを見たエジプト軍は城門を開け放ってティムール軍に後方から襲い掛かった。
ところがその瞬間、撤退をはじめた筈のティムールの軍勢は即座に反転して完璧な迎撃態勢を示したのである。三方が原で若き徳川家康を迎撃した武田信玄のごとく、すべては覇王の手の内にあった。
短い激戦の末にエジプト軍は崩壊し、ティムールは再びダマスクスを包囲した。アブール・ファラジと近臣たちは夜陰に紛れて脱出し、本国エジプトへ逃げ去った。

騙し討ちに失敗したダマスクスの人々は何としても覇王の怒りを宥めるべく、ティムールが尊崇する学者たちを和平嘆願の使者として敵陣に送り込んだ。
そのなかに彼はいた。北アフリカに生まれ、不滅の大著『イバルの書』を著し、折しもダマスクスに滞在中であった大歴史家、イブン・ハルドゥーンである。

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(イブン・ハルドゥーンの『イバルの書』の序説部分)


イブン・ハルドゥーンは後年、回想録にこのときのことを書き記した。
彼の眼にティムールは厳しい支配者というよりも、熱心な歴史の愛好者として映った。ティムールはイブン・ハルドゥーンを親しく隣に座らせ、夜食を取りながら北アフリカの地理や文化について盛んに尋ねた。
そして食事が終わるころ、イブン・ハルドゥーンは切り出した。

「偉大なる陛下にアッラーの加護あれ。わたくしはすでに何十年もの間、陛下との出会いをお待ちしておりました」
「それは何故」
「陛下は世界の支配者であり、世の始まりから今日に至るまで陛下のような支配者はおりませんでした。人類の大部分はアラブとテュルクからなり、陛下は今やテュルクの全種族を支配しておられます」
「ふむ」
「キスラー(ホスロー)もカイザリ(カエサル)も、イスカンダル(アレクサンドロス)もネブカドネザルもこれに比肩することはありませぬ。キスラーはペルシアの王、カイザリはルームの王でしたが、テュルクはこれら民族よりもはるかに膨大で強力なのですから」

ティムールは苦笑して応えた。

「余はひとりのアミールに過ぎぬ。汝は余を陛下と申すが、真の王は、ほれ、そちらにおられる御方、チンギス・カンの血を引かれる御方だ」

それから二人はネブカドネザルがいかなる民族に属するのかを議論し、刻限に別れたという。

イブン・ハルドゥーンは後に記した。
辺境の地で生まれる征服王朝は質素な生活と不毛な環境に耐え、同胞意識と激しい情熱を備えた集団によって建設される。
しかしおよそ三世代もすれば、都市の奢侈に慣れた後継者たちは堕落して、次の征服者に滅ぼされるのだと。
優れた歴史家は永遠の相の下で諸勢力の興亡を冷徹に観察する。しかし彼がこのときティムールとその子孫の運命についてどのような予見をしたのか、これ以上のことは何も伝えられていない。

ティムール帝国支配層の研究

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(『成立史の研究』と並ぶティムール帝国二大研究書のひとつ)


ティムールはダマスクス市民と守備隊の生命を許したが、城塞の破壊と財貨の略奪は通例通りに行なった。この美しい都は激しい炎のなかで燃えていき、翌年のシリアは大飢饉に襲われた。
まさしく「シャイターン(魔王)」のごとくシリアを荒らしたティムールはバグダードに転進した。ここではエジプトから舞い戻ったジャライル朝のスルタン・アフメドが支配を回復していた。

ティムール襲来を聞いたスルタン・アフメドは前回同様に遁走した。残された守備隊は時間を稼ぐため、「ティムールの部下には降伏しない、ティムール自身になら降伏する」と宣言した。
北部イラークの諸城を攻撃していたティムールはすぐにバグダードの城門前に姿を現した。まさか本当に本人が来ると思わなかった守備隊は、ティムールが城門前にいることを市民に秘匿した。
そこでティムールは戦いと虐殺によって自分の存在を全市民に知らせることにした。バグダードは程なく陥落し、また頭蓋骨の山が築かれた。

アンカラの会戦
(アンカラの戦い)

最後にティムールはアナトリアに兵を進め、黒羊朝のカラ・ユースフを匿ってティムールの属領エルジンジャンを奪ったオスマン朝のバヤズィット1世に決戦を挑んだ。
オスマン朝第4代スルタン、バヤズィット1世ユルデュルム(雷光王)
ここ十数年のあいだに破竹の勢いで四方に勢力を拡大し、ブルガリアを制圧し、セルビアを征服し、ニコポリスで欧州諸侯を撃破し、アナトリア諸侯国を次々に併呑してきた風雲児である。

両雄決戦の地は中部アナトリアのアンカラ
ティムールは常のごとく中央と両翼に前衛後衛の各二部隊、そして後方の予備隊という七部隊で布陣した。
両翼前衛が敵を捕捉し、両翼後衛が敵の背後を囲み、予備隊が敵に蓋をする。ティムールが長年の経験で磨き上げた不敗の戦術である。
15世紀初頭のユーラシアを代表する名将同士の戦いは一進一退の激戦となった。双方ともに次々に予備隊を繰り出し、戦況はわずか数時間のうちに目まぐるしく移り変わった。
ティムールの軍勢は巨大な戦象の上から煮えたぎる油を敵兵に浴びせ、「炎の槍」の改良版である小型大砲を乱射した。
オスマン軍では常勝不敗を誇るイェニチェリ歩兵軍団が一糸乱れぬ戦いを続け、漆黒の甲冑に身を固めたセルビアの騎士たちはティムールが感嘆するほどの勇戦を見せた。

だが正午を過ぎる頃、ティムールが最後に投入した予備隊がオスマン軍の中央を分断することに成功し、勝敗が決した。
オスマン軍は総崩れとなり、士官たちは王家の血脈を残すために、スルタンの王子たちとともに敗走していった。
バヤズィットは少数のイェニチェリたちとともに夕方まで奮戦し、イェニチェリが全滅すると馬に乗って逃走を図った。そしてついに捕えられた。

「――世界は二人の王に値せぬ」

ティムールがそんな言葉を残したのは、この時のことだろうか。

バヤズィットを見舞うティムール
(バヤズィットを見舞うティムール)


オスマン朝の脅威から一時的に解放された欧州諸国は、この「タメルラン」なる人物の実像をほとんど理解しないまま神に感謝し、フランスのパリでは想像上のティムールの銅像が建てられたという。

捕虜となったバヤズィットは厚遇されたが、捕囚の辱めに悶々としたまま程なく病死した。ティムールはアナトリア西部に進み、地中海の沿岸までを制圧して兵を返した。
もはや包囲網は消滅した。この上は積年の宿願、中国遠征を果たさねば。残された人生はいくばくも無いのだろうから。
1404年8月、ティムールはサマルカンドに凱旋した。彼は68歳になっていた。

遙かなるサマルカンド

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(最晩年のティムールの宮廷を訪れたカスティーリャ王国の使節の記録)



夢果てて後

中華の地では乞食僧から身を起こした朱元璋(しゅげんしょう; 太祖洪武帝)が1368年に「大明帝国」を樹立し、クビライが築いたカンバリク(大都、現在の北京)からモンゴル帝国大カアン、トゴン・テムルを追って中華帝国復活を宣言していた。

しばらくのあいだ大元ウルスはドロンノール(上都)、あるいは旧都カラコルムを拠点として長城以北を抑え、東は朝鮮半島から西はチベット・雲南に及ぶ広大な地域に威令を及ぼしていた。
だが明は繰り返し「北伐軍」を派遣し、長きにわたる中華世界での生活に慣れたモンゴル人の多くは父祖たちが生きた草原での暮らしに耐え切れず、相次いで投降した。
1387年、遼東で二十万騎が明に投降。慌てて対処に赴いた大カアンのトグス・テムルは明の将軍・藍玉(らんぎょく)に大敗し、わずか16騎で逃走した。
その途上、クビライの弟アリク・ブケの末裔であるイェスデルという人物が大カアンを襲撃した。

「我が遠き祖の復讐と思え」

クビライ王朝はここに断絶した。


ところが今度は明で変事が起こる。初代朱元璋の死後、第二代皇帝となった朱允炆(しゅいんぶん; 建文帝)と、その叔父である燕王・朱棣(しゅてい)のあいだで「靖難の変」と呼ばれる内戦が勃発したのだ。1399年のことである。
朱棣が甥を打倒して第三代、永楽帝として即位したのは1402年。その政権はまだ決して盤石ではない。

ティムールの征服域
(ティムール晩年の支配圏)

ティムールがサマルカンドに帰還した頃、東方からオルジェイ・テムルという貴人が亡命してきた。彼はイェスデルの孫で、紛れもなく大カアンの血脈に連なっている。
ティムールはオルジェイ・テムルを擁立して東征し、モンゴル高原と中華世界を再び統合し、大モンゴル帝国を再建することを神に誓った。
それを果たせばティムールの名は人類の歴史が続く限り、最も偉大な征服者として記憶され続けることだろう。

しかし、ティムールの老体はもはやその使命に耐えることができなかった。
1405年初頭、二十万騎を率いてサマルカンドを出陣したティムールは激しい吹雪に行く手を阻まれた。これまで経験したことがないほどの寒さだった。
実はそれは錯覚ではない。モンゴル帝国が全盛に達した西暦1260年前後を境に世界の平均気温は下降に転じ、「中世温暖期」から「近世小氷期」へと向かいつつあった。年ごとに寒さが厳しくなるのは当然だった。

それでもティムールは進軍を命じた。無数の兵士たちが凍傷になり、意識を失って路傍に倒れていった。ティムールは寒さを忘れるためにひたすら酒を飲んだ。その末にティムール自身も意識を失った。
そして2月18日、シル川南岸のオトラルで稀代の覇王は、ついにその生涯を終える。享年69歳。
二世紀近く前、モンゴル帝国による世界征服の発端となったオトラルがティムール終焉の地となったのは、果たして偶然なのだろうか。


ティムールは早逝した長子ジャハーンギールの子、ムハンマド・スルタンを帝国の後継者としていた。
だが、ムハンマド・スルタンは七年戦役のさなか、1403年3月に29歳の若さで戦死した。
己の希望の全てを託し、全てを授けた後継者が死んだ……。そのとき、重臣たちはありうべからざる光景を見た。
ティムールは玉座から立ち上がろうとして果たせず、倒れ落ち、着ている物を引き裂いて低い呻き声を漏らした。床に顔を打ち付けたティムールの口から嗚咽が、そして弱々しい泣き声が漏れ出した。
稀代の征服者はこの瞬間、愛する孫を喪ったひとりの老人となっていた。

ハリール・スルタン
(ハリール・スルタン)

そういうわけでティムールは急遽、ムハンマド・スルタンの弟のピール・ムハンマドを後継者に指名し直した。
とはいえインド進出の使命に失敗したこの頼りない孫には、これまで何の帝王学も授けてきてはおらず、広大な領地と巨大な軍隊を持つ一族を統御していける才があるかは疑わしい。
ティムールの不安はすぐに現実となった。アフガニスタンのカンダハルにいたピール・ムハンマドが駆け付けるより早く、東征軍右翼を率いていたミーラーン・シャーの子、ハリール・スルタンがサマルカンドを奪い取ったのだ。
4年後に叔父のシャー・ルフに追い払われるまで、彼はこの都に居座り続ける。

インドやイラン高原の征服地ではティムールに追われた旧支配者たちが続々と復権した。スルタン・アフメドもカラ・ムハンマドも、ティムールの死を聞いた途端に帰国して旧臣たちに迎え入れられた。
マー・ワラー・アンナフルからホラーサーンとアフガニスタンにかけての一帯まで急激に縮小した「ティムール帝国」では、ティムールの子や孫たちが血で血を洗う争いを何年も続けた。

どうにかこうにかこの一帯を再統合したのはティムールの末子シャー・ルフである。
だが、シャー・ルフの子で天文学者としても名高いウルグ・ベクが1449年に殺害されるとティムール帝国は再び内乱に陥り、やがてサマルカンドとヘラートの二つの政権に分裂していく。

ウルグ・ベクの天文台
(ウルグ・ベクの天文台)

ティムールの東方遠征軍が崩壊して梯子を外されたオルジェイ・テムルは、それでも単独で東進を続けて何とかモンゴル高原に帰還した。
だが、彼は間もなく西モンゴリアで勃興したオイラト部族連合と明帝国に挟撃される形で没落し、モンゴリアは際限なき争いのなかに沈んでいく。

ティムールがついに抑えきれなかったモグーリスターン地方では、この後もまだ混乱が続く。

そしてキプチャク平原ではテレク河畔の戦いの後、リトアニアの支援を受けたトクタミシュが三度目の勢力挽回を図った。
彼はティムール生前の1397年にリトアニアの援軍を受け、例の「炎の槍」も装備してクリミア半島に入った。ここでトクタミシュはティムールが残置したエディゲとテムル・クトルグを破るが、翌年に打ち破られてまたリトアニアへ逃走した。
結局1406年、シベリアの森で追い詰められたトクタミシュは無名の兵士に殺されて波乱に満ちた生涯を終えた。ティムールの死に遅れること一年であった。

ティムールとトクタミシュ亡きあとのキプチャク平原の覇者となったのはエディゲだった。
チンギス家の血を引かないエディゲは長年の同盟者テムル・クトルグの一族を名目的なハンに擁立し、ヴォルガ流域を統一してノガイ・オルダと呼ばれる政権を築くが、キプチャク全域を再統合することまではできなかった。
エディゲは1419年にトクタミシュの遺児に殺害されるが、今もその名はヴォルガ流域に暮らすタタール人たちの叙事詩のなかで英雄として語り伝えられている。

エディゲ
(エディゲ)

なお、トクタミシュの別の遺児は1410年に中欧北部でポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団とのあいだに勃発したタンネンベルク(グルンヴァルト)の戦いに参戦。このとき同じ戦場にはヤン・ジシュカという名の傭兵がいた。
約20年後、ヤン・ジシュカはチェコのフス戦争の指導者となり、小銃と荷馬車を用いた集団戦術で神聖ローマ帝国の騎士たちを打ち破る。
その愛弟子であった傭兵隊長ヤン・イスクラ(ギシュクラ・ヤーノシュ)は後にハンガリー王に仕え、極度に火力を高めた「黒衛軍」と呼ばれる精鋭部隊を率いて、ティムールによる損害から立ち直ったオスマン朝を幾度も翻弄する。
オスマン朝はその戦訓から大量の火薬兵器を導入し、1453年に巨砲を駆使してビザンツ帝国を征服し、チャルディラーンの会戦でサファヴィー朝ペルシアを、マルジュ・ダービクの会戦でマムルーク朝エジプトを圧倒して東地中海の覇者となっていく。
そしてまた、師と仰いだサファヴィー朝の建国者シャー・イスマーイールがオスマン朝の火砲に打倒されたのを見たティムール五世の孫バーブルも、火薬兵器を大量に導入してインド亜大陸に兵を進めるのだ。
無敵の騎馬軍団を率いたティムールが自軍を補強するために利用した「炎の槍」は、その後数十年のうちに急速に発達し、いずれ遊牧騎馬帝国の時代そのものに終焉をもたらすこととなろう。
とはいえ、差し当たってそれはまだ先の話。


エディゲの手に余った旧ジョチ・ウルスの他の地域では、ジョチの数多い子孫たちによって、さまざまな政権が生まれた。
クリミア半島では1441年にハージー・ギレイがクリミア・ハン国を建国。
同じ頃、ノガイ・オルダに追われたジョチの末裔ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流にカザン・ハン国を築き、その北東ではケレイト族のタイ・ブカがシビル・ハン国を建国した。
シビル・ハン国はウラル山脈の東、チンギ・トゥラを拠点にオビ川中流を支配し、極北に散在する狩猟民族たちを極めて緩やかに従属させた。
シビル・ハン国の影響下でオビ川流域にコミやコンダ、オブドルなど狩猟民の小王国群が相次いで誕生し、イスラームの教えは北極海の岸辺までゆっくりと浸透していった。

ウグラ河畔の対峙
(ウグラ河畔の対峙)

そんなジョチ家末裔たちの争いのなかで、西北からもう一つの勢力が登場する。
長くジョチ・ウルスに抑え込まれ、一時は独立を果たすもトクタミシュによって再び服従を強いられたモスクワ大公国である。
14世紀から15世紀にかけてモスクワは近隣のルーシ諸公国を次々に併呑し、ジョチ・ウルス崩壊後の西北ユーラシアにおける列強のひとつとして台頭する。
1480年、モスクワ大公イヴァン3世(大帝)はウグラ河畔でエディゲの子孫、アフマト・ハンと対峙した。
何週間にもわたるにらみ合いの末、アフマト・ハンの率いるキプチャク軍――ルーシの人々の呼び名では「タタール」は為すところなく撤退していった。
この「ウグラ河畔の対峙」以降、モスクワはそれまで名目的に続けてきたノガイ・オルダへの貢納を停止した。
ルーシはここに完全な独立を達成し、ジョチ・ウルス旧領を分割した多くの国々を次々に飲み込んでいく。
やがてイヴァン3世の孫、イヴァン4世(雷帝)はカザンを征服し、「チャガン・ハーン(白きハーン)」と恐れられることになる。北方の巨人、ロシア帝国の目覚めは遠くない。

グーリ・アミール廟内部
(黒いのがティムールの棺)

そして最後に。

ティムールの死から536年後、1941年6月20日にソビエト科学アカデミーのミハイル・ゲラシモフらがサマルカンドのグリ・アミール廟に葬られたティムールの棺を掘り起こした。
廟の中央に安置される黒軟玉の模棺の真下、地下数十メートルにこの大征服者の真の棺がある。
覇王の棺にはこう記されていた。

――余が深き眠りより覚めるとき、世界は大いなる災厄に見舞われるであろう

ゲラシモフは敢然と棺の蓋を取り外し、ついに稀代の征服者の頭蓋骨をその手に取った。
アドルフ・ヒトラー率いるドイツ第三帝国が突如ソビエト連邦に侵攻、いわゆる「バルバロッサ作戦」によって第二次世界大戦におけるもっとも壮大かつ悲惨な「独ソ戦」が始まったのは、その二日後のことだった。

ТАМЕРЛАН АРХИТЕКТОР СТЕПЕЙ! Полчища Великого Эмира Тимура Тамерлана!
(10分あたりで禁断の棺が……)



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(ティムールの王権や儀礼に重点を置いている)





何年も前にサマルカンドで閉館寸前にグリ・アミール廟を見に行ったとき、黒い棺の方は管理人さんにこっそり素手で触らせてもらいました。
「で、地下の棺に行く階段とかないの?」と訊いたら、管理人さんは真っ青になって「ノーノー!」と連呼しました。

おわり