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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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サミットと世界史

周知のように5月27日、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問しました。

感動しました。

これで日本の長い戦後に、ひとつの終止符が打たれたのかもしれません。


しかしそれはさておき、ここでは広島の陰に隠れた感のある伊勢志摩サミットを機に、「首脳サミット」というものの世界史的な位置づけについて思うことを書いてみようと思います。

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(イッソスの戦いでダレイオス3世の眼前に迫るアレクサンドロス大王)

現在のG7(G8)サミットは、1975年にフランスの大統領ジスカールデスタンが、オイルショックへの対処などを協議するため、ランブイエに英米仏独日伊の首脳を集めて会議を開いたことを起源とします。

それ以前にも各国の指導者たちが直接対面して、さまざまな問題について話し合うことは稀ではありませんでした。
たとえば第二次世界大戦中に連合国の最高指導者たちが大西洋上やヤルタやテヘラン、カサブランカやポツダムで幾度も会談を行ったことは有名です。


しかし古代や中世には、一国の君主同士が直接対面するなど、通常ではほとんど考えられない事態だったと思われます。
第三次十字軍の時にアッカに上陸したリチャード獅子心王がアイユーブ朝のサラディンに会見を求めたところ、サラディンは「王と王とは顔を合わせない」としてこれを一蹴したと伝えられます。

もちろん近代以前でも君主と君主が対面する機会がまったくなかったわけではないでしょう。
漢の宣帝と呼韓邪単于が甘泉宮で会見したり、トゥグリル・ベクがアッバース朝のカリフに拝跪したように。
しかしそうした事態は両者のあいだに大きな力の差があるときに、一方が一方の庇護を求めたり、利用を試みたりするために生じたものであり、現在のように国家の指導者が日常的に対面しあうということはまずなかったわけです。

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(ムガル皇帝ジャハーンギールとサファヴィー朝のアッバース大帝が抱擁しあう)

ただ、例外はヨーロッパです。

狭い地域にいくつもの中小国家がひしめき、複雑な血縁と利害関係によって結び合わされていたヨーロッパでは、中世から諸国の君主たちがしばしば対面をしていたようです。
サラディンと対面できなかったリチャード獅子心王もライバルのフランス王フィリップ尊厳王とは、生涯を通じて幾度も顔を合わせ、時に同盟し、時に敵対しています。
そもそも父と対立したリチャードを支援し、彼を騎士叙任してのは他ならぬフィリップです。

そんな欧州の諸王が史上初めて勢揃いしたのは、おそらくナポレオン敗走後の1814年に開催されたウィーン会議でしょう。
ここには主宰者たるオーストリア皇帝フランツ1世やロシア皇帝アレクサンドル1世など、欧州各地の錚々たる君侯貴顕が集い、数か月間にわたって宴会と権謀術策に明け暮れたのです。
その流れの中で誕生したのが神聖同盟、そして「ウィーン体制」。
19世紀後半に入れば、英国のヴィクトリア女王を中心に欧州諸王家のほとんどは近親関係となり、日常的に諸王が顔を合わせて社交を繰り広げています。

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(ヴィクトリア女王の訪仏)


しかし同じ時期であっても、欧州以外では君主と君主の距離は遠いままでした。

16世紀末、豊臣政権による朝鮮半島侵攻を受けて李朝朝鮮の宣祖は明の万暦帝に援軍を乞い求めますが、彼ら二人が直接対面するなど思いもよらぬことだったでしょう。
ルイ14世と清の乾隆帝が顔を合わせることもあり得なかったはず。
それが今では、習近平とバラク・オバマがわずか1メートルの距離で会話をしたとしても何の不思議もない。


G7サミットをはじめとする様々な首脳会議や定期会合は、ニュースのなかでは当たり前のように報道されていますが、「世界の一体化」や「グローバリゼーション」というものをこれほど象徴する光景は他にないと思います。

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ガウタマ・シッダールタとチャンドラグプタの世代差について

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むかし古代インド史について調べていた時に気付いたんですが、仏教の開祖ガウタマ・シッダールタ(いわゆる釈迦牟尼)と、古代インド最初の統一王朝マウリヤ朝を築いたチャンドラグプタ・マウリヤって、あまり活動年代が離れていない可能性があるんですね。

チャンドラグプタ・マウリヤという人物は日本ではあまり知られていないですが、客観的に見れば、彼は世界の歴史上でももっとも重要な人物のひとりです。
インド亜大陸のほぼ全域を統一し、南アジア文明圏における最初の「世界帝国」となったマウリヤ朝の建国者。
すなわち彼は、西南アジアにおけるアケメネス朝のキュロス2世とダレイオス1世、地中海世界におけるユリウス・カエサルとアウグストゥス、そして中華世界における始皇帝と劉邦に相当する立ち位置の人物です。

そればかりでなく、彼が築いたマウリヤ朝という「帝国」は、当時の世界において、おそらくもっとも膨大な人口を支配し、もっとも豊かな富を手にして、もっとも組織化された官僚制度と常備軍を擁していました。
まあここで、「要出典」とか突っ込まれると長くなって面倒なんですけどね(←

さらにさらに、個人としての彼も大変な傑物。
名もなき庶民として生まれながら「古代インドのマキアヴェリ」と謳われる天才策謀家のカウティリヤに才能を見出され、折しも西部インドに侵攻してきたマケドニアのアレクサンドロス大王と出会い、やがて兵を起こして北部インド最強の大国、マガダ王国を征服する。
映画や小説の主人公にすれば絶対に面白いはず。

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(マウリヤ朝)


さてさて本題に入ります。

ガウタマ・シッダールタの生没年については無数の説が唱えられていますが、古来有力なのは以下の二説です。

南伝仏教の記録では紀元前624年~紀元前544年。
北伝仏教の記録では紀元前566年~紀元前486年。

ところが、日本が世界に誇るインド哲学者、中村元はセイロンの仏伝をもとに彼の生没年を徹底的に再検討した結果、「紀元前463年~紀元前383年」という結論を叩き出しました。

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(ガウタマ・シッダールタ)


チャンドラグプタ・マウリヤの生没年についても諸説ありますが、いちおう紀元前298年頃に死んだ可能性が高いとされています。

チャンドラグプタはありがたいことに、歴史記録が極めていい加減なインドの歴史上で初めて、まともな歴史記録を保持している外部文明と本格的に接触した人物です。

 ・アレクサンドロス大王のインド侵入直後に兵を挙げる(紀元前325年頃)。
 ・アレクサンドロスの遺領を継いだセレウコス1世と外交交渉を行なう(紀元前305年頃)。

さらに複数のギリシアの記録は、若き日のチャンドラグプタがアレクサンドロス大王自身を目撃した、あるいは直に言葉を交わしたとすら伝えています。

「サンドロコットス(チャンドラグプタ)はその頃まだ少年で、アレクサンドロスの姿を見ている。
その後度々、当時の王は邪悪で生まれも賤しかったために憎まれ軽んぜられていたから、アレクサンドロスがこの国を取るのは何でもなかったのだと言っていたそうである」

(プルタルコス)


「その地の自由の張本人はサンドロコットス(チャンドラグプタ)であったが、しかし、勝利の後、彼は自由の名目を隷属へと転じてしまった。
というのは、王権を握ってから彼は、自分が外国の支配から解放してやった民衆を、自ら新たに隷従させて圧迫したからである。
この人は卑賤な生まれであったが、神意の権威によって王の権力へと駆り立てられた。
彼は無礼な振る舞いでナンドルス王(アレクサンドロス?)を怒らせ、同王の命令で殺されるところであったが、足の速さで助かった。
その逃走の疲れから睡魔に捕えられて横になった時、大きな図体のライオンが眠っている彼に近づき、流れる汗を舌で拭ってやり、目をさました彼を後に置いて尻尾を振りながら去った。
この前兆によって初めて彼は王権を握る希望へと駆り立てられ、盗賊を集めて、インド人に、王位にある者を替えるよう嗾けた」

(ユスティヌス)



なんと興味深く、なんと胡散臭い逸話であることか。
これをある程度信用して、仮にアレクサンドロスのインド侵入当時にチャンドラグプタが20代前半であったとすれば、彼は紀元前350年頃に生まれたことになります。

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(チャンドラグプタ・マウリヤ)

要するに。
仮に中村元によるガウタマ・シッダールタの死没、紀元前383年説が正しいとすれば、チャンドラグプタ・マウリヤはガウタマ・シッダールタが死んでからわずか30年そこそこ後に生まれたことになり、かれの親の世代は晩年のガウタマ・シッダールタと同じ時代を生きたことになるわけです。


さらに加えて、チャンドラグプタの出生にまつわる様々な伝説のひとつに、彼がヒマラヤ地方の「マウリヤ」という小さな森林部族の出身であったというものがあります。
しかるにガウタマ・シッダールタは生涯最後の年、ガンジス流域を去って北へ向かい、マッラ国のクシナガラ付近で死去したと伝えられます。
「マッラ」……うん、「マウリヤ」に響きも似ているし、場所もヒマラヤ山脈に近い。
これはいよいよ、名もなき庶民であったチャンドラグプタ・マウリヤの親やその周囲の人物が、最晩年のガウタマ・シッダールタを目撃している可能性が高まってきたではないですか。


まあそんな風に妄想に妄想を重ね、仮定に仮定を積み上げた結果、何年も前にこんな断章を書き散らしていたのをたまたま再発見した次第。



「わたしはね……たぶん」

ムラーはふと、夢見るような口調で囁いた。

「たぶん、シッダールタ様にお会いしたことがあるの。――わたしがまだ本当に生まれたばかりだった頃よ、そのとき、わたしはヴァイシャーリーというところにいた。雨季になっていた。そこを年老いたシッダールタ様がお通りになった……それは実はシッダールタ様の最後の旅でした。そう聞いているわ。ヴァイシャーリーから北へ向かわれて、クシナーラーでお亡くなりになったのね。その直前に、わたしは生まれたのよ」

彼女は微笑む。

「とは言ってももちろんわたしはそれを覚えていない。みんなあとから大人たちに聞いたことよ。だけど実は……かすかにね、すごくかすかに覚えていることがある。いいえ、分からない。それがシッダールタ様だったのか、全然関係ない方なのか。でも、小さい頃のことはほとんど忘れてしまったのに、これだけはすごくはっきり覚えている」

ひそやかに雨が降るなか、どこか遠くを見るような眼差しをして、ムラーは語り続けた。

「わたしはたぶん、ゆりかごの中で薄眼を開けていたんだと思う。雨上がりの夕方、涼しい風が吹いていた。とても大きなチャーパーラの木の下だった。土の道にいくつも水たまりが出来ていた。そこを、すごく年を取った、疲れ果てた修行者の方がゆっくりと歩いてらっしゃった。大きなお弟子さんが、後ろから肩を支えていたわ。
でもね、その修行者の方は木の下にやってくると、わたしのそばに腰をおろして、ふっとため息をつかれた。そして優しい静かな微笑みを浮かべられて、お弟子さんにおっしゃったの、――『ああ、世界は美しい。人間の生命は甘美なものだ』ってね。
――それだけしか覚えていない。でも、わたしはそのひとがシッダールタ様だったんだって、今でも信じている。どんな辛いときも、その言葉を胸のなかで思い返すと、なんだかほっとするのよ」



自分に小説を書く才能がないことは知っているので、誰か他の人にチャンドラグプタを主役にした小説を書いてほしいもんです。
とくに読みたいのは、少年チャンドラグプタが異邦の地からきた侵略者、アレクサンドロス大王に出会う場面。
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