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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史20 安寧と暗流

大秦とセレス

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(「大秦とセレス」の時代)

この世界の歴史には不思議な同期性があるらしい。
近代以前、ユーラシア大陸の東と西はほとんど別の世界に等しかったにも関わらず、そのどちらでもほぼ同時期に巨大な帝国が誕生し、ほぼ同時期に帝国が崩壊して小国割拠の時代が到来した。
その循環は三度繰り返された。

・紀元前2世紀から紀元後3世紀にかけての秦漢帝国とローマ帝国
 ※後期共和制ローマも「事実上の帝国」と見なす。

・6世紀から9世紀にかけての隋唐帝国とイスラーム帝国
 ※華北を統合した北魏から唐末まで、西南アジアの覇権を握った正統カリフ時代からアッバース朝中期までを一繋がりとして把握する。

・15世紀から19世紀にかけての明清帝国とオスマン帝国


大雑把な見方ではあるが、最初の周期と前後してマウリヤ朝やアルサケス朝パルティアが登場したように、第三周期と前後してサファヴィー朝やムガル帝国が並立したように、「統一の時代」と「分裂の時代」というものは存在する。
別の見方をすれば、「統一の時代」とは南の定住民族が力を強めた時代であり、「分裂の時代」とは北の遊牧民族が力を強めた時代ともいえようか。
すると分裂時代の最たるものは、遊牧民の力が絶頂に達してそれ自体が巨大な「統一」を現出したモンゴル帝国の時代だろうか。
いや、第三周期の後に続く「近現代」と呼ばれる時代こそが、ユーラシア大陸の外縁から来た「西洋諸国」という名の「海の蛮夷」によって、「帝国」が徹底的に踏み躙られた時代であるのかも知れぬ。

閑話休題

そもそも「帝国」とは何か。

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(一昔前に歴史学界隈でこういう議論が流行ったんですよね)


歴史上で「帝国」と呼ばれた国々、とりわけここで羅列した世界の歴史を代表する諸帝国の実態からその性格を帰納すれば、こんな表現ができるのではないだろうか。

『帝国』とは、その時代の軍事・経済・政治・技術・文化等の制約のなかで、拡大可能な限界まで拡大した国家である

その結果、『帝国』とはその内部(とりわけ中心部)に暮らす人々の大部分によって、人間世界そのものとほとんど同義の存在と見なされる

『帝国』の主権者、つまり皇帝は人間世界の全てを支配する者として、少なくとも建前上は神に近い存在と見なされる


これらの特徴は時代が古くなり、人々の地理的認識の範囲が狭くなれば狭くなるほど明瞭となる。漢やローマのほとんどの臣民にとって、自分たちが生きる帝国はまさに「世界帝国」そのものであっただろう。

「世界帝国」は人類の文明に巨大な影響を残した。
「世界帝国」の支配者たちは多様な臣民や属国を統合するために、万人を納得させる「支配の正統性」を主張しなければならなかった。
たとえば、漢帝国は儒教とそれに基づく数々の国家祭祀を。ローマ帝国は万民法、後にはキリスト教を。
これらの宗教・思想・価値体系は強大な「世界帝国」の庇護を受けつつ、ますます洗練されていく。
「世界帝国」を取り巻く属国や「蛮夷」と見なされた集団も、それらに対して強い反発とともに抑えがたい憧憬を抱いた。
当の「世界帝国」が滅び去った後も、「世界帝国」の時代に磨き上げられた文化遺産は崇拝され続け、「文明」の規範とされ続ける。

宗教だけではない。文学も芸術も建築も、あるいは法や政治制度や軍制も。それをそのまま受け継ぐかどうかはともあれ、立ち返るべき規範は常に「世界帝国」の遺産なのである。
帝国崩壊後の乱世を生きる知識人たちは、かつての「世界帝国」を黄金時代として追憶し、その時代から伝えられた文化を「古典」として伝承していく。

偉大なる秦漢帝国とローマ帝国は、その後のユーラシア諸文明がいかなる姿を帯びるかを運命づけた。いわゆる古典古代(Classical Antiquity)である。

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(こういう議論を突き詰めていくと比較文明論の世界へ)


東で大漢帝国が繁栄を謳歌する頃、西ではローマ帝国が栄光を誇っている。
中間にはクシャーナ朝(貴霜王朝)アルサケス朝パルティア(安息国)といった大国も存在するものの、いずれも規模と安定性において漢とローマには及ばない。

ローマはイタリア半島の一隅に暮らすラティウム人の小王国に起源を持ち、中華世界で前漢帝国が生まれる頃に北アフリカのカルタゴ共和国を打ち破って西地中海の覇者となった。
当時のローマは徹底的な軍国主義と国民皆兵を国是とし、いかなる敗北に直面しても戦うことをやめなかった。
イリュリアを制し、マケドニアを破り、ギリシアを征服し、セレウコス朝を滅ぼし、ポントスを滅ぼし、ガリアとブリタニアを制圧し、そしてエジプトを征服。
前漢帝国が終わろうとする頃、とうの昔に事実上の「帝国」となっていたローマ共和国の最高権力者オクタウィアヌスは終身独裁権を確立し、「尊厳者(アウグストゥス)」という称号を帯びる。
後世、これをもって「ローマ帝国」の成立とする。紀元前27年のことであった。

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(ローマ帝国の首都ローマの中心、フォルム・ロマーヌムの遺跡)

厳密な数値は求むべくもないが、漢帝国とローマ帝国はいずれも最大版図がおよそ650万平方キロメートル、全盛期の人口はおよそ6000万人とされている。
両国は国境を接したことも戦場で合い見えたこともない。
当時、人間にとってこの世界は今よりはるかに広かった。ユーラシア大陸を横断するには何年もの歳月を要した。漢はローマをほとんど知らず、ローマも漢をほとんど知らなかった。
匈奴やクシャーナ朝やパルティアは両方を知っていたのかもしれないし、あるいは知らなかったのかもしれない。それは確かな記録がないので何とも言えない。

とはいえ、接触が絶無だったわけではない。
後漢帝国は光武帝の没後に西南への拡大を進め、紀元69年に瀾滄江(らんそうこう; メコン川)を越えて、現在の雲南西部からビルマ東部に「永昌郡」を設置した。
これを機に漢とビルマ以西の諸勢力との接触がはじまる。そして紀元120年、イラワジ川下流域にあった撣(せん)国の王が「海西の幻人」を献上した。
「海西」がベンガル湾の西側とすれば、これはインドを指していることになる。撣王・葉由調はインドの行者を洛陽に連れて来たのだろうか。だが一方で、海西は大秦国(だいしんこく)の別名としても知られている。

大秦国。
漢は極西の未知なる帝国をそう呼んでいた。

紀元97年、西域都護・班超(はんちょう)は副官・甘英(かんえい)に西方探索を命じた。
甘英は安息国(アルサケス朝パルティア王国)を横断し、条支(シリア)に到達し、大海(地中海)の彼方に「大秦」という未知の大国があることを伝え聞いて帰還した。

紀元166年は交州日南郡に「大秦国王安敦」の使節が到来する。同時期、ローマ帝国皇帝はマルクス・アウレリウス・アントニヌス。「安敦」とは「アントニヌス」を音写したものかもしれない。


ローマも世界の東側に知られざる大国が存在することを察知していた。彼らはその国を「セレス」、あるいは「シナエ」と呼んだ。セレスは「絹の国」を意味し、シナエは「秦」の訛音であろう。
「大秦」と「セレス」は、この時代の世界の二つの側に住む人々にとって夢の中の夢であり、伝説の中の伝説であった。
帝国に生きるほとんどの人々は、そんな「もう一つの世界」の存在など知ることもなかったであろう。たまさかにそれを伝え聞いた知識人や商人にとっても、遥か彼方の「もう一つの世界」の実態は謎に包まれていた。

「この国を越えたはるか北方に、海岸が外方に向かって終わるところにシィナという地方があって、その内地にシィナイという非常に大きな都市がある。そこから原料、あるいは紡がれた、また立派に織られた絹が産出される」
(『エリュトゥラー海案内記』より)

「大秦国、一名に犁鞬。海西に在るを以て亦た海西国と云う。地は方数千里、四百余城有り。小国の役属せる者は数十。石を以て城郭と為し、邮亭を列ね置く。
……三十六将を置き、皆な国事を会議す。其王は常人の有つ无くして、皆な賢者を簡び立たしむ。……其の人民は皆な長大平正にして中国に類する有り。故に之を大秦と謂う」
(『後漢書』西域伝より)


いまだ世界は広大で、人間の知り得る版図は限定されていた。「大秦」と「セレス」は互いが互いにとって謎であり続けたまま栄華を極め、没落していく。
二つの世界が束の間なりとも直に接触するのは、まだ何世紀も先のことである。

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(地中海世界の人々が東方世界に対して抱いていた知見を窺わせる)



安寧の世紀

紀元57年2月5日、光武帝劉秀が洛陽南宮にて崩御。同日、光武帝の第四子、劉荘が後漢帝国第二代皇帝として即位した。彼はのちに「明帝」と諡される。
明帝は光武帝の事業を引き継いで国家儀礼の整備をさらに推し進め、黄河の治水にも成功した。

歴史を眺める側からすると治世の名君は退屈だ。安寧の時代を保った君主は語るに足る事件を最初から起こさない。
明帝もその典型例で、『後漢書』に記された彼の治世では、儀式・瑞祥・減税・豊作の記事がひたすら続く。
『後漢書』明帝紀の永平十二年条は、「是の歳、天下は安平。人は傜役無く、歳は比りに登稔して百姓は殷いに富み、粟は斛ごとに三十、牛羊は野を被う」と記している。
前後数世紀にわたって中華世界がこれほどの安寧を享受した時代はなかった。

ローマ五賢帝の治世を「人類が最も幸福だった時代」と評した歴史家がいる。それとさして遠からぬ時期、大陸の極東に生きた人々も総じて幸福であっただろう。


そんな明帝は、あるとき不思議な夢を見た。
黄金の巨人が洛陽の夜空をゆっくりと飛翔している。天頂まで上った巨人はゆるやかに首をめぐらし、無数の星々を背にして楼上に佇む皇帝をひたと見つめ、穏やかな微笑みを浮かべた。
明帝がその微笑みに見とれていると、いつのまにか巨人は月となり、さらに太陽に変わった。眩いばかりの耀きに明帝が思わず目をしばたくと、夢は途切れて夜明けの光が臥床に差し込んでいるばかりであった。
臣下たちに夢の意味を諮問すると、彼らは異口同音に答えた。聞くところでは西方に神がおり、その名を「フォト」という。陛下がご覧になったのは、この「フォト」ではないでしょうかと。

明帝は「フォト」の詳細を探るべく西域に使者たちを送った。それから数年後、使者たちは白馬に跨った二人の異人を連れて洛陽に帰って来た。
彼らの名はカシャーパマタンガとダルマラトナ。西域の先にある貴霜(クシャーナ朝)という大国で「フォト」の教えを究めた賢者たちであった。
明帝はカシャーパマタンガに「迦葉摩騰(かしょうまとう)」、ダルマラトナに「竺法蘭(じくほうらん)」という漢名を与え、寺院を建てて彼らが持ってきたサンスクリット語の経典を漢語に翻訳させた。
カシャーパマタンガとダルマラトナによれば、明帝が夢に見た金人は「ブッダ」と呼ばれる聖人であろうという。この聖人には「仏」という文字が充てられた。
これが「仏教」と呼ばれる教えが中華の地に到来した次第である。

白马寺全景
(明帝が洛陽に建設した中国最初の仏教寺院、白馬寺)

75年8月に崩御した明帝の後を継いだ後漢第三代皇帝、章帝・劉炟(りゅうたつ)もかなりの名君だった。
彼は父帝以上に儒教を尊崇し、万事寛厚をもって旨とした。
即位三年後の78年には天下の儒者たちを洛陽の白虎観に召集し、儒教経典の解釈をめぐる諸々の論点について討論させた。いわゆる「白虎観会議」である。
これによって「帝国公認の正統教義」というべきものが確定し、「儒教の国教化」が完成する。まさに「古典古代の世界帝国」を象徴する事績であった。

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(「儒教の国教化」を論じる)


後漢帝国が平和を謳歌する一方、国境の外では冬の嵐が続いていた。
東ユーラシアでは気候寒冷化が進んでいる。紀元1世紀後半の中華世界が比較的その影響を免れていたのは気象学的な偶然に過ぎない。
漠北の北匈奴は連年の旱魃に悩まされ、ときに中華北域を襲っては漢の守備隊に追い払われ、ときに漢との和平を試みてはすげなく謝絶された。

そんななか、セリンディアの情勢が急変した。
紀元61年、強盛を誇ったヤルカンド王国(莎車国)の国王「賢」が隣国クスタナ(于闐; ホータン)の軍勢に攻め滅ぼされたのだ。ヤルカンドに服属していた国々は一斉に独立した。
クスタナ王国(于闐国)、トルファン王国(車師国)、クチャ王国(亀茲国)、カラシャール王国(焉耆国)などの諸国が相争い、タリム盆地東部ではクロライナ(楼蘭)を都とするシャンシャン王国(鄯善国)が急速に勢力を強めた。
これを好機と見たのは北匈奴だった。昔のようにセリンディアを属国化して定期的に貢納を命じれば草原の民も一息つけるであろう。
73年、北匈奴はタリム盆地東北の関門であるトルファン王国を制圧した。だが、後漢帝国がこれを黙認することはなかった。

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(1世紀後半のセリンディア周辺)

後漢の明帝は光武帝が閉鎖した玉門関の門扉を再び開き、天山山脈東麓のハミ(伊吾)に一軍を駐留させて屯田を始めていた。
トルファンはハミからさして遠くない。北匈奴の動きを知るや、後漢は光武帝の娘婿にあたる竇固(とうこ)に騎兵数万を与えて西域に出撃させた。
このとき竇固のもと、班超という41歳の下級将校がバルクル湖畔の戦いで大功を挙げた。

班超は竇固の命によってシャンシャン王国(鄯善国)の経略に赴いた。シャンシャンは表面上漢の使節たちを厚遇したが、裏では北匈奴と通じていた。
北匈奴の使節たちが王都クロライナに到来すると、漢の使節団に対する待遇は目に見えて悪化した。
班超は謀殺を恐れる部下たちに「虎穴に入らずんば虎子を得ず!」という千古の名台詞を叩きつけ、わずか36人で匈奴使節団の宿舎を夜討ちした。
匈奴使節団は多大な死傷者を出し、生き残った者たちは命からがら沙漠へ逃走した。シャンシャン国王は匈奴の報復を恐れて真っ青になった。

「ならば大漢に降れ!」
班超はシャンシャン国王を怒鳴りつける。セリンディア屈指の大国シャンシャンはやむなく後漢の属国となった。
さらに班超はクスタナ(于闐国)、カシュガル(疏勒国)を屈服させ、たちまちタリム盆地の南半分を制圧した。だが、ここでいきなり状況が変わる。後漢本国で明帝が崩御したのだ。

セリンディアは再び争乱状態となり、北匈奴がカラシャール王国とクチャ王国を漢から離反させた。このタイミングで、第三代皇帝となった章帝が西域放棄を決定した。
班超が本国に帰還することが知れ渡ると後漢についた諸国は恐慌状態となった。カシュガルの司令官は前途を悲観して自殺し、クスタナでは国王と貴族たちが班超の馬の足にすがり、号泣して帰国を止めようとした。
班超はついに皇帝の命に背いてセリンディアに残留することを決意した。
その後セリンディアを巡る後漢と北匈奴の攻防は一進一退を続けたが、班超は獅子奮迅の活躍を繰り広げて属国群を守り抜き、91年には第四代皇帝・和帝によって西域都護に任じられた。
班超は31年にわたってセリンディアに留まり、西の大国クシャーナ朝の侵攻軍も退けた。しかし紀元102年、高齢の班超がセリンディアを去るのを境に後漢の力はこの地域からゆっくりと後退していく。
帝国本土から遠く離れ、中原全土と同じほどの広さを持つセリンディア。その地は班超ひとりの力によって後漢の版図であり続けたのだった。

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(表題作は半生を異域に送った班超の物語)


もっとも、班超がいかに超人であったにしても、この時期セリンディアが漢の側についたのには、より本質的な理由がある。北匈奴の急速な衰退である。

87年、烏桓の同族である鮮卑(せんぴ)部族連合が大興安嶺方面より東部モンゴリアに侵攻。北匈奴の単于は鮮卑軍に大敗して討死し、北匈奴の五十八部族、二十万人の民と八千人の戦士が南匈奴に投降する。
南匈奴はこの機に漠北を一挙に制圧しようと図り、後漢帝国に北征の許可と支援を求めた。

89年6月、章帝亡きあとに帝国の実権を掌握した皇太后の兄竇憲(とうけん)が自ら車騎将軍となり、五万騎を率いて北征の途に就いた。
彼は漠北深く進撃し、稽落山(イフ・バヤン山)で単于王庭を急襲した。予想外の不意打ちで北匈奴は大混乱に陥り、王侯将兵は四散した。
竇憲は北西に逃れた単于を追撃してオルコン川を越え、前漢の李広利が匈奴に大敗した燕然山(ハンガイ山脈)まで到達した。竇憲はここで巨石に碑文を刻ませ、大漢の栄光を謳いあげた。
この遠征で北匈奴の日逐王以下、八十一部族の二十万人が後漢に降伏したという。前漢の霍去病に比すべき偉業であった。

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(竇憲の漠北遠征)

もっとも、漁夫の利を得たのは鮮卑だった。彼らは後漢の大軍が南へ去るやいなや怒涛の勢いで草原中部に進出し、見る見るうちに漠北の大部分を制圧したのである。
紀元91年、北匈奴の中核集団はついにモンゴリアを棄ててイリ地方へ移住した。このとき一部の者たちは移住を拒否し、右賢王の於除鞬(おじょけん)を自分たちの単于として擁立した。
天山東部では呼衍氏という氏族の長が「呼衍王(こえんおう)」を称して自立し、トルファン王国を従属させ、河西やハミへの襲撃を繰り返した。
北匈奴はもはや国家としての体を成していない。冒頓単于以来、匈奴帝国の支配者であった攣鞮(れんてい)王家の権威は完全に失墜し、これ以降は呼衍王が北匈奴の盟主となった。

一方、南匈奴は内乱に陥っていた。北匈奴から投降した者たちが多すぎて統制がとれなくなったのである。内乱は二十年近く続いたが、南匈奴単于はこの混乱を自力で鎮めることができなかった。
なにしろ南匈奴が後漢の属国となってからすでに百年近い。次第に彼らは草原の民の気風を失い、遊牧の暮らしから遠ざかり、なかば定住して城に籠って戦うようになっていた。
結局、後漢正規軍と、後漢に従属する鮮卑・烏桓軍の出動で内乱は鎮圧され、反乱勢力残党は呼衍王のもとに奔った。
これで兵力を増強した呼衍王は再び移動を開始する。もはや漠北は鮮卑の地となり、後漢からの圧力に耐え続けることも難しい。残された活路は西方にしかなかった。

呼衍王率いる北匈奴が後漢帝国から遠ざかるにつれて、彼らの動向に関する記録は極端に乏しくなる。
158年、北匈奴は鮮卑に追われてキルギス草原に拠点を移し、パミール以東の諸国に対する支配権を完全に放棄した。このとき一部の集団が途中で脱落し、セリンディア北部で小王国を築いた。
まもなく北匈奴はさらに西方のカザフ草原に移動した。これを最後に中華世界の史料から北匈奴の消息は完全に途絶える。


それから長い年月が流れた。
紀元350年頃、フン族と呼ばれる遊牧集団が突如として黒海東方に来寇し、この地のアラン族を征服した。
紀元374年、フン族は族長パランベルのもと黒海北岸のゴート族を急襲し、老王エルマナリックを敗死させた。
紀元375年、族長フリティゲルンに率いられた二万人のゴート族がローマ帝国の庇護を求め、帝国北境のドナウ川を越えた。こうして西洋史上に名高い「ゲルマン民族の大移動」が開始される。

古来フン族を北匈奴の後裔と推測する者が多い。定かな証拠はないが、北匈奴が消息を絶った地点とフン族が最初に出現した地点がさほど遠くないのは事実である。

鮮卑帝国
(北匈奴が消滅)


兆す衰運の影

「古自り主幼く時艱しく、王家に釁多しと雖も、必ず冢宰に委成し、忠賢を簡び求め、未だ専ら婦人に任せて重器を断割せしむること有らず。
唯だ秦の羋太后始めて政事を摂り……漢は其の謬ちに仍り、患いを知るも改むること莫し。
東京の皇統は屢々絶え、権は女主に帰し、外より立ちし者は四帝、朝に臨みし者は六后、策を帷帟に定め、事を父兄に委ね、孩童を貪って以て其の政を久しくし、明賢を抑えて以て其の威を専らにせざるは莫し……」

(『後漢書』本紀二 皇后紀第一)


高祖劉邦が白登山で冒頓単于に屈服したときから三百年。漢帝国の宿敵であった匈奴帝国は消滅した。後漢は安寧のさなかにある。
だが、そこに衰運の影が忍び寄ろうとしている。兆しは最初に宮廷の深奥で現れた。

後漢帝国第三代皇帝、章帝の后は名門・竇氏の出であった。
曽祖父は新末後漢初に涼州(河西回廊)を押さえ、隗囂討伐に際して光武帝に帰順した群雄の竇融(とうゆう)。一族には班超の上官であった竇固もいる。
彼女は幼い頃から容貌が美しく、才知に長け、挙措も気品に満ちていた。82年に章帝の后に立てられ、竇皇后(とうこうごう)と称された。

だが、彼女にはいつまで経っても懐妊の兆しが現われなかった。彼女がいかに美しく聡明であっても、皇帝の世継ぎを生むことができなければ后としての価値は無に等しい。
そんななか、皇帝の側妾であった「宋貴人」と「梁貴人」が相次いで男児を生んだ。竇皇后の心は憂悶に覆われ、憂悶はやがて黒々とした情念に変わった。

竇皇后は宋貴人と梁貴人に無実の罪を着せて自殺に追い込んだ。宋貴人の子は皇太子の位から廃して「清河王」に降格した。
梁貴人の子も本当はそうしたかったのだろうが、それでは漢王朝の後継ぎがいなくなってしまうので、こちらは自分の養い子にした。竇皇后は章帝の寵愛を独占し、兄の竇憲も外戚として権勢をほしいままにした。

後漢帝室系図
(後漢は首都を長安ではなく東の洛陽に置いたため、伝統的には「東漢」と呼ばれてきた)

88年に章帝が崩御すると竇憲が事実上帝国の最高権力者となり、北匈奴征伐の大功を誇って専横を極めた。これを憎んだのは、新たに即位した梁貴人の子、劉肇(和帝)である。

即位四年後の92年、14歳の和帝は身辺に仕える宦官と謀って逆クーデターに打って出た。
竇憲が戦勝報告のために参上したときに宮闕の門を全て閉じ、親衛隊から孤立させたうえで誅殺したのだ。太后を除く竇氏一族は一斉に逮捕され、皇帝弑逆を企てたかどによって粛清された。
後ろ盾を失った竇太后は四年後に死んだ。その亡骸がまだ宮中に安置されているうちに、廷臣たちが次から次へと和帝に驚くべき事実を奏上した。
亡き竇太后は陛下の実の母にあらず。それどころか陛下の母君は太后の陰謀によって非業の死を遂げられたのです。憎むべき竇氏の女からは太后の称号を剥奪すべし、先帝の陵墓に合葬することもなりませぬ、と。

和帝は天地が崩れるような衝撃を受けつつ、辛うじて声を絞り出した。竇氏は法に従わぬことがあったかもしれぬが、太后はいつも控えめな方で、朕を長く養い育ててくださった。恩に背くことはできぬ。この議は二度と論じるな、と。
そう言うしかなかった。後漢は儒教国家である。たとえ大罪を犯した親であろうとも親は親であり、子として孝を尽くさぬわけにはいかない。血縁がない親でもそれは変わらない。規範を皇帝自身が破ることは許されない。

和帝が本当に叫びたかったのはこうだろう。おまえたち廷臣どもはその時何をしていたのだ。太后の所業を知りながら口を噤んで保身に専念し、今になって聞きたくもない真実を述べ立てる汚さよ、と。
だが、この若き皇帝は激情に身を委ねはしなかった。
淡々と太后の葬儀を済ませたあと、和帝は無名の墓に埋葬されていた実母・梁夫人の棺を掘り起し、改めて皇后の称号を追贈し、先帝の陵墓の隣に改葬した。
身をもってこの悲劇を経験しながら、和帝の治世も後宮の波乱から無縁ではいられなかった。

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(後漢時代は女性が存在感を放つ)


三国演义 第1集 桃园三结义
(4分から5分にかけてのあたりで後漢歴代皇帝が続々と)


和帝の后の陰皇后(いんこうごう)も名門の出であった。彼女の曽祖父は光武帝劉邦の皇后・陰麗華(もちろんこちらも「陰皇后」)の兄である。
しかし彼女に思わぬ敵手が現われた。光武帝の宿将、鄧禹(とうう)の孫にあたる鄧綏(とうすい)という少女である。

鄧綏は変わった娘だった。幼い頃から歴史書や儒教経典を読みふけり、ありきたりの女児の遊びにはまるで興味を示さなかったと伝えられる。
鄧綏が五歳のときの逸話がある。鄧綏の祖母(鄧禹の未亡人)は彼女を溺愛し、手ずから鄧綏の前髪を剪った。しかし老人の目は霞み、手元は震え、鄧綏の額は血塗れになってしまった。
それなのに鄧綏は一言も声をあげずに座り続けた。痛みを感じなかったのではない。優しい祖母の気持ちを慮って痛みをこらえ続けたのだ。彼女の額には生涯消えない傷跡が残った。それは彼女の一生の誇りとなった。

95年、鄧綏は良家の子女たちの中から選ばれて後宮に入った。額の傷跡を除けば、その容貌は輝くように美しかった。
当時16歳だった鄧綏は陰皇后に献身的に仕え、同輩はもとより身分の低い女官や下女にも分け隔てなく接した。誰もが鄧綏を慕った。その評判はやがて和帝の耳にも入った。
人間の心理は難しい。鄧綏の振舞に私情はなく、忠義に曇りはない。彼女はいわば非の打ち所がない優等生だった。鄧綏を誉めぬ者はいない。それが次第に後宮の主である陰皇后の心を重くしていった。

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(鄧皇后)

ある時、和帝が重い病の床に就いた。陰皇后は和帝の枕頭で一心に看護したが、和帝の病状は次第に悪化し、ついに危篤状態となった。陰皇后はそのとき、我知らずこんな言葉を口から漏らしてしまった。

「万一のときには鄧氏を生かしておくことはできぬ……」

これを漏れ聞いた鄧綏は愕然とした。敬愛する皇后が何故、取るに足りない自分と一族を呪うのか。彼女は親しい友人たちに泣きながらかきくどいた。

「心を尽くして皇后様にお仕えしてきたのにこんなことになってしまった。周公は身に武王の命を請い、越姫は心に必ず死せんとの分を誓う。上は以て帝の恩に報い、中は以て宗族の禍を解き……いっそ陛下の身代わりとなって天にこの身を……」

途中から意味不明な言葉が出てきて目を白黒させていると、いきなり鄧綏が毒薬をあおりかけた。
あわや大変な騒ぎになるところだったが、そこに皇帝の意識が回復したという報せが飛び込んできて、なんとか鄧綏の自殺を止めることができた。

102年、陰皇后は呪詛を行なった罪によって廃位され、鄧綏が新たな皇后(鄧皇后)に冊立された。
「皇后の尊さは朕と同等である。祖宗の宗廟を受け継ぎ、天下の母たることは容易でない。鄧綏の徳は後宮に冠たるものであり、鄧綏より他に皇后たるべき者はおらぬ」と和帝は宣言した。
鄧綏は驚いて三度辞退した。それでも和帝の意志が固いことを知ると、やむなくこれを受け入れて上奏文の書式で謝意を書き記し、各地からの祝いの品は紙と墨以外をすべて返還した。
和帝が鄧一族の位階を上げようと言い出すと鄧皇后は泣いて拒絶した。
幼い頃から歴史に親しんできた彼女は外戚の栄達など災いの元にしかならないと確信していた。

余談ながら、この頃の紙は粗悪で筆記に耐え得る素材ではなかった。蔡倫(さいりん)という宦官がそれを改良し、現在に通じる紙の原型(「蔡侯紙」)をつくったのはそれから三年後のことである。
もしかすると鄧皇后に大量の紙が献上されたことが、蔡倫による製紙技術改良のきっかけとなったのかもしれない。

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(蔡侯紙を復元したもの)

ところが、まもなく天は思わぬ試練を彼女に課す。
105年12月、和帝が27歳の若さで病死したのだ。鄧皇后はこのとき26歳。和帝の子の多くは幼いうちに死に、生き残っているうち年長の子は重病で、年少の子はまだ生後三ヶ月の乳児だった。
群臣は三年前に皇后になったばかりの鄧綏に「臨朝称制」、すなわち事実上皇帝の代理として国政を執ることを求めた。むろん一族の支援は当てにできない。彼女が頼れるのはのは自分自身だけだった。

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(世界史上ほぼ最年少の皇帝、殤帝の陵墓)

彼女はまず、和帝の忘れ形見である生後三ヶ月の劉隆を皇帝とした。中華の歴史上で最も年少の皇帝である。
だが、あにはからんや劉隆は即位後8か月余りで夭折してしまった。諡号は「殤帝(しょうてい)」。幼年で即位し、幼年で死んだ皇帝のための諡号である。
生後約1年。這い歩きはできただろう。もしかしたら簡単な言葉は話せるようになっていたかもしれない。
しかしこれだけは疑いない。劉隆は自分自身が六千万人の人々のうえに君臨し、地上で一、二を競う超大国の皇帝であることを、理解も認識もすることなく、永遠にこの世を去っていったのだ。

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(二千年前も子供の成長過程はあんまり違わないと思う)



鄧太后と羌帝国

殤帝が息を引き取ると鄧太后は兄の鄧騭(とうしつ)と協議して、その夜のうちに長安侯・劉祜(りゅうこ)を宮中に迎え入れた。章帝期に竇皇后に皇太子を廃された清河王の子で、和帝の甥にあたる。
このとき年齢13歳。劉祜は真面目で勉学に熱心だった。鄧太后はなまじ年長の皇族を擁立して内紛を招くより、劉祜が将来の名君となることに期待をかけたのだろう。それまでは引き続き彼女が国政を差配する。

南朝宋の歴史家・范曄は『後漢書』本紀において、「太后猶お臨朝す」と記し、「猶」の一字を以て暗に彼女を批判した。だが、鄧太后は望んで臨朝称制を続けたのだろうか。
彼女は劉祜(諡号は「安帝」)の成長を待って一日も早く彼に帝国統治の責任を委ねたかったに違いない。国家は多事多端の状況にあった。紀元一世紀が終わるとともに「安寧の世紀」も足早に去りつつあったのだ。

「三月丙申、詔して曰く、比年登らず百姓は虚しく匱し。京師は去冬宿雪無く、今春澍雨無く、黎民は流離し、道路に困しむ。
朕、心を痛め首を疾み、済す所を知る麾し。昊天を瞻仰し、何の辜かある今の人ぞ。
三公は朕の腹心なるも、而るに未だ天を承け民を安んずるの策を獲ず。数々有司に詔して務めて良吏を択ばしむるも、今猶お改めず。
競って苛暴を為し、小民を侵し愁えしめて以て虚名を求め、下吏に委任して勢いを仮りて邪を行う……」

(『後漢書』本紀一 孝和孝殤帝紀第四 永元十二年条)


永元十二年、つまり紀元100年に和帝が発した苦悩に満ちた詔が『後漢書』に伝えられている。

この頃から後漢帝国では天災と飢饉が異常に増加しはじめた。蝗害や疫病も多発し、多くの人々が故郷を捨てて流民となった。路傍に斃死する者もあり、豪族の荘園で隷農となる者もあった。
後漢が国是とする儒教思想では、災害は君主の不徳に対する天の譴責とされる。皇帝たちは己の統治の不行き届きを反省し、減税や大赦を繰り返した。それにもかかわらず天災は一向に収まる気配を見せない。
太陽の黒点の増減か、高層の気流の変動か、海水の温度の変化か、定かな理由は分からないが過去数十年にわたって北匈奴を苦しめた気候寒冷化が、後漢帝国にも本格的に及び始めたのである。

加えて、まもなく未曾有の危機が西から帝国に襲い掛かる。チベット系遊牧民、羌族(きょうぞく)との大戦争である。

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(気候要因が歴史と文明の興亡に与えた影響について)


遥か昔から中華の西方に羌族と総称されるチベット系諸部族が分布していた。その名は殷や周の時代の記録にも頻出する。牧野の戦いで殷の紂王を討った周の武王の軍勢にも羌族が加わっていたという。

「羌」という文字は「羊」と「人」を合成したもので、羊を飼う遊牧民を意味している。
中華の北方は草原が広がるが、西は高峻なチベットの高原である。その高原で羌族は羊を追いながら暮らしていた。
なかでも中華の民との接点が比較的深かったのは、チベット高原の東北縁、青海湖からゴビ沙漠南縁までを居住地とする諸部族である。羌族と中華の民は生活も住む土地も違う。両者は何世紀も大きな紛争を起こさずに共存を続けた。
ところが紀元前121年、前漢帝国が河西回廊を制圧したことにより、この状況が大きく変化した。

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(河西回廊)

漢からみれば河西は高山と沙漠に挟まれた回廊地帯。だが羌族にとって、そこは羊たちを夏は高地に、冬は低地に移動させる大切なテリトリーだった。
羌族はチベット高原側とゴビ沙漠側の居住地を分断され、季節移動ができなくなった。漢は羌族と匈奴が結びつくことを警戒し、河西に屯田を設置して漢人を入植させ、羌族の南北移動をことさら妨害した。

羌族は諸部族連名で漢帝国に遊牧の許可を請願した。すると漢は大虐殺をもってこれに応じた。
羌族は漢帝国の圧制に対して立ち上がった。漢はこれを反乱と見なして容赦なく鎮圧した。捕えた羌族は遠隔の地に移送し、奴隷として使役した。
勲功に乏しい武人が出世のために羌族を挑発して戦を起こすことも珍しくなかった。漢帝国に対する羌族の怨念は烈々と燃え盛った。

漢との抗争を続けるなかで徐々に青海・河西地方における羌族の統合が進み、王権が形成されはじめた。
後漢時代に入ると参狼羌(さんろうきょう)や焼当羌(しょうとうきょう)などの有力部族、そして滇良(てんりょう)や迷唐(めいとう)といった軍事指導者たちの名が史書に記されるようになる。
そして安帝が即位する頃、羌族の歴史上で最強の軍事指導者が出現した。その名を滇零(てんれい; ツェリン?)という。

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(古代チベットの騎馬戦士)

大乱の発端は107年夏、隴西地方の羌族たちが西域遠征のために無理やり徴兵されたことである。一部の部族が移動中に逃亡し、後漢の正規軍がこれを追って羌族の集落を攻撃した。
これに対して各地の羌族が一斉に立ち上がり、竹竿を武器とし、木板を盾とし、銅鏡を掲げて兵を集めた。彼らの最高指導者となったのが滇零だった。

驚いた鄧太后は最も信任する兄の鄧騭(とうしつ)を車騎将軍として隴西に派遣するが、羌族は漢軍五万を敗走させる。
滇零は羌の諸部族を糾合して「皇帝」を自称し、捕えた漢人たちを使って、文書行政や位階制度も整備した。もはや部族反乱どころか、後漢帝国と羌帝国の国家間戦争である。

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(先秦以来の歴代中華王朝とチベット諸族の関係について詳述されている)


羌帝国の軍勢は黄河を越え、山西、四川、関中平野に侵攻しはじめた。
もともと後漢は建国当初に大規模な軍縮を行なったため、正規軍の規模が小さい。内地にはほとんど軍隊が配備されておらず、民衆の多くは百年近く戦を知らぬ有様だった。

鄧騭は為す術なく隴西から撤退し、鄧太后は断腸の思いで涼州放棄を決定。帝国西部の膨大な民衆を黄河中流域に誘導し、村々を燃やし、水源に毒を投げ、徹底的な焦土作戦を開始した。
羌帝国は逃げ遅れた涼州の漢人たちを兵士に仕立て上げ、111年には司隷(帝国首都圏)河東郡に入寇。滇零自身は洛陽対岸の河内郡まで侵入した。
後漢首都圏の民衆は恐慌を来たし、先を争って黄河を渡り、南に逃げ出した。
加えるに烏桓・鮮卑・高句麗などの東北諸国も一斉に後漢に対する敵対を露わにし、南匈奴すらも叛旗を翻した。漢の地方官や防衛軍からも羌側に寝返る者たちが出はじめた。

帝国は滅亡寸前だった。
羌軍の進撃を阻止する手段はない。北方諸族が中原に乱入するのも時間の問題。もはや漢の命脈を保つためには洛陽と華北全域を捨て、長江まで撤退する以外の策はない。
鄧太后がそれを決断すれば、史実より二世紀早く南北朝時代が始まっただろう。「永嘉の乱」以前における中華世界最大の危機であった。
それでも鄧太后は帝都を捨てず、最前線に留まり続けた。羌軍は黄河渡河準備に入り、洛陽陥落は旦夕の間に迫っていた。

だが、ここであり得べからざる奇蹟が起こる。羌帝国皇帝、滇零が急死したのである。

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(後漢帝国中心部)

情勢は一変した。勢いを取り戻した漢軍は各地で猛反撃に転じる。
羌帝国では滇零の子の零昌(れいしょう; リンチェン?)が第二代皇帝となり、一族の狼莫(ろうばく; ルオモー?)が摂政となったが、先帝のような求心力を発揮することなどできようはずもなく、羌軍はみるみる西へ押し戻されていった。
やがて零昌は敗死し、狼莫は暗殺され、早熟の羌帝国は崩壊する。だが、この大戦争は12年間も続き、漢帝国が費やした軍費は二百四十億銭に上ったという。そのあいだにも天災が続き、国庫はほとんど底をついた。

鄧太后は自身や皇帝の身の周りを含む宮廷のありとあらゆる冗費を削減し、早朝から深夜まで懸命に政務に励んだ。無数の難題が鄧太后のもとに殺到し、彼女はひたすらそれらを捌き続けた。
だが、そんな鄧太后の苦闘をまるで理解できなかったのが安帝だった。

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(第一巻は後漢衰退の過程、鄧太后もメインで登場)



暗流

帝位に擁立されたときに秀才少年として期待された安帝は、成長するにつれて凡庸になっていった。
それは彼の責任ではなかったのかも知れない。
皇帝として玉座にありながら、文武百官は背後の御簾の奥にいる鄧太后に奏上し、鄧太后がそれに応答する。全ての決断は鄧太后が下し、全ての命令は鄧太后から発信される。
これでは自分の存在意義は何なのか。本来聡明であった少年が反発したとしても無理はないだろう。

反抗期もあったのかもしれない。安帝はことさら鄧太后の方針を無視して贅沢を続け、政治への関心を示さなくなった。安帝の后となった閻皇后(えんこうごう)も、懐胎した他の后妃を謀殺するなど前代の過ちを繰り返していた。

安帝は成年を迎えたが、鄧太后にしてみればこの国難の時期に、こんな人間に帝国の統治を委ねることなどできない。
臨朝称政を終えて天子に国政を奉還すべし……忠臣面をしてそんな諫言をする者が現われると鄧太后は露骨に不機嫌な表情になった。やがて彼女は安帝の廃立すらを考えるようになるが、それを果たす前に病に倒れた。

121年3月、鄧太后は42歳の若さで還らぬ人となった。殉職というべきだろう。彼女は未曾有の国難を乗り切るために全てを捧げ、生命力を使い果たしたのだ。


安帝は意気揚々と親政を開始する。すぐに手をつけたのは鄧一族の粛清だった。
鄧太后は一族の栄達を望まなかった。弟の鄧隲を重用したのは確かだが、それは彼が最も信任できる血族だったからであり、無用の富や権勢を下賜したことはない。鄧隲自身も清廉で公正な人柄で、鄧太后とともに善政を行なってきた。
しかし安帝にそんなことは関係ない。安帝によって政権から追いやられた鄧隲は食を絶って自殺した。

それ以後の安帝の治世について、語るべきことは少ない。
相変わらず天災が続き、しばしば羌や鮮卑や高句麗との紛争が起こった。羌族との戦争もあって西域(セリンディア)はもはや維持できず、事実上放棄された。
その後のセリンディアは北匈奴の支配を受けたあと一時的に後漢に再従属するが、徐々に独立を回復。次の世紀にはクシャーナ朝の勢力圏に入る。


125年3月、安帝は32歳で病死した。『後漢書』の著者、南朝宋の范曄は安帝の治世をこう総括している。

  ――賛曰、安徳不升、秕我王度、降奪儲嫡、開萌邪蠧、馮石承歓、楊公逢怒、彼日而微、遂祲天路。

安帝は不徳の君主で国家の秩序を台無しにした。邪臣を重用して忠臣を遠ざけ、漢朝衰亡の端緒となった、と。

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なにゆえか後漢帝国には幼帝が多い。初代光武帝と末代献帝を除けば、歴代皇帝は総じて幼くして即位し、若年のうちに崩御した。
しばしば皇統が断絶して傍流の王家から次期皇帝が擁立されたが、血統が変わっても王朝の呪いというべきこの伝統は変わらなかった。
それゆえに皇太后による臨朝称政が繰り返され、皇太后の一族である外戚が著しい力を持つようになった。
また、皇帝及び皇太后に直結する内廷の宦官が絶大な権力を握り、いわば「裏の政府」として外廷の儒家官僚たちと激しく敵対するようになる。

そもそも後漢は豪族連合政権で、初代光武帝が功臣の粛清を行なわなかったことが裏目に出たのか、皇帝権力は前漢に比べて著しく弱体だった。そして外廷の儒家官僚とは、すなわち大豪族そのものである。
それゆえ皇帝の側から見れば、日常身辺に密接する宦官を腹心として重用するのは合理的な選択だった。基本的に外戚も大豪族ではあるが、外戚は外戚たるがゆえに皇帝と共闘する側に立つ。
しかし歴史を記すのは儒家官僚の側であり、彼らは皇帝に密着する宦官と外戚を徹底的に罵倒した。
それでは実際のところ、同時代の無名の民たちにとって皇帝と大豪族のどちらが実権を握ることが望ましかったのか。それは何ともいえない。実際のところ、どちらが勝利を収めても民の暮らしに大差はなかったのではあるまいか。

いずれにせよ、二世紀の後漢帝国では、自らを「清流」と称する儒家官僚たちと、彼らに「濁流」と蔑称される宦官たち、そして歴代の外戚が三つ巴になり、幼い皇帝を余所に熾烈な権力闘争を繰り返すことになる。


安帝の死後に権勢を揮った閻太后の一族は年齢すら不詳の幼帝・劉懿(少帝)を第7代皇帝として擁立するも、かつての殤帝と同じく即位後一年に満たずして崩御。

次に11歳で即位した劉保は、かつて閻太后に殺された安帝の側妾の子だった。
母が殺害された際に皇太子の地位から廃されていたが、少帝崩御後の混乱のなかで宮中でクーデターが発生した。閻一族の専横に反発した宦官たちが閻太后の側近たちを斬殺し、劉保を迎え入れて第8代皇帝として擁立したのだ。

宦官は法外の存在であり、国家の支配機構とは無関係に皇帝個人に近侍する私的な使用人である。しかし彼らは皇帝を護衛するための武技を磨き、皇帝個人の命令に服従する。
皇帝の私的な生活の場である内廷に自在に立ち入ることができるのは男性機能を喪失した宦官だけであり、皇帝にとっては家族に近い存在だった。
皇帝にとって宦官はほぼ絶対的に信用ができるし、むしろ宦官を信用できなければ皇帝などやっていられない。皇帝と宦官は血の通った情誼で結ばれる。
また、彼らは法外の存在であるがゆえに臨機応変の行動がとれる。宦官が変則的な動きをしていても、彼らを蔑視する外廷の官人たちは何も気づかない。
皇帝にとって宦官とは実に「使い勝手が良い」存在であった。
しかし彼らが法外の存在であるということは、逆にいえば皇帝個人を除いて宦官の行動を制約できるものがなにもないということになる。
皇帝が無力であったり不在であったりすれば宦官は自己判断で動き出す。かつて秦の趙高がそうであったように。
儒家官僚たちの側にも理はある。彼らは宦官が私欲を満たすために国家を私物化する事態を忌避したのである。

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(宦官といえば最初に挙げられる名著)


劉保は諡号で順帝と呼ばれる。
彼は安帝が崩御したとき、廃嫡のゆえをもって大喪への参列すら許されなかった。幼いながらに悲しみのあまり声を嗄らして泣き叫び、人々の涙を誘ったという。当然、閻一族への憎悪は余りある。
彼は自分を擁立してくれた宦官たちへの恩義に報いるため、宦官たちに領地を与え、養子をとって財産を受け継がせることも許可した。儒家官僚たちに言わせれば世も末ということになる。

順帝はさすがに前代の惨状を教訓として、心して后を選んだ。そして冊立された梁皇后(りょうこうごう)はかつての鄧太后のように史書や経典を愛読し、万事控えめな人柄だった。
皇后の父の大将軍・梁商も外戚としての権勢を求めるようなことは全くなかった。だが、梁商が死んだあとにその息子に大将軍の地位を継がせてしまったのが失敗だった。

梁商の子の梁冀(りょうき)は日頃から傲慢で人を威圧することを好み、賭博に溺れていたという。絵に描いたような貴族のドラ息子だった。
順帝が144年に30歳で死去すると梁冀は僅か2歳の皇子・劉炳を第9代皇帝として擁立するが、翌年早々に夭折(沖帝)。世の人々はこれを梁冀による毒殺に違いないと噂した。
さすがに三歳児を毒殺する必要などなさそうな気がするが、日頃の行ないが悪すぎたのだろう。

次に傍系の皇族である8歳の劉纘を第10代皇帝として擁立する。質帝である。
しかし質帝は年齢のわりに賢く、宮中をわがもの顔にのさばり歩く梁冀に向かって、ある日からかい半分に「跋扈将軍」と呼び掛けた。跳梁跋扈の跋扈である。
梁冀は粗暴な男ではあるが、このとき怒りよりも恐れを感じた。この子供は聡明過ぎる。すぐに梁冀は質帝に毒酒を飲ませて始末した。

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(「梁冀ウザい」と仰せになる少年皇帝)

次に梁冀は順帝の従弟にあたる傍系皇族の劉志を第11代皇帝(桓帝)として擁立した。年齢13歳。
8歳の幼帝を恐れて謀殺しておきながら、次にそれより年上の少年を帝位につけるというのは妙な話ではあるが、誰でも彼でも皇帝にできるというものでもなかったのだろう。
しかし159年、さすがの梁冀の命運もついに尽きる。桓帝は信頼する宦官たちと謀り、直属軍を動員して梁冀の大邸宅を急襲。さしもの大将軍も反撃の態勢を整える余裕もなく、あっさりと自害に追い込まれたのだった。
だが、この事件で宦官たちの権勢はさらに強まり、儒家官僚たちとの緊張は一触即発の状態となる。


同年、河南尹(≒都知事)の李膺(りよう)という高官が、ある豪族の犯罪を摘発した。
李膺は正義派官僚として知られ、洞察力に優れ、万事筋を通す人物として名声があった。彼が摘発した豪族は長年官物の横領を重ね、宿舎や便所にまで趣向を凝らしていたという。
後漢後期にはこの程度の犯罪はあまり珍しくなかったが、放置できるものではない。
だが、事態は思わぬ展開となった。件の豪族が宦官に賄賂を送ってこの件の処理を依頼。李膺の方が冤罪で投獄されてしまったのだ。

事件が知れ渡ると洛陽の官僚や学生たちは激昂し、宦官の専横と、それを許す皇帝に猛烈な批判をはじめた。
それは宦官への偏見や権力闘争の一環として片づけることはできない。外戚梁氏の排斥後、競争相手を倒した宦官たちによる汚職や権力乱用も目を覆うばかりのものとなっていたのだ。
結局この件は皇帝が宦官側の非を認めて決着がついたが、官僚と宦官の感情的対立は修復不可能となった。

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(後漢末期の宦官たち)

166年、李膺と支持者たちは宮廷で宦官の専横を批判した。七年前の一件で、桓帝は自分たちの訴えに耳を傾けてくれると期待したのだろう。
だが、宦官勢力の中心である中常侍(ちゅうじょうじ)たちは李膺一派が朝廷を誹謗したと反撃し、彼らを逮捕したうえすべての官職を剥奪し、宮廷から追放した。
当時このような刑罰を「禁錮」と呼んでおり、李膺らが党派を組んで国政を批判したことが罪状とされたことから、歴史上この事件を「党錮の禁」とよぶ。
三年後には官僚勢力の過激派が宦官排除のために武装蜂起を試みたが、これもあっさりと抑えられ、党錮の範囲はさらに拡大された。全国に公民権を剥奪された元官人たちが溢れかえった。


だが184年、党錮の禁は突然解除された。宦官と官僚の権力闘争どころか本物の民衆反乱が始まったのだ。


蒼天已に死す

民衆反乱は安帝の頃から黄河中下流域で散発的に発生しはじめた。順帝の頃からは淮水や長江の流域、桓帝の時代になると長江以南でも反乱が頻発するようになる。
皇帝や大将軍を称する者や、民間信仰と結びついて妖巫・妖賊と呼ばれたものも多い。気候の悪化と統治の劣化が積み重なり、年ごとに民の暮らしは追い詰められつつあった。
しかし今までのところ、反乱はどれも早々に鎮圧されてきた。帝国はいまだ綻びを見せなかった。

が、頻度が高まればいずれ対応に限界がくる。紀元184年、ついに中原全土を覆う大反乱が発生した。

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(黄巾の乱の発生地域)

ことを起こしたのは冀州(河北)の張角という男だった。この人物の素性には謎が多い。党錮の禁によって政界から追われた官人だったともいわれる。

彼は呪医であった。神仙に秘術を授かったと称し、神符と霊水を携えて諸国を廻った。
病人は張角の前で自分が犯したさまざまな罪を告白し、懺悔することを命じられた。張角は全ての罪に赦しを与え、病者の心を慰め、身体を癒した。
不穏の時代に人々は神秘に救いを求める。張角は次第に信奉者を増やし、「大賢良師」と呼ばれるようになった。
彼には人を惹きつけてやまない魅力があったのだろう。十余年のうちに信者は数十万人にまで膨れ上がった。洛陽の市民や下級官吏、さらに宮中の宦官たちにまで張角の信奉者がいた。

張角は信者を「三十六方」と呼ばれる集団に分けて組織化した。彼の教えは「太平道」と呼ばれた。
後漢帝国は儒教国家であり、国家が認めない祭祀を「淫祀邪教」として禁止している。本来なら三人以上が故なく群飲しただけでも処罰の対象となる。
張角の教団は違法もいいところだった。時に熱心な地方官吏が上書して太平道の取り締まりを求めることもあった。だが内輪の権力争いに没頭する中央政府は一顧だにしなかった。

反乱はいつから企図されたのだろうか。なにゆえ張角はことを起こしたのか。内部の記録が失われているため、そのあたりの経緯は定かでない。
いずれにせよ、太平道に加わった数十万の民衆たちのあいだには帝国への不満が渦巻いていた。

中平元年、紀元184年は60年間を一巡とする干支の起点である「甲子」の年にあたる。世界が更新されるこの年三月に、張角と信奉者たちは帝国全土で一斉蜂起を計画した。
ところが陰謀が事前に当局に発覚する。やむなく計画を変更し、二月に七州二十八郡で太平道の三十六方、数十万の信徒が決起した。

――蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉(蒼天已に死す、黄天当に立つべし、歳は甲子に在り、天下大吉)

これが彼らのスローガンだった。
蒼天は漢王朝を暗示するとともに、そもそも宇宙を司る天帝を意味する。「世界帝国」は「世界」に相似する。帝国の混乱は世界終焉の前触れであろう。
太平道を奉じる者たちは血に酔った暴徒ではない。あらゆる価値が崩れ去り、あらゆる秩序が崩壊していく終末の世にあって、彼らは悲しみと絶望に心狂わせて戦いを起こした。
叛徒たちは自軍の目印として黄色い布を額に巻いた。体制側は彼らを「黄巾賊」と呼び、その反乱を「黄巾の乱」と名付けた。

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(黄巾の乱)

当時、帝国政府の実権を握っていた外戚の何進(かしん)と「十常侍」と呼ばれる有力宦官らは、下野した官僚たちが反乱勢力と結びつくのを恐れて党錮の禁令を撤回し、旧官僚たちを洛陽に呼び戻した。
なにしろ外戚も宦官も軍の指揮能力は持ち合わせていない。そのまま復権した官僚たちが正規軍を指揮して反乱鎮圧に取り掛かった。

反乱そのものは予想外に早く鎮圧された。同年内に肝心の張角があっさり病死したのも大きい。しかしこの反乱は後漢帝国を大きく変質させることになる。
各地で広大な荘園を領する大豪族たちが私兵を集め、自衛態勢をとりはじめたのだ。政府も軍備増強の必要を痛感し、「西園八校尉」と呼ばれる皇帝直属軍の編成に取り掛かる。世情は急速に殺伐としはじめた。
そんななか、189年に第十二代皇帝の霊帝が崩御。これをきっかけに、これまで協力関係にあった外戚の何進と十常侍が対立に転じ、同年8月に何進は宮中で宦官たちに殺害される。

皇帝の意向による外戚粛清はこれまでも恒例行事のように繰り返されてきたが、さすがに宦官が皇帝の意向と無関係に外戚を抹殺したのは初めてだった。
何進と親しかった名門の袁術(えんじゅつ)袁紹(えんしょう)らが私兵を率いて宮中に乱入し、宦官数千人を殺害。
何進によって新たに擁立された少帝・劉弁は一部宦官の人質として連れ去られ、帝都洛陽は収拾のつかない混乱状態となった。
この情勢のなか、本物の軍隊を率いた本物の軍人がやって来る。その名を董卓(とうたく)という。長年涼州で羌族との戦いを繰り広げた猛将である。

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(董卓)

董卓はこの時点で、洛陽近辺で最大の軍事力を擁していた。その率いる軍には羌族や南匈奴の騎兵も加わっている。
彼は宦官であれ、外戚であれ、官人であれ、邪魔な者たちは全員押しのけて朝廷の実権を掌握した。人臣として最高の地位である相国にのぼり、暴虐の限りを尽くしたともいう。

帝都と朝廷は涼州軍閥に吸収され、地方統治は麻痺した。洛陽を脱出した袁術・袁紹をはじめ、東方の大豪族たちは董卓打倒のための連合軍を組織し始めた。
これ以後登場する者たちはみな、董卓を打倒して歴史の表舞台に乗り出した。
董卓の悪行は誇張されている可能性が高いが、彼が長期的な知見や戦略を持たず、国家秩序を再建・維持する意志も持ち合わせていなかったことは間違いないだろう。

董卓は東方の豪族たちが皇帝救出を名分としていることを聞き、少帝弁を廃位して異母弟の陳留王・劉協を擁立した。彼こそは後漢帝国最後の皇帝、のちに「献帝」と諡される人物である。

卓乃ち弘農王を閣上に置き、郎中令李儒をして酖を進めしめて曰く、「此の薬を服せば、以て悪を辟く可し」
王曰く、「我は疾無し、是れ我を殺さんと欲するのみ」。飲むことを肯んぜず。

……酒行るや、王は悲歌して曰く、「天道は易きも我は何ぞ艱しき。万乗を棄てて退いて蕃を守る。逆臣に迫られて命延びず、逝くゆく将に汝を去って幽玄に適かんとす」

因って唐姫をして起ちて舞わしむ。姫、袖を抗げて歌って曰く、「皇天は崩れ后土は頽れ、身は帝と為るも命は夭け摧かる。死生は路異なりて此れ従り乖う。奈せん我は煢独にして心中哀しきを」

因りて泣下りて嗚咽す。坐する者皆な歔欷す。王、姫に謂いて曰く、「卿は王者の妃、勢いとして復た吏民の妻とは為らじ。自愛せよ、此れ従り長に辞せん」

遂に薬を飲んで死す。時に年十八。

(『後漢書』本紀二 皇后紀 第十下 唐姫条)


董卓は廃位された少帝弁(弘農王)を自害させ、光武帝が定めた「世界の中心」たる帝都洛陽を捨て、全宮廷を引き連れて旧都長安に去っていった。事実上、後漢帝国は崩壊した。


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