世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史9 諸国征服の世紀

(唐突ながらYouTubeが素晴らしい件)

Ancient Islam Warriors
動く! かっこいい! アラブの大征服

Khalid ibn Walid - Battle of Yamama - Musaylimah the False Prophet ᴴᴰ
動く! 喋る! ハーリド・イブン・アルワリード


第二次内乱を平定したウマイヤ朝第5代カリフ、アブドゥルマリクはイスラーム世界の変革を開始した。

まず、695年にイスラーム史上初めて貨幣を発行する。
それまでイスラーム世界ではビザンツ帝国のノミスマ金貨やサーサーン朝ペルシアのディルハム銀貨をそのまま流用していたのだが、それらの貨幣にはキリスト教やゾロアスター教の象徴が刻まれており、なんとも体裁が悪い。
また、アラブの大征服によって広大な地域が統一されたことで国際商業が飛躍的に発達し、貨幣需要が急増していた。
そこで、アラビア語でイスラームの信仰箇条「アッラーの他に神なく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という文言を刻んだディナール金貨ディルハム銀貨を鋳造する。
この二つの貨幣は、その後何世紀にもわたって西ユーラシアの国際通貨となる。

ウマイヤ朝は官僚や兵士たちに土地を与えるのではなく、これらの貨幣によって俸給を支払った。これは当時の世界にあっては非常に先進的なシステムだった。
それゆえにイスラームの登場を機にユーラシア大陸西方では貨幣経済と都市文化が飛躍的に発達し、巨大な交易ネットワークの形成が始まるのである。
Silver_Dirham.png
(ウマイヤ朝が発行したディルハム銀貨)


また、行政用語として帝国全域でアラビア語が導入された。
実はそれまで、中央・地方ともにもっぱら政治の実務を担ってきたのはギリシア語やコプト語やペルシア語を母語とする異教の被保護民たちだった。
なにしろアラブ人は砂漠から出てきたばかりで、基本的に戦うことしか能がなかったので仕方ない。
だが、すでに大征服の開始から半世紀が経過し、アラブの民は征服した諸民族からさまざまな知識を貪欲に吸収しつつあった。
そもそもウマイヤ朝アラブ帝国はアラブ人による征服王朝なのだ。しかもアラビア語は神がムハンマドに啓示を下した聖なる言語ではないか。

697年、イラーク総督ハッジャージュの命によりイラーク地方における公用語がペルシア語からアラビア語に変更される。
ペルシア人官僚たちは「ペルシア語でなければ計算ができない」と激しく抵抗したが、ハッジャージュはやはり冷徹にして果断だった。
「ペルシア語でもアラビア語では1足す1は2だ。アラビア語を学ぶ能力がないのならば辞表を提出せよ」

同様に700年にはシリア地方の行政用語がギリシア語からアラビア語に変更され、705年にはエジプトの行政用語がコプト語からアラビア語に変更された。
必然的に行政機構の内部で働く書記たちも、アラビア語を母語とするアラブ人が多くを占めるようになった。

「征服されたギリシアは粗野なラティウムを征服した」という言葉がある。
文明の進んだギリシア諸国を支配したローマ人は、かえってギリシアの文化に多大な影響を受けて尚武の気風を失ったといわれる。
帝国の東西分裂以後は、東ローマ帝国ではギリシア語が共通語となり、ローマ人の母語たるラテン語は徐々に忘れ去られていく。
だが、アラブ人はそうはならなかった。彼らは「コーラン」の言葉であるアラビア語に絶対の自信を持ち、これをイスラーム世界全域における共通語に定めたのだ。
The_‘Uthman_Quran_-_Kufic
(アラビア文字最古の書体、クーフィー体で記されたコーランの一部)


また、この頃から、ムスリムとしての正しい規範を確定するために預言者ムハンマドや初期の信徒たちの言行を記録する作業が活発に行われるようになった。
ムハンマドは世界最後の預言者であり、もはや世の終わりまでアッラーの言葉が人間に下されることはないという。
アブドゥルマリクの時代は、ムハンマドに直に接した世代がまだ辛うじて生存している頃だった。彼らが世を去って記憶が途絶える前にすべてを伝えて貰わなければ。

膨大な聞き取り作業が行われ、記憶の間違いや誇張や虚偽を除去するために細心の注意が払われた。
語り手はそれを確かに見たのか。聞いたのか。アリバイの確認を通じて培われた技術はイスラーム世界における歴史学の発達を刺激することになる。
語り残された啓示や言行は「ハディース」という書物に纏められ、イスラーム法の重要法源となる。

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アブドゥルマリクによるウマイヤ朝の安定化を背景として、アラブの大征服が再び開始された。

694年にイラーク総督に任じられたハッジャージュ・イブン・ユースフは、クタイバ・イブン・ムスリムムハンマド・イブヌル・カーシムという二人の腹心に命じた。

クタイバは中央アジアへ進め、カーシムはインドへ進め。いずれか先にシーン(中国)に到達した者を、シーン全土の総督に任ぜん!

クタイバ・イブン・ムスリムはイラン高原東部のホラーサーン地方を統治する総督に任じられ、イランと中央アジアを画するアム川を越えて、「マー・ワラー・アンナフル(川の間の土地)」(トランスオクシアナ)と呼ばれる広大なオアシス地帯に侵入した。
この地には商業の民として知られるソグド人が多くの都市国家を築き、ゾロアスター教やマニ教、仏教などを奉じていた。
クタイバはおよそ10年をかけてマー・ワラー・アンナフルを征服し、ブハラサマルカンドといった大都市を攻略した。

705年にアブドゥルマリクが没し、第6代カリフのワリード1世が即位する。ワリードも引き続きハッジャージュやクタイバを重用したので、クタイバはさらに東進して天山山脈を望むフェルガナ地方に至った。
ここまで来ると東の超大国、唐王朝の警戒範囲に入る。唐王朝の歴史書はウマイヤ朝を「白衣大食(タージ)」と記し、クタイバ・イブン・ムスリムについても「畏密屈底波(アミール・クタイバ)」として言及している。

Karte_Map_Chorasan-Transoxanien-Choresmien.png
(イラン高原と中央アジア)


一方、ムハンマド・イブヌル・カーシムは海陸からイスラーム史上初めてインド亜大陸に侵攻する。
弱冠二十歳のカーシムが率いる艦隊は711年にインダス河口のダイブル港を陥落させ、インダス川をさかのぼって北へ支配を拡大していった。713年にはインダス上流、パンジャーブ地方のムルターンを占領し、マンスーラという軍営都市を建設している。


しかし彼らの運命は急転した。
715年にワリード1世が没し、第7代カリフとしてスライマーンが即位する。
スライマーンはワリードの弟であり、早くから次のカリフ位を約束されていたにも関わらず、実子への継位を欲したワリードによって失脚寸前まで追い詰められていた。
そのワリードがもっとも信頼していたのが、東方にあって強大な勢力を誇るハッジャージュである。スライマーンはハッジャージュと彼の派閥に憎悪を滾らせていた。

ハッジャージュは714年に過食による腸閉塞で死亡したが、彼の子飼いのクタイバやカーシムはいまだ健在である。スライマーンは即位後直ちに彼らの罷免を決定した。
クタイバは反乱を起こして中央アジアに独立政権を築こうとしたが、スライマーンは一足早くクタイバの部下たちにカネをばら撒いて支持を取り付けていた。
結果、中央アジアの征服者は征戦に厭いた将兵によってあえなく殺害されたという。

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(日本でおそらく唯一クタイバが登場する短編小説「天山の舞姫」が収録されている)


大征服は西方でも進展する。

まず、アブドゥルマリクの治世中にカリフ直下のシリア軍とエジプト駐留軍の連合遠征軍が北アフリカ中部のイフリーキヤ(チュニジア)に到達し、ビザンツ帝国のアフリカ支配の拠点であるカルタゴを占領した。
皇帝ヘラクレイオス1世の出身地は、かくてビザンツ帝国から失われた。

その西のマウレタニア(アルジェリア)では、「カーヒナ」と呼ばれる女預言者(アラビア語の歴史書では預言者と書いてあるが、むしろシャーマン、巫術師の類かもしれない)に率いられた先住のベルベル人がアラブ軍に激しく抵抗した。
698年、シリア軍はマウレタニアに大攻勢をかけてベルベル人を降伏させる。彼らの多くはやむなくイスラームに改宗し、さらに西方への遠征に加わった。

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(ベルベル人の指導者、カーヒナ)

カーヒナを打倒した後は、もはや組織的抵抗はなかった。北アフリカ総督ムーサー・イブン・ヌサイル率いるアラブ・ベルベル混成軍はまもなく大西洋に到達した。
20年ほど前にエジプト総督ウクバ・イブン・ナーフィがここまで来ることに成功していたが、彼は帰途にベルベル人に襲われて戦死した。
しかし今度は違う。ウマイヤ朝はこれ以後、サハラ砂漠と地中海に挟まれた北アフリカの回廊地帯に恒久支配を確立する。
この地方をアラブ人は「マグリブ」と呼ぶことになる。アラビア語で「西方」、あるいは「日没の地」を意味する言葉である。

Mauretania_et_Numidia.jpg
(マグリブ地方)


ところで、アラブ軍が到達したマグリブ西端のすぐ北にはイベリア半島がある。現代のスペインとポルトガル、当時はキリスト教の西ゴート王国が支配する土地であった。
西ゴートは地中海と大西洋を扼する狭い海峡の南側に橋頭堡を持っていた。セウタという小さな町である。

スペインの伝承によれば、当時セウタの守備を任されていたのはフリアン(ユリアヌス)という伯爵だった。ところが、フリアンの娘のフロリンダは絶世の美女であり、ときの国王ロドリーゴ(ロデリック)は都に上がって来た彼女を見初めて力ずくで凌辱した。
それを知ったフリアンは王に復讐するためアラブ軍をイベリアへ呼び寄せたという。

誘いを受けたのは総督ムーサー麾下のベルベル人の部将、ターリク・イブン・ズィヤードだった。
彼は711年、フリアンの手引きで海峡を北へ渡る。このとき彼が上陸したイベリア半島最南端の岩山は、のちに「ジャバル・アルターリク(ターリクの岩)」と呼ばれることになる。すなわち「ジブラルタル」である。

Tariq_ibn_Ziyad.jpg
(ターリク・イブン・ズィヤード)


イベリア南部の諸都市は次々に陥落した。西ゴート王ロドリーゴは軍を集めて抗戦を挑むが、グアダレーテ河畔の戦いで惨敗した。
翌日に王が騎乗していた白馬が矢を受けて死んでいるのが見つかったが、王自身の遺体はついに発見されなかった。
スペインの伝説ではロドリーゴは死なず、いつの日かスペインが危機に陥った時に再び姿を現すとされている。


ところがこのイベリア侵攻は、ターリクの上官たるムーサーがまったく与り知らぬうちに敢行された。
事態を知ったムーサーは慌ててイベリアに渡り、独断で兵を動かしたかどでズィヤードを激しく譴責した。ズィヤードはせっかく獲得した戦利品をすべてムーサーに差し出して許しを請わなければならなかった。

アラブ軍は北へ進撃を続ける。同年のうちに半島中部に位置する西ゴート王国の国都トレドが陥落し、王宮で実に豪奢な食卓が発見された。ムーサーはこれをカリフのワリードに献上したという。
アラブ人たちはイベリア半島を「アンダルス」と呼んだ。これはアラブの大征服によって獲得された諸国の中でも、もっとも豊かな国のひとつとなる。

アラブ軍はわずか7年でアンダルス(イベリア半島)のほぼ全域を制圧した。
わずかに半島の北端、大西洋に面するアストゥリアス地方の険しい山地だけがアラブ軍の侵攻を阻み、ここに西ゴート貴族たちの生き残りが結集した。
彼らの指導者は「髭のペラーヨ」と呼ばれる人物で、蜂蜜を舐めて飢えを凌ぎながらイスラーム勢力に対するレジスタンスを開始したという。
この敗残者たちが核となり、以後七百年にわたるキリスト教勢力の巻き返し、「レコンキスタ(国土再征服運動)」がはじまることになる。

ちなみにアンダルスの征服者ムーサーは莫大な財宝とともにダマスクスに凱旋し、ワリードに激賞されるが、次のスライマーンが即位するとこれが仇となった。
クタイバやカーシムと同じくムーサーも先帝のお気に入りということでスライマーンに厭われ、全財産を奪われて路傍に窮死したと伝えられる。


さて、アンダルスを制したアラブ軍は、さらに北方を窺った。
そこは当時「ガリア」と呼ばれる、密林に覆われた未開の土地だった。後の世にフランスと名付けられる地域である。
720年代にアンダルスの総督に任じられたアブドゥルラフマーン・アルガーフィキーは地中海沿いにガリア南部に進出し、アルルやナルボンヌ、カルカッソンヌなどを占領。
ローヌ渓谷から北へ分け入ったが、732年に内陸ヨーロッパを支配するメロヴィング朝フランク王国の分国、アウストラシア公国の軍に阻まれる。世にいうトゥール・ポワティエの戦いである。

ClovisDomain_japref.jpg
(メロヴィング朝フランク王国)


この戦いでアラブ軍を撃破したアウストラシアの宮宰、カール・マルテルはキリスト教世界防衛の英雄として名を高め、孫のカール(カール大帝/シャルルマーニュ)によるカロリング朝フランク王国創建への足掛かりを築く。
その後もアラブ軍は南ガリアに留まってフランク王国との小競り合いや商船への襲撃を続けるが、やがて拠点を捨てて撤退していった。
当時のヨーロッパはあまりにも貧しく未開で、とうてい征服の採算が取れなかったのだ。

いまやウマイヤ朝は、自然の攻勢限界にまで拡大した。
東は世界の屋根たるパミール高原と西インドの砂漠、北はシル川とカラクムの荒野、カスピ海とカフカス山脈。南はインド洋とサハラ砂漠、そして西は大西洋。
この範囲がこれ以後の「イスラーム世界」、「イスラーム文明圏」の中核となる。「アラブの大征服」はついに完了したのである。

610年にマッカの商人ムハンマドが神の啓示を初めて受けた時から、すでに百年の歳月が流れていた。


Map_of_expansion_of_Caliphate_svg.png
(アブドゥルマリクとワリード1世の治世のうちに、ウマイヤ朝は中央アジアからイベリア半島までの広大な版図を統一する)

諸国征服史 第1巻 (イスラーム原典叢書)

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892年に没した歴史家バラーズリーがアラブの大征服を叙述した史書。初期イスラーム史の基本史料のひとつ。


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