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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史10 黒旗の革命軍

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(8世紀初頭のビザンツ帝国)

アラブの大征服が終局を迎えるなか、ウマイヤ朝に残された最後の目標はビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリス、アラブ人が呼ぶところの「クスタンティニーヤ」であった。

ビザンツ帝国、すなわち東ローマ帝国。
幾世紀ものあいだ地中海世界の覇権を握り続けた大ローマの片割れである。
帝都コンスタンティノポリスは海と三重の巨大な城壁に囲まれた難攻不落の都市で、黒海と地中海、アジアとヨーロッパの結節点に位置する。
そこには世界の富が蝟集し、人はこの都を「都市の女王」と呼ぶ。

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(現代もイスタンブルには壮大なテオドシウス城壁の遺構が残っている)

ウマイヤ朝は初代ムアーウィヤの時代に早くもコンスタンティノポリスへの遠征を行なったが、不落の都市はあまりに堅固だった。
第7代カリフ、スライマーンは717年にシリア軍とエジプト海軍を集結し、コンスタンティノポリス再征の命を下した。

かつてムハンマドは「預言者の名を持つ支配者がローマの都を手にするであろう」と予言したという。
「スライマーン」とは旧約聖書に登場するソロモン王と同じ名前である。イスラームではソロモンを預言者の一人とする。
スライマーンは絶対の自信をもって親征の途についた。

だが、ビザンツ帝国は驚くべき新兵器によってアラブ軍を翻弄した。「ギリシアの火」と呼ばれるものである。
これは原始的な火薬兵器と推測されている。火炎放射器によって浴びせかけられ、水をかければますます激しく燃え、海上でアラブの艦隊を焼き尽くしたという。

スライマーンはコンスタンティノポリス攻略を断念し、シリアへ撤退した。
たしかにコンスタンティノポリスはいずれ、預言者の名を持つ支配者によって陥落する。だが、それは七百年以上も後のことであり、その名もスライマーンとは別の預言者のものであった。

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(ギリシアの火)

もはや征服の時代は去った。
720年代に入るとカスピ海北方の遊牧民、ハザール族がカフカス山脈を越えてアルメニアに侵入してきた。
ウマイヤ朝は逆襲に転じてカフカスを越え、ヴォルガ河口までハザール軍を追撃した。
だが、本格的な支配を確立することはできず、カフカス山脈とカスピ海に挟まれた隘路に巨大な要塞を築いて北からの侵攻に怯えつづける。
中央アジアではテュルク(トルコ)系の遊牧民がマー・ワラー・アンナフルに侵入し、一時アラブ軍はアム川まで後退を強いられた。
ガリアのアラブ軍もアンダルスに撤退し、そのアンダルスではベルベル人の反乱が繰り返された。

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(ウマイヤ朝はハザール族に備えてサーサーン朝時代のデルベント長城を再建し、バーブ・アル・アブワーブ要塞の守りを固めた)

外征で勝つことができなくなっただけではない。ウマイヤ朝アラブ帝国は徐々に内なる不和に悩まされるようになった。

ひとつは「マワーリー」と呼ばれる新規改宗者の扱いである。

イスラームでは、異教徒は納税によって旧来の信仰を保護されることになっている。裏を返せば、異教徒である限りムスリムよりも重い経済的負担を負うことになる。
イスラーム勢力の支配が長期化するにつれて、各地の異教徒たちはイスラームに改宗して納税の義務を免れようと考え始めた。これは当局にとって思わぬ事態だった。
そもそもイスラームは積極的に異教徒に改宗を強いる宗教ではない。むしろ当時のアラブ人たちは、イスラームといえばアラブの宗教であって、異民族は異なる信仰を持つのが当然と認識していたらしい。
しかし異民族であってもムスリムとなった以上は税を免除することが定めである。重税に苦しむ農民たちは続々とイスラームに改宗し、アラブ人が集住する軍営都市に流入した。

マワーリーの増加につれて、ウマイヤ朝の国庫収入は目に見えて減少し始めた。
ウマイヤ朝はマワーリーたちを強制的に農村に追い返して納税の継続を強いた。異民族にイスラームへの改宗を禁じることも検討された。
マワーリーたちにしてみれば、こんな理不尽なことはない。おまけに村に帰ったところで畑は荒れ果て、土地は他人の手に渡っている。
社会は混乱し、マワーリーは不満を強めた。

717年に即位したウマル2世は状況の深刻さを認識し、抜本的な改革に手を付けた。
彼はウマイヤ朝の歴代カリフのなかで際立って敬虔なムスリムだった。彼の理解するところでは、元来イスラームの教えでは万人は神の前に平等であり、アラブか非アラブかで差別を設けることなど理に合わぬ。
ウマル2世はどの民族であれ自由にイスラームに改宗して都市へ移住することを認め、彼らに納税の義務がないことを明言した。

しかしウマル2世は在位わずか2年で没する。
もとより財政が危機に瀕するなかで彼の打ち出した政策が機能するはずもない。マワーリーの不満は高まる一方だった。


アラブ人のなかにも対立があった。
大征服時代にシリアに移住したアラブ族は南アラビアの出身部族が多い。一方、征服が遅れたイラーク以東では戦力を補うために北アラビアのリッダの諸部族が投入された。
ウマイヤ朝は王朝初期からシリアとイラークのあいだで揺れ続けた。
初代ムアーウィヤはシリアのアラブ軍の力によって政権を確立したが、第二次内乱を制したアブドゥルマリクとハッジャージュはイラークに比重を置いた。
時代が下るにつれて、シリアの南アラブ族とイラークの北アラブ族は、宮廷の人事やカリフ位の継承をめぐって事あるごとに争うようになった。


さらに、ホラーサーン軍の問題がある。
第一次内乱後にバスラの総督となったズィヤード・イブン・アビーヒは反抗的な諸部族を東方に移住させ、クタイバ・イブン・ムスリムは彼らを率いて東部イランのホラーサーンからマー・ワラー・アンナフルに遠征を行なった。
そうした施策は結局のところ問題の先送りでしかなかった。
中央アジア方面に駐留するアラブ軍は常に征服戦争の最前線に動員され、アラブ人としての特権も与えられず、中央政府から冷遇され続けていると感じていた。

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(ウマイヤ朝のカリフたちがクサイル・アムラの宮殿に描かせた壁画)

イラークのシーア派も、アリーの子フサインを惨殺したウマイヤ朝への復讐の念を忘れることはなかった。

フサインの曾孫(アリーからみて四代目の子孫)にあたるジャーファル・アッサーディクはシーア派法学を精緻に理論化した。
それによれば、第四代カリフのアリーは預言者ムハンマドの生前に後継者に任命されており、預言者以外では唯一、神の意志と啓示を誤りなく理解する能力を持っていた。
その能力は血統と前任者からの指名によって代々アリーの男系子孫に継承されていく。これを「イマーム」という。
イマームだけがイスラーム法を正しく解釈し、ウンマを導く能力と資格を持つという。

ウマイヤ朝のカリフたちは、ウマル2世を除けばお世辞にも敬虔とは言えなかった。彼らは酒を飲み、舞踏を眺め、イスラームによって禁じられている絵画を描かせて現世の享楽に耽っていた。
ウマイヤ家の者たちは異教徒同然ではないか。このような輩が我々を統治する権利などあろうか。シーア派の主張は、ウマイヤ朝への不満が渦巻くイスラーム世界で広く共感を呼んだ。


740年代に入るとウマイヤ朝の支配は目に見えて動揺をはじめた。
マグリブとイラークでハワーリジュ派が蜂起し、イマームを自称するアリーの子孫たちによる挙兵も相次いだ。744年にはウマイヤ朝の力の核心たるシリア軍がクーデターを起こした。
動乱の時代はすぐそこまで来ていた。


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(アッバース革命の広がり)

その頃、預言者ムハンマドの叔父、アッバースの子孫が死海の南の小さな村に隠れ住んでいた。彼らは名を秘め、表に出ることなく野心を育み、陰謀を企てた。

ウマイヤ朝の支配を打倒し、アッバース家による新たな王朝を樹立せん!

賛同者たちがクーファに基地を設けて活動を開始した。

第二次内乱のさなか、685年にクーファでシーア派のムフタールという人物が、アリーの遺児のムハンマド・イブン・ハナフィーヤをマフディー(救世主)として擁立した。
このムハンマド・イブン・ハナフィーヤを今なお崇敬するシーア派の人々の耳に、こんな噂が入って来た。
ムハンマド・イブン・ハナフィーヤはイマームであった。その地位は彼の息子のアブー・ハーシムに伝えられ、アブー・ハーシムの死後には預言者の叔父であるアッバースの子孫にイマームの位が譲り渡された……。

下地はできた。次に彼らは四方に教宣員(ダーイー)を派遣し、実際に反乱を促すことにした。
彼らが最も期待をかけたのはホラーサーンだった。この地は混沌として、ウマイヤ朝に対する不満とイマームへの期待が渦巻いている。それを利用できれば……。

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(アッバース朝は黒一色を象徴とした)

745年、ホラーサーンの地にアブー・ムスリムという謎めいた人物が姿を現した。
彼の名は偽名である。本名も不明、出自も不明、前半生も不明。人に過去を問われると、「私の系図より私の行為が重要であろう」とはぐらかすのが常だった。
ともあれアブー・ムスリムは天才的な組織者であり、煽動者だった。彼はこの地にあってウマイヤ朝に不満を持つあらゆる勢力をひとつにまとめた。
アブー・ムスリムは誰の支持を受けて動いているのかも、誰をカリフにすることを目指すのかも明言しなかった。
「ムハンマド家のなかの真に相応しく認められたる者をカリフに推戴せん。ウマイヤ家への忠誠を放擲せよ」

747年6月15日、アブー・ムスリムはついに武装蜂起に踏み切った。
この日、漆黒の軍旗が掲げられた。
8000人の黒衣の兵士たちが沈黙のうちに立ち上がった。兵士たちは所属の部族を口にすることを禁じられた。内部の争いを回避し、一丸となってウマイヤ朝を打倒し、世界を変革するためだった。

ウマイヤ朝のホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールは、各地で頻発するアラブ人同士の抗争に対処することに忙殺され、アブー・ムスリムの挙兵に対応できなかった。
翌年2月にホラーサーンの首邑メルヴが陥落し、総督は追放された。

黒旗の革命軍は西進を開始した。

シーア派の伝承にいわく、預言者ムハンマドはかつて語った。
世の終わりの日に東のかたよりマフディー(救世主)が出現する。救世主はクーファ、マディーナ、マッカ、エルサレムへ向かい、アッラーによる最後の審判が開始される。

救世の軍、来たる。終わりの日は迫れり。裁きの日の主宰者、アッラーに拝跪せよ!
イラン高原の諸都市は恐れ戦き、次々に無血開城した。ウマイヤ朝の討伐軍はことごとく打ち破られた。
749年8月、革命軍はついにクーファに達した。


革命軍の最高幹部たちはここで重大な事実を知らされた。
最初にウマイヤ朝の打倒を企画したアッバース家の当主イブラーヒームは、革命軍が到達する前にウマイヤ朝によって拘束され、ハッラーンの地で獄死していたのだ。
革命は成ったが擁立すべき人物が失われた。誰をカリフに推戴すればよいのか。

クーファの革命司令部はシーア派が主張するようにアリーの子孫を擁立しようとした。
だがアブー・ムスリムはそれを封殺し、官憲の手から逃れて潜伏していたイブラーヒームの兄弟、アブー・アルアッバースを見つけ出した。

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(アブー・アルアッバースの即位)

革命軍の兵士たちは愕然とした。
彼らの大部分はシーア派信徒である。アブー・ムスリムは当然アリー家のイマームを推戴すると信じて戦ってきた。
だが、実際に登場したのは見も知らぬアッバース家の人物である。
愕然としたが、彼らは今更これに異を唱えることができなかった。軍の上層は否応なしにアブー・アルアッバースへの忠誠を誓わされた後だった。

アブー・アルアッバースは演説した。

「クーファの民よ、そなたらは我らの愛が赴き、友情が留まるところである。そなたたちは我らの期待を裏切らず、圧制に耐え抜いて我らの時代をもたらした……余はそなたらの俸給を100ディルハム引き上げた。数えるがよい。余は『アル・サッファーフ』(惜しみなく注ぐ者)である」

その言葉を裏付けるように、人々に大量の金貨が投げ与えられた。
アッバース朝初代カリフ、アブー・アルアッバースはこれ以後「サッファーフ」の異名で呼ばれることになる。

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(アッバース朝初期のディナール金貨)

ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は1万2千にまで減ったシリア軍を率いてユーフラテス川上流に進出し、起死回生の反撃を試みた。

彼は決して無能でも怠惰でもなかった。
王子時代にはアルメニア総督として南ロシアのハザール王国と戦ってヴォルガ河畔まで兵を進めたこともあるし、カリフとなってからも戦陣では兵士と同じ衣装を着て、同じ糧食を食べて戦ったという。

だが、新興のアッバース朝はウマイヤ朝の最後の抵抗を一撃で吹き飛ばした。
750年8月、エジプトに逃亡したマルワーン2世は小さなキリスト教の教会に潜伏しているところを発見された。
カリフは自ら剣を抜いて戦ったが、衆寡敵せず殺害される。首級はクーファに送られた。

ウマイヤ朝の王族たちは、ダマスクスに入ったアッバース朝軍によって徹底的に粛清された。何十人もの王族が斬首された。

数ヶ月してアッバース朝は融和を打ち出した。新体制に仇なす者たちは全て打ち平げた。残るウマイヤ家の成員たちはアッラーに救われた者と見なして厚遇しようという。
和解の宴が催され、生き残ったウマイヤ家の人々が参列した。宴のさなかに兵士たちが乱入し、集まっていたウマイヤ家の人々を皆殺しにした。
カリフは彼らの死骸の上に皮の敷物を重ね、さらに宴を続けることを命じた。
サッファーフは惜しみなく財貨を注ぐのみならず、血も注ぐことを知らしめたのである。

勝者の手を逃れた王族はたった一人しかいなかった。その一人が、のちに遥か彼方の地で新しい王国を築くことになるのだが、それはまた別の物語である。


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コメント

はじめまして

毎回楽しく読ませてもらっています
地図、絵画、写真等も非常に参考になりありがたいです
今後も期待しています

  • 2014/10/25(土) 09:23:39 |
  • URL |
  • あーど #-
  • [ 編集 ]

Re: はじめまして

はじめまして

コメントありがとうございます。励みになります。
これからもよろしくお願いします。

  • 2014/10/25(土) 19:20:28 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

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