世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史12 ザンジュとグラーム

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(9世紀前半のホラーサーン地方)


アッバース朝イスラーム帝国の力の基盤は、王朝創建の担い手「ホラーサーン軍」である。
しかし「ホラーサーン軍」というのは「ホラーサーン出身の兵士たちの子孫」であって、現にホラーサーンに居住する人々とは別物である。

ホラーサーンの住民たちはアッバース朝に不満やるかたなかった。
遠くバグダードにて推進される中央集権政策によって多額の納税を強いられ、徴兵された兵士たちは広大な帝国の各地に派遣される。

帝位継承争いに際しカリフ位請求者がホラーサーンに潜行して支持を集めることも少なからず、東方ではしばしば反乱が発生した。

758年、アブドゥルジャッバールの乱。
767年、ウスタースィーズの乱。
そして776年にはムカンナーの乱。

ムカンナーというのは「覆面をした者」という意味で、反乱首謀者が常に黄金の仮面をつけていたことに由来する。
伝えられるところでは、ムカンナーはかつて暗殺者としてアブー・ムスリムに仕えたという。
彼の主張するところでは、死せるアブー・ムスリムは人祖アダムやノアが転生した救世主であり、自分自身はアブー・ムスリムの預言者であるという。
彼が黄金の仮面をつけるのは、「預言者」の顔があまりに輝かしいので、俗世の常人が目にすることが許されないからだと説明された。
信徒たちは白衣をまとってムカンナーに付き従い、ムカンナーの命令一下、欣然として死へ赴いた。
783年にアッバース朝は大軍をホラーサーンへ派遣。追い詰められたムカンナーは城に火を放ち、信徒たちとともに服毒して自殺した。

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(ムカンナーを題材にとった短編小説「仮面の染物師、メルヴのハキム」が収録されている)


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(千夜一夜物語のカリフ、ハールーン・アッラシード)


786年、第5代カリフとしてマフディーの次男、ハールーン・アッラシードが即位した。
いわゆるアラビアンナイトこと「千夜一夜物語(アルフ・ライラ・ワ・ライラ)」にしばしば登場し、「宰相ジャアファル」・「御佩刀(みはかせ)持ちマスルール」を引き連れてバグダードの夜を彷徨う人物である。
このジャアファルとマスルールはいずれも実在の人物であり、とくにジャアファルとハールーン・アッラシードの運命は複雑な愛憎によって縒り合されていた。

宰相ジャアファルこと、ジャアファル・イブン・ヤフヤー。そしてその父ヤフヤー・アルバルマキー
彼らはアッバース朝創建以来、代々宰相を務めた名門バルマク家の家長である。

バルマク家はペルシア系と言われることが多いが、正確にいえばアフガニスタンのバルフにあった仏教寺院の管長の子孫であった。

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(アラビアンナイトの世界へ)


二十歳を過ぎたばかりのカリフは狩猟と戦争にしか関心がなく、バルマク父子にカリフの印綬を渡して帝国統治を白紙委任した。
バルマク家のジャアファルは洗練された美男子で、ラシードの親友となり、しばしば狩猟や宴席をともにした。
バルマク家はその出自からしても東方との結びつきが強く、ホラーサーンの土豪や現地諸侯がバグダードに陳情を行う際のロビーとなっていたので、彼らが政権の中枢を掌握したことにより、ホラーサーン人が次々にバグダードに上京して官界に進出することになる。


ラシードの治世前半においてバルマク家は権力と富を欲しいままにし、豪奢な生活と取り巻きへの寛大な賜余によって名を高めた。
たとえば14世紀に成立したイブン・アッティクタカーの「アルファフリー」にはこんな逸話がある。

ヤフヤー・アルバルマキーに若く貧しい書記が仕えていた。
ある日ヤフヤーは、彼の前でふと口にした。
「いずれそなたの家を訪ねてみたいものよ」
「とんでもないこと。私の家は貧しく、ご主人様をお迎えできる場所ではありません」
「いや、しかしぜひとも」
「ぜひともということであれば、準備をしますので数ヶ月お待ちください」
若い書記は急いで家を整え、ほうぼう金を借りて接待の準備をし、いよいよ宰相を貧しい我が家に招待した。
ヤフヤーは息子のファドルとジャアファルを連れて書記の家に到着し、焼き鳥を食べた後に「そなたの家を見せてくれ」という。
「ご主人様、私の家はこれだけで、他にはありません」
「そんなことはない。大工を連れてまいれ」
大工が来ると、なんとヤフヤーは勝手に彼の家の壁に扉をつけさせる。
「ご主人様、隣の家に通じる壁に扉をつけることが許されましょうか!」
書記は驚愕したが、ヤフヤーは「一向に構わん」という。
扉を開くと、向こう側には美しい庭園が広がり、多くの召使を擁する立派な屋敷が聳えていた。
「書記よ、今日からこれは全てそなたのものだ」
「ご主人様、これはなんとしたことで」
実はヤフヤーは、書記の家を訪ねたいといった日から、彼の家の隣の土地を買い取って庭園を整備し屋敷を建て、彼に与える準備をしていたのだ。
さながら「千夜一夜物語」の一挿話のような逸話である。


だが、若いカリフも歳月を経るにつれて政治と権力の蜜に惹かれるようになる。
ラシードは「ホラーサーン人」の急速な台頭に不満と不安を感じていた「ホラーサーン軍」に接近し、803年の春に帝都を震撼させる一大事変を引き起こした。

その日、ラシードはマッカ巡礼から帰ったばかりの親友ジャアファルと連れ立って狩りに出かけた。うららかな陽光とそよ風が春の訪れを告げていた。
狩りを終えたラシードは会食を前に自室に退く。
それからしばらくして、カリフに近侍する御佩刀持ちのマスルールがジャアファルの元に現われ、召し出しを告げる。
何ら疑惑も不安も感じることなくカリフの御前に赴いたジャアファルは突如死罪を宣告され、直ちに斬首された。
死体は三つに切断されてティグリス川の橋のたもとに晒され、バルマク一族を粛清の嵐が襲った。先代宰相ヤフヤー、ジャアファルの兄のファドルなど、名だたる人々は尽く投獄された。
こうしてラシードは至高の権力と孤独を二つながらに手にしたのである。


直接統治を開始したラシードであるが、後ろ盾たるバルマク家を失ったホラーサーンは再び反抗に立ち上がる。
806年、サマルカンドの土豪ラーフィー・イブヌル・ライスが中央アジア諸侯を糾合して兵を挙げた。ウマイヤ朝最後のホラーサーン総督、ナスル・イブン・サイヤールの孫である。
ラシードは自ら陣頭に立って反乱鎮圧に赴くが、途上ホラーサーンのトゥースで生涯を終えた。

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(ハールーン・アッラシードはこの作品に登場したことにより、日本における知名度を飛躍的に高めたと思われる)



ハールーン・アッラシードの死によって、バグダードの「ホラーサーン軍」と、バルマク家によって登用された「ホラーサーン人」たちの対立が顕在化し、一触即発の状態となった。
前者はラシードの嫡男アミーンを擁立し、後者はラシードの異母兄マアムーンを擁立した。
アミーンはラシードの正妃ズバイダが生んだ子であるが、マアムーンはホラーサーン出身の女奴隷の子だった。つまるところ、血統的にマアムーンはホラーサーン人なのだ。

ラシードは生前、あくまでも長子たるアミーンがカリフの位を継ぐことを確認しつつ、軍は兄弟の間で分割し、マアムーンはホラーサーン総督としてほぼ絶対的な自治を行うことと定めていた。
帝国分裂の芽をまく愚劣な遺言ともいえる。
しかし当時の情勢では、ホラーサーン人を宥めるために将来の自治を約束するしかなかったのかもしれない。

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(ビザンツ帝国の年代記挿絵(左端)に描かれたマアムーン)

811年、アミーンはホラーサーンの自治尊重の誓約を破棄し、マアムーンに税の送付を要求した。これによって兄弟は決裂した。
マアムーンは中央アジアで兵を集め、西進を開始した。
前線の指揮をとるのは隻眼の猛将ターヒル・イブン・フサイン。二本の剣を自在に操り、「二つの右手を持つ男」と畏怖される生粋の武人であった。

アミーンとマアムーンはイラン高原北部のレイで激突した。
奢侈に慣れた「ホラーサーン軍」はターヒル率いる質実剛健な「ホラーサーン人」に一蹴され、雪崩を打って潰走した。
アミーンはバグダードに籠城し、路傍や風呂屋で寝起きする貧民たちをかき集めた。

「武器がないなら小石を投げろ!」
「兜がないなら葦の葉で頭を覆え!」

貧民たちは指揮官の鞭と敵の槍に代わる代わる叩き伏せられながら必死に戦った。
資金が底をつくと絨毯や食器が給与代わりに支給され、それもなくなると富豪の邸の略奪が許可された。
激しい市街戦が展開された。
何週間にもわたって街区一つ一つの争奪が繰り返され、人々は逃げ惑い、いたるところ炎が上がり、大いなる帝都バグダードはあらかた灰燼に帰した。そして813年9月、アミーンはついにターヒルによって殺害された。

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(隻眼の猛将ターヒル……のはずだが後姿ではよくわからない)


マアムーンは難しい立場に置かされた。
カリフ位継承争いに勝利を収めたは良いものの、実権はホラーサーンの諸侯が手にしており、イラークではアミーン支持者たちの反抗が続く。

敵を減らそうと思ったのか、マアムーンは突然シーア派に接近した。
ジャアファル・アッサーディクの孫で当時アリー家の統領だったアリー・リダー(エマーム・レザー)を後継者に指名し、アッバース家の象徴であった黒衣黒旗をシーア派の象徴である緑衣緑旗に変更したのである。

シーア派に親近感のある東方の人々はこれを歓迎したが、イラーク地方の反発はマアムーンの予想を超えるものだった。
駐留軍は追い払われ、王族がバグダードでカリフとして担ぎ出された。

マアムーンはシーア派への接近をやめ、態勢を立て直して西へ進軍した。
マアムーンとターヒルが迫るにつれてイラークの人々は動揺しはじめた。
その恐怖を見越してマアムーンは一気に進軍速度を加速する。ここでまことに都合よくアリー・リダーが死亡。
バグダードのホラーサーン軍との手打ちが成ると、市民歓呼のなかを819年8月に威風堂々と帝都に入ったのである。

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(シーア派はマアムーンがアリー・リダーを毒殺したと見なしており、リダーの霊廟が所在するマシュハドを聖地としている)

Imam Reda (as) | épisode 1 [Vostfr]

(アリー・リダー(顔が光ってる人)を主役にしたドラマを発見した)



マアムーンはイラークと手を結び、西に比重を置いた。今度はホラーサーン人が反発する番だった。
こうなればマアムーンとして打てる手は一つしかない。ホラーサーンを抑えるに足る力を持ち、それなりに信頼が置ける人物。それは猛将ターヒルしかいない。

821年、ターヒル・イブン・フサインがホラーサーン総督に任命され、ホラーサーン人の不満を抑えるために現地諸侯の特権は安堵された。
ターヒルは翌年にあっさり死んでしまうが、次の総督にはターヒルの遺児のタルハが任じられる。タルハが死ぬと、さらにその子のアブドゥッラーが任じられる。

つまるところ、ホラーサーンを抑えられるのはターヒル家しかいないのだった。
気が付けばホラーサーン地方は名目的にアッバース朝に忠誠を誓いつつも、ターヒル家のもとで事実上の独立国家と化している。
歴史上「ターヒル朝」(821~873)と呼ばれる地方政権の誕生である。

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(ターヒル朝)


王朝創建を支えた「ホラーサーン軍」の子孫たちは今や単なる無駄飯食らいと化し、その忠誠も疑わしい。マアムーンは政権の支えとなる新たな軍事力を求めた。

これまた必ずしも全幅の信頼を置くことはできないとはいえ、ホラーサーンの土豪と兵士たちが多く招致された。
さらにその向こうのマー・ワラー・アンナフルや、シル川を越えた中央ユーラシアの大草原に暮らすテュルク系遊牧民も召募された。
マアムーンはこれらの新軍隊によってイラークの治安を回復し、文化事業に着手した。

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(「知恵の館」に集う学者たち)

もともとマアムーンはアッバース朝歴代カリフのなかでも一二を争う好学の人である。
これまで半生を通じて権謀術数に明け暮れる日々を余儀なくされたとはいえ、それは必ずしも彼の本意ではなかった。

830年、マアムーンはバグダードに「知恵の館」(バイト・アルヒクマ)を設立した。
「知恵の館」は図書館・翻訳センター・天文台を兼ねる施設で、カリフの命によってここにイスラーム世界各地の名だたる学者たちが集められた。
ここでプラトンやアリストテレス、ヒポクラテスやガレノス、エウクレイデスといった古代ギリシアの思想家たちの著作が続々とアラビア語に翻訳され、イスラーム文化を豊穣にした。「大征服」のあとに「大翻訳」の時代が来たのである。
人類文明の歴史上、バグダードの知恵の館はたとえばアレクサンドリアの大図書館や、大英博物館に匹敵する存在である。
古代西ユーラシアの知的遺産はすべてここに流入し、またここから流出する。
西方ヨーロッパではヘレニズムの叡智は忘れ去られた。今日に古代思想の記憶が残されたのは、マアムーンの「知恵の館」あってのものである。

マアムーンは理性の人であった。
彼は「ムウタズィラ派」という人間の自由意志を認める神学を支持し、マアムーンが任命したムウタズィラ派の法官たちはイスラーム史上で稀な異端審問を行った。
ここで異端として弾圧されたのは、むしろイスラームの正統派というべき思潮である。

万能の神の前で人間に自由意志はない。「クルアーン」に記された神の啓示とハディースに示された預言者の慣行(スンナ)に忠実に従うべし。
こうした、ある意味で素朴な信仰を弾圧するムウタズィラ派は一般民衆から忌み嫌われる。

理性に重きを置く自由主義者が反理性的な教条主義者を異端審問で迫害する。
「近代的」観点から見れば奇妙な構図だが、これがマアムーンの時代だった。

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(「知恵の館」で活躍したバヌー・ムーサー三兄弟)


833年にマアムーンが死去すると、第8代カリフとなったムウタスィムは新制軍をさらに増強した。
彼は中央アジアのテュルク系遊牧民を組織し、7000騎におよぶ直属軍を作り上げた。
自発的にカリフに仕えた兵士も少なくなかったが、それ以上に奴隷としてイラークに連れて来られ、ここでカリフに買い上げられた者が多かった。

テュルク人は馬上で弓を引く「騎射」の技に長けている。
これは中央ユーラシアの大草原で生まれ育った遊牧民ならではの戦闘技術であり、中世の戦場では圧倒的な威力を発揮した。
加えて奴隷から解放され、高い身分と給金を保証された兵士たちはカリフに絶対的な忠誠を捧げた。

イスラーム世界に独特の、いわゆる「奴隷軍人」(グラーム)の登場である。


バグダードの住民たちは異教の地からやって来た、言葉の通じぬ粗暴な騎士たちに困惑した。
生活習慣の違いから衝突が頻発し、衝突は暴動に発展した。
さらに、グラームたちは宮廷内の勢力争いに加わって街中で相互に殺し合いを行ない、市民の家に押し入って乱暴狼藉を欲しいままにした。
旧来のホラーサーン軍と、グラームたちの対立も深刻化する一方だった。

「信徒の長よ、あなたはよそ者を連れて来て我々の中に住まわせた。子供から父親を奪い、女から夫を引き離し、彼らをもって我々の家族を殺した」
「信徒の長よ、あなたがいつまでも横暴な統治を続けるのであれば、我々は『暁の矢』で抵抗しますぞ!」


暁の矢とは、無辜の民が夜明けの礼拝においてアッラーに現世の帝王の圧制を告訴することである。
ムウタスィムはたじろぎ、グラームたちを引き連れてバグダードを去った。

836年、バグダード北方に「サーマッラー」という新都市が建設され、カリフのもとでテュルク系のグラームたちがここに集住した。以後数十年にわたり、サーマッラーがアッバース朝の首都となる。

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(右端がアッバース朝第8代カリフ、ムウタスィム。マンスールより8代目の子孫で、8月に生まれ、38歳で即位し、8人の息子と8人の娘を持ち、8回遠征し、48歳で死に、800万ディルハムの資産を残した)


ムウタスィムの死後、世界帝国アッバース朝の衰運はいよいよ急となった。
すでに中央アジアにターヒル朝(821~873)、アンダルスに後ウマイヤ朝(756~1031)、マグリブにイドリース朝(788~985)、イフリーキヤにアグラブ朝(800~909)が成立。
ターヒル朝とアグラブ朝はまだしも名目的にカリフの主権を認めるが、イドリース朝と後ウマイヤ朝は完全に独立路線を行く。
アッバース朝の主権が及ぶ範囲はせいぜいのところ、イラン高原西部からエジプトまでに縮小した。

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(10世紀初頭のイスラーム世界。アッバース朝の支配はますます衰えていく)


そしてサーマッラーのグラームたちもいつまでも大人しくはしていなかった。
はじめは無私の忠誠を誓った純朴な軍人たちも、時とともに自分たちこそがカリフの力の実体であることを悟りはじめる。
カリフ位継承をめぐる争いが頻発するなかでグラームたちは力を増し、実権を掌握し、思うがままにカリフの首を挿げ替えた。

「ムタワッキルの暗殺後は、テュルク人たちが帝国を支配し、カリフの権力を弱めた。
カリフは彼らの手中にあって、あたかも捕虜のごとき存在であった。
カリフを留めおくのも、廃位するのも、殺すのもグラームたちの意のままであった」

(イブン・アッティクタカー『統治術の栄誉』)



その頃、あるカリフが占星術師を召し出して「余の在位年数を占ってみよ」と言ったところ、一人の男が「占い師なんぞより俺の方が正しく知っていますぜ」という。
「ほう、何年間だ」
「テュルク人どもが満足している間でさ」
カリフは顔色を変えて席を立ち、残った一同は哄笑したという。

やがてサーマッラーではグラーム同士の内紛も増えはじめ、政局は混乱を極める。
そんななか、南イラークで予想外の大反乱が発生した。

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(市場で売られる黒人奴隷)

アッバース朝の繁栄のもとでアラブやペルシアの商人たちは盛んに海外へ乗り出し、各地で交易を行なった。
その品目の中では奴隷も重要な位置を占めていた。

「クルアーン」には奴隷に愛情を注ぎ、可能であれば自由身分を与えることが神の嘉する善行であると記されているが、奴隷制自体は禁止されていない。
そもそも近代以前において奴隷あるいは奴隷的な存在なしに社会システムを維持することはほとんど不可能であっただろう。

商人たちは主に東アフリカ沿岸部(スワヒリ地方)と中央ユーラシアの大草原から奴隷を調達した。
前者の黒人奴隷は「ザンジュ」と呼ばれ、頑健な肉体能力が買われて農業など屋外労働に使役されることが多かった。
後者の白人奴隷は「マムルーク」や「サカーリバ」と呼ばれ、軍人(グラーム)とされることが多かった。

白人奴隷の待遇はおおむね良好でいずれ自由身分への解放も期待できたが、黒人奴隷の扱いは過酷だった。
中世イスラーム文明は「都市の文明」と呼ばれることがあるが、繁栄する都市の背後には水に乏しい亜熱帯の荒野が広がっており、そこでの農業は厳しいものだった。
メソポタミア文明以来、数千年にわたって酷使され続けた大地は痩せ果て、ともすれば地下水位が上昇して農地に塩が吹き出す。
多くのザンジュが、そんな土地で日々労役を課せられていた。

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(南イラークの大湿地帯でザンジュの乱が発生する)

869年、例のごとくバスラでシーア派の反乱が起こった。これまでと違うのは反乱勢力がザンジュの蜂起を呼びかけたことだった。

反乱指導者は(これも例のごとく)アリーの子孫を自称するアリー・イブン・ムハンマドという人物。
彼はこの平凡な本名よりも、通称の「サーヒブ・ザンジュ」(ザンジュの主人)でよく知られる。

反乱軍はイラーク南部に広がる広大な湿地帯を押さえ、そのなかにムフターラという首都を建設した。
湿地を利用した神出鬼没のゲリラ作戦でアッバース朝の討伐軍を翻弄し、支配地域には行政区域を設定して徴税を行う。貨幣も発行し、裁判も行なった。これはもはや事実上の国家(ダウラト・アッザンジーヤ=ザンジュ王国)であった。


御膝元のイラークでかくも大規模な反乱が発生したことにアッバース朝は衝撃を受けた。
880年、ときのカリフ、ムータミドの弟ムワッファクが討伐軍の総司令官に任命され、五万のグラーム騎馬軍団を率いて占領地域を奪い返し、ムフターラを包囲した。
883年8月に総攻撃が敢行され、「サーヒブ・ザンジュ」は殺害された。
首級がバグダードに晒され、多くのザンジュがもとの奴隷に戻された。
そして反乱鎮圧のためにサーマッラーがほとんど空になったことを機に、再びバグダードが帝都となった。

しかしながら十年以上にわたって帝国中心部が奴隷の反乱軍に占拠されたことはアッバース朝の権威にとって致命的な打撃となった。
加えてこの反乱の影響でペルシア湾交易が一時途絶し、イラークの経済的繁栄にも陰りが差した。


もはや世界帝国は幻のように溶け去り、至るところで新興勢力が叢生する。
東西の危機がアッバース朝に迫り、イスラーム世界は新たな時代を迎えようとしていた。

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(政治的に混迷する中期アッバース朝時代も人々の生活や文化は意外と豊かだったことがわかる)


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