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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史5 天命の岐路

武王、戎車三百兩、虎賁三百人と牧野に戰うを受けて「牧誓」を作る。

時れ甲子の昧爽、王は朝に商郊の牧野に至りて乃ち誓う。
王、左に黄鉞を杖き、右に白旄を秉り、以て麾きて曰く、逖かりき西土の人と。
王曰く、嗟あ我が友邦の冢君、御事・司徒・司馬・司空、亞旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・盧・彭・濮の人よ!
爾の戈を稱げ、爾の干を比べ、爾の矛を立てよ。予れ其れ誓わん!
王曰く、古人の言えること有りて曰く、牝雞は晨する無し。牝雞の晨せば、惟れ家の索くるなり。
今商王受、惟れ婦の言を是れ用う。昏くして厥の肆祀を棄てて答いず、昏くして厥の遺王・父母弟を棄てて迪せず。乃ち惟れ四方の罪多き逋逃、是れを崇び是れを長とし、是れを信じて是れを使し、是れを以て大夫卿士と為し、百姓を暴虐して以て商邑に姦宄せしむ。
今、予れ發し、惟れ天の罰を恭行せん。今日の事、六步七步に愆ぎずして、乃ち止まり齊えよ。夫子勖めよや。
四伐五伐六伐七伐に愆ぎずして、乃ち止まり齊えよ。夫子勖めよや。
尚お桓桓として、商郊に于いて虎の如く貔の如く、熊の如く羆の如くせよ。克奔を迓え、以て西土を役せざれ。夫子勖めよや!
爾勖めざる所あらば、其れ爾の躬に于て戮有らん。

(『書経』「牧誓」)




紀元前1046年2月、六百年にわたって黄河流域に君臨した殷王朝は滅亡した。
これを勝者はかくのごとく語り伝えた。
おそらく、これは必ずしも史実ではない。しかし、その後三千年にわたって歴史の真実として信じられ続けた物語である。


殷王朝が従属させた諸部族のひとつに、「周(しゅう)」と呼ばれる部族がいた。彼らは遠く陝西の果て、岐山(きざん)の麓で暮らす民である。
周族はおそらくチベット高原東部の牧畜民と近縁にあたるのだろうが、伝承上では夏王朝に先立つ聖王舜の時代に生きた、「后稷(こうしょく)」という神人の末裔とされている。

后稷
(后稷)


后稷の母は五帝の一人「帝嚳(ていこく)」の妃、「姜原(きょうげん)」である。しかし彼の父は帝嚳ではなく、他のいかなる神でも人でもない。

厥初生民、時維姜嫄。
生民如何、克禋克祀、以弗無子。
履帝武敏歆、攸介攸止、載震載夙、載生載育、時維后稷。
誕彌厥月、先生如達、不坼不副、無菑無害。
以赫厥靈、上帝不寧、不康禋祀、居然生子。

(『詩経』「生民」)


ある日、姜原は野に出て巨人の足跡を踏んだ。そのときにわかに彼女の胎内にひとつの生命が宿った。月満ちて父無き赤子が生まれると、恐れた姜原はその子を捨てた。

誕寘之隘巷、牛羊腓字之。
誕寘之平林、會伐平林。
誕寘之寒冰、鳥覆翼之。
鳥乃去矣、后稷呱矣、實覃實訏、厥聲載路。

(『詩経』「生民」)


しかし赤子は死ななかった。
道に捨てれば牛羊が来て乳を与え、林に捨てれば木こりが来て拾い、氷の上に捨てれば鳥が翼で赤子を覆った。
鳥が飛び去ると赤子は大きな声で泣き、人の手によって育てられることになった。

この子は実に聡明で、長じるにつれて野の野草を味わい噛み分け、やがて種を蒔いて実りを刈り取る技、「農耕」というものを世の人々に教授した。
この聖なる捨て子こそ后稷、すなわち「稷(きび)を司る者」である。


后稷の末裔は「姫(き)」という姓を称し、「周族」という部族となった。
周族は紀元前12世紀のなかば、后稷より12代後の族長、「亶父(たんぽ)」の時代に異族の襲撃を受けた。

「族長は民のためにおる。たとえ異族の長でも民を善く治める者であれば民に不都合はない。わしが身を退くことが民のためじゃろう」
「ああ、族長はなんと徳高き御方よ。我ら地の果てまでも族長に従いましょう」

こうして周族は西のかた、岐山のもとに移住した。

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(周族の故地、岐山の山麓に広がる周原)

周族は西方の山の民や北方の草原の民と同じように、大いなる蒼天を崇拝する。
彼らは声も姿も無き天が地上の民を治めるために徳ある者を選び出し、「天命」を授けるのだと信じていた。
その見るところ、東の殷王朝ではここ数代にわたって無道の王が相次ぎ、徳は薄れ、天命は去ろうとしている。
殷の民は盛んに供犠を捧げ、甲骨をもって吉凶を占い、青銅の器に怪異な文様を刻み、朦朧となるまで酒を飲んで神意を伺う。

周族が暮らす陝西の岐山は殷王朝の勢力圏の西端近くに位置し、族長の亶父は殷の辺境伯ともいうべき「西伯(せいはく)」の位を与えられている。
だが素朴で剛健な周族にとって殷人の習俗は不気味であり、文明の爛熟は徳の衰えを示すと思われた。


亶父には三人の子がいたが、もっとも期待されたのは末子の季歴(きれき)だった。

「わしが思うに、季歴の子孫には何か特別な運命が待ち受けておる。そして大地の何処かに偉大な賢者がおる。季歴の子孫が賢者と出会うとき、天は運命を示されよう」

族長は奇妙な予言を残してこの世を去った。


だが、季歴はやがて殷王朝の暴君によって捕えられ、牢獄の中で生命を奪われることになる。
末代の殷は暴虐非道な統治を行ない、数多の部族の長たちが非業の死を遂げた。季歴もその一人に過ぎない。

季歴の死後、長男の「昌(しょう)」が族長の位を継いだ。
昌も祖父や父と同じように徳高く、周族に慕われた。
しかし堕落した殷王朝の支配者にとって、この西伯の清らかな姿は何とも苛立つものだった。


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(紂王の没落と周王朝の興隆ははるか後代に「封神演義」として伝奇化された)


その頃、殷に君臨していたのは第30代、紂王(ちゅうおう)である。
紂は妲己(だっき)という美女を寵愛し、彼女を喜悦させるために酒池肉林の宴に耽った。
それを諌める忠臣たちは次々に殺害された。

「賢者の心臓には七つの穴があると伝え聞く。この賢しげな顔をした爺の胸を裂け! 余が彼奴の心臓を検分してくれよう!」
「おのれこの不遜の男めが! こやつを殺して塩漬けにせい! 干し肉にしてしまえ!」


紂王の悪行を耳にした昌は思わず嘆息する。これが紂王の逆鱗に触れた。そう、遠い昔に紂王の先祖である湯王が夏の桀王の怒りをかったように。

「西伯姫昌! 余は貴様を獄に下す。生命が惜しくば領地と宝を献上せい!」
「なんと非道な王よ……だが、わしは周族の長だ。民のために生きねばならぬ。……もはや殷王朝の命運は尽きようとしておる。わしには天命がある。生きねばならぬ。なんとしても生きねばならぬ」

昌は王の求めるままに領地と富を差し出した。
紂王は昌を釈放すると、彼の前に肉汁を突き出した。
それは人質であった昌の長男を殺し、肉を刻んで煮込んだ汁だった。

昌はそれを知っていた。それでもその汁を飲み干して見せた。
限りない悼みをもって、限りない呪いを込めて、実の我が子の肉を腹中に収めた。
このとき、殷王朝の天命は尽きた。

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(殷の宰相箕子を通して殷王朝最後の時代を描く)


姫昌は沈黙のうちに己が領国へ帰った。民は押し黙って主君を迎えた。
誰もが紂王の行為を知っていた。そして、それを甘受した族長の思いも知っていた。いまや周族の心は一つとなった。
遠からずその時は来よう。
殷王紂は程なく、偉大な天によって大いなる報いを受ける。我らが天の手足となってそれを代行する。
遠からずその時は来よう!

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(周の文王姫昌と太公望呂尚の出会い)


まもなく、昌はとある川のほとりで一人の老人が釣糸を垂れているのに出くわした。
一目見て、なぜか昌は理解した。これこそ祖父が予言していた賢者である。天が周族に下された運命の具現である。

「老いたる賢者よ、来たりて我らをお導きくだされ。貴方様こそ我が祖父、太公亶父が望まれていた御方……太公望(たいこうぼう)であろう」
「西伯姫昌よ、わしが分かるか」

老賢者は水面を見つめたまま応えた。

「そうだ。わしが太公望だ。そなたの祖父が望んでいた者だ。程なく時は来る。そなたの息子、姫発(きはつ)が天命を担うこととなろう」

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(周の武王、姫発)

紀元前1056年、昌は97歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。彼は後に「周の文王」と呼ばれることになる。

新しい周族の長となった姫発は、亡き父が晩年に見出した賢者、太公望呂尚(りょしょう)の補佐を得て、ついに紂王討伐の兵を挙げた。
「討伐」とは主権を持つ者がまつろわぬ者を討つことである。なにゆえ殷に服属する周族の長が宗主国たる殷の紂王を討伐するのか。これは単なる反乱ではないか。
姫発によればこれは当たらない。今や至高の天は病み衰えた殷王朝に替わり、周族を華夏中原の新たな王と定めた。
天命を持つ周の族長、いな、周王が暴虐にふける「独夫紂」を討つのである。


周王姫発は父の位牌を陣頭に立て、陝西諸部族、いわゆる「西土」の民を率いて黄河の渡し場、孟津(もうしん)に到達した。
ここで周軍は大いに鬨の声をあげ、西土の結束を確認した。

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(一族を生贄にされた羌族の少年は、殷王朝への復讐を胸に誓う)


それから2年。
紀元前1046年2月に姫発は再び西土の民を率いて東征の途についた。

「今や我らが長年にわたり待ち続けてきた『時』が来た。天命は完全に殷を見離した」

黄河を越え、殷の最後の都、朝歌(ちょうか)を前にして、周王姫発は西土の全軍に演説した。
それが『書経』に記録されて今に伝わる「牧誓(ぼくせい)」である。そのとき、周軍は牧野(ぼくや)にあって、紂王自ら率いる七十万の殷軍と相対していた。
天は殷王朝を怒り、暴風と雷鳴が荒れ狂っていた。


遠くまで来たものだ、西土の人々よ!

周と西方諸部族は身じろぎもせずに彼らを率いる王の言葉を聞く。

我が盟友の諸国よ、我が股肱の臣下たちよ。汝の戈を挙げ、汝の盾を並べ、汝の矛を立てよ! 古の賢者は『雌鶏が時を告げれば家が滅びる』と告げ給うた。いま、紂王は妖姫に溺れて父祖の祭祀を省みず、悪しき者らを重用して華夏中原を荒廃させた。ゆえに今、我は天に代わりて悪逆を討たん! 汝ら、今日の戦にあっては心乱さず粛々として進め。牧野にあって虎のごとく熊のごとく勇猛であれ。命に背く者は斬る!


法螺が鳴り、旗がかざされ、西土の民は進軍を開始した。
もはや殷王朝に天命はない。七十万の殷軍は矛を逆さにして道を開け、西軍が前進するのを傍観した。

全てを失った紂王は都に戻り、鹿台(ろくだい)の宮殿に上ると全身を玉衣で覆い、神のごとき装束で炎の中に歩み入って生涯を終えた。
こうして紀元前1046年、殷王朝は滅亡する。

朝歌に入った周王姫発は紂と妲己の首級を引き据え、三度矢を射て恨みを遂げた。
太公望をはじめ、数多の功臣たちが殷の故地に領地を与えられた。


姫発はのちに「周の武王」と呼ばれることになる。
これより新たなる華夏中原の盟主、周王朝の時代が開幕する。


――以上が勝者によって記された殷王朝没落の物語である。


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(書経は尚書とも呼ばれ、古代中華の帝王たちの言行を録した儒教の聖典。ただし後世の偽作が大半とみられる)


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