世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史6 周王南巡

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(周王朝の時代)


武王は殷王朝を滅亡させたことで天に与えられた使命を全うしたのだろう。
兵士たちの軍備を解いて故郷に帰し、功臣たちを各地に封じた(領地を与えた)ところで、武王は病に倒れた。
このとき周は新たに獲得した広大な東方領の統治に着手したばかりであり、課題は山積みだった。

武王姫発には弟がいた。彼の名は「旦(たん)」。
周公」に封じられ、しばしば「周公旦(しゅうこうたん)」と呼ばれる人物である。

周公旦も父祖たちと同じく有徳の人であり、兄が病に倒れると天に自分を身代わりとするよう祈ったという。
だがそれも虚しく、殷の滅亡からわずか2年後に武王姫発は世を去った。

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武王の遺児はいまだ幼く、周公が摂政となって草創直後の周王朝を率いることになった。しかしそれに不満を持つ者たちもいる。
周公旦の兄弟たちは、自分たちの中で旦だけが摂政として一段上の地位を得たことを妬み、あるいは彼が王位を簒奪するのではないかと勘繰った。
こうして東方に封じられた管叔鮮(かんしゅくせん)、蔡叔度(さいしゅくたく)らが挙兵する。
彼らは紂王の子を担ぎ、沿海の異民族と結んで周公打倒を呼号した。

「我が兄弟らは、我らが長年の辛苦の末に滅ぼした殷王朝を、己らの狭量のために再び生み出すつもりか」

周公は大軍を率いて西土を出撃し、三年にわたって東の国々を転戦した。
実のところ牧野の戦いで殷王紂と殷の主力軍こそ打倒したが、中原東方には依然として殷の影響が色濃く残り、周の支配は弱体だった。
三年の東征は新領土の支配強化に大いに益した。
最終的に反乱首謀者たちは処刑され、殷の遺民は分割統治され、周族と西土の諸部族による東方進出がさらに加速されることになった。

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(周王朝初期の勢力圏と各地の封国)


周の都は岐山に近い西土の鎬京(こうけい)である。
だが、周公はそれとは別に西土の外、中原西部に「洛邑(らくゆう)」という前進拠点を建設した。
ここは黄河の支流、洛水のほとりにあたり、山々が南北に分かれて広大な平野が始まるところだった。
後に「洛陽」と呼ばれる都市の誕生である。

建国の功臣、太公望呂尚は海のほとりの山東に封じられ、「斉(せい)」という国を築くことになった。
周公旦と常に協調した召公奭(しょうこうせき)は黄河下流の北、最も遠隔の地に封じられ、「燕(えん)」という国を建てた。
周公自身は中原東部の泰山付近に領地を得た。ここは「魯(ろ)」という国になる。

各地に封じられた功臣や王族は一門郎党を引き連れて領地に移住し、「邑(ゆう)」と呼ばれる城郭都市を築いた。
周王朝の支配は当初これらの譜代や同族にしか及んでいなかった。
都市の外には周王の権威を認めない異民族が昔と同じように暮らし続けていた。

異郷の地、異族の大海に蒔かれた西土の民。
彼らはそれから何世代もかけて現地の民を服従させ、原野や森林を開拓していくことになる。


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(周代の青銅鼎)

周族は殷人とは違って、呪術や神霊への崇拝をさほど重視しなかった。

彼らはもともと姿なき天を崇める民である。天は偉大な存在だが、人には遠い。
周族の儀礼は天への敬意を示すためのもので、神々の祟りを回避するためのものではない。その世界観は殷を征服してからも大きく変化することはなかった。


周公旦は殷王朝のように霊力や呪力によって華夏を支配するのではなく、儀式や礼制によって王の権威を確立しようとした。
極めて素朴ながら宮廷の儀礼が定められ、王権を飾るに相応しい舞踊や音楽が規定された。
後の世においては、周公旦は『周礼(しゅらい)』や『儀礼(ぎらい)』という書物を著して理想国家の礼制を示したと信じられ、儒教における偉大なる聖王として崇められることになる。

(参考:中華世界の歴史18 改革者の孤独


その一方、周王朝はひとつだけ殷の呪術を受け入れた。それは「文字」である。
当時、文字は情報伝達手段というより、限られた人間だけが扱うことのできる、得体の知れない霊力を秘めた文様と思われていた。

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周は青銅器に文字を鋳込む秘術を獲得し、各地の封君に金文を刻んだ青銅の鼎(かなえ)を賜与した。
そこには封国の諸侯が周王朝に永遠の忠誠を誓う言葉が刻まれていた。
鼎は各国で、王朝から封国統治を委任された象徴として扱われ、累代の宝器となった。
のちの封国の諸侯は鼎に刻まれた金文を目にするたびに、遠く西土に君臨する周王の権威を思い起こすのだった。


聖なる金属・青銅によって作られた三本足の祭器、鼎は王権の象徴である。
むろん封国すべての上に立つ周王家自体にも宝器としての鼎がある。「九鼎(きゅうてい)」と呼ばれるものである。
伝説によれば、九鼎は夏王朝の始祖たる聖王禹が華夏の九州から集めた青銅によって鋳造したという。
来歴からして世界の王のみが持ちうる鼎といえよう。
その後、九鼎は夏の歴代王の所有を経て殷王朝に受け継がれ、いま周王の手に帰した。

周公旦は九鼎を洛邑に安置し、永世にわたる周の天命の証とした。

九鼎ある限り、天命は周とともにある。
九鼎が失われるときは周王朝から天命が去るときである。

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(殷時代、西周時代、春秋戦国時代の金文)


周は建国直後の東方反乱を鎮圧してより、40年あまりにわたって平和と安寧を保った。
しかし4代目の昭王(しょうおう)の時代になると、東南辺境の准水流域に暮らす異民族、「准夷(わいい)」が不穏な動きをはじめる。
昭王はしばしば南征して准夷と戦い、ついに長江に達した。

これまで殷周王朝は黄河流域で歴史を刻んできた。
良渚文化が崩壊してから一千年が過ぎていたが、なおも長江流域には独自の文化が栄え、史書に記されぬ国々が栄えていた。
この頃、長江中流の鄱陽湖(はようこ)周辺には呉城(ごじょう)文化が栄えていた。
やや上流の洞庭湖周辺はその頃「雲夢沢(うんぼうたく)」と呼ばれる広大な湿地帯となっており、周人に世界の南の果てと思われていた。
ここにも未知の国家が存在したらしく、北方とは異なる様式の優れた青銅器が多数発見されている。

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(長江)


その後の王の運命を、司馬遷の『史記』は簡潔に記す。
昭王の時、王道微かに缺く。 昭王、南のかたへ巡狩して返らず。江上に卒す

王は帰らなかった。
周王の到来を歓ばぬ長江の民に膠で作った舟に乗せられ、江上で溺死したともいう。
また、この地の民の熾烈な抵抗と大暴風雨に襲われて周の全軍が覆滅したともいう。
しかしすべては憶測である。南へ去った昭王は長江流域の何処かで忽然と行方を絶ち、二度と故国へ戻ってこなかったのだ。
紀元前977年のことといわれている。

数世紀後、長江中流に「楚(そ)」という強大な国家が勃興するが、中原の民は昭王の悲運を忘れず、楚人の先祖が王を殺したことを恨み続けたといわれている。
ともあれ、この時代に周の勢威が長江まで及ぶことはなかった。いまだ南の地には華夏とは別の世界が存続していたのである。

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(『穆天子伝』の冒頭)

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(西王母)

南方にて行方を絶った昭王の次に即位した第5代の穆王(ぼくおう)は怪異な伝説に彩られた人物である。
彼は大地を踏まずに天を駆け、自分の影を追い越し、光より速く疾走する八頭の駿馬を駆って異族を討った。
また、西方の聖なる山々に足を踏み入れ、天に通じる崑崙山を踏破し、「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれる女神のもとを訪れたという。
これらの物語はのちに『穆天子伝』という書物に纏められ、中華最古の伝奇小説として知られることになる。

これを史実に直してみれば、穆王は先代昭王が東南を目指したのに対し、むしろ西南の四川進出を試みたものと思われる。

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(四川盆地)

四川(しせん)は長江上流の巨大な盆地である。
周の本拠である西土の地からは南に聳える秦嶺山脈を隔てるだけだが、この山々はまことに険しい。
それだけではない。四川は東・北・南の三面をいずれも峻険な山々に囲まれ、西はチベット高原につながる。
出入りが困難を極める一方、内部の盆地は甚だ肥沃で、長期にわたって外界からほとんど孤立したまま謎めいた文化を発達させていた。
三星堆(さんせいたい)文化」である。

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(三星堆から出土した黄金の仮面)

三星堆文化は火神と龍と神樹を崇拝し、巨大な青銅の神器と奇怪な黄金の仮面を無数に残した。
穆王は艱難の末に四川に入り、三星堆末期の女王と会見をしたという説がある。

青銅の神樹のもと、黄金の仮面を着けて周王を迎える神秘の女王。
断片的に伝えられた物語は、やがて女神西王母の神話と化したのだろう。

しかし三星堆文化はこれから程なく、紀元前9世紀には成都を中心とする新興の蜀王国によって滅ぼされる。
また秦嶺はあまりに険しく、四川と周が恒常的な交渉を続けることはなかった。
上流であれ下流であれ、さらに数世紀にわたって長江流域は華夏とは別の歴史を歩み続ける。


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