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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史13 東西の暗雲

イスマーイール派の台頭

西暦10世紀、西南アジアを制したアッバース朝イスラーム帝国は四分五裂し、内にあっては奴隷軍人グラームの専横、外にあっては地方諸王朝の興起に悩まされる。
この時代に存在感を強めてきたのがシーア派の政治運動である。


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(イマーム・フサインが殺されたムハッラム月10日、アーシューラーの日にシーア派は己が身体を傷つけ鞭打って痛恨の念を新たにする)


シーア派は西暦7世紀後半の「第一次内乱」において、ウマイヤ家のムアーウィヤと戦ったアリーの支持者たちから始まった。
本来それはひとつの政治党派でしかなかった。

しかし、アリーは預言者ムハンマドの従弟であり娘婿であった。
古来アラブの社会は父系社会であり、男子なき預言者の家系は断絶したと見なされていた。
しかし政治的に劣勢に立ったアリー一派は、預言者の娘ファーティマがアリーの妻となったこと、アリー自身がムハンマドの最も近しい血縁者であることをもって、この一門をイスラーム世界における至高の貴種として喧伝した。
それは世代を経るにつれて確固たる信仰になった。
クーファの民がアリーの遺児フサインをカルバラーで見殺しにしたとき、アリー家支持者たちは巨大な痛恨の念とともに、自分たちを一つの宗派としてはじめて認識した。

シーア派はイスラーム世界を導く権能が預言者末裔のみに継承されると見なし、ウマイヤ家の統治を否認する。
西暦8世紀、アッバース革命に際して扇動者アブー・ムスリムはシーア派を巧みに使嗾し、やがて裏切った。
アリー家ならぬアッバース家の王権獲得のために使い捨てられたシーア派は怨みを抱いて雌伏し、タキーヤ(信仰隠蔽)の時代を過ごした。

シーア派の系統
(シーア派の系統)


ところでアリーの末裔のうちのどの系統、誰がイスラーム世界を正しく導き得るのか。
それをめぐってシーア派はいくつかに分裂するが、最終的にもっとも有力となったのは「イマーム派」と呼ばれる集団である。
これはアリーの第二子、カルバラーで殺されたフサインの子孫をムスリムたちの真の導き手、「イマーム」として崇拝する。
ただしこのイマーム派も幾度も分裂を繰り返す。

大きな分岐点は756年に第6代イマーム、ジャアファル・アッサーディクが逝去したときである。
このとき、ジャアファル生前に次代イマームとして指名された長子イスマーイールは既に没していた。

ある者はイスマーイールへの指名は取り消され、弟ムーサーにイマーム位が移行したと考えた。
他の者はあくまでも先代の指名どおりイスマーイールにイマーム位が受け継がれ、イスマーイールは危難を避けるために死を装って姿をくらましたのだと信じた。

のちに前者は「十二イマーム派」、後者は「イスマーイール派」と呼ばれることになる。

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(ジャアファル・アッサーディクの霊廟)


イスマーイール派にとって、756年にイマームは地上から消え失せた。

十二イマーム派にとってもその時は遠からず来る。
歴代イマームは王朝によって厳しく監視され、後期のイマームたちは生涯のほとんどを監禁されたままに過ごした。
そして874年にサーマッラーで第11代イマームのハサン・アスカリーが没すると、イマームの位を継ぐ者はもはやいない。
ところが、アスカリーの葬儀の際に突然ひとりの幼児が姿を表わした。

「我こそはハサン・アスカリーの子、第12人目のイマームたるムハンマド・ムンタザルなるぞ」

わずか5歳の子供が檀上に立ち、跪拝する信徒らに名乗りをあげ、父の葬儀を取り仕切ったあとに忽然と姿を消した。
その後しばらくのあいだは「代理人」を通してイマームの意志が信徒に伝えられたが、まもなくそれも途絶えた。

かくてシーア派が仰ぐべきイマームは不在となった。
そこでシーア派は「ガイバ(お隠れ)」と呼ばれる新たな信仰を生み出した。

イマームは神の計り知れぬ計画によって余人の目から隠されたが、いまも確かに存在する。
時を経てイマームは再臨し、マフディー(救世主)として不信の徒を一掃し、世界を救済するであろう……。


かくて西暦10世紀。
病み衰えたアッバース朝の下で、世界終末とマフディー出現を待ち焦がれるシーアの徒が動き出す。
それはアッバース朝にとって、東西より迫りくる大いなる危機として現出した。


南イラークでザンジュの乱が燃えさかった870年代、イランのフーゼスターン地方でシーア派二大分派のひとつ、イスマーイール派が暗躍を開始した。
率いる者は「隠れイマームの代理人」を称するウバイドゥッラーなる人物。

「聞け汝ら! 大いなる日は近づいた! 隠れイマームはまもなく地上に再臨される。畏れよ、備えよ、悔い改めよ!」

ウバイドゥッラーはシリア中部の高原都市サラミーヤに拠点を移し、富裕な商人を装ってこの地に豪邸を構えた。
邸宅の地下には駱駝も通れる秘密の通路が張り巡らされ、ウバイドゥッラーの指示を受けて各地にダーイー(教宣員)が散った。
東はインドから西は北アフリカまで、当時のイスラーム世界のほぼ全域でダーイーは救世主の到来を予告し、アッバース朝打倒を煽動する。
それはさながら、120年ほど前のアッバース革命をなぞるかのようだった。


各地でイスマーイール派の蜂起がはじまるなか、899年にウバイドゥッラーは衝撃的な宣言を発した。

「聞け汝ら! 隠れイマームは方便なり! 我こそはジャアファル・アッサーディクの子イスマーイールの血脈を継ぎたる真のイマームなり!」

イスマーイール派は驚倒した。
イラーク地方を統括していた教宣組織をはじめ、大多数の者たちはこの宣言を受け入れることができず、ウバイドゥッラーに叛旗を翻した。

「騙り者め! さような不実の言に我らが惑わされようか! 虚言の徒は地獄に落ちよ! 隠れイマームは確かにおわす!」

彼らは「カルマト派」と呼ばれ、アラビア半島東部で数十年間にわたってアッバース朝への激しい抗戦を続けることになる。



メシアの帝国

サラミーヤにカルマト派の脅威が迫ると、ウバイドゥッラーは豪邸を後にして北アフリカへ姿を消した。
彼には当てがあった。イフリーキヤ地方において彼の最も信任するダーイーのアブー・アブドゥラーなる人物が、当地のベルベル人を糾合しつつあったのだ。

当時、この一帯はルスタム朝アグラブ朝の支配下にあった。

ルスタム朝は777年にイブン・ルスタムが建国したハワーリジュ派の国家で、ターハルトを首都に現在のアルジェリア西部を押さえていた。

その東に位置するアグラブ朝はハールーン・アッラシードの時代、イフリーキヤで妄動するホラーサーン軍を抑制した地方総督、イブラーヒーム・イブヌル・アグラブの建てた王朝である。
イスラーム世界の歴史11 神の給うた都の終わり近くを参照)

アグラブ朝はカリフに毎年4万ディナールの金貨を支払うことで事実上の独立を認められ、現在のアルジェリア東部とチュニジアに加えて、902年までにはシチリア島も征服していた。

ちなみに4万ディナールというのはどのくらいの価値なのだろうか。
購買力による比較はほぼ不可能なので、無茶を承知で単純に金(ゴールド)の価格で計算してみる。
初期イスラーム時代における1ディナール金貨は純度96~98パーセントで、4.25グラムの金を含有するとされている。
4万ディナールであれば、ざっと17万グラムの金に相当する。
2014年11月10日時点で金価格がグラム当たり4688円なので、掛け合わせれば4万ディナールは約7億9千7百万円に相当する。
これをコンスタントに貢納していたアグラブ朝は、相当に豊かな国だったのだろう。

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(アグラブ朝のディナール金貨)

アブー・アブドゥラーはクターマ族というベルベル人の一部族を掌握し、この両国を瞬く間に滅ぼした。
かつてホラーサーンでアッバース革命の火の手をあげたアブー・ムスリムを彷彿させる英傑である。
しかし、真の王たるウバイドゥッラーの出現によって代理人は不要となる。

預言者後裔たる真なるイマームの到来にあたり、ベルベル人は熱狂した。
シーア派の教義によれば、イマームのみが神の啓示を正しく解釈し得る。
イマームの権威は絶対視され、アブー・アブドゥラーの存在はたちまち霞んだ。イマームの前では彼の勲功など塵に等しい。

「汝は不遜なり、我が前より消え失せよ」

邪魔者を抹殺したウバイドゥッラーは、909年にイフリーキヤの首府カイラワーンでカリフを称した。
アッバース朝イスラーム帝国の権威を真正面から否定するシーア派カリフ政権の出現である。
この国を他国の人々は「ファーティマ朝」と呼んだ。むろん預言者の娘にして初代イマームの妻たるファーティマにちなむ。

「我はイマームなり。我はカリフなり。しかして我はマフディーなり」
「マフディー! マフディー! マフディー! おお、世界の救済者よ!」

信徒らは彼らのカリフに歓呼する。
ファーティマ朝は絶対の宗教的権威を持つマフディー、すなわちメシア(救世主)の帝国となった。

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(ウマイヤ朝の白旗、アッバース朝の黒旗に対し、ファーティマ朝はシーア派と預言者の象徴たる緑を旗印とした)


だが、この聖なる帝国も現実の厚い壁に突き当たる。
西のアンダルスには後ウマイヤ朝、北の地中海にはビザンツ帝国、そして東のエジプトにはアッバース朝。
三方を強力な敵に囲まれて領土拡張は思うに任せず、熱狂が覚めるにつれて反乱が地から湧き出るように広がった。
度重なるエジプトへの侵攻はその都度失敗した。
救世主が実体ある現世の統治者として君臨するのは容易ではなく、むしろ危険ですらあった。


自立の波

とはいえファーティマ朝の宿敵たるアッバース朝を取り巻く状況はさらに厳しい。

イラン高原はすでに9世紀初頭から世襲ホラーサーン総督ターヒル家の勢力下にあったが、世紀半ばにホラーサーンの南に隣接するスィースターン(現在のイラン東南部~アフガニスタン西南部)で「サッファール朝」が興起した。

もともとこのあたりはウマイヤ朝期の第二次内乱でハワーリジュ派が乱入して以来、百数十年間にわたって政情不安が続いていた。
ためにこの地の都市や農村では「アイヤール(任侠の徒)」といわれる自衛組織が発達したのだが、彼らがとうとう一国を建てるにいたったのである。

中心人物はブストの町のアイヤール、銅細工師のヤアクーブ・イブン・アルライス
アイヤールというのは要はヤクザの一種なのだが、ヤアクーブは堅気には手を出さず、貪欲な富商を襲って貧しい民に財を分かつ義賊として名を挙げた。
人々の厚い支持を得て各地の土豪やハワーリジュ派の残党を打倒吸収し、873年にはついにターヒル朝を滅亡させる。
ちなみに銅細工師のことを「サッファール」といい、王朝の名もそれが由来である。

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(サッファール朝の祖、ヤアクーブ・イブン・アルライス・アルサッファール)


このとき、ターヒル家のもとでマー・ワラー・アンナフルの代官を務めていたイラン系領主(ディフカーン)のナスル・サーマーニーが、アッバース朝への名ばかりの忠誠を宣言して中央アジアで自立した。
世にいう「サーマーン朝」の成立である。

サーマーン家はアラブの大征服以前からマー・ワラー・アンナフルに広大な所領を持ち、ゾロアスター教大神官とサーサーン朝王家の血を引くといわれる名門貴族だった。
イラン系の知識人たちは雪崩を打ってサーマーン朝のもとに参集し、第二代国王イスマーイール・サーマーニーのもとでペルシア文化を花開かせた。
それまで二世紀あまりのあいだ、イラン人たちは強大なアラブ系征服国家のもとで屈従を余儀なくされてきた。ペルシア文学史上、「沈黙の二世紀」といわれる時代である。
それがいま、紛うことなきイラン系王朝がついに地上に蘇ったのだ。

サーサーン朝とサーマーン朝は
この世にあまたの財宝を残せしも
今も残るはルーダキーの詩と
バールバドの甘き調べのみ

(ニザーミー『四つの講話』より)


サーマーン朝の宮廷をもっとも輝かせたのは偉大なる抒情詩人ルーダキー
ルーダキーによって東方イスラーム世界の規範となる王朝頌詩の形式が整えられ、高雅な近世ペルシア語の原型が生み出された。
王は詩人を保護し、詩人は王を称賛する。
イスマーイール・サーマーニーはイスラーム化以後のペルシア文学史における最初の文芸庇護者として名をとどめている。

サーマーン朝はほどなくサッファール朝を吸収し、ターヒル朝に続く東の覇者としてイラン高原を制することになる。

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(サーマーン朝の最大版図)


ターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝とめまぐるしく登場する東の地方政権も煩わしいが、南や西も思うに任せない。


アッバース朝南部では883年にザンジュの乱がようやく鎮定されたかと思えば、たちまちイスマーイール派の蜂起が相次ぎ、挙句の果てにアラビア東部でカルマト派の独立国家が誕生した。
ウバイドゥッラーのイマーム宣言に驚倒して袂を分かった集団はベドウィン諸部族の支持を得てバフライン(現在のバーレーン)地方を占領し、バスラやクーファへの襲撃を繰り返した。
928年には帝都バグダードの眼前にまで兵を進めて示威するかと思えば、翌々年の930年には聖都マッカを襲撃してカアバの黒石を強奪した。

巡礼は途絶し、アッバース朝カリフの権威は地に堕ちた。黒石がカアバに戻るのは21年も後である。
その後カルマト派はアラビア半島の向こう側にあたるシリアに進出し、968年にはダマスクスを占領する。
もはや帝国中枢部といえどもカリフの威令は及ばない。

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(930年、東アラビアのカルマト派は聖都マッカを襲撃し、カアバの黒石を本拠のバフラインに持ち去った)


そして西では富裕なエジプトも帝国の手を離れる。
864年よりエジプト総督に就任したサーマッラー軍のアフマド・イブン・トゥールーンが税の送付を拒否し、フスタート(現在のカイロ近郊)を首都に自立したのである。これを史上、「トゥールーン朝」と呼ぶ。
これまで搾取され続けたエジプトの経済は大いに潤ったがイラークは窮乏する。
905年にトゥールーン朝の内紛に乗じて王朝はエジプト回復に成功するが、その時さらに西のイフリーキヤではファーティマ朝が誕生している。

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(フスタートに現存するイブン・トゥールーン・モスク)


経済混乱と汚職の蔓延、延々たる多方面戦争によってアッバース朝イスラーム帝国の財政は年ごとに窮迫し、920年代に至って破綻した。
もはや国庫に一ディナールの金貨もなく、借用証書が積み重なるばかり。
宰相たちは金策に狂奔し、ユダヤ教徒の高利貸しを拝み倒して資金繰りをし、カリフの私財を国庫に移し、目につく役人を拷問して私財を巻き上げた。


936年、カリフはバスラの総督イブン・ラーイクに「大アミール(アミール・アルマウラー)」の称号を与え、税と鉱山と民の統治をことごとく委任した。
なにゆえか。
イブン・ラーイクが二年間にわたってイラーク南部と中部で徴収した租税を差し止め、バグダードに対して武器なき兵糧攻めを仕掛けたからである。
カリフはこの男に屈し、礼拝において人々がイブン・ラーイクを主権者として言及することをも認めた。

しかし彼はわずか二年後に失脚し、それから次々に「大アミール」という名の小物たちがイラークの利権を争奪する。
アッバース朝のカリフは現世の支配権を喪失した。
しかしアッバース朝はシーア派の国家ではないから、カリフに宗教的な権威はない。
となれば残るのは、金曜礼拝を主宰し聖都への巡礼に祝福を与えるといった、全く儀礼的な役割だけである。
これが西南ユーラシアを統合した巨大国家の成れの果てだった。

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暗雲来たる

その頃、カスピ海とエルブルーズ山脈の狭間に位置するダイラム地方でまたしても新たな勢力が生まれようとしていた。
ここは乾燥したイラン高原のなかでは例外的に降雨が多く、古来「ダイラム人」と呼ばれる半農半遊牧の勇健質朴な人々が居住していた。
彼らは決して敵に背を見せない不屈の兵士として知られていた。

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(カスピ海南岸のダイラム地方)


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(ダイラムは森と山と湖の国である)

8世紀半ばより、アッバース朝の弾圧を受けるシーア派がダイラム地方に入り込み、いまだ異教に留まっていたダイラム人たちに布教を行った。
ただしこちらはファーティマ朝やカルマト派を生んだイスマーイール派ではなく、十二イマーム派の方である。

10世紀初頭、ダイラム人のブワイフ家に三人の兄弟が生まれ、いずれも傭兵隊長となってこの地の地方君主に仕官した。
当時サーマーン朝の勢力が緩やかにイラン高原東部を覆っていたとはいえ、その支配は弱く、各地に群小政権が割拠して互いに争っていたのだ。

戦乱のなかでブワイフ家の三兄弟はたちまち頭角を表わし、やがてイラン高原を三つに分かっておのおの一国を建てた。

長男アリーはイラン高原南部のファールス地方。
次男ハサンはイラン高原西部のジバール地方。
三男アフマドはイラン高原東部のケルマーン地方。

どこの馬の骨とも知れぬダイラムの傭兵隊長たちが天下を取った。
となれば次には権威が必要になる。

945年、三兄弟の末弟アフマドがケルマーンより西進し、バグダードに進軍した。
カリフ以下、アッバース朝の貴顕たちは東方からくる蛮王の足音を聞いて震え上がった。

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(ダイラム騎兵)

万人恐惶のうちにアフマドは絢爛たる帝都に馬を進め、聳立する城壁と輝く家々を目の当たりにした。
彼は呆然とした。ここはまさに夢の都である。
王朝全盛期には比ぶべくもないとはいえ、ダイラムの辺境より兵を起こして戦塵のうちに人生を過ごしてきた覇王の目に、今もカリフが君臨する帝都バグダードは驚嘆すべき壮麗さをもって映じた。

彼は一団の従者たちとともに宮殿に伺候し、信徒の長より謁見を賜った。

「ブワイフ家のアフマドよ、信徒の長はそなたに『大アミール』の称号と『ムイッズ・ウッダウラ』(王朝の力を強める者)の名乗りをお与えくださる」

甲高い声で宦官が宣べ伝える。ムイッズ・ウッダウラははるか上座の信徒の長に向かって深く頭を垂れた。
存外に大人しいものだ。カリフは少々安心して椅子を持ってこさせた。

「ムイッズ・ウッダウラ。近う寄れ。苦しゅうない。対面にて語り合おうぞ」
「では……」

おもむろにムイッズが玉座の前に進む。
ここでムイッズの左右に従う二人の従者がカリフに向かって両手を差し出した。信徒の長より接吻を賜りたいという儀礼である。カリフはそれを受けて二人に手を差し伸べる。
そのとき、やにわに彼らは信徒の長の腕をぐいと引っ張った。カリフはもんどりうって玉座から転落する。
ムイッズ・ウッダウラは床に倒れたカリフを見下ろして冷然と告げた。

「無力な愚か者よ。もはや貴様に用はない。牢獄へ下るがよい」

アッバース朝の衰亡はここに極まった。
ムイッズ・ウッダウラは二人の兄にも「イマード・ウッダウラ」と「ルクン・ウッダウラ」という名乗りを分かち与え、並び立ってイラン高原からイラーク地方にかけて緩やかな連合政権を樹立した。
これを「ブワイフ朝」と呼ぶ。

ブワイフ朝はほどなく分裂を強めて同族間で相攻伐するようになるが、いずれにしてもこれ以後およそ一世紀にわたってバグダードのカリフはブワイフ一族の傀儡と化した。

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(ブワイフ朝に庇護された文人アブー・ファラジュの名詩選『歌の書』挿絵)


なお、バグダードを掌握したムイッズ・ウッダウラはまったく新しい租税制度を構築する。「イクター(分与地)制」と呼ばれるものである。

かつて、アッバース朝の盛期にはカリフが全ての土地を支配し、代官を派遣して統治の実務を担わせ、軍人たちには毎月一定の俸給(アター)を支給していた。
しかし世は乱世となり、中央政府は地方からの収税に苦慮し、軍人への俸給を支払えなくなる事態が多発した。資金繰りというのはいつの時代も大変なものである。

バグダード掌握から2ヶ月もしないうちに、ダイラム人の兵士たちは俸給不払いに不満を鳴らして暴動を起こし、ムイッズ・ウッダウラを口々に罵った。
苦慮したムイッズ・ウッダウラは、せっかく占領したイラーク平原の大部分を兵士たちに分与する羽目に追い込まれた。
といっても土地の私有自体を認めたわけではない。確実に支配の及ぶ範囲の土地を個々の戦士に割り振って、徴税権を与えたのだ。
これでひとまず兵士たちの取り分は確保され、暴動は治まった。

ただし長い目で見れば、イクター制には大きな問題があった。
ブワイフ朝の兵士たちは、所詮自分の領地でないという気安さから、後先考えずに宛がわれたイクターから税をふんだくった。

「イクターを授与した結果、勧農政策は放棄され、官庁は閉ざされ、書記と行政の伝統はないがしろにされた。有能な官僚は去り、経験浅い素人が地位を得て、粗野な侵入者として専横を尽くした。
イクターの保有者は奴隷や代理人を用いて分与地を管理したが、彼らは管理下の農村に心を配らず、利益や繁栄に導こうと試みることもしなかった」

(ミスカワイフ『諸民族の経験』)


これを機に西南アジアの農地は次第に荒廃しはじめた。
また、君主直轄の土地が急減したブワイフ政権は弱体化を宿命づけられ、混乱はさらに激しくなっていく。

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シーア派を奉じるブワイフ朝が事実上イラーク地方の支配を掌握したことにより、シーア派は晴れて表に出られるようになった。
バグダードの街頭でシーア派の祭礼が大々的に実施され、「正統カリフ」と呼ばれるアブー・バクルやウマルやウスマーンを「イマーム・アリーからカリフの地位を簒奪した悪人」と罵る。

「何を勝手なことをほざくか!」

多数派ムスリムたちも反発してことさらアブー・バクルやウマルを持ち上げ(ウスマーンはさすがに微妙だったようだ)、シーア派に対抗する。

「何が隠れイマームだ。わしらは預言者の正しい慣行(スンナ)に従って、カーディー(法官)の仰る決まりを守って暮らしていくのじゃ」

シーア派というあからさまな「異端」の出現を機に、いわば「名づけられざる沈黙の多数派」であった人々は自分たちもまたひとつの宗派であるという意識を強める。
これこそがいわゆる「スンナ派」の出現であった。

シーア派、スンナ派ともに互いの主張に理論的に反駁すべく、高度な法学体系を発達させた。
この頃イスラーム法学は著しく精緻化し、いわゆるスンナ派四大法学派とシーア派二大法学派が確立されることになる。

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(970年頃のブワイフ朝。三つの地方政権の連合体であることがわかる)


カリフ並立

そして西ではファーティマ朝がとうとうエジプト征服に成功した。
立役者はシチリア島出身の名将、ジャウハル・アッシキリーである。
彼はもともとギリシア系のキリスト教徒で奴隷としてイフリーキヤにやって来た。
ところが第四代カリフのムイッズが即位すると、何を機にしたのか彼は深くカリフの信任を受け、イスラームに改宗して東西に軍功を重ねることになる。


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(ファーティマ朝の帝都カーヒラがイスラーム世界の新しい中心となる)

969年、当時エジプトを支配していた地方政権イフシード朝の内乱を知ったムイッズは、ジャウハルに十万の兵を与えて東征を命じた。

灼熱のリビア砂漠を大軍が征く。
陽炎の彼方に緑の軍旗が揺らめき、濛々たる砂塵のなかから膨大な馬と駱駝と戦士たちが現われる。

内乱で疲弊したエジプトの抵抗はごく軽微だった。
アレクサンドリアは戦わずして開城した。征服軍がナイル河畔に至り、大河を前にして足を止めたとき、やにわに黒い犬が走り出て浅瀬を駆け渡った。
「あの黒い犬の後に続け!」
ジャウハルが采を一閃させるとファーティマ朝の全軍は雪崩を打ってナイルを越えた。
首邑フスタートもたちまち陥落し、ナイルの国はまことにあっけなくファーティマ朝の軍門に下った。

ジャウハルは大地に額づいて偉大なるアッラーと主君ムイッズに感謝の祈りを捧げ、フスタート近隣に新たな都を築くことにした。
占星術師たちが新都の命運を占い、天頂に支配の星たる木星が廻り来るときに最初の犂を入れることが最善と見定めた。
占星術師の長は夜空を見上げて木星が天頂に近づくのを刻一刻と待ち受ける。
彼の手には一本の紐が握られている。木星が頭上に達した瞬間に彼がこの紐を引けば、紐に結び付けられた鐘が一斉に鳴り、工夫たちが犂を振り下ろすのだ。

ところがなんとしたことか、突然一羽の鳥が飛んできて紐を激しく揺らした。鐘が鳴り響き、工夫たちは犂を地面に振り下ろした。この瞬間に新都は起工された。
慌てて空を振り仰いだ占星術師たちは顔面蒼白となった。その時頭上に輝いていたのは惑星カーヒル、すなわち戦乱と流血を司る火星ではないか。
占星術師たちが狼狽え騒ぐなか、ジャウハルは力強く叫んだ。
「火星は勝利の星だ。この新たなる都は我ら征服者の都、「勝利の都」なのだ。この町をアル・カーヒラ、「火星の町」と名付けよう!」
エジプトの首府たる「カイロ」はこうして誕生したという。


973年5月、カリフのムイッズ自身が、多くの兵士や官僚たちとともに七隻の巨船に乗ってイフリーキヤからやって来た。
船はカリフの上陸後にナイル河畔に放置され、80年後に名高い旅行家ナースィレ・フスラウがカイロを訪れたときにも、まだそのまま残されていたという。
北アフリカに興ったファーティマ朝はついに確固たる拠点を得た。これ以後歴代のカリフはエジプトに居を定め、もはや西へと帰ることはない。

カリフの一行はローダ島の北に架けられた石橋を渡り、ズワイラ門からアル・カーヒラに入城した。
初代カリフのマフディー、二代カリフのカーイム、三代カリフのマンスールの棺が先頭を進み、二頭の象がその両脇を守る。
続いて馬上のカリフ、ムイッズが四人の息子たちとともに都に入っていった。

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(カリフ、ムイッズの名が刻まれた金貨)


アル・カーヒラでは学者や法官たちが今や遅しとカリフの到着を待ち受けていた。
彼らはファーティマ朝が本当にアリーとファーティマの末裔であるのか、確かな証を要求した。

カリフは彼らを睥睨し、佩剣をなかば鞘から引き抜きながら気合を込めて言ったという。

「これが余の系図じゃ」

つづいてカリフの従臣たちが一同の頭上に金貨の雨を降らせた。

「そして、これが証拠じゃ」

納得したか。カリフがぎろりと睨みつけると、もはや誰一人として疑義を唱える者はいなかった。


その後ファーティマ朝はヒジャーズに一軍を送って聖都マッカとマディーナを押さえ、シリアへ進出してアッバース朝と雌雄を決しようと試みたが、兵站が続かず拡大を停止。北部イラークのハムダーン朝をはじめとする小国群が両国の緩衝となった。


かつて西南ユーラシアを統合した世界帝国アッバース朝は衰退し、スンナ派とシーア派の二人のカリフが並立することになった。
他にも無数の地方政権が群雄割拠し、イスラーム世界の混迷は深まるばかりである。


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(ファーティマ朝の最大版図)


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(シーア派成立の経緯とシーア派の思想について非常に詳しく面白い)


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