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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

イスラーム世界の歴史15 ナバス・デ・トロサへの道

砂漠の聖戦

西暦11世紀を迎えて後ウマイヤ朝が崩壊しはじめる頃、海の彼方の北アフリカも混迷を極めていた。

969年に北アフリカの大国ファーティマ朝はエジプトを征服し、まもなくそちらに拠点を移した。
イフリーキヤの統治はベルベル系のズィール家に委ねられたが、豊穣なエジプトを手にしたファーティマ朝はイフリーキヤをほとんど放任したので、ズィール家が事実上の独立政権となるのは時間の問題だった。

983年、ズィール家はファーティマ朝から公式に独立し、「ズィール朝」という王朝を建てる。
さらに1051年にはファーティマ朝への名目的な従属も放棄し、スンナ派に改宗してアッバース朝カリフへの忠誠を誓う。

さすがにここまで面子を潰されてはファーティマ朝も黙っていられない。

「懲罰だ。愚かなイフリーキヤの連中にマフディーの力を見せつけよ。奴らを永劫の悔恨に突き落とせ!」

ファーティマ朝はアラビア半島から上エジプトに移住した「ヒラール族」というベドウィン部族をイフリーキヤに雪崩れ込ませた。

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(ヒラール族の戦士たち)


イフリーキヤは大混乱になった。
ヒラール族はズィール朝の領域に侵入し、畑地を踏み荒らして次々に都市を襲い、村落を略奪した。
土地は荒れ果て森は消え、サハラ砂漠が北へ広がる。ズィール朝は沿岸に追い詰められ、北アフリカは小国分裂の乱世を迎えた。
こうした状況の中で、突然サハラ砂漠の奥地から恐るべき新興勢力が出現する。

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(北アフリカはズィール朝、ハンマード朝、ザナータ王国に分裂する。各国とも支配力は弱く、実態はさらに混沌としていた)


サハラ西部、セネガル地方。
ここにベルベル人の一派、サンハージャ族と呼ばれる部族が暮らしていた。彼らは駱駝の飼育を生業とし、男子が他人に顔を見せることを恥として、常にヴェールで面を覆っていたという。
現在のトゥアレグ族に似た習俗といえるだろう。

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(「砂漠の貴族」といわれるトゥアレグ族)


後ウマイヤ朝の滅亡から8年後、1039年にサンハージャ族のとある長老が一族とともにマッカ巡礼へ出かけた。
その帰途、彼らはイフリーキヤのカイラワーンで一人の聖者に出会った。
その人の名を「アブー・イムラーン・アル・ファールスィー」といい、実際には聖者ではなくスンナ派マーリク法学派の学者だったのだが、素朴な砂漠の民には聖者も法学者も似たようなものに思えたことだろう。

「アブー・イムラーン様。わしらは貴方様の説教を伺ってまことに感動しましたのじゃ。何やら駱駝の尻尾で引っぱたかれてスッキリと目が覚めたような心地でございます。なにとぞ、わしらの故郷で部族の者たちをお導きいただきとうございます」
「すまぬのう。申し出は嬉しいが、わしはもう何時アッラーのお迎えが来るかわからんので、このヤースィーンを連れていくがよい」

砂漠の果てになど行きたくなかった老学者は、「イブン・ヤースィーン」という孫弟子を身代わりに立てた。


「サンハージャの民よ、アッラーは唯一にして偉大なり。目には見えねど世界にあまねく君臨せらる。汝らは風の中の悪霊を恐れ、砂漠の岩に祈りを捧げると聞く。否、断じて否! 唯一なるアッラーの他に神はなし!」
「何言ってんだコイツ」

砂漠の民のほとんどは、せっかくやって来たイブン・ヤースィーンの教えを馬耳東風と聞き流した。

失望したヤースィーンと支持者たちはセネガル川の河口に「リバート(修道所)」を建て、そこで修行に明け暮れた。
そればかりでない。現世は悪と偽りに満ちているのだから、十分に力を蓄えて、いずれは聖戦に打って出て不信の輩を従えていかねばならぬ。
日夜祈りや断食や武術鍛錬に明け暮れる一団を、世の人々は「ムラービトゥーン(リバートの徒)」と呼んだ。

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(チュニジアに現存するリバート)


程なくムラービトゥーンは現世の戦いに乗り出した。
1054年にアトラス山脈の交易都市シジルマサを占領したのを皮切りに南へ北へと征戦を開始し、1076年にサハラ砂漠南方の黒人王国ガーナの首都クンビ・サレーを占領した。
また、北に向かっては初代アミール、ユースフ・イブン・ターシュフィーン(在位1061~1106)の指揮のもとでマグリブに版図を拡大。首都マラケシュを建設し、現在のアルジェリア西部までを支配下におさめた。

これが「アルモラビッドの聖戦」と呼ばれる怒涛の大進撃であり、結果、サハラ砂漠西部からマグリブにかけて「ムラービト朝」と呼ばれる大国が生まれることになる。

厳格なスンナ派マーリク法学派を国是とするムラービト朝の成立により、この地域のイスラーム化が一挙に進展した。

東方では世俗の支配者は宗教的権威を持たず、宗教法の解釈は政権から独立したイスラーム法学者(カーディー)に委ねられ、個々の信徒はどの法学者の解釈に依拠することも自由だったが、ここでは違う。
もともと武装教団から始まったムラービト朝ではマーリク法学派だけが真理とされ、「不信の徒」と見なされた哲学者たちが激しく弾圧された。
ムラービト朝はまさに秋霜烈日の国であった。

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(「アルモラビッドの聖戦」)

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(ユースフ・イブン・ターシュフィーン)


エル・シードの時代

その頃イベリア半島では後ウマイヤ朝の崩壊を受けて、キリスト教諸国の大攻勢が始まっていた。
ナバーラ王サンチョ3世ガルセス(在位1004~1035)は婚姻政策によってカスティーリャ・レオン・アラゴン・カタルーニャの四ヶ国を統合して「イベリア王」を称した。
その死後、王子たちの相続によってキリスト教諸国は再び分裂するが、カスティーリャの王位を手にしたフェルナンド1世はレオン王国を併合し、「ヒスパニア皇帝」(在位1037~1065)を称した。
さらにフェルナンドの子でカスティーリャ・レオン連合王国を継承したアルフォンソ6世勇敢王(在位1065~1109)も同じく「ヒスパニア皇帝」を名乗り、さらに勢威を強めた。

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(アルフォンソ6世)

1085年、アルフォンソ6世はイベリア半島中央部の要衝トレドを攻略した。
ここは西ゴート王国の故都で、長らくアンダルス有数の都市として栄えて来たところである。トレドが落ちたことにより、半島の半ばがキリスト教徒の支配に帰した。ムスリムたちの衝撃は大きかった。

長年にわたり争いを続けて来たタイファ諸侯も集結し、北の異教徒への対策を協議する。

「かくなれば海の彼方に援軍を求めるほかなし」
「したが、ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンは残忍狡猾と聞く。アンダルスはあの男の野望の餌食とされるだけではないか?」
「カスティーリャの豚飼いにされるより、サハラの駱駝追いになった方がましであろう!」

セビーリャ王の一喝で議は決した。タイファ諸侯はマグリブに使者を送り、急ぎムラービト朝に来援を懇願した。
こうして1086年、ユースフ・イブン・ターシュフィーン親率のもと7千のムラービト軍がアンダルスに上陸した。


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(サグラハスの戦い記念イベント)

セビーリャ・バダホス・アルメリア・グラナダ・マラガ・ムラービト朝の連合軍が総計3万。
アルフォンソ6世は6万と号する大軍を率いて南下し、エストレマドゥーラ地方のサグラハスでユースフ・イブン・ターシュフィーンと対峙した。

「異教の王に問う。コーランか貢納か、それとも剣か!?」
「モーロ人よ、我らには戦いあるのみ!」

こうして戦いの火蓋は切られた。
中世ヨーロッパの騎士の突撃は恐るべきものである。重厚な甲冑に身を固めた騎士たちには嵐のような矢も通用しない。イスラーム軍の陣列は大きく崩れ、カスティーリャ軍が勢いを増して進撃する。
ところが突然、ムラービト朝の本陣からドロドロと不気味な音が響き始めた。これはヨーロッパの戦場でいまだ知られていなかった太鼓の音だった。
ひたすらに打ち鳴らされる太鼓の音に合わせて、覆面をした浅黒い男たちがひたひたと馬を進める。
未知の状況に直面して騎士たちは浮足立った。
それを見て取ってユースフは采配を振るった。

「進め! アッラーは偉大なり!」
「進め! アッラーは偉大なり!!」

戦士たちが雄叫びをあげて一気に突撃を開始する。カスティーリャ軍は一瞬で崩れ、算を乱して敗走を開始した。乱戦のなかで指揮官アルフォンソ6世の身辺にも敵兵が迫り、王は重傷を受けて片足を失った。


「勝利は成った。だが、我が方の犠牲も決して小さくはない」
イスラーム軍の被害も甚大だった。
ユースフ・イブン・ターシュフィーンは多くの将兵を失った。その中には王位継承者に擬していた彼の長子も含まれていた。
「我らはマグリブへ帰る。あとはそなたらの戦いだ」
「なんと、お帰りになるので……」

タイファ諸侯はほっとしたような不安なような、複雑な気持ちで顔を見合わせた。


だが、レコンキスタはこれで終わりはしない。
ほどなくタイファ諸国は内紛を再開し、キリスト教徒たちの攻勢も再び活性化した。

「タイファの王たちには真の信仰心がない。余がアンダルスへ赴いて聖戦を指導するしかない」

1090年、ユースフ・イブン・ターシュフィーンは再びアンダルスに兵を進めた。
彼はもはやタイファ諸侯に愛想を尽かしており、前回とは打って変わって苛烈にタイファを攻め滅ぼしてイベリア半島を北進した。

この時期に目覚ましい活躍を見せたのが、「エル・シード・カンペアドール・ロドリーゴ・ディーアス・デ・ビバール」(「我が主君にして戦の師たるビバールの領主ロドリーゴ・ディーアス」)と呼ばれたカスティーリャの騎士である。

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(エル・シード)


彼はアルフォンソ6世と折り合い悪く国を追われるが、キリスト教徒とムスリムとを問わず多くの諸侯の宮廷を渡り歩いた末にバレンシアを占領し、この地をムラービト朝の攻撃から守り抜いた。

伝説によればエル・シードは戦いのさなかに倒れ、恐るべきユースフ・イブン・ターシュフィーンがバレンシアを包囲した。
そのとき、エル・シードの妻のヒメーナは亡き夫の遺体を愛馬パピエカに括り付け、生けるがごとく戦場に向かわせた。
ムラービト軍は死せる勇者を目にするや、恐怖に駆られて潰走したという。
やがて彼の武勲を元として、中世スペインを代表する偉大な叙事詩「エル・シードの歌」が生まれることになる。

映画「エル・シド」
1分40秒あたりでユースフ・イブン・ターシュフィーンも登場。




ベルベル再来

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(ムワッヒド朝によって建設されたマラケシュのクトゥビーヤ・モスク)


しかしユースフ・イブン・ターシュフィーンの死後、ムラービト朝の戦士たちは徐々にアンダルスの気風に染まり、信仰と武勇は色あせていった。
このなかでベルベル人の第二の大帝国が北アフリカに誕生する。「ムワッヒド朝」である。

ムワッヒド朝の成立過程はムラービト朝のそれとほとんど瓜二つである。
この王朝を建設したのはアトラス山脈に暮らすベルベル人のマスムーダ族で、彼らが教祖と仰いだのはイブン・トゥーマルトなる神秘主義者だった。

彼は1106年に16歳で東方へ旅立ち、マッカに巡礼してバグダードとアレクサンドリアでアシュアリー派神学を学んだという。

イブン・トゥーマルトの思想を一言で要約すれば「神は唯一である」ということに尽きる。
ムラービト朝のイデオローグであったイブン・ヤースィーン以上に、彼はこの論理を徹底的に追求した。
およそ偶像崇拝のかすかな匂いでも漂わせるものはすべて指弾された。

さらに当時のマグリブではムラービト朝建国当初の宗教的情熱が弛緩していたから、彼の目から見て現世は罪にまみれていた。
男女が同席して酒を飲み、楽器を爪弾くとは何事か。リバートの民を称するサンハージャ族は何故男が覆面をし、女が素顔を晒すという倒錯した行為を疑問に思わぬのか。

無知蒙昧な輩を啓発すべく、彼は例によってマフディー(救世主)を自称して神の唯一性と正しい信仰を説いて回った。
アラビア語で数字の一を「ワーヒド」といい、神が唯一であることを「タウヒード」という。
イブン・トゥーマルトに従う者たちは「ムワッヒド」、つまり「タウヒードの徒」と呼ばれることになる。


1125年、イブン・トゥーマルトは信徒を率いて兵を挙げた。その時、指揮官となったのが彼の盟友だったザナータ族のアブドゥルムウミンという人物である。
イブン・トゥーマルトの死後、アブドゥルムウミンは1147年にマラケシュを陥落させてムラービト朝を滅ぼし、マグリブ全土を平定した。

さらにムワッヒド朝は東へ勢力を拡大し、ハンマード朝やズィール朝を滅ぼしてイフリーキヤまで支配を及ぼす。
これはムラービト朝を超える快挙であった。

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(ムワッヒド朝の版図)


その頃、イベリア半島ではムラービト朝の崩壊によって再びタイファが乱立し、キリスト教諸国が攻勢を強めていた。
カスティーリャ王国の脅威にさらされるムスリム諸侯は相次いでムワッヒド朝に誼を通じ、アンダルスへの来援を求めた。
それに応えてムワッヒド朝は早くからイベリアに進出し、ムスリム諸侯を傘下に収めた。


宿命の敗北

1184年、ムワッヒド朝の第3代アミール、ヤアクーブ・マンスール(在位1184~1198)が即位する。
彼はキリスト教徒を母とし、王子時代にはセビーリャ総督としてアンダルスの統治を委任されていた。
それだけに北への関心が強く、即位後はイベリア遠征を繰り返し、1195年にはアラルコスの戦いでカスティーリャ軍を撃破している。

ヤアクーブ自身は学問に明るい文人で、本音のところでは王朝創建の理念たるタウヒード信仰も持っていなかったといわれる。
イブン・トゥーマルトの無謬性についての話題が出ると、この君主は口辺に皮肉な嗤いを浮かべたと伝えられる。

だが、統治者としての姿勢は別である。彼は国是に忠実に異教徒に対して激しい弾圧を加えた。そのためアンダルスのモサラベ(キリスト教徒)やユダヤ教徒はことごとく北のキリスト教地域へ逃れたという。
この時代のコルドバには偉大なイスラーム哲学者のイブン・ルシュド(アヴェロエス)やユダヤ教神学者のモーシェ・ベン・マイモーン(マイモニデス)がいたが、彼らもヤアクーブに敵視され、異端として追放されることになる。
峻烈なムラービト朝とムワッヒド朝の統治を経て、寛容なアンダルス社会は変質してしまったのだ。

一方でカスティーリャ王はローマ教皇からの圧力にも関わらずムスリムやユダヤ教徒への差別的な取扱いを断固として拒否した。
「信仰こそ違え、彼らもまた我が臣民であります」
結局のところ北も南も同じイベリアの民であり、五百年のレコンキスタを通じて互いによく似た価値観を持つに至ったのだ。
他者への寛容と共存。どちらの社会であってもそれを受け入れる地盤があるならば、より力ある側がそれを具現するのが必然だった。

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(西方イスラーム世界最後の偉大な哲学者といわれるイブン・ルシュド)

「炎のアンダルシア」
イブン・ルシュドを主人公とする映画




だが、ヤアクーブが1198年に病死したことによって情勢が変わり始めた。
ムワッヒド朝第四代アミールとしてムハンマド・ナースィル(在位1198~1213)が即位するが、王朝創建を支えた熱烈なタウヒード信仰は既に醒め、政権内部は泥沼の権力争いに陥っていた。
のちの歴史家イブン・ハルドゥーンが喝破したごとく、征服王朝の力は三代で尽きるものらしい。

父を超える圧倒的な武勲を立てて政権をまとめなければ国の未来は暗い。
1211年、ムハンマド・ナースィルは傾国の大軍を催してジブラルタル海峡を渡り、イベリア聖戦を発令した。動員兵数は10万を超えた。

キリスト教諸国は未曾有の危機に直面し、全ての紛争を停止して大連合軍を結成した。教皇インノケンティウス3世は回状を発し、ナバーラ国王とアラゴン国王に対して、戦場においてはカスティーリャ王アルフォンソ8世を最高指揮官として、すべて彼の命に従うことを勧告した。


1212年7月16日、両軍はハエン近郊のラス・ナバス・デ・トロサで激突した。
このときムワッヒド朝は12万5千、キリスト教諸国連合軍は5万を数えたとされる。

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(ラス・ナバス・デ・トロサの戦い)

「我らの父祖は五百年にわたって戦ってきた。遠き昔にペラーヨがアストゥリアスに立ってより、アルマンゾルに追われ、サグラハスで敗れ、アラルコスで敗れ、それでも我らは剣を取って戦い続けた。今日こそ我らの屈辱を雪ぎ、すべてのモーロ人を海の彼方へ叩き出すときだ!」
カスティーリャ! カスティーリャ! カスティーリャ!
アラゴン! アラゴン! アラゴン!
ナバーラ! ナバーラ! ナバーラ!

キリスト教徒たちが鬨の声をあげるのをムハンマド・ナースィルは冷ややかに見つめていた。

「我が軍は圧倒的に優勢。元よりアンダルスは神に給うたムスリムの土地なのだ。今日こそ異教徒どもに鉄槌を下し、真なる教えをこの地に蘇らせん」


戦いがはじまると、ムハンマド・ナースィルは自軍を緩やかに後退させた。敵軍を深く引き込んで左右両翼から包囲をかけようという古典的な戦術である。
だが、北軍は敢えて誘いに乗った。

「騎士たちよ、余に続け! 見よ、モーロが退いていく。これこそ神のお助けぞ!」

「サンティアゴ! サンティアゴ!(聖ヤコブよ!)」

カスティーリャ・アラゴン・ナバーラ・ポルトガルの勇士たち、アルカンタラ騎士団・カラトラバ騎士団・サンティアゴ騎士団、それに西欧諸国より馳せ参じた十字軍。
彼らは剛勇のナバーラ国王サンチョ7世を先頭に猛烈な突撃を開始した。

おお、アッラーよ、お救いを!!

予想をはるかに超えるキリスト教徒たちの勢いにより、後退中のムワッヒド軍は一挙に崩壊した。
ムハンマド・ナースィルが呆然と立ちすくむなか、カスティーリャ王アルフォンソ8世が本陣を横から急襲。
さらにナバーラ軍が真正面に出現し、奴隷兵士たちを突き倒してムハンマド・ナースィル自身の天幕に斬り込んだ。
いまや包囲されているのはムワッヒド軍であり、最高指揮官ムハンマド・ナースィルの生命すら危うかった。

「アッラー!」

ムワッヒド軍は絶叫して潰走をはじめた。ムハンマド・ナースィルは馬に鞭打って包囲を突破し、辛くも死の淵を逃れた。
10万の死者を戦場に遺棄してイスラーム軍が敗走する。キリスト教諸国連合軍はアンダルス南部まで猛追撃を続けた。

La Batalla de las Navas de Tolosa 1212
(イメージは動画で補充その2、ラス・ナバス・デ・トロサの戦い)




これ以後、「大レコンキスタ」と呼ばれるキリスト教徒の大攻勢が開始される。
わずか30年あまりのうちにアラゴン王国とカスティーリャ王国は一挙に南進し、コルドバ、バレンシア、ハエン、ムルシア、カルタヘナ、セビーリャを奪還した。
アンダルスの大部分はイスラーム勢力の手から失われ、わずかに半島南端でグラナダのナスル朝だけが余喘を保つ。

一方、ムワッヒド朝はラス・ナバス・デ・トロサの大敗による壊滅的な打撃から立ち直ることができず、まもなくマグリブに勃興した第三の帝国、マリーン朝に滅ぼされることとなるだろう。

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(14世紀のイベリア半島)


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