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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史8 覇者の出現

周王朝の衰退

春秋诸侯大国简图
(春秋時代の主要諸国)


紀元前770年、周の幽王は犬戎に殺害され、東西二王の大乱を経て周は本拠を東の洛邑へ遷した。
これより紀元前403年に華北の大国・趙が解体するまでの367年間を「春秋時代」と呼ぶ。

なお、春秋時代の終端を紀元前481年、476年、あるいは453年とする説もあるが、こうした時代区分は後世の史家がおのおのの史観によって適宜に定めるものでしかない。
いうまでもないが当時を生きた人々にとっては、単純に去年が今年に続き、今年が来年に続き、それが終わることなく繰り返されていただけである。

時代の名は、おおむねこの時期の諸事を叙述した魯国の年代記『春秋』に因むが、その「春秋」という言葉自体はそもそも「歳月」、あるいは「歴史」を意味する。
三百数十回の春と秋の間には多くのことが起こり、中華世界は大きく変容した。

周王朝の存在は希薄化し、黄河文明と長江文明が次第に溶け合いはじめた。中華の辺縁は四方に拡大し、さらに多様な人間集団を取り込んだ。
列国の戦乱は加速度的に熾烈化し、ユーラシア大陸の他の諸地域と時を同じくして珠玉のごとき古典思想家たちが出現した。
春秋の歴史は長く深い。

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(『春秋』写本)


紀元前770年、驪山の麓で幽王が戦死したとき、王を守って壮烈な討死を遂げた人物がいた。
鄭(てい)の桓公(かんこう)・姫友(きゆう)である。
桓公は周の衰退を予見して一族や領民を少しずつ東方へ疎開させていたのだが、犬戎が侵入してきたときに本人は折悪しく鎬京に滞在していたらしい。
なお、「姫(き)」とは周王朝の国姓で、この時代の「姫」という文字に「高貴な女性」という含意はない。

鄭は桓公の姓からも分かる通り、周王家の血を引くいわゆる「同姓諸侯」のひとつである。
ちなみに他ならぬ桓公姫友が鄭国初代の公であり、彼は周王朝第10代厲王の末子であった。厲王の孫である幽王から見れば大叔父にあたる。

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(鄭国の位置)


「汝の父は、我が父王を扶けて落命した。そして汝自身も余に良く仕えてくれた。いまや西土は灰燼に帰した。華夏中原に新たな鄭国を建てよ」

幽王死後の王位継承戦争を制した平王(在位前771~前720)は、鄭の第二代国公たる武公・姫掘突(きくっとつ)(在位前770~前744)に新領を与えた。
武公は洛邑南東に「新鄭」という堅固な邑(都市国家)を建てた。
そこは黄河と淮水の分水界に近く、東西南北に通じる交通の要衝だった。その重要性は今も変わらず、現在この地は河南省の省都・鄭州市となっている。

さて、紀元前744年に武公が死去すると、鄭では公位をめぐって内紛が起こった。
結局は順当に太子の寤生(ごせい)が公位を継いで「荘公」(在位前743~前701)と呼ばれることになるのだが、争いに敗れた弟が北の(えい)に亡命したことから事が大きくなった。

「近頃、鄭の勢いが目覚ましい。もはや王室は頼りにならんゆえ、自力で対処せねば」

紀元前722年、衛軍が鄭に侵攻する。
鄭の荘公はこれに対して、周王室を担ぎ出して諸国を糾合した。

「わしは鄭国の国公であるとともに、王室の卿士(大臣)でもある。鄭軍は官軍、衛は賊軍だ」
「一理ある」

荘公は諸国連合軍によって衛の侵攻を跳ね返したばかりか、東隣の宋から亡命してきた公子も庇護した。

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(中央が鄭の荘公)


「鄭め、調停者気取りで目障りな」
「宋公どのもそう思われるか。ここはひとつ……」

紀元前719年、鄭を共通の敵と見なした宋と衛が陳(ちん)・蔡(さい)・魯(ろ)の三国を語らって再度鄭に押し寄せる。
しかし彼らはどうしても堅固な新鄭城を抜くことができず、虚しく自国へ引き上げた。「東門の役」と呼ばれる戦いである。

「賊軍がしつこい。こたびは徹底的に誅罰せん」

荘公は再度周王を担ぎ出し、列国を糾合して衛と燕(えん)の連合軍を撃破し、宋の都城の城壁内まで侵入して存分に力を見せつけた。

東周列國 春秋篇 3. 如此君臣
鄭と周の対立時期をドラマ化



鄭に利用され続けた周王室は苛立ち始めた。
紀元前707年、周王朝の第14代・桓王(かんおう;在位前719~前697)は中原諸国に鄭国討伐の命を下し、自ら王軍を率いて陣頭に立った。

だが、鄭は強い。
この年の秋に周王率いる諸国連合軍を孺葛(じゅかつ)で迎え撃った鄭軍は、諸侯の足並みがバラバラなのに付け入って一気に王の本軍に攻め掛けた。連合軍は四散し、周王は肩に矢を受けて退却した。散々な敗北だった。

その夜、鄭の荘公は周王に軍使を送って傷を見舞った。

「九鼎は恙なく、天命は周にあり。我らはただに国の安寧を欲するのみ。天子を凌辱することは望みませぬ」

周王は項垂れて、そのまま洛邑へ撤退した。
この戦いによって周王室の衰退が明確となる。そもそも周王朝は殷を滅ぼしたあとに数百とも数千ともいわれる諸部族・諸侯を東方に封じて現地支配を一任しており、王家の直轄領は西土と洛邑周辺の僅かな土地しかない。
その西土を失った以上、気が付いてみれば周王室は河南の一隅を領する小国でしかなくなっていた。
周王の見えざる権威は摩耗し、実力も鄭一国に及ばないことが露呈した。

統制者なき天下は名目上の宗主たる周王室を形ばかり残したまま、有力諸侯が次々に覇を競う戦乱の時代を迎えることになる。


斉の桓公

春秋時代最初の半世紀に威を振るった鄭であるが、実のところ鄭も周と似たり寄ったりの小国でしかない。
周王室の権威のさらなる低下は、その王室の卿士という立場を盾に列国を操っていた鄭自体の立場をも弱めてしまった。
荘公死後の鄭は再び内紛の時代を迎え、国際政局の中心から姿を消す。
代わって台頭してきたのが、中華東方の斉(せい)である。


斉は異姓の国である。具体的には、周朝草創期の伝説的な軍師、太公望を国祖とする。
その支配は泰山から海に至るまでの広大な範囲に及び、「東夷」と呼ばれる沿岸諸部族を抑えることを期待されていた。
西周数百年のうちに斉は東夷諸部族を徐々に自国に取り込み、力を蓄え続けた。

司馬遷の『史記』貨殖列伝には、「斉は山海を帯び、膏穣千里、桑麻に宜しく、人民多く文綵・布帛・魚塩す」とある。

斉には山もあれば海もあり、元より様々な生業を営む人々がいた。
土地は湿潤でアワの栽培には向かないが、イネはよく育った。クワやアサも盛んに植えられ、織物や染色が栄えた。
新石器時代以来の彩色陶器の伝統もあったし、少しあとには鉄も盛んに採掘される。沿海ゆえに製塩も盛んである。

よって、この国の支配者たちは代々富を増やすことに執着し、多様な産業を発達させた。
首都の臨淄(りんし)は春秋初期にすでに中華有数の大邑であった。
戦国末期には居住人口40万人を超え、メソポタミアのバビロンやインドのパータリプトラと並ぶ世界最大級の都市に成長する。

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(斉の国都、臨淄)


鄭の荘公が中原西部で威を振るっていたころ、斉は鄭の動きを陰に陽に支援しながら、徐々に東の諸侯のあいだに自国の影響力を浸透させていった。
紀元前701年に鄭の荘公が没して鄭のヘゲモニーが消滅し、中原諸国に混乱が広がる。

そのなかで斉は魯の桓公(在位前711~前694)を暗殺し、東の小国・紀(き)を併合し、魯・宋・蔡・陳の四ヶ国を糾合して衛の内乱に介入するなど、大国としての動きを見せ始めた。
ところが、斉の指導者であった襄公・姜諸児(在位前697~前689)は苛烈な性格で国内外に敵が多く、突然殺害されてしまった。
政局混迷のなかで次の公位を勝ち得たのは太子の姜小白だった。即位後の彼は斉の桓公(在位前682~前643)と呼ばれることになる。

桓公は即位翌年に魯との対立を修復し、さらに次の年には斉の影響から離反しようとした宋を討つなど、順調に東の大国としての斉を立て直し、紀元前679年までに中原東部のすべての国と同盟関係に入った。
この状況のなかで斉は定期的に諸国の君主を集めて相互の紛争を仲裁し、いわば集団的安全保障を実現しようとした。
たとえば紀元前679年にさっそく鄭が宋に出兵すると、斉は宋と衛に呼びかけて共同で鄭に出兵している。
いまや形ばかりの存在となった周王室を差し置いて、斉の桓公を盟主とする新たな国際秩序が生まれつつあったのだ。

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(斉の桓公と管仲)

その陰には稀代の名宰相の存在があった。彼の名を「管仲(かんちゅう)」という。
管仲はもとは桓公の弟の側近で、襄公死後の内乱のなかで桓公に矢を射掛けたこともある。
内乱を制して公位に上った桓公は、自分を射殺しかけた管仲を引きずり出して斬ろうとしたのだが、桓公側の側近だった鮑叔牙(ほうしゅくが)という人物が決然と諌めた。

「我が君が斉の君主たらんと欲されるならば私で十分です。しかし、我が君が天下を制することを欲されるのであれば、管仲の才は欠かせませぬ」

桓公に呼び出された管仲は、天下に覇者たる者の為すべきことを滔々と説いた。
――軍国の大事は経世済民と秩序の徹底にあり。国を富ませてしかる後に天下に覇たる。
桓公はいたく感心し、彼を即日宰相に任じた。

管仲はある種の経済的自由主義を推進したらしい。
まず、古い「井田制」を廃止して土地の私有を公認した。また、各種の産業と経済を振興して国家の介入を最小限に抑えた。
諸国の商人が斉に流れ込んで商売に励み、人口が増え、税と兵士も増えた。
優れた人物がいれば実力本位で登用し、些細な不正にも厳罰をもって処する。
神の見えざる手が働いて斉はますます豊かになった。
管仲を推薦した鮑叔牙は大いに喜び、管仲の下で彼を補佐することに生涯を捧げたという。

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中原の盟主となった桓公は、中原外部からの脅威にも対応する。それはすなわち、二里頭文化以来の「黄河文明」とは異なる系譜に属する諸文化との遭遇を意味していた。

紀元前664年、斉は中原最北の燕からの支援に応じ、「山戎(さんじゅう)」と呼ばれる北方民族を討った。

実はこの燕という国自体が、いちおう周王朝によって封建されたとされているものの初期の記録が非常に少なく、本当に華夏の一員と見なしていいのか多少の疑惑がある。
その土地は寒冷で森に覆われ、のちの戦国時代の記録でも「民は耕作をしない」と記されている。当時なお、新石器時代以来の狩猟採集が主な生業であったらしい。

その北の山戎となれば、これは完全に黄河文化圏の外の集団である。
といっても中原の史書に記されるように単なる未開の蛮族だったわけではなく、おそらく遼河流域に栄えた諸文化を受け継ぐ集団であろう。

斉の出兵にも関わらず北方民族の侵攻はやまず、数年後には「狄(てき)」と呼ばれる集団が邢(けい)と衛を滅ぼしてしまう。
中原の守護者を自任する桓公は両国の遺民を集め、黄河南岸に国を再建させた。
その頃の国家というのは基本的に城壁都市のネットワークに過ぎないので、民と土地さえいれば国を作り直すことも不可能ではないのだった。


南の脅威

遼河から来る北方民族以上に手ごわいのは、長江中流に蟠踞する南の民だった。
中原の史書は、この頃ようやく彼らを射程に捉えはじめ、「楚(そ)」という国の存在に言及しはじめる。

中原の伝えによれば楚の建国者は周の王族であったというが、これは疑わしい。
長江流域には黄河地方より古くから高度な社会が発達していた。仮に少しばかり周王朝からの影響があったとしても、基本的には長江地方の自力で国が成立したと考えるべきだろう。

明らかに文化も違う。
楚人は祝融(しゅくゆう)と呼ばれる炎の神を崇拝し、巫術を信じた。
彼らは霧に覆われた長江のほとりで巫女たちに神霊を呼ばわせ、舟を自在に操って湿地に慣れぬ北の人々を翻弄した。
戦いにあってはまことに誇り高く、死を恐れなかったと伝えられる。

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(楚の貴族の墓から出土した編鐘)

紀元前10世紀、周の第4代昭王は長江流域に「南巡」して行方を絶った。この頃すでに楚国の原型が生まれつつあり、昭王は楚国勢力と衝突して敗死したとも考えられる。
楚は早くから「我は蛮夷なり、中国の号諡に与らず」と公言し、周王朝の権威を無視して王を自称した。

――中原側の視点から見ればそういうことになるのだが、要するに楚は周王朝の勢力圏外だったのだ。
周の東遷以降、黄河流域の統一権力が消失すれば当然南からの圧力は強まる。
春秋時代初期の楚は漢水中流の郢(えい)を都として、北への進撃を開始した。
またしても司馬遷の『史記』を引用すれば、当時「楚の地は千里」に及び、「楚は彊く、江・漢の間の小国を陵ぎ、小国皆これを畏れたり」という状況であったという。


紀元前666年、楚軍は鄭を急襲した。
不意を打たれた鄭軍は難攻不落の新鄭に逃げ込んだ。楚軍が城に迫ると、何故か城門が堂々と開け放してある。
楚軍の指揮官は詭計を疑って兵を退いた。
確かにこれは「空城の計」と呼ばれる詭計であった。敢えて門を開け放しておくことで敵の侵入をためらわせるというハッタリである。
城内には備蓄も兵士もほとんど準備がなく、窮余の策を取ったのだ。楚軍の指揮官がもう少し蛮勇の人物であれば、鄭はあっさり滅亡していたことだろう。

まもなく楚は再び北上を開始する。
斉の桓公は中原防衛のために魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹の七ヶ国から軍を動員し、紀元前656年に楚国北端の召陵(しょうりょう)に入った。
これに対して楚の成王・熊惲(ゆうこん;在位前671~626)も自ら軍を率いて桓公と対峙し、舌戦を繰り広げた。

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(楚の成王)


「君は北海に居り、吾は南海に居る。風も牛馬も及ばぬ遠い国というのに、何故はるばるとやって来られた」
「昔、周王は我が先君の太公望に東南の地を賜った。ところが汝の朝貢が入らんがため王の祭りに神酒が供えられぬ。さらに、かつて周の昭王が南征して帰らず。これを問罪せんがためにやって来たのだ」
「ほう、貢を怠ったことについてはお詫び申そうが、昭王については与り知らぬ。川の神にでも尋ねられよ」

両軍はやや移動し、再び成王と桓公は舌戦を展開した。

「これら諸侯の大軍は我がものではなく、昔よりの友邦の誼にて集まりたるもの。貴国も仲間に入られてはどうか」
「ほう、公が我が国の安泰にご配慮くださることはまことにありがたく」
「さもあろう。この大軍をもって戦えばいかなる者も防げぬし、いかなる城も破れるだろう」
「ほほう、そのようなことなどなさらずとも、公が徳をもって諸侯を導けば誰もが喜んで服するでありましょう。力をもって征せんとされるならば、たとえば我が国にも北の長城があり、漢水の流れもありますゆえ、いかなる大軍といえども難儀しましょうな」

このあたりで双方とも戦意を失ったらしい。
斉も楚も他に問題はいくらでもあり、全面戦争などやりたくないのだ。とりあえず楚と斉との講和が成り、双方ともにあっさり帰国した。これを「召陵の盟」という。


楚軍を打ち破ったわけではないが、楚の北進を断念させたことで斉の桓公の名声は絶頂に達した。
かくて紀元前651年、桓公は全中原諸侯を召集し、葵丘(ききゅう)の会盟を開催した。
会盟というのは要するにサミットである。列国君主が一同に会し、共有する諸問題について協議するものと考えればよい。

その会盟に際して議長を務めるのは当然桓公である。
桓公は諸侯盟誓のために生贄の牛を屠り、その耳を切り取って流れる鮮血を諸侯とともに啜った。これが「牛耳を執る」という成句の語源である。
会盟には周王の姿こそ見えなかったものの、王家の使者が最高の来賓として列席し、桓公に「胙(そ)」を賜った。
これは王家の祭儀に捧げられた生贄の祭肉であり、周王が斉の桓公に比類なき栄誉を与えたことを意味する。

葵丘で桓公は生涯でもっとも輝かしい一日を過ごした。
諸侯は桓公を「覇者」と讃えた。覇者とは力によって秩序をもたらし、王家を援けて中原を安んじる者のことである。
こののち中原には幾人かの覇者が現われるが、桓公こそがその最初であった。

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(河南省商丘市の葵丘会盟台遺址)


しかし、満ちた月はいずれ欠ける。

まもなく名宰相の管仲がこの世を去り、晩年の桓公は気力を失って怠惰に流れた。
葵丘の会盟から8年後、紀元前643年に桓公が死去すると斉の公家に再び内紛が起こり、桓公の遺骸は葬る者がないまま数ヶ月も放置され、まことに酸鼻たる有様になったといわれている。

こうして斉の桓公の時代は終わった。
だが、衰え果てた周王朝に代わって実力ある者が諸侯を糾合するという「覇者」の概念、そして黄河流域を南から狙う強大な楚国の台頭……この二つの構図が以後の華夏春秋を規定していくことになる。

次の時代には北の大国、「晋(しん)」が中原の盟主となり、北進を続ける楚に対抗することになるだろう。


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『春秋』をはじめとする伝統的な漢文史料からは見えてこないのだけど、考古学的方面から調べると、この頃「赤狄」と呼ばれる異民族に強大な指導者が出現した気配があったりする。
赤狄の猛攻で周王朝が東遷し、華夏中原がそれに振り回されていた可能性もあってなかなか興味深い。

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