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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史16 ガズナの征服王

マムルーク序説

西暦10世紀末、イスラーム世界は混乱を極めている。

かつて西南アジアに君臨したアッバース朝イスラーム帝国はほとんど名ばかりの存在となり、東にあってはブワイフ朝、西にあってはファーティマ朝という二大シーア派国家が台頭。
ムスリムたちの唯一の長であったはずのカリフすら、バグダード、カーヒラ(カイロ)、コルドバに鼎立する有様である。

その状況のなか、イスラーム世界のいたるところで存在感を増しつつあるのが「マムルーク」と呼ばれる「奴隷軍人」たちだった。
(※これまでは「グラーム」と表記してきたけど、この頃からは「マムルーク」と呼ばれることの方が多い印象)


灼熱の太陽のもとで鎖に繋がれ、冷酷な主人から容赦なく鞭を振るわれる半裸の男。
「奴隷」という言葉からはこんな情景が思い浮かぶ。
しかし中世イスラーム世界の「奴隷」は、それとはまったく異なる存在である。

イスラーム法の規定によれば、異教徒の戦争捕虜か、奴隷の子供として生まれた者だけが奴隷とされる。
多くの奴隷は家内労働(召使)か兵士として利用され、単純な肉体労働に使役される場合は稀だったという。

奴隷は自由身分を有さず、贈与や売買の対象とされる。しかし預言者ムハンマドはことあるごとに奴隷への慈悲や奴隷解放の大切さを説いた。
それもあって、中世イスラーム世界の「奴隷」は相当な権利を認められていた。

奴隷身分の者が公的な権威を持つ職に就くことは禁じられていた。
しかし下級官吏や礼拝の先導役となること、主人の代理として売買契約を結ぶことなどは十分に許容範囲だった。
建前として私有財産は認められなかったが、一定の金額を支払うことが奴隷身分からの解放条件とされた場合には、そのための資金を蓄えることが当然の権利と見なされていた。
それどころか、奴隷身分の男性が自由身分の女性と結婚することすら容認されていた。


預言者ムハンマドに仕えた奴隷のザイド・イブン・ハーリサは一説では最初のムスリム男性といわれており、後に自由身分を与えられてムハンマドの従妹を娶っている。
また、同様にムハンマドに仕えた奴隷のビラール・イブン・ラバーフは美声であったため、世界で最初のムアッジン(礼拝の呼びかけ役)に任じられている。
他にも奴隷や奴隷の血を引く者が高い身分を得た例はいくらでもある。
アッバース朝の事実上の創始者であった第2代カリフのマンスール、後ウマイヤ朝を樹立したアブドゥルラフマーン1世など、いずれも女奴隷の子であった。

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(こういうイメージは間違い)

アッバース朝が衰退をはじめると、王朝建設の元勲であったホラーサーン軍はカリフへの忠誠を忘れて勝手気ままに振る舞いはじめた。このときカリフたちが目をつけたのが奴隷だった。

イスラーム世界では奴隷解放が美徳として盛んに行なわれていたが、奴隷と主人の関係は奴隷解放で終わるわけではない。
解放された奴隷は旧主に深い恩義を感じて忠誠を尽くし、旧主は解放奴隷を保護民(マワーリー)として庇護するのが一般的だった。古代ローマの「パトローヌス(庇護者)」と「クリエンテス(被保護民)」の関係によく似た構図である。

そこでアッバース朝のカリフたちは大量の異教徒奴隷を購入し、軍事訓練と教育を授けてイスラームに改宗させ、然る後に自由身分を与えた。
解放された奴隷たちは頼りにならぬアラブ兵やホラーサーン軍とは対照的に、(少なくとも最初のうちは)カリフに無私の忠誠を誓って戦場で奮闘した。


この新機軸は他の王朝でも次々に模倣された。
後ウマイヤ朝の実権を握ったムハンマド・イブン・アビー・アーミルや北アフリカに成立したファーティマ朝も大量のマムルークを利用、ブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラも同族であるダイラム人より子飼いのマムルークを信頼していたという。
なにしろ彼は遺言で、「マムルークは軍隊の中核だ。たとえダイラム人が離反してもマムルークを使って鎮圧できる」などと、とんでもないことを言っている。

王侯たちはマムルークに高い給金と豪奢な邸宅を与え、戦功を挙げれば指揮官や政府の高官にも任命した。マムルークとは決して恥ずべき身分ではなく、人々の畏怖と敬意の対象ですらあった。

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(今回の主要参考文献)


マムルークの主な供給源は、中央ユーラシアのテュルク系遊牧民である。

「テュルク」という名は「トルコ」と同義である。今日、アジア大陸の西の果てに暮らすトルコ人たちもかつては東方の広大な草原に生きる遊牧民であった。
今も中央アジアやイラン高原北部、カフカス山脈の人々はトルコ語とよく似た言葉、「テュルク系諸語」を話し、馬や羊を追って暮らしている。
彼らとその先祖たちこそがテュルク系遊牧民、ひっくるめて言えば「テュルク人」である。
(厳密にいえばトルコ共和国の国民は、遺伝的にはほぼ100パーセント古代アナトリアの定住民の子孫だし、「人種」と「民族」はまったく別の概念で、「民族移動」というのも人間集団の移動というより文化的アイデンティティの転移といったほうが正しいのだけど、そのあたりをきっちり書いていくと多分わけがわからなくなる)

それに対して、モンゴル高原東部から中国北方にかけては別系統の「モンゴル系諸語」を話す「モンゴル系遊牧民」がいたとされる。
しかし草原世界の外から見れば、テュルクであれモンゴルであれ、その文化や社会に大きな違いがあるわけではない。
また、広漠たる草原に興亡した数多の遊牧諸国はいずれも多種多様な部族の混成体であって、それらをことさらにテュルクとモンゴルに弁別することにさほど意味があるとは思えない。
大雑把にいえば、「テュルク人」とは「中央ユーラシアの遊牧民」とほとんど同義といってよい。
(こういうことを書くとたぶん専門家から怒られる)

中央ユーラシア概念図
(「中央ユーラシア」と「中央アジア」の地理概念)

テュルク人たちは幼いころから馬とともに暮らし、騎射に熟達していた。
これは疾走する馬の上から次々に弓を引いて敵を翻弄する戦法で、前近代の戦場では絶大な威力を発揮した。
9世紀の文人ジャーヒズはテュルク戦士の強さを説き、「彼らは他の兵士が一本の矢をつがえるあいだに十本の矢をつがえ、馬上から獣や鳥や人間を自在に射る。平地を走るかのように山や谷を走り回り、頭の前後にふたつずつの目を備えている」と表現している。


王侯たちの信任と武力を独占するテュルク人たちは諸国の実権を握り、いずれは彼ら自身の政権を樹立するだろう。

「テュルク族の西進」

西南アジアから北部インドにいたる広大な領域の姿を一変させた巨大な民族移動は、はるか東方の嵐から始まった。


東方の嵐

西暦755年、東ユーラシアの大唐帝国で未曾有の大乱が勃発した。河北三鎮の節度使を兼任し、十数万の軍を握る安禄山(あんろくざん)が突如挙兵したのだ。
洛陽・長安は瞬く間に陥落し、皇帝の玄宗・李隆基は四川に逃れて退位した。唐軍が西のかた葱嶺(パミール高原)を越え、タラス河畔で黒衣大食(アッバース朝)と激突してからわずか4年後のことだった。

唐は独力で反乱を鎮圧できず、「回鶻(かいこつ)」、すなわちウイグル可汗(カガン)国の支援を求めた。
ウイグル可汗国はそのころ草原世界の東半に台頭しつつあったテュルク人の遊牧国家で、745年には東突厥(ひがしとっけつ)を滅ぼしてモンゴル高原を制していた。
ウイグルは唐の要請に応えて華北に兵を進めるとともに、唐が撤退した後のタリム盆地に侵攻し、チベット高原の吐蕃(とばん)とこの地の争奪を繰り返した。
まもなく唐は無数の藩鎮が割拠する混乱状態に陥っていき、ウイグル可汗国が東ユーラシアの覇者となった。

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(ウイグル可汗国の最大版図)

ところが840年にウイグルの本拠地、モンゴル高原を大寒波が襲った。次々に家畜が斃死し、民も凍えて死んだ。そして春先に南シベリア方面からキルギス部族連合十万騎が急襲してきた。
帝都オルドバリクは炎上し、巨大な牙帳(がちょう;天幕の王宮)も焼き払われた。
ウイグル可汗国は崩壊し、生き残った民は四散した。これこそ「テュルク族の西進」の発端だった。

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(モンゴル高原中部のオルホン河畔にあったウイグルの都オルドバリク。現在はカラバルガスン(黒き廃都)と呼ばれる)


およそ三十万人にのぼるウイグル人が西方へ移動を開始し、天山山脈北西で「カルルク族」と遭遇した。
両者はここで一体化し、まもなく「カラ・ハン朝」と呼ばれる国を建てる。これがテュルク西進の第一波だった。

続いて第二波。
カラ・ハン朝の成立はさらに西方のバルハシ湖周辺にいた「オグズ族」を刺激した。
オグズ族は最も早くパミール高原の西側まで進出していたテュルク人の一派で、「オグズ・ハン」なる伝説上の始祖の血を引く二十数氏族の連合体だった。

彼らはこの時点でイスラーム世界と接触を持ちはじめていたが、これ以後それは一層加速する。
東の同族に脅威を感じたオグズ族は西へ向かい、アラル海南部にいたペチェネグ族を駆逐して、すでにイスラーム化されたマー・ワラー・アンナフル地方の北部に姿を現したのだ。


なお、追い散らされたペチェネグ族は南ロシア草原に乱入し、同地のハザール王国を崩壊させた(第三波)。ハザール族とブルガール族はバルカン半島に向かい(第四波)、その一派のマジャール人はハンガリー平原に入り、ウイグル崩壊の余波は欧州世界まで及ぶことになる(第五波)。
最後にテュルク西進の波を食い止めた「東フランク王国」のオットー1世は、この業績をバネに「神聖ローマ帝国初代皇帝」となるのだが、それはまた別の話であろう。

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(ウイグル崩壊から105年後、レヒフェルトの戦いでマジャール族が大敗して西進の波は止まる)


テュルク到来

テュルク族の西進という大津波をイスラーム世界で真っ先に被ったのは、アム川とシル川に挟まれた中央アジアの肥沃なオアシス地帯、マー・ワラー・アンナフルを統治するサーマーン朝だった。
873年に独立したこの国は、この頃まだ草創期にあった。
サーマーン朝はシル川でテュルク諸部族の侵入を阻止する一方、テュルク人の少年たちを戦いと交易で獲得し、軍事学校で教育を施したうえで軍人奴隷候補生としてイスラーム世界全域に輸出した。
タシケントやサマルカンドには大規模な奴隷市場が成立し、サーマーン朝はこの交易によって大いに繁栄した。

富の集積は文化の向上を促す。
サーサーン朝貴族の末裔を自称するサーマーン朝のもとで、ペルシア語文芸が花開いた。
多くの文人や学者がサーマーン朝の宮廷に集って王を讃え、さまざまな学術研究や著述に勤しんだ。首都のブハラには巨大な図書館が建設され、膨大な書物が集められた。
マー・ワラー・アンナフル地方ではゾロアスター教徒やマニ教徒、仏教徒などの異教徒がまだまだ少なくなかったが、サーマーン朝治下でのイスラーム文化の開花や交易の活性化からか、イスラームへの改宗が大きく増大する。
アッバース朝が衰退した今、サーマーン朝こそは西のファーティマ朝、後ウマイヤ朝に比肩する東方イスラーム世界の輝ける中心だった。

サーマーン朝の文化的影響は異教世界にも及ぶ。
カラ・ハン朝では10世紀なかばに伝説的な王であるサトゥク・ボグラ・ハーンが、この頃東方イスラーム世界で盛んになりはじめていた「スーフィズム」に感化されて改宗し、まもなく二十万帳の天幕に暮らすテュルク人たちが王に従ってアッラーとムハンマドの教えを受け入れた。

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(スーフィズムの一派、メフレヴィー教団の舞踏)

スーフィズムというのは、アッラーの名をひたすら唱えたり、忘我の境地で乱舞して神と一体化しようとする思想で、「イスラーム神秘主義」と呼ばれることも多い。

それまでのイスラームはある意味、醒めた宗教だった。伝承に則って冷静に規範を策定し、それを素直に遵守することだけが突き詰めれば信徒の務めだった。
しかし戦乱の時代を迎えて、ムスリムたちはきっとそれでは物足りなくなったのだろう。
スーフィズムの行者たちは神への信仰を男女の愛や戦士の戦いにたとえ、異教徒たちの間にも積極的に分け入って教えを説いた。
難解な神学や法理論よりも感性を重視し、誰にでも分かりやすい言葉で教義を説き、時に「奇跡」を実演して見せるスーフィズムは、シャーマニズムの伝統を持つ遊牧民の心に強く訴えたのだろう。

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(中華人民共和国新疆ウイグル自治区アルトゥシュ市のサトゥク・ボグラ・ハーン廟)


サーマーン朝はテュルク人の奴隷たちを輸出するばかりでなく、自国の兵士としても活用した。そのなかから、やがて一人のマムルークが頭角を表わしてきた。

彼の名は「アルプテギン」。最初は王の衛兵で、やがて親衛隊長となった。
アルプテギンは才気と勇敢さを備え、内乱が頻発した後期サーマーン朝で活躍を重ねた。
彼の発言は徐々に宮廷で重視されるようになり、最後には「侍従(ハージブ)」にまで上り詰めた。
これはほとんど同時代にイスラーム世界の最西端で、後ウマイヤ朝のムハンマド・イブン・アビー・アーミルが到達したのと同じ地位で、宰相以上の権力を持つ。
アルプテギンは何百もの村や庭園を所有し、何万もの兵士を統率した。異教徒出身の元奴隷として、まさに出世を極めたといえるだろう。

ところがあまりにも力を持ちすぎたアルプテギンは宮廷貴族たちの嫉視を一身に浴びることになった。
彼は961年にホラーサーン総督に任命された。これは軍人としては最高の地位だったが、総督である以上は首都を離れて任地に赴任しなければならない。要するに失脚したのだ。

そこでアルプテギンは自立した。
子飼いの兵士たちを連れてアフガニスタンの山岳地帯に入り、中央から来た討伐軍を打ち破ってアフガニスタン南部のガズナを占領した。

「別にわしはブハラと積極的にことを構えようというわけではない。だがわしも生きていたいし、部下たちも生かしてやらねばならんのでな」

史上、この年をもって「ガズナ朝」の成立とする。イスラーム史上はじめて、テュルク人のマムルークが一国を打ち立てた時だった。

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(ガズナ地方の情景)


ガズナはアフガニスタン南東部の、標高二千メートルを超える高原に位置する。
ここは別に軍事的・行政的な要地というわけではなかったし、交通幹線上の要所でもなかった。アルプテギンがこの町に拠点を構えたのは単に成り行きでしかない。

ただ、ひとつ特筆すべき点がある。
ガズナはアフガニスタン地方のなかでもイスラーム勢力支配領域のほぼ東端にあたり、インドへの関門であるカーブル渓谷の入り口に当たるのだ。
古くウマイヤ朝時代に最初のインド遠征が行われて以来、この地方は「ガーズィー」と呼ばれる聖戦志願者たちを惹きつけて来た。
聖戦志願者というと聞こえが良いが、要するに異教の地に略奪に行って一山当ててやろうと目論むならず者たちである。
そこに乗り込んできたアルプテギン一党も、眼前の山々の彼方にあるインドという大国を強く意識し始めるのだった。


ガズナの征服王

アルプテギンの死後、ガズナ朝は乱れた。流浪のマムルーク集団の政権は、確固とした世襲制度を確立するに至らなかった。
ひとしきり内乱が続いた後、勝利を収めたのは「サブクテギン」という名の南シベリア出身のマムルークだった。また随分と遠い土地の生まれである。
ちなみに「テギン」(アラビア語・ペルシア語風に発音すると「ティギーン」、漢文史料では「特勤」)というのは、テュルク語で「王子」とか「太守」といった意味である。
ガズナ朝ともなると、人名ひとつとってもこれまでのイスラーム世界の大物たちとは全く違う響きになる。

サブクテギンは977年に「大ハージブ(侍従)」を称してガズナ朝の指導者となったが、そのころ旧宗主国のサーマーン朝は落日の時代を迎えていた。
ガズナ朝の成立によってアフガニスタン地方を失ったうえ、北からはイスラーム化して間もないカラ・ハン朝が迫りつつあったのだ。
992年、カラ・ハン朝の大軍がマー・ワラー・アンナフルに侵攻し、サマルカンドとブハラを陥落させた。
僅かばかり残されたサーマーン朝の領土では、これに呼応する反乱が一斉に勃発した。

背に腹は代えられない。サーマーン朝は意を決して、ガズナ朝の支援を求めた。
「大ハージブ」は早速兵を出してホラーサーン諸都市の反乱鎮圧に協力。これでガズナ朝の独立は旧宗主国からも正式に認められ、「侍従」は「王」になることができた。

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(ガズナ朝の旗)

そして998年、いよいよガズナ朝の全盛期を現出する偉大な支配者が登場する。
彼の名はマフムード。この時27歳。
世に「ガズナのマフムード」と称され、イスラーム世界の全歴史を通じて屈指の大征服王とされる人物である。


マフムードはガズナ朝の地政学的優位を完全に把握していた。
険しいアフガニスタンの山岳地帯に拠点を置き、自国の安全を確保しながら四方の国々に自由に出撃できる。
とりわけ都ガズナの眼前にはカーブル渓谷が開け、そこを東へ攻め下れば伝説的なインドの富が唸っている。
すでに父王サブクテギンの時代からガズナの戦士たちはカーブル渓谷に侵入を開始し、その地を抑えるインド系の「ヒンドゥー・シャーヒー朝」と交戦を繰り返していた。

マフムードは即位早々ホラーサーンに出撃し、カラ・ハン朝と挟撃するかたちでサーマーン朝を滅ぼした。
120年余りにわたってマー・ワラー・アンナフルを統治し、東方イスラーム世界の太陽だった国はこうして歴史を閉じた。
マフムードはカラ・ハン朝と和議を締結し、東方の新たな覇者としてアッバース朝カリフより「ヤミーン・アッダウラ(王朝の右手)」なる称号を授けられた。
ホラーサーン諸侯や文人たちは続々とマフムードの宮廷に伺候し、好むと好まざるとに関わらず彼をサーマーン朝に代わる庇護者として、せいぜい華々しく持ち上げた。


もっとも中にはひねくれ者もいる。
サーマーン朝時代最後にして最大の天才、偉大な医学者にして哲学者のイブン・スィーナーは祖国を滅ぼしたマフムードを嫌悪し、彼の再三の招請を蹴りまくった。
マフムードはとうとうイブン・スィーナーの身柄に賞金をかけたが、天才は追手を撒いてイラン方面へ姿を消してしまった。

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(中世イングランドの貧しい少年は数奇な運命を経て、やがてイブン・スィーナーの愛弟子となる)


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(アッバース朝カリフから賜った衣装を着るマフムード。周囲には諸侯が集まっている)


後顧の憂いを断ったマフムードは、彼のライフワークともいうべきインド遠征に本格的に着手した。

1001年、カーブル渓谷に居座るヒンドゥー・シャーヒー朝に侵攻し、国王ジャヤパーラを撃破。捕虜になったジャヤパーラは釈放後に恥辱に耐えかねて焼身自殺した。
ジャヤパーラの跡を継いだアーナンダパーラ王は1009年にラホール付近でマフムードの率いるガズナ軍と対峙した。
ムスリム勢力の侵入を防ぐため、「ラージプート」と呼ばれる西北インドの諸王が次々に馳せ参じた。

しかしテュルク人たちの精強さは、インド諸王の想像を超えていた。
ガズナの騎兵軍団は疾風のように戦場を駆け巡り、たちまち寄せては嵐のように矢を放ち、たちまち退いたかと思えば思いもかけぬ方向から再度襲撃し、インドの大軍を翻弄した。
こうしてヒンドゥー・シャーヒー朝は滅亡し、インダス上流のパンジャブ地方はマフムードの手に落ちた。

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(その頃北インドでつくられたシヴァ神と女神パールヴァティーの像)


「異教徒どもを虐殺せよ! 大地を不浄な者どもの紅き血で染めよ!」
「おお、マフムード! マフムード!」

「偶像崇拝者どもを殺戮せよ! あらゆる金を、銀を、宝玉を略奪せよ! 彼奴等の崇める石像を打ち砕け!」
「おお、マフムード! マフムード!」

ガズナのマフムードは記録に残るだけで17回も北インドへの侵攻を繰り返した。彼はひたすら異教徒を捕え、殺戮し、あらゆる偶像と神殿を破壊し略奪した。

1001年 第一次インド遠征(カブール、カシミール、ムルターン)
1004年 第二次インド遠征(ベーラ)
1005年~1006年 第三次インド遠征(ムルターン、ペシャワール)
1008年 第四次インド遠征(ペシャワール)
1010年 第五次インド遠征(ムルターン)
1010年 第六次インド遠征(ゴール)
1012年~1013年 第七次インド遠征(ターネーシュワル)
1013年 第八次インド遠征(ブルナート)
1015年 第九次インド遠征(ラホール、カシミール)
1017年 第十次インド遠征(カナウジ、メーラト、ヤムナー、マトゥラー)
1018年~1020年 第十一次インド遠征(カナウジ、マトゥラー、ブンデルカンド)
1021年 第十二次インド遠征(ラホール)
1021年 第十三次インド遠征(カナウジ、アジメール)
1023年 第十四次インド遠征(ラホール、カリナール、グワリオル)
1024年 第十五次インド遠征(アジメール、カーティヤワール半島)
1024年 第十六次インド遠征(カーティヤワール半島)
1025年 第十七次インド遠征(ジャート、カーティヤワール半島)

1018年の遠征では、長駆に長駆を重ねてガズナから1200キロも離れたヒンドゥスタン平原のカナウジまで侵攻した。
ここは三百年のあいだ北インドの盟主だったプラティーハーラ朝の都である。衰退しつつあったプラティーハーラ朝はガズナのマフムードによって完全に止めを刺された。

1024年にはグジャラート地方のカーティヤワール半島ソムナートに到達し、同地のヒンドゥー神殿を破壊した。
黄金の神像を叩き壊すと、何世紀にもわたって巡礼たちが寄進した宝石が雪崩のように溢れ出てきた。
そう、まるでこんな風に。

スロット大当たり
(いめーじ@ソムナート略奪祭り)

ガズナ軍は全てを奪って持ち帰った。このときの戦利品はあまりに多かったので、マフムードはそれから何年ものあいだ徴税をしなかったという。


偶像破壊者(ブットシカン)

ムスリムたちは畏敬と称賛を込めて、ヒンドゥー教徒は恐怖と憎悪とともに、ガズナのマフムードをそう呼んだ。
マフムードはインドにおける領土獲得をまったく考えていなかった。異教の大地はひたすら収奪すべき対象だった。
しかし彼が行なった度重なるインド遠征によって北部インドの盟主プラティーハーラ朝は息の根を止められ、ラージプート諸王の力も大きく衰えた。
イスラーム勢力はヒンドゥークシュ山脈を越えたパンジャブ地方にラホールとムルターンという橋頭堡を獲得し、これ以後インド進出を本格的に開始することになる。

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(マフムードの軍事遠征)

ガズナのマフムードの矛先は東方だけに向けられたわけではない。彼はインド遠征と並行して、イラン高原への侵攻も繰り返した。
彼はどうやら割と真面目にアッバース朝のカリフに敬意を持っていたらしく、カリフ宮廷を牛耳るイランのブワイフ朝を不倶戴天の敵と見なしていたのだ。
熱烈なスンナ派ムスリムとして、シーア派国家の存在も容認しがたいものであった。

ガズナの騎兵軍団はイスラーム世界内部にあっても恐るべき威力を発揮する。
マフムードは次々にイラン高原の諸都市を降し、晩年にはレイやハマダーンなど、ザグロス山脈付近にまで勢力を拡大していた。


Фирдуси_читает_поэму_«Шах-Наме»_шаху_Махмуду_Газневи_(1913)
(ガズナのマフムードに「シャー・ナーメ」を献げるフェルドウスィー)

ガズナの宮廷は黄金で満ち溢れ、詩人たちはますますこの征服王を称賛した。
ペルシア文学史上、もっとも名高い詩人のフェルドウスィーも1010年に彼のもとにやって来て、30年の歳月を費やして書き上げた大叙事詩、「シャー・ナーメ(王書)」を彼に献呈した。

人類の祖カユーマルスから聖王ジャムシード、蛇王ザッハーク、英雄ロスタムらの活躍を経てサーサーン朝ペルシア、そしてイスラーム時代へ。
古代ペルシアの神話と伝説を集成したこの作品を、フェルドウスィーは最初サーマーン朝の君主に捧げるつもりだった。
しかし作品が完成するよりはるか前にサーマーン朝は滅亡してしまったので、仕方なくマフムードのもとに持ってきたのだ。
伝説を持ち出せば、テュルク人は「シャー・ナーメ」において敵役とされている「トゥーラーン」の民の末裔になるのだが、「イーラーン」の王は現在不在なので、やむを得ない。

「よくわからんが素晴らしい作品と聞いている。金貨二万枚を授けよう」

ところが献呈当日、フェルドウスィーへの中傷を聞いたマフムードは前言を翻し、金貨二万枚ではなく銀貨二万枚をフェルドウスィーに与えた。
詩人は失望し、銀貨を城門の脇にいた子供に投げ与えてガズナを去った。

数年後、この時のことを悔やんだマフムードは改めて六万枚の金貨をフェルドウスィーに与えようとしたが、使者が着いたときにはフェルドウスィーは既に息を引き取っていたという。


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(マフムードの廟所)

マフムードは1030年、比類なき栄光のうちにガズナで世を去った。享年59歳であった。
彼が死んだとき、ガズナ朝の版図は北はアラル海から南はペルシア湾、西はザグロス山脈から東はインダス川まで広がっていた。
東方イスラーム世界にかくも巨大な国家が出現したのはアッバース朝以来のことだった。
順当にいけば、ガズナ朝はこのあとさらに領土を拡大して西南アジアに新時代をもたらしたかもしれない。

ところが運命は分からないもので、これより程なくテュルク人の新しい一派が登場し、彼らがガズナ朝に代わって地中海まで広がる巨大な帝国を築くことになるのである。
その名を「セルジューク」という。いずれその名は中華世界からヨーロッパまで、全ユーラシアに知れ渡ることになるだろう。

マフムードの始めたインド遠征もまた、別の王朝に引き継がれることになる。
アフガニスタンの山岳地帯の奥の奥、謎めいた谷あいの部族が兵を挙げる。
「世界を炎上させる者」が叛旗を掲げ、ガズナを蹂躙してヒンドゥスタンへの道を駆け下っていく。
赤い城壁に囲まれた、多重都市デリーに君臨する五つの王朝が誕生する。

ガズナの征服王の死はひとつの時代の終わりではなく、むしろ始まりというべきであった。


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(フェルドウスィーが三十年の歳月を費やして完成させた大叙事詩)


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コメント

まさか、このブログでフォーチュンオーブの画像を見るとは思わなんだ(笑)
すっげー懐かしい
某ブログで読んで以来愛読させていただいております。

今後も更新を楽しみにしてます。

  • 2015/01/23(金) 00:07:53 |
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コメントありがとうございます!

おーぷんの連載に比べて笑いが少ないので、今後も唐突に変な画像や変なリンクを混ぜていきたいと思っていますw

  • 2015/01/24(土) 00:40:41 |
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  • 春秋迷 #-
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