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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史17 大セルジューク朝の勃興

鷹の王、トゥグリル

これまで多くの遊牧戦士が「マムルーク(奴隷軍人)」としてイスラーム世界に「輸入」され、各地で活躍してきた。
高官や将軍に上り詰める者、果てはガズナのアルプテギンのように一国の支配者となる者すらいた。
ただし彼らは全て出身部族から引き離され、個人としてイスラーム世界にやってきた者たちだった。ところが「テュルク西進」の大津波は、そんな「緩和措置」を吹き飛ばした。

カラ・ハン朝の成立に刺激されてバルハシ湖畔からアラル海東南のジェンド付近に移動した「オグズ部族連合」は、10世紀後半から徐々にイスラームに改宗しはじめた。おそらくその方が交易や出稼ぎに便利だったのだろう。

ムスリムたちは改宗したオグズ族たちを「トゥルクマーン」と呼んだ。「テュルク人もどき」とか、「テュルク人っぽい連中」という意味である。
テュルク人といえば草原で精霊を崇めて踊り狂っているべきものであって、「文明化」したテュルク人は紛い物だということらしい。

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(テュルクの故地、大いなる草原)

その頃、オグズ改めトゥルクマーンを率いていたのは「セルジューク」(セルチュク)という名の大族長だった。彼については事績も風貌もほとんど分からない。

セルジュークには二人の子がいた。兄の方を「イスラーイール」、弟の方を「ミーカーイール」という。
イスラーイールといえばイスラエル。ミーカーイールといえば天使ミカエル。ムスリムというより、ユダヤ教徒やキリスト教徒のような名前である。
勘繰れば、当時のトゥルクマーンはこれら宗教の教義も相違もろくに理解していなかったのではなかろうか。いずれにせよ、トゥルクマーンとしてはなかなかにハイカラな名前であった。

セルジュークの二人の息子は、若い頃には部族ぐるみでカラ・ハン朝の傭兵として仕えていたらしい。
999年にはカラ・ハン朝がサーマーン朝を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルに進出する。彼らの率いるトゥルクマーンもこれに伴って大挙してシル川を越え、豊かなオアシス地帯に足を踏み入れた。

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(2007年にウズベキスタンに行ったときに、バスの中から撮ったシル川の分かりにくい写真)

ところがまもなくカラ・ハン朝で内紛が起こった。
兄のイスラーイールは部族が内紛に巻き込まれることを嫌い、1025年に民の半分を率いてさらに南を目指した。
アム川を越えてガズナ朝の支配するホラーサーン地方に入り、征服王マフムードに自分たちを売り込もうとしたのだ。

イスラーイールを迎えたマフムードは、彼に問うたという。
「汝はどれほどの兵士を引き連れて参ったのか」
イスラーイールは弓を取り上げ、誇らしげに答えた。
「この弓を我が部族のもとに送れば、直ちに三千の戦士たちが馬を駆って馳せ参じましょうぞ」

逆効果だった。

大征服王マフムードは、この貧しげな半蛮族の長が予想以上の動員能力を持つことを知り、強い警戒心を覚えた。
三千の純騎馬軍団というのは、近代以前のユーラシア世界においては相当の威力を発揮し得るのだ。
マフムードは即刻イスラーイールを捕縛し、問答無用とばかりに地下牢に放り込んだ。人質にしたのである。

イスラーイールが連れて来たトゥルクマーンたちは待てど暮らせど族長が帰ってこないことにしびれを切らし、ホラーサーン北部で勝手に家畜を放牧し始めた。
馬や羊が耕地に入り込み、土地が荒廃する。マフムードはトゥルクマーン討伐に出陣したが、彼らはガズナ軍が迫るとアム川を越えて北に逃げ、ガズナ軍が去ると再びホラーサーンに舞い戻って都市を略奪しはじめた。
彼らも生きていかなければならないのだ。


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(鷹狩りをする遊牧民)

「なに、伯父上がガズナから戻らんだと?」
「おまけにガズナ軍がわしらをいきなり襲って来たんでさ!」

その頃、マー・ワラー・アンナフルに残った弟のミーカーイールは他部族との戦いで戦死し、「トゥグリル」という名の息子が族長の位を継いでいた。993年頃の生まれとされるから、この頃には30代半ばに達していたはずだ。

トゥグリルとはテュルク語で「鷹」を意味する。のちには「王」、「卿」などに相当する尊称の「ベグ」を付けて、「トゥグリル・ベグ」、すなわち「鷹の王」という名で知られることになる男である。
トゥグリルは長男ではなく、「チャグリー・ベグ」と呼ばれる兄がいた。こちらの名前は「小さな鷹」を意味する。
なぜ兄ではなく弟が族長なのか、なぜ兄が「小さな鷹」で弟が普通の「鷹」なのか。いろいろと疑問は生じるが、とにかくそういうことになっている。


なんにせよトゥグリルとチャグリーは仰天し、伯父の釈放を要求して大々的にホラーサーンに侵攻した。
折悪しくガズナではマフムードが1030年に病死し、王位継承をめぐって反乱が勃発する。なお、イスラーイールはこの頃には獄中で死んでいたらしい。

ホラーサーン諸都市はセルジューク家の大侵攻に困り果てた。
ガズナの政権はアフガニスタンの山奥で内輪揉めを続けるばかりで、自分たちを助けてくれる気配はない。

各地の都市で昔ながらのアイヤール(「任侠の徒」)が登場し、てんでに堅気衆をまとめてトゥルクマーンに抵抗したり、彼らと取引したりしはじめた。
要はホラーサーンはガズナ朝の手を離れた。

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(マー・ワラー・アンナフル南部とホラーサーン地方)

トゥグリル・ベグはホラーサーンのトゥルクマーンたちをまとめ上げて秩序を回復し、「自分たちはアッバース朝カリフの忠実なしもべである」と主張しはじめた。

「トゥグリル・ベグはガズナの圧制からホラーサーンを解放するためにやって来た」
「トゥグリル・ベグはいとも公正な君主なり」

海千山千のホラーサーン人たちがそんな宣伝を素直に信じたわけではないが、征服王を失ったガズナよりも新興のセルジューク一族につく方が未来は明るいように思えてきた。


1038年、ホラーサーン地方最大の都市、ニーシャープールにトゥグリル・ベグからの使者がやって来た。

「我が君はイーラーン・ザーミーン(イランの地)の誉れにして、諸都市の女王たるニーシャープールが城門の鍵を捧げることを望んでおられる」

ニーシャープールのアイヤールや有力商人たちは鳩首して侃侃諤諤の議論を交わした末、セルジューク一族の傘下に降ることを決定した。

「解放王、トゥグリル・ベグ!」

トゥグリル・ベグは歓呼の声を浴びながらニーシャープールに無血入城した。この年をもって「大セルジューク朝」の建国とされる。

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(セルジューク朝の国章)


「東洋と西洋のスルタン」

二年後、アフガニスタンの山奥からホラーサーン回復を呼号するガズナ朝の大軍が出撃してきた。
セルジュークの軽騎兵たちは行軍するガズナ軍への襲撃を繰り返した。補給を脅かされ、ガズナ軍は飢えと渇きに苦しんだ。

砂塵吹きあげる1040年5月23日、トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグの率いるセルジューク軍2万は、メルヴ近郊のダンダンカーンでガズナ軍5万を迎え撃った。
二倍を超える兵力差にも関わらず疲労困憊していたガズナ軍は大敗を喫し、ホラーサーン以西の喪失が確定した。
ガズナではまたしても内乱が起こり、国王マスウード1世はインド方面で殺害される。こののちガズナ朝が西南アジアの覇権を握ることは二度となかった。

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(ダンダンカーンの戦い)


この戦いの直後であったらしい。
トゥグリル・ベグはドヤ顔をして兄のチャグリー・ベグに二本の矢を渡した。

「折ってみよ」

ぽきり。

白けた間があって、トゥグリルは三本の矢を渡してもう一度同じことを命じた。

ばきばき、ぽきり。

「・・・・・・もう一度」

四本の矢を渡されたチャグリーは、膝の上に矢束を置いて渾身の力を込めた。

「ふんぬう・・・・・・」

「いや、いい。兄者。そこまで」
「なんだよ」
「何が言いたいかというとな」
「まあ、そろそろ読めてきたんだが」
「一本の矢は折れるし、二本でも折れる。三本でも・・・まあ馬鹿力を揮えば折れるけど、四本になると無理だろ。これと同じように一族が結束していればどんな敵が現われても負けることは」
「そうかそうか」

ぼぎっ。

「・・・・・・つい力の加減が」
「・・・・・・そうかそうか」

ちなみに、後のセルジューク朝は同族争いに明け暮れることになる。

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(?)


ガズナ朝を撃退したトゥグリル・ベグとチャグリー・ベグは、イラン高原への進出に乗り出した。
何といってもスンナ派カリフへの忠誠を大義名分とする大セルジューク朝としては、イランを抑えるシーア派のブワイフ朝が当面最大の敵手であった。
それに、おそらく当時のテュルク人はひたすら西へ、輝けるイスラーム世界の中央を目指すことが民族的本能になっていたのだ。

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(大セルジューク朝の最大版図)

イランの地に入った大セルジューク朝は、都市の知識人たちの蒐集に力を入れた。
異教世界から来たトゥルクマーンは戦うことには長けていても、国を治めることにはまるで素人である。
定住民の社会を知悉し、国際共通語であるアラビア語やイスラーム法に通暁したイラン系官僚の協力が不可欠だった。

イスラーム世界には「忠臣は二君に仕えず」といった価値観はないし、同じムスリムであれば民族的差異に拘る者も少ない。
ガズナ朝に仕えていた官僚や、各地の都市で学んでいた学生などが相次いでトゥグリル・ベグに仕官した。


セルジューク朝ではペルシア語が公用語となった。
これは当時宮廷に馳せ参じた知識人たちの多くがペルシア語を母語としていたことにもよるし、そもそもテュルク人たちが最初にイスラーム文明に触れた中央アジアがサーマーン朝以来のペルシア語文化圏だったことにもよる。
トゥグリル・ベグやチャグリー・ベグはペルシア語なら話せたが、アラビア語は全く理解できなかったらしい。

テュルク人は「剣の人」として武威を揮い、イラン人は「筆の人」として統治する。
この明白な役割分担が以後の東方イスラーム世界の主流となる。
言語についても大セルジューク朝からはペルシア語が東の共通語となり、アラビア語は単なる宗教上の言語と化すことになる。


数十年間にわたって内紛を続けていたブワイフ朝は大セルジューク朝の攻勢によって急速に崩壊した。
1055年、トゥグリル・ベグは殺伐たるトゥルクマーンの騎馬軍団を率いてイラーク平原に下り、ついに帝都バグダードに入城した。
この頃、異様に明るい未知の星が夜空に出現する。人々は地獄の門が開き、全く新たな時代が到来する予感に慄いていた。

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(1054年におうし座の超新星爆発が世界各地で観測され、かに星雲となる)

このとき、アッバース朝のカリフは第26代カーイム(在位:1031~1075)。
トゥグリル・ベグはカリフを武力で恫喝し、その娘を下賜させた。さらにカリフはトゥグリル・ベグに「東洋と西洋のスルタン」なる称号を与えることを強要された。
スルタン」とはアラビア語で「支配者」を意味する言葉で、この頃からイスラーム世界各地の君主に使用されるようになる。


ブワイフ朝を滅ぼし、アッバース朝を膝下に組み伏せたトゥグリル・ベグはさらに旌旗を進め、イラーク平原を北上してシリア・アナトリアに向かった。
彼の軍隊がユーフラテス川を渡るとき、従軍する詩人がトゥグリル・ベグを祝福した。

「東洋と西洋のスルタンよ、貴方様は只今、マムルークを除くテュルク人として初めて、この川を越えられました」
「さもあろう。これよりは我等の時代が来るのだ」

トゥグリル・ベグは傲然と答えて、馬首を地中海へ向けた・・・・・・。


大セルジューク朝の偉大な創建者は、1061年に71歳でこの世を去った。
その最期は「鼻血が止まらずに失血死」という異様なものであったと伝えられている。


獅子王アルプ・アルスラーン

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(アルプ・アルスラーン)

トゥグリル・ベグの死後、スルタン位継承をめぐる同族争いが勃発した。
トゥグリル・ベグ自身にも子供や孫はいただろうが、彼らについての情報は乏しい。早々に抹殺されたのだろう。
有力候補はチャグリー・ベグの子でホラーサーン総督を務めていたアルプ・アルスラーンと、トゥグリルの伯父でガズナ朝に捕殺されたイスラーイールの子、クトゥルミシュだった。

トゥルクマーンの騎馬軍団はおのおのの支持する後継候補に加担して戦い合ったが、その多くはクトゥルミシュについたらしい。クトゥルミシュはトゥグリル・ベグの下で常に最前線に立ち、トゥルクマーン戦士たちと苦楽を共にしてきたからだ。

だが、征服戦争の途上で大セルジューク朝に仕官したイラン人官僚たちはクトゥルミシュに不安を感じていた。
彼は粗野で、昔ながらの遊牧戦士の気風を漂わせる人物だった。クトゥルミシュがスルタンとなれば自分たちの立場は軽んぜられ、被支配者から収奪することしか頭にないトゥルクマーンたちによってイランの地は荒れ果てるのではなかろうか。

一方、アルプ・アルスラーンには期待が持てる。
彼も好戦的なことではクトゥルミシュに引けを取らないが、イラン人官僚たちの立場は尊重しており、余計な口を挟むことはなさそうだった。
アルプ・アルスラーンには少年時代から「ハサン・イブン・アリー」というイラン人の学者が傅役(アター・ベグ)としてつけられていたのだが、彼はこの傅役をいたく尊敬し、彼の言うことは何事も素直に受け入れるというではないか。


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(アルプ・アルスラーンとは何も関係ない)


勝ったのはアルプ・アルスラーンだった。

トゥルクマーンと競合するマムルークたちも一致してアルプ・アルスラーンを支持したことに加え(大セルジューク朝は自由身分のトゥルクマーンとともに、解放奴隷のテュルク人マムルークをも多く利用していた)、傅役のハサン・イブン・アリーがイラン人官僚団をまとめあげたのが大きい。


敗れたクトゥルミシュやトゥルクマーン戦士たちの多くはアルプ・アルスラーンの手の及ばない西方、シリアやアナトリア高原に去っていった。
彼らはその地でファーティマ朝やビザンツ帝国の領域を徐々に蚕食し、いくつもの「諸侯国(ベイレルベイリク)」を建てる。
そうした動きが思いがけず巨大な波紋を呼ぶことになるのだが、それはまだ二十年以上先のことである。


なお、のちにアルプ・アルスラーンはクトゥルミシュが異郷で窮死したことを伝え聞いて涙を流し、彼の遺児のスライマーンを西方諸州の総督に任じた。
後年、スライマーンは大セルジューク朝の本家から独立し、アナトリアに「ルーム・セルジューク朝」と呼ばれる国を建てることになる。
こうしてテュルク西進の波は地中海に到り、今日の「トルコ共和国」の領域にまで到達したのだった。

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(ルーム・セルジューク朝)


1064年4月、アルプ・アルスラーンはスルタンの位についた。
彼の名はテュルク語で「獅子(アルスラーン)のごとき英雄(アルプ)」を意味する。意訳すれば「獅子王」となるだろう。
獅子王は大功あった傅役のハサン・イブン・アリーを宰相に任じ、「ニザーム・アルムルク」、すなわち「国家の柱石」という称号を与えた。
彼こそ前期イスラーム史を代表する偉大な政治家として、高校世界史の教科書にも言及される名宰相に他ならない。

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(ニザーム・アルムルク)

ニザーム・アルムルクは「筆の人」たるイラン人官僚団の筆頭として、粗野なテュルク人たちを醇化して秩序を維持することに努めた。

まずは軍事財政制度の確立である。
大セルジューク朝もブワイフ朝と同様にイクター(分与地)の授与によって軍人たちの忠誠を繋ぎとめたが、ニザーム・アルムルクは前政権を反面教師として、イクター制の運用について種々の改善を試みた。
たとえば、軍人たちに宛がうイクターを頻繁に入れ替えることによって私領化を阻止し、政府の監督官を派遣して無制限な収奪を防いでいる。

また、彼は文教政策にも注力した。
各地に「ニザーミーヤ」と呼ばれるマドラサ(学院)を建設し、スンナ派イスラーム法学の研究・講義を支援したのだ。
これにはいくつかの目的があった。
まず、文化政策に力を入れることでセルジューク朝の粗野なイメージを払拭し、知識人たちの支持を獲得すること。
また、イスラーム法学を振興することで将来の優秀な官吏候補を養成すること。
そしてもうひとつの隠れた意図は、スンナ派法学を盛んにすることによって、長年にわたってイラン高原に根強く残るシーア派の影響力を削ぐことだった。

大セルジューク朝は一貫してスンナ派を奉じ、東方イスラーム世界で最初のシーア派の大国、ブワイフ朝を滅ぼした。
それもあって、宰相ニザーム・アルムルクはシーア派から信仰の抑圧者として激しい敵意を受けることになる。


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(11世紀半ばのビザンツ帝国)


さて、名宰相の補佐を得た獅子王アルプ・アルスラーンは即位直後からグルジア・アルメニアに遠征し、アナトリア高原に侵入した。

この頃、東部地中海を支配するビザンツ帝国はマケドニア朝時代(867年~1059年)の中興を経て、初期イスラームの大征服を迎えた頃に比べれば、だいぶ力を取り戻していた。
東方からの新たな脅威を受けて、ビザンツ帝国は大軍を東部アナトリアに押し出した。
セルジューク軍は相次いで敗退し、一時はユーフラテス川まで後退した。やはり「ルーム(ローマ)」は恐るべき大国である。


ビザンツ帝国の人々は大セルジューク朝に対抗するため、強力な軍事政権の誕生を望んだ。
その声を受けて、1068年にカッパドキア地方の軍人ロマノスが帝位につき、皇帝ロマノス四世ディオゲネスと称した。

ロマノスは1071年初夏、6万の軍を率いてアナトリア高原を東へ向かった。

この頃のビザンツ帝国は、北欧から来たヴァリャーギ(ヴァイキング)やバルカン半島のスラヴ系諸民族、カフカス地方の諸部族など多様な国々の援軍や傭兵をかき集めることで、自国を実態以上に偉大な帝国に見せかけるという外交方針をとっていた。「幻影の世界帝国」と呼ばれる所以である。
だからこの6万の軍というのも、実際には有象無象の寄せ集めで、指揮系統もいい加減なものだったと思われる。

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夏のアナトリア高原の行軍は長く厳しいものだった。
ロマノスは帝都コンスタンティノポリスから持ち出した様々な財物を傭兵たちに分け与えて士気を維持しようとした。

軍のなかでも遠く西方のヨーロッパから来た「フランク人」と呼ばれる連中はことに粗暴で、沿道の民衆や軍の他の部隊から物資の強奪を繰り返した。やむなく皇帝はフランク人傭兵との契約を破棄し、彼らを全員帰国させた。
さほど遠くない先に、彼らの同族が巨大な津波となってアナトリアに押し寄せることになるのだが、そのときの惨状を予感させるかのような振舞だった。
一方で、不平ひとつ零さず黙々と歩を進めるのは最近東からやって来た「トルコマン」とかいう連中である。
これから戦うセルジューク朝の連中の同族だが、内乱に敗れて亡命してきたらしい。


テュルクの騎兵は神出鬼没である。
アルプ・アルスラーンは三万の軍を率い、東部アナトリアのヴァン湖のほとりでビザンツ軍を待ち受けていた。
セルジューク軍はビザンツ側の動きを完全に把握していたが、鈍重に行軍を続ける帝国軍はアルプ・アルスラーンの居場所をまったく把握できていなかった。

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(マラズギルトの戦いまでの両軍の動き)

The Battle of Malazgirt / Manzikert 1071 HD - (Seljuq Turks vs Byzantines)
(これはなかなか面白い)

the battle of manzikert
(こんなのもあり)


8月末、マラズギルトの荒野で両軍はついに接触した。
セルジューク軍は決戦前に突出したビザンツ軍の騎兵隊を次々に包囲殲滅し、8月26日の決戦を迎えた。
セルジューク軍は長大な三日月形の横陣を敷いた。ビザンツ軍はセルジューク軍に倍する大軍である。色とりどりの旗が風に靡き、色とりどりの武具が陽光に煌めく。中央アジアからきた遊牧戦士たちは今更に「ルーム」の武威に慄いた。

「スルタンよ、敵が我等に迫ってまいりますぞ・・・・・・」
「案ずるな。我等も敵に迫っておる!」

獅子王は右手を掲げ、自軍の中陣に緩やかな後退を命じた。三日月の両翼が激しく騎射を繰り返して敵の接近を牽制する一方、中央部は徐々に後退していった。弦月は弓を引き絞るかのごとく大きく歪んでいった。

まもなく皇帝ロマノス率いるビザンツ帝国軍の本隊はアルプ・アルスラーンの本陣に突入した。本陣はもぬけの空だった。
意気上がるビザンツ軍の将兵は、ふと背後に轟く馬蹄の響きに築いた。
彼らが振り向くと、あにはからんや、いつの間にか左右両翼はセルジューク軍に蹴散らされ、背後から敵が迫ってくるではないか。

副帝ドゥーカス率いるビザンツ軍の後方部隊は、敵中に孤立した皇帝ロマノスを放置して退却を開始した。
皇帝を守るヴァリャーギ親衛隊は四方から殺到するトゥルクマーン騎兵の大軍に対して死にもの狂いの抗戦を続けたが、所詮多勢に無勢である。
日没が迫るころ、ヴァリャーギ親衛隊はほぼ壊滅し、ロマノス四世ディオゲネスはアルプ・アルスラーンの本陣でアルプ・アルスラーンに降伏した。
ローマ帝国皇帝が戦場で敵国の捕虜となるなど、三世紀のヴァレリアヌス帝以来かつてなかった出来事であった。

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(ロマノス四世を辱めるアルプ・アルスラーン)

ロマノスは最初、奴隷と間違えられて鞭打たれ、耳輪をつけて連行されてきたという。
アルプ・アルスラーンはこの男が「ルーム」の皇帝であるなど信じられなかった。
なにしろ「ルーム」は世界でもっとも富み栄えたおとぎの国で、皇帝はつねに黄金で刺繍した紫の衣をまとっているはずではないか。

このとき二人が交わした会話が記録されている。

「皇帝よ、もし私が貴殿の捕虜となっていたならば、貴殿は私をどうしたであろうか」
「スルタンよ、おそらく貴方を処刑するか、コンスタンティノポリスで晒し者にしたでしょうな」
「私の下す刑はそれより重いぞ。私は貴方を釈放して自由の身とするのだから」

アルプ・アルスラーンはロマノスを釈放し、護衛兵を与えて丁重に送り出した。
しかし、スルタンの言葉は正しかった。ロマノスが帰国したとき、帝都ではすでに新しい皇帝が即位していた。
捕囚の辱めを受けながらおめおめと生きて帰って来た「前皇帝」は捕えられ、両目を抉り取られて追放されたのだった。

マラズギルトの戦いの敗北によって、ビザンツ帝国は「中規模な帝国」から「並みの強国」程度までランク落ちする。


「――余は、夜明けに夢を見た。手を伸ばすと空の星を掴み取ることができたのだ。余はそれを軍旗に縫い付けた。見よ、これがその旗だ」

トルコ国旗


アルプ・アルスラーンの勝利は西ユーラシアの歴史の分岐点となった。
これよりテュルク人たちは怒涛のようにアナトリアへの進出を開始し、ビザンツ帝国は押される一方となる。
何世紀ものあいだギリシア語と東方正教の文化に属していたアナトリアが、「トルコマニア」や「トゥルキーヤ」と呼ばれるようになるまで、さほど長い時はかからなかった。

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(古典的名著は古典であってもやっぱり名著)



ビザンツ帝国に痛撃を加えた獅子王は、一転して中央アジアに馬首を向けた。
セルジューク朝の故地であるマー・ワラー・アンナフルは、帝国がひたすら西へ拡大するうちにいつの間にか統制が緩み、無秩序状態に陥りはじめていたのだ。
ところがこの遠征が獅子王の命取りになった。

1072年秋、セルジューク軍はアム川南岸のとある砦に猛攻を加え、中に籠っていたユースフ某なる人物をひっ捕らえてアルプ・アルスラーンの本営に引き据えた。

「殺せ、つまらん奴だ」

スルタンは不興気に吐き捨てて背を向ける。それに向けてユースフが毒づいた。

「つまらん奴とはなんだ、大層な護衛どもに囲まれてふんぞり返った軟弱者め! 男なら男らしく俺と勝負しろ!」

色白のアルプ・アルスラーンは「男らしく」というところに刺激され、激昂して命じた。

「そやつの縄を解け! 俺が手ずから殺してくれる!」

衛兵たちが必死に止めるが、獅子王は聞かずに弓に矢をつがえてユースフを睨み据えた。
ユースフは縄を解かれるなりそばの兵士の短剣をひったくって突進する。獅子王は弓を引き絞ったが、矢を放つ直前に足を滑らせて玉座の段から転落した。そこにユースフが襲い掛かり、スルタンの脇腹に深々と短剣を突き刺した。

「昨日、余は我が足元で兵士たちが行軍し、大地が震えるのを感じた。余は己が力をいたく誇った。されど神は余の驕りを見抜きたまい、今日は余を大地に突き落としたもうた・・・・・・」

1072年11月25日。
獅子王アルプ・アルスラーンは42歳にして非業の死を遂げた。


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セルジューク朝はひとつの記事に纏める予定だったんだけどなあ。
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