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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラームの「本質」について

最近、某掲示板のどこかのスレで、件の「いわゆるイスラム国」に関連して、「キリスト教や仏教の本質はなんとなくわかるけど、イスラームの本質っていうのが何なのか、いまいちぴんと来ない」という書き込みがあった。

なるほど。

文系コースに乗っかっていれば、高校の授業でいちおうイスラームの概要について説明される機会がある。
世界史の授業ではイスラームの成り立ちとイスラーム世界の変遷について、そして倫理の授業では教義の概要について。具体的には「六信五行」(アッラー・天使・啓典・預言者・来世・天命を信じ、信仰告白・断食・礼拝・巡礼・喜捨を行う)についての説明があると思う。

でも、これだけだといまいちイメージが湧かない。

なにしろ仏教やキリスト教は身近な存在だ。
どこの町にも寺や教会はある。多くの日本人は冬にクリスマスを祝い、寺で葬式をやる。結婚式をキリスト教式で挙げる夫婦も多い。

かたやイスラームはといえば、日本国内にいる限りモスクを日常的に目にする機会は少ないし、生身のムスリムと接することも通常稀だろう。
となれば、格段の興味をもって自分で調べない限り、イスラームについての情報源は学校で学んだほんの「さわり」程度の知識と、ニュースで断片的に伝えられる情報ばかりということになる。

「豚肉を食べない」、「酒を飲まない」、「妻を四人持てる」、「ジハードをする」、「テロリストが多い」。

合ってる間違っているは別として、なんとなくこんなイメージに集約されて終わると思われる。


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さて、自分の場合はもともと世界史全般に興味があったので、その繋がりでイスラームについてもある程度勉強してきた。
ただし、勉強してきたというのはあくまで「外側から眺めた」というだけであって、信徒になって信仰の実感を伴ってイスラームの神髄的なものを体得したわけではない。
それにイスラームという宗教自体が関心の中心にあるわけでもない。興味の中心はあくまで歴史であって、宗教としてのイスラームはそれに関連する範囲で随時学んだに過ぎない。


ただ、わりと重要かもしれないのが、自分の場合はじめてイスラームについて本を読んで学び始めたのが「例の911事件よりも前だった」ということ。
具体的には2000年の後半頃だったと思う。

人間は「第一印象」というものに想像以上に影響を受ける。
テロというイメージとはほとんど無縁な時代に、中世のユーラシア世界に対する関心を背景としてイスラームに触れた自分にとって、この宗教の第一印象は驚くほどの寛容性と合理性だった。
後発の世界宗教であったイスラームは、教義のなかに最初から「異教徒との共存」が前提として組み込まれている。
聖典コーラン(クルアーン)のなかで、「預言者」ムハンマドは「敵対する異教徒からの防衛としてのジハード」について語るとともに、「融和的な異教徒との共存および信仰の相互尊重」についても明確に述べているのだ。

実際、近代までのイスラーム世界は原則として、多種多様な宗教がおおむね平和裏に、一定の権利を保障されつつ共存する社会だった。
初期のイスラーム国家の支配者たちは税収確保を重視する関係から、むしろ非アラブ人のイスラームへの改宗を制限すらした。
信仰を他者に強制する傾向に乏しいから、11世紀頃までイラン以東の住民の半数以上が非ムスリムだった。アンダルス(イベリア半島)では最後までムスリムが多数派となることはなかった。オスマン帝国時代の帝都イスタンブルも、帝国最末期までユダヤ教徒やキリスト教徒が都市人口の過半を占めていた。

確かに異教徒は「ジズヤ」と呼ばれる人頭税を課せられ、司法や居住などの面で各種の制限を課せられていた。
それはあくまでもムスリムの優位を前提とした寛容性に過ぎないと指摘されることも多い。
しかし、寛容と共存が教義自体のなかで保障されていたということはやはり大きいのではなかろうか。

慈悲の宗教とされるキリスト教は人類普遍の愛を説くといわれることが多いが、異教徒に対しては福音を宣べ伝えるべきことが強調され、異教徒を異教徒のままに尊重するという論理は内包されていない。
近代ヨーロッパ世界の「寛容性」というのは、ポーランドのパウルス・ウラディミリやスペインのサラマンカ学派からパスカル、モンテーニュ、ルソーやディドロ、ヴォルテール、さらにそれ以後まで及ぶ何百年もの知的格闘の末に辛うじて生み出されたものでしかないのだから。


って、なんか話が逸れてるではないか。
まあ要するに、「ジハード」や「テロ」は別にイスラームの本質ではないよ、ということである。
現在たまたまイスラーム世界におけるテロの跳梁が際立っているだけで、過去にはキリスト教徒も仏教徒もその他の諸宗教の徒も、散々テロや宗教戦争や残虐行為をやってきた前科はあるわけで。

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結論から言うと、イスラームの教義をとことん突き詰めた末に凝縮されるのは偶像崇拝の禁止ではないかと思う。


六信五行のなかに出てくる「信仰告白」(シャハーダ)というのは、新たにムスリムとなるべきものが証人の前で唱え、その後も様々な機会にムスリムが証言すべきものとされる文言で、仏教でいう般若心経や西方キリスト教でいうニカイア信経と同じようにイスラームの根本教理を集約したものと言われている。

その内容は以下のとおり。


ラー・イラーハー・イッラッラーフ・ムハンマドン・ラスールッラー」
(アッラーの他に神なく、ムハンマドは神の使徒なり)



「アッラーの他に神はない」、これがムスリムたるべき者が最低限受け入れるべきこと、最後に死守すべき一線なのだ。
「ムハンマドが神の使徒である」というのは、それを補強する役割を持っているといえよう。

六信でいえば、第一項の「アッラーの存在を信じること」と第三項の「預言者を信じること」が信仰告白の内容に直接対応する。
さらに預言者を信じる以上は、預言を伝達した天使の存在、預言を記録した啓典の存在も当然信じるべきであり、さらにアッラーを信じる以上はアッラーの万能性の象徴としての運命の支配権をも信じなければならないということになる。

それに比べれば、豚肉を食べるなだの、妻の数がどうこうだのは、語弊はあるが、いわば枝葉末節のことに属する。
枝葉末節だから融通もきく。たとえば異教徒の国に旅してやむなく、強制されてやむなく、飢えのあまりやむなく、ついうっかり間違えて・・・・・・豚肉を口にすることは許容範囲となる。


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で、イスラームの成立当初の状況を見ると、「預言者」ムハンマドが「アッラーの他に神なし」という原則を具現化するにあたって、一貫して精力を注いだのが偶像崇拝の根絶だった。
コーランのなかでは繰り返し繰り返し、「生命なき偶像」を信仰してはならないことと、アッラーが全知全能であることが強調されている。
ムハンマドが自分の教えを既存の諸宗教から区別したのもまさにその一点であって、コーランのなかでは三位一体を信じるキリスト教が、あるべき唯一神信仰から堕落して複数の神への偶像崇拝に転じたものとして批判されている。

後世のイスラーム神学でも「タウヒード」、つまり「神の唯一性」ということが常に最重要視された。
イスラーム文明において絵画、ことに人物画が忌避されたのもそのせい。

「神ではないモノを神として扱うことこそが最大の罪である」

この原則を貫くべく、コーランでは「預言者」ムハンマド自身も、絶対的な存在であるアッラーから一方的に召命された「預言者」という特性を除けば、徹底徹尾「ただの人間」であることが幾度も主張されている。
神ではないモノを神として扱ってはならないから、のちのイスラーム帝国のカリフたちも神の前では凡人と変わることなき一個人と見なされ、立法権を認められなかった。
なぜならば、イスラーム世界における法とはすなわち宗教法であり、それは「預言者」の啓示に基づくもので、法の制定は神にだけしか許されないからである。

正確にいえば慣習法や細かな行政規範レベルのものであれば世俗支配者の管轄に属するのだが、それらは明確な宗教法に対しては完全に劣位となる。



偶像崇拝、「神ではないモノを神として扱う」ことに対する忌避は、こうして他方において「神以外のあらゆるモノが等しく無価値」という原則を導き出す。そこからイスラーム世界の際立った「平等性」が生まれる。
それを象徴するのが、イスラーム世界における祭司階級の不在。


たまに「イスラームの宗教家」などと言われているものは、正確には宗教法学者か修行者でしかない。

宗教法学者はイスラーム神学に精通し、各種の預言や伝承をいかに現実社会に適用すべきかという法解釈を宣言する。
しかし突き詰めればそれは単なる「学説」であって、個々の信徒に対する拘束力などない。
個人としての修行者はなおのこと。他者が彼の人格風貌に敬意を払って追随することはあれど、修行者が神の意志を代弁することは、正統神学においては決して許されない。
その点が、「教会」を有するキリスト教や「僧侶」を有する仏教との違い。
まあ、仏教の僧侶も厳密にいえば修行者に過ぎないのだけど。


ときどき「イスラム教徒はイスラム国があかんと思うなら、イスラム教徒の法王みたいなのが破門宣言出せよ」とかいう意見を目にすることがあるけど、イスラーム世界にそんな人物は存在しない。
それができるとしたら、神の代弁者である預言者しかいない。
そして預言者はムハンマドで最後とされているのだから、あとは「多数意見」の圧力と現世的な武力で抑え込んでいくしかないのだ。
先日アズハル大学の総長が「いわゆるイスラム国」を批判する声明を出した。
しかし彼は法学的知識において尊敬される存在でこそあれ、宗教的権威など一片も持ってはいない。だからスンナ派社会を代表したり、指導したりすることなどできないのだ。


シーア派はムハンマドの娘ファーティマと、四代カリフ、アリーの子孫を「イマーム」として、預言者に限りなく近い権能を持つ存在と見做している。
このイマームが健在であればシーア派は彼の意見に従うだろうけど、こちらも千年以上も前に姿を消してしまった。



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個人と神が他者を介在せずに直接結びつくという特徴からすると、イスラームはキリスト教のなかでもプロテスタントに近いのかもしれない。
個人主義社会の宗教なのだ。


司法においてもイスラーム法は徹底した外形主義に基づき、人間の内心を忖度しない。
イスラーム法の世界ではカタチとなって現れた結果が全てで、基本的に過失責任だの未必の故意だのといった理屈は成立しない。人の心の中が読み取れるのは神だけなのだから、裁判官が被告の心理を推測することは神の権能を侵すことになる。
近頃ニュースに登場する某元教授が、某大学の学生の「いわゆるイスラム国」への渡航について、学生の申告した渡航意図のみを尊重したのも、おそらくそのためだろう。

「いや、こいつどう見ても自分探しごっこやりたいだけだろ」なんて、他人の本音を推測してはいけないのだ。



中東関係のニュースを見るとことあるごとに「部族」の存在がクローズアップされるけれど、あれは中国における「宗族」と同じように、とっくの昔に擬似「近代」的な個人主義に到達した社会において、バラバラになった個人が身を守るために寄り集まったコミュニティーなのかもしれない。
そんなこともふと思う。

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ところで元ネタの某掲示板書き込みで「なんとなく分かる」と書かれている、キリスト教や仏教の「本質」のほうは何なんだろうか。
キリスト教の本質としてよく言われるのは「信仰・希望・愛」なのだけど、個人的には「人は罪ある存在である」っていうことかなと思う。
一方、仏教の本質というのは「安らぎを求める知恵」だろうか。その辺については、いつか「欧州世界の歴史」や「南アジア世界の歴史」について書き始めたあとに書いてみるかもしれない。




ああ、また埋め草でツッコミ祭り不可避の戯言記事ですね。


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(大セルジューク朝の記事の続きはまだ途中までしか書いていません)

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  • 2015/02/10(火) 03:41:12 |
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Re: タイトルなし

(コメントにこんな機能あったんだ)

コメントありがとうございます。まさにそのとおりだと思います。
「現在」というのは歴史上のある一時代に過ぎないんですよね。
偉そうな言い方をすれば「永遠の相のもとに」世界を把握するという「上から目線」が大切w
対象からある程度距離を置いて、同時代の事象をも相対的に捉えなければ本質は理解できないでしょうからね。そういう視点を持てるのが歴史学の意義かも知れません。

  • 2015/02/10(火) 21:12:07 |
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  • 春秋迷 #-
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