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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史20 反撃の狼煙

屈従の時代

第一次十字軍が築いた植民国家、「ウトラメール(十字軍国家)」の泣き所は、征服者たるフランク人(西欧人)の数があまりにも少ないことだった。
諸侯のほとんどはアスカロンの戦いのあとに帰国したので、当初「聖地」に残ったのはわずか数百人の騎士たちだけだった。

程なく十字軍の第二陣がやって来たが、クルジュ・アルスラーンと賢者ダニシュメンドは前回の失敗から教訓を学んでいた。
彼らはビザンツ帝国の国境から東部アナトリアまで、フランク軍の予想ルートに存在するありとあらゆる水場に毒を投げ込み、遠征軍を干上がらせた。
絶望的な渇きから鎧を着ける気力もなくしたフランク人たちは次々に確固撃破され、大半が途上で戦死した。
これ以後ルーム・セルジューク朝は安定を取り戻し、アナトリアは十字軍の鬼門となる。

ウトラメールのフランク人たちは人的損耗を少しでも抑えるために強固な城砦群を築き、国境の守りを固めることに専念した。

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(ウトラメールを代表する名城、クラク・デ・シュヴァリエ)

とはいえ、いざ戦いとなれば有象無象のシリア諸勢力のなかでフランク人の強さは群を抜いている。
なによりも彼らは真剣に戦う。
当時のムスリム諸侯にとって合戦はある種の「馴れ合い」で、本気で敵を殲滅しようとすることは稀だった。しかしフランク人たちには、(とりわけ最初の頃は)そのあたりの機微はまるで通じなかった。


セルジューク家のダマスクス王ドゥカークは七千もの兵を集めながら、トゥールーズ伯レイモン率いるわずか三百騎に打ち破られ、みすみす「トリポリ伯国」の建国を許した。


アレッポ王リドワーンは、暗殺教団の息がかかった怪しげな占星術師に心酔し、イスマーイール派とファーティマ朝への支持を公言して民心の離反を招く。

1108年、モスルのアターベク(ケル・ボガの後継者)と対立したリドワーンは、躊躇なく異教徒アンティオキア公に支援を要請した。
代償としてリドワーンはそれから毎年二万ディナールを貢納し、ムスリム諸侯はアンティオキア公を「大アミール」と呼んで恐れ憚った。


同年、ダマスクス王国もエルサレム王と休戦協定を締結。ダマスクスとエルサレムの間に広がる広大な農耕地帯を両国で分割することに合意した。
両国の協定はこれ以後半世紀近く維持され、ウトラメールは当分のあいだ東からの大規模な攻撃を心配する必要がなくなった。

シリアの二つのセルジューク家は、早々に異教徒フランク人の下風に立つことを選択したのだ。


一方、ファーティマ朝の宰相アル・アフダルは幾度も北征を試みるが、そのたびごとに失敗。最後はアル・カーヒラ(カイロ)の街頭で群衆に殺された。

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(再掲、ウトラメール=十字軍国家)

誰も彼も情けない限りだった。
名もなき庶民たちや非力な中小領主たちのあいだに、暗愚な支配者たちと、横暴な異教徒に対する憤懣が募った。

1111年、一度はエルサレム王国に占領されたアスカロンで住民が蜂起し、フランク人の駐留軍を皆殺しにした。

1112年、フランク軍に包囲された海港都市ティールは4ヶ月近くも激しい抗戦を続け、侵略軍を撃退した。

そして1119年6月28日、フランク軍は白昼の野戦で大敗を喫した。

この戦いの勝者は北イラークのマールディーンから来たテュルク系の武将、「イル・ガーズィー」である。
彼は大酒飲みとして有名だったが(当時のムスリム、とくにテュルク系の軍人は酒を飲むのが普通だった)、戦の才能は確かだった。

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(最初の勝者、ナジュムッディーン・イル・ガーズィー・イブン・アルトゥク)

イル・ガーズィーは1118年にアレッポ領主として招請された。
この町は5年前にリドワーンが死んでから無政府状態に陥っており、秩序を回復するために剛腕の軍人が必要とされたのだ。

翌年にアレッポ併合を目論むアンティオキア公国が侵攻してきた。
イル・ガーズィーは森の中に兵を伏せ、進軍中のアンティオキア軍を奇襲した。矢はイナゴの大群のように空を覆い、フランク人の騎士たちは壊滅。アンティオキア公ロジェ自身も戦死した。
これはムスリムの歴史書では「サルマダの戦い」、フランク人の年代記では「血染めの合戦」として記録されている。

ムスリムたちは勝利に沸き返ったが、これがまずかった。
イル・ガーズィーは祝宴で酒を飲みまくった挙句、急性アルコール中毒で人事不省となってしまうのだ。
3年後にイル・ガーズィーが死ぬと、後を継いだ19歳の息子は「シリアはフランク人との戦争が多すぎる」と言ってマールディーンに帰ってしまう。いろいろな意味で残念な親子であった。

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(アレッポ城)


反撃の狼煙

フランク人に対する真の反撃を開始したのは、1128年にアレッポの新たな主となった「イマードゥッディーン・ザンギー」である。

1127年にバグダードでアッバース朝第29代カリフ、「アル・ムスタルシド」が発動した「逆クーデター」が彼の人生の転機になった。
このとき25歳のカリフはセルジューク諸王朝が内紛に明け暮れているのを見て、かつての大帝国を復興させる好機が来たと判断し、14歳のセルジューク家スルタンに慇懃無礼に提案した。

「そろそろ故国のイランに戻られてはいかがか?」

スルタンはまだほとんど子供なので平然としていたが、周囲の軍人たちは色めき立った。
近隣でまとまった兵力を抱えていたのは、当時バスラの総督を務めていたザンギーだった。
バグダードに呼び寄せられたザンギーは「信徒の長の乱」を鎮圧するのに成功し、モスルとアレッポの総督(アターベク)に任命された。

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(イマードゥッディーン・ザンギー)

ザンギーは不屈の意志と野心を合わせ持った武人で、兵士たちに鉄の規律を叩き込み、あらゆる町々に密偵を放って、日夜戦いと策謀に明け暮れた。
彼が最も渇望したのはシリアの首邑ダマスクスで、セルジューク家断絶後にこの地を抑える「ブーリー朝」と虚々実々の駆け引きを繰り返した。並行してフランク人へも攻撃を続ける。

1137年にはホムス近郊でエルサレム王フールクを包囲し、5万ディナールの身代金を獲得した。

1138年には久方ぶりにビザンツ帝国軍がシリアに姿を見せるが、ザンギーは流言をばら撒いてウトラメール諸侯とビザンツ皇帝の相互不信を掻き立てた。

「フランク人たちは皇帝が一日も早く帰国することを切望している」
「皇帝はザンギーを倒したら次はフランク人の国々を併合するつもりだ」

折しも陣頭指揮をとっていたビザンツ皇帝ヨハネス・コムネノス(アレクシオスの息子)は、エデッサ伯とアンティオキア公が天幕のなかで呑気にサイコロ博打をしているのを目撃。激怒して本当に帰国してしまった。

そして1144年、ザンギーはついに彼の人生で最大の武勲をあげる。エデッサ征服である。

「11月30日、彼はエデッサの城壁の下にいた。その部隊は大空の星のように数知れなかった。町を取り巻く大地は彼らでいっぱいだった」
(アブール・ファラジ・バシル)


エデッサ陥落の報にフランク人は震撼し、ムスリムは歓喜した。欧州では半世紀ぶりに大規模な十字軍遠征が企画され、シリア諸都市では難民たちが早くもエルサレム奪還を叫び始めた。


ところがザンギーは、わずか2年後にあえない最期を遂げる。

ある夜、敵城包囲中に泥酔して寝ていたザンギーは、ふと物音を聞きつけて目を覚ました。見るとフランク出身の宦官が彼の呑み残しをこっそり拝借している。
頭にきたザンギーは宦官を思う存分怒鳴りつけてから寝なおした。
朝になったらどんな目にあわされることか。震え上がった宦官はいびきを立てるザンギーの胸に全力で短剣を突き刺し、即刻逃亡した。

しばらくしてひとりの側近が彼の天幕に入り、惨状を目の当たりにして驚愕する。
ザンギーは致命傷を負っていたが、まだかすかに意識が残っていた。彼は敵がとどめを刺しに来たと思い、指で命乞いのしぐさをして事切れたという。

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(緑がザンギーの支配した版図)

陣営が大混乱に陥るなか、ザンギーの子の「ヌールッディーン・マフムード」が後継者として登場した。
ヌールッディーンはこのとき29歳。長身で色浅黒く、容姿端麗で澄んだ眼差しをした若者だった。

四方の諸国と絶え間なく戦った父とは違い、若きアターベクは敵を限定することから取り掛かった。
東のモスルを兄に任せ、南のダマスクスとは婚姻関係を締結。「信仰の光」を意味する名前の通り、彼が剣を向けるのは異教徒フランク人のみである。
また、これも父とは違ってヌールッディーンは酒を嗜まず、民政の充実や学問の庇護にも熱心だった。

「彼は公正な王にして敬虔な禁欲者、神を畏れ、善良な民にイスラームの法を施し、神の道に精進する者である」
(イブン・ハッリカーン『名士列伝』)

「ヌールッディーンはイスラーム法を重んじ、それにのっとって政治を行った。また、諸都市に『公正の館』を建設し、裁判官を脇において自ら民の訴えを裁いた」
(イブン・アルアスィール『完史』)


「ヌールッディーン殿は酒も音曲も断ち、粗服を着てウラマーと語り合うのを好まれるそうだ」

「ヌールッディーン殿は常々、自分の金はムスリムのために管理しているに過ぎないと公言され、己のためには一文たりとも使おうとせぬそうだ」

「ヌールッディーン殿が征服した土地では税が撤廃されたそうだ」

意図的に流布されたものも含めて噂が口から口へ伝えられ、庶民は目を輝かせて若きアレッポ領主の名を語り合った。
そのうえ、ヌールッディーンはシリア各地の知識人にこんな内容の檄文を送る。

「アッラーの他に神なし。今こそ全ムスリムは一丸となって聖戦(ジハード)を敢行すべし! 神を冒瀆する異教徒の支配を終焉させ、奪われた領土と聖なる都を取り戻すべし!」

聖戦

これはもう何百年ものあいだ、シリア地方では忘れ去られた概念だった。
ヌールッディーンは敵であるフランク人に見習うように「信仰のための戦い」という理念を歴史の中から掘り起し、シリアの民の心に火をつけたのだ。

反撃の狼煙はアレッポから上がる。


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(イナブの戦い)

1149年、ヌールッディーンはアンティオキアを攻撃。
結果は圧勝だった。アンティオキア公レイモンは「イナブの戦い」で、ヌールッディーン麾下の「シールクーフ」という勇将に討ち取られた。

エデッサ奪還を呼号して欧州より来襲した「第二次十字軍」は現地情勢を理解せず、長年エルサレム王国と協力関係にあったダマスクスを攻撃した。
攻囲が開始されて数日後、地平線に砂塵が立上った。ヌールッディーンが北部シリアの諸侯を率いて救援に駆けつけたのだ。
十字軍は恐慌状態に陥って敗走し、何の成果もなく帰国していった。


1154年4月、「諸都市の花嫁」と謳われた古都ダマスクスは、ついにヌールッディーンの馬前に城門を開いた。
シリア内陸の諸城は次々にヌールッディーンに降り、沿岸のフランク人たちは東部国境全面からの容赦なき攻勢を覚悟せざるを得なかった。
エルサレム王アモーリー(アマルリック)1世は挽回の一手として南に目を向けた。
衰退しきったファーティマ朝を併合し、シリアの覇者となったヌールッディーンに対抗しようというのだ。こうして舞台はエジプトへ移動する。


ファーティマ朝の落日

969年にエジプトを征服したファーティマ朝はまもなく故地のイフリーキヤ(北アフリカ)への統制力を失ったものの、最初の半世紀あまりは陰りなき繁栄を謳歌した。
アッバース朝が衰退し、東西交易の幹線がペルシア湾から紅海に移行したことで、首都のアル・カーヒラ(カイロ)と旧都フスタートはイスラーム世界の経済的中心となった。

ただ、政治面では比較的早い時期からカリフは実権を失う。
その契機になったのは1021年に起こった、第6代カリフ「アル・ハーキム」の「失踪事件」だった。


アル・ハーキムは世界の歴史上でも極めつけの奇矯な君主だった。
996年に11歳で即位。初めは「バルジャワーン」という宦官がハーキムを軟禁して国政を壟断していたが、16歳のときにバルジャワーンの油断を衝いて自ら刺殺。親政を開始した。
こういう生い立ちが彼の人格形成に悪しき影響を与えたのかもしれない。
ハーキムは一面において文化学芸を保護し、庶民の生活に心を配る名君であったが、他面においてはしばしば近臣を殺害し、理不尽な法令を濫発する暴君でもあった。

ファーティマ朝の建前としては、カリフはマフディー(救世主)であり、絶対的な権威を持つ。
ハーキムはこの建前を現実のものとするためイスマーイール派の教義の宣布に力を入れ、ユダヤ教徒やキリスト教徒を厳しく弾圧した。
異教徒は特定の衣裳以外を着てはならず、馬に乗ることも禁止され、ムスリムとの判別のために常に鈴を腰につけるように命じられた。
民に戒律を遵守させるために娼館を閉鎖し、国中のワインをナイル川に捨て、ブドウ園の樹々を伐採。ハーキムが犬を「悪魔の使い」と信じたことから、エジプト中の犬の殺害も命じられた。
風俗紊乱の源ということで浴場も閉鎖され、過去のスンナ派カリフたちが好んでいたという理由でエジプト名物のモロヘイヤを食べることも禁じられた。
いかなる理由であっても、法を犯した者は身分にかかわりなく極刑に処せられた。

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(エジプトを代表する料理のひとつ、モロヘイヤのスープ)

ハーキムは日常生活でも奇行が多く、夜な夜な宮殿を抜け出しては「爬虫類のような眼」でアル・カーヒラの街を徘徊するのが習慣だった。
そんなある夜、いつものようにわずかな従者を連れて宮殿を抜け出したハーキムは、そのまま何処へともなく姿を消してしまった。
数日後に砂漠でハーキムの着ていた服が発見されたが、カリフ自身はどこにもいない。

エジプトの大部分の人々はハーキムに対して恐怖と嫌悪しか感じていなかったが、ごく一部に彼の異様なカリスマに魅入られる支持者もいた。
彼らはハーキムが神の化身であったと信じ、やがてハーキムを崇拝する特異な分派、「ドルーズ派」を形成することとなる。


ともあれカリフの失踪という怪事件によって政局は大混乱となり、以来、宮廷の有力者が次々に傀儡のカリフを立てて権力を争奪するのがファーティマ朝の常態となってしまったのだ。

1065年にはナイル川の水位が異常に低下し、七年間もの大飢饉が始まる。同じ時期にテュルク・ダイラム系の軍人たちと黒人奴隷軍団とのあいだで国を南北に分けての内乱も勃発した。
事態を収拾するためシリアからアルメニア系の「バドル・アルジャーマリー」という人物が宰相として招かれ、精強なシリア軍を率いて内乱を鎮圧する。
ところが軍事的空白状態となったシリアにセルジューク朝のトゥルクマーン戦士たちが乱入し、ほどなくフランク(十字軍)の侵攻もはじまる。
ファーティマ朝はエルサレム王国に金を払って平和を買い、国内で権力争いに明け暮れた。歴代宰相のなかで天寿を全うしたものはごくわずかで、ほとんどは暗殺されたり処刑されたり、ろくな最期を遂げていない。


……そんな経緯を経て、1150年代のファーティマ朝はアラブ系軍人出身の「シャーワル」と「ディルガーム」という人物が栄誉と危険に満ちた宰相の椅子を奪い合っている状況だった。


1163年、エルサレム王アモーリーが最初のエジプト遠征をおこなった。これはナイルの増水に阻まれて失敗に終わるが、ヌールッディーンは警戒を強めた。
その直後、ディルガームに追い落とされたシャーワルがシリアに亡命して来た。エジプト宰相の地位を奪還するため、何としてもヌールッディーンの支援が欲しいという。

ヌールッディーンはこの奇貨を喜び、直ちに腹心の勇将シールクーフにエジプト出兵を命じた。この事件が次の時代の主役を舞台に呼び出す契機となる。

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(現代のクルド人の居住地域)

シールクーフ」はクルド系の軍人で、「アイユーブ」という名の兄がいる。この兄弟が歴史に登場するきっかけというのがなかなか面白い。

1131年、あのアッバース朝のカリフ、アル・ムスタルジドがセルジューク朝スルタンの病死を好機と見て、二度目の「逆クーデター」に打って出た。
モスルとアレッポの総督となって間もないザンギーは、東に勢力を広げる好機と見てバグダードに進軍。
ところが今度のカリフ軍は予想外に強く、ザンギーは彼の人生では珍しいことに惨敗を喫してしまった。


アル・ムスタルジドの方はほどなく勢力を盛り返したセルジューク勢に敗れて殺害され、ホラーサーンを本拠とするアフマド・サンジャルがセルジューク朝の再統合に向けて動き出すのだが、それはこの物語にはさしあたり関係ない。


ザンギーはモスルへ逃げ帰ろうとするが、彼の前には大河ティグリスが滔々と流れている。川の渡し場があるタクリート(ティクリート)の町でザンギーは追手に追い詰められ、絶体絶命の危機に陥った。
この時、救いの手を差し伸べたのがタクリートの長官を務めていたアイユーブ兄弟だったのだ。彼らの生年は不詳だが、おそらくまだ二十歳前だったと思われる。

「義を見てせざるは勇無きなり、と申す。渡し船があるゆえ、はよう川を越えられよ」
「かたじけない、この恩は決して忘れぬ」
「なんの、武士は相身互いでござろう」

ザンギーは本当に恩義を忘れなかった。
数年後、血の気の多いシールクーフが口論の末に役人を殺してしまい、アイユーブ兄弟はタクリートを夜逃げする羽目になった。ザンギーは流亡の一族を温かく迎え入れ、地位と領地を与えてくれたのだ。
このとき、シールクーフの兄のアイユーブは一人の赤子を連れていた。
一家が夜逃げをする当日に生まれたこの赤子の名を「ユースフ」という。
のちに「信仰の救い」を意味する「サラーフッディーン」、縮めて「サラディン」という通称で知られることになる、イスラーム史上最も名高い英雄である。


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(ナイル下流域とシナイ半島)

シールクーフの支援でファーティマ朝の宰相に返り咲いたシャーワルは、今度は強力すぎるシリア勢が目障りになった。
老獪な策謀家(を自任する)シャーワルはシリア勢を牽制するため、もうひとつの外国勢力を呼び込むことにした。先年エジプト侵攻を試みたばかりの異教徒、エルサレム王アモーリーである。
これ以来、エルサレムとダマスクスを天秤にかけるシャーワルによって、両国が代わる代わるエジプト出兵を繰り返すという喜劇的な状況がはじまる。


第一回目ではシールクーフの退路を防ぐようにアモーリーがナイルデルタ東端のビルバイスに布陣。シールクーフはやむなく三万ディナールを支払って遠征軍の帰国を認めさせた。


第二回目は恩知らずのシャーワルに制裁を下すべく、一万二千のシリア勢がエジプトに侵攻したことで始まる。シャーワルはアモーリーに援軍を求め、両軍はほとんど同時にエジプト国境を越えた。
考えてみれば北シリアからエジプトへ向かうにはエルサレム王国の目の前を通らないといけないのだから、シナイ半島に入る頃には両軍はほとんど横並びで進軍していたのだろう。

シールクーフはアル・カーヒラ前面で待ち構えるエジプト・エルサレム連合軍を躱してナイル川を西に越え、10日にわたって南下しながら連合軍を上エジプト地方へ引き込んだ。
突然反転したシールクーフは連合軍を圧倒。そのまま今度は北へ進撃し、10日で南下した距離を一夜で駆け戻ってナイル河口のアレクサンドリアを占領した。
連合軍がアレクサンドリアを囲むと、シールクーフはわずかな手勢を率いて深夜に敵陣を突破し、再び上エジプトに走って民兵を蜂起させた。連合軍はシールクーフに翻弄された。

このとき三ヶ月にわたって主将不在のアレクサンドリアを守り抜き、最後に停戦協定をまとめ上げたのが、当時30歳のアイユーブの息子ユースフ、すなわちサラディンであったという。


「わたしはエジプトになど行きたくありません。なんであんな遠い国へ出かけて苦労せねばならんのですか」
「ユースフ、頼む。俺は戦いのことしか分からんから、おまえの頭が頼りなんじゃ」

渋る甥を無理して引っ張ってきた甲斐があったというものだった。

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(サラーフディーン・ユースフ・イブン・アイユーブ。アイユーブ朝の創始者)


次に先手を打ったのはアモーリーだった。
彼はシリア軍が不在のうちにエジプトを掌握しようと目論み、1168年11月にエルサレムを出陣。宰相シャーワルは依然アモーリーを支持していたが、傀儡のカリフがヌールッディーンに助けを求めたのだ。

アモーリー率いるフランク軍はビルバイスを略奪し、ナイルデルタを進軍してアル・カーヒラに迫った。
ここに来てようやく慌てたシャーワルは、異教徒に物資を渡さないために、エジプト経済の中枢だった旧都フスタートを焼き払うことを決断した。

二十万壺ものナフサが集められ、全住民が避難させられたうえで、11月13日にフスタート全市に一斉に火が放たれた。
大征服時代にアムル・イブン・アルアースによって建設された軍営都市は、これより54日間にわたって燃え続ける。
自ら古都に火を放ったエジプト人たちにドン引きしたアモーリーは、1月2日にエジプトを撤退した。
わずか1週間後、入れ替わるようにシールクーフとサラディンの率いるシリア軍が現われる。彼らは濛々と煙を上げ続けるフスタートの傍らを通過し、帝都アル・カーヒラに入城した。

「異教徒と通じ、由緒ある古都を灰燼と化した悪逆の男はどこにおるっ!」

宰相シャーワルは直ちに捕えられ、カリフの承認のもとに絞首される。
代わってシールクーフがカリフのアーディドによってファーティマ朝の宰相に任じられ、「勝利王」なる称号を得た。

ちなみにこの時点でシールクーフはザンギー朝の一武将なので、これはいわゆる兼帯ということになる。たとえるならば子会社に出向して、出向先の役員になったという状況に近い。
衰え果てたファーティマ朝はシリアのザンギー朝の属国と化したのだ。

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(知られざる名著。イスラーム征服以降のエジプト史を彩る数々のエピソードが記されている)



シリアの稲妻

ここで事態が狂う。ザンギー朝のエジプト進駐軍総司令官にしてファーティマ朝宰相を兼任するシールクーフが、わずか3か月後に急死するのだ。
死因は食べ過ぎによる腸閉塞と推測されている。シールクーフは大食漢であった。

ちなみに「シールクーフ」という名前はクルド語だかペルシア語だかで「山のライオン」を意味する。
彼にはアラビア語の「アサド・アッディーン」という呼び名もあって、こっちは「信仰のライオン」を意味する。
「ライオン」という名前を二つも持つぐらいだから、きっと頬髯ぼうぼうで獅子鼻の巨漢だったのだろう。


さて、シールクーフの急死を受けて宮廷も進駐軍もいろいろと揉めたが、結局甥のサラディンが進駐軍司令官兼宰相を継ぐこととなった。
カリフのアーディドはすぐに彼を後任の宰相に補任した。サラディンはまだ32歳になったばかりだった。


このあたりの動きについて主君ヌールッディーンは全く関知していない。サラディンとしてもいちいちダマスクスに伺いを立てている余裕はなかったのだが、ヌールッディーンから見れば独断専行もいいところである。
日本史でいえば、源義経が兄・頼朝の許可を得ずに後白河法皇から任官を受けた件に似ている。


ヌールッディーンは驚愕した。

「私の命令もなしにサラディンはどうしてこんな事をしでかしたのだ!」

ダマスクスやアレッポの高官たちは脅しめいた書簡を送って来た。

ユースフ、汝は行き過ぎ、限度を超えた。ヌールッディーン殿の僕に過ぎないのに、今では権力を独占しようというのか。心せよ! 汝を無から引き出した我らは、汝を元へ引き戻すことができるのだぞ!」

サラディンは詰問状をすべて黙殺した。

「私はエジプトになど来たくはなかった。叔父が私をここへ連れて来て、エジプトを征服して死んだ。そして神は望みも期待もせぬのに私の手の中に権力を押し付け給うたのだ……」

距離の遠さは心の隔たりを生む。流動的な現地情勢を前に主君の意向を気にしているゆとりはなく、進駐軍が生き延びるためにはエジプトでの独立政権樹立すら視野に入れねばならないだろう。


ファーティマ朝の支持者たちは異国から来た若造など叩き潰してやろうと手ぐすね引いている。エルサレム国王のアモーリーはいつまた侵攻してくるかわからない。
いや、はっきり言えば主君ヌールッディーンが誅伐軍を率いて乗り込んでくる可能性もある。
サラディンは数千騎にのぼる直属軍を編成し、ファーティマ朝の軍人たちのイクターを没収して部下に分配した。
自分たちの生活基盤が掘り崩されたことでファーティマ朝の軍部は蜂起を決断した。

1169年8月22日、帝都アル・カーヒラの中心部を南北に貫く大通り、「バイナル・カスライン」でサラディン率いる進駐軍と5万を超えるファーティマ朝の黒人奴隷兵が激突した。
壮絶な市街戦の末に奴隷兵たちはズワイラ門から敗走し、ギザのピラミッドの真下で全滅した。

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(バイナル・カスライン南端のズワイラ門)

サラディンは軍事力を失ったファーティマ朝の宮廷を完全に支配下に置き、エジプトをスンナ派国家に改造していった。
1170年よりスンナ派法学派の学院(マドラサ)を次々に建設し、シーア派カーディー(司法官)を追放し、スンナ派カーディーに置き換える。
そして1171年9月、サラディンはフスタートとカイロのモスクで集団礼拝に際して、スンナ派ムスリムたちの長であるアッバース朝カリフの名を高らかに読み上げさせる。
それまで常に唱えられていたファーティマ朝カリフの名前は抹消された。

このとき、22歳のカリフ、アーディドは重病の床にあった。

「陛下にはこのことをお告げするな。病癒えればあとでいくらでも知る機会はあろうし、そうでなければ心に無用の苦しみを負うことなくアッラーの御許へ向かわれるほうが良かろう」

サラディンはこのあたり、心優しい。6日後にアーディドが自らの廃位を知ることなく息を引き取り、シーア派最初の大帝国、ファーティマ朝の歴史は幕を閉じた。
サラディンは公式にはザンギー朝の一武将に過ぎないが、事実上新たな王朝の創始者となった。彼の父親の名にちなみ、「アイユーブ朝」と呼ばれる王朝である。


サラディンはファーティマ朝の残党粛清を進めるとともに、アラビア半島西岸に遠征軍を送って聖地マッカとマディーナに加え、南アラビアのイエメンまでを制圧した。

ダマスクスではもはやヌールッディーンの前でサラディンの名前が口にされることはない。人々は顔をゆがめ、「忘恩の徒」、「逆臣」、「成り上がり」、「身の程知らず」と吐き捨てる。
名目上サラディンの主君であるはずのヌールッディーンは懊悩し、ついにエジプト討伐を決意した。

が、ヌールッディーンは1174年5月、討伐軍の出陣を前に病に倒れ、生涯を終えた。扁桃腺の化膿から高熱を発しての死であったという。
ことさらに陰謀の存在を疑うべきではないだろうが、サラディンにとってまことに幸運な結果であった。

サラディンを生んだ者

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(ザンギー、ヌールッディーン、シールクーフら、そしてサラディンの前半生の物語)


ヌールッディーンの死によってシリアの情勢は一挙に流動化した。
後継者のサーリフはまだ11歳である。ヌールッディーンが兄に任せたモスルがこの機に乗じて版図拡大に乗り出す。フランク諸侯が出陣する。そして何より、エジプトのサラディンはどう動くのか。

ダマスクスの宮廷は不測の事態を避けるため、幼君サーリフを抱えて「本国」アレッポに撤退した。


サラディンはサーリフの保護者を自称し、疾風のようにシリアに進撃した。
10月、空城となっているダマスクスに無血入城し、北シリアに軍を展開する。
12月、サーリフを取り巻く「奸臣」を討伐するためアレッポを包囲。少年王は市民に向かって演説した。

「神も人をも顧みず我が国を余の手から取り上げようとする不義不忠のこの男を見よ。おまえたちをかくも愛した亡き父を思い出し、孤児となった余を守ってくれ」

サラディンははなはだ辟易して兵を退いた。折しも風を読んだアッバース朝のカリフからサラディンにエジプトとシリアの支配を公認する書状が届く。
これを盾にとってサラディンはアレッポ、モスルのザンギー朝政権と和約を結び、シリアの新しい覇者となったのだった。

同じ頃にエルサレム王アモーリーも熱病で死去し、後を幼く病に冒されたボードゥワン4世が継ぐ。
北の大国ビザンツ帝国は中部アナトリアのミュリオケファロンでトゥルクマーンに大敗し、とうていシリア・エジプトに介入する余力はない。
サラディンの時代が来ようとしていた。

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(アイユーブ朝の軍旗は黄一色)


ここまでの経緯を見れば、サラディンは確かにザンギー朝の人々がいうとおり、権謀術策を駆使する野心家にしか見えない。
その一方で、サラディンは少なくとも日常生活のレベルではとても大らかで他者への配慮を怠らない性格であったともいう。

部下に間違って氷水を浴びせられても笑って咎めず、臣下の戦死を聞いて号泣する。敵であるフランク人の女性に悲惨な境遇を聞かされて涙を流したこともある。
奮戦する敵将が馬を失えば自分の馬を与え、捕えた敗将に薔薇水を振る舞う。
権威を振りかざすことを嫌い、横柄な部下をも咎めない。ことあるごとに貧者に施しをするので側近たちが財貨を隠したともいう。

サラディンは大偽善家だという者もいれば、偽善の極みは善だという者もいる。
野心なくして権力を握った幸運児という評もあれば、彼の政敵がいつも好都合なタイミングで死亡する不自然さを指摘する意見もある。

実際どうなんだというのは難しいが、普通の人間は自分の性格を何十年も偽れはしない。
個人としてのサラディンは本当に寛大で心優しい人物だったのだろうと思う。そして政治家としても可能な限りはそれを貫いたのだろう。
とはいえやむに已まれぬ状況であれば、彼はいくらでも非情にも野心的にもなれた。つまりは「有能な政治家」だったのだろうと思う。

(この時期の事績だけ追っていると悪役にしか見えないので、余計なつけたしをしてしまった。サラディンの不徳の至りだよ!)

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(だからなんだ的なアレだけど、著者の佐藤次高先生が亡くなる前に一回だけお話ししてサイン貰いました)




(「外伝」的な位置づけの十字軍戦争史は一回にまとめるつもりだったけど、内容が膨らみ過ぎというか詰め込み過ぎたのでここでまた分割)

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