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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史11 列強争乱

列強の時代へ

再説。
かつて夏の禹王の時代には、華夏に一万の国があったという。
周初、東方に封建された諸侯はおよそ三千。
下って春秋期に入っても、強国の支配者たちはなおも他国の祖霊を怖れ、容易に弱小国を滅ぼそうとはしなかった。

しかし紀元前5世紀に入る頃から、まるで開き直ったかのように、大国は次々に群小国家を併呑していく。

紀元前478年には楚が陳を滅ぼし、
紀元前473年には越が呉を滅ぼし、
紀元前447年には楚が蔡を滅ぼし、
紀元前375年には韓が鄭を滅ぼす。

それは長江流域の楚や越、西方の秦、北辺の燕、さらには異族の国である中山など、華夏の文化伝統に馴染みの薄い辺境諸国が台頭したことも理由であろう。
生産力の増大に伴って人口と経済規模が飛躍的に増加し、戦乱の度合いが激化の一途をたどったことも理由であろう。
下剋上の横行による実力主義の台頭も無視できない。
紀元前403年には晋が趙・魏・韓の3ヶ国に分裂し、紀元前388年には斉が有力氏族の田氏に乗っ取られ、実に4ヶ国までが新興権力者の治下となるのである。


紀元前4世紀、華夏の主要国は7つに集約され、オズワルド・シュペングラーが言うところの「列強」の時代を迎えた。
この7ヶ国を「戦国七雄」と称する。
七雄をおおむね戦国時代後期の国力の順に並べ、反時計回りに紹介すれば以下の通りとなる。

】(しん)・・・・・・黄河上流、函谷関の西の「関中」を本拠とする軍事大国。中原の国々からは、なかば蛮夷のごとき「虎狼の国」として畏怖される。
】(そ)・・・・・・華夏の南方、長江流域に広大な版図を有する。長江文明の末裔として古くから華夏とは一線を画して独特の文化を誇ったが、貴族勢力が強く、集権化が遅れた。
】(せい)・・・・・・東方、山東半島を本拠とする華夏第三の大国。巨大都市・臨淄(りんし)を首都として経済的繁栄を極めた。
】(えん)・・・・・・謎めいた北方の雄国。『戦国策』の記述によれば、燕の民は耕作よりも森林での狩猟や漁労によって生計を立てる者が多かったという。
】(ちょう)・・・・・・晋の分裂によって生まれた「三晋」国家のひとつ。首都は邯鄲(かんたん)。北方遊牧民の居住域に近いためか、いち早く騎馬戦術(胡服騎射)を導入した。
】(ぎ)・・・・・・「三晋」のひとつで、中原の中心部を押さえる。黄河文明の正統を受け継ぐ高度な文化を誇るが、戦国中期からは外圧に苦しんだ。
】(かん)・・・・・・「三晋」のひとつ。戦国七雄のなかで最も弱小であり、常に国際政局に翻弄された。


これら7ヶ国のなかで、最初に強盛となるのは「魏国」である。

战国形势图(前350年)(简)
(紀元前350年頃の戦国七雄)


魏国強盛、楚国衰勢

紀元前400年頃。
春秋時代に華夏北方の覇権国家であった晋は消滅したが、それを受け継ぐ「三晋」諸国が依然として中原の政局の中心にある。
なかでも頭一つ抜けているのが、かつての晋の都だった晋陽(現在の山西省太原)や、晋の国富を支えた肥沃な「濁沢」を押さえる魏国である。

ときの魏の国主は文侯・魏斯(在位:前445~前396)。
紀元前403年に周王より正式に諸侯としての承認を受け、周辺国との平和を維持して国力増強に努める。
あるとき韓が魏の軍を借りて趙を討つことを申し入れてきたが、文侯は「趙と我が国は兄弟である」といって拒絶した。
また、あるとき趙が魏の軍を借りて韓を討つことを申し入れてきたが、文侯は「韓と我が国は兄弟である」といって拒絶した。
韓・趙両国ははじめ文侯に怒りを抱いたが、のちに経緯を知って文侯の徳に服したという。

文侯の治世を支えたのは行政官・西門豹(せいもんひょう)、司法官・李悝(りかい)といった名臣たちで、軍事においては呉起(ごき)の存在感が大きかった。


呉起は、のちに伝説的な軍事学者・孫子と並び称される名将である。ただし人格には問題が多かったらしい。
若年の頃に郷里で人を殺めてしまい、出奔して孔子の弟子である曽子(そうし)に師事する。
ところが母親が死んだときにも郷里に帰ろうとしなかったため、不孝の罪により破門される。
曽子といえば儒教の聖典『孝経』を著した「親孝行原理主義者」ともいうべき思想家である。破門もやむなしであろう。

魯に仕えて将軍となるが、妻の出自が問題となった。呉起の妻は、魯を東から脅かす潜在敵国、斉の人だったのだ。
呉起は潔白を証だてようとして妻を殺した。ところがこれまた、出世のために妻を殺す男として忌まれる結果となる。

魯に居づらくなった呉起は中原の中心である魏にやってきて、文侯のもとで安住の地を得たかに見えた。
しかし呉起の身辺からは何とも言えない酷薄な雰囲気が滲み出し、人々は彼を怖れた。

呉起は名もなき兵士たちと起居を共にして労苦を分かち合い、ある時には重傷を負った兵士の傷に口をつけて膿を吸い出してやった。
ところが、兵士の母は悲嘆した。

「わたしの子は呉将軍に恩を感じて、次の戦いで勇戦して生命を捨ててしまうに違いない! 恐ろしい・・・・・・呉将軍は人の心を操る魔物!」

640px-Wu_Qi.jpg


呉起の良き理解者であった文侯が紀元前387年に生涯を終えると、呉起はまたしても安住の地を失い、南のかた楚国へ去った。


当時、楚の国勢は振るわなかった。
長きにわたる晋との対立を経ても中原を制することはできず、長江下流には新興の呉国や越国が成立し、国内では有力貴族や王族が割拠する状態だったのだ。

呉起を迎えた楚の悼王(在位:前401~前381)は、この剛腕の客将にいたく期待をかけ、間もなく彼を令尹(宰相)に任命した。
呉起も王の期待に応えるべく、冗官や遠縁の王族を宮廷から排除し、軍を整備して楚国の中央集権化を図った。
呉起の指揮のもとで楚軍は三晋や西北の秦を破り、転じては華南の諸民族を圧した。
しかし楚の貴人たちのほとんどは呉起が主導する強引な改革に反感を募らせる。

悼王の死とともに呉起の命運は尽き、楚国の貴族74家の兵士たちが呉起を襲った。
呉起は王の遺骸に覆いかぶさり、そこに兵士たちの矢が集中する。

「王の遺骸を傷つけた者は死罪」

呉起は自らの死とともに政敵一同を道連れとして葬り去ることに成功したが、これをもって楚国の集権改革は頓挫した。

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(呉起を主人公とする小説)


さて、その後の魏国である。
文侯の死後も魏はしばらくのあいだ強盛を誇るが、やがて東西から端倪すべからざる強敵が台頭する。

ひとつめはである。
まず紀元前370年に斉公が不意に洛邑にのぼり、周王に謁見する。
当時、衰微しきった周王朝は誰からも顧みられず、河南の地で細々と生きながらえていた。
大国・斉の君主が久方ぶりに周王に礼を尽くしたことにより、斉はいまなお尊王の志を忘れぬ国として一目置かれるようになる。
やがて斉の威王(在位:前356~前320)や宣王(在位:前319~前301)は首都・臨淄の稷門の傍らに諸国の賢者たちを集め、思想文化の庇護者としての権威をも見せつけるようになる。
これは「稷下の学士」と呼ばれるもので、いわゆる「諸子百家」に名を連ねる思想家たちが多く斉の庇護を受けている。

もうひとつは、西方より興起したである。
魏は長らく、黄河中流の「河西」の地を巡って秦と抗争を続け、呉起の頃には戦うごとに秦軍を破ったものだった。
ところが徐々に形勢が逆転する。河西を奪われた秦国は起死回生をかけて大攻勢を開始するのだ。
いまや、魏国の強盛は終わりを告げつつあった。


虎狼の目覚め

紀元前362年、秦国において第25代国主、孝公・嬴渠梁(えいきょりょう; 在位:前362~前338)が即位した。
孝公はこのとき21歳の若さであり、秦国復興を人生の悲願と思い定めていた。

秦国復興。

秦の淵源は神話伝説の彼方にある。
史実としては西周王朝衰亡の後の混乱期に、かつて「西土」と呼ばれた渭水流域の盆地に進出したチベット系牧畜民、古羌族の一派である可能性も指摘される。
しかし当時の秦人はそうは考えていなかった。
馬を扱う技術をもって代々の王朝に信任され、周の東遷後に空白となった渭水流域を委ねられた一族が自分たち秦人であると信じていたのだ。

それゆえ、秦は華夏の一部である。
しかし現実には、黄河中流の激流と山々によって中原から隔てられた秦国の動向には謎が多く、史書はその歴史を「時に夷狄にあり、時に中国にあり」と記している。
東方の諸国は秦を蛮夷のごとき国と見なし、中原諸国の会盟からも秦を排除した。

許しがたい。東方列国に、秦が紛れもなく華夏の一員であり、軽視すべからざる国家であることを知らしめるべし。
孝公は即位に当たり、国民に所信表明の演説を行ったと伝えれらている。

「むかし我が穆公は、岐山・雍のあいだの地で徳を養い武を鍛え、晋の内乱を鎮めて文公の帰国を援け、黄河を境として西戎の覇者と称された。そのとき国土は千里の広きにわたり、諸侯の来賀は相次いだ!」
「しかし今ではどうだ! 三晋は我が先君の地である河西を奪い、都すら西の櫟陽(れきよう;現在の陝西省西安市西部)に遷すことを余儀なくされた! 必ず再び東へ兵を進め、河西を奪還しようぞ!」

「河西を奪還せよ!」
「穆公の栄光を再び我らに!」

秦国の民は悲憤慷慨し、口々に絶叫。
虎狼は、ついに目覚めた。

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(河西ってこの辺)


孝公は秦国復興の方策として、広く諸国に人材を求めることにした。「召客令」というものである。

呉起がそうであったように、当時才能を自負する者は生国にとらわれることなく諸国を渡り歩き、名を挙げる機会を求めていた。
秦の召客令の噂が広まると、たちまち中原から一旗揚げようと欲する連中が集まってくる。
そのなかでひときわ孝公の注意を引いたのは、他ならぬ敵国・魏からやって来た公孫鞅(こうそんおう)なる人物だった。

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(公孫鞅、すなわち商鞅)


公孫鞅は小国・衛の公族で、若いころには魏の宰相に食客として仕えていた。
当時、魏の国主は文侯の孫にあたる恵王(在位:前370~前335)であった。
宰相は死の床で恵王に囁いた。

「わしの食客の公孫鞅には途方もない才能がござる。わしの死後は彼を宰相になされよ。もし宰相になされぬのであれば、彼を殺されよ。もし公孫鞅が他国に行ってしまったら、我が国にとって大いなる災いとなりますゆえ・・・・・・」

残念ながら恵王は宰相の遺言を全く気にかけなかった。
「こーそんおー」なんていう名前を聞いたこともない男が、そんな大物であるとは到底思えなかったのだ。
当然ながら宰相に任じることもなく、といってわざわざ殺しもせず、恵王は公孫鞅を放置したまま彼の存在自体を忘れた。


公孫鞅は魏に見切りをつけ、秦に入る。
孝公の謁見を賜ることに成功した公孫鞅は、滔々と「刑名の学」を説いた。のちに「法家思想」と呼ばれる政治論である。


「国家の要は法であります」
「法、とな」
「そもそも民衆は愚かで目先のことしか理解できぬもの。優れた君主が全てを判断し、民が君主の命令に諾々と従うことによって、国家は最も効率的に統治されます。これこそが富国強兵の基であります」
「興味深い。続けたまえ」
「されば、法の要とは何ぞや。それは信賞必罰であります。いかなる地位功績を持つ者であれども、法に逆らう者は必ず罰し、法に従う者は必ず賞す。これによって法の権威が確立されます」
「ふむ」
「民を従わせるために為すべきことは、他にも数多ございます。たとえば、戸籍を設けて民を五戸あるいは十戸ごとに組織し、法を守るものと破るものとを相互に監視させます。精励するものは爵位をもって賞し、怠慢なものは奴隷とします」
「いささか息苦しいが、そのようにすれば国家は君公の意のままとなろうな」
「これぞ秦国復興、そして秦の民を守り、天下に覇を唱えるための秘策と信じるものであります」
「・・・・・・よかろう、そちは今日から秦の宰相じゃ」


公孫鞅は都の南門に三丈の木を植え、これを北門に移した者に黄金を与えると布告した。

「そんな釣りに引っかかってたまるクマー」

最初は誰も相手にしなかったのだが、やがて暇人がものは試しと、その木を北門まで運んで植え直した。公孫鞅はその男に黄金五十枚を与えた。

「え、マジだったん?」


公孫鞅の導入した新法は苛烈厳酷で民に不評であり、はじめは面従腹背する者がほとんどだった。
他ならぬ孝公の太子ですら例外ではなかった。
公孫鞅は重々しく腕を組んで宣告した。

「法の執行に例外は許されぬ。さりながら太子は国公の世継ぎであり、刑を施すわけにはいかぬ。それゆえ、後見役2名を死刑と黥(入れ墨)の刑に処す」


これより民は信賞必罰を身をもって理解し、法に背く者は後を絶った。
世襲を廃し、成果に応じて褒賞を与えることで実力本位の気風がみなぎった。
農地の分割と鉄製農具、牛耕の普及によって生産力が飛躍的に向上した。
10年のうちに、秦では道に落ちたものを拾う者がいなくなり、山から盗賊が姿を消し、民は私闘をせずに戦場で勇戦するようになった。

『荀子』議兵篇にいわく。
魏国の軍は戦士の勇猛を重んじ、斉国の軍は戦術の技巧を重んじる。
しかしいずれの国の軍隊も、全将兵が一糸乱れずに動く秦軍を前にすれば鎧袖一触である、と。

綱紀粛正、治安完整、治国強兵。

公孫鞅はこの功績をもって「商」に領地を与えられ、「商鞅(しょうおう)」という名で知られることになる。

大秦帝国予告
(これを見ればこの時代の秦の歴史が一目瞭然! 素晴らしい)




魏国衰運、秦国台頭

商鞅の真価を見抜きそこなった魏の恵王については、こんな逸話がある。

あるとき、斉の威王と魏の恵王が会見した。

「斉王よ、貴国にはいかなる国宝がおありか」
「とくには、ござらん」
「我が国は小国なれど、『径寸の珠』という光り輝く宝玉がありましてな、まあ軽く前後十台以上の車は照らし出せますわい。ははは」
「・・・・・・魏王よ、我が国にはさような宝玉はござらねど、優れた臣下があまたおりましてな。四方を守り、民の暮らしを安んじておる。まあ、国宝といえば、これら臣下たちのことであろうか」

恵王は恥じ入ったという。


さて、この恵王の時代に魏の衰運はさらに急となる。

威王の斉は東から武力をもって魏を圧迫しはじめた。
立役者は威王の「国宝」のひとり、名将・「孫臏(そんぴん)」である。

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(孫武と並ぶふたりの「孫子」のひとり、孫臏)


彼は若いころに「龐涓(ほうけん)」という人物とともに兵学を学んだ。
やがて龐涓は孫臏よりも先に魏の恵王のもとで仕官することができたが、自分よりも才能のある孫臏がいつか自分の地位を脅かすのではないかと不安になった。
そこで龐涓は若き日の学友を裏切る。
彼を魏に招待し、罪に陥れて脚切りと入れ墨の刑に処したのだ。前科者を雇う君主などなかろうから、これで龐涓の地位は安泰になった、はずだった。

しかし、斉の威王は孫臏の真価を見抜き、彼を将軍に任じた。

「孫臏、君を無実の罪に陥れた男への復讐の機会を与えてやろう」
「・・・・・・王の御心のままに」


紀元前354年、魏の龐涓が趙の邯鄲を囲む。
趙から救援の要請を受けた斉の威王は、孫臏に出撃を命じた。
孫臏は邯鄲には向かわず、がら空きとなっている魏の都を襲った。いわゆる「囲魏救趙」の故事である。
龐涓は慌てて引き返し、魏国の威信は大いに損なわれた。


紀元前352年、西から商鞅の率いる秦軍が侵入してきた。
これ以後12年間にわたる「河西の役」のはじまりである。
商鞅の法制改革、いわゆる「変法」によって富国強兵を実現した秦軍は、いたるところで魏軍を撃破し、河西の諸城を次々に奪還した。


紀元前341年、斉軍と魏軍が馬陵で激突する。
龐涓率いる魏軍は斉軍の陽動につられて死地に踏み込み、森のなかの窪地で日暮れを迎えた。
そのとき、とある大樹に何か文字が書いてあるのが見つかった。

「なんだこれは、おい、明かりをつけろ」

松明をかざして龐涓が大樹を見ると、そこには墨跡鮮やかにこんな文字が・・・・・・

龐涓死此樹下(龐涓、此の樹の下に死す)

「な!」

思わず叫んだときだった。風を切って四方八方から矢の雨が大樹に殺到した。

「松明の明かりが見えたら矢を射よ、と命じた通りの結末となったな」

復讐は成り、孫臏の記録は以後史料から消える。
そしてふたりの元学友たちとともに、魏国の大軍も消え去った。


翌年、西方から再び秦軍が侵攻する。
魏の恵王はもはや秦に対抗する手段を持たず、ついに河西の地を割譲して和を請うた。

黄河以西を平定した秦は、国都を東の咸陽(かんよう; 現在の陝西省咸陽)に遷し、中原への本格的な進出を視野に入れた。
孝公は秦の国境沿いに長城を築き、中原への入り口にあたる場所に「函谷関(かんこくかん)」という巨大な要塞を建設した。
これ以降、函谷関の西の渭水流域は「関中(かんちゅう)」という名で呼ばれることになる。

対する魏もまた、はるか東の大梁(現在の河南省開封)へ国都を遷した。虎狼の国から少しでも遠ざかるために・・・・・・。

これ以後、魏は覇権を失い、恵王は「梁の恵王」として後世に知られることになる。

儒教第二の聖典、『孟子』の冒頭に「梁恵王篇」なる章がある。
孔子の孫弟子であり、性善説の祖としてしられる「孟子」こと孟軻(もうか)は魏国の新都、大梁にて恵王に見えた。なおも懲りずに己の徳を喋々とする恵王に向かい、孟軻は冷たく告げたという。

「五十歩百歩と申しましてな、陛下程度の有徳者はどこにでもいるのでございますよ」

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次なる時代へ

秦では程なく、人生の悲願を達成した孝公が世を去った。
改革者はここでも悲運で、商鞅は庇護者たる主君を失ったとたんに反対派たちに襲撃された。
国外へ逃亡しようとするが、関所で足止めを食らう。

「商君のお触れで、身分証の無い方は関所の通行を許されぬことになっとります」

「法とはこれほどまでに苛烈なものであったのか・・・・・・」

商鞅は言葉を失った。
まもなく追手が現われ、この稀代の改革者は咸陽に連行されて、車裂きの刑に処せられた。

彼を処刑したのは、かつて新法を犯して後見役を処断された太子、いまは即位して恵文君(けいぶんくん; 在位:前338~前311)と呼ばれる新しい秦の国公である。
しかし、恵文君は決して単なる私怨で商鞅を処刑したわけではない。
商鞅の変法は国家の権力を全て国公に集中するためのものだったが、皮肉なことに秦人はむしろ改革の主導者たる商鞅自身を国公以上に畏怖してしまっていた。
恵文君は商鞅を抹殺することによって、商鞅の目指した「法家の国」を完成したのである。


秦の関中統一を受けて、周王朝は秦を新たなる「覇者」に認定した。
魏の恵王はこれに反発し、斉の威王に接近。紀元前334年に魏国と斉国は王号を相互承認する。
ここに両国は、正式に周王朝の主導する国際秩序から離脱したのである。

華夏の他の諸国も続々と王号を称しはじめる。
こうなると、秦も列国が軒並み黙殺する周王朝に依拠する意味を見いだせなくなる。かくて紀元前324年、秦の恵文君もまた王を称し、これより「恵文王」とされることになる。


一方、時を同じくして華夏南方で知られざる大戦争が起こっていた。
百数十年にわたって長江下流の沿海地方を支配してきた越国と、長江中流の大国・楚国の最終決戦である。

紀元前334年、魏王と斉王が相互に王号を承認しあった直後に、越王無疆(むきょう; 在位:前342~前334)が南から斉に進撃して来た。
斉の威王は越王を説得し、その矛先を楚に向けさせる。西に転じた越軍は楚に侵攻するが、完膚なきまでの大敗を喫してしまった。

楚軍は越王無疆を捕えるや、直ちに処刑。
勢いを駆って長江下流域に雪崩れ込み、かつての呉国の旧領を越えて銭塘江まで到達した。

越王遂伐楚。楚人大敗之、乗勝盡取呉故地、東至于浙江。
越以此散、諸公族争立、或王、或君、濱於海上、朝服於楚。

(『資治通鑑』巻二・周紀二・顕王三十五年条)



越人はこれより四散し、楚の勢力は大きく東へ拡大して長江下流から淮水流域まで及ぶことになった。

越の残党の一部は山東半島に向かい、旧敵・斉の庇護下に入る。

別の一派は楚の追撃を逃れて深く南方に入り、東南アジアから楚国南縁まで広がる巨大なタイ系諸民族、「百越」の大海に消えていった。
やがて現在の福建省や広東省で「閩越(びんえつ)」や「東越(とうえつ)」とよばれる国家が出現する。
おそらくは越の残党と、現地勢力が融合して作り上げた国であろう。

さらに、越人のなかにははるか海の彼方に活路を求めた者たちもいるらしい。
早くから海に親しんでいた越人にとっても、荒海の東シナ海を越えるのは大変な難事であったことだろう。
彼らのうちのごく一部は幸運にも大海を乗り切り、東方の島々まで辿りつくことができた。
のちに「日本列島」と呼ばれる東方の島々。到着した越人たちは驚愕したことだろう。

そこは世界で最も豊穣な土地のひとつだった。
溢れんばかりの緑、驟雨、程よい暑熱に恵まれ、森には獣たちが群れ、広大な湿地には数えきれないほどの水鳥が羽を休めている。夕暮れには鹿や野生馬の大群が地平線を埋め尽くした。

この島々の先住者たちは、何万年ものあいだ狩猟と採集だけで豊かな社会を維持し続けていた。
森の古木や巨岩に宿る神霊を崇め、母音を長く引く不思議な言語を使っていた。
新来の越人たちは、先住民族たちが興味を持たない川沿いの湿地に定着し、故郷から持ち込んだ稲の栽培を開始した。
彼らの末裔が日本列島西部に築いた小国群が大陸の史料に登場するのは、それから三百年以上先のことである。

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(日本列島の先住者たちの中核は、トバの噴火後に最初に東ユーラシアにやって来た人々の子孫であったらしい)


呉起の改革失敗後、停滞しつづけていた楚国は、東方に巨大な新領土を獲得したことで、にわかに国勢を高めた。
これより20年あまりにわたり、華夏の西方に浮上した秦国と華夏の南方に広がる楚国との間で、次なる時代の主導権をめぐる闘争が繰り広げられる。

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(「戦国時代」の語源とされる書物)

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コメント

相変わらずですね。

  • 2015/05/03(日) 20:23:32 |
  • URL |
  • 長老 #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

> 相変わらずですね。

  • 2015/05/03(日) 22:26:17 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

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