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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史3 アラビア半島の支配者

ヤスリブはマッカの北西350キロに位置し、紀元前6世紀の記録にも名前が見られる大変古い町である。
ここにはアラブの2つの部族とユダヤ教徒(アラブ化したユダヤ人か、ユダヤ教に改宗したアラブ人かは定かでない)の3つの部族が暮らし、互いに争い合っていた。

ユダヤ教徒が多いヤスリブでは、マッカとは違って「唯一神」という概念が受け入れられやすかった。
この町の有力者たちはムハンマドの説く教えに心酔し、争いを調停し得る権威者として彼を招請したのだ。

70名あまりの信徒とともにヤスリブに入ったムハンマドは、程なくこの地の内紛を終結させ、ヤスリブの各部族の族長たちを集め、全住民がイスラーム信仰の有無に関わらずひとつの共同体(「ウンマ」)を結成することを誓い合った。

ムハンマドは事実上ヤスリブの指導者となった。
これ以後、この町はもっぱら「預言者の町」を意味する「マディーナ・アン・ナビー」、略して「マディーナ(メディナ)」という名前で知られるようになる。


マディーナを掌握したムハンマドは、迫害に耐える宗教家から冷徹な政治指導者、軍人へと変貌する。

624年3月、ムハンマドはマディーナの信徒300名あまりを率いてマッカの隊商を襲撃する計画を立てた。
それを察知したマッカの人々はマディーナ軍のおよそ3倍、1000名近くの軍勢を集めるが、ムハンマドは「バドルの戦い」で圧倒的な勝利を収め、マッカ軍は70名以上の死者を出して潰走した。

Siyer-i_Nebi_-_Imam_Ali_und_Hamza_bei_dem_vorgezogenen_Einzelkampf_in_Badr_gegen_die_Götzendiener
(バドルの戦い。イスラームの歴史上で最初の「聖戦」とされる)


翌625年、マッカの盟主、ウマイヤ家のアブー・スフヤーンはマッカの成人男子のほぼ全員、およそ3000名を動員して雪辱戦を挑んだ。

実はこの頃、マディーナ内部では不穏な空気が流れていた。
従来からマディーナで暮らすユダヤ教徒たちが、ムハンマドの啓示の内容が旧約聖書の記述としばしば矛盾するという批判を行なっていたのだ。
ムハンマドによればアッラーは旧約聖書に記された、イブラーヒーム(アブラハム)やムーサー(モーセ)の神と同じものだったから、当のユダヤ教徒に啓示と聖書の食い違いを指摘されたのは致命的だった。

「長い年月のうちにユダヤ人はアッラーの正しい教えを忘れ歪めてしまった。それゆえ私が真の信仰を復興させるべく召命されたのだ」
ムハンマドはこう反論したが、ユダヤ教徒たちは容易に納得しない。
ともすればマッカ側と手を結んでムスリムたちを排除しようとする動きも見られた。

マッカの軍勢を迎え撃ったムハンマドはユダヤ教徒たちを帰陣させ、信頼のおけるムスリムだけで戦いを挑んだ。
その結果は大敗だった。

マッカにはハーリド・イブン・アルワリードという名の鬼神のごとき名将がいた。
ハーリドの率いる騎兵隊がマディーナ軍の本陣に突撃し、一時はムハンマドの生死すら不明という大混乱になり、マディーナ軍は雪崩のように潰走したのだ。


この「ウフドの戦い」のあと、ムハンマドは内部の禍根を断つべくユダヤ教徒をマディーナから追放した。
あらためてユダヤ教徒の教えが不正確であることが強調され、ムハンマドは世界で最初の預言者であるイブラヒーム(アブラハム)の信仰を復活させたのだとされた。
また、マッカはイブラーヒームによって築かれた聖なる町であり、カアバから偶像を排除してアッラーを讃える礼拝の場とするべきだという啓示も下った。


627年、マッカのアブー・スフヤーンはユダヤ教徒と同盟を結んで再びマディーナに来襲した。
この時、ムハンマドはアラビア半島では前例のない奇策をとる。マディーナの町の周りに塹壕を掘ったのである。

マッカの騎兵は塹壕を突破することができず、三々五々撤退していった。
このときの戦いは「塹壕」を意味するアラビア語にちなみ、「ハンダクの戦い」と呼ばれる。

ハンダクの戦いのあと、ムハンマドはマディーナ周辺に残っていたユダヤ教徒のクライザ族を粛清し、放逐したユダヤ教徒たちの拠点であるハイバルを攻め落とした。
ハイバルの住民は信仰を維持することこそ認められたものの、以後、ムハンマドを中心とするウンマ(イスラーム共同体)への服従と貢納が義務づけられた。
他にも至るところのオアシスへ次々に遠征軍が派遣され、各地の町やベドウィンの諸部族は続々とムハンマドへの忠誠を誓った。

Tribes_english.png
(アラビア半島の諸部族)


628年、マッカの有徳者同盟はムハンマドの打倒がもはや不可能であることを悟り、ムハンマドの圧力に屈して「フダイビーヤの和議」を受け入れた。
これによってマッカとマディーナの相互不可侵や、ムスリムによるカアバへの巡礼が認められることになった。
ウフドの戦いでムハンマドを苦しめた猛将ハーリドや、マッカ随一の策略家であるアムル・イブン・アルアースらも相次いでイスラームに帰依した。
マッカの指導者アブー・スフヤーンや、ムハンマドの叔父のアッバースも一族の女性をムハンマドの妻として差し出した。

かくて機は熟した。

630年1月、とあるムスリムの若者が殺害されたことをきっかけに、ムハンマドはフダイビーヤの和議を破棄し、1万の軍を率いてマッカに進軍した。
圧倒的な大軍を前にマッカは戦わずして降伏した。ムハンマドはヒジュラより8年を経て、とうとうマッカ帰還を達成したのだ。

Siyer-i_Nebi_298a.jpg
(マッカに向かうムハンマド)


「真理は来た! 暗黒は去った! 無明無知の時代は本日ここに終わりを告げる!」

ムハンマドは聖域カアバに並ぶ無数の偶像を次々に打ち倒し、ただひとつカアバの片隅にあった漆黒の隕石だけを、遠い昔に預言者イブラーヒームが安置した聖遺物だと認定した。
これが「カアバの黒石」として今も知られるものである。


西暦630年は「遣使の年」といわれる。
いまやムハンマドの勢威はアラビアに並ぶものがなく、半島のあらゆる部族が「預言者」ムハンマドに使者を遣わして忠誠を誓った。
天賦の才ある孤児は、ついにアラビア半島の支配者にまで上り詰めたのである。


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