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世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史22 世界征服者の到来

世界を燃やす者

西暦1141年――
セルジューク朝のスルタン・サンジャルはサマルカンド近郊のカトワーン平原で、西遼(カラ・キタイ)の耶律大石に大敗を喫した。
結果、イスラーム世界東方に巨大な力の空白が生まれた。

その空白を埋めるように、二つの新興勢力が台頭する。
セルジューク朝のホラズム総督に任じられながら、いちはやく西遼に通じてマー・ワラー・アンナフルの支配権を認められた梟雄アトスズの血を引く「ホラズム・シャー朝」。
そしてアフガニスタンの奥深くから現われた「ゴール朝」である。

12世紀後半東方
(12世紀後半の東方イスラーム世界)


百年ほど時代をさかのぼる。
大征服王マフムードの死後に内紛を繰り返したガズナ朝は、1040年にダンダンカーンの戦いで新興の大セルジューク朝にホラーサーン地方を奪われた。

ガズナ朝の力が衰えるなか、アフガニスタン中心部の荒涼たる山岳地帯で「シャンサブ」(シャンサバーニー)と呼ばれる一族が台頭しはじめた。
このあたりを「ゴール地方」という。
かなり辺鄙な山奥だけに、シャンサブ一族の初期の動向はほとんど記録されていない。
ゴールの人々はガズナのマフムードの頃まではイスラーム化すらしておらず、仏教・ゾロアスター教・原始的な精霊崇拝が混淆した信仰を維持していたらしい。

12世紀前半、ゴールのシャンサブ一族は、街道を襲撃する山賊団として悪名を轟かせる。
その頃、ガズナ朝はセルジューク朝の属国となっていた。
宗主国であるセルジューク家のサンジャルはゴール地方に兵を進め、シャンサブ一族に服従を誓わせた。
このシャンサブ一族がゴール朝の前身となる。

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(ゴール地方の人々)

カトワーン平原での大敗によってスルタン・サンジャルの勢威が衰えると、シャンサブ一族は西のヘラートへの進出を目論んだ。
この動きを警戒したのが、当時のガズナ朝の支配者、バフラーム・シャー。
彼はヘラートに進撃してきたシャンサブ家の当主、サイフッディーンを処刑し、その弟を毒殺した。

1149年、シャンサブ家を継いだ「アラーウッディーン・フサイン」は、殺された兄たちの復讐のため、東のガズナへ兵を向けた。
ゴールの男たちは盾を並べて戦象の突撃を耐え、逆襲に転じてガズナ軍を散々に蹴散らした。
アラーウッディーン・フサインはガズナの都に乱入し、大征服王マフムードがもたらした数多の財宝を略奪し、ガズナ歴代君主の陵墓を暴き、都に火を放った。

150年ほど前に東方イスラーム世界の中心として栄えた古都ガズナは一夜にして灰燼と化した。
アラーウッディーン・フサインは「ジャハーン・スーズ」(世界を燃やす者)と呼ばれることになる。

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(ゴールとガズナの位置関係)


アラーウッディーン・フサインは「スルタン」を自称し、宗主国であるセルジューク朝からの独立を宣言した。
だが、勢威衰えたりといえども、セルジューク朝中興の英主サンジャルはこれを黙って見逃しはしなかった。
1152年にサンジャルはヘラート近郊でアラーウッディーン・フサインを撃破し、捕虜として牢獄に放り込んだ。

だが、その翌年にサンジャル自身がトゥルクマーンに捕えられ、セルジューク家の衰退が決定的なものとなる。
1154年にアラーウッディーン・フサインはゴールの首邑、フィールーズ・クーフの城塞に帰還する。
ゴール朝」のはじまりである。

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(ゴール朝を代表する建造物、ジャームのミナレット)


タラーインの戦い

1161年にアラーウッディーン・フサインが死ぬと、甥の「ギヤースッディーン・ムハンマド」と「シハーブッディーン・ムハンマド」がゴール朝を掌握した。
兄のギヤースッディーンは王朝発祥の地であるゴール地方を拠点に西方へ進出し、弟のシハーブッディーンは奪い取ったガズナを拠点に東方へ進出した。
ギヤースッディーンも相当な傑物だったが、イスラーム世界の歴史には、弟のシハーブッディーンのほうが大きな足跡を残すことになる。

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(「ムハンマド・ゴーリー」こと、シハーブッディーン)


シハーブッディーン・ムハンマドは、「ムハンマド・ゴーリー」(ゴールのムハンマド)という通称で知られている。
彼は2世紀近く前のガズナのマフムードに倣うかのように、その生涯を通じてインドへの侵攻を繰り返した。

ただし彼はマフムードと違って常勝将軍ではなく、幾度も敗北を経験した。
それゆえに彼は、腰を据えて北部インドを征服すべく、パンジャーブ地方(インダス上流域)にラホールやペシャワールなど複数の軍事拠点を設けてヒンドゥスターン平原を窺った。


その頃、インド北部には強力な統一国家が形成されつつあった。チャーハマーナ朝である。
ガズナ朝の侵略によってガンジス流域のプラティーハーラ朝が滅亡したあと、ラージャスターン地方から勃興したラージプート(戦士貴族)の王国で、12世紀中頃にドアーブ地方(ガンジス川とヤムナー川に挟まれた平原地帯)を制し、北のパンジャーブに版図を広げようとしていた。

当時の王はプリトヴィラージャ3世
1177年にアジメールの町で14歳の若さで王位について以来、ラージャスターン、ブンデルカンド、グジャラートの諸王国を次々に従え、その武名は並ぶものがない。

12世紀北インド
(12世紀北インド)


1191年、ムハンマド・ゴーリーとプリトヴィラージャはタラーインの地で激突した。
ゴール軍は大敗北を喫した。だが、惜しむべきことにプリトヴィラージャはムハンマド・ゴーリーを取り逃がした。

翌1192年、ゴールの侵略者たちはアフガニスタンの山岳地帯から再び攻め下って来た。
前年の敗北に懲りたムハンマド・ゴーリーは公称12万もの大軍を集めた。鉄の甲冑で身を固めた重装騎兵隊や、1万の騎射の兵士たちもいた。

プリトヴィラージャは北部インドのすべての王に支援を求めた。共通の敵であるムスリム勢力に抵抗するため、諸王は相次いで援軍を送った。
記録によればプリトヴィラージャの兵力は30万に達したという。信じがたい数字だが、インド側のほうが優勢だったことは確かだろう。
両雄は前年と同じタラーインで戦端を開き、互いに持てる軍事的才能を尽して戦ったが、最後には西軍が東軍を圧倒した。


英雄叙事詩「プリトヴィラージャ・ラーソー」によれば、ムハンマド・ゴーリーは捕虜となったプリトヴィラージャの両目を潰したが、プリトヴィラージャは決して屈しなかったという。

「王は両目を失っても獲物を射ることができるのだ」
「ならば試してみよ」

プリトヴィラージャは弓を与えられた。

「的は正面だが、当てられるわけはあるまい」

プリトヴィラージャは的を射ると見せかけて、その声に向かって強烈な一矢を放った。矢は見事、驕るムハンマド・ゴーリーの喉元に突き立ったという。


もちろん、これはインドの人々の願望を投影した伝説で、史実ではない。
第二次タラーインの戦いに勝利したムハンマド・ゴーリーは、プリトヴィラージャが築いたデリー(ディリカー)に入城し、ヒンドゥスターン平原への本格的な進出を開始した。

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(プリトヴィラージャ3世)


覇王の都、デリー

かつて、北インドの政治的中心はガンジス下流に近いパータリプトラ(現; ビハール州パトナ)にあり、マウリヤ朝やグプタ朝はここからインド亜大陸のほとんど全域に覇を唱えた。

7世紀のヴァルダナ朝の時代からガンジス中流域のカナウジ(現; ウッタルプラデーシュ州カナウジ)が北部インドの新たな中枢となり、パーラ朝、プラティーハーラ朝、ラーシュトラクータ朝の三王朝がカナウジの支配をめぐって激しい角逐を繰り返した。

だが、ガズナのマフムードの侵略によってカナウジは炎上し、北インドの政治的重心はさらに西方へ移動する。
かくてガンジス川とヤムナー川に挟まれたドアーブ地方のデリーが、新たなる覇王の都となった。


アフガニスタンからやってきたムスリム勢力はデリーを中心に徐々にインド亜大陸北部に支配を広げていく。

奴隷王朝(1206~1290)ハルジー朝(1290~1320)トゥグルク朝(1320~1414)サイイド朝(1414~1451)ローディー朝(1451~1526)

この地で興亡した五つの王朝を、総称して「デリー・スルタン朝」と呼ぶ。

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(デリー・スルタン朝の版図)


ムハンマド・ゴーリーはヒンドゥスターン平原侵攻の足掛かりを築いたことを良しとして、ひとまず馬首を西へ返した。中央アジア方面でホラズム・シャー朝と対峙する兄のギヤースッディーンを支援するためだった。
西方の戦況は芳しくなく、これ以後ムハンマド・ゴーリーは西部戦線にかかりきりとなる。代わってインド方面を任されたのが「クトゥブッディーン・アイバク」なる男だった。

アイバクはマムルーク(軍人奴隷)出身の有能な将軍で、不在の主君の代理人として赫々たる勝利を積み重ねる。
チャンダワールでガーハダヴァーラ王国を破り、カナウジとベナレスを占領。
デリーの南のバヤーナ、グワーリオル、カーリンジャル、マホーバー、カジュラーホーの諸城砦を次々に奪取。
アンヒルワラを攻略してグジャラート地方を劫掠。
ゴール朝の一隊はガンジス下流域のビハール地方を横断し、北ベンガルやカーマルーパ(アッサム地方)まで侵攻している。


1203年、ムハンマド・ゴーリー(シハーブッディーン)は兄のギヤースッディーンの死によって、ホラーサーンからヒンドゥスターン平原まで広がるゴール朝全体の大君主となった。
だが、翌1204年に彼はホラズム・シャー朝の若き支配者、アラーウッディーン・ムハンマドに大敗を喫してしまった。


1206年初頭、ムハンマド・ゴーリーは久しぶりにインドに来た。
ホラズム・シャー朝への対応に全力を傾けるため、アイバクを正式に「ペシャワールの門からインドの最も奥地まで」の総督に任命し、東部戦線のすべてを彼に一任したのである。

その数週間後、ムハンマド・ゴーリーはイスマーイール派の刺客に暗殺された。
ゴール朝は大混乱となった。


同年6月、強大すぎる権限を与えられたアイバクは、パンジャーブ地方のラホールでゴール朝からの独立を宣言した。
元奴隷の将軍は見事に亡き主君の信頼を裏切ったのだ。まあ、下剋上が乱世の習いゆえ仕方ない。

ときを同じくしてシンド地方、ケルマーン地方でも各々の総督が自立を宣言。実にあっけなくゴール朝は解体した。
所詮はアフガニスタンの山賊集団が力任せに作り上げた軍事政権。
強いリーダーシップを持つ支配者がいなくなれば、崩れるのは一瞬だった。

こうして「デリー・スルタン朝」最初の王朝、「奴隷王朝」が成立する。
奇しくもそれは、大陸のはるか北方で巨大な帝国が誕生したのと同じ年のことだった。

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(ゴール朝の最大勢力圏。この勢力圏が一挙に分裂して崩壊した)


ホラズムの興隆

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(ホラズム・シャー朝の最大版図)


カトワーン平原の戦いのあと、東方イスラーム世界に出現した二つの新興勢力の片割れがホラズム・シャー朝である。

その起源は、大セルジューク朝のマリク・シャー(在位; 1072~1092)の時代にアラル海東南のホラズム地方の統治を委ねられたアヌーシュ・テギンなる人物にある。
アヌーシュ・テギンは北方遊牧民の出身で、初めは奴隷としてマリク・シャーに仕え、のちにガズナ朝に占領された北部ホラーサーンの奪還を命じられた。
アヌーシュ・テギンが首尾よく任務を果たすと、マリク・シャーは功績を嘉して彼をホラズム地方の総督に任じた。
マリク・シャーの死後に大セルジューク朝が混乱するなか、ホラズム地方の支配はアヌーシュ・テギンの子孫に世襲されていった。


そして孫のアトスズの時代に、東方から耶律大石の率いる西遼軍が姿を現わす。

当時、セルジューク帝国の再興を目指して奮闘していたスルタン・サンジャルは、アトスズにとって実に鬱陶しい存在だった。
西遼の侵入は思いがけない奇貨だった。アトスズはいち早く耶律大石に通じてセルジューク軍の動向を通報し、ついに西遼軍に寝返ってカトワーン平原の戦いに大功を挙げた。

中華世界への帰還を目指す耶律大石はマー・ワラー・アンナフル以南を直接統治する意志を持たず、アトスズにホラズム地方の支配権を安堵するとともに、マー・ワラー・アンナフル切り取り次第のお墨付きを与えた。
こうしてホラズム総督領は名実ともに独立国家となる。これを「ホラズム・シャー朝」と呼ぶのは、歴代の君主たちがペルシア風に「シャー(王)」を自称したためである。


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(アラーウッディーン・テキシュの廟)


ホラズム・シャー朝の国勢を大きく伸長させたのは、1173年に即位した第6代シャーのアラーウッディーン・テキシュである。
(どうでもいいけど戦前に翻訳された某コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンの『蒙古史』上巻に「タカシ」と表記してあって、どこの現代日本人かと思う)

彼の時代、ホラズム・シャー朝は大きく西へ版図を広げる。
テキシュはイラン高原に兵を進めて分裂したセルジューク諸侯国を次々に降し、1198年にはバグダードに入城し、アッバース朝の第34代カリフ、ナースィルに謁見を賜った。

テキシュの前では、北部イランの山々に蟠踞するイスマーイル派暗殺教団も動揺した。
アラムートの山城では1164年に教主ハサン2世が救世主を自称し、預言者ムハンマドのシャリーア(宗教法)はすでに無効になったなどと宣言していた。
暗殺教団は急進化の一途をたどったが、強大なホラズム・シャー朝の成立によって教団の存立は脅かされる。
ときの教主、ハサン3世はテキシュに恭順の姿勢を示し、無用の対立を避けるために教主の救世主宣言を撤回し、スンナ派法学者の受け入れすら行なった。

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1200年、覇王テキシュの死によってアラーウッディーン・ムハンマドが第7代シャーとなる。
彼はホラズム・シャー朝を全盛へ、そして最後には崩壊へと導いた。

アラーウッディーン・ムハンマドは1203年にゴール朝のシハーブッディーン(ムハンマド・ゴーリー)を破り、ヘラートを筆頭とするアフガニスタン西部の諸都市を疾風のように制圧した。
インドの征服者を大敗させた青年王は得意満面となった。


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(モンゴリア)

ところで、歴史というものはしばしば対比の妙を見せる。

ちょうど同じ頃、三千キロ以上の距離を隔てた地で一人の男が死に瀕していた。
そこはのちに「モンゴリア」と呼ばれる巨大な草原の東北部、「バルジュナ」という湖のほとりだった。

男は「テムジン」という。
「蒼き狼と惨白き牝鹿」の血を引くと称する、「モンゴル部」の「キヤト氏族」の「ボルジギン氏」の長である。
生年には諸説あるが、この時にはすでに四十歳を超えていたと思われる。北方の遊牧民にとっては初老というべき年齢だった。

カラガルジドの地でケレイト王国のトオリル・カンに惨敗し、一握りの従者とともにオノン川を北へと逃走。
疲労困憊の極み、転がるように馬から降りて砂礫の上を這うように進み、白濁した湖水をわずかに啜る。
彼は己の未来に待ちうける栄光を、いまだ夢にも知らない。


二つの太陽

ユーラシア大陸北方の巨大な草原は、久しく闇に覆われていた。
西暦840年にウイグル可汗国が崩壊して以来、広域を束ねる大国家は登場せず、遊牧諸部族の角逐が果てしなく続いた。
周囲の大国、遼や金や西遼は草原に強大な国家が生まれることを望まず、絶えず部族抗争に介入して、統一政権の形成を妨害し続けた。

12世紀中葉、草原の東部で強力な部族連合が胎動しはじめた。中心人物は「カブル・カン」。彼が築いた部族連合を「モンゴル・ウルス」という。
だが、カブルの死後に数多い子供たちによってモンゴル連合は分割され、再び闇が草原を覆った。

そして12世紀の末、金王朝や西遼が衰退しはじめるなかで、草原にはいくつかの地域権力が並立していた。
東にタタル、南にケレイト、西にナイマン。すでに「王国」とよぶべき規模に達した三大勢力に加え、ジャライル、モンゴル、キルギス、オイラト、メルキト、オングトなど一回り小規模な諸部族。
だが、依然として草原全域を統べる者は現れなかった。

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(12世紀末頃のモンゴル高原)

12世紀の最末期、草原東部を押さえるタタルの力が増大した。1196年2月、金王朝は右丞相・完顔襄をしてタタルを征討させた。
タタル部族連合はウルジャ川で大敗し、ネムルゲス渓谷で壊滅した。
代わって草原の最有力者となったのが、南モンゴリアに君臨するケレイト王国トオリル・カンである。
その股肱というべき存在が、カブル・カンの孫にあたるテムジンだった。

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(チンギス・カンの生涯を伝える叙事詩)


そのかみ、上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白き牝鹿ありて、大いなる湖を渡りて来たりぬ。

(モンゴルン・ニウチャ・トブチャアン(『元朝秘史』))


テムジンはカブル・カンの子イェスゲイ・バアトルの子として生まれる。

『元朝秘史』は幼いテムジンについて、「この子は眼に火、面に光あり」と記している。
だが、テムジンは少年のうちに父を失った。タタルの民が旅の途上のイェスゲイに毒を盛ったのだという。
族長を失ったキヤトの民はたちまち去っていった。
「深き水は涸れたり、硬き石は砕けたり」との言葉を残して。


母のホエルンとテムジン、その兄弟たちはその日その日を必死に生きた。
「影より他に伴は無く、尾より他に鞭は無し」と伝えられる過酷な歳月であった。

イェスゲイを毒殺したタタルの民はしばしばテムジン一家を襲撃した。馬を盗み、妻を奪った。そのたびにテムジンは死の危険を冒して奪還に赴いた。
やがてテムジンは、父イェスゲイの残した人脈を頼りにケレイト国王トオリルに接近し、その従臣となることで小康を得た。

ケレイト王国の属国、モンゴル・キヤト氏族の頭領として幾多の戦場を駆けるうちにテムジンの半生は過ぎていった。
テムジンは思慮深く勇敢だった。戦いに敗れても心屈せず、勝利を収めても驕らなかった。草原の人々はテムジンの才と器量を慕い、次々に彼のもとに加わった。政戦両面の才幹ゆえに、テムジンの存在は徐々に巨大化していった。

1201年、テムジンはコイテンの戦いでジャダラン氏族のジャムカを破って全モンゴル族を再統一し、トオリル・カンに匹敵する軍事力を手中にした。両雄の決裂は避けられないものとなった。
こうして1203年にカラガルジドの戦いが勃発し、テムジンは大敗を喫してバルジュナ湖畔に逃走することとなる。

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(チンギス・カンを描いた歴史小説の最高峰)


だが、運命の風は思いがけず好転した。
フルンブイル(ホロンバイル)草原で再起を図るテムジンのもとに、四散した臣下たちやケレイトに反発する諸部族が続々と寄り集まった。
この軍勢を率いてテムジンはケレイト国王の本営を急襲する。
ジェジェル山で大宴会のさなかに奇襲を受けたケレイト軍は崩壊し、トオリル・カンはほとんど単騎で敗走したすえに西モンゴリアで殺害された。
死の淵から舞い戻ったテムジンはケレイト王国を併合し、一挙にモンゴル高原東半の覇者となった。

間髪を置かず、テムジンは西モンゴリアのナイマン王国に侵攻した。
ナイマン王のタヤン・カンはオルコン河畔で惨敗した。タヤン・カンのもとに結集していた反テムジン連合はことごとく敗走し、殲滅された。
ケレイト王国やナイマン王国にはネストリウス派キリスト教やイスラームの教えが流入し、筆記や計数の能力を持つ官僚たちもいた。テムジンは彼らを登用して陣容を充実させ、以後の征戦に大いに活用することになる。

Тайна Чингисхана. По велению Чингисхана. Художественный фильм.
(なんかよくわからんのだけど、8分あたりの場面がケレイト王国やナイマン王国のキリスト教徒っぽい)


1206年2月、テムジンはモンゴル高原の全部族によって唯一の王として推戴された。
その称号は「チンギス・カン」。「光の王」、「黄金の王」との意味であるとも、「海のごとく偉大なる王」との意味であるともいう。
ウイグル可汗国の崩壊より366年を経て、草原の再統一はついに成った。
イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル帝国)」の誕生である。

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(チンギス・カンの即位)


その頃、西方ではゴール朝を撃退したホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドが次なる大目標を定めた。

ホラズム・シャー朝は建国当初より、西遼(カラ・キタイ)を宗主国と仰ぎ、貢納を続けてきた。
だが、ムスリムであるホラズムの民は仏教国である西遼への従属に不満を抱き続けた。
今やホラズム・シャー朝はアフガニスタンからイラン高原西部を制する大国である。いつまで古いしがらみに捉えられて異教徒に頭を下げる必要があろう!
1208年、アラーウッディーン・ムハンマドは貢納を求める西遼の使者を斬り、西カラ・ハン朝とともにシル川を越えて北に侵攻した。
これを迎え撃つ西遼で思わぬ変事が発生した。

変事を引き起こしたのは、チンギス・カンのモンゴル軍によってモンゴリアを追われたナイマン王国の王子、クチュルクだった。
タヤン・カンの子、クチュルクは勇猛な人物だったという。西遼皇帝、耶律直魯古(ヤルート・チルク)はクチュルクの才器を愛し、彼に自分の娘を与えた。だが、クチュルクには抑えがたい野心があった。
1211年、クチュルクは西遼軍がホラズム軍との対決のために出払った隙をついてクーデターを起こし、西遼国を乗っ取ったのである。

混乱のなか、それまで西遼に従っていた天山ウイグル王国がモンゴル帝国に鞍替えした。
ネストリウス派キリスト教徒だったクチュルクは、西遼支配層の支持を得るために仏教に改宗し、その勢いでムスリム住民への苛烈な弾圧を開始し、混乱をさらに激化させた。

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(ナイマンの王子クチュルクも、それなりに重要な人物として登場)


どこまで詳しい事情を把握していたかは不明だが、ホラズム軍は動揺する西遼軍をタラスで撃破して、その勢力を西トルキスタンから一掃した。
返す刀で協力していたはずの西カラ・ハン朝をも滅ぼして、マー・ワラー・アンナフルの歴史的中心であるサマルカンドを掌握。
ホラズム国民は異教徒への勝利に狂喜して、アラーウッディーン・ムハンマドを「第二のイスカンダル(アレクサンドロス大王)」とまで絶賛したのだった。


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(金の中都を包囲するモンゴル軍)

同じ1211年、チンギス・カンは華北の金帝国と開戦した。
イスラーム世界を遠く離れたこの地の戦役については詳述しない。ともあれモンゴル軍は怒涛のように中華に侵攻し、破竹の勢いで進撃し、恐怖の嵐をまき散らし、膨大な捕虜と莫大な戦利品を獲得して1215年に草原に帰還した。

チンギス・カンは類まれな戦略家である。
彼は誕生から程ない「大モンゴル帝国」を維持し、カン(王)の権威を確立するためには国を常時臨戦態勢に置く必要があることを本能的に理解していたに違いない。
華北で期待しうる戦果をすべて達成したチンギスは西に目を向けた。
魔王の次なる目標はホラズム・シャー朝、そしてイスラーム世界に他ならない。

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(モンゴル帝国前夜のイスラーム世界をめぐったイブン・ジュバイルの旅行記で、カリフ・ナースィルも登場)


チンギス・カンが東方を席捲している頃、アラーウッディーン・ムハンマドは西方に嵐を巻き起こしていた。
マー・ワラー・アンナフル制圧後に間髪を入れずアフガニスタンに侵攻してゴール朝の残存勢力を滅ぼしたホラズム軍は、思いもよらぬものを発見する。
それはアッバース朝のカリフ、ナースィルがゴール朝に、ホラズム攻撃を使嗾した秘密書簡だった。カリフはホラズムのあまりにも急激な勃興を危惧し、背後からゴール朝に牽制させようと意図していたと思われる。

「余が即位したばかりの頃にシハーブッディーン(ムハンマド・ゴーリー)が攻め寄せてきたのはカリフの差し金だったのか!」

激怒したアラーウッディーンは西方大遠征を発令し、イラン高原西部の諸国を次々に臣従させた。
1218年、アラーウッディーンはザグロス山脈東麓のハマダーンに入城。彼はアリー家の血を引くシーア派カリフを擁立してアッバース朝の息の根を止めるつもりだった。

だが、ここで運命は思わぬ采配を振るった。
ホラズム軍はアサダーバードで猛烈な吹雪に進軍を阻まれ、3万もの兵士を失った。
人々は恐れた。スンナ派イスラーム世界の最高主権者たるアッバース朝のカリフを侵すことは決して許されぬ禁忌なのではなかろうか。

苛立つアラーウッディーンのもとに報せが届いた。
遠く東方の草原を治める蛮族の長、「チンギス・カン」なる者が不遜にも「世界の王」を称し、通商を求めてきたというのだ。
これを機にアラーウッディーンは本国への撤退を決意した。


モンゴル帝国のチンギス・カン、そしてホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマド。
ユーラシア大陸の東と西に二つの太陽が昇りはじめている。
古来、「天に二日なく地に二王なし」という。両雄のいずれが真の王であるのか、対決のときが迫ろうとしていた。

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(情熱的な「杉山節」には毀誉褒貶あるけれど、個人的には好きです)


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