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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史23 狼と三日月

衝撃と畏怖

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(チンギス・カンの遠征)


彼らは来た。彼らは破壊し、焼き、殺し、奪い、そして去った。

(アターマリク・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』)


1218年、金国遠征より帰還したチンギス・カンは将軍ジェベにナイマン王子クチュルクの追討を命じた。

東トルキスタンの西遼国を簒奪したクチュルクはネストリウス派キリスト教から仏教に改宗し、タリム盆地のムスリムたちに迫害を加えていた。
ジェベは天山山脈を越えて東トルキスタンに侵攻し、ベラサグンで西遼軍3万を破り、クチュルクをバダフシャーンの山中で捕殺した。
あとは簡単だった。ジェベがクチュルクの首級を陣頭に掲げてタリム盆地を一周するだけで、オアシス諸都市はことごとくモンゴルに降ったという。旧西遼国の平定には百日もかからなかった。


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(ホラズム・シャー朝およびマー・ワラー・アンナフルの北の国境、シル川)

ジェベの勝報に草原が沸きたつなかで、西方のホラズム・シャー朝より衝撃的な報せがもたらされた。
チンギスがホラズムに派遣した通商団450名全員が、ホラズム・シャー朝の北境オトラルで殺害されたのである。
オトラルの城主イナルチュクが、通商団をモンゴルの密偵と見なしたためであるという。

チンギス・カンは怒り悲しみ、聖山ブルカン・カルドゥンの頂で三日三晩にわたってモンゴル人が崇拝する蒼天の神テングリに祈りを捧げた。

テングリは啓示を降した。

蒼き狼の裔なるチンギス・カンよ、汝は至高の天に代わり、ホラズム王の大罪に酬いよ。
この地上の悪しき者どもを追討し、世界を手中にせよ。
汝は常に勝利する。汝の敵らは大罪を犯したればなり。汝の勝利こそ彼らの罪の証なり。



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(テングリは蒼天そのものと同一とされる)


ブルカン山を下るチンギス・カンの霊威に民は恐れおののき、先を争って世界征服の戦いに赴くことを誓約した。
実はこれはチンギスが意図したとおりの結果だった。
三世紀も争い続けた諸部族を唯一のカンに服従させるためには、当面のあいだは常時臨戦態勢を維持する必要がある。そのためには、さらなる外征が不可欠である。
チンギス・カンは金国遠征の終わる前から次の目標を西に決めていた。通商団が密偵を兼ねていたことはおそらく間違いない。それでも彼らが殺されたことは絶好の大義名分となった。

一方で、純朴なモンゴルの民はチンギス・カンの天命を堅く信じた。
これ以後、モンゴル帝国が諸国に発する外交書簡の冒頭には常にひとつの定型句が記される。

モンケ・テングリン・クチュン・ドゥル(とこしえの蒼天の力によりて)……

不滅の蒼天は偉大なるボグド・セチェン・チンギス・カン(聖なる賢王チンギス)とその一族に世界の支配権を与えたもうた。
中央ユーラシアでは、これは何世紀ものあいだ疑問の余地なき真理(「チンギス統原理」)と見なされる。


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(モンゴル軍の騎兵)

1219年春、チンギス・カンは帝国のほぼ全軍を率いて西征を開始した。
膨大な人間が、馬が、家畜が、そして旌旗が、馬車が、天幕が、アルタイ山脈を越えていく。モンゴル高原はほとんど空になった。まるで国家そのものが西へ移動しはじめたような光景だった。


チンギスの戦争準備は周到だった。
彼は建国当初より息子たちをモンゴル高原西部の幹線ルート沿いに配置し、兵站基地の建設とホラズム国内の情報収集、事前調略を命じていた。


旭日の勢いで勢力を拡大しつつあるホラズム・シャー朝は、実は深刻な亀裂を内部に秘めていた。

ホラズムの軍事力の中核は、アラル海北方の「カンクリ族」と呼ばれる遊牧集団の戦士たちだった。
そのカンクリ族の代弁者というべき存在が国王アラーウッディーン・ムハンマドの実母で、カンクリ出身の太后テルケン・ハトゥーンである。
彼女は国王とほとんど同格の権力を握り、カンクリ族の利益だけを追求して国政を混乱させた。
一方、東部の総督たちは庶出の王子ジャラールッディーンを支持している。彼はアラーウッディーン・ムハンマドとインド系の側妾のあいだに生まれ、粗暴だが勇敢な武将だった。

王子ジャラールッディーンと大后テルケン・ハトゥーンは常に対立し、宮廷は右へ左へと揺れ動いている。
そもそも領土の拡大が急速過ぎたせいで国家としての一体性が確立できていないのだ。ホラズム・シャー朝の巨大な版図は継ぎ接ぎ細工でしかない。

従来、これら諸勢力の対立を制御していたのは王朝発祥の地、ホラズム地方の軍人たちだった。
ところが彼らは先年のバグダード遠征で甚大な損害を受けた。アサダーバードの猛吹雪で斃死した3万人のほとんどはホラズム出身の兵士だったのだ。
信頼できる直属軍を失った国王は、いま、微妙な均衡の上に君臨している。
チンギスはそれを計算に入れてホラズム侵攻作戦を決定した。

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(ホラズム侵攻)

モンゴル軍の戦略をひとことで表現すれば「衝撃と畏怖」だろう。

チンギスは大軍を多方面からホラズム・シャー朝中枢に侵攻させることで、敵国が内部崩壊を起こすと予測。それを実現すべく、彼は全軍を四つに分けて侵攻を開始した。

チンギス・カンの長男ジョチはシル川下流のジェンドから。
チンギス・カンの次男チャガタイ三男オゴデイはシル川中流のオトラルから。
将軍ジェベは旧西遼国からパミール高原を越えてアム川上流へ。
そしてチンギス・カン自身は末子トルイとともに不毛の荒野を突破してブハラを衝く。
そして四軍は同時に首都サマルカンド城外に集結する。
絵に描いたような分進合撃作戦である。


ホラズム国王アラーウッディーン・ムハンマドは早々に組織的抗戦を断念し、首都を放棄してイラン高原に撤退した。
背反定かならぬ諸地方の軍を集めて会戦を挑むより、モンゴル軍を領内深く誘い込み、疲弊したところを撃つ作戦に賭けたのだ。
だが、王の縦深防御戦略はホラズム・シャー朝の各地方軍に正しく伝達されなかった。

王の「逃亡」によってホラズム軍は崩れ立った。散発的に激しい抵抗があったが、無秩序だった。
モンゴル軍は刃向う都市の住民を虐殺し、捕虜を陣頭に立てて進軍し、意図的に自軍の残虐さを喧伝した。
マー・ワラー・アンナフルの諸都市はモンゴルの暴虐に怯え、続々と降伏した。
モンゴル軍はほとんど自軍の血を流すことなく、1220年3月にサマルカンドを陥落させた。

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(モンゴル軍の攻撃によって、アフラーシャーブの丘にあったサマルカンド旧城は廃墟と化した)


ホラズムの獅子

「神は罪深き汝らを打つための鞭として余を遣わされた。余は汝らの災厄である」

(チンギス・カンがブハラ占領時に行なった演説、チンギスが口にした「テングリ」を通訳は「アッラー」と訳したという)


ホラズム崩壊の早さはモンゴルの予想を超えていた。
チンギスは内心、あまりにあっけない勝利に困惑した。軍はいまだ血に飽きてはおらぬ。狼たちは腹が裂けるほどに飽食しなければ戦を終えることを肯んじぬであろう。

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(モンゴル帝国最強の武将、スブタイ・バアトル)


まず、チンギス・カンは股肱の将軍ジェベスブタイ・バアトルにホラズム国王の追跡を命じた。
ふたりは獲物を追う猟犬のように、矢のようにサマルカンドを飛び出していった。彼らの率いる精鋭たちはイラン高原北部を駆け抜け、バグダードをかすめてアゼルバイジャンに転進し、グルジア王国を席捲した。
途上で抵抗した諸都市はことごとく屠城され、血の海となった。そのさなかに逃亡したテルケン・ハトゥーンが発見され、モンゴル高原に連行されている。
さらにふたりはカフカース山脈を越えて南ロシア平原に入り、カルカ河畔でルーシ(ロシア)の諸公を破り、クリミア半島を蹂躙し、ヴォルガ流域を経てようやく東へ軍を返す。
全長一万キロになんなんとする大長征であったが、肝心のホラズム国王の行方はついに掴めなかった。

実はイラン高原に撤退したアラーウッディーン・ムハンマドは、ジェベとスブタイの追撃をかわすのに手いっぱいで抵抗勢力を組織できず、カスピ海の東南端に浮かぶ砂州のような小島のうえで、人知れず息を引き取っていたのだった。
数年前まで東方イスラーム世界を制せんとしていた英傑にしては、あまりに寂しい最期だった。

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(カスピ海のアーバスクーン島で最期を迎えるアラーウッディーン・ムハンマド)


一方、チンギス自身は主力軍を率いてアフガニスタン方面に転進した。
モンゴル軍はこれほど早くこれほど奥地に侵攻することを想定していなかった。事前の調査も調略も不十分で、戦況は泥沼化した。
降伏勧告は受け入れられず、やむなく虐殺に次ぐ虐殺が展開された。
歴史家ナサヴィーによれば、このときモンゴル軍は、ゴール朝の劫掠から辛うじて守られたガズナのマフムードの遺骸を掘り出して焼いたという。
彼らは名のある王侯の陵墓は、すべてホラズム王家ゆかりのものだと思っていたらしい。

ホラズム側の抵抗も熾烈だった。その中心にいたのはホラズム・シャー朝第8代国王を称するジャラールッディーンである。

アラーウッディーン・ムハンマドはカスピ海の小島で息を引き取る直前に、随行していた王子ジャラールッディーンに王位を譲った。
ジャラールッディーンは、はじめ王朝創建の地ホラズムで反モンゴルの兵を挙げようとするが、異腹の兄弟たちに妨害されたため、すでにモンゴル軍に占領されたマー・ワラー・アンナフルを突破してアフガニスタンに入った。

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(ジャラールッディーン・マングバルディー・ホラズムシャー)


モンゴル帝国創建期の事績を伝える叙事詩『元朝秘史』では、いちはやく逃亡したアラーウッディーン・ムハンマドについてはまったく言及されていない。
代わって西征軍の前に立ちはだかる好敵手として活写されるのが、「ジェラルディン・ソルタン」こと、ジャラールッディーンである。

ジャラールッディーンは3万の軍を集め、チンギス・カンの猶子シギ・クトク率いるモンゴル軍をパルワーンで撃破した。西征開始以来、モンゴル軍の初めての敗北だった。
だが戦利品の分配をめぐって内輪揉めが起こり、せっかくの抵抗軍は四散してしまう。
チンギスは自軍の不敗神話を崩したジャラールッディーンを全力で追撃し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインダス河畔に追い詰めた。
絶体絶命の死地に陥ったジャラールッディーンはインダス川の激流に身を投じ、馬を駆って対岸に逃れ去った。チンギスはここでジャラールッディーンの追撃を断念した。


ホラズム・シャー朝の呆気ない崩壊によってイラン高原以西は大混乱となった。
チンギスは将軍チョルマグンに、モンゴル軍の一部とともにホラーサーンに駐留してホラズム旧領を監視することを命じた。この一軍は「探馬軍(タマ軍)」と呼ばれ、以後数十年をかけて徐々にイラン方面の征服を進めていく。
また、アラル海北方から黒海方面に続く「キプチャク平原」には、チンギス・カンの長子ジョチが侵攻を開始した。ジョチと息子たちはモンゴル高原に帰還せず、この地を一族の新たな故郷とする。


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(インダス川を越えるジャラールッディーン)

さて、モンゴル軍の追撃を振り切ったジャラールッディーンはパンジャーブ地方で物資調達のための略奪を重ねつつ、デリーに君臨する奴隷王朝に保護を要請した。

デリーではゴール朝から独立した初代スルタンのアイバクが1210年に事故死し、現在は彼の養子のシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが王位にあった。
イルトゥトゥミシュはモンゴル帝国の介入を避けるため、ジャラールッディーンの入国要請を丁重に拒絶した。

「ヒンドゥスターンは暑熱の地ゆえ、貴公の健康に害があろう。パンジャーブ地方でゆるりと過ごされよ」

パンジャーブにはイルトゥトゥミシュの政敵であるカバーチャという人物が勢威を張っていた。
ジャラールッディーンはカバーチャの所領を荒らしまわったが、ジャラールッディーンのあまりの勢いに恐れをなしたイルトゥトゥミシュが大軍を集めて接近しているという報が入った。

「おい野郎ども、イランに帰るぞ!」
「されどイランの地にはチンギスめが居座っておりましょう。かの蛮王はインドの諸王をすべて集めたよりも凶悪にて……」
「うっせえ、てめえは一生インドでカレー食ってやがれ!」

さすがにモンゴル軍が占拠したアフガニスタンとホラーサーンを再度通過するのは不可能だった。
やむなくジャラールッディーンは、水も緑もないマクラーンの荒野に兵を向けた。
現代のパキスタン南部にあたるこの荒涼たる土地は、そもそも人間の生存に適していない。
有史以来、大規模な軍勢を率いてここを通過したのは古代マケドニアのアレクサンドロス大王と、このホラズムの獅子というべきジャラールッディーンの二人だけである。

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(ケルマーン地方の遺跡)

数週間後、辛うじてマクラーンを抜けた4千騎のホラズム軍は、イラン高原南部の要地ケルマーンに到着した。
ジャラールッディーンはこの地で自立していた西遼の残党(ケルマーン・カラヒタイ朝)を従属させ、続いてさらに西方のシーラーズに君臨するセルジューク系のアターベク政権も従えた。
次に、イスファハーンに逃げ落ちた弟が小政権を樹立したと聞くと、モンゴル軍のふりをして奇襲をかけ、軍と城を乗っ取った。

さらにジャラールッディーンはバグダードに進軍する。
この時なお、アッバース朝の帝位にあったのはナースィルだった。
若き日にサラディンのエルサレム回復にケチをつけ、壮年時代にゴール朝を煽ってホラズムの怒りを買ったカリフは、すでに高齢になってはいたが、なおもアッラーのもとに召されてはいない。
セルジューク朝衰亡後のイラーク平原一帯ではアッバース朝の威信が回復しつつあり、現地諸侯たちが次々にホラズム軍の前に立ち塞がった。
バグダード攻略は割に合わないと見たジャラールッディーンは、突然軍をはるか北方のグルジア王国に向けた。
グルジア王国は先年のジェベとスブタイによる侵攻の痛手からようやく立ち直ろうとしていたところだった。

「貴様の親父は貴様より強かった。その貴様の親父をモンゴル人どもは片づけてしまった。我らはそのモンゴル人どもにも屈しなかった」
「うぜえ!」

ホラズム勢はガルニ平原でグルジア軍を撃破した。グルジア軍の最高司令官(アミルパサラスリ)、イヴァネ・ザカリアンは敗走し、首都ティフリス(トビリシ)は大虐殺の巷となった。

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(全盛期のグルジア王国)

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(モンゴルとホラズムを迎え撃ったグルジア女王の物語)


ジャラールッディーンは戦争の天才だった。彼は安住の地を求めて周辺諸国への攻撃を繰り返し、しばしば少数で大軍を破り、まさしく獅子のように中東心臓部を駆け巡った。
だが、そうであればこそ在地諸勢力はこの闖入者への敵意を強める一方だった。

1230年、ルーム・セルジューク朝とシリア・アイユーブ朝が反ホラズム連合を締結し、東部アナトリアのエルジンジャンでホラズム軍を完膚なきまでに打ち破った。
その直後、ついに彼らがやって来た。モンゴル帝国の新帝オゴデイの命により、ホラズム残党を追討すべく派遣された「探馬軍」である。
ホラズム勢はアゼルバイジャンのムガン平原でモンゴル軍に惨敗し、将兵は四散した。ジャラールッディーンは身一つでクルディスタンの山中に逃亡し、ここで一人のクルド人に遭遇した。

「なんだてめえ、ホラズムの落武者か?」
「侮るな! 余はスルタン・ジャラールッディーンだ!」
「なんだと、ここで会ったが百年目。俺の弟はてめえの部下どもに殺された。今度は俺がてめえの息の根を止める番だ。アッラーは偉大なり!」

怒声とともにクルドの男が放った投槍に胸を貫かれ、ホラズムの獅子は大量の血を吐いて地面にくずおれた。

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(今なお最も詳細なモンゴル帝国史書のひとつで、ジャラールッディーンの後半生も詳述)



群狼たちの咆哮

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(ジョチとチャガタイとオゴデイとトルイ(嘘))


モンゴル帝国では1227年、西夏王国遠征中に華北六盤山の陣営にてチンギス・カンが死去した。

1229年9月、クリルタイ(部族大会議)でチンギスの三男オゴデイがモンゴル帝国第2代君主に選出された。
オゴデイは金帝国を完全に滅ぼし、それを機に称号を従来の「カン」(大王)から「カアン」(皇帝)に改めた。
そしてモンゴル高原中部に新都カラコルムの造営を開始するとともに、父の偉業を受け継いで更なる征服戦争を続けることを決定した。

モンゴルは上げ潮に乗っていた。
ホラズム、西夏、金と相次いだ征服戦争によって膨大な戦利品がモンゴリアにもたらされ、馬は肥え、兵士は増えた。
一方で、領土の急速な拡大と一族の分封のために、チンギス家や諸部族の結束が緩み始める徴候もあった。再び挙国一致の征戦を行い、帝国を引き締め直すべきだった。
いまのモンゴルは、かつての匈奴や突厥の全盛期と同等か、それ以上の力を誇っている。ここで本気を出せば「世界征服」すらも不可能ではないかもしれぬ。

草原の民の息子たちが召集された。チンギス・カンの血脈に連なる皇族たちからも次世代を担う王子や公子たちが出征を命じられた。
そしてオゴデイはユーラシア大陸東西への二大遠征を宣言する。
東に向かってはオゴデイの三男クチュを総司令とする大軍が南宋帝国へ侵攻。
そして西へ向かってはチンギス・カンの長子ジョチの次男バトゥを総司令とする大軍がキプチャク平原およびカフカース、ルーシ(ロシア)への侵攻を担うこととなった。

ジョチよ、汝には西のかた、モンゴル鉄騎の馬蹄の蹂躙し得る限りの地をことごとく与えん。されば汝の子々孫々、とこしえに西方の天地を治めよ

チンギス・カンはかつて、長子ジョチとその一族に西方征服の使命を与えた。バトゥの征途は遠く欧州世界まで及ぶことになる。

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(バトゥ、通称サイン・カン)


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(バトゥを主人公とする小説)



ユーラシア大陸内陸に巨大な草原が広がっているが、その草原はアルタイ山脈からバルハシ湖あたりを境にして東西に分けられる。
東は緑豊かなモンゴリアの大草原。そして西は、水気に乏しく丈の短い草が粗密交々に茂るカザフステップである。
現在のカザフスタン共和国から南ロシア、ウクライナに続くこの平原を、当時はペルシア語で「ダシュティ・キプチャーク(キプチャク平原)」と称した。

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(キプチャク平原)

ここはかつてスキタイ、アラン、サルマタイ、フン、アヴァール、西突厥、ハザール王国といった諸集団が興亡した大地である。
そして9世紀にペチェネグ族とキエフ・ルーシに挟撃されてハザール王国が崩壊すると、折からのテュルク西遷の津波がこの地に押し寄せる。
東方から来たテュルク系の諸部族は、おおむねスンナ派イスラームを奉じていた。
原始的なシャーマニズムと入り混じったはなはだ胡乱なイスラーム信仰ではあったが、それでもこの時期からキプチャク平原はイスラーム世界の一角に加わったのである。


13世紀当時、アラル海北方にはカンクリ族、北カフカースにはアス族やアラン族、ヴォルガ流域にはヴォルガ・ブルガール王国が割拠。
そしてカスピ海から黒海にかけて展開する諸部族はペルシア語で「キプチャク」、ルーシ語で「ポロヴェツ」、西方の諸語では「クマン」と総称されている。
いずれもテュルク系諸語を用いる集団である。
モンゴル高原から地続きのこの大地を制圧することで、モンゴル帝国は真にユーラシア大陸の遊牧世界の覇権を手にすることができる。
バトゥの西征の第一目標はキプチャク平原の征服にあった。

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(10世紀にアッバース朝カリフの使節としてヴォルガ・ブルガール王国に赴いたイブン・ファドラーンの旅行記)


1236年春、西征が開始された。モンゴル軍はほぼ一年をモンゴリアからの移動に費やし、大河も凍る冬のさなかにキプチャク平原への一斉侵攻を開始した。

「ヴォルガを渡れ!」
「ダシュティ・キプチャークを蹂躙せよ!」

遠征軍の実質的な指揮を取るのは歴戦の老将、スブタイ・バアトルである。彼はかつてホラズム遠征の際に逃亡した敵王アラーウッディーンを追ってキプチャク平原に踏み込んだ経歴を持つ。
スブタイ・バアトルはイルティシュ川からヴォルガ川に進撃し、ほとんど極北の密林に迫るほどに軍を北進させてヴォルガ・ブルガール王国を急襲した。

「すべてを燃やせ!」

ヴォルガ・ブルガール王国はたちまち屈服した。
モンゴル全軍は巨大な翼を南北に展開し、敵対諸部族を追い立てながらカスピ海の北岸を目指して進撃した。


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(ルーシの地)

キプチャク諸部族を帰順させたモンゴル軍は、1237年秋にキプチャク平原の西北の巨大な森林地帯に侵攻した。
ここにはキリスト教東方正教を奉じる定住の民が数多の木造都市に暮らしていた。「ルースカヤ・ゼムリャー(ルーシの地)」、のちに「ロシア」と呼ばれる国々である。

蒼き狼の末裔たちはルーシの大地を駆け抜けた。雪と嵐が吹き荒れ、晴れれば夜空に荘厳な極光が舞う。
ルーシの人々は未知のモンゴル軍を「地獄(タルタロス)から来た民」と呼んで必死に抵抗したが、常勝軍にとってルーシを踏み荒らすことなど児戯に等しかった。

1238年夏、モンゴル軍は南に下って北カフカースを席捲し、クリミア半島を制圧した。そして三度目の冬に群狼たちは再度ルーシに侵攻し、古都キエフを攻め滅ぼした。

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(バトゥが入城したというキエフの黄金の門、むかし現地に行ったら工事中だった……)


「西へ、さらに西へ進め! 地果て海尽きるところまで!」

キプチャク諸部族とルーシの民のなかであくまでもモンゴルへの服従を拒む者たちは欧州に逃げ走った。モンゴル軍も彼らを追う。
チンギス・カンの次男チャガタイの血を引くバイダルはポーランドへ、そして全軍総司令官のバトゥと参謀総長スブタイはハンガリーへ進撃した。
バイダルはレグニツァでシレジア公ヘンリクを撃破し、バトゥはモヒー草原でハンガリー国王ベーラ4世を圧倒した。ハンガリー国王はアドリア海に遁走し、モンゴル軍は国都ブダ(現:ブダペシュト)を占領した。

「石の館に住まうマジャルの民を追い散らせ!」

狼たちは大河ドナウに沿ってさらに西へと進撃した。バトゥは上部ハンガリア(現;スロヴァキア)に接する古都エステルゴムに猛攻を加え、先遣隊はウィーン郊外のウィーナー・ノイシュタットまで到達した。
だが、ここで本国モンゴリアにて皇帝オゴデイ・カアンが病死したとの報が入った。

「全部隊、直ちに戦闘行動を停止せよ! これより我らは東方へ撤退を開始する!」

エステルゴム
(1242年3月、ハンガリー北部のエステルゴムを包囲中にバトゥはオゴデイの死を知った)

モンゴル諸皇族の長子たちから成る遠征軍は、次期皇帝選出のために西方侵攻を停止し、バルカン半島を経てキプチャク平原へ撤退していった。

バトゥはそのままジョチ家の大兵力を率いてヴォルガ河畔に留まり、キプチャク平原と北カフカースを事実上の私領とした。
ジョチ家の国という意味で「ジョチ・ウルス」、のちに「キプチャク・カン国」、あるいはロシア語で「ゾロタヤ・オルダ(黄金天幕の国)」とも呼ばれることになる分国の成立であった。

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(バトゥの遠征軍に参加し、オーストリアで処刑されたイングランド貴族の数奇な人生)



聖王とマムルーク

さて、ユーラシア大陸東方でモンゴル帝国が興隆しつつある頃、東地中海では十字軍戦争がなおも続いていた。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が和平協定によって手にした聖都エルサレムがアイユーブ朝に奪還されたことを機に、再び十字軍の結成が呼び掛けられた。
史上「第七次十字軍」と呼ばれるこの遠征軍の主体となったのはフランス王国で、指揮官はカペー朝のルイ9世(在位:1226-1270)。
教会と融和し、フランスの平和を守り、十字軍遠征に身命を捧げたことから、のちに「聖王ルイ(サン・ルイ)」と称えられる人物である。

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(聖王ルイ9世)


イングランドのリチャード獅子心王が率いた第三次十字軍の敗退以来、聖地の直接攻撃は不可能というのが欧州諸王の常識になっている。
失敗に終わった第五次十字軍と同様、ルイ9世もエルサレムを支配するアイユーブ朝の中枢、エジプトを目指し、1249年6月にナイル河口のダミエッタを占領した。
合言葉は「エルサレムの鍵はカイロにあり」である。


アイユーブ朝はいくつかの分家に分かれていたが、いちおうの宗主であったのはエジプトを統治するアル・カーミルの息子、アル・サーリフだった。
スーダン人の母の血を引いて色浅黒く、口数少なく勇猛果敢、人格高潔な人物であったと伝えられる。

アル・サーリフは若年の頃に北シリアでホラズム軍の残党と何度も戦った経験から軍備増強に力を入れていた。
とりわけ彼が好んだのはマムルークである。ある戦いの時に劣勢となったサーリフを軍の大半が見捨てて逃走するなかで、最後まで彼を守って奮戦し、やがて戦況を逆転させたのがマムルークたちだったのだという。
だからサーリフは機会あるごとに屈強なマムルークを購入し、その軍容を充実させていた。

運が良いことに、近頃はマムルークの市場価格が大幅に下落している。
なんとなれば、モンゴル帝国のキプチャク平原侵攻によって捕虜となったキプチャク諸部族の少年たちがタダ同然で奴隷商人たちに投げ売りされまくっていたからである。

奴隷市場で購入されたテュルク人の少年たちはスルタンへのお目見えを経て軍事学校に入れられ、アラビア語やコーランの暗唱、イスラームの教義・儀礼を徹底的に叩き込まれる。地理や歴史、詩文や法学も教授される。
次いで昼夜を問わぬ猛訓練が課される。とりわけ重視されるのは馬術と弓射と槍術である。
全ての課程を修了し、試験に合格した少年たちは晴れて奴隷身分から解放され、正規のマムルークとしてナイル川に浮かぶローダ島の要塞に配備される。
その総数は一万人を超えた。いまだかつて、これほど大規模なマムルーク軍団は類を見ないものだった。

エジプト人は大河ナイルを「バフル(海)」と呼んでいたため、アル・サーリフのマムルーク軍団は「バフリー・マムルーク(海のマムルーク)」と称された。
エジプトの民衆は粗野で横暴なバフリー・マムルークたちを嫌っていたが、スルタンはこの戦士たちを宝石のように慈しんだ。

だが、アル・サーリフは自慢のバフリー・マムルーク軍を投入して十字軍に決戦を挑むことができない。彼は重度の結核と潰瘍によって死の床にあったのだ。
1249年11月、それでもアル・サーリフは担架に身を横たえながらナイル河口に近いマンスーラに出陣した。無理が祟ったのだろう。この月21日、彼は陣中で息を引き取った。
このとき、アル・サーリフの子のトゥーラン・シャーは一千キロもの距離を隔てる北シリアに駐留しており、エジプト軍の命令権者が不在となってしまった。
ここで登場するのが、テュルク系の元女奴隷と伝えられるアル・サーリフの妃シャジャル・アッドゥル
イスラーム世界の歴史上で屈指の女傑である

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シャジャル・アッドゥルはトゥーラン・シャーの帰国を要請する一方、夫の死を隠してアル・サーリフの名前で軍を動かした。

1250年2月8日、フランス軍は浅瀬を発見してナイル渡河を強行。血気に逸る王弟アルトワ伯ロベールは、王の制止を振り切ってテンプル騎士団とともにマンスーラ市街に突入した。
エジプト軍は混乱し、指揮官ファクルッディーンは鎧を着ける間もなく斬殺された。市民は残虐な異教徒たちの刃から逃げ惑った。
このときシャジャル・アッドゥルの承認のもと、反撃の指揮をとったのが若きマムルークの部将、バイバルス・アル・ブンドゥクダーリーだった。

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(隻眼の英雄、バイバルス)

バイバルスはキプチャク平原で生まれ、14歳のときにバトゥの西征に遭遇して捕虜となり、奴隷商人に売られた。
奴隷の市場が供給過剰となるなかで、バイバルスにはなかなか買い手がつかず、彼は奴隷商人とともに中東各地を転々とした。肌が浅黒く、強情で、白内障で隻眼となっていたのが難だったらしい。

シリアのハマーでアイユーブ朝の軍人がバイバルスに戦士としての資質を見出し、ようやく彼を購入する。
その後、バイバルスはスルタン、アル・サーリフの手にわたり、バフリー・マムルーク軍の連隊長に大抜擢されるのである。彼の生年には諸説あるが、まだ20歳前後だったと思われる。
フランス軍が来襲したのは翌年のことだった。


フランス軍が狭い街路に入り込んだ時、エジプト軍の本営で大歓声が上がり、ラッパとドラムとシンバルが激しく打ち鳴らされた。
シャジャル・アッドゥルは鎧をまとって馬に乗り、翻る軍旗のもと、美貌を風に晒して出陣した。
その前衛で若きバイバルスを先頭に、バフリー・マムルーク軍の最精鋭が疾駆する。

「アッラーの他に神なし! フランクどもを殲滅せよ!」
「殲滅せよ!!」


周囲の家々に潜んでいた兵士たちが石や材木を投げ落として街路を封鎖する。フランス軍の騎士たちが動揺するところに、バフリー・マムルークたちが人馬一体となって襲い掛かった。
形勢は一挙に逆転し、フランス騎士たちは剣と棍棒で次々に打ち殺された。エジプト軍が一斉反撃をはじめると市壁の外にいたフランス王の本隊も潰走をはじめた。エジプト軍は敗走する敵軍の背後から「ギリシアの炎」を連射した。
やがて北シリアから戻ったトゥーラン・シャーも合流し、ついにルイ9世は3万の兵士たちとともに降伏した。

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(ルイ9世の十字軍遠征に随行したジャン・ド・ジョワンヴィルによる回想録)


十字軍に勝利をおさめたのは良いが、エジプト側では内紛が起こった。
シリアから帰国したトゥーラン・シャーは自分の不在中にシャジャル・アッドゥルやバイバルスが勝手に軍を動かし、ほとんど独力で異教徒を打ち破ってしまったという事実に怯えた。
解放奴隷のマムルークやハーレムの女奴隷ごときにこれほどのことができるのならば、正統な王族の拠って立つべきところがないではないか。
トゥーラン・シャーはバフリー・マムルーク軍の粛清に乗り出した。


バフリー・マムルークたちは先手を打って決起した。
1250年5月2日、バフリー・マムルーク軍の幹部であるアクターイ、カラーウーン、アイバク、そしてバイバルスの4人がトゥーラン・シャーを襲撃する。
惨劇は捕虜のフランス王ルイ9世の眼前で展開された。バイバルスがトゥーラン・シャーに斬りつけ、アクターイが止めをさした。

「フランク人の王よ、貴様の敵を討ち果たしてやったぞ。さあ、我らにどんな褒賞を下さるか?」

返り血に塗れた4人のマムルークは、からからと哄笑した。
こうして奴隷軍人たちはサラディンの末裔を殺害し、エジプトを乗っ取ったのである。


彼らは新たなエジプトの主としてシャジャル・アッドゥルを推戴した。
イスラーム世界の歴史が始まって以来、こと中東地域において女性が国家の主権を手にするのは初めてだった。このときはじめて、アラビア語で「女王」を意味する「スルタナ」という言葉が生み出された。
こうしてアイユーブ朝に代わり、「マムルーク朝」が成立する。

フランス王ルイ9世と将兵たちは金貨40万枚という天文学的な身代金と引き換えに釈放されてエジプトを去った。
「スルタナ・シャジャル・アッドゥル」の名を刻んだ硬貨も鋳造された。

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(シャジャル・アッドゥルの名が刻まれた硬貨)

だが、イスラーム法に背馳する女性支配者に対する反発はあまりにも大きかった。シャジャル・アッドゥルは7月にバフリー・マムルーク軍の有力者、イッズディーン・アイバクと結婚して王位を譲った。
ところが、これがバフリー・マムルーク軍の内紛を招いた。アイバクは対立する老将アクターイを暗殺し、その首級をバフリー・マムルーク軍の陣営に投げ込んだ。
もともと横暴なマムルークたちを嫌悪していたエジプトの民衆も騒ぎたった。軍の幹部たちは怖れてエジプトを去り、シリア各地のアイユーブ系諸侯のもとに身を寄せた。

アイバクはアッバース朝カリフのムスタアスィムに使者を送り、エジプトを名目上カリフに献上した。その見返りとしてアイバクは「カリフの名代」と認められた。
要するにマムルーク朝はカリフによって独立国家として承認されたのである。
もちろん一族の宗主を殺されたシリア各地のアイユーブ諸侯たちは納得しない。ダマスクス領主ナースィルがエジプトに宣戦を布告したが、1253年4月にカリフが双方に使者を送り、講和を結ばせた。
モンゴル帝国の西南アジア侵攻に備えた動きであったという。

だが、アイバクの天下も長くは続かない。
バフリー・マムルークの逃散によって軍事的基盤が弱体化したアイバクは、1257年に北イラークのモスルの太守の娘を娶って同盟を結ぼうとした。
これが、それまでアイバクと二人三脚の関係にあったシャジャル・アッドゥルを激怒させた。

「誰がおぬしをスルタンに仕立て上げたのだ!」

シャジャル・アッドゥルは浴室でアイバクを刺し殺した。
絶叫を聞きつけた衛兵たちが全裸のシャジャル・アッドゥルを捕え、女官たちが木靴で彼女を撲殺した。遺体は城塞の窓から投げ捨てられたと伝えられている。


ペルシアの蒼き狼

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(モンゴル帝国第4代皇帝モンケは東西の諸言語や文学、幾何学にも精通した天才だった)

モンゴル帝国では1251年7月、オゴデイ・カアンの子グユクの死を受けて、チンギス四男トルイの子モンケが第4代カアンとして即位し、王権がオゴデイ家からトルイ家に移行した。

もともとオゴデイ家とトルイ家との間には、帝位をめぐる暗闘が繰り広げられていた。西征の指導者バトゥと結んで帝位を手にしたモンケは、対立するオゴデイ家やチャガタイ家の大粛清を行なった。
苛烈な専制君主の登場に帝国は激しく動揺する。それを鎮めるためにはチンギス以来のお家芸ともいうべき挙国一致の征服戦争しかない。


モンケはユーラシア東西への二度目の大遠征を発令した。
二弟クビライを「漠南漢地大総督」に任命し、南宋帝国を中心とする東アジアの制圧を。
そして三弟フレグには中途で停滞しているイラン高原征服に続いてアッバース朝カリフの打倒、そして地中海方面への進出を。

モンケは東西の学術に精通し、東は金国から西はルーシまでを駆け巡った戦歴を持つ。個人としての視野の広さにおいて、この時代ではほとんど並ぶものがない。

大海に四方を囲まれたユーラシア。いまやその過半は大モンゴルの隷下にある。残る敵対勢力は南宋帝国、アッバース朝、マムルーク朝とその彼方、インドとヨーロッパ、そして南洋の島々ぐらいであろうか。
領土が広がるにつれて、この世界の大きさもわかってきた。想像していたよりも大きいが、決して手が届かないほどではない。
偉大なる祖父のチンギスは宣言した。蒼き狼の末裔は不滅の蒼天のもと、地果て海尽きるところまでを手にするのだと。あと数十年のうちにそれは現実となるに違いない。


武将サリ・ノヤンが恐るべき君主に渾身の勇気を振り絞って問いかけた。
「されば我らは何時までカアンの仰せられる土地に留まれば良いのでしょう」
モンケは簡潔に答えた。
「永遠に」
彼の言辞は常に簡潔だった。


モンケ・カアンは夢見ていた。

――世界征服を。
人類の歴史上、ただの一度も実現したことのないその夢想に、モンケ・カアンほどに接近した者は他にほとんどいない。


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(モンゴル帝国の西南アジア遠征総司令官、フレグ)

モンケはイラン方面に展開していたモンゴルの前衛部隊や服属国をことごとくフレグ指揮下に再編した。

このときまでに前線部隊「探馬軍」の活躍により再興ホラズム・シャー朝が崩壊し、ルーム・セルジューク朝やグルジア王国、キリキア・アルメニア王国、ケルマーン・カラヒタイ朝、ファールスのセルジューク系サルグル朝などがモンゴルに従っていた。
だが、いまだに服従を肯んじぬ勢力が残っている。北部イランのイスマーイール派暗殺教団と、バグダードのアッバース朝カリフ政権である。
モンケとフレグは最初にこれらの抵抗勢力を血祭りにあげ、東地中海に進出するつもりだった。その後はシリア・エジプトを制圧し、アラビア半島の両聖都を掌握し、地中海を越えてマグリブや欧州まで兵を進めることとなろう。


1255年、サマルカンド南方のキシュでイラン高原諸王の出迎えを受けたフレグは、遠征軍の最初の目標をイスマーイール派暗殺教団の制圧であると公布した。
先年、彼らは暗殺者の集団を帝都カラコルムに差し向けて皇帝モンケの生命を狙ったことが判明している。放置すべからざる脅威であった。

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(フレグの西アジア遠征と日本の戦国時代の物語が入り混じる謎小説)


モンゴル帝国の大遠征軍が迫るにつれて、暗殺教団は呆気なく崩壊をはじめた。
そもそも暗殺教団はすでに衰退期に入り、初期の団結を失っていた。モンゴルの脅威に怯える者たちが教主ムハンマド3世を殺害し、後を継いだルクヌッディーン・フルシャーは融和と赦免を求めて幾度もフレグに使者を送った。
だが、フレグの進軍は止まらない。

1256年1月1日、モンゴル軍はアム川を越えてイランの地に入った。
モンゴル軍は半年以上かけてゆるゆると西進を続けた。暗殺教団はモンゴル騎兵の行動を阻む雪の訪れを待ち続けた。だが、日増しに寒さが増すにも関わらず、エルブルーズ山脈に雪は舞おうとしなかった。
モンゴルの圧迫に耐え兼ね、教主は11月の末にマイムン・ディズの城塞を出て無条件降伏した。その直後、ようやく雪が降りはじめた。

教主はモンゴル軍の監視を受けながら、エルブルーズ山中に隠された教団の諸城をめぐり、次々に降伏を勧告。
ひととおりのことが終わると彼は帝都カラコルムに護送されるが、モンケ・カアンは教主の謁見を拒否した。モンケは汚らわしい暗殺教団の教主を許す気など端からなかった。
帰途、アルタイ山脈で教主ルクヌッディーン・フルシャーはモンゴル兵たちに殺害された。同時にフレグもイラン高原に残った教団幹部たちを全て処刑し、わずかばかりの残党はインドへ亡命した。

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(バグダードを包囲するモンゴル軍)

フレグは軍を大きく旋回させた。
羊のようにゆるゆると行軍を続けてきたモンゴル軍は突然猛烈な速度でイラン高原を駆け下り、イラーク平原に殺到した。蒼き狼の末裔たちはついに本性をあらわした。

1257年秋、モンゴル全軍はティグリス河畔に達し、公称12万の大軍勢で帝都バグダードを完全包囲する。
アッバース朝第2代カリフのアブー・ジャアファル・マンスールが全イスラーム世界の都として築いたマディーナト・アッサラームに、ついに最後の時が迫ろうとしていた。

「汝の王朝がいかに由緒正しきものであれ、今や汝は真実を知らねばならぬ。
月が光を放つのは、輝く太陽なき夜のみである。我らはついに来た。太陽を燈火と見誤ることなかれ。
チンギス・カンの時代より今に至るまで、我らモンゴルによって世界が如何に変化したかを汝も聞いておろう。
我らの憎しみと怒りを避けよ。無用の苦しみを味わうことなく我らに従うべし。されば領土も軍隊も臣下も汝の手元に留まろう。
だが、ひとたび我らに逆らえば、我らは蟻のごとく数多く象のごとく強力な軍勢を、憤怒のうちにバグダードに差し向ける。
天にのぼり地に潜って隠れようとも、我らは汝を見つけ、天頂から引きずりおろし、獅子のごとく高みから奈落へ突き落すであろう」

(フレグの降伏勧告)


ときのカリフは第37代ムスタアスィム(在位:1242-1258)。
衰えたりといえども、アッバース朝カリフはスンナ派ムスリムたちの唯一の主権者としての権威を維持している。
モンゴル軍に随行していたムスリムの学者たちは、アッラーの裁きをも恐れぬフレグに向かってバグダード攻撃を必死に諌止した。
カリフを殺せば天地が覆り、世界が滅びるであろうと彼らは主張した。

だが、モンゴル軍に従う者はムスリムだけではない。
チベットから来た仏教僧たちや、グルジア・アルメニアのキリスト教徒たちは、ムスリムの主張を嘲ってフレグに一刻も早い開戦を求めた。アッバース朝の権威を認めないシーア派ムスリムたちもカリフの強弁を冷笑した。
ためにフレグは彼らを嘉し、バグダード陥落後に城内のキリスト教徒たちを保護することを約束した。
フレグ自身は仏教徒だったが、彼の一族や側近にはネストリウス派キリスト教徒が多く、キリスト教徒に親近感を持っていたと伝えられる。


カリフは降伏を断固拒絶した。

「五百年来、揺るぎなきアッバース朝は、最も小さな風によっても覆るチンギス・カンの帝国のごとき、数多の王朝の興廃を眺めてきた。
モンゴルごときがなにゆえ我らの王朝を倒せると思うのか。
歴史を知る者に尋ねるがよい。我らの王朝は堅固にして世界の末日まで存続する。
アッバース朝の都城を攻撃した王侯たちはことごとく非業の最期を遂げてきた。
十日の幸運に恵まれた青二才よ、汝は己を世界の王と見なし、己が命令を運命の判決のごときものと思うのか。
世界の東から西に至るまで、アッラーを崇める者は王も物乞いも全て我らの命に従い馳せ参じよう。
余がひとたび欲すれば、いにしえの遺民のみを以てたちまちイランとトゥラーンを制することも叶おう。
闘う気があるのならば、あれこれ言い訳せずに挑んで来るがよい。我らは歩騎数百万の大軍を擁し、海の水をも干上がらせん」

(カリフ・ムスタアスィムの返答)


交渉は決裂した。

1258年1月29日に総攻撃が開始され、2月5日に城壁が破られた。
『元史』によればバグダードの城壁を崩したのは漢族の将軍、郭侃(かくかん)であったという。カリフの虚勢とは裏腹に、世界の東西の大軍を擁していたのはモンゴルの方だった。

2月10日、カリフ・ムスタアスィムは降伏し、貴人の礼をもって処刑された。
かくてアッバース朝イスラーム帝国は滅亡した。


西暦1260年、フレグはシリアに兵を進めた。
2世紀近く争い続けたキリスト教勢力とイスラーム勢力は、圧倒的に強大な第三勢力の出現を目の当たりにした。
彼らは日頃の敵味方の区別なく雪崩を打ってフレグの陣営に馳せ参じ、モンゴル帝国への服従を誓約した。
正教を奉じるアルメニア王ヘトゥーム、カトリックを奉じるアンティオキア公ボヘモンド6世、イスラームを奉じるアイユーブ家のナースィルが、ともにフレグに忠誠を誓い、轡を並べてダマスクスに入城する。
それまでの血みどろの歴史を思えば、それは喜劇的な光景ですらあった。

だが、ここで帝都カラコルムより凶報が届いた。モンゴル皇帝モンケ・カアンの急死である。


巨人の泉

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(モンケの弟にしてフレグの兄、漠南漢地大総督にして後の皇帝、クビライ)

フレグの西アジア遠征と並行して、モンケ・カアンのもう一人の弟であるクビライが中華世界南半に君臨する南宋帝国の征服を目指していた。
モンゴル人が「マンジ」あるいは「ナンキアス」と呼ぶ南宋帝国は、この時期、全世界でもっとも富裕な国家だった。底知れぬ国力を誇る南宋を経略するにあたり、クビライは周到な戦略を立てた。
まず、南宋の領土の西方を大きく迂回してチベット高原東部から雲南の大理王国に侵攻し、さらに北部ベトナムの陳氏大越国に進出し、南から南宋を牽制する。
ついで華北燕京の金蓮川(現;北京)に本営を設置し、朝鮮半島の高麗王国を従え、モンゴルに従う漢族の諸軍閥と協力しつつ、南宋を徐々に疲弊させる。

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(クビライはチベット・雲南遠征にあたり、中国共産党の長征ルートよりも奥地の山岳地帯を行軍した)

だが、果断なモンケから見てクビライの戦略はあまりにも悠長に思えた。苛立ったモンケは突然クビライを「漠南漢地大総督」から罷免し、自ら南宋征服の前線指揮を執り始めた。
それが仇となった。フレグがシリアに兵を進める頃、四川の釣魚山(現;重慶)を攻撃していたモンケは陣中に蔓延した疫病に罹患し、急死してしまうのである。
一説には南宋軍の流れ矢に当たって戦死したともいう。


総司令官から格下げされ、別働隊を率いて長江を目指していたクビライは、兄の死を知っても撤退しなかった。
なぜならば、北部ベトナムの昇竜(タンロン、現在のハノイ)からスブタイ・バアトルの子、ウリヤンカダイの軍が北上中だったのだ。
最初の計画ではウリヤンカダイとクビライは長江中流の鄂州(現;湖北省武漢付近)で合流して南宋帝都の臨安(現;浙江省杭州)を目指す手はずだった。

クビライが兵を退けばウリヤンカダイ軍は敵国のただ中で全滅してしまうことだろう。
彼はあくまで南進を続け、モンゴル帝国の戦史上はじめて長江を越えた。東ユーラシア各地に展開していたモンゴル諸軍は彼の信義と果敢さに驚嘆した。
退路をもとめて華南をさまよっていたウリヤンカダイ軍はクビライとの連絡に成功し、奇跡的に死地を脱した。
皇弟クビライの名声は天を衝いた。東ユーラシアのモンゴル諸王家はこぞって彼を第5代カアンに推戴した。

ところがその頃、モンゴル高原では留守を預かっていたモンケの末弟、アリク・ブケが先帝モンケの霊柩を前にクリルタイを開催し、カアンに即位していたのである。
モンゴル帝国の伝統からすれば、むしろアリク・ブケの方にこそ正統性があった。
かくてクビライとアリク・ブケという血を分けた兄弟たちのあいだで帝位継承戦争が勃発する。

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(アリク・ブケ)


アレッポでモンケ・カアンの死を知ったフレグは、自軍のほとんどを率いてイラン高原に旋回した。
歴史家としても名高いキリキア・アルメニア王のヘトゥームは、「兄の死を知ったハオルー(フレグ)は帝位を渇望してシリアを出発した」と伝えている。

彼がタブリーズに達したとき、アリク・ブケとクビライの即位の報が相次いでもたらされた。
フレグは帝位継承戦争に完全に出遅れた。西南アジアは帝国中央部からあまりにも遠かった。
彼は東の情勢を横目で眺めつつ、征服した土地を私領に再編しはじめた。それはかつて、オゴデイ・カアンの急死によって欧州より撤退した従兄バトゥが行ったのと同じことだった。

モンゴル諸王家から抽出された諸軍を乗っ取り、全モンゴルの共有財産である土地と被征服民を私物化するのは容易ではない。
それこそ、いまはバトゥの弟ベルケが君臨する西北ユーラシアのジョチ・ウルスなどが強烈な抗議を申し立ててくることは想像に難くない。
なにしろジョチ・ウルスはカフカス南麓、アゼルバイジャン地方の利権を欲して総勢1万もの騎馬軍団をこの遠征に供出しているのだ。

だが、うかつに遠征軍を解散させれば、西南アジア全土で一斉に反モンゴル蜂起がはじまる恐れもある。東方の形勢次第ではこの軍事力を擁してモンゴル高原に進撃する可能性もある。
この地で地盤を固めることがフレグにとって現状最善の策だった。

こうして、ほとんどなし崩し的に「フレグ・ウルス」、あるいは「イルハン国」と呼ばれる分国が誕生した。

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(フレグ・ウルス、通称イルハン国)


一方、モンゴルの脅威に直面したエジプトのマムルーク朝では、シャジャル・アッドゥルに殺害されたアイバクの副将、ムザッファル・クトゥズがアイバクの実子を廃してスルタンとなった。
クトゥズの出自ははっきりとせず、一説ではホラズム・シャー朝の最後のスルタン、ジャラールッディーンの甥を自称していたともいう。

1260年、モンゴル軍がシリアに進出する。
シリアのアイユーブ諸侯は右往左往し、アイバクの粛清を避けてシリアに亡命していたバフリー・マムルークたちは続々とエジプトに帰国した。
彼らの多くは、かつてキプチャク平原でモンゴル軍の侵攻を目の当たりにしている。故郷を奪った怨敵がついにこの地にやって来たのだ。
この時エジプトに戻ったマムルークたちのなかに、マンスーラでフランス軍を破ったバイバルスがいた。
バイバルスの才幹を高く買っていたクトゥズは、さっそく彼を作戦会議に列席させた。

2月、フレグはエジプトに降伏を勧告した。避難民でごった返すアル・カーヒラは恐慌状態になった。
クトゥズはバイバルスの進言を入れてフレグの使者たちを処刑し、その首級をズワイラ門に掲げて徹底抗戦の意を示した。

勝敗は神の定めるところ。我らは己が務めを果たそう。イスラームの民に断じて我らを臆病者と呼ばせはせぬ


フレグがシリアを去るのと前後してマムルーク軍が出陣する。
国境を前に多くの部将たちが進軍を拒んだが、クトゥズは断固として前進を命じた。

イスラームの民の首領たちよ! 汝らは長きにわたり国家の俸禄で養われてきたというのに、聖戦を前にしり込みするのか!
我は進軍する。戦う勇気のある者は我に従え。勇気なき者は引き返せ。だが、アッラーはかかる臆病者を見逃しはせぬ。ムスリムの乙女らの恥辱はかかる臆病者どもの責に帰すのだ


クトゥズは太鼓を打ち鳴らさせて進軍を再開した。二の足を踏んだ部将たちも、他将に引きずられるようにシナイの砂漠へ入っていった。
モンゴルの前衛部隊はガザまで達していたが、バイバルスが率いるエジプト軍の先遣隊はは彼らを鎧袖一触で破る。
アッカの十字軍勢力は不気味なモンゴル勢よりも勝手知ったるムスリム勢力と手を組むことを選び、中立を誓って物資を供給した。

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(マムルークの騎兵)


フレグはイラン高原へ撤退するにあたり、ナイマン出身の部将キト・ブカ・ノヤンに1万3千の騎兵を預けてシリアに残した。
1万3千の純騎兵は、この当時のユーラシア大陸では相当に強力な軍事集団といってよい。キト・ブカ・ノヤンが単独でさらなる南進をはじめたことは、必ずしも無謀というに当たらないだろう。

だが、キト・ブカ・ノヤンは見落としていた。
モンゴルの戦士たちはいかに強くとも、実際には専業の軍人ではない。彼らの本質は草原の遊牧民であり、日頃の狩猟や騎行で身に着けた技量や統制を戦闘に応用しているに過ぎない。
それでもこれまでの征服戦争は常に順調に進んできた。中央ユーラシアの遊牧民たちは特段の軍事訓練など施されなくても、十分すぎるほどに強力だった。

だが、そんな遊牧民たちが明確な目的のもと、常日頃から猛烈な軍事訓練を繰り返していたとすればどうだろう。
無敵を誇ったモンゴル軍といえども、彼らと同質の素質をさらに磨き立てた専業軍人たちに勝てるわけがない。
当時のバフリー・マムルークたちは、まさしくそのような存在だった。
半世紀以上にわたってほとんど不敗を誇ったモンゴル軍が、いまだかつて遭遇したことのない強敵だった。彼らはモンゴルとほとんど瓜二つの双生児だった。

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(アイン・ジャールートの戦い)

1260年9月3日、北上するバフリー・マムルーク軍と南進するモンゴル軍は、ガリラヤの丘陵地帯で激突した。
そこには小さな川が流れており、「アイン・ジャールート」と呼ばれていた。
アラビア語で「ゴリアテの泉」。旧約聖書でイスラエルの若き戦士ダヴィデが巨人ゴリアテを倒した土地と伝えられる。

「アッラーよ、クトゥズにモンゴルへの勝利を与えたまえ!」

キプチャク平原に生を受け、エジプトの地で日夜猛訓練を重ねたマムルークの精鋭たちは、敵のモンゴル軍が常套とする戦術を採用した。
バイバルス率いる一隊が囮となってモンゴル軍を入り組んだ丘陵の奥へ誘導し、周囲に潜んだクトゥズの本隊が一斉に襲い掛かる。
矢は空を覆い、バイバルスの騎兵隊は急転してモンゴル軍に殺到した。

「おお、イスラーム、イスラームよ!」

マムルークたちはこう叫んだと伝えられている。
モンゴル軍は万里の長征の果て、いにしえの巨人ゴリアテのごとくアイン・ジャールートの荒野に骸を晒して敗れ去った。
建国より半世紀、ユーラシア大陸の過半を制した帝国の不敗神話はついに崩壊した。

敗将キト・ブカ・ノヤンは昂然と死を受け入れた。

「一時の勝利に驕るな! 我が主フレグが我が死を知れば、その心は荒海のごとく煮えたぎり、アゼルバイジャンの入り口からエジプトまでをモンゴルの騎兵が埋め尽くすであろう!
我は終生、主君への忠義を尽くした! 貴様らごとき主殺しの奴隷どもとは違うのだ!」


バフリー・マムルーク軍はモンゴル軍の消え失せたシリアの野を疾駆する。
フレグが任命した代官たちは町々で虐殺され、フレグが保護したキリスト教徒たちも殺戮された。
クトゥズはまもなくダマスクスに入城し、シリア北部に残ったモンゴルの一隊はアナトリアに撤収した。
オセロの盤面が一気に入れ替わるように、ユーフラテス川以西のシリア全土が数週間でマムルーク朝に制圧された。

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(現在のアイン・ジャールート付近)


キト・ブカ・ノヤンはバフリー・マムルークたちを「主殺しの奴隷ども」と痛罵して死んだ。それは真実である。

赫々たる勝利を経ての凱旋の途上、バイバルスは恩賞の請願を装って数人の仲間とともにクトゥズに近づいた。
一瞬の隙を衝いて、ある者がクトゥズの両腕を掴み、ある者が彼を背後から蹴りつけ、ある者が彼を砂上に打ち倒した。そしてバイバルスが長剣を掲げて彼の心臓を突き刺した。

「またぞろやらかしたのか、若造ども」
「よくあることだ」
「さて、このような場合にはスルタンを殺した者が次のスルタンとなるのが通例である。クトゥズの息の根を止めたのは誰じゃ」
「それは俺だ」
「ならばバイバルスよ、おぬしが玉座に上れ。そしてまずは誓うのだ。我らによりよき利益と栄誉と安寧をもたらすことを」


アル・カーヒラの民衆は奇跡の勝利に沸き返った。誰もがバイバルスを絶賛した。
誰もクトゥズの名前など口にしなかった。バフリー・マムルークの暴虐さや不信義を罵る者もいなかった。まさに触らぬ神に祟りなしだった。

「アルマリク・アッザーヒル(勝利王!)」

マムルーク朝第5代スルタン、アルマリク・アッザーヒル・バイバルス・アル・ブンドゥクダーリー。
モンゴルを破り、十字軍を駆逐し、エジプトに未曾有の繁栄をもたらす英雄の時代がはじまろうとしている。

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