世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史25 嵐のあと、嵐のまえ

バイバルスの時代

半世紀のあいだユーラシアを吹き荒れた嵐がやんだ。
西暦1260年、イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル帝国)の軍事拡大が唐突に停止した。

その理由は皇帝モンケ・カアンの急死と内乱の勃発だったが、イスラーム世界の人々は巨大な異教帝国の内幕を定かには知らない。
多くの者は信じた。エジプトのバフリー・マムルーク朝がアイン・ジャールートでモンゴルを打ち破ったことこそが、潮目の替わるきっかけになった。アッラーはイスラームの民を見捨て給わなかったのだと。

マムルーク朝はたちまちシリア全土からモンゴル軍を駆逐した。
勝利の果実を手にしたのは、帰還途上に主君クトゥズを弑逆したバイバルス・アル・ブンドゥクダーリーである。

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(バイバルスの雄姿を描いたカザフスタン共和国の記念コイン)


マムルーク朝第5代スルタンとなったバイバルスは、精力的に国家機構の再編に取り掛かった。
まずは国都アル・カーヒラ(カイロ)とダマスクスとのあいだに早馬と伝書鳩による急報制度を整える。
七百キロの距離を馬が四日で駆け抜け、モンゴルのシリア侵攻を受けて直ちにマムルーク軍がエジプトを出撃する態勢が整った。
中東各地から流れ込んだ奴隷たちが新たなマムルークとして登用され、シリア各地の城塞が次々に補修された。何千人もの守備隊が前線に配置され、アレクサンドリア港ではウマイヤ朝以来の大艦隊も建造された。
バイバルスはエジプト・シリア間を風のように駆け巡った。どんなに強力な敵が攻めてこようと、たちまちバイバルスが駆けつけてくれる。前線の将兵は安んじて哨戒の任に就いた。

バイバルスは内政面でも卓越した才能を発揮した。
モスクや学院、病院を次々に建設し、道路や橋や灌漑水路を整備し、飢饉が起きれば貧民たちに無償で穀物を分け与えた。
また、風紀を維持するために売春宿の閉鎖を命じ、市場に敏腕のムフタシブ(監督官)たちを配して不正の取り締まりにあたらせた。
バイバルスは峻厳かつ公正な為政者で、エジプトの民は彼を名君として讃えた。その証の一端は、かの『千夜一夜物語』(アラビアンナイト)にバイバルスが登場することである。

――さて、語り伝えられるところでは、スルタン・バイバルスの治下でイスラムは例しなき光彩を放って輝き渡り、帝国は堂々、東洋の辺境から西洋の果てにまで及んだ。
そしてアッラーの地の面の上、碧空の下、今は欧州びとやナザレびとの要塞などは何ひとつ立っていず、彼らの王たちはこの帝王の御足の敷物になっていた。
バイバルスは人民を愛し、人民から慕われた。そこで彼は、遠くも近くもおよそ人民に関係のあることならば何であれ、すべてこの上なく関心を持っていた。

(佐藤正彰訳『千夜一夜物語』「バイバルス王と警察隊長たちの物語」より)


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(アラビア語では「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」)


民生は安定を取り戻し、マムルーク朝治下のシリアとエジプトは繁栄を謳歌した。わけても国都アル・カーヒラ(カイロ)の繁栄は目覚ましい。
歴史家イブン・ハルドゥーンは、アル・カーヒラ(カイロ)を「世界の首都、万人の庭、諸民族のつどうところ、人類のるつぼ、イスラムの心臓、力の源」と称賛している。
アッバース朝が滅亡し、帝都バグダードが異教徒に奪われたいま、まさにアル・カーヒラこそがイスラーム世界の中心であった。

そこに1261年6月19日、思いもよらぬ貴人が姿を現わした。
彼の名はアブー・アルカースィム・アフマド。アッバース朝最後のカリフ、ムスタアスィムの叔父であるという。
バイバルスは高官、市民、法官と聖職者たちを引き連れてアフマドをムカッタムの丘に聳えるシタデル(城塞)に迎え、カリフとして擁立した。
アフマドはバイバルスにアッバース朝の礼服を下賜し、エジプトとシリアの統治権を公認した。盛大な行列がアル・カーヒラの大通りを練り歩き、お祭り騒ぎが何日も繰り広げられた。

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(アイユーブ朝のサラディンが築いたカイロのシタデル)

東方イスラーム世界の支配者たちはアッバース朝カリフの代行者として統治権を主張してきた。かつてのブワイフ朝や大セルジューク朝と同様、カリフを擁立するエジプトはスンナ派ムスリムたちの宗主国としてふるまうことができる。マムルーク朝の政権基盤もこれで安泰となる。
バイバルスは、いまだモンゴルに制圧されていないインドと北アフリカに使節を派遣し、エジプトに新たなカリフが誕生したことを大々的に宣伝した。
いずれも反応は好意的だった。アイン・ジャールートの勝利とカリフ擁立はバイバルスを全イスラーム世界の盟主と認めさせるに足りる功績だった。

しかしカリフがアル・カーヒラの大モスクで説教をはじめると、バイバルスは眉間に深い皺を刻んだ。
何千もの群衆が一心不乱にカリフの一言一句に聞き入り、巨大なモスクは恐ろしいほどの静寂に覆われた。五百年間続いたアッバース朝の権威。バイバルスはそれに恐怖した。
衛兵たちはバイバルスの命を受けてカリフに金貨と銀貨を雨のように浴びせた。カリフの身体は金銀の輝きに覆われ、説教は中断された。

数週間後、バイバルスはカリフに形ばかりの援軍を与えてバグダードへ送り出した。
ユーフラテス河畔に達したとき、カリフの軍隊はモンゴル軍に瞬時に殲滅された。
これ以後、マムルーク朝はアッバース朝の血を引く名ばかりのカリフを次々に擁立しつづけた。歴代カリフは「高貴な虜囚」として軟禁され、マムルーク朝の権威の裏付けに利用され続けることになる。

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(バイバルスが建設したモスク)


ナイル・ヴォルガ同盟

その頃、キプチャク平原のジョチ・ウルスからモンゴル帝国の西南アジア遠征軍に供出されていた部隊が、エジプトに亡命してくるという珍事があった。
彼らはフレグ・ウルスの成立によって居場所を失い、北の故国へ帰ることも叶わず、昨日までの敵国に庇護を求めたのだ。

「おぬしらはキプチャク平原から来たと言ったな。かくいう俺もキプチャクで生まれ、おぬしらの同族に故郷を奪われて奴隷商人に売られ、流浪の末にここまで来た。おぬしらが我が国にやって来たのは、それを知ってのことか?」

アイン・ジャールートでモンゴル軍を撃破したエジプト王は、厳しい表情でモンゴルの亡命将校たちを見据えた。

「少年の日に俺はバトゥ・カンを見た。海のようなイティルの流れ(ヴォルガ川)がハザルの海(カスピ海)に注ぐ草原だった。剣戟の響きのなかで垣間見たあの男の姿を、俺は今でも忘れていない」

モンゴル人たちは死神の翼が頬を一撫でする感覚を覚えた。だが、バイバルスは突然表情を緩めた。

「――しかし恨みは既にない。俺は今ではエジプト王だ。バトゥ・カンの弟御、ベルケ・カンには礼を言いたい。おぬしらの帰国を取り計らうゆえ安心せよ」

モンゴル人たちはそっと安堵のため息を漏らした。
彼らに背を向けて足早に自室へ向かうバイバルスの拳は骨が白く浮き出るほどに固く握りしめられていた。その本心を知る者は誰もいない。


バイバルスは亡命将校たちに護衛と外交使節団をつけてジョチ・ウルスに送り出した。
彼らは二年の歳月を費やして東地中海と黒海を渡り、ヴォルガ河畔に位置するジョチ・ウルスの王都サライに辿りついた。
サライは茫々たる草原の中にある。石造りの建物はほとんどなく、無数の天幕が視野の限りに広がり、さまざまな国の民が行きかっていた。
その中央でひときわ高くそびえるのが、カンの座所である「黄金のオルド」だった。
無数の衛兵の垣根を潜り、燃え盛る火と火のあいだを通り、エジプトの使節たちは跪いてカンの玉座の下に這い進む。ベルケ・カンは馬乳酒を満たした杯を高々と掲げて彼らを歓待した。

もとよりジョチ・ウルスもエジプトに熱い視線を向けていた。
ベルケ・カンはアゼルバイジャンの支配をめぐってフレグ・ウルスと抜き差しならぬ関係になっており、フレグ・ウルスの背後を牽制し得る存在としてマムルーク朝に大いに期待していたのだ。

1264年、マムルーク朝とジョチ・ウルスとのあいだで「ナイル・ヴォルガ同盟」が成立した。
フレグ・ウルスはこれに対抗し、欧州、とくにフランス王国との提携を模索する。モンゴル時代ならではの壮大な国際関係であった。

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(ナイル・ヴォルガ同盟とモンゴル・フランス同盟)


軍備を充実させたバイバルスは、ジョチ・ウルスからの圧力によってフレグ・ウルスの動きが鈍っているあいだにヌビア(現;スーダン)の異教国家やシリア沿岸の十字軍勢力を次々に制圧していった。

1268年、170年間にわたってシリア北部に居座り続けたアンティオキア公国をバイバルスはわずか4日で滅ぼし、不在であったアンティオキア公ボヘモンドに痛烈な使信を送った。

「アンティオキアの陥落により公爵から伯爵に成り下がったボヘモンドよ。汝の宮廷の女たちは奴隷市場に売りに出され、我が軍の兵士たちにわずか1ディナールで買われていった。それも汝自身が長年蓄えてきた金貨によってだ」

ウトラメール最強の要塞と謳われたクラク・デ・シュヴァリエは、伝書鳩で偽りの開城命令を送って自落させた。
シリアの山奥にいまだに残っていた暗殺教団の残党も全て滅ぼした。
アッカで十字軍勢力の再興を図るイングランド王エドワード1世には刺客を放って追い払い、大艦隊をキプロス島に送り込むが、これは惜しくも嵐に遭って失敗する。

そして1277年、バイバルスはルーム・セルジューク朝の内乱に乗じて長駆アナトリア半島に兵を進めた。
4月、アブルスターン平原の戦いでモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍を破り、中部アナトリアのカイセリ(カエサリア)に入城。
彼の上にセルジューク朝の歴代スルタンたちが用いた天蓋が差し掛けられ、王冠が献上された。市民たちは口々にシャハーダ(信仰告白)を唱えてバイバルスを迎えたという。

「ラー・イラーハ・イッラッラーフ! ムハンマドン・ラスールッラー!(アッラーの他に神なく、ムハンマドは神の使徒なり!)」

第一次十字軍の到来よりも早く生まれたルーム・セルジューク朝は、ここに事実上崩壊した。
だが、アナトリア諸侯はモンゴルへの恐怖をぬぐいきれず、バイバルスへの服従を拒んだ。彼はやむなく、南部アナトリアのコンヤ(イコニウム)を拠点とするメフメト・ベイなる豪族にこの地の統治を委ねてアナトリアを撤退した。
炭焼きの子から身を起こしたメフメト・ベイは、こののち群雄割拠となったアナトリアでひたぶるに勢力を拡大し、やがて「カラマン君侯国」と呼ばれる強国の祖となる。

帰途、アブルスターンを通過したバイバルスは、自軍の被害を過小に見せるため、エジプト兵の死体のほとんどを埋めて隠した。数週間後に戦場を検分したフレグ・ウルスのアバカ・カンはたいそうふさぎ込んだという。

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(14世紀、アナトリアは群雄割拠の時代を迎える)

ダマスクスに帰着したバイバルスは、幕僚たちと酒宴を催した。
彼がクミス(馬乳酒)の杯をぐっと呷ったとき、異様な灼熱感が食道をせりあがるのを感じた。
視界が急速に傾き暗くなる。バイバルスは激しい苦痛に身体を捻じ曲げながら左右に目をやった。政敵に与えるつもりであった毒杯に間違って口をつけたのか、それともまさか、この連中に一服盛られたのか。
幕僚たちの姿がぐらぐらと揺れている。誰もかれも石のように無表情だった。
いや、その中のひとりが、長年もっとも信頼してきた男が口辺をかすかに歪めている。バイバルスは真相を悟った。
「き、貴様・・・・・!!」
怒号は声にならず、すべてが闇に消えた。


その男は立ち上がって、息絶えた主君を見下ろした。

――貴様は有能で精力的な支配者で、おのれに与えられた役割を十分に果たした。それゆえ安らかに眠るがよい。
バフリー・マムルーク朝の権力は実力によって継承される。まさに貴様が主、クトゥズを殺して王位についたようにだ。
因果はめぐるものだ。二年か三年は貴様の息子に王権を任せてやろうが、その後には俺が、このカラーウーンこそがスルタンとなるのだ。

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(遊牧民の出身であったバイバルスは馬乳酒を愛飲したという)


「十字軍戦争」の終焉

1096年に第一次十字軍が開始されてから二世紀近い歳月が流れ、近東全域でフランク人(西欧人)の勢力は退潮している。
十字軍戦争初期に建設されたウトラメール四ヶ国のうち、エデッサ伯国はいち早くイマードゥッディーン・ザンギーに滅ぼされ、エルサレム王国は首都を失って沿岸に逼塞し、シリア北部でアンティオキア公国とトリポリ伯国が辛うじて存続するばかり。
それら諸国は「国」とは名ばかりで、むしろ「居留地」というのが実態だった。

それでも諦めなかった男が一人いる。
欧州諸王のなかでもっとも信仰厚く、もっとも信義厚く、もっとも慈愛深く、もっとも勇敢な人物。カペー朝フランス王国第9代国王、「聖王」ルイ9世である。
ルイは若くして重い病に冒され、死を前に奇跡的な快復を遂げて以来、神への揺るぎなき信仰を抱くようになった。
南フランスの異端カタリ派を討伐し、諸侯の争いを抑え、民の訴えに熱心に耳を傾け、自ら貧者の足を洗い、そして異教の国エジプトを攻めた。

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(ルイ9世はモンゴルから「ライダー・フランス」(ロワ・ド・フランス)と呼ばれ、欧州最強の君主と認識されていた)


エジプト遠征は絶望的な敗北に終わる。一万二千の将兵とともに囚われの身となった国王ルイは、ますます神への信仰を強めた。
王の人格はマムルークの将校たち、若き日のバイバルスやクトゥズやカラーウーンをも魅了したという。粗野な草原の戦士だった彼らは、ルイと接して初めて王たるもの有り様を知った。だが、それは所詮それだけのことだった。
1250年5月、莫大な身代金と引き換えに自由を得たルイは、エルサレム王国が仮の都としていたアッカを拠点にウトラメールの建て直しに奔走した。すべての捕虜たちが解放されるまでルイはこの地に留まる覚悟だった。

そんななか、ルイは東方に偉大なキリスト教徒の帝王が出現したという噂を耳にした。
幾度も使者を送って同盟を試みたが、「タタール」とも「モンゴル」とも呼ばれる大国の正体が明らかになるにつれ、希望は失望に変わった。

「とこしえのテングリの力により、日の昇るところから日の沈むところまで全世界はチンギス・カンとその子孫に与えられたるものなり。速やかに諸王とともに我らが許に来たれ。汝らがそれを拒むならば、運命は神のみぞ知る」

彼らはムスリムでもキリスト教徒でもない未知の異教徒で、居丈高にフランス王と教皇の服従を要求するばかりだった。
1254年、ルイは母の病を機についにシリアを去った。それはモンゴル帝国の西南アジア大侵攻のはじまりと、ほぼ同じ頃のことだった。


1260年、モンゴル軍が地中海沿岸に進出するもマムルーク朝に撃退される。
1261年、第四次十字軍が占領したビザンツ帝国の旧都コンスタンティノポリスが、ニカイアに拠るビザンツ帝国の残存勢力に奪還され、西欧諸国は近東遠征の重要な足掛かりを失う。
マムルーク朝の英主バイバルスはウトラメール諸都市への攻勢を強め、1268年にアンティオキア公国を滅ぼした。


そして1270年。
聖王ルイは56歳。エジプトへの最初の出陣から22年の歳月を経て、彼はいま一度聖都奪還を夢見た。
フランス王国は豊かで戦火は遠く、民の暮らしは穏やかだった。いまさらの十字軍遠征には多くの人々が反対した。しかし聖王は翻意しなかった。

ルイに十字軍遠征を決意させたのは、末弟のシャルル・ダンジューだったといわれる。

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(「聖王の邪悪な弟」と呼ばれたシャルル・ダンジュー)


皇帝フリードリヒ2世の死後、神聖ローマ帝国は「大空位時代」を迎えた。
フリードリヒの遺児たちは背反常なきイタリア半島の支配確立に追われ、帝位に上るゆとりもない。シャルル・ダンジューはこの間隙に乗じて台頭した。
プロヴァンス伯領を足掛かりにイタリアへ進出し、皇帝の遺児たちを破り、皇帝の幼い孫を惨殺。世人の非難を総身に浴びつつも、短期間に南フランスからイタリア半島、そしてシチリア島に及ぶ巨大な版図を築くことに成功する。
カール大帝のカロリング朝フランク王国が分裂して以来、西フランク王国の系譜に連なるカペー朝フランス王国にとって、西ローマ帝国の帝冠を戴くことは幾世代にもわたる夢だった。
ホーエンシュタウフェン朝の没落を受けて、教皇庁はシャルルを「帝位の代理人」として公認した。もはや皇帝の位は遠くない。


1266年、シチリアの王位を得たシャルルは兄に説いた。

イタリア半島がフランスの勢力下に入ったいまは、東方進出の好機である。
とはいえ、マムルーク朝の攻勢が続くなかでシリアやエジプトに乗り込むのは無謀。むしろ思わぬ場所に拠点を築き、敵の不意を衝くことが上策であろう。
ここで着目すべきは、わがシチリア王国の直下に位置するチュニジアのハフス朝。ハフス朝の国都チュニスは北アフリカ随一の要港で、遠征の中継基地として申し分ない。

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(チュニジアのハフス朝)


当時、北アフリカには三つの国が並び立っていた。西からモロッコのマリーン朝アルジェリアのザイヤーン朝、そしてチュニジアのハフス朝である。

1212年にラス・ナバス・デ・トロサの戦いでイベリア諸国に破滅的な大敗を喫したムワッヒド朝は衰亡の一途をたどり、サハラの奥地から遊牧身のマリーン族が台頭。
しかし彼らが建てたマリーン朝はアルジェリア以東に支配を広げることができず、イベリア半島最大の国家となったカスティーリャ王国にも破れ、ムラービト朝やムワッヒド朝の再来になり損ねた。
トレムセンを首都とするザイヤーン朝はさほどの強国ではなく、東西の隣国にしばしば侵攻された。
最終的に三国の盟主となったのが、もっとも東のハフス朝だった。


ところが当初の目論見に反し、エグモルトを出航したフランス艦隊は嵐に遭遇してたちまち散り散りになる。
辛うじてチュニジアに上陸したフランス軍は、戦う前から疫病で自滅しはじめた。次々に将兵が倒れ、ついに聖王自身が赤痢に冒された。

「エルサレム、エルサレム!! ああ、エルサレム!」

西暦1270年8月25日、灼熱の地で聖王ルイは逝った。もはや欧州に、十字軍遠征の情熱に身を焦がす君主は誰もいない。

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シャルル・ダンジューはその後も東方進出を目指した。

兄の遺志を継いだというわけではない。シャルルは聖都エルサレムの奪還ではなく、ローマ帝国の再建を夢見ていたのだ。
フランスとイタリアを押さえ、「神聖ローマ皇帝」という名の「西ローマ皇帝」の冠を戴く日も遠くない。そしてシャルルには、コンスタンティノポリスを追われた「ラテン帝国」の帝位継承権もあった。
いまだ弱体な再興ビザンツ帝国、パレオロゴス朝を滅ぼしさえすれば、シャルル・ダンジューはいにしえのユスティニアヌス大帝以来の東西ローマ再統一を実現できる。

しかし、彼の前にひとりの政治的天才が立ちはだかる。他でもない。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴス。1261年にコンスタンティノポリスを奪還し、「もっとも狡猾なギリシア人」と呼ばれた稀代の政略家である。


シャルル・ダンジューの治下、イタリアには不満が渦巻いていた。
とりわけシチリア王国では財政が破綻し、行政は混乱を極め、農地は荒廃し、かつての自由な社会は崩壊。大帝フリードリヒ2世の子や孫を殺して圧制を敷く侵略者への憎悪が燃え盛っている。
ミカエル8世は、若き日にフリードリヒ2世に近侍し、いまはイベリア半島東岸、アラゴン王国の宰相となったジョヴァンニ・ブロチダに密使を送った。シチリア島で潜入工作が展開され、様々な流言が流布された。


1282年3月30日。晩祷(夕暮れの祈り)の時間にシチリア島のパレルモで突然暴動が発生した。
フランス軍の兵士が酒場でとあるシチリアの女性に狼藉を働き、その夫が怒りに駆られてフランス兵を殺害。これを機にパレルモ全市が蜂起し、反乱はたちまちシチリア全島に波及した。
ビザンツ帝国遠征の準備を万端に整えたシャルルの大艦隊は、怒れる民衆に火をかけられ、夕暮れの海面を紅蓮に染めて炎上した。
反乱鎮圧をはじめたフランス軍の背後に、突如イベリア半島からアラゴン王国の艦隊が来襲した。いわゆる「シチリアの晩祷」である。

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(シチリアの晩祷)

フランス王国とアラゴン王国。
西地中海は泥沼の戦乱に覆われ、シャルル・ダンジューの野望は潰え去った。十字軍であれローマ帝国再建であれ、もはや東方への大遠征など到底不可能であった。
想像をたくましくすれば、この反乱の背後にはビザンツ帝国のみならず、マムルーク朝やジョチ・ウルスの手も動いていたのかもしれない。東方のいずれの勢力にとっても、キリスト教徒の君主が地中海を再統一することなど悪夢であった。
シチリアの晩祷はシャルル・ダンジューの野望のみならず、十字軍時代そのものへの弔鐘となった。


シリアの地ではマムルーク朝のウトラメール掃討が着々と進行する。
1289年、第8代スルタンのカラーウーンがトリポリを占領。
1291年、カラーウーンの子のアシュラフ・ハリールが、「エルサレム王国」最後の拠点アッカを陥落させる。残る諸城は白旗を掲げて降伏し、「フランク人」の橋頭堡はすべて消滅した。
これからおよそ五百年、ナポレオン・ボナパルトの時代まで「フランク人」の艦隊が地中海の彼方から再来することはなかった。

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フレグ・ウルスの興亡

西南アジアに自立したフレグ・ウルスは、最初の数十年を辛うじてやり過ごした。
中央アジアのカイドゥ政権、北のジョチ・ウルス、南のマムルーク朝はすべて敵国である。唯一の後ろ盾であるクビライ・カアンの「大元ウルス」(ウルグ・ユルト)はあまりに遠い。

国内の統制にも困難が多い。
なにしろフレグ・ウルスはなし崩し的に生まれたデファクトの政権でしかない。既成事実が大義名分に先行し、何の正統性もないままウルスが成立した。
諸部族はフレグ王家に従わず、力ずくで従属させた在地諸政権も隙あらば独立回復を図った。

初代君主のフレグ・カンは国制を整えるゆとりもないままに逝った。
二代君主のアバカ・カンはネストリウス派キリスト教徒で、ビザンツ帝国皇帝、ミカエル8世パレオロゴスの娘を娶り、ユダヤ教徒やキリスト教徒の官僚を重用した。
アバカは西方のキリスト教勢力と連携して、イスラームを奉じる周辺諸国に対抗するつもりであったらしい。
とはいえ、そもそもお膝下のイラン高原からしてムスリムが圧倒的多数派であり、施政方針に無理がありすぎた。

イランの地からアナトリアに広がる属国と民衆は、指針定まらぬフレグ・ウルスの宮廷に振り回され続けた。
周辺諸国はダール・アル・イスラームの真っ只中に出現した異教国家に侵攻を繰り返した。とりわけマムルーク朝のバイバルスとカラーウーンの攻勢は激しく、かつて無敵だったはずのモンゴル軍は連戦連敗した。
アバカの生涯は望み薄き苦闘のうちに過ぎゆき、彼は気鬱を紛らわせるための酒に溺れ、1282年に48歳の若さでこの世を去った。
あとは内乱の嵐となった。

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(アバカに嫁いだビザンツ皇女デスピナ・ハトゥン、通称「モンゴルのマリア」)

1280年代、フレグ・ウルスは混迷を極めた。テクデル、アルグン、ガイハトゥ、バイドゥと、4人のカンが立っては廃され、ことごとく非業の死を遂げた。
財政は破綻し、都市は破壊され、農村は荒廃した。諸部族は自分たちが何者であり、どのようにしてこの地にやって来たのかを忘れ始めた。フレグ・ウルスは崩壊への道を歩んでいた。

ところが、1295年にひとりの若き英主が出現し、この国を蘇らせる。
彼の名はガザン・カン。アバカの長子アルグンの長子、フレグ王家においてもっと由緒正しい血筋の王族であった。

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(ガザンのイスラーム改宗)

ホラーサーンの太守であったガザンは、内乱のなかで危地に追い詰められ、自派への支持を集める方策を探った。
その答えは簡単だった。イランの地の大部分の民が信奉する宗教を受け入れ、この国をその教えに則ったかたちに作り直せばよい。

「ラー・イラーハ・イッラッラーフ・ムハンマドン・ラスールッラー(アッラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり)」

1295年、それまでチベット仏教の信徒であったガザンは、ダマーヴァンド平原で盛大な改宗式を挙行し、「パーディシャーヒー・イスラーム(イスラームの帝王)」を自称。多くの将兵がこれに追随した。
ガザンは在地諸勢力の支持を背景に敵対者たちを駆逐し、まもなくアゼルバイジャン地方のタブリーズに入城する。

「仏教寺院、ゾロアスター教聖堂、ユダヤ教のシナゴーグ、キリスト教の教会は破壊せよ」

諸宗教の偶像は打ち砕かれ、材木に縛り付けられてタブリーズの街路を引きずり回された。
仏教僧が殺され、キリスト教の司教たちが嘲られ、ユダヤ教徒たちは規定の帽子を常に着用することを強制された。
まさにガザンの即位はイスラーム以外の宗教を奉じる人々にとって受難の始まりだった。だが、彼は躊躇しなかった。

フレグ・ウルスはモンゴル帝国の一員であるが、同時にイラン高原、そしてイスラーム世界の長い歴史に連なっている。曽祖父フレグがアム川を渡って西南アジアに軍を進めた日から、いずれこうなることは定められていたのだ。

ガザンはイスラーム法の権威を蘇らせ、国家秩序の建て直しに着手した。
放漫な領地や恩賞の授与、臨時課税の慣習が改められ、イスラーム王朝の伝統的な税制であるハラージュ(土地税)が施行された。
ブワイフ朝やセルジューク朝に倣ったイクター制も導入され、各部族や部隊ごとにイクターが割り当てられて軍費を賄うことになった。
ただし、ガザンはモンゴル帝国の一体性や伝統に背を向けたわけではない。むしろその反対である。


1300年、ガザン・カンは宰相ラシードゥッディーンに大命を下した。
太祖チンギス・カンに始まる我らモンゴルの栄光を、そして我らが征服した世界の数多の民の歴史をすべて集成せよ。
イランの地に群れ集う数多の「モンゴル」たちが、いつ、いかにしてこの地に来たったのかを記せ。
失われつつある記憶をよみがえらせ、「モンゴル」の誇りを鼓吹せしめよ。我らは世界征服者の末裔なのだから。

こうして、偉大なる歴史書、『ジャーミー・アッタヴァーリーフ(集史)』が誕生する。

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(ラシードの『集史』)

この歴史書はモンゴル帝国統治下の世界各地から呼び寄せられた学者たちによって、この時代の国際共通語たるペルシア語によって記され、ガザンの弟オルジェイトゥ・カンの治世である1311年に完成した。
第一部はモンゴル帝国史、第二部は世界諸民族史であり、イスラームの預言者と王たちの歴史に加え、北方遊牧民、中華世界、ユダヤ教徒、ヨーロッパ、インドと仏教の歴史を含む。
これより以前に世界各地で著された歴史書は、所詮ひとつの文明の沿革を物語るに過ぎなかった。
ヘロドトスの『歴史』をも司馬遷の『史記』をも超え、ラシードの『集史』こそは、たしかに「人類史上最初の世界史」と呼ぶに相応しい。
この時代を生きた人々は、確かに「世界」を視野に収めていたのだ。

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(ソルターニーイェに聳えるオルジェイトゥ廟)

だが、1316年にオルジェイトゥが36歳で急逝すると、フレグ・ウルスは急速に傾いた。

1335年11月、オルジェイトゥの子アブー・サイードが陣中で皇后に毒殺された。
これを機にフレグ王家の実権は完全に失われ、スルドゥズ族とジャライル族という有力部族が名ばかりのカンを次々に擁立しながら抗争を繰り広げる。

ジャライル族はイラン高原を追い落とされてイラーク平原に進出し、イラン高原南部では残虐非道な風雲児ムバーリズッディーンがムザッファル朝を打ち立てた。
スルドゥズ族の政権は1357年にカフカス山脈を越えて侵攻したジョチ・ウルスに打倒され、ジョチ・ウルスは積年の宿願であったアゼルバイジャン征服を達成した。
これを見たジャライル族のシャイフ・ウヴァイスがアゼルバイジャンに進軍してジョチ・ウルス軍を追い払い、ついに自らカンを称してジャライル朝を樹立した。
ここにフレグ王家の血脈は断絶し、西南アジアは戦国乱世を迎えたのである。

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(フレグ・ウルス崩壊)


キプチャク平原の動乱

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(東のオルダ・ウルス(白帳汗国)と西のバトゥ・ウルス(金帳汗国)の連合国家、ジョチ・ウルス)

キプチャク平原ではジョチ・ウルスが独自の歴史を歩み続けていたが、この国も14世紀後半には徐々に傾きはじめる。
30年近い在位を誇ったウズベク・カンと、その子ティニベク・カン、ジャニベク・カンは強硬なまでに国内のイスラーム化を進め、多くのモスクを建設し、異教の聖所を破壊してまわった。
どうやらこの政策をめぐって支配層のあいだで対立が生じたらしい。

1352年、アゼルバイジャン総督のベルディベクが実の父親であるジャニベク・カンを殺害。さらに12人の兄弟を粛清してサライの玉座に上った。
ベルディベク・カンの恐怖政治に人々は震え上がり、1357年に生き残った弟のクルナがベルディベクを暗殺。王家は収拾のつかない混乱に陥った。

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(なんとベルディベクなんていうドマイナー人物を重要脇役とする歴史映画が)


ジョチ・ウルスはもともと、ジョチの長男オルダの子孫を中心とする東の「オルダ・ウルス」と、ジョチの次男バトゥの子孫を中心とする西の「バトゥ・ウルス」の連合体だった。

バトゥ・ウルスの混乱にオルダ・ウルスの実力者ヒズル・カンが介入し、サライの貴族たちを煽動してクルナ・カンを継いだナウルーズ・カンを殺害させた。
ナウルーズ・カンの妃タイトグリはヒズル・カンと再婚して地位を保持しようと計り、やがて方針を変えてヒズル・カンと対決した。
両者の係争のなかで王都サライは完全に破壊され、草原の民は東西に離散した。東へ奔った部族は中央アジアを目指し、西へ奔った部族はベルディベクの娘婿だったキヤト・ママイに率いられてクリミア半島に逃げ込んだ。

キプチャク平原は空前の動乱を迎えた。ロシアの年代記にいう「ザミャーチナヤ・ヴェリーカヤ(大いなる紛乱)」である。
諸部族、諸王家のあいだで草原を赤く染める激闘が繰り返された。
この頃、わずか20年間に25名ものカンたちが即位と廃位を繰り返したという。彼らの多くは実名すら定かに伝わっていない。


1370年代、かつてのジョチ・ウルスはおおまかに三つの勢力に分裂した。
もっとも西にはクリミア半島を本拠とするキヤト・ママイの政権。中央には破壊されたサライ周辺を拠点とするヒズル・カンの弟ムリードの政権、そしてはるか東方ではテンギズ・ブガなる人物が中央アジアで勢威を張っていた。

このうちテンギズ・ブガが、サライから連行してきたジョチ家の王族たちを皆殺しにしようと目論んだ。それが当の王族たちに漏れた。
ジョチの第十三子トカ・テムルの末裔であるカラ・ノガイとオロスの父子が先手を打ってテンギズ・ブガを殺し、その勢力を乗っ取ってサライ回復のために西進し、ムリードの勢力を打倒した。
こうして西のママイと東のオロス・カンが、おおむねヴォルガ川を境に対峙する形勢となった。

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(モスクワを攻撃するトクタミシュ)


そんななか、カスピ海東岸のマンギシュラク半島を支配していたトカ・テムルの末裔、トゥイ・ホージャなる人物がオロス・カンと対立して殺害される。
トゥイ・ホージャの子トクタミシュは年少のために助命されたが、隙を見て逃亡し、荒野を越え、アム川をさかのぼってマー・ワラー・アンナフルを目指した。
シル川とアム川に挟まれた沃野、マー・ワラー・アンナフル。当時この地を拠点に旭日の勢いで勢力を拡大しつつあった英傑がいる。トクタミシュは彼に庇護を求めた。
その名を、アミール・ティムール・キュレゲンという。この男がユーラシア大陸に再び嵐を呼ぶことになる。

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コメント

こんばんは。
いつも楽しく拝見させて頂いています。
今度オーストリア・チェコ・ハンガリーを旅行するのですが、事前に歴史や文化を知る為のオススメの書籍はないでしょうか?

  • 2015/12/27(日) 22:33:04 |
  • URL |
  • 流浪の民さん #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

コメントありがとうございます。中欧に行かれるのですね。
自分も数年前に同じ3ヶ国も巡りまして、とても懐かしいです。
とくにブダペストの王宮と、ツィタデラから見下ろす夜景が素晴らしいので、ぜひご覧になってください。

さて、歴史や文化と言っても幅広いですが、特に関心をお持ちの分野はあるでしょうか?
歴史については山川出版社の新版世界各国史『ドナウ・ヨーロッパ史』がこの地域の通史になりますが、教科書的な雰囲気です。
限定された内容になりますが、ハプスブルク家の興隆からウィーン会議をめぐる数々のエピソードを書き連ねた『帝都ウィーンと列国会議』(講談社学術文庫)がお勧めです。
チェコについては中公新書に『物語チェコの歴史』があります。それから現代史方面では元外交官の春江一也さんによる自伝的な恋愛小説『プラハの春』が外せません。
ハンガリーは……とても魅力的な国なのですが、とくにこれといったお勧めが思いつきません。すみません。
いずれにしてもこの地域についてはハプスブルク帝国関係の本がたくさん出ているので、探せば良い本がたくさんあると思います。

文化も多彩ですが、個人的にドイツ文学者の池内紀さんの著作が、飄々としつつ文学的な気韻があって好きです。
文学がお好きでしたら岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』、民俗的なことがお好きでしたら岩波文庫の『ハンガリー民話集』がお勧めです。

これら三国の文化を直接扱っているわけではないですが、ドナウ流域を舞台とする宮本輝さんの小説『ドナウの旅人』もお勧めします。
ほかに番外編として、チェコのフス戦争をテーマにした漫画の『乙女戦争』シリーズ、中世ハンガリーによく似た異世界を舞台にした架空歴史小説の『マヴァール年代記』なんかも挙げてみます。

  • 2015/12/29(火) 23:28:05 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

ありがとうございます。

ご教授ありがとうございます。
さっそく本屋さんで探してみます。
今年も楽しい記事をありがとうございました。
来年も楽しみにしています!

  • 2015/12/31(木) 22:43:42 |
  • URL |
  • 流浪の民さん #-
  • [ 編集 ]

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