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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史17 黄昏のあとさき

華南統合

かつて「楚」という王国が存在した。
その国は長江流域を統合し、北方の華夏中原を制する周王国や後継諸国と何世紀も戦いつづけた。

紀元前3世紀後半、華夏の西垂に誕生した秦国が歴史上はじめてふたつの大河の流域を統一した。
だが、秦「帝国」はほとんど一代で崩壊した。帝国に叛旗を掲げた者たちは、何世紀も「華夏」に対抗してきた楚王国の復興を旗印にした。
張楚王・陳勝、楚の義帝、そして西楚の覇王・項羽らは、秦王・政が考案した「皇帝」という称号を決して名乗ろうとはしなかった。

――楚は三戸といえども、秦を亡ぼす者は必ず楚ならん。


漢王・劉邦は旧楚国の出身でありながら、ことさら秦帝国の後継者として振る舞った。それは彼が項羽と対立したために、反秦の象徴である楚王権を再否定する必要があったからであろう。
劉邦は秦の故地である関中平野に首都・長安を建設し、秦帝国の玉璽を継承し、そして「皇帝」を称した。

以来、およそ一世紀。劉邦の創建した「漢帝国」は、血族の東方諸侯王国を吸収し、百越の二つの王国を併合し、匈奴帝国を漠北に駆逐した。
いまやその国力と領土は始皇帝の「秦帝国」に迫りつつある。だが、かつて始皇帝が制圧した巨大な版図のなかに、漢朝皇帝の権威に服さぬ土地が今も残っている。
長江のはるか南に連なる南嶺山脈の彼方、南海(南シナ海)に面する「南越国」である。

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(南越国の領域)


その地を「嶺南」と呼ぶ。
古くから長江下流を拠点とする呉人や越人の活動が嶺南に及んでおり、この地域はもともと呉越文化の影響下にあった。
だが南越を興した趙陀は、呉国でも越国でもなく楚王国に倣って国制を整えた。
南越の官制、暦制、祭器、陵墓はいずれも楚国のものによく似ている。項羽なきあと、南越は長江世界に生まれた楚王権の最後の継承者となったのである。

趙陀は「」(彼自身の帝号としては「武帝」)を称したという。
「帝」は「皇帝」とは似て非なる称号である。これは神そのものを示す呼び名であり、「皇帝」よりもはるかに古い称号だった。「皇帝」が地上における天の代理人であるならば、「帝」は天そのものを体現する存在といえる。

「帝」を名乗った趙陀は「皇帝」と同様に子弟を諸侯王(執圭)に封じ、異族の長たちに印璽を授けた。印璽の形も刻文もかつて楚で用いられていたものと瓜二つだった。
趙陀は漢との外交文書に「帝」という称号を記載することこそなかったが、国内と周辺諸民族に対して一貫して「帝」として振る舞った。
南越は嶺南に漢帝国の介入を許さず、「中華世界」とは異なるもう一つの世界を支配したのである。


漢の皇帝や匈奴の単于が次々に代を重ねるなか、南越の「帝」だけは変わらなかった。趙陀は異様なほどに長命で壮健だった。
その治世が半世紀を超える頃には、嶺南の人々は趙陀をほとんど神と同一視するようになった。「帝」は決して死ぬことがないと、民は信じた。
だが、趙陀といえども人間である。
紀元前137年、南越国の初代「帝」は齢百余歳にして、ついに崩御した。

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(金縷玉衣に覆われた南越王族の亡骸)

南方世界に激震が走る。
偉大なる「帝」が倒れた途端に動き出したのは、それまで南越の衛星国であった閩越の国王・騶郢(すうえい)だった。
既述のように彼はまず北の東甌に侵攻した。あわよくば趙陀なき南越に代わり、南方世界の新たな盟主たらんと欲したのであろう。
しかし強大な漢帝国が彼の前に立ち塞がる。北への進出を断念した騶郢は、先年までの宗主国であった南越に侵入した。

南越の新たな「帝」となった趙陀の孫の趙胡(文帝)はまだ若く、この事態に対してなす術を知らなかった。
周章狼狽のあまり、彼は漢帝国の支援を請い求めた。
漢にとっては願ってもない事態だった。漢の「皇帝」は天下に唯一無二の存在たる「天子」であり(もちろんこれは黄河文明の世界観に過ぎないのだが)、対等の「帝」など到底容認できない。
南方にあって「帝」を僭称する南越国主が自ら漢帝国に頭を下げてきた今は、嶺南に対して漢帝国の優越性を認めさせる絶好の機会である。
漢は援軍の見返りとして趙胡の太子、趙嬰斉(ちょうえいせい)を人質として長安に送ることを要求した。趙胡にはこれを呑むしかなかった。南越「帝国」の誇りは地に堕ちた。

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(越人が用いた銅鼓)

漢は趙嬰斉に美女を与えて篭絡した。
やがて失意のうちに趙胡が世を去り、趙嬰斉は漢帝国で娶った妻とともに故国に帰った。
そして紀元前115年、趙嬰斉もまた世を去り、その子、趙興が南越の帝座に上った。

趙興はまだ幼い。女権の強い華南の習俗に従い、宮廷の実権は帝母の掌握するところとなった。彼女こそは、かつて漢帝国が趙嬰斉に下賜した美女に他ならなかった。
彼女とその取り巻きは漢の後援を得て、南越国独自の習俗を次々に廃止し、漢の儀礼や法制を導入しはじめた。

「なにゆえ異国の身分卑しき女が我らを支配する!?」

ここで南越国の宿命的な欠陥が露呈した。華夏の血を引く王族・移民と、百越の血を引く土着豪族・先住民との対立である。
憤激した南方人たちは宰相・呂嘉(りょか)を中心に結集した。
呂嘉は一族七十余人を宮廷に配し、帝家との血縁を幾重にも重ねた実力者である。彼が片手を振ればたちまち越人が立ち上がり、異邦人の帝家など瞬く間に滅ぼされてしまうかもしれぬ。
恐れおののいた帝母は漢に急使を送った。

「わらわは南越国などどうでもよい。土地も砦も漢軍に明け渡すゆえ、漢の天子にわらわと我が子の安全を確保して欲しい」

なんたることか! 我が国を最も脅かすものは、我が国の帝と帝母に他ならぬ。
南方人たちはついに呂嘉を旗頭として決起した。漢帝国はそれを待っていた。

紀元前112年秋、漢軍10万が海陸から南越国への進撃を開始した。
一年に及ぶ抗戦の末、南越国都・番禺(ばんぐう; 現在の広東省広州市)は陥落した。
これ以降、もはや華南の地が「中華世界」から離脱することはなかった。

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(越人の旗頭、宰相・呂嘉)


栄光と翳り

紀元前110年。
漢帝国の武帝、劉徹は盛大な車列を連ねて帝都・長安を出発し、東方の泰山に向かった。
秦の始皇帝以来およそ一世紀、真の天子のみが挙行することを許される大いなる祭祀、封禅(ほうぜん)を行なうためである。

天帝と大地を祭る封禅の儀については神話時代からの伝承があるが、その実態はまったく忘れ去られていた。
学者たちのあやふやな説明に業を煮やした始皇帝は、ほとんど単身で泰山に登り、我流で儀式を行って良しとした。
武帝も同じだった。彼は亡き霍去病の弟だけを従えて泰山の頂に登っていった。
ここで武帝がいかなる祭儀を行なったのか、それを伝える記録は何ひとつ残されていない。

いずれにせよ、このとき47歳の武帝・劉徹は自信に満ち溢れ、生涯最高の時を過ごしたことは疑いない。
彼は匈奴帝国を駆逐し、始皇帝を超える版図を実現し、不遜なる南の「帝」を打倒し、地上唯一の「皇帝」となった。もはや既知の世界に漢帝国を脅かすものは存在しない。
だが哲人ニーチェが語るごとく、「大いなる正午」に達した者には没落の道しか残されていない。

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(霍去病の弟は封禅が終わった直後に消されt、うわなにをするやめろくぁwせdrftgyふじこlp)


紀元前109年、武帝は東のかた衛氏朝鮮(ウィシジョソン)に5万の遠征軍を送った。
発端は交易をめぐるトラブルだったが、それが戦争に発展したのは、交渉に失敗した漢の使節が、見送りに来た衛氏朝鮮の副王を国境で殺害したためである。
私怨か、挑発か、いずれにせよ大義無き開戦だった。
衛氏朝鮮は粘り強く抵抗した。漢帝国軍は多大な犠牲を払いながら進軍した。王都ワングム(王険)城は一年以上も包囲に耐えた。

辛うじて衛氏朝鮮を屈服させた武帝は、この地に四つの郡(朝鮮四郡:楽浪・真番・臨屯・玄菟)を設置して直轄統治下に組み込み、東方諸族の朝貢を促した。だが、遠征を率いた将軍たちへの恩賞は与えられなかった。
労多くして功少なき征戦と言わざるを得ない。栄光は早くも翳りはじめていた。

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(朝鮮四郡)

西域への第二の通路を開拓すべく雲南方面への進出も図られたが、夜郎(やろう)滇(てん)など幾つかの小国を名目的に服属させただけで頓挫した。
中華西南の山岳は険しく、密林は底知れず、疫病が猛威を振るっている。人間の胴ほどもある巨大な毒蛇もいれば、無心に笹を食らい続ける奇怪な白黒模様の獣もいる。ここはとても大軍が通れる土地ではなかった。

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帝国の拡大が限界に近づくなか、国家財政の破綻が迫っていた。
漢は大匈奴戦争で匈奴軍の機動力に対抗するために徹底的な物量作戦をとった。
衛青や霍去病の最精鋭部隊を支援するために何十万もの後方支援軍が動員され、膨大な輜重が草原の奥深くへ輸送された。出征兵士への恩賞も莫大な額にのぼった。
累年の軍事支出は天文学的なレベルに達し、武帝即位時の余剰蓄積はとうに枯渇していた。

財政再建のために売官、貨幣改鋳、増税など、さまざまな政策が手あたり次第に試みられ、経済が大混乱に陥った。
最終的に帝国政府が採用したのは塩鉄専売だった。塩は調味料や保存料として人々の生活に欠かすことができず、鉄もまた農具や工具、さらには武具の材料として需要が大きい。
塩鉄の生産・流通・販売の独占は政府に莫大な収益をもたらしたが、人々にとっては大きな負担となった。
もっともこの制度の後押しを受けて鉄器が中華世界の津々浦々まで普及したという文明史的な意義はある。

紀元前110年代には財務官僚・桑弘羊(そうこうよう)の提言で、「均輸法」と「平準法」が全国的に施行される。
「均輸法」というのは、帝国政府が物資を余剰のある地域から不足している地域へ輸送・転売して利益を上げるという制度。
そして「平準法」というのは、帝国政府が物資を余剰のある時期に買い占めておき、不足している時期に売り出して利益を上げるという制度。
要するに漢帝国は財政再建のために、それまで各地の商人が行っていた事業をまるごと横取りしたのである。

事業廃絶の危機に直面した商人たちはもっとも安全な資産と目された土地に投資を行い、広大な地域と住民をまるごと私有財産として囲い込んだ。こうして次の時代の主役となる「豪族」が誕生する。
庶民は全般的に貧しくなり、貧しいなかでも格差が広がった。豪族の下で隷属身分に陥る者や群盗に身を投じる者も珍しくなかった。
紀元前107年の統計によれば、関東(函谷関以東)の流民は二百万余人に達したという。

また、黄河下流で破局的な洪水が発生したにも関わらず、対外戦争を優先する武帝は何十年間もこれを放置した。旧諸侯王領の災害など大した興味がなかったのかもしれない。
泰山封禅の帰途にたまたま現場を通過した武帝は被害の実情を目にしてはじめて狼狽し、直ちに治水工事を命じた。
このとき武帝がつくった「瓠子の歌」は自己弁護と責任転嫁に終始している。武帝に随行していた大史令・司馬遷は、この歌がつくられたことを深く悲しんだという。

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(漢帝国の公式通貨、五銖銭)

さらに、武帝は自らの手足として「酷吏」と称される官僚たちを重用した。
彼らは情理を考慮することなく厳格に法を適用し、富裕な商人の富を奪い、諸侯王の領地を没収した。
とりわけ「繡衣直指」と呼ばれる特務警察はあらゆる手段を駆使して陰謀を探り、高位高官も容赦なく摘発・投獄したという。
宮廷は恐怖に覆われ、皇帝のいかなる恣意に対しても反論を試みる者は皆無となった。


天涯の彼方へ

漢の攻勢によって漠北に撤退した匈奴帝国では、紀元前114年にイリチシュ・テングリクト・シャンユ(伊稚斜単于; いちしゃぜんう)が失意のうちに世を去った。
漢帝国からの貢納が途絶え、略奪遠征も不可能となったことにより、単于の権威と求心力は大いに衰えた。
イリチシュを継いだ子のブミ・テングリクト・シャンユ(烏維単于; ういぜんう)は、ひたすら対外消極主義に徹した。
※繰り返しますが、匈奴単于の名前は漢字と後世のモンゴル語やテュルク語から適当にそれらしい原音を妄想しているだけです。

漢は霍去病が奪った「河西回廊」の支配を固めるべく、この地に朝鮮方面と同じく四つの郡(河西四郡:武威、張掖、酒泉、敦煌)を置いて直轄統治に組み込んだ。
長城をはるか西方に延伸してセリンディア(タリム盆地)までの交通路を確保し、数十万の屯田兵を入植させた。
漢帝国は西域諸国との交易を進め、好機至ればセリンディアを匈奴帝国の影響から完全に切り離すことを目論んでいた。それが叶えば東西の定住民地域との連結を失った匈奴帝国は不毛の荒野で立ち枯れるであろう。

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(長城の西の果て、玉門関)

漢帝国では老境を迎えた武帝・劉徹が、倦怠に満ちた日々を送っていた。若き日に彼が愛した衛皇后こと衛子夫も、歳月とともに容色が衰え、とうに寵愛の対象ではなくなっていた。
そんななか、李延年(りえんねん)という宮廷楽師が現われる。

北方有佳人(北方に佳人有り)
   絶世而独立(絶世にして独り立つ)
一顧傾人城(一顧すれば人の城を傾け)
   再顧傾人国(再顧すれば人の国を傾く)
寧不知傾城與傾国(いずくんぞ傾城と傾国とを知らざらん)
   佳人難再得(佳人、再びは得難し)


北方有佳人
李延年の歌


武帝は苛酷な独裁君主であった。そしてそれと同程度に、鋭く繊細な感性を持つ詩人であった。
李延年の歌は、武帝の心にまだ見ぬ佳人の幻影を浮かび上がらせた。

そして北方。
武帝・劉徹の青春時代は北への夢と野望に彩られていた。彼はかつて北方に生まれた美しい少女を愛し、その地に大軍を送り、広大な領土を匈奴の手から奪ったのだった。
武帝はそんなことも思い出した。

かくのごとく麗しき傾国の美姫がまことにこの世に存在するのであれば一度は目にしてみたいものだ。そう、武帝は呟いた。
李延年は応えた。この歌は美貌の誉れ高き我が妹を歌ったものなのだと。

こうして武帝に新しい愛人が生まれた。
李延年の妹、李妍(りけん)。「李夫人」と称される絶世の美女である。

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(武帝後年の愛人、李夫人)

武帝の眼は青春時代の輝きを取り戻した。
今は亡き張騫や衛青、霍去病とともに夢見た広大な世界を、彼は思い出した。

かつて張騫が語ったことがある。西域の果てに「大苑(だいえん)」という国があり、そこには血の汗を流して千里を駆ける「汗血馬(かんけつば)」なる駿馬がいるという。
大苑とは、現在のウズベキスタン共和国東部にあったフェルガナ王国のことである。ここは肥沃な農耕地帯で、イラン系の定住民たちが暮らしていた。漢帝国の記録によれば人口30万、兵士6万を擁していたという。

汗血馬の献上を求められたフェルガナ国王は漢の使節を斬り、財物を奪った。
長安からフェルガナまでは四千キロ以上の距離があり、そのあいだにはタクラマカン砂漠とパミール高原が存在する。
いかなる常識で考えても漢帝国がフェルガナまで侵攻することなどありえない。衰えたりといえども草原を縦横に駆け巡る匈奴帝国を敵に回してまで、貴重な名馬を漢に献上する理由など存在しない。

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(汗血馬)

だが、武帝は常識の当てはまる相手ではなかった。
顛末を聞いて激怒した武帝は、李夫人の弟、李広利(りこうり)に数万の兵を与えて大苑遠征を命じた。
武帝にしてみれば、かつて衛皇后の弟・衛青に匈奴遠征を命じたのと同じ感覚だった。衛青ができたことならば李広利にもさして無理なことではあるまい。皇帝はそのように判断した
だが、物事はそれほど単純ではない。

李広利の遠征は惨憺たる結果に終わった。
現地にたどり着くまでもなく軍の大半は崩壊した。しかし武帝は逃げ戻った李広利に長城以内に撤収することを許さず、前回に数倍する大軍を編成して再び大苑遠征を命じたのである。李広利にしてみれば悪夢のような展開だっただろう。

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(セリンディアとソグディアナ)

紀元前104年、漢はフェルガナを征服した。
セリンディア、そしてさらに西方のソグディアナ(トランスオクシアナ)諸国は驚愕し、先を争って漢帝国に誼を通じた。
そのなかでも、漢は天山山脈北麓のイリ流域からバルハシ湖にかけての草原を抑える烏孫(うそん)を重視した。
烏孫は60万の人口を擁する遊牧国家で、匈奴帝国を西から牽制し得る立場にあった。その国の人々は碧眼赤髪であったと伝えられている。

武帝は烏孫の老王に公主(皇女)を妻として与えた。彼女は武帝の実の娘ではなく、謀反の罪で処刑された王族の娘だった。
地の果て、天の彼方に彼女は一人送られた。その孤独と絶望の巨大さは、もはや想像の及ぶところではない。
ただ一篇の詩だけが、彼女の想いを今に伝えている。

吾家嫁我兮天一方 (吾が家、我を嫁す、天の一方)
  遠託異國兮烏孫王 (遠く異國の烏孫王に託す)
穹盧爲室兮氈爲牆 (穹盧を室と爲し、氈を牆と爲し)
  以肉爲食兮酪爲漿 (肉を以て食と爲し、酪を漿と爲す)
居常土思兮心内傷 (居常に土を思ひ、心、内に傷む)
  願爲黄鵠兮歸故鄕 (願はくは黄鵠と爲りて故鄕に歸らん)


  ――烏孫公主・細君

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(バルハシ湖)


武帝の秋

漢帝国の西域進出に匈奴帝国は神経を尖らせている。
そもそも北方遊牧民がひとつの帝国にまとまったのは草原諸部族の集団的安全保障を実現し、効率的な交易・略奪による経済的安定を確保するためである。
ところが漢帝国の積極攻勢によって匈奴帝国はゴビ沙漠以南を喪失し、草原の平和と繁栄を保障できなくなった。このうえセリンディアまでが失われれば匈奴帝国は崩壊するであろう。

紀元前103年、ついに均衡が崩れた。この年、漠北で大寒波が発生し、莫大な家畜が凍死したのである。
匈奴帝国は政情不安に陥り、一部の集団が単于を殺害して漢帝国に帰順しようとした。武帝は2万の騎兵を国境に送って受け入れ態勢を整えた。

このときブミ・テングリクト・シャンユはすでに崩御し、その子、ウシュル・テングリクト・シャンユ(烏師廬単于; うしろぜんう)の時代になっている。
ウシュルは不穏な動きを察知し、漢への投降準備を進めていた集団を急襲・殲滅。さらに出迎えに来た漢軍を包囲し、全軍降伏に追い込んだ。
匈奴帝国の漠北撤退より16年後のことだった。

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第二次大匈奴戦争は、両国どちらにとっても損害のみ多く、益するところの少ない戦いだった。

漢帝国は西域の駿馬を得て軍馬を改良したにもかかわらず、かつてのような輝かしい勝利を得ることができなくなっていた。
将兵の質も戦意も国力も低下していた。最高司令官の武帝自身が年老い、柔軟な判断力を失っていた。
匈奴帝国は漢帝国と戦うかたわら、年ごとに悪化する気候と諸部族・諸王族の内紛で疲弊した。
戦争は華々しい盛り上がりもなく、だらだらと続いた。そのなかで二つの帝国はともどもに長い黄昏の歳月を過ごす。

紀元前99年、酒泉から3万騎を率いて出撃した李広利は匈奴軍に包囲され、兵の7割近くを失って敗走した。
李広利の支援を命じられた将軍・李陵はわずか5千の歩兵を率いて漠北に進むが、李広利の敗走によって孤立状態に陥った。
彼は知略の限りを尽くして過酷な撤退戦を続けるが、長城を目前にしたところで裏切りによって敗れ、匈奴に降伏した。
李陵の降伏を聞いた武帝は激怒し、李陵の一族を皆殺しにした。
この時ただ一人李陵のために弁明した大史令(天文・暦制長官)の司馬遷は宮刑に処せられた。司馬遷はこの悲憤を史書の叙述に転じ、やがて偉大なる歴史書『史記』を完成する。

徑萬里兮度沙漠   萬里を徑り、沙漠を度り
爲君將兮奮匈奴   君が將と爲りて、匈奴に奮ふ
路窮絶兮矢刃摧   路は窮り絶え、矢刃摧け
士衆滅兮名已落   士衆滅び、名已に落つ
老母已死        老母已に死せり 
雖欲報恩將安歸   恩に報ひんと欲すると雖も、將た安くにか歸せん


還るべき地を失った李陵は匈奴帝国の右校王となってはるか北方の民を治め、残る人生を過ごしたと伝えられる。

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(一説では、李陵はアルタイ山脈北方のハカス地方でキルギスの支配を委ねられたという)

紀元前97年、李広利・路博徳・韓説・公孫敖の四将が総計21万の大軍を率いて長城を出撃するが、いずれも匈奴軍に敗退した。
李広利は所詮、衛青や霍去病の代わりにはならぬ。武帝は悲痛な思いとともに事実を受け入れた。

紀元前90年、匈奴が長城以南に侵攻した。漢は14万騎をもって迎撃する。財政危機に瀕する漢帝国にとって、もはやこれ以上の軍事動員は不可能だった。
武帝は諸将に対して専守防衛に徹し、決して沙漠に深入りしないように通達した。かつての武帝であれば考えられない消極的な作戦だった。
だが、李広利は愚かにも緒戦の勝利に驕って匈奴領内深く進撃する。疲労困憊の極みに達した漢軍は単于自らが率いる匈奴の大軍に急襲され、壊滅的な敗北を喫した。
李広利は匈奴に降伏し、翌年に神への生贄として殺された。
以後、武帝が生きているあいだに再び漢と匈奴の戦端が開かれることはなかった。

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(李広利)

武帝の晩年は闇に覆われた。
輝かしい栄光の歳月は遠く去った。武帝の胸に青春を蘇らせた李夫人も若くして世を去った。
重病の床に伏した李夫人は憔悴した容貌を武帝に見せることを拒み、ひとり死んでいった。
「それ色を以て人に仕える者は、色衰ゆれば則ち愛弛み、愛弛めば則ち恩絶ゆ」
彼女が病床から皇帝に伝えさせた言葉は、痛烈な皮肉であったのかもしれない。

内外は危機の予兆に満ちていた。陰謀と密告が横行し、皇帝への脅威と見なされた者たちは酷吏と繡衣直指によって次々に捕えられた。

紀元前92年、丞相・公孫賀の子、公孫敬声が公主と密通し、巫術を用いて武帝を呪詛しているという上書があった。
この騒ぎは公孫賀一族の族滅に留まらず、帝室内部にまで及んだ、
衛皇后と武帝のあいだに生まれた二人の公主と、衛青の遺児が同じく武帝への呪詛を理由に処刑された。明確な証拠はなく、年老いた武帝の猜疑心が彼らの運命を決定した。
そんななかで江充(こうじゅう)という人物が台頭する。

江充は酷吏のなかの酷吏というべき人物だった。誰に対しても法の厳格な遵守を要求し、至るところで敵意を買っていた。皇太子すらも些細な罪過で江充の処罰を受け、彼を激しく恨んでいた。
江充の後ろ盾は武帝ただ一人である。皇太子が即位した後に復仇を受けることを恐れた江充は、武帝に対して皇太子までもが父帝を呪詛しているという虚言を吹き込んだ。
追いつめられた皇太子は長安で兵を挙げ、未央宮(びおうきゅう)と中央政府を制圧して江充を斬殺した。

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(漢長安・未央宮の遺跡)

病気療養のために郊外の離宮に赴いていた武帝は、変事を知るや首都圏の諸軍を抑え、激しい市街戦を経て帝都を奪い返した。
若き日に武帝が愛した衛皇后は実子の「謀反」に連座する形で自らの命を絶った。皇太子は東方に逃れて民間に潜伏したが、ほどなく官憲に追い詰められて自害した。皇太子は38歳、武帝は66歳であった。
いわゆる「巫蠱(ふこ)の禍」である。

皇太子の死後、多くの人々が死を覚悟して皇太子の冤罪を訴えた。後に丞相となる田千秋は、夢に高祖・劉邦の霊が現われて皇太子の無実を告げたと上奏した。
徐々に真実を悟った武帝は皇太子が命を絶った地に「思子宮」という離宮を建て、皇太子の魂が帰ることを願って「帰来望思之台」を造った。
紀元前89年、桑弘羊と田千秋が匈奴との再戦に備えて西域の屯田拡大を進言すると、武帝は「輪台の詔」と呼ばれる詔勅を発し、度重なる遠征で民に多大な負担を強いてきたことを理由に、これ以上の積極政策を否定した。
稀代の独裁君主の心のうちに寂寞たる秋風が吹き渡っていた。

秋風起こりて白雲飛び
草木黄落して雁 南へ帰る
蘭に秀有り、菊に芳有り
佳人を懐ひて忘るる能はず
樓船をうかべて汾河をわたり
中流を橫ぎりて素波を揚ぐ
簫鼓鳴りて櫂歌発す
歓楽極まりて哀情多し
少壮幾時ぞ、老いをいかんせん

――漢の武帝・劉徹「秋風の辞」


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匈奴帝国衰亡史

紀元前87年2月14日、漢帝国の武帝・劉徹は長安西郊の離宮で70年の生涯を終えた。
その治世は紀元前141年から紀元前87年まで54年間にわたった。
その長い歳月を通じて漢帝国は匈奴帝国の頚木を振り払い、東甌・閩越・南越・朝鮮を滅ぼし、西南の諸夷を従え、匈奴よりオルドスを奪還し、河西を奪い、はるかなるセリンディアまで版図を拡大した。

――地は東西九千三百二里、南北は万三千三百六十八里。
(『漢書』巻二八下「地理志下」)

――西域の内属せる諸国は東西六千余里、南北千余里。東は玉門・陽関に極まり、西は葱嶺に至り、その東北は匈奴・烏孫と相接す。
(『後漢書』巻八八「西域伝」)

――溥天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し。
(『毛詩』「小雅・北山」)


大陸の東方を流れる二つの大河、万里の長城から南海まで広がる地域を真の意味で統一したのは彼であった。
大陸の東方にあまた存在する国々が、やがて「東アジア文明圏」と呼ばれるひとつの「世界」になりゆく端緒を築いたのは彼であった。
泰山に封禅を行ない、史上初めて元号制を創始したのも彼である。彼の治世に生み出された諸制度は以後の中華帝国にさまざまなかたちで受け継がれていく。
後世の史家たちは武帝を評して「雄才大略」といい、その時代を評して「漢武盛世」という。

一方で漢帝国五千万の民は安寧を失い、黄河の氾濫は長きにわたって放置され、国家財政は危機に瀕した。晩年には宮廷に陰謀が渦巻き、数々の悲劇が生まれ、人心は安らかならず、帝国は深く疲弊した。
功罪ともに、かくも巨大な事績を残した帝王は世界の全歴史を通じてもごく僅かであろう。

前漢
(漢帝国の支配圏、ただし西域都護府管轄地域は着色されていない)

だが、この大いなる帝王がこの世を去った後も、彼が開始した戦争は終わりはしなかった。
匈奴はセリンディアの支配を立て直すため、王族に「日逐王」という称号を与えてオアシス地帯を監視させた。この称号はおそらく、西が太陽の沈む方角であることから来ているのだろう。
しかし単于王庭の努力にもかかわらず、匈奴国内では連年天災が相次ぎ、畜群の損害や漢との紛争もあって諸部族・諸王族の内紛も激化するばかりだった。

紀元前81年、匈奴帝国東部で東胡の末裔である烏桓(うがん)と呼ばれる部族が匈奴帝国からの独立を宣言し、漠北東部にあった歴代単于の陵墓を冒して祖先の恨みを晴らした。
漢はすかさずこれに介入し、匈奴と烏桓の双方に打撃を与えた。

紀元前72年には匈奴がセリンディアの車師(トルファン)王国と結んで烏孫を侵した。武帝が嫁がせた初代烏孫公主・細君の死後、二人目の烏孫公主となっていた解憂は夫と連名で漢に援軍を嘆願した。
それによれば匈奴は弩を連ね大兵をもって烏孫を攻撃し、公主解憂を差し出すように要求したという。匈奴も烏孫を漢から切り離すために必死だったのだろう。
初めは渋っていた漢も烏孫を自陣営に引き留めるため、久々に15万の大軍を西域に派遣した。漢の将軍・常恵は烏孫とともに匈奴右賢王の本拠地を襲撃し、3万9千の捕虜を得た。
匈奴帝国西半は、これで一挙に崩れた。
バイカル湖付近の半狩猟民族・テュルク(丁零)が匈奴帝国からの自立を宣言したのを機に、匈奴に従属する諸部族が次々に離反しはじめた。
烏桓が東から、烏孫が西から大攻勢を開始する。寒波と飢餓の被害もあり、この年だけで匈奴帝国の人口の三割と家畜の五割が失われたという。

紀元前60年秋、日逐王が新たに即位した単于との不和を理由に漢帝国に投降した。これをもってセリンディアは完全に匈奴帝国から失われた。
漢はタリム盆地北部のクチャ(亀茲)に「西域都護府」なる総督府を開設し、ここを西域統治の中心と定めた。
日逐王の投降とセリンディア失陥は、衰えゆく匈奴帝国への最後の痛撃になった。

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(烏桓族の戦士)

匈奴帝国東端を管轄していた姑夕王(こせきおう)は烏桓の攻撃によって多数の民を失った。
彼は時の単于、ブヤンフダン(握衍朐鞮単于; あくえんくていぜんう)に処罰されることを恐れ、イリチシュ・テングリクト・シャンユ(伊稚斜単于)の玄孫にあたるホハン(呼韓邪単于; こかんやぜんう)を新しい単于として擁立した。
ホハンは首尾よくブヤンフダンを討つことに成功するが、この政変を契機として匈奴帝国内に5人の単于が並立するという未曾有の混乱が生じる。

5年ほどの内乱を経て、匈奴帝国は東を抑えるホハン・テングリクト・シャンユ(呼韓邪単于)と、西を抑えるチシ・テングリクト・シャンユ(郅支単于; しつしぜんう)によって二分された。
すなわち匈奴帝国の東西分裂、「東匈奴」と「西匈奴」の成立である。

王昭君 Wang Zhaojun 第1集
(最初らへんが匈奴内乱)



紀元前54年、西匈奴のチシ単于は漠北中部の単于王庭を制圧した。
劣勢となったホハン単于は部衆を率いて南下し、漢帝国に帰順を申し出た。冒頓単于による匈奴帝国建国よりおよそ160年、ここに匈奴の半分が漢帝国の傘下に入ったのだった。
紀元前51年1月、ホハン、すなわち中華風に表記すれば呼韓邪単于は、長安西郊の甘泉宮にて漢帝国皇帝、宣帝に拝謁した。歴史的な事件であった。
漢は呼韓邪単于をすべての諸侯王よりも高位の貴人として扱い、最高級の待遇を与えた。宣帝は後宮最高の美姫すらも彼に下賜することを厭わなかった。すなわち、中国四大美人のひとりに数えられる王昭君である。
呼韓邪単于率いる東匈奴は漢帝国の後押しのもと長城以北の主権を認められ、漠南草原を拠点に再北進の態勢を整えた。

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呼韓邪単于の漢帝国帰順により、漠北の郅支単于は強大な漢を敵に回す立場に追い込まれた。さらに烏桓・丁零・烏孫も東匈奴と連携して郅支単于を攻撃する。
郅支単于は漢帝国に近いモンゴル高原から、比較的漢の影響が弱い西方に移動をはじめた。アルタイ山脈一帯に進出し、キルギス(堅昆)・テュルク(丁零)を従属させて北から烏孫に圧力をかけたのである。
烏孫は漢の支援を要請し、郅支単于は烏孫よりさらに西方のシル川流域に遊牧するカンクリ(康居)と結んだ。
西匈奴軍は漢帝国から少しでも遠ざかるために烏孫勢力圏の北部を迂回してカンクリの地に回り込もうとしたが、シベリアの激しい寒気のなかで大量の人馬が斃死した。

漢帝国は西域都護の甘延寿、副校尉の陳湯に兵を与え、タラス流域に西匈奴軍を追い込んだ。
はるか後に唐朝中華帝国とアッバース朝イスラーム帝国が会戦した地にも近い。ちょうどこのあたりが中華世界からの攻勢限界なのであろう。
郅支単于と西匈奴軍はタラス川を見下ろす小さな砦に拠って漢帝国の大軍を迎え撃ち、短くも苛烈な戦いの末に全軍玉砕した。こうして北アジアの大帝国としての匈奴国家は終焉したのである。


中枢の空虚

漢帝国は匈奴帝国よりは長く生き延びたが、同様に斜陽のなかにあった。

武帝の死後、帝位についたのは晩年に生まれた皇子、劉弗陵(りゅうふつりょう)だった。歴史上では「昭帝」と呼ばれる漢帝国第8代皇帝である。
昭帝・弗陵は即位時まだ8歳の幼さであり、武帝は彼が成人するまでの後見役として三人の側近を指名した。大司馬大将軍の霍光(かくこう)、車騎将軍の金日磾(きんじつてい)、そして左将軍の上官桀(じょうかんけつ)である。

このうち霍光は霍去病の異母弟で、金日磾はなんと匈奴王族の出身であった。
生涯にわたって匈奴帝国と対決した武帝が死にあたって匈奴の王族に我が子の行く末を託したというのは実に数奇ではあるが、漢と匈奴という二つの帝国が表面的な相違にも関わらず、実際には相互依存的な関係にあったことの例証ともいえる。

だが金日磾が紀元前86年に病死すると、残る霍光と上官桀のあいだに徐々に対立が生じる。
二人の争いは権力の争奪のみならず、国策、さらには政治思想の領域にまで及んだ。
すなわち、霍光は武帝即位以前のように民力休養を第一として消極主義を取るのに対し、上官桀は外廷(政府)の実権を握る財務長官・桑弘羊と結んで武帝以来の積極政策を推進したのである。

前者は徳治を重視する儒家官僚の支持を集め、後者は実利を重視する法家官僚の支持を集めた。
紀元前81年、霍光は全国から60名の学者を集め、真っ向から上官桀と桑弘羊の政策を批判した。とくに塩鉄専売の是非をめぐって激しい議論が展開され、その模様は『塩鉄論』として後世に残されている。

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(昭帝の時代に宮廷で展開された経済政策論争の記録)


翌年、上官桀と桑弘羊の陰謀が発覚した。霍光を暗殺し、昭帝を廃位して上官桀自身が帝位につくという不遜極まりない――不遜過ぎて何やら嘘くさい――陰謀である。
上官桀と桑弘羊およびその一族はことごとく誅殺された。それはまた儒家思想が漢帝国中枢において優位を確立する契機となった。
もっとも前年の論争の主題となった塩鉄専売は漢帝国末期まで存続する。もはや国家財政は専売なくして維持できなかった。

霍光は謹厳にして実直な人物だったが、いまや彼は事実上、大陸東方に君臨する漢帝国の最高権力者である。
昭帝は成人後も霍光を全面的に信任し、政治を彼に一任した。
史書はその権勢を、およそ国事は全て霍光が「関(あず)かり白(もう)す」と記している。後世、日本において天皇の代行のごとき地位とされた「関白」の語源である。

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(大司馬大将軍・霍光、小説もあります)


紀元前74年、昭帝はわずか21歳で崩御した。子は無かった。

次の皇帝として武帝の孫の昌邑王・劉賀(りゅうが)が擁立されたが、品行不行跡が甚だしく、宮廷の不評を買う。
劉賀は狩猟狂いで武帝の死の直後にも服喪せずに狩猟に耽り、帝位を継ぐべく長安に向かう車のなかで女と戯れ、喉の痛みを理由に先帝の霊前で哭泣することを拒否したという。
堪りかねた文武百官は高祖・劉邦の霊前で皇太后に新帝の言動を訴え出た。なお皇太后とは亡き昭帝の后で、霍光と上官傑の孫娘にあたり、まだ15歳であった。

15歳の少女は縷々上奏される内容のあまりの酷さに耳を蔽った。劉賀はその場で皇帝の印璽を取り上げられ、廃位が宣告された。霍光は泣き崩れた。
実際に劉賀の品行に問題があったのか、実力者である霍光にとって煙たい存在であったのかは分からない。いずれにせよ、あまりにも短い在位と廃位理由から、彼は漢帝国歴代皇帝のなかにカウントすらされていない。


劉賀の廃位後に帝位に据えられたのは意外な人物だった。武帝晩年の「巫蠱の禍」で非業の死を遂げた皇太子の遺児である。その名を劉病已(りゅうへいい)という。

皇太子の一族が捕えられたとき、病已はまだ生まれたばかりだった。
治獄使者(刑務官)として取り調べに当たった丙吉(へいきつ)という人物は、人としての哀憐を解する人柄であった。彼はゆえなき罪で殺される者たちをできる限り庇った。
大逆罪を犯したとされる皇太子の遺児とはいえ、彼に生後数か月の赤子の生命を絶つことはできなかった。
丙吉はひそかに病已を私邸で育て、やがてとある民間人に養育を託した。

青年となった病己は丙吉の陰ながらの支援を受けて学問を積む一方、賭博や闘鶏を好んで酒場に入り浸ったともいう。
ときには長安周辺を放浪し、しばしば漢帝国歴代皇帝陵を訪ね歩いたともいう。陵墓に眠る偉大な帝王たちが己の先祖であることを彼が知っていたのかどうか、それは定かでない。

そんな劉病已がようやく落ち着いて妻を迎え、長安の尚冠里でつつましい庶民としての生活をはじめた頃だった。ある日、盛大な車列が狭い街路に雪崩れ込み、粗末な彼の家の前で停止した。
呆気にとられる劉病已は妻子とともに未央宮に連行され、見たこともないほど立派な髭を生やした老人から印綬を与えられ、いきなり列侯に叙せられた。その老人こそが泣く子も黙る大司馬大将軍、霍光その人だった。

政治的背景が皆無の劉病已は、霍光にとって安心して擁立できる新帝だった。血筋も申し分ない。
まもなく彼は群臣の推戴を受けて漢帝国第9代皇帝として即位する。宣帝である。
霍光は宣帝がすでに娶っていた妻を抹殺し、自分の娘を皇后に押し込んだ。これで安心したのか、紀元前69年に霍光はこの世を去る。


それまで霍光に唯々諾々と従っていた宣帝は、人が変わったように積極的な動きをはじめた。親政を開始し、外戚として横暴を極める霍一族の権限を次々に奪い、実権回復に努めたのである。
危機を感じた霍一族はクーデターを計画するが、これを事前に察知した宣帝によって一挙に粛清された。

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(漢帝国第9代皇帝、宣帝)

民間で育った宣帝は庶民の利害をよく理解し、減税と行政の効率化、信賞必罰の励行に務めた。武帝の時代から政府専売品となっていた塩の値段を大幅に値下げしたことも特筆される。
彼が好んだのは現実主義を原則とする法家の理論だった。当時流行の兆しを見せていた儒家思想は、庶民の辛酸を知る宣帝にとって理想主義的に過ぎ、空理空論としか思えなかった。
だが一方で、宣帝が重視する撫民政策はまさに儒家的政治論そのものであり、宣帝の時代を通じて、徐々に儒家思想が世を風靡していく。

宣帝の皇太子、劉奭(りゅうせき)も儒家思想に傾倒した。
儒家思想は何事についても理屈と形式を重視する。皇太子は事あるごとに儒家的な論理を持ち出して父を批判した。
宣帝と皇太子は事あるごとに対立した。

「漢では法家と儒家を合わせ用いて天下を統治してきた。そなたのように儒家一辺倒では国家は立ち行かぬ。孔子がいうように周代の遺制を現代に復活しろというのか? そなたの言動は我が家を乱す!」

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(こんな字、読めんやろ……)


宣帝は劉奭の廃嫡すら考えたという。だが果断な宣帝も、どうしてもそこまで思い切ることができなかった。
劉奭の生母は、宣帝がまだ一介の庶人で会った頃に妻とした「許平君」という少女だった。
ささやかな市井の暮らしのなかで、若い二人はありふれた恋をして、ありふれた愛で結ばれた。今となっては幻のような日々だった。けれど、皇帝の心のなかで、遠いその歳月ほどに大切な記憶は他にない。

宣帝が宮廷に迎えられたあと、霍光が自分の娘を宣帝の皇后候補として押し付けた。そして皇后となった許平君が二人目の子を身ごもったとき、外戚としての立場を得ようと焦る霍一族は許平君を毒殺したのである。

 「我頭岑岑也、薬中得無有毒?」(頭がじんじんする。まさか毒でも入っているの?)
 「無有」(そんなわけはございません)


侍医どもはよくもしゃあしゃあと受け答えしたものよ。思い起こせば遣り場のない自責と怨念が今なお心を燃やす。
顔面蒼白となって駆けつけた霍光自身が陰謀に関わっていたかはわからない。
無力な若い皇帝は最愛の女の亡骸を前に立ち尽くすことしかできなかった。そのとき、皇帝は何時の日か必ずや霍一族を粛清し、この恨みに報いることを誓ったのである。
そして許平君が残した唯一の息子を、何を措いても守り抜くことを。

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(宣帝と許平君を主題にしたコメディー漫画まで存在する日本サブカルの驚異)


紀元前49年。
宣帝が崩御し、皇太子の劉奭が帝位に上った。漢帝国第10代皇帝、元帝である。
すでに東匈奴の呼韓邪単于が漢に帰順し、西匈奴の郅支単于は遠く西域に逃れている。帝国は宣帝の中興を経て大戦の疲弊から徐々に立ち直り、南方や西方の新領土開発が軌道に乗りはじめていた。

漢帝国を脅かすものなど、もはやどこにも見当たらない。儒家思想に傾倒する元帝は、さっそく多くの儒家を登用して多種多様な政治改革に着手した。
減税、宮廷支出の節減、軍縮によって民の負担を軽減し、専売制も一時停止に踏み切る。そんな元帝の施政を支えたのは、彼の后の王皇后(王政君)一族だった。
宣帝が生きていれば危ぶんだことだろう。外戚霍氏の専横をようやく排除したかと思えば、わずか一世代後には王氏という新しい外戚が台頭しつつあるのだった。

母仪天下第1集
(王皇后を中心に前漢後期の宮廷を描く大河ドラマ)



内外の平和のなかで国論の主題となったのは儒家思想に沿った国家儀礼の見直しだった。たとえば過去の歴代皇帝を祀る霊廟の扱いである。
従来、漢帝国では全国各地に「郡国廟」と呼ばれる歴代皇帝廟が建立されていた。
だが、儒家の主張によれば祖霊の祭祀はあくまでも血を分けた子孫によって行われるべきであり、親族でもない者が祖霊を祀ることは諂いであり、礼に反するという。
元帝は儒家官僚らの上奏を受けて郡国廟を廃止した。過去の皇帝たちに対して素朴な信仰を抱いていた全国の民衆は戸惑ったが、宮廷はそのあたりには鈍感だった。

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(天子七廟の概念)

宮中に残された皇帝廟(太廟)の内容も問題となった。上古の遺制では天子の廟所には七代の先祖を祀るとされており(天子七廟)、第10代皇帝たる元帝としては先帝たちの幾人かを太廟から排除する必要があったのである。
全宮廷の激論を経て、最終的に高祖・劉邦の父と恵帝の位牌が太廟から撤去された。
その後、元帝は毎晩のように郡国廟の廃止を祖宗に咎められる夢を見て動揺し、せめてもの罪滅ぼしにと高祖の父と恵帝の位牌を太廟に復帰させる。
七廟の原則はなし崩しになり、さらなる論争が宮廷を混乱に巻き込んでいった。


紀元前33年、元帝が崩御し、元帝と王皇后の子である劉驁(りゅうごう)が漢帝国第11代皇帝として即位する。死後の諡号は「成帝」である。
成帝は苦労人の祖父とも理想主義者の父とも違い、人が良いだけの遊び人だった。

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(趙飛燕)

成帝は日夜長安の町に忍び出て遊郭に入りびたり、そこで出会った「趙飛燕」という出自も定かでない芸妓に惚れ込んだ。
彼女は大変身が軽く、成帝が差し出した手のひらの上で舞うことができたと伝えられている。
紀元前18年、成帝は全宮廷の反対を押し切り、彼女を強引に皇后とした。

成帝は趙飛燕ばかりか彼女の妹にも手を出し、二人を代わる代わる、ときには同時に寵愛した。儒家の倫理からすれば「禽獣の行い」という類であって、諸侯王以下が同じことをすれば人倫悖壊をもって誅戮されてもおかしくない。
内廷(後宮)の秩序は破綻した。外廷(政府)では後宮に引きこもった皇帝に代わり、皇太后・王氏の一族が軍政全権を掌握する。

この時期になると流行に乗って、始皇帝の焚書を免れたと称する古文書や予言書が次々に世に出回りはじめた。
儀礼や祭祀のみならず、予言の解釈や占術を巡る議論が朝政の中心となる。漢帝国は糸が切れた風船のように定かな方針を失った。
いまや帝国の中枢は空虚である。知らず知らずのうちに漢帝国の終焉は目前に迫っていた。

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(前々からこの回で『史記』を出そうと思っていたけど、蓋を開けてみたら司馬遷は一瞬しか登場しなかった)


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