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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史18 改革者の孤独

半島と列島

紀元前2世紀後半、大匈奴戦争はユーラシア東方に巨大な波紋を巻き起こした。
漢と匈奴が長い闘争の果てに疲れ果てて衰亡を迎える頃、周縁で新たな諸勢力が続々と台頭しはじめた。たとえば万里の長城を遠く離れた遼河の東、朝鮮半島である。

紀元前108年に衛氏朝鮮(ウィシジョソン)を征服した漢帝国は、この地に「朝鮮四郡」を設置した。しかし漢の支配は当初から安定せず、現地住民の反乱が絶え間なく続いた。
武帝劉徹の死後、漢は真っ先にこの僻遠の地から手を引きはじめる。真番、臨屯、そして玄菟郡の東部と北部が次々に放棄され、官人と駐屯軍は半島西北の楽浪郡へ撤退していった。
その空隙を埋めるように、ささやかな王国が誕生する。

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(高句麗王国の伝説的な始祖、チュモン)

久しい以前から遼河北方の巨大な密林の奥深く、扶余(プヨ)と呼ばれる部族連合が存在していた。その起源は定かでない。
紀元前1世紀半ば、扶余に高朱蒙(コチュモン)という英傑が現われた。神の血を引く勇者であった。
朱蒙は百発百中の弓の達人だった。その腕前に惚れ込んだ扶余の王(大族長?)は朱蒙を養子とした。しかし扶余の人々は朱蒙を妬み謗った。
それを嫌った朱蒙は旧玄菟郡北部の卒本(チョルボン)に出奔。ここで「貊(はく)族」と呼ばれる人々を糾合し、「高句麗(コグリョ)」という王国を築き上げた。

紀元前6年、高句麗王国は扶余連合への人質供出を拒絶した。扶余軍は高句麗懲罰のために南進する。しかし高句麗の人々は勇猛で、朱蒙の子や孫たちは名将揃いだった。
連戦連敗した扶余連合は高句麗王国の独立を既成事実として認めざるを得なくなる。この国が中華世界の史書に姿を現す日も近い。


高句麗の南には「韓(ハン)」と総称される無数の部族が割拠していた。国家といえるほどの集団は生まれていなかったものの、いくつもの広域部族連合が成立しつつあった。
韓の族長たちはしばしば楽浪郡に姿を見せ、貢納と引き換えにさまざまな文物を手にしたという。


半島が尽きるといくつかの島嶼を経て、東西に長く連なる列島に到達する。
数世紀後の記録によれば、この列島は「豊葦原中津国(トヨアシハラノナカツクニ)」と呼ばれていたことになっている。
この時代にその呼び名が成立していたかどうかは疑わしいが、とりあえずそういうことにしておく。

豊葦原中津国は水と緑に恵まれ、太古の世から神霊を崇める森の民が暮らしていた。かれらは四万年近く前、現生人類のなかで大陸極東に初めて足を踏み入れた人々の血を色濃く引いていた。
しかし大陸の戦乱が激化するにつれて、次第に海の彼方から列島に逃れ来る人々が増えた。彼らは鉄と稲作の技術を携え、およそ千年をかけて列島の姿を大きく変貌させていった。
農耕をはじめた人々は土地と水利をめぐって争った。土地に縛られる生き方を選んだ人々は、戦いに敗れても森に逃れることができず、勝者に服従してその傘下に入った。

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(吉野ケ里遺跡)

神話の霧のなかにおぼろげな歴史が浮かび上がる。
何世紀ものゆるやかな変動のなかで、列島西部に「イズモ」や「キビ」といった部族連合が生まれてくる。
やがて「イズモ」の地に海の彼方から「スサノオ」という武人が到来し、王女「クシナダ」を娶り、製鉄と治水の技術を梃子に原初の国家を築き上げる。
スサノオの子孫のオオクニは列島北岸を東進し、「コシ」の女王「ヌナカワ」と出会って翡翠と黒曜石の交易を掌握した。
列島西端の「ツクシ」では巨大な集落が続々と出現した。その筆頭は「ナ王国」と「イト王国」。競い合う両国は相手国に対して決定的な優位を得る手段を、今しばらく模索することになろう。

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(これを強引に解釈する)



王莽の登場

一方、中華の地では漢帝国の第一王朝、のちに「前漢」と呼ばれる時代が終焉を迎えようとしている。

中華世界には「外戚」と呼ばれる集団がいる。すなわち、皇帝の妃妾の一族である。彼らは尊貴な身分を利用して権勢を貪った。
とりわけ統治の意志と能力を持たない惰弱な皇帝が登場すると、彼ら外戚が国政を壟断するのが常だった。
いま、漢帝国第11代皇帝、成帝の治世において帝国の実権を掌握するのは皇太后・王政君とその一族。すなわち王氏である。

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(若い頃の王政君)

王氏の遠祖は戦国時代に斉王国を支配した「田氏」と伝えられる。
王国が滅び去った後、斉の人々は秦漢帝国を憚って田氏の末裔を「王氏」と呼び替えた。
その王氏のひとり、「王禁」という人物が、漢の宣帝の時代に平凡な中級官僚として長安で暮らしていた。

あるとき王禁の妻が、月が胎内に飛び込む夢を見た。9カ月後に娘が生まれると、産室は馥郁たる花の香りで満ちた。人相見がこの娘を見て、いずれ尊貴な身分にのぼるであろうと告げた。
当時の人々は神秘に敏感だった。「政君」と名付けた娘が18歳を迎えると、王禁は伝手をたどって彼女を宮廷の女官として奉公させた。紀元前54年のことだった。

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(月は太陰とも呼ばれ、女性的な力の象徴だった)


その頃、のちに元帝となる皇太子の劉奭(りゅうせき)は、司馬良娣(しばりょうてい)という美しい少女を熱愛していた。ところがある日、彼女が急死してしまい、皇太子は気鬱の病となった。
宣帝は事態を憂慮し、新たな妃妾を皇太子に与えるために美しい少女たちを呼び出した。
好みの娘を選ぶことを命じられた皇太子は、投げやりに手近の少女を指名した。それが王政君だった。
愛も情もなく、わずか一夜で王政君は未来の皇帝を懐妊した。それがのちの成帝、劉驁(りゅうごう)である。

紀元前33年、成帝が即位した。王政君は37歳にして皇太后となった。
若き皇帝が遊蕩に耽るなか、王氏一族は皇太后の兄である大司馬大将軍・王鳳を筆頭に幾人もの将軍や列侯を輩出し、権勢を極めることになる。
だが、そんな王氏の片隅で、とある若者が孤独と貧困のうちに青年時代を過ごしていた。彼の名を「王莽(おうもう)」という。王政君の異母弟、王曼の子である。
王曼は王氏に繁栄が訪れるより早く、流行り病で世を去った。王氏一族はこの不運な人物とその遺児を早々に忘れ去った。

彼の心の奥底には栄華を誇る同族たちへの恨みと憤りが燃えていた。
だが周囲の人々はそれに気づかず、王莽を礼儀正しく温厚な若者と思い込んだ。王莽自身も自分をそうした人柄として捉えていた。
呪詛と怨恨を無意識下に封じ込めて、王莽は黙々と古書に読みふけった。彼は儒教を好んだ。古代の聖なる秩序と世界のあるべき姿を記す数々の古書は、彼の心に深い安らぎをもたらしてくれた。

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(王莽)

当時、儒教は中華世界を風靡していた。
その淵源は春秋時代末期の魯国に現われた政治思想家、孔丘(孔子)の教えにある。

孔子は同時代の乱れた世を嘆き、乱世がはじまるよりも前、西周時代に存在したはずの聖なる秩序と礼制を蘇らせることを生涯の目標とした。
西周初期、周王朝の儀礼と諸制度を定めた周公旦(しゅうこうたん)を、彼は夜ごと夢に見るほど思慕していた。
孔子の理想が実現することはついになかったが、彼は教育者として偉大な才を持っていた。彼の死後、弟子たちは各地に彼の言説を伝え広め、「儒家」と呼ばれる思想集団を形成した。

(参考:中華世界の歴史6 周王南巡


儒家の思想にはひとつの特徴があった。歴史を重んじることである。

儒家は『春秋』と呼ばれる年代記を聖なる経典として尊崇した。彼らは孔子自身がこの年代記を著述したと信じていた。
『春秋』の文体は簡潔極まりない。なにしろ孔子の時代には竹簡しかなかったのだ。文字は必要最低限に切り詰められるのが必然だった。
しかし儒家たちはその必然を必然と見なさず、そこに孔子の意志を読み取った。
かの偉大な賢者は『春秋』を著述しつつ、用語や文体を微妙に使い分けることで諸々の歴史事実に道徳的な評価を行い、人間の行為や社会の善悪を暗示したのだと。
『春秋』を解釈するために多様な注釈書が作成された。それらの注釈書は繰り返し改訂された。そこに、その時々の改訂者による曲筆が入り込む余地が生まれた。

漢の武帝の世に董仲舒(とうちゅうじょ)という碩学が出現し、「天人相関説」という学説を唱えた。
これによれば人間は宇宙の縮図であり、地上は天の反映である。そして地上の支配者たる天子(皇帝)は、宇宙を主宰する天帝の代理であるという。
武帝はこの学説を非常に気に入り、以後、儒学は帝国の歴代政権と密接に関わり合うことになった。

権力に接近した儒学者たちは、『春秋』の注釈書を改訂する際に、しばしば同時代の政権に好都合な解釈を紛れ込ませた。
たとえば大匈奴戦争前夜に現われた『春秋公羊伝』は強烈な攘夷思想を示し、呼韓邪単于の帰順と同時に現われた『春秋穀梁伝』は皇帝が華夷を混一する大同世界を称揚する。
こうして儒学思想は帝国と不即不離の関係を築き上げていく。
元帝の時代になると、儒学に基づく国家儀礼の再編が枢要な政治課題となった。文筆と権力の相互依存はますます深化し、「緯書(いしょ)」と呼ばれる書物が次々に出現した。
それらは儒学の正典たる「経書(けいしょ)」の奥義を説き明かすと称し、神秘的な暗示や予言を随所に散りばめていた。
孔子は挫折した政治思想家から神のごとき存在へ、そして「儒学」という倫理思想は「儒教」という宗教へと変貌しつつある。王莽はそんな時代に生きていた。

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(儒教成立史について本格的に知りたい場合は、これに物凄く詳しく書いてあります)


王莽が学んだ儒教は、本質的に実践倫理の学であった。
孔子をはじめ儒家の思想家たちは人々が道徳と礼譲を守ることにより、やがては世界全体に秩序と安寧がもたらされると主張した。その第一歩とされたのは、最も身近な他人である父母への孝であった。
だが、王莽にはすでに父母がいなかった。儒教を机上の理論から先に学んだ王莽は、実践の機会を渇望していた。

紀元前22年、王莽の伯父にあたる大司馬大将軍・王鳳が病に倒れて再起不能となった。権勢に奢る王氏の人々が元権力者を見限るなか、24歳の王莽は伯父の枕頭に侍って献身的に看病した。
彼は薬湯を毒見し、髪を結わず顔を洗わず、衣帯を何ヶ月も解かなかったという。儒教が理想とする「君子」の姿そのものだった。
王鳳は皇帝と皇太后に、王莽を引き立てて欲しいと言い残した。この言葉が、王莽の人生を劇的に変えることになる。
皇帝と皇太后の知遇を得た王莽は、これまでの遅れを取り戻すように猛烈なスピードで位階の階梯を駆け上っていった。
紀元前16年には河南の南陽郡に領地を与えられ、「新都侯」に封じられる。30歳にして王莽は列侯となった。

しかし、王莽はむかしと同じように粗衣をまとって清貧に甘んじ、甥を引き取って我が子のごとく養育した。
休日には車騎を連ねて太学(≒国立大学)に向かい、羊と酒を携えて甥が師事する博士をねぎらった。余慶は甥の同窓の学生たちにも及んだ。その光景は長安の名物となり、見物人が鈴なりとなった。
王莽は今更ながら世俗の実相を理解しはじめた。どうやらこの世界では、儒教が人倫の基本とする「礼」や「仁義」を本気で実践する者などほとんどいないらしい。
当たり前の生活を続けるだけで都中の注目と称賛が自分に集まるとは一体どういうことなのか。義憤のなかで彼は決意を固めていった。

称賛や名声は、威信と権力の源になる。その権力を使って腐乱したこの世界を粛正せねばならぬ。
不正を許さず、古代の規範から逸脱した制度も儀礼も事物も概念も、すべてを改め正し、万人に「礼」を実践させ、聖なる天子のもとで太古の秩序を蘇らせよう。孔子が夢見た理想を今度こそ地上に実現するのだ。
それこそが我が天命である。
いまも心を燃やす怒りと怨念を、王莽はなおも自覚していない。


空虚に乗じる者

その頃、成帝は芸妓出身の趙飛燕趙合徳の姉妹に溺れ、政治を完全に放棄していた。
王氏一族は専横を極め、帝都長安の城壁を崩して自邸の庭に川の水を引き込んだり、皇帝の御座所と瓜二つの邸宅を造営する者まで出る始末だった。

そんななか、ひそかな醜聞の噂が流れた。皇太后・王政君の甥である淳于長(じゅんうちょう)という男が、趙飛燕の入内にともなって廃位された前皇后の姉と密通し、さらには前皇后を復位させると偽って多額の賄賂を貪っているという。
紀元前8年、王氏唯一の正義派である王莽が、敢然と従兄弟の淳于長を告発した。
淳于長は大逆罪によって処刑され、王莽は大司馬に任じられた。これは軍事全権の最高責任者で、漢帝国においては「三公」と呼ばれるもっとも高位の官職のひとつであった。王莽は王氏の頂点に立った。

ところが翌年3月に政治状況が急変した。成帝が崩御したのである。
巷間囁かれた噂によれば、趙飛燕の妹の趙合徳と同衾しているさなかに強精剤の飲み過ぎで急死し、取り調べられた趙合徳は「帝王を股間に弄す、女子の本懐これに過ぎたるものはなし!」と嘯いて自殺したという。
まったくどうしようもない退廃だった。

とはいえ王莽をはじめとする王氏一族にとって成帝の死因などどうでもよい。
それより、成帝の死によって外戚としての立場を失った王氏の行く末こそが問題だった。

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(成帝と趙飛燕・趙合徳の関係を主題とした古典小説『飛燕外伝』)

成帝には子がなく、甥の定陶王・劉欣が新帝として即位した。哀帝である。
哀帝は有能である……かに見えた。
祖父の宣帝に似て法律を好み、統治への意欲に溢れていた。当然、政治を壟断してきた外戚王氏など真っ先に排除するつもりだった。最初の標的は、王氏の中心となった大司馬・王莽である。
両者の緊張が高まるなか、対決の機は意外と早く訪れた。宴席で成帝の母の傅太后(ふたいこう)が「太皇太后」となった王政君の隣に座ったのを見て、王莽が激しく論詰したのである。

「傅太后は皇帝の后にあらず、定陶王家の前王の后であろう。すなわち藩妾である。なにゆえ藩妾が先々皇帝の后と同席するか!」
「は、藩妾とはなんじゃ! 無礼な!!」

傅太后は激怒して退席した。哀帝も心中穏やかでない。王莽は「君臣の序」という儒教の論理を振りかざし、皇帝の権威を冒したのである。
王莽は大司馬の職を辞し、封国である河南の新野に下野した。事実上の罷免であり、中央政界からの失脚であった。


王莽と王氏を排除した哀帝は、はじめは意気揚々と親政に取り組んだ。だが、ほどなく彼もまたとある人物を寵愛し、政治から遠ざかることになる。
だが、こんどは妖気漂う美女ではなく、美少年であった。
哀帝が愛したのは董賢(とうけん)という少年だった。ふたりは常にともに過ごし、夜は同じ寝床で眠った。
あるとき哀帝が目覚めると、共寝していた董賢の頭が袖の上にある。哀帝は董賢を起こさないように、そっと袖を切って起き上がったという。このことから、後の世にこの種の関係を「断袖の交わり」と称することになる。

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(断袖の交わり)

紀元前5年頃、天地の周期が終末に近づき、漢の天命が尽きつつあるという噂が広まった。まさに「世紀末」である。
紀元前2年の1月1日には皆既日食が発生した。天下の人心は動揺の極みに達し、世界を救済する指導者を待望する声が澎湃と沸き起こる。
そして誰ともなく、ひとつの名が口から口へと交わされはじめる。

「新都侯、王莽!」

一時は名君の登場を予感させた哀帝が男色に溺れて先帝の轍を踏みつつあるなかで、正論を吐いて失脚した王莽への同情が広がっていた。
儒教を信じること厚く、常に身を修め礼を貫くかの義人であれば、必ずや世を正し民を救ってくれるであろう……。
折しも1月17日、王莽をもっとも敵視していた帝母の傅太后がにわかに死去した。一方、王氏の後ろ盾である太皇太后の王政君はなお健在である。
いまやパワーバランスは変化した。3年余りの雌伏を経て、王莽は長安に帰還した。

政界に再登場した王莽の人格は微妙に変化していた。
雌伏の歳月のあいだ、彼は謹慎一途に徹して古代の書物を読み漁った。堯舜や周公旦が定めた礼制への信仰はいよいよ確固たるものとなった。
そんななか、彼の次男が奴婢を撲殺する事件が起こった。王莽は顔色も変えず我が子に自殺を命じた。
仁義の道は真理であり、真理の前には肉親の情など何の意味も持たない。王莽の心の底にわだかまる闇と怨念が妄執と独善の形をとって、徐々に表層へと浮上しつつあった。

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(王莽を主人公とする小説)


紀元前1年6月、哀帝が26歳の若さで崩御した。単なる病死だったのか、先帝と同じように強精剤の中毒でも起こしたのかは定かでない。
ともあれ、皇帝臨終の場に居合わせた董賢は周章狼狽するばかりで、太皇太后が葬儀の次第について下問しても何ひとつ答えらえない有様だった。
大葬の指揮を命じられた王莽は、まず先帝の看病を尽くさなかったことを理由に董賢を弾劾し、即日自裁を命じた。
深夜、董賢の棺が運び込まれると、王莽は棺を暴いて自ら死体を検分したという。
冷酷と猜疑。王莽の人格はさらに変貌しつつある。

董一族から没収した財産は四十三億銭に及んだ。
王莽は大司馬に返り咲き、元帝の孫の中山王・劉衎(りゅうかん)を迎えて皇帝とする。諡号は平帝、わずか9歳の幼い皇帝であった。当然ながら親政はとられず、太皇太后の王政君と王莽が全権を掌握する。
新たな外戚の登場を警戒した王莽は、平帝の母の中山衛姫とその一族を頑として長安に入れず、平帝が日夜母を恋しがって泣いても耳を貸そうとしなかった。
さらに、哀帝の時代の外戚であった傅一族を次々と粛清し、前年に死んだ傅太后の陵墓を暴いて、その亡骸を定陶国に送還した。王莽はあくまでも傅太后を「藩妾」として扱ったのである。


――そして紀元前が終わり、紀元後がはじまる。
はるか西方のユダヤの地で神の子が生を受け、アウグストゥスが帝政ローマの礎を築く。


紀元後1年1月、漢帝国の南の果てから白雉(はくち)と呼ばれる聖鳥が献上された。王莽が座右の書としている『尚書大伝』によれば、周公旦の時代にも同じ出来事があったという。
聖者の出現を天が嘉する瑞祥であった。
王莽は周公旦に匹敵する宗教的権威を帯びた。文武百官の建議により、王莽には「安漢公」の称号が与えられた。王莽は四度辞退してこれを受け入れた。すべては王莽の画策と計算の結果であった。


聖者の国

臣伏して惟ふに、陛下至聖の德を以て龍興登庸し、欽明にして古を尚び、民の父母と作り、天下の主と為れり……。
大新の命を受くるに逮び、上帝還資し、后土顧み懷く。玄符靈契、黄瑞涌出す……。
是を以て祕府を發き、書林を覽て、遙かに文雅の囿に集ひ、禮樂の場に翱翔し、殷周の失業を胤ぎ、唐虞の絶風を紹ぐ。
懿律嘉量、金科玉條、神卦靈兆、古文を畢發し、煥炳照曜せり……。

(楊雄「劇秦美新」)



いまや漢帝国の実質的な最高権力者となった安漢公・王莽は当代随一の儒学者、劉歆(りゅうきん)をブレーンとして、いよいよ礼楽制度の全面的な改革に着手する。
まずは哀帝の時代に廃止された「郊祀(こうし)」、すなわち帝都の南北で皇帝が春と秋に天地を祭る儀礼を復活させ、四季ごとに風雨寒暑の順調を祈願する「四時迎気(しじげいき)」を制定。さらに天を祭る「辟擁(へきよう)」を建設する。
ここにおいて、秦の始皇帝が世界支配者の称号として定めた「皇帝」なるものは、太古の世から受け継がれた聖なる君主の称号、「天子」と同一の存在になった。
後世、これらの儀礼は「元始中の故事」と呼ばれ、中華世界における帝国と皇帝の範例となる。いわゆる「古典的国制の確立」である。

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(王莽が創始した皇帝祭祀は様々な改変を受けつつ、清代まで継承された)

王莽の政治姿勢は落伍者を生みはじめた。王莽の長子である王宇もその一人だった。
彼は父が平帝の生母、中山衛姫の上京を禁じていることに批判的だった。いずれ平帝が成人して実権を握れば、この非情な振舞は必ずや王氏弾劾の材料とされるだろう。その頃に王氏の家長になっているのは自分である。たまったものではない。
王宇は迷信深い王莽に圧力をかけるため、邸の門に血を塗らせようとした。ところがこの計画が発覚、王宇は獄に下され、父自身によって毒殺された。
もはや王莽は、平帝に政権を奉還するつもりなどなかった。

紀元後4年、王莽は14歳の平帝に娘を嫁がせて外戚としての立場を強化した。
安漢公・王莽には新たに「宰衡」なる称号が加えられ、「九錫(きゅうしゃく)」の栄誉を授けられた。
九錫というのは皇帝と同じ車馬や衣服、楽器などの使用許可である。これは要するに、皇帝としての儀礼や儀式の代行権を意味する。
周公旦のように礼楽制度を改正した王莽には、摂政として周王を補佐した周公旦と同様の栄誉が相応しいという理屈だった。
王莽の権威は過去歴代の外戚たちをはるかに凌駕した。いまや彼はほとんど副皇帝だった。

そして翌年。
平帝がわずか15歳でにわかに崩御する。成人と親政を前にした突然の死であった。

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(王莽はラーメンの原型のような料理に毒を盛って平帝を暗殺したという説がある)


次期皇帝選出のさなか、またしても奇瑞が演出された。「告安漢公莽為皇帝」という文字が刻まれた白石が出現したのである。

「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ!」

王莽は狼狽し、顔色を変えて固辞して見せた。いかにも見え透いた芝居だった。
辞退と推戴が繰り返され、幾度目かに王莽は皇帝即位を受諾するであろう。だが、ここで思いもよらぬ妨害が入った。これまで常に王莽と手を結んできた太皇太后、王政君である。
彼女は一族を守り支えようとはしてきたが、それはあくまで漢朝劉氏の天下を前提としていた。王氏が劉氏の天下を奪うことは、王政君の容認限界を超えていた。
太皇太后は厳として述べた。「為皇帝」とは「皇帝と為れ」ではなく、「皇帝の為にせよ」であり、天は王莽に摂政として皇帝を支えることを命じているのだと。
王莽は愕然とした。彼にとって、伯母のこの態度は思いもよらぬ裏切りと感じられた。

3月、宣帝の玄孫である劉嬰が帝位に迎えられた。
前漢帝国最後の皇帝である劉嬰に諡号はなく、歴史上では、ただ「孺子嬰(じゅしえい)」と呼ばれる。それは奇しくも秦の最後の君主とまったく同じ呼び名となる。
王莽は「摂皇帝」と称した。人々は彼を「仮皇帝」と呼んだ。仮皇帝から「真皇帝」への改名は、すでに秒読み段階に入っている。
長い安寧の歳月を経て弛み切った天下は、ここでようやく揺れた。

後7年9月、劉氏諸侯が東方で蜂起した。打倒王莽を呼号する軍勢は10万に達した。彼らは王莽が平帝を毒殺したと喧伝し、これまで王莽を聖者と信じ切っていた人々のあいだに「摂皇帝」への疑惑が広がった。
王莽は宮廷の権謀だけでここまで上ってきた。彼は戦いを知らない。戦略も戦術も王莽の人生にはまったく無縁だった。彼は恐れおののいた。
手に入る限りの軍隊を東へ送ると、今度は西方で再び10万の反王莽軍が挙兵した。長安の城楼からも西の地平を焦がす兵火が望まれた。王莽は幼い皇帝、孺子嬰を抱いて未央宮の楼閣に登り、蒼白な面持ちで地平線を見つめ続けた。
翌年2月、東方の蜂起を鎮定した王莽の軍勢が西へ転じ、西方の蜂起を鎮圧した。王莽は確信した。これは天命である。天は自分を嘉し、「真皇帝」の位につくことを命じているのだと。

無題
(符命のイメージ)

各地から続々と瑞祥が奏上され、「符命」が献上された。符命とは天の命令が書き記された札や紙巻のことである。
11月には未央宮の前殿に忽然と「銅符」と「帛図」が出現した。
そして12月23日の夕暮れ、哀章という男が高祖劉邦廟の衛兵に、銅櫃に収められた竹簡の束を恭しく奉呈する。そこには「王莽は真天子為れ、皇太后は命の如くせよ」と記されていた。
櫃に収められていた別の竹簡には王莽を補佐すべき大臣11人が指名されており、そのなかにはまったく無名だった哀章自身の名もあった。つまり、この符命の出現は王莽がまったく与り知らないものだった。
王莽の決意と確信を固めさせたのがこの事件だった。

「臣莽、天帝に迫られて天子たるの命を受けざるを得ず! 哀しみ極まり慟哭して陛下に申し上げます」

12月25日、王莽は滂沱と涙を流しながら、ついに高祖廟前で帝位についた。
漢帝国はここに終焉し、新たなる王朝がはじまる。新都侯・王莽の帝国は、歴史上で「新王朝」と呼ばれることになる。
伝国の玉璽を引き渡すように迫られた王政君は、王莽を激しく罵った。

「汝の眷属、父子宗族は漢家の恩をもって代々富貴となれたのに、かくのごとき所業に及ぶとは犬豚にも劣る! 天下に汝の如く卑劣なる者はおらぬ! 自ら金櫃符命を作って新皇帝となり、暦や服制を変えようというなら、玉璽も自分で作ればよかろう!」

80歳の老女は玉璽を床に叩きつけた。
端が砕けた玉璽を手にした王莽は宴会を開き、群臣と大いに喜びを共にしたという。


天下沸騰

子路が曰く、衛の君、子を待ちて政を爲さば、子將に奚をか先にせん。
子曰く、必ずや名を正さんか。子路が曰く、是れ有るかな、子の迂なるや。奚ぞ其れ正さん。
子曰く、野なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いては蓋闕如たり。
名正しからざれば則ち言順わず。 言順わざれば則ち事成らず。事成らざれば則ち禮樂興らず。禮樂興らざれば則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば則ち民は手足を措く所なし。

(『論語』)


帝位についた王莽が真っ先に着手したのは官職や地名の改変だった。その背後には「正名思想」がある。礼制復興のためには物事の名を正しく、古代に定められた規範通りに戻さなければならないというのだ。
帝都長安は「常安」と改名され、郡県はことごとく名を改められた。貨幣や度量衡、土地制度なども王莽と顧問団の古典研究を踏まえて片っ端から改変された。二字名は古礼にもとるとして、人名はすべて一字に変えさせられた。
行政や流通は大混乱したが、王莽はまったく意に介さなかった。すべては真理のため、理想国家建設のためである。
そんななか、最初に破綻したのは対外関係だった。

「――天に二日無く、地に二王無し。これは百王不変の道なり……」

紀元後9年、王莽は使者を東西南北に派遣し、従来漢帝国に服属を誓っていた周辺諸国に王莽の皇帝即位と「新帝国」の成立を宣布し、あわせて漢が下賜していた印璽から新の印璽への差し替えを行なった。
このとき、王莽は「天下に王は唯一である」という原則に基づき、これまで王号を認められていた諸国の君主の称号を「公」に引き下げ、「公」を「侯」に、「侯」を「伯」へと引き下げたのである。
当然ながら周辺諸国の支配者たちは激怒した。
これは単なる名分の問題ではない。漢の武帝の時代以来、大陸東方の小国群は漢帝国皇帝による自国支配権の公認を権威の支えとしていたのだ。

西南と東北は全面的な反乱状態に陥った。セリンディア諸国はすべて離反した。
匈奴(=東匈奴)の烏珠留若鞮単于(うしゅるじゃくていぜんう)は、王莽から新たに下賜された印璽が従来の「匈奴単于璽」から「新匈奴単于章」に勝手に変えられていることに気付いて古い印璽を要求したが、以前の印璽は粉々に砕かれていた。
単于は怒り、翌年から連年、新帝国北辺への侵攻を開始した。せっかく宣帝の時代に実現した匈奴との和解も、これで水の泡である。

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(漢が周辺諸国に与えた印璽の一例、雲南滇王の印)

王莽は烏桓を煽って匈奴東部を攻撃させ、単于の息子たちを新単于に任命して内紛を誘い、公式文書で「匈奴」を「降奴」と記すように命じた。ついで、30万の軍を10方向から漠北に侵攻させ、匈奴をシベリアに放逐するという壮大な作戦を立てた。
武官たちは一斉に反対した。補給が続かない。そんなことが簡単にできるなら衛青や霍去病はあれほど苦労していない。

案の定、作戦は大失敗に終わった。王莽はただ闇雲に詔勅を濫発することしかできなかった。
匈奴攻撃への協力を渋った高句麗の瑠璃明王(ユリミョンワン)は王莽の使者に拉致殺害され、「高句麗」は公式文書で「下句麗」に改名された。セリンディアの大半は匈奴に再従属した。
彼は自分が思い描く理念と理想のために「夷狄」を舞台装置として利用しようとした。周辺諸国にしてみれば、そんな王莽の手前勝手に付き合う理由などどこにもない。

国内では貨幣制度の相次ぐ改変によって破滅的なインフレが発生した。王莽が周王朝の時代を模範として定めた「王田制」は破綻し、公有地であったはずの王田の私有と売買がなし崩し的に認められた。
物資の流通が停滞し、官吏や将兵への給与が滞り、天下の人心は王莽から離れていく。腹心の官僚や学者たちも次々に王莽から離反し、王莽は粛清を繰り返した。

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(政治史中心の王莽の伝記)


「上りつめてみれば闇しか見えぬ」

王莽は呪詛する。断じて失政は犯していない。すべては完璧なはず。なのに、何故こうも全てが狂うのか。皇帝の焦燥をよそに、新帝国に耐えかねた人々は武器をとって立ち上がった。
紀元後18年、「赤眉の乱」勃発。

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(新帝国、赤い網掛は赤眉と緑林軍の活動地域で、ご丁寧にも高句麗が「下句麗」になっている)

発端は小さな事件だった。斉の地でとある若者が冤罪で処刑されたのだ。
若者には父親がすでになく、母は酒屋の女主人だった。彼女は息子の無念を晴らすため、近隣の豪傑や流れ者たちに惜しみなく酒や財物を与えて協力を求めた。
そして17年、彼女の周りに集った男たちは県吏を襲って殺害する。
一度ことを起こしてしまえばあとは勢いのままである。この集団は眉を赤く染めて自軍の目印とし、王莽体制に不満を抱く人々を吸収しながら勢力を広げ、数ヶ月のうちに数万人の規模まで達した。
王莽は郡国の兵を発して討伐を試みたが、不成功に終わった。帝国軍のほとんどは無謀な匈奴作戦にかかりっきりだった。

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(赤眉の挙兵)

同時期、南方の長江流域で「緑林」と呼ばれる集団が蜂起し、お膝元の三輔(さんぽ:首都圏)でも群盗が跳梁しはじめた。
一度衰えた緑林軍は二手に分かれて再び勢力を強め、これに皇族劉氏に連なる河南南陽郡の諸豪族が合流した。
彼らは諸侯王家の末流だったが漢帝国滅亡とともに庶人の身分に落とされており、王莽の体制に不満と恨みを抱いていた。

22年冬、緑林軍と南陽劉氏の連合軍は河南の小長安で正規軍に大敗する。王莽は狂喜したが、反乱軍はたちまち態勢を立て直し、翌年2月に南陽劉氏の劉玄という人物を皇帝に推戴した。更始帝である。
王莽は恐慌して、途方もない大軍を動員した。その数、百万。
事実とすればこの時代まで世界全体でも前例のない大軍勢となるが、王莽のことだから本当に百万人を動員するよう指示したのだろう。とはいえ兵站その他もろもろの技術的限界というものはあって、実数は40万人程度と推定されている。
王莽はこの大軍に桁外れの力士豪傑や数百人もの兵法家、無数の猛獣を随行させた。理論家の王莽にとって、これぞ必勝の態勢と思われた。確かに動員規模と威容だけでいえば、秦漢時代を通じてこれほどの軍勢は他にない。

この大軍は更始政権の拠点のひとつ、河南の昆陽という小さな城を包囲した。城を守っていたのは更始帝の遠縁の親族で、景帝から6代目の子孫にあたる劉秀という青年だった。
劉秀は人柄の良さだけが取り柄の若者で、旗揚げ当初は馬がないので牛に乗って戦場に出てきたという。いつも春の日差しのように穏やかな微笑みを浮かべ、幼馴染の美少女と結婚して近衛兵になるのが夢だった。
だが、そんな若者がこの昆陽の戦いで、世界の歴史に稀なる奇跡を起こした。

劉秀は大地を埋め尽くす新軍を見ても顔色ひとつ変えず、腰が引けた歴戦の猛将たちを叱咤して作戦を定めた。
彼は夜陰に紛れてわずか13騎で十万の敵軍を突破し、援軍を集めて昆陽包囲軍を外から急襲した。
劉秀が城外に出ているうちにも着々と数を増した包囲軍はすでに数十万に達し、人間の海となって昆陽を取り巻いている。
しかし劉秀はまったく恐れることなく、新軍の宿営地を横断する小川に沿って三千の騎兵を進ませはじめた。

あまりの大軍ゆえに、しばらくのあいだ劉秀の一隊は新軍に不審に思われることもなく敵軍中枢に迫っていく。だが、ある地点で彼らの所属が誰何された。
劉秀は無言で馬の脇腹を蹴り、長剣を振りかぶって驚く敵将を袈裟懸けに斬り捨てる。
折しも暴風が沸き起こり、たちまち激しい雷雨が地上を叩きつける。渦巻く黒雲を背にして彼は陣頭を疾駆し、鬼神のように剣を揮い続けた。彼の背後に続く兵士たちには、さながら若き劉秀は武神のごとき光を帯びて見えた。

「これは神か、これは龍か、これこそ真の天命の君か?!」

視界の全ては大暴風雨に閉ざされ、剣戟と雷鳴の轟きが混然一体となって耳を聾する。新の包囲軍は恐怖と驚愕の渦に呑まれて崩壊した。
その敗報を聞いた王莽は耳を疑い、幾度も誤報でないかと確認し、それが事実と判明すると崩れ落ちた。

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(劉秀軍の突撃)

こうなると新帝国の終わりは近い。
更始帝は南陽全土を制圧し、大軍を北に進発させた。各地で続々と新たな反乱勢力が登場し、首都常安(長安)の城内でも騒擾が相次いだ。王莽の側近や一族も次々に離反し、クーデター計画が露見する。
王莽はもどかしげに古書を繰る。そこには敗戦は天の譴責であり、天に哭泣して無実を訴えるべきだと記されていた。王莽は泣き声の悲痛な者たちを集めて盛大に哭泣を行なわせた。数千人の泣き声が虚しく山野にこだました。

王莽政権にとどめをさしたのは、赤眉軍でも緑林軍でもなかった。
ぽっと出の小さな反乱軍が秋に関中に侵入し、更始帝の大軍が到着するのを待たずに常安(長安)攻撃を開始。これを知った近隣の群盗も次々に集まった。
王莽は囚人を解放し、武器を持たせて迎撃に向かわせたが、渭水を渡ったところで全員が逃げ散った。
常安の無頼少年たちが反乱軍に呼応して宮殿を焼き打ちした。王莽が生涯をかけて整備した制礼作楽の精華、九廟や明堂、辟擁は夜空を赤く染めて燃え続けた。

10月1日、反乱軍は帝都の城壁を破り、常安市街に乱入した。高位高官のほとんどが逃げ去り、官庁街は無人となった。反乱軍の先頭では無頼少年たちが歓声を上げながら、周囲の建物を片っ端から叩き壊した。
王莽は天子の璽綬と、太古の虞帝(舜)のものと伝えられる短剣を帯びて吉凶を占った。吉兆の日時と方角が告げられると王莽はそちらに座り、低く呟いた。

「天、徳を予に生せり。漢兵、それ予を如何せん」


10月3日の夜明け、王莽は群臣に支えられながら未央宮の前殿を下り、「滄池」と呼ばれる人工湖に浮かぶ「漸台」という建物に移った。一千余人の兵士がこれに従った。

「反虜王莽はいずこにありや!」

反乱軍が呼ばわると、怯えきった女官が「漸台にいます」と漏らす。反乱軍は漸台を幾重にも取り囲み、雨のように矢を浴びせた。矢が尽きると白兵戦がはじまった。わずか一千の新帝国最後の防衛軍は終日抗戦を続けた。

日暮れ時、ついに漸台に反乱軍が突入する。立て籠もっていた者たちは一人残らず戦死した。片隅で瞑目していた王莽は、とある商人に斬り殺された。

「首魁を討ち取ったぞ!!」

たちまち数十人の兵士たちが殺到し、王莽の死体を我先に奪い合った。新帝国皇帝の死体は手足や骨をバラバラに切り刻まれ、原型もとどめない有様となった。
享年68歳。理想国家の建設を夢見、中華世界における皇帝と帝国のあるべき姿を定めた人物の最期であった。

戦乱は王莽の死をもっても終わらなかった。
更始帝の政権は全土を制圧できず、各地に群雄が割拠する。昆陽で公称百万の大軍を打ち破った劉秀が「光武帝」として後漢帝国を築き上げるまでは、いましばらくの時が必要であった。

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