世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐

鉄の嵐、炎の槍

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(ミハイル・ゲラシモフによるティムールの復顔)

フレグ・ウルス崩壊後に群雄割拠となったイラン高原で大勢力となったのは、バグダードを都にアゼルバイジャンまでを押さえるジャライル朝と、イラン高原中南部に版図を広げたムザッファル朝だった。
ジャライル朝はフレグ・ウルスを構成する有力部族のひとつ、ジャライル部によって打ち立てられた政権で、英主シャイフ・ウヴァイスの時代に宿敵チョバン朝とジョチ・ウルスを退けてアゼルバイジャンまで版図を拡大。
ムザッファル朝はアラブ系の政権で、残虐非道で知られるムバーリズッディーンという一代の梟雄が、フレグ・ウルス崩壊後の混乱に乗じて建国した国である。

トクタミシュの侵入によって第一次西イラン遠征(「三年戦役」)を中途で切り上げたティムールは、1392年に再びこの地に舞い戻って来た。今度の遠征は5年間に及び、「五年戦役」と通称されることになる。
その頃ジャライル朝はシャイフ・ウヴァイスの子スルタン・アフメドの治下にあり、ムザッファル朝ではムバーリズッディーンの孫たちが内紛に明け暮れていた。

5年戦役
(五年戦役)

前回ティムールが制圧した地域では、覇王不在のうちに在地勢力が占領軍を追い払って続々と独立を回復していた。ティムールはそれらを次々に叩き潰していく。
破壊と虐殺を繰り広げながらカスピ海南岸のマザンデラン地方を西進し、クルディスタンとルリスタンを制圧。
将来の後継者と定めていた嫡孫ムハンマド・スルタン(早逝した嫡男ジャハーン・ギールの忘れ形見)にフレグ・ウルスの故都スルターニーヤ攻略を命じ、自身は南イランに転進して難攻不落の要塞ガルエ・セフィードを攻め落とした。
ここで彼を待ち受けていたのがシャー・マンスールという男だった。

シャー・マンスールはティムール不在に乗じてイスファハーンとシーラーズを奪還したムザッファル朝の王族である。対立する親族の両目を潰して権力を獲得したとも伝えられる。人道的観点からすれば、ティムールと大差はない。
1393年5月、彼は三万のティムール軍をわずか四千騎で迎撃し、全軍を率いてティムール本隊に突入した。狙いはただ一つ、ティムールの首級のみ。
混戦のなかでティムールは親衛隊から引き離された。馬を走らせて迫ったシャー・マンスールは大剣を抜き放ち、ティムールの頭を二度斬りつけた。
このときティムールは57歳。「鉄」を意味する名の通り、頑健な体躯と堅固な精神力を誇っている。
大剣を脳天で受け止めたティムールは、兜のひさしから炯々と光る目で頭上の敵を睨みつけた。そこに恐怖や動揺の影は全く窺えなかった。
三度目の打撃を与えようと剣を振りかぶったシャー・マンスールは、その眼光に射られて思わず身を凍らせた。その瞬間、一群の兵士たちが駆けつけて、たちまち覇王と野心家のあいだに人間の壁を作った。

「退け!」

大音声をあげて馬首を翻したシャー・マンスールは、たちまちティムールの末子シャー・ルフに出くわした。刃を交えること数合、この野心家はあえなく打ち取られた。ティムールは残るムザッファル朝の王族を全て処刑したという。
次の目標はジャライル朝である。イラーク平原へ兵を進めたティムールはスルタン・アフメドに無条件降伏の要求を突き付けた。

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(ティムールはチェスの原型である「シャトランジ」の達人だった)

スルタン・アフメドは山のような財宝と、ペルシア修辞学の精華というべき外交書簡を寄越してきた。使者は美辞麗句を洪水のようにまくしたてた。
しかし無用の虚飾や虚言を嫌悪するティムールに対して、それらはまったく功を奏さなかった。

「もうよい、黙れ。――結論はバレ(YES)かネヘイル(NO)か?」
「ね、ね、ネヘイル……」

交渉失敗を悟るや、スルタン・アフメドは即刻遁走。
ティムールは大軍を率いて古都バグダードに入城し、庶長子ウマル・シャイフをファールス総督、三男ミーラーン・シャーをアゼルバイジャン総督に任命した。イラン高原西部の二大勢力は、これで事実上消滅した。
ところがこの頃、はるか北方で異変が起こっていた。一昨年にクンドゥズチャの戦いで大敗したトクタミシュが再び兵を集めることに成功し、キプチャク平原奪還に乗り出したのである。

トクタミシュを屈服させたティムール
(トクタミシュを破るティムール)

アゼルバイジャン北部で勢力を立て直したトクタミシュは諸国に密使を送り、反ティムール包囲網を築き上げた。
ジャライル朝のスルタン・アフメド、グルジア王ゲオルギウス7世、リトアニア大公ヴィタウタス、黒羊朝のカラ・ユースフ、オスマン朝のバヤズィット1世、そしてエジプト・マムルーク朝のスルタン・バルクークらがこれに参画した。
ティムールに追われたジャライル朝のスルタン・アフメドはマムルーク朝に亡命し、黒羊朝のカラ・ユースフはオスマン朝の庇護を求めた。いずれも逃亡者引き渡しを要求するティムールの使者を殺害して敵意を露わにした。
ティムールは策謀の中心にいるトクタミシュに対する膺懲を決意する。決戦の場はカフカス山脈北麓のテレク河畔となった。

1395年4月14日、ティムール軍の突撃によってテレク河畔の戦いが幕を開ける。

激戦は三日三晩続いた。白昼の空は飛び交う矢で暗くなった。白兵戦のさなかにトクタミシュ軍の最精鋭がティムール本営に突入し、またも覇王は親衛隊から切り離されて絶体絶命の危機に陥った。
馬はなかった。59歳のティムールは砂塵のなかで次々に矢を放ち、矢が底をつくと槍を手にして戦った。槍が折れると刀を振るって敵を怯ませた。
そこにようやく親衛隊が駆け付け、直ちに円陣を組んで主将を守った。

「大アミールは危機にあり!!」

軍旗が高く掲げられ、激しく打ち振られる。
七つの大隊に分かれたティムール軍の兵士たちが四方八方から結集し、まさにティムールの眼前が大戦闘の中心となった。このときティムールの軍勢は恐るべき新兵器、「炎の槍」を斉射した。
「炎の槍」は原始的な火縄銃と推測されている。轟音とともに放たれる鉄と炎の嵐を前に敵軍は大混乱に陥った。キプチャク騎兵たちは雪崩を打って潰走し、膨大な戦死者によってテレク川は真っ赤に染まった。
ティムールは最も迅速な騎馬部隊に命じてトクタミシュを千キロ近くも追撃したが、彼は追手を振り切ってシベリアの密林へ逃げ去った。

この激闘によってティムール軍の側も全軍の約半数が死傷した。通常、これほどの損害が生じれば軍事行動は不可能となる。だが、覇王は退かなかった。
そのまま北進してトクタミシュに従属するルーシ(ロシア)諸公国を蹂躙し、ジョチ・ウルスの旧都サライを完全に破壊。アストラハンを劫掠し、膨大な戦利品を得る。
これ以前ティムールによってジョチ・ウルスの君主に任命されていたテムル・クトルグと補佐役エディゲは改めてティムールに忠節を誓い、キプチャク平原が再び背反する気遣いはなくなった。
帰途は草原を焼いてティムール軍を妨害した北カフカスのチェルケス人を粉砕し、ダゲスタンの山地民を殺戮しながら進軍。北部イランを経由して5年ぶりにサマルカンドに帰還した。

ティムールは都市を奪い、国を滅ぼすたびに、学者や技術者をサマルカンドに送ってモスクや学院や病院の建設に従事させた。
各地から強制移住された人々が周辺に多くの集落をつくり、現世の楽園かと見紛う数々の庭園も散在する。
西ユーラシア全土を戦乱の嵐が覆うなか、覇王の都サマルカンドだけは年ごとにいよいよ壮麗の度を増していくのだった。

ティムールの宮廷
(ティムールの宮廷生活)


デリー興亡史

モンゴル帝国がイスラーム世界のほぼ半分を制圧した時代、インド亜大陸北部に強大なムスリムの政権が自立を維持していた。
奴隷王朝ハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝
ヤムナー河畔の帝都デリーを中心として、およそ三世紀にわたって興亡した五つの王朝を「デリー・スルタン朝」と総称する。

その興隆はモンゴル帝国とほぼ同時期。
アフガニスタンに興ったゴール朝の東方総督、クトゥブッディーン・アイバクがデリーで独立したのは、まさにチンギス・カンが即位した西暦1206年のことだった。
奴隷王朝はイルトゥトゥミシュや女王ラズィーヤのような優れた君主を輩出しながらも、「チャハルガーニー(四十人衆)」と称されるテュルク系貴族たちの統制に苦しみ、政権の安定を維持できなかった。
建国当初にアイバクが征服した南部の諸城砦、カーリンジャル、グワーリオル、アジメールなどはヒンドゥー諸侯に奪還され、デリーから遠い東部のビハールやベンガルでは独立の動きが絶えなかった。モンゴル帝国への警戒も怠れなかった。

1266年に即位したバルバンは公正な施政によって民衆の支持を得るとともに、スパイを放って貴族たちの動向を監視し、不正を冒した者は法に則って処断した。
街道を荒らす盗賊団を壊滅させ、反抗的なラージプート(ヒンドゥー軍事貴族)の砦を打ち壊し、王権を確立すべく、廷臣たちには平伏して自身の足先に接吻するよう要求した。
宮廷では笑うことも冗談を口にすることもせず、乱れた姿を人に見られぬように酒も口にしなかったという。「賤しい者を目にすると余の眼は怒りに燃え、余の手は剣を掴む」という言葉も伝えられる。
1287年にバルバンが死ぬ頃までにはチャハルガーニーは抑えつけられ、スルタンの独裁が確立された。
だが、バルバンの統治は多方面の不満と反感を買っており、わずか3年後にはジャラールッディーン・フィールーズなる軍人がデリーを襲って奴隷王朝を滅ぼした。

ジャラールッディーン・フィールーズはもともとアフガニスタン南部のヘルマンド渓谷からやって来たハルジー族という部族の長で、バルバンの時代には西北国境でモンゴル帝国からの防衛を担っていた。
部族名にちなみ、彼が築いた王朝はハルジー朝と呼ばれることになる。
彼はすでに高齢で、この時代としては慈悲深く温厚な人物だった。
アフガン人の支配に不満を持ったテュルク系貴族たちが反抗しても宥免し、兵士の生命を損ずることを恐れて敵城の包囲を解き、モンゴルの捕虜たちをイスラームに改宗させて助命した。しかし、そんな人柄が彼の死を早めた。

アラーウッディーン・ハルジー
(アラーウッディーン・ハルジー)

ジャラールッディーン・フィールーズの甥、アラーウッディーン・ハルジー
アワドの長官であったこの若者は、伯父の寛容な施政に不満を抱く貴族たちを集めてデカン高原に向かった。
これまでデリー・スルタン朝の勢力はヒンドゥスターン平原一帯に限定されており、ヴィンディヤ山脈とナルマダー川を越えた中部インドや南部インドはほとんど未知の土地だった。
見知らぬ大軍の接近に混乱するヤーダヴァ朝の都デーオギリ。アラーウッディーンはそこを襲撃し、莫大な財宝を奪い取った。
彼は財宝を献上すると称してカラの町に伯父を呼び出した。スルタンは顧問官たちの警告を無視し、ごく少数の供回りだけを連れて甥の陣営にやってきた。
甥が足元に跪くと、スルタンは幼い頃からやってきたように甥の頬を優しく叩き、頭を撫でた。そのとき、突然兵士たちが雪崩れ込んだ。
伯父の手を撥ね退けて立ち上がったアラーウッディーンは冷厳な声で兵士たちに命じた。

「この老いぼれを斬り捨てろ」

倒された老人は驚愕に目を瞠ったまま斬首された。


アラーウッディーンはデーオギリから持ってきた財宝を貴族たちにばら撒いて買収し、買収を拒んだ者たちは捕えて両目を潰し、地下牢に放り込んだ。
彼は強力な物価統制令を発布。商品の備蓄を禁じ、余剰穀物は国庫に収納した。目方をごまかした商人に対しては、足りない目方の分をその身体から切り取るという厳刑を科した。商人が反抗したり逃散すれば軍隊を派遣して連れ戻した。
農民に対しては全ての耕作地と牧草地を徹底的に調査し、全収穫の五割を課税した。農民たちがそれを拒否したり逃散すれば、同じように軍隊を派遣して連れ戻した。
貴族たちには密偵を放ち、無許可での通婚や宴会を陰謀のもととして禁止し、私有財産も制限した。秘密警察と軍隊、恐怖と暴力が彼の治世の特色だった。

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(ランタンボール城塞を攻撃するアラーウッディーン・ハルジー)

こうしてかき集めた富を使って途方もない規模、「公称」ではなく「実数」で三十万から五十万にのぼると見られる騎馬軍団を編成してモンゴル軍に備えた。
その頃モンゴル帝国では「カイドゥの乱」が終わろうとしており、カイドゥの副将ドゥア(後のチャガタイ・ウルス建国者)が起死回生を策してインド遠征に乗り出した。
アラーウッディーンは伯父がイスラームに改宗させ、デリーに住居を与えた四千人のモンゴル人たちを虐殺。デリー北郊でモンゴル軍を撃破し、和平を求めるモンゴルの使節団を象に踏みつぶさせた。

モンゴルの脅威が消えるとアラーウッディーンは有り余る軍事力を南へ向けた。ラージプート諸侯の諸王国、ランタンボール、チトール、マールワー、グジャラートを攻略し、ついでにイスラーム商人の居留地カンバートも略奪した。
そこで捕えたマリク・カーフールという宦官を「マリク・ナーイブ(王の副将)」に取り立て、大軍を与えてさらに南方の征服を命じる。
ハルジー朝の軍隊はデカン高原を南下し、ヤーダヴァ朝、カーカティヤ朝、ホイサラ朝といったヒンドゥー諸王国を次々に屈服させる。続々とデリーにもたらされる戦利品は天文学的な数量に達した。
驕るアラーウッディーンは「イスカンダル・サーニー(第二のアレクサンドロス)」を自称し、イスラームに代わる新宗教の創始すら目論んだという。
だが、1316年1月にアラーウッディーンが病死すると無理に無理を重ねたハルジー朝の大帝国はたちまち崩壊しはじめた。
専横を極めたマリク・カーフールはスルタンの死の翌月に貴族たちに殺害され、無能な後継者のもとで内乱が広がった。

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(アラーウッディーンが建設したアラーイー・ダルワーザー)

1320年、テュルク人とモンゴル人のあいだに生まれ、モンゴルの侵略軍を29回退けたという武将ギヤースッディーン・トゥグルクがデリーに入り、新しい王朝を創建した。これが「トゥグルク朝」である。
だが、彼は5年後に実の息子ムハンマド・ビン・トゥグルクに謀殺される。

ムハンマド・ビン・トゥグルク
(ムハンマド・ビン・トゥグルク)

ムハンマド・ビン・トゥグルクは父王ギヤースッディーン・トゥグルクのために離宮を建設した。その建物は一定の加重と震動によって崩落するように設計されていた。
父が離宮に入ると、彼は祝賀のために前庭で戦象を行進させた。たちまち離宮は崩れ落ち、ギヤースッディーン・トゥグルクは圧死した。1325年のことである。


ムハンマド・ビン・トゥグルクに一時仕えた大旅行家イブン・バットゥータは彼をこう評した。

「この王ほど施しと流血がやみつきになっている人間もいない。王宮の門前には裕福になった貧者がいないときも、処罰を受ける人間がいないときもない」

彼は書家として名高く詩歌に通じ、科学や医学、そして神学に対する深い知識を持っていた。信仰に厳格だったが、しばしば異端として糾弾された哲学にも大いに関心を持ち、ヒンドゥーの聖者たちとも好んで語り合った。
性格は寛大だが非情、慈悲深いが残虐。そしてその行動は、良かれ悪しかれ己ひとりの独断に満ちていた。

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(イブン・バットゥータの旅行記全訳)


ムハンマド・ビン・トゥグルクはデリー・スルタン朝が既にインド亜大陸の大部分を制圧し、略奪遠征による財源調達が不可能となったことから、ホラーサーン地方への遠征を計画して六十万の軍隊を集めた。
六十万の軍隊が集まるとデリーの食糧事情が逼迫したので、彼は遷都を思い立った。直ちに宮廷をはるか1500キロの彼方、ヤーダヴァ朝の都であったデーオギリ(ダウラターバードと改名)に移し、デリーの全市民もこれに従うべきことを命じた。
折しも真夏のこととて、炎熱のさなかに行われた強制移住によって何万もの人々が死んだという。

加えて、集めた兵士たちに支払う貨幣が物理的な意味で足りなくなったので、青銅や真鍮の貨幣を大量に鋳造した。
当然ながら経済はアラーウッディーン・ハルジーの時代並みに大混乱し、六十万の軍隊は一向に動きが取れないまま約1年間で自然消滅したという。
一方遷都はといえば、ダウラターバードにいては北インドを統治できないことが判明したため二年後に沙汰やみとなり、再び何万もの人々が北への移住を強いられたのだった。
なお、ムハンマド・ビン・トゥグルクは別途中国遠征を計画したこともある。このときはヒマラヤ山脈を越えて中国に攻め込もうと強引に山岳地帯に分け入ったものの、進軍不可能となって撤退している。

トゥグルク朝の最大版図
(トゥグルク朝の最大版図)

ムハンマド・ビン・トゥグルクは決して愚者ではない。税制改革や農地改良に熱心に取り組み、運河や街道の整備も進めている。また、家柄ではなく才能を重視して人材を取り立て、ヒンドゥー教からの改宗者をも重用した。
ただ、どのような政策をとっても、何もかもを自分一人で決定して周囲の進言を一切聞き入れなかったのが仇となった。結局はあらゆる階層の人々がムハンマド・ビン・トゥグルクに不満を持ち、彼の治世が続くにつれて反乱が相次いだ。

1347年には南部に派遣されていたアラーウッディーン・ハサンという部将が独立し、バフマニー朝を建てた。
1356年には同じく南部でヒンドゥー教徒のハリハラとブッカの兄弟が反乱を起こし、ヴィジャヤナガル朝を建てた。
バフマニー朝は南インドで最初の本格的なイスラーム国家であり、やがてデカン高原西部の大半を制圧する。
また隣接するヒンドゥー国家ヴィジャヤナガル朝は、後に「ヴィジャヤナガル帝国」といわれるほどの大国となる。両者は南インドの覇権をめぐって果てしなく争いを続けることになる。

ムハンマド・ビン・トゥグルクが1351年に病死した後、北インドでもマールワ、ベンガル、ゴンドワナ、シンド、グジャラート、ジャウンプールなど地方政権が続々と誕生し、デリー・スルタン朝は分裂と弱体化を極めた。

――世界の主の領土はデリーからパーラムまで

これは14世紀末の戯れ歌である。世界の主とはデリーのスルタン、そしてパーラムとは現在デリー国際空港が位置する首都近郊の地名である。
中央アジアの大征服者ティムールが突如インド亜大陸に侵攻したのは、まさにそのような時代であった。

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(14世紀の南インド)


憤怒の被造物

「余は、神が自らの憤怒のなかで創った者、神の憤怒によって運命づけられ、絶対の権力を授けられた者である。神は余の心から一切の哀れみの念を追放し給うた」

(ティムール、マムルーク朝への書簡より)


「ヒンドゥスターンの王らは異教徒どもに対してあまりに弱腰である。よって余はアッラーのために彼らを征伐する。すなわちこれは聖戦である」

五年戦役から帰還したティムールがそう宣言したのは1397年のことだった。かねてインド進出を命じていた孫のピール・ムハンマドが苦戦していたこと、そして何よりデリーの莫大な財宝も遠征の理由となった。

翌1398年初頭、ティムールは9万8千の大軍を率いてサマルカンドを進発した。このたびも莫大な血と炎が大地にまき散らされることは疑うべくもない。
全軍を三つに分け、ティムール自身は手始めにヒンドゥークシュの山々を根城とする山岳民の殲滅に乗り出した。ティムールの鉄の意志に導かれ、大軍は標高数千メートル、氷雪に覆われた山々の上を徒歩や橇で進軍した。

秋にインダス川を渡る。ピール・ムハンマドを圧倒していたムルターンの敵軍はティムールの接近を知って逃げ散った。
パーニーパットでデリーのスルタンがかき集めた大軍勢が待ち受けていた。将兵は巨大な戦象の群れを目にして動揺を露わにした。
ティムールは抑留していた数千人のインド人捕虜たちを処刑し、占星術師が不運を予告すると激昂した。

星々の予兆が何だ! サーヒブ・キラーン(吉兆星の結合)が何だというのだ! 余の喜びも、余の悲しみも、余の幸福も、余の不幸も、すべて星とは何のかかわりもない! 余が信じるのは全知全能のアッラーのみ!

コーランが開かれ、文字を解さぬティムールは開いたページを従者に読み上げさせた。

――彼らに出会ったら、どこであろうと、見つけ次第これを殺せ。捕え、追い込み、伏兵を置いて待ち伏せよ

もはや反論する者はいなかった。

ティムールとトゥグルク朝の戦い
(ティムールとトゥグルク朝の戦い)

翌朝、デリーの軍勢5万とティムール軍の戦端が開かれた。ティムールはあらかじめ前線に長い濠を掘らせ、兵士たちに原始的な投擲弾を配布していた。
さらに、多くの水牛を集めて背中に枯れ枝の束を括り付け、それに火をつけて両翼から象軍に向かって突進させた。インドの象たちは大混乱し、敵味方の見境なく人間と馬を踏みつぶして無秩序に逃げまわった。
圧勝したティムールはデリーに入城してトゥグルク朝の玉座に座り、市民に安全を保障した。
だが、ここでもイスファハーンと同様に兵士と市民のトラブルが発生し、略奪と市街戦が始まった。ティムールはいつもの通り学者と職人を保護すると、残る数万人の人々を虐殺した。

この遠征によってティムールは再び膨大な戦利品をサマルカンドに持ち帰った。インドでは衰退を極めていたトゥグルク朝が完全に崩壊し、ティムール帝国に服属を誓うサイイド朝が成立することになる。

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(インド遠征の成功を祝して建設されたビービーハーヌム・モスク)

ティムールの鉄の魂は60歳を過ぎてなお休息を知らない。彼は大モンゴル帝国を再建すべく、生涯最後の大事業として、はるか中国への遠征を計画した。だが、すぐにそれを許さぬ事情が生じた。
トクタミシュが築いた西方諸国による「ティムール包囲網」はまだ生きていた。とくにバルカン半島からアナトリアに支配を広げるオスマン朝のバヤズィット1世がここのところ東部アナトリアへの攻勢を強めている。
おまけに、アゼルバイジャン総督に任命した三男ミーラーン・シャーが乱心状態に陥って側近たちを斬り殺しまくっているという。
あの軽躁な息子はむかしヘラートの王子を酒宴の席でゆえなく殺した前科もある。これでは一国を預けることなどできぬ。ティムールは自分の絢爛たる虐殺歴を棚に上げてそう考えた。

サマルカンド帰還後わずか数ヶ月でティムールはイラン高原に出陣した。「七年戦役」のはじまりである。
まずはアゼルバイジャンでミーラーン・シャーを更迭し、その側近を大量処刑して決着をつける。ミーラーン・シャーの側近たちは何にしても殺されるしかなかったわけで、不運と言わざるを得ない。
1400年、東アナトリアを経てティムールはシリアに南下した。包囲網を構成する二強のひとつ、エジプト・マムルーク朝との対決に向かったのだ。

インドで獲得した大量の戦象を先頭に立て、軍鼓の音を響かせながら南進するティムールの大軍勢。
シリア・エジプトの人々は「シャイターン(魔王)が襲来した」と恐れ惑い、第一次十字軍が来たときのように町や村を棄てて逃げ散った。果敢に抗戦したアレッポは数の暴力であっという間に陥落し、頭蓋骨の山が築かれた。
シリア北部を平定した大軍は古代ローマの街道を南へ進む。
12月、ティムールはダマスクス城外に全部隊を展開した。

7年戦役
(七年戦役)

ダマスクスにはマムルーク朝のスルタン、アブール・ファラジ率いる大軍が待ち受けていた。マムルーク朝はこの軍事力を背景に休戦を要請した。
覇王はこれを受け入れ、ダマスクス西側に布陣していた軍の主力を北東に移動させて撤退を開始した。それを見たエジプト軍は城門を開け放ってティムール軍に後方から襲い掛かった。
ところがその瞬間、撤退をはじめた筈のティムールの軍勢は即座に反転して完璧な迎撃態勢を示したのである。三方が原で若き徳川家康を迎撃した武田信玄のごとく、すべては覇王の手の内にあった。
短い激戦の末にエジプト軍は崩壊し、ティムールは再びダマスクスを包囲した。アブール・ファラジと近臣たちは夜陰に紛れて脱出し、本国エジプトへ逃げ去った。

騙し討ちに失敗したダマスクスの人々は何としても覇王の怒りを宥めるべく、ティムールが尊崇する学者たちを和平嘆願の使者として敵陣に送り込んだ。
そのなかに彼はいた。北アフリカに生まれ、不滅の大著『イバルの書』を著し、折しもダマスクスに滞在中であった大歴史家、イブン・ハルドゥーンである。

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(イブン・ハルドゥーンの『イバルの書』の序説部分)


イブン・ハルドゥーンは後年、回想録にこのときのことを書き記した。
彼の眼にティムールは厳しい支配者というよりも、熱心な歴史の愛好者として映った。ティムールはイブン・ハルドゥーンを親しく隣に座らせ、夜食を取りながら北アフリカの地理や文化について盛んに尋ねた。
そして食事が終わるころ、イブン・ハルドゥーンは切り出した。

「偉大なる陛下にアッラーの加護あれ。わたくしはすでに何十年もの間、陛下との出会いをお待ちしておりました」
「それは何故」
「陛下は世界の支配者であり、世の始まりから今日に至るまで陛下のような支配者はおりませんでした。人類の大部分はアラブとテュルクからなり、陛下は今やテュルクの全種族を支配しておられます」
「ふむ」
「キスラー(ホスロー)もカイザリ(カエサル)も、イスカンダル(アレクサンドロス)もネブカドネザルもこれに比肩することはありませぬ。キスラーはペルシアの王、カイザリはルームの王でしたが、テュルクはこれら民族よりもはるかに膨大で強力なのですから」

ティムールは苦笑して応えた。

「余はひとりのアミールに過ぎぬ。汝は余を陛下と申すが、真の王は、ほれ、そちらにおられる御方、チンギス・カンの血を引かれる御方だ」

それから二人はネブカドネザルがいかなる民族に属するのかを議論し、刻限に別れたという。

イブン・ハルドゥーンは後に記した。
辺境の地で生まれる征服王朝は質素な生活と不毛な環境に耐え、同胞意識と激しい情熱を備えた集団によって建設される。
しかしおよそ三世代もすれば、都市の奢侈に慣れた後継者たちは堕落して、次の征服者に滅ぼされるのだと。
優れた歴史家は永遠の相の下で諸勢力の興亡を冷徹に観察する。しかし彼がこのときティムールとその子孫の運命についてどのような予見をしたのか、これ以上のことは何も伝えられていない。

ティムール帝国支配層の研究

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(『成立史の研究』と並ぶティムール帝国二大研究書のひとつ)


ティムールはダマスクス市民と守備隊の生命を許したが、城塞の破壊と財貨の略奪は通例通りに行なった。この美しい都は激しい炎のなかで燃えていき、翌年のシリアは大飢饉に襲われた。
まさしく「シャイターン(魔王)」のごとくシリアを荒らしたティムールはバグダードに転進した。ここではエジプトから舞い戻ったジャライル朝のスルタン・アフメドが支配を回復していた。

ティムール襲来を聞いたスルタン・アフメドは前回同様に遁走した。残された守備隊は時間を稼ぐため、「ティムールの部下には降伏しない、ティムール自身になら降伏する」と宣言した。
北部イラークの諸城を攻撃していたティムールはすぐにバグダードの城門前に姿を現した。まさか本当に本人が来ると思わなかった守備隊は、ティムールが城門前にいることを市民に秘匿した。
そこでティムールは戦いと虐殺によって自分の存在を全市民に知らせることにした。バグダードは程なく陥落し、また頭蓋骨の山が築かれた。

アンカラの会戦
(アンカラの戦い)

最後にティムールはアナトリアに兵を進め、黒羊朝のカラ・ユースフを匿ってティムールの属領エルジンジャンを奪ったオスマン朝のバヤズィット1世に決戦を挑んだ。
オスマン朝第4代スルタン、バヤズィット1世ユルデュルム(雷光王)
ここ十数年のあいだに破竹の勢いで四方に勢力を拡大し、ブルガリアを制圧し、セルビアを征服し、ニコポリスで欧州諸侯を撃破し、アナトリア諸侯国を次々に併呑してきた風雲児である。

両雄決戦の地は中部アナトリアのアンカラ
ティムールは常のごとく中央と両翼に前衛後衛の各二部隊、そして後方の予備隊という七部隊で布陣した。
両翼前衛が敵を捕捉し、両翼後衛が敵の背後を囲み、予備隊が敵に蓋をする。ティムールが長年の経験で磨き上げた不敗の戦術である。
15世紀初頭のユーラシアを代表する名将同士の戦いは一進一退の激戦となった。双方ともに次々に予備隊を繰り出し、戦況はわずか数時間のうちに目まぐるしく移り変わった。
ティムールの軍勢は巨大な戦象の上から煮えたぎる油を敵兵に浴びせ、「炎の槍」の改良版である小型大砲を乱射した。
オスマン軍では常勝不敗を誇るイェニチェリ歩兵軍団が一糸乱れぬ戦いを続け、漆黒の甲冑に身を固めたセルビアの騎士たちはティムールが感嘆するほどの勇戦を見せた。

だが正午を過ぎる頃、ティムールが最後に投入した予備隊がオスマン軍の中央を分断することに成功し、勝敗が決した。
オスマン軍は総崩れとなり、士官たちは王家の血脈を残すために、スルタンの王子たちとともに敗走していった。
バヤズィットは少数のイェニチェリたちとともに夕方まで奮戦し、イェニチェリが全滅すると馬に乗って逃走を図った。そしてついに捕えられた。

「――世界は二人の王に値せぬ」

ティムールがそんな言葉を残したのは、この時のことだろうか。

バヤズィットを見舞うティムール
(バヤズィットを見舞うティムール)


オスマン朝の脅威から一時的に解放された欧州諸国は、この「タメルラン」なる人物の実像をほとんど理解しないまま神に感謝し、フランスのパリでは想像上のティムールの銅像が建てられたという。

捕虜となったバヤズィットは厚遇されたが、捕囚の辱めに悶々としたまま程なく病死した。ティムールはアナトリア西部に進み、地中海の沿岸までを制圧して兵を返した。
もはや包囲網は消滅した。この上は積年の宿願、中国遠征を果たさねば。残された人生はいくばくも無いのだろうから。
1404年8月、ティムールはサマルカンドに凱旋した。彼は68歳になっていた。

遙かなるサマルカンド

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(最晩年のティムールの宮廷を訪れたカスティーリャ王国の使節の記録)



夢果てて後

中華の地では乞食僧から身を起こした朱元璋(しゅげんしょう; 太祖洪武帝)が1368年に「大明帝国」を樹立し、クビライが築いたカンバリク(大都、現在の北京)からモンゴル帝国大カアン、トゴン・テムルを追って中華帝国復活を宣言していた。

しばらくのあいだ大元ウルスはドロンノール(上都)、あるいは旧都カラコルムを拠点として長城以北を抑え、東は朝鮮半島から西はチベット・雲南に及ぶ広大な地域に威令を及ぼしていた。
だが明は繰り返し「北伐軍」を派遣し、長きにわたる中華世界での生活に慣れたモンゴル人の多くは父祖たちが生きた草原での暮らしに耐え切れず、相次いで投降した。
1387年、遼東で二十万騎が明に投降。慌てて対処に赴いた大カアンのトグス・テムルは明の将軍・藍玉(らんぎょく)に大敗し、わずか16騎で逃走した。
その途上、クビライの弟アリク・ブケの末裔であるイェスデルという人物が大カアンを襲撃した。

「我が遠き祖の復讐と思え」

クビライ王朝はここに断絶した。


ところが今度は明で変事が起こる。初代朱元璋の死後、第二代皇帝となった朱允炆(しゅいんぶん; 建文帝)と、その叔父である燕王・朱棣(しゅてい)のあいだで「靖難の変」と呼ばれる内戦が勃発したのだ。1399年のことである。
朱棣が甥を打倒して第三代、永楽帝として即位したのは1402年。その政権はまだ決して盤石ではない。

ティムールの征服域
(ティムール晩年の支配圏)

ティムールがサマルカンドに帰還した頃、東方からオルジェイ・テムルという貴人が亡命してきた。彼はイェスデルの孫で、紛れもなく大カアンの血脈に連なっている。
ティムールはオルジェイ・テムルを擁立して東征し、モンゴル高原と中華世界を再び統合し、大モンゴル帝国を再建することを神に誓った。
それを果たせばティムールの名は人類の歴史が続く限り、最も偉大な征服者として記憶され続けることだろう。

しかし、ティムールの老体はもはやその使命に耐えることができなかった。
1405年初頭、二十万騎を率いてサマルカンドを出陣したティムールは激しい吹雪に行く手を阻まれた。これまで経験したことがないほどの寒さだった。
実はそれは錯覚ではない。モンゴル帝国が全盛に達した西暦1260年前後を境に世界の平均気温は下降に転じ、「中世温暖期」から「近世小氷期」へと向かいつつあった。年ごとに寒さが厳しくなるのは当然だった。

それでもティムールは進軍を命じた。無数の兵士たちが凍傷になり、意識を失って路傍に倒れていった。ティムールは寒さを忘れるためにひたすら酒を飲んだ。その末にティムール自身も意識を失った。
そして2月18日、シル川南岸のオトラルで稀代の覇王は、ついにその生涯を終える。享年69歳。
二世紀近く前、モンゴル帝国による世界征服の発端となったオトラルがティムール終焉の地となったのは、果たして偶然なのだろうか。


ティムールは早逝した長子ジャハーンギールの子、ムハンマド・スルタンを帝国の後継者としていた。
だが、ムハンマド・スルタンは七年戦役のさなか、1403年3月に29歳の若さで戦死した。
己の希望の全てを託し、全てを授けた後継者が死んだ……。そのとき、重臣たちはありうべからざる光景を見た。
ティムールは玉座から立ち上がろうとして果たせず、倒れ落ち、着ている物を引き裂いて低い呻き声を漏らした。床に顔を打ち付けたティムールの口から嗚咽が、そして弱々しい泣き声が漏れ出した。
稀代の征服者はこの瞬間、愛する孫を喪ったひとりの老人となっていた。

ハリール・スルタン
(ハリール・スルタン)

そういうわけでティムールは急遽、ムハンマド・スルタンの弟のピール・ムハンマドを後継者に指名し直した。
とはいえインド進出の使命に失敗したこの頼りない孫には、これまで何の帝王学も授けてきてはおらず、広大な領地と巨大な軍隊を持つ一族を統御していける才があるかは疑わしい。
ティムールの不安はすぐに現実となった。アフガニスタンのカンダハルにいたピール・ムハンマドが駆け付けるより早く、東征軍右翼を率いていたミーラーン・シャーの子、ハリール・スルタンがサマルカンドを奪い取ったのだ。
4年後に叔父のシャー・ルフに追い払われるまで、彼はこの都に居座り続ける。

インドやイラン高原の征服地ではティムールに追われた旧支配者たちが続々と復権した。スルタン・アフメドもカラ・ムハンマドも、ティムールの死を聞いた途端に帰国して旧臣たちに迎え入れられた。
マー・ワラー・アンナフルからホラーサーンとアフガニスタンにかけての一帯まで急激に縮小した「ティムール帝国」では、ティムールの子や孫たちが血で血を洗う争いを何年も続けた。

どうにかこうにかこの一帯を再統合したのはティムールの末子シャー・ルフである。
だが、シャー・ルフの子で天文学者としても名高いウルグ・ベクが1449年に殺害されるとティムール帝国は再び内乱に陥り、やがてサマルカンドとヘラートの二つの政権に分裂していく。

ウルグ・ベクの天文台
(ウルグ・ベクの天文台)

ティムールの東方遠征軍が崩壊して梯子を外されたオルジェイ・テムルは、それでも単独で東進を続けて何とかモンゴル高原に帰還した。
だが、彼は間もなく西モンゴリアで勃興したオイラト部族連合と明帝国に挟撃される形で没落し、モンゴリアは際限なき争いのなかに沈んでいく。

ティムールがついに抑えきれなかったモグーリスターン地方では、この後もまだ混乱が続く。

そしてキプチャク平原ではテレク河畔の戦いの後、リトアニアの支援を受けたトクタミシュが三度目の勢力挽回を図った。
彼はティムール生前の1397年にリトアニアの援軍を受け、例の「炎の槍」も装備してクリミア半島に入った。ここでトクタミシュはティムールが残置したエディゲとテムル・クトルグを破るが、翌年に打ち破られてまたリトアニアへ逃走した。
結局1406年、シベリアの森で追い詰められたトクタミシュは無名の兵士に殺されて波乱に満ちた生涯を終えた。ティムールの死に遅れること一年であった。

ティムールとトクタミシュ亡きあとのキプチャク平原の覇者となったのはエディゲだった。
チンギス家の血を引かないエディゲは長年の同盟者テムル・クトルグの一族を名目的なハンに擁立し、ヴォルガ流域を統一してノガイ・オルダと呼ばれる政権を築くが、キプチャク全域を再統合することまではできなかった。
エディゲは1419年にトクタミシュの遺児に殺害されるが、今もその名はヴォルガ流域に暮らすタタール人たちの叙事詩のなかで英雄として語り伝えられている。

エディゲ
(エディゲ)

なお、トクタミシュの別の遺児は1410年に中欧北部でポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団とのあいだに勃発したタンネンベルク(グルンヴァルト)の戦いに参戦。このとき同じ戦場にはヤン・ジシュカという名の傭兵がいた。
約20年後、ヤン・ジシュカはチェコのフス戦争の指導者となり、小銃と荷馬車を用いた集団戦術で神聖ローマ帝国の騎士たちを打ち破る。
その愛弟子であった傭兵隊長ヤン・イスクラ(ギシュクラ・ヤーノシュ)は後にハンガリー王に仕え、極度に火力を高めた「黒衛軍」と呼ばれる精鋭部隊を率いて、ティムールによる損害から立ち直ったオスマン朝を幾度も翻弄する。
オスマン朝はその戦訓から大量の火薬兵器を導入し、1453年に巨砲を駆使してビザンツ帝国を征服し、チャルディラーンの会戦でサファヴィー朝ペルシアを、マルジュ・ダービクの会戦でマムルーク朝エジプトを圧倒して東地中海の覇者となっていく。
そしてまた、師と仰いだサファヴィー朝の建国者シャー・イスマーイールがオスマン朝の火砲に打倒されたのを見たティムール五世の孫バーブルも、火薬兵器を大量に導入してインド亜大陸に兵を進めるのだ。
無敵の騎馬軍団を率いたティムールが自軍を補強するために利用した「炎の槍」は、その後数十年のうちに急速に発達し、いずれ遊牧騎馬帝国の時代そのものに終焉をもたらすこととなろう。
とはいえ、差し当たってそれはまだ先の話。


エディゲの手に余った旧ジョチ・ウルスの他の地域では、ジョチの数多い子孫たちによって、さまざまな政権が生まれた。
クリミア半島では1441年にハージー・ギレイがクリミア・ハン国を建国。
同じ頃、ノガイ・オルダに追われたジョチの末裔ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流にカザン・ハン国を築き、その北東ではケレイト族のタイ・ブカがシビル・ハン国を建国した。
シビル・ハン国はウラル山脈の東、チンギ・トゥラを拠点にオビ川中流を支配し、極北に散在する狩猟民族たちを極めて緩やかに従属させた。
シビル・ハン国の影響下でオビ川流域にコミやコンダ、オブドルなど狩猟民の小王国群が相次いで誕生し、イスラームの教えは北極海の岸辺までゆっくりと浸透していった。

ウグラ河畔の対峙
(ウグラ河畔の対峙)

そんなジョチ家末裔たちの争いのなかで、西北からもう一つの勢力が登場する。
長くジョチ・ウルスに抑え込まれ、一時は独立を果たすもトクタミシュによって再び服従を強いられたモスクワ大公国である。
14世紀から15世紀にかけてモスクワは近隣のルーシ諸公国を次々に併呑し、ジョチ・ウルス崩壊後の西北ユーラシアにおける列強のひとつとして台頭する。
1480年、モスクワ大公イヴァン3世(大帝)はウグラ河畔でエディゲの子孫、アフマト・ハンと対峙した。
何週間にもわたるにらみ合いの末、アフマト・ハンの率いるキプチャク軍――ルーシの人々の呼び名では「タタール」は為すところなく撤退していった。
この「ウグラ河畔の対峙」以降、モスクワはそれまで名目的に続けてきたノガイ・オルダへの貢納を停止した。
ルーシはここに完全な独立を達成し、ジョチ・ウルス旧領を分割した多くの国々を次々に飲み込んでいく。
やがてイヴァン3世の孫、イヴァン4世(雷帝)はカザンを征服し、「チャガン・ハーン(白きハーン)」と恐れられることになる。北方の巨人、ロシア帝国の目覚めは遠くない。

グーリ・アミール廟内部
(黒いのがティムールの棺)

そして最後に。

ティムールの死から536年後、1941年6月20日にソビエト科学アカデミーのミハイル・ゲラシモフらがサマルカンドのグリ・アミール廟に葬られたティムールの棺を掘り起こした。
廟の中央に安置される黒軟玉の模棺の真下、地下数十メートルにこの大征服者の真の棺がある。
覇王の棺にはこう記されていた。

――余が深き眠りより覚めるとき、世界は大いなる災厄に見舞われるであろう

ゲラシモフは敢然と棺の蓋を取り外し、ついに稀代の征服者の頭蓋骨をその手に取った。
アドルフ・ヒトラー率いるドイツ第三帝国が突如ソビエト連邦に侵攻、いわゆる「バルバロッサ作戦」によって第二次世界大戦におけるもっとも壮大かつ悲惨な「独ソ戦」が始まったのは、その二日後のことだった。

ТАМЕРЛАН АРХИТЕКТОР СТЕПЕЙ! Полчища Великого Эмира Тимура Тамерлана!
(10分あたりで禁断の棺が……)



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(ティムールの王権や儀礼に重点を置いている)





何年も前にサマルカンドで閉館寸前にグリ・アミール廟を見に行ったとき、黒い棺の方は管理人さんにこっそり素手で触らせてもらいました。
「で、地下の棺に行く階段とかないの?」と訊いたら、管理人さんは真っ青になって「ノーノー!」と連呼しました。

おわり



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コメント

待ってました!
トクタミシュのティムール包囲網にリトアニアが入っているのは意外でした。
というのも、自分東欧史は結構好きなんです。
東欧史は西欧史と比べてよく知らないし知られていないので好奇心が湧いて、意外な発見がよくあるから好きなんです。
(ポーランドが11世紀からウクライナ方面に侵攻していたり、ブルガリアが10世紀には大帝国だったり)
そして最後にさりげなく乙女戦争も絡ませてきましたねw自分も呼んでいます!

  • 2016/04/04(月) 23:47:10 |
  • URL |
  • 王里 #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

東欧おもしろいですよねえ。「欧州世界の歴史」を書きはじめたら(いつだ)東欧にかなり重点おいて進めていこうと思っています。
「イスラーム世界の歴史」でもオスマン・ムガル・サファヴィーが一段落したら露土戦争の伏線として、ロシア帝国の興隆でまるまる一回分使うつもりです。
動乱時代がらみでポーランドのスタニスワフ・ジュウキエフスキとかについても触れようかと(もはやイスラーム史じゃない)

ティムール包囲網とリトアニアですが、微妙なんですよねー
そもそもティムール直轄領と国境接してないし、ティムール直属軍と戦ったことないし。
まあこの時期からリトアニアはトクタミシュと緊密に手を結んで裏から支援しているのは確かなので、かなり迷った末に入れました。スケールが大きくて派手な方が面白いのでw

  • 2016/04/05(火) 21:21:50 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

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