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世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史28 夜明けの稲妻

Eski çobanları(古き遊牧の民)

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その男はいつも月を見ていた。
深まる老いのなかで、白髯を撫でながら西の空の月を見ていた。
百人ほどの一族を後ろに従えて、痩せ馬のたてがみを撫でながら月を見ていた。
夕暮れの空に沈む月を追って、彼は西へ進み続けた。一族は黙々とこの老人の後をついて来た。
彼の名前はギュンドゥズ・アルプという。その男は遠い昔、ユーフラテスの岸辺で死んだ。

この一族は地獄を背後にして来た。
オグズ・トゥルクマーンのカユ部族は何世紀ものあいだ中央アジアで暮らしてきた。アム川とシル川に挟まれた、マー・ワラー・アンナフル(川の間の土地)と呼ばれる豊かな国で。
そこにある時、はるか東北の荒野から神を信じぬ侵略者たちがやって来た。
チンギス・カンと呼ばれる魔王に率いられた異教の遊牧民たち、モンゴル。
彼らは来た。彼らは殺し、彼らは破壊し、彼らは焼き払い、彼らは何物も残さずに去って行った。
だから一族は西を目指した。異教の侵略者たちの馬や毒矢の届かぬはるか彼方へ。

ギュンドゥズ・アルプは遠い昔に死んだ。
次に族長となったのはエルトゥールル。エルトゥールルは父が死んだ川を越えて、アナトリアと呼ばれる土地に来た。
ここで彼は一人の王に出会った。
ルーム・セルジューク朝のカイ・クバード。己の王国の没落が近づきつつあることを王は知らず、誇り高く強壮で、心の寛い王だった。
王はこの亡命者たちを哀れんで、小さな封地を与えてくれた。
「ソユト」と呼ばれる土地だった。
そこはイスラームの地の西の果てで、「ルーム」の都からも遠からぬところだった。
そこではムスリムもキリスト教徒も同じ顔をして同じ言葉を喋り、同じ暮らしを何百年も続けていた。
エルトゥールルの一族は、この土地にゆっくりと馴染んでいった。
冬は谷間の町で過ごし、夏は山の草原で羊を放牧する。その時は財産と妻や娘たちを谷間の修道院に預けておいた。キリストを信じる素朴な人々の修道院に。
そして彼らは山の上でアッラーを礼拝するのだった。


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この帝国の物語は西暦1270年代の西部アナトリアに始まる。
その頃、エルトゥールルの長男オスマンは、ソユトのシャイフ(長老)の娘、マルカトゥンへの恋に落ちた。彼女は糸杉のようにすらりとして、月のような眉と、夜明け前の空の色をした瞳を持ち、この地方ではまず一番の美人と言ってよかった。
オスマンは悩んだ。なぜなら、祖父の代に遠く東の国から流れ着いたカユ部族は貧しく、マルカトゥンを貰いうけるための婚資を用意できる当てがなかったのだ。
ある夜のこと、煩悶するオスマンは夢を見た。


  わたしはひとり広野に立っている。と、丘の向こうに愛しいマルカトゥンの父親、シャイフの姿が見えた。
  そのシャイフの胸から突然輝く月が出現し、高く天頂に昇ると見るや、急転直下してわたしの胸に飛び込んだ。
  思わず胸を押さえた手の隙間から一本の若木が生え出た。その樹はたちまち天を覆いつくし、四本の根は大河に変じた。
  何故かは分からないが、わたしはそれらの川の名前を知っていた。ティグリス、ユーフラテス、ナイル、ドナウという名前だった。
  その時、不意に激しい風が沸き起こった。見上げると、天を覆う大樹の葉は無数の剣と化し、一斉にはるか彼方の壮麗な都を指し示した。



「シャイフよ、私の夢を説き明かしてください」
オスマンは意を決して、夢の発端に登場したマルカトゥンの父親のもとを訪れた。シャイフ(長老)はこのあたり一帯では並ぶもののない知恵者として通っている。
一通り夢の経緯に耳を傾けたシャイフ(長老)は、黙りこくったまま、若いオスマンの顔を穴の空くほど見つめた。
「シャイフ……?」
「――エルトゥールルの子、オスマンよ。君に頼みがある」
「はい、何なりと」
「我が娘、マルカトゥンを娶ってほしい」
「いま、なんと?!」
「君の夢が告げていることはこうだ。月はマルカトゥン。君の胸から生え出た大樹は君とマルカトゥンの血を受け継ぐ子孫たち。君の子孫はやがて世界を支配し、ルームの帝都コンスタンティーニエをすらその手に握る」
「――正直に申し上げればまったく信じられません」
「君が信じるか否かは問題ではない。運命はすべて、偉大なるアッラーの御意志のうちにある」

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(「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」)


時は乱世になりつつあった。時代の奔流はソユトの町の平穏と、一族の安らかな暮らしを容赦なく押し流しはじめた。

1243年、アナトリア半島にモンゴル帝国のバイジュ・ノヤンが侵入する。7万の兵をもってこれを迎え撃ったカイ・クバードの子、カイ・ホスロウ1世はキョセ・ダウの戦いで大敗。ルーム・セルジューク朝はモンゴルの属国となった。
1277年にはエジプト・マムルーク朝のバイバルスがアナトリアに侵入、ルーム・セルジューク朝を事実上崩壊させる。
ほどなく、アナトリア半島は「ベイリク(君侯国)」と呼ばれる数十の小国に分裂した。

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(1300年頃のアナトリア半島)

戦乱はアナトリア西辺にも及んだ。「ガーズィー」と呼ばれる自由戦士たちが横行し、「異教徒への聖戦」を称してキリスト教徒の住民たちを襲撃し、キリスト教徒の側も自衛を固めはじめた。

1284年、三年程まえに父エルトゥールルの死によって族長を継いだオスマンは、例年のように羊の群れを連れて山から谷へ降りていく途中でおかしな光景を眼にした。町の住民たちが街道に柵を立てているのだ。
徐々に近づいていくと、数十人の若い男たちが敵意に満ちた視線をこちらに向けてきた。どうも自分たちを町に入れまいとしているらしい。
不穏な気配を見て取って、一族のなかで血の気の多い連中が棍棒を握りしめて前に出た。その数、およそ70名。

「――何のつもりだ」
「異教徒の羊飼いどもは山に帰れ。この町に入ってくんじゃねえ」
「――ふざけんな、俺らは毎年この道を通ってるだろうが!」

一族の男たちが一斉に飛び出すと、道を塞いでいた連中は意外にあっさりと逃げ出した。そのままオスマンの一族は町に乱入した。
長老たちが慌てて飛び出してきて土下座した。若い衆が勝手にやったことだから、どうか勘弁してくれという。その後ろから年かさの連中が次々に賠償金を積み上げた。
オスマンは賠償金をすべて一族の男たちに分配し、この町を立ち去った。

これが噂になって、オスマンのもとには家を焼かれた農民や、ガーズィーを名乗る流れ者たちが次々に押し掛けてきた。喧嘩がうまくて気前のよい大将の下についていれば、しばらくは食いはぐれなくて済むだろうという算段である。
オスマンとしてはいい迷惑だったが、仕方ないので彼らを食わせていくために手頃な敵を襲撃して食料を奪うことにした。
ちょうど良いことにこのあたりはビザンツ帝国との国境地帯で、ビザンツ方の領主たちを襲うのはルーム・セルジューク朝の国益にもイスラームの大義にもかなう。
もっともそのルーム・セルジューク朝は形骸化して久しかったし、オスマンの周囲には無二の親友の「髭無しミハル」をはじめ、キリスト教徒の連中も当たり前のように集まって来たのだが。

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(ガーズィーを連れて出陣するオスマン)

オスマンは彼らの先頭に立って近隣の砦や町への襲撃を重ね、勇敢に戦った者には土地や財物を惜しみなく与えた。
10年ほどのあいだに8つの町や砦を占拠し、1299年には要所イェニシェヒルをビザンツ帝国の守備隊から奪い取った。
この頃から、オスマンの周囲に集まった者たちは、彼を「オスマン・ベイ(オスマン侯)」と呼ぶようになった。吹けば飛ぶような規模とはいえ、オスマンの勢力はすでに一個の「ベイリク(君侯国)」と化しつつある。

しかしそれからまもなく。
泡を食らって飛んできた「髭無しミハル」の報せを聞いて、オスマン・ベイと食客郎党たちは一気に青ざめた。

「やり過ぎた、インパラトルルウが来るぞ。イイスス・フリストスよ、我らを救い給え!」
「なんということだ、アッラーよ、お助けを!」

帝都コンスタンティノポリスの目と鼻の先を荒らす「オスマン・ベイリク(オスマン君侯国)」の狼藉を腹に据えかねて、ついにインパラトルルウ――すなわち「帝国」の正規軍が出動したのである。

※「ルーム」はトルコ語で「ローマ」、「コンスタンティーニエ」は「コンスンタンティノポリス」、「インパラトルルウ」は「帝国」を意味する。


Yeşil Bursa(緑のブルサ)

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(14世紀前半のビザンツ帝国)

帝国との最初の衝突は、終わってみれば大騒ぎしたのが馬鹿馬鹿しくなるほどあっけないものだった。オスマン一党は伝説的な「ルームのインパラトルルウ」を、どうやら著しく過大評価していたらしい。
パレオロゴス朝ビザンツ帝国は衰退の一途を辿っていた。帝国軍は最初から弱腰で、一当たりして撃退されるや早々に海峡の向こうへ姿を消した。
なかば状況に流されてきたオスマン・ベイが野心らしきものを初めて抱いたのは、逃げる帝国軍を丘の上から見下ろしていたときだった。

愛妻マルカトゥンの父親が何年も前におかしな予言をした。忘れかけていた記憶が不意によみがえった。
帝都コンスタンティーニエは遠く遥かに聳えている。とはいえ、そこにたどり着くことは不可能ではないのかもしれない。
自分自身がそこに至ることはあり得ないだろうが、子や孫や曾孫たちの時代になれば、我々はその都に手が届くのかもしれない。


それからオスマン・ベイは俄然、征服活動に力を注ぎ始めた。それも闇雲に四囲を切り取るのではなく、明確な意図と戦略をもって。
彼が目指したのはウル山の斜面に位置する「ブルサ」という地方都市だった。
オスマン・ベイは辺境に生まれ、馬で数日の距離にある帝都コンスタンティーニエすらも噂に聞くばかりで、実際に訪れる機会は一度もなかった。
オスマンが自分の眼で見たなかで、もっとも美しく、もっとも富み栄えている町がブルサだった。
温泉が滾々と湧き、樹々と庭園に囲まれたブルサは、「イェシル・ブルサ(緑のブルサ)」と呼ばれることもある。
広い世界を旅する人々はブルサをありふれた田舎町と評するかもしれない。けれども、古き遊牧の民の血を引くオスマン・ベイにとって、ブルサは楽園にもっとも近い町だった。

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(初期オスマン君侯国)


オスマン・ベイは何年もかけて近隣の町や砦を占領していった。
ニコメディアを取り、アク・ヒサールを取り、カロリムニ島を奪う。
オスマン・ベイの勢力が拡大するにつれ協力者も増えた。治安と政情の安定を望む町々の寄合衆(アヒー)や、放浪のスーフィー行者たちが彼を積極的に支援し、進んで軍資金や情報を提供した。
歳月は飛ぶように過ぎ去り、いつしかオスマンの腰は曲がり、髭もすっかり白くなった。愛しいマルカトゥンはすでに亡く、代わりに力強い息子たちが彼の身辺を守った。

1326年、オスマン・ベイはいまや数千人となったガーズィーたちを率いて孤立したブルサを完全包囲した。彼は68歳に達していた。

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(オスマン・ベイ)

「――オルハン、ブルサは美しいな」

ウル山の斜面に沿って古い城壁に囲まれたブルサの町。それを見やりながら、オスマン・ベイは傍らに立つ息子に低く呟いた。

「――わしの親父殿は貧しい羊飼いの長老で、そのまた親父殿ははるか東の国からここまで旅をしてきた。羊飼いだったわしは、これまで何十年もブルサを目指してきた。そのブルサが、いま、手の届くところまで来た……」
「――父上」
「――ブルサは、わしの夢であった……」

医師には固く口止めされているが、オスマンの身体はすでに病魔にむしばまれ、余命は僅かだという。
父は夢を手にするまで生きていられるのだろうか。オルハンは小さなため息をついた。

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(オスマン帝国最初の首都、ブルサ)

1326年の夏の盛り、ブルサ陥落を目前にオスマン・ベイはこの世を去った。のちにオスマン帝国初代皇帝、「オスマン1世」と呼ばれる人物である。
父の亡骸をブルサの丘の頂きに葬ったオスマンの子オルハン・ベイはさらに征服を進めていった。
マルマラ海の南岸をニカイア(イズニク)、ニコメディア(イズミト)と東進し、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世の親征軍をペレカノンで撃退。1338年には、狭い海峡を隔ててコンスタンティノポリスを指呼の間に望むスクタリ(ユスキュダル)までを制圧した。
かたわら、西隣のカレスィ君侯国を王位継承争いに乗じて併合し、オスマン君侯国は急速に西部アナトリア有数の大勢力へと成長していった。

そうするとこれまでのような牧民集団の延長のようなかたちでは、巨大化した領土を統治しきれなくなる。
オルハンは先進地域である東部アナトリアやイラン高原から流れてきたウラマー(学者)やカーディー(法官)を積極的に登用し、そのなかのひとりであるアラエッディン・パシャという人物を初代宰相とした。
また、これまでオスマン君侯国の軍隊はカユ部族の族民や寄せ集めのガーズィー、さらにはオスマン家と個人的に親交を重ねていた近隣のキリスト教徒領主たちまでを含む雑多な集団だったが、オルハンは直属常備軍の編成に着手した。

オルハンは誕生まもないオスマン君侯国を真の意味での国家へと飛躍させた優れた指導者だったが、決して玉座にふんぞり返っていたわけではない。
1332年、稀代の旅行家イブン・バットゥータがブルサを通過し、建国まもないオスマン君侯国の姿を生き生きと書き記している。それによればオルハンは日々領国を馬に乗って巡察し、戦いでは最前線で兵士たちと共に戦っていたという。
オルハンは無名の庶民とも同じ目線で世間話を交わし、貧民には自ら施しのスープを配って回った。この時代のオスマン君侯国はかように素朴な小国だった。

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(オルハン・ベイ)


Altın İmparatorluğu(黄金の帝国)

古代ローマ帝国の片割れ、東ローマ帝国。
すでに一千年の歴史を閲し、かつて「ビザンティウム」と呼ばれたコンスタンティノポリスの街を帝都とするこの国を、後世の我々は「ビザンツ帝国」と呼ぶ。

第四次十字軍による帝都失陥後、帝国有数の大貴族テオドロス・ラスカリスが西部アナトリアのニカイアに亡命政権を築く。
そして1261年、ニカイアの第4代皇帝ミカエル・パレオロゴスが帝都を奪還し、パレオロゴス朝ビザンツ帝国を創建する。
しかし古き黄金の帝国はすでに満身創痍の有様で、北をブルガリア王国、西をセルビア王国、南をイタリアの海港都市国家、ジェノヴァやヴェネツィアの艦隊に脅かされていた。
また、アナトリア西部にはサルハン君侯国とアイドゥン君侯国という二大国があり、これこそがビザンツ帝国にとって最も警戒すべき相手だった。それに比べれば新興のオスマン君侯国など、まだしも与しやすい。

ために皇帝アンドロニコス3世はペレカノンの戦い以後、オスマン君侯国とは手を結ぶことを選択した。
和議締結にあたってビザンツ帝国側の窓口となったのが、「メガス・ドメスティコス(帝国最高司令官)」の地位にあるヨハネス・カンタクゼノスという大貴族だった。

カンタクゼノスは有能で精力的な軍人にして政治家、かつ当代随一の教養人だった。ブルサの君侯オルハン・ベイはカンタクゼノスと接するなかで、広い世界と異文化への眼を開かれた。
カンタクゼノスにとってもオルハンとの出会いは心躍るものだった。
帝都コンスタンティノポリスの黄金の宮殿を行き来する貴族たちは骨の髄まで野心の塊で、あらゆる社交や会話の裏には陰険な術策が潜んでいる。だが、爽やかな夏の風が吹き抜けるブルサではそんなことはあり得ない。
オルハンも、彼の周りの戦士たちも、どこまでも誠実で真っ直ぐな気性の人々だった。

つまるところ、オルハン・ベイとカンタクゼノスは知己としての交わりを結ぶ。そんなカンタクゼノスが、まもなく海峡の向こうで政変を起こした。

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(ヨハネス6世カンタクゼノス)

1341年にアンドロニコス3世が死去し、幼いヨハネス5世パレオロゴスが帝位を継ぐ。
カンタクゼノスは宮廷最大の実力者となったが、彼の政敵たちが悪しき噂を流した。野心家カンタクゼノスは幼帝を廃して帝位簒奪を目論んでいるというのだ。彼は「祖国の敵」と宣言され、首都コンスンタンティノポリスを追放された。
セルビアに逃れたカンタクゼノスは「君側の奸を除く」と称して兵を挙げ、本当に「副帝ヨハネス6世」を名乗った。
内乱が拡大するなか、カンタクゼノスは海峡の東に密使を送り、かねてからの盟友オルハンに助勢を依頼した。
オルハンはこれに応じ、5500の兵とともにチャナッカレの瀬戸(ダーダネルス海峡)を渡ってヨーロッパ大陸に足を踏み入れた。西暦1346年のことである。

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(1355年頃のビザンツ帝国とセルビア、ブルガリア、オスマン君侯国)

オスマン君侯国の支援を得たカンタクゼノスはついに帝都コンスタンティノポリスに入城し、盟友オルハン・ベイに実の娘を娶らせた。ここにオスマン家はビザンツ帝国大貴族の血統を取り込んだのである。

皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの治世は苦悩多きものだった。
衰えゆくビザンツ帝国は内憂と外患にこもごも見舞われた。
海にあってはイタリア半島の海港都市国家、ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国の艦隊がエーゲ海の島々を襲撃し、陸にあってはブルガリアとセルビアの脅威が途絶えることなく、国内においては貴族たちの政争が延々と続いた。
その最たるものは、お飾りにされた「共同皇帝」ヨハネス5世と支持者たちである。彼らは1352年にセルビアの大王ステファン・ドゥシャンと組んで反乱を起こした。

ステファン・ドゥシャンといえばマケドニア、テッサリア、エピロス、アルバニアを征服し、「ドゥシャンの法典」を発布し、「セルビア人とローマ人の皇帝」を称した東欧史上で屈指の英傑である。
カンタクゼノスは再びオルハンに支援を求めた。オルハンは長子スレイマンに2万の兵を預けて海峡を渡らせた。
スレイマンはステファン・ドゥシャンのテッサロニキ攻撃を阻止し、戦況を膠着させる。そのさなかにステファン・ドゥシャンが急死し、辛うじて帝国は守られた。
カンタクゼノスは支援の見返りとしてオルハンにダーダネルス海峡西岸、ガリポリ半島先端部の小さな砦を与えた。オルハンはここにスレイマンと駐留軍を置いた。
オスマン君侯国はルメリア(バルカン半島)に永続的な橋頭堡を獲得したのである。

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(オルハンの治世下におけるオスマン君侯国の拡大)

1354年3月2日、この地方を大地震が襲う。
震災は海峡両岸にわたったが、最も早くに衝撃から立ち直ったのはガリポリ半島のオスマン君侯国駐留軍だった。
オルハン・ベイの子スレイマンはささやかな騎兵隊を率いて古い小砦を出陣し、一路半島を北上した。帝国の諸城砦はいずれも城壁が崩れおち、瓦礫の山となっていた。
呆然と立ちすくむ人々をよそに、オスマン軍は次々に新月の旗を立てていった。
皇帝カンタクゼノスは愕然としてブルサに急使を送ったが、オルハンは返還に応じなかった。
君侯オルハンと皇帝カンタクゼノスのあいだにいかに長年にわたる敬意と友情の絆があろうとも、オスマン君侯国はそもそも異教の大地を征服すべきガーズィーの国。
古き帝国の障壁は崩れ、黄金の輝きは色褪せた。ルメリアの巨大な大地を前に、オルハンが猛り逸る戦士たちに停戦を命じる理由など何もなかった。

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(中世東欧の歴史について、詳しくはこれを)



Yaşın Hüdavendigar(帝王ムラトの時代)

1360年頃、オスマン君侯国の実質的な建国者ともいうべきオルハン・ベイはこの世を去った。将来を嘱望された長子スレイマンは数年前に鷹狩り中の事故によって早逝しており、次男ムラトが君侯国を継承した。
ムラト1世、異名はヒュダヴェンディギャール。ずばり「帝王」という意味である。
彼は父や祖父と同じように全軍の先頭に立って戦うことを厭わなかったが、父祖たちよりも広大な領土を支配し、いくつもの属国を従える君主であり、ときに「ベイ(君侯)」ではなく「スルタン」と称することもあった。
オスマンの国は「君侯国」の枠を超え、強大な一王国へと変貌しつつある。それゆえ、今後この国を「オスマン朝」と表記する。


ムラトは即位後アナトリアでの反乱鎮圧と勢力拡大に専念し、その後は一介の行政官から抜擢した大宰相チャンダルル・カラ・ハリル・パシャとともに軍制整備に勤しんだ。

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(イェニチェリの再現)

王朝草創期に主力を担ったガーズィーたちはアクンジュ(尖兵)と呼ばれるようになり、不正規兵として未征服地に随時侵入し、略奪や攪乱を行なう使命を与えられた。
一方、正規軍とされたのはカプクル(軍人奴隷)である。その主力となったのはイェニチェリと呼ばれる常備歩兵軍だった。
イェニチェリは、被征服地のキリスト教徒の少年たちを強制徴用(デウシルメ)し、イスラームに改宗させ、洗脳に近い教育を施してスルタンへの絶対的な忠誠心を植え込んだものである。
彼らは妻帯を禁じられ、スルタンを父と仰ぎ、ベクターシュというイスラーム神秘主義教団の戒律に従って集団生活を送った。平時にはスルタンの周囲を護衛し、戦時にはスルタンの親衛隊となった。
その規律は実に見事なもので、警備に立つイェニチェリは何時間も身じろぎもしないので、まるで彫像のように見えたと伝えられる。


この時期もっぱら前線の指揮をとったのは、ベイレルベイ(全軍司令官)としてルメリア方面における軍事全権を委ねられたララ・シャヒーン・パシャである。
はやくも1362年、ララ・シャヒーン・パシャはビザンツ帝国第二の都市ハドリアノポリス(アドリアノープル)を占領した。この町は以後、トルコ語で「エディルネ」と呼ばれることになる。
エディルネはバルカン半島各地から集まった諸街道が帝都コンスタンティノポリスを前に合流する地点である。帝国にとってみれば、ハドリアノポリス陥落は、すなわち帝都孤立を意味する。

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(オスマン草創期を飾る猛将、ララ・シャヒーン・パシャ)

帝国ではヨハネス6世カンタクゼノスが廃位され、カンタクゼノスによって実権を奪われていたヨハネス5世パレオロゴスが単独皇帝となった。
ヨハネス5世はオスマン朝の進撃に対して手も足も出ない有様で、かつて帝都コンスタンティノポリスを奪った教皇や欧州諸国にまで援軍を嘆願した。

欧州はようやくオスマン朝という新興勢力の存在を認識しはじめた。いつの間にかこの異教徒たちはダーダネルス海峡をわたり、ヨーロッパ大陸の一角に地歩を固めつつある。今のうちに叩かねば、遠からず巨大な災禍となるやもしれぬ。
フランス・アヴィニョンの教皇ウルバヌス5世は欧州に反オスマン十字軍の結成を呼び掛け、ハンガリー・ブルガリア・セルビア・ワラキア・ボスニアがこれに応じた。
だが、オスマン軍は五ヶ国連合軍をマリッツァ川で奇襲し潰走させる。世にいう「セルビア崩れ」である。アナトリアからルメリアに戻ったムラトは、まもなくエディルネをブルサと並ぶ王朝の首都と定めた。

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(ムラト1世のもとでのオスマン朝の拡大)

1371年、雪辱を期す東欧諸国はセルビア皇帝ステファン・ウロシュ5世を中心に連合を組み、ムラト不在の隙をついてエディルネに急迫した。
が、わずか数百の手勢を率いたララ・シャヒーン・パシャは因縁のマリッツァ河畔で敵陣を夜襲し、数万にのぼる東欧諸国軍を壊滅させた。セルビア副帝ヴカシンまでが首級を挙げられる有様だった。
ララ・シャヒーン・パシャは勢いに乗ってマケドニアとギリシア北部を制圧し、セルビアの勢威は一気に衰える。また、彼は同年のうちにブルガリアも破り、この東欧で一、二を争う大国にオスマン朝への従属を強制した。

そんななか、ビザンツ帝国でお決まりの政変が起こる。皇太子がクーデターを起こして皇帝ヨハネス5世を幽閉したのである。
ムラトは頼まれもしないうちに出陣し、ヨハネス5世を帝座に復帰させた。そして支援の代償を強要した。すなわち、帝国の臣従である。
吹けば飛ぶような弱小国まで落ちぶれたビザンツこと「ローマ帝国」は、泣く泣くオスマン朝への服従を誓約した。ヨハネス5世は次男マヌエルをブルサのオスマン宮廷に人質として差し出した。

ムラトは軍事的圧力と政略結婚を駆使してアナトリア方面でも着々と支配を拡大し、ゲルミヤン君侯国とハミド君侯国の大部分を制圧し、アナトリア西部の覇権を握った。

マリッツァ川の大敗、ビザンツ帝国の屈服、ブルガリアの降伏……相次ぐ急報を受けて欧州諸国、ことにアヴィニョン教皇庁は急速にオスマン朝への警戒を強めつつある。
教皇庁はひそかに中部アナトリアの大国、カラマン君侯国に使者を送ってオスマン朝への敵意を煽った。
これに対し、ムラトは直属のイェニチェリやアクンジュに加え、ルメリアの諸属国からも多数の兵を集めてカラマン君侯国の本拠コンヤに進軍し、圧倒的な勝利を収めた。
いまやバルカン半島でもアナトリア半島でも、オスマン朝に真っ向から挑める勢力は見当たらない。

Miloš_Obilić,_by_Aleksandar_Dobrić,_1861
(ムラト1世を殺したミロシュ・オビリッチ)

オスマン朝の主力軍が中部アナトリアに向かう。その隙をついてルメリア、すなわちバルカン半島で炎が上がった。
1389年、セルビア公ラザール・フレベリャノヴィチを中心に、ボスニア国王スチェパン・トヴルトコ、ワラキア公ミルチャ1世など、東欧諸侯が大連合軍を結成してオスマン朝への決戦を挑んだのである。
オスマン軍は急遽ルメリアに引き返し、6月15日にセルビア南部のコソヴォ平原で東欧連合軍と合い見えた。

東欧諸侯は決して一枚岩ではなく、自身と一族の利益のためには日常的に敵と味方を取り換える。この戦いでも東欧キリスト教圏の少なからぬ貴族たちがオスマン朝の陣営に馳せ参じた。
連合軍の盟主ラザールは目を怒らして平原の向こうに並ぶ同族たちの軍旗を睨みつけ、やがて広く知れることになる呪いの言葉を投げつけた。

  セルビアの民としてセルビアの地に生まれ、セルビアの血脈を受け継ぎながら、我らとともにコソヴォで戦わぬ者たちよ。
  汝らはどれほどに望もうとも子孫を残すことはできぬ。男児を生すことも女児を生すこともできぬ。
  その手から蒔かれた麦が実ることは決してない。黒い葡萄も白い小麦も、決して実ることはない。


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(コソヴォ古戦場の記念塔にラザールの呪いが記されている)

「――父と子と聖霊の御名において、そして祖国セルビアのために……騎士たちよ、前へ!」

ラザールが大音声を発すると、セルビアの騎士たちは一斉に剣を抜き放った。並足、早足、駈足、そして疾走。たちまち軍馬の群れは怒涛の勢いで突撃に移る。

オスマン軍の陣営からは一切の鬨の声が揚がらず、かわりに不気味な太鼓の音が鳴り響いた。
一定のリズムを刻む太鼓の音とともに、機械のように歩調を合わせてイェニチェリたちが前進を開始する。
湿原で翼を休めていたクロウタドリたちが時ならぬ気配に怯えて一斉に空へ飛び立った。その羽音にもかき消されることなく、オスマン軍の太鼓は鳴り続ける。
その響きはオスマン帝国がアジア・アフリカ・ヨーロッパの覇者となる日まで、決して消えることはないだろう。

コソヴォの戦い」は、この戦場に集った誰もが記憶にないほど激しいものになった。
オスマン朝がバルカン半島の覇権を確立するか、ダーダネルス海峡の彼方に追い返されるか。誰もが今日の戦いこそ、今後数世紀にわたる東欧の運命を決するのだと知っている。
が、激闘のさなかにとんでもないことが起こった。連合軍の配置を密告すると称してオスマン軍の本営に入ったセルビア騎士が、スルタン・ムラト1世を刺し殺したのだ。
繰り返すがセルビア諸侯は連合軍とオスマン軍の両陣営に参加している。敵味方の区別が不分明ななか、一瞬の隙を衝いての暗殺だった。


Yıldırım Bayezid(バヤズィット稲妻王)

Битва на Косовом поле.
(セルビアか旧ソ連の映画っぽい)


オスマン軍の本営は大混乱に陥った。打ち鳴らされる太鼓の響きも一瞬途絶えかけた。事情を知らない前線の兵士たちも太鼓の響きの異変を感じて思わず手を止めた。
そのとき一人の若者が馬を駆って本営に駆け込んできて、慌てふためく兵士たちに怒声を浴びせた。

「打て、打て、なぜ打たぬ! 我らの勝利は決して揺らぎはせぬ!」

彼はムラト1世の子、バヤズィットであった。
時ならぬ混乱の理由を知ったバヤズィットは直ちにスルタンとして即位し、即刻、同じ戦場で戦っていた実の兄弟たちを全員殺害した。王位継承に異を唱える可能性がある者たちを事前に抹殺したのである。
折しもオスマン軍は左翼をセルビア騎兵に突破され、敗走寸前の状態だった。バヤズィットは最前線に取って返すと自ら戦いに加わった。
バヤズィットの勇戦につられて兵士たちも態勢を立て直し、セルビア軍を押し返す。バヤズィットは連合軍の盟主ラザールをはじめ多数のセルビア貴族たちを捕え、オスマン軍を勝利へと導いた。

800px-Baiazeth.jpg
(バヤズィット1世)

それからのバヤズィットは東へ西へと息つく間もなく戦争に明け暮れることになる。
「ヒュダヴェンディギャール(帝王)」と謳われたムラト1世の横死によって、オスマン朝に降った諸属国による反乱や、近隣諸国の侵攻が相次いだのだ。

アナトリアではカラマン君侯国がサルハン・アイドゥン・メンテシェなどの周辺諸国を糾合してオスマン領に侵攻。
バヤズィットはラザールの遺児ステファンをセルビア公に立てて臣従を誓わせると、電光石火の勢いでアナトリアに向かい、たちまち戦線を押し戻した。
属国としたビザンツ帝国から人質として出された皇太子マヌエルを伴ってアナトリア最後のビザンツ帝国領フィラデルフィアを攻め落とし、1391年にはカラマン君侯国の首都コンヤを包囲して広大な領土を割譲させる。

直後にマヌエルがオスマン軍を脱走した。コンスンタンティノポリスで父帝ヨハネス5世が死去したことを知り、帝位継承とオスマン朝からの自立を目論んだのだ。
バヤズィットはこれを追跡してコンスンタティノポリスを包囲し、新帝マヌエル2世に臣従を誓約させた。
ところが二年後の1393年にマヌエルの弟テオドロスがモレアス(ペロポネソス半島)でオスマン朝への敵対姿勢を露わにした。激怒したバヤズィットは再びコンスタンティノポリスを囲んだ。

帝都コンスタンティノポリスは千年の時を経て、なお難攻不落を誇る要塞都市である。
バヤズィットは一隊をこの都を張りつけ、遠巻きに包囲した。海軍力を持たないオスマン朝はダーダネルス海峡を封鎖することこそできなかったが、陸路で帝都内外を行き来することは不可能となった。包囲は実に七年に及んだ。

その一方、バルカン半島での勢力拡大も着々と進め、ボスニアやアルバニアに兵を進め、ブルガリアの反乱を粉砕して首都タルノヴォを占領し、ドナウ以南を完全に制圧。
バヤズィットの進撃は常に雷のように迅速で、その戦いは稲妻のように苛烈だった。いつしか人々は彼を「ユルデュルム(稲妻王)」と呼ぶようになった。
しかし、そんな稲妻王がどうしても勝てなかった相手もいる。

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(ワラキアは現在のルーマニア南部)

ドナウの北にワラキア公国という国がある。
ワラキアはブルガリアやハンガリーやジョチ・ウルスといった諸大国が衰退するなか、東欧辺境にいつの間にやら出現した小国である。
しかしその国民は自分たちをローマ人の末裔と信じ、その土地を「ロマニア」と呼んで誇っていた。今日の「ルーマニア」である。

当時ワラキアを支配していたのは国公ミルチャ1世。のちに「ミルチャ老公」と呼ばれる人物である。
外交と内政の才によって国内を安定させたミルチャはドナウ下流域への進出を図り、同じ地域を狙っていたバヤズィットと衝突した。
バヤズィットはワラキアごとき簡単にひねりつぶせると思っていたに違いない。しかし、ミルチャは1394年10月にカラノヴァサの戦いで稲妻王を見事に打ち破った。バヤズィットにとって人生で最初の敗戦であったと思われる。
雪辱を期すバヤズィットは4万の軍を集めてドナウを渡り、真っ直ぐワラキア中部に侵攻した。ミルチャは国中の農民や豪族をかき集めても1万弱の軍しか組織できなかったが、ワラキアの森と湿地に潜んでしつこくオスマン軍への襲撃を繰り返した。
オスマン軍は徐々に疲弊し、1395年5月にロヴィネ平原で本格反攻に転じたミルチャによって徹底的に叩きのめされた。

ミルチャの勝利は伝説となり、彼は「キリスト教徒の諸侯のうちでもっとも勇敢にして聡明な人物」と称えられるようになる。

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(ミルチャ老公)


ワラキア公ミルチャの背後には、それよりもはるかに強大な敵がいる。それをバヤズィットは知っていた。ハンガリー国王ジギスムント。のちの神聖ローマ帝国皇帝である。

そもそもハンガリーは欧州中部で最強の大国だった。数百年前にアジアの草原からやってきたハンガリーの民は今なお尚武の気風を保ち、騎馬戦闘にも熟達している。
また、ハンガリーを支配したアールパード朝やアンジュー朝の王たちは巧みな政略結婚や野心的な対外攻勢によって、北はポーランドから南はダルマチアまで、幾度も王国の領土を拡張した。

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(中世ハンガリー王国の最大勢力圏)

バルカン半島の二大国、セルビアとブルガリアがともにオスマンに屈服したいま、ハンガリー王国はオスマン朝と直接国境を接するに至った。
ジギスムントは欧州諸国に使者を遣わし、いま一度の反オスマン大連合軍の結成を呼び掛けた。教皇庁はこの連合軍に「十字軍」のお墨付きを与えた。

まもなく、野心と功名心に燃える騎士たちが欧州各地から続々とハンガリー王国の首都、ブダ(現在のブダペスト)に集まりはじめた。
ジギスムントはオスマン軍をブダに引きつけ、長途の行軍に疲弊させる策を立てた。だが、西欧から来た諸侯はこの戦略に激しく異を唱えた。
彼らはオスマン軍と戦った経験を持たない。莫大な戦費を費やしてここまで来たからには、一日も早く異教徒どもを討ち滅ぼして武勇の誉と山のような戦利品を勝ち得たいではないか。

10万の「十字軍」がハンガリー平原を全速で南下する。ジギスムントは現地事情に精通したワラキアのミルチャ老公に「十字軍」の指揮を委ねようとしたが、西欧諸侯は当然これにも猛反発した。
バルカン半島の町々は「十字軍」によって次々に略奪された。正教を奉じる東方のキリスト教徒たちは、西欧の騎士たちから見れば異教徒同然にしか思えなかったのだ。
現地のキリスト教徒たちは「十字軍」から逃げ惑い、むしろオスマン朝の側に進んで情報を提供した。バヤズィットは満を持して「十字軍」を待ち構えた。

1396年9月、「十字軍」はブルガリア北端のニコポリスに到達し、この町を包囲した。
ニコポリスはドナウ南岸の高台の上に聳える要害である。攻めあぐねた「十字軍」は包囲態勢を敷いたままダラダラと酒宴を続け、前哨戦で捕虜にしたオスマン軍の将兵たちを気慰みに処刑して過ごした。
そこをバヤズィット率いるオスマン朝の大軍が急襲する。
まさに夜明けの稲妻のごとく。

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Doğu'da Şeytan(東の魔王)

敵軍急襲を知った「十字軍」では、待ち望んだ武功に目がくらんだ西欧の騎士たちがジギスムントやミルチャ老公の制止も聞かず、我先に陣営を飛び出していった。統制も何もない滅茶苦茶な開戦だった。
オスマン軍の側はまったく対照的に、隅から隅まで統制が行き渡っていた。イェニチェリ、アクンジュ、スィパーヒ騎兵隊、属国の補助軍や不正規軍らはバヤズィットの意志を完璧に体現し、機械のように正確に機動した。
「十字軍」の騎士たちはオスマン軍によって次々に粉砕され、殺され、捕えられた。
ジギスムントとミルチャ老公は、ただただ唖然として惨状を見つめるばかりだった。これほど馬鹿げた戦いは見たことも聞いたこともなかった。

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(ジギスムントの敗走)

戦場を辛くも逃れたジギスムントはドナウ川を下ってコンスタンティノポリスに辿りつき、地中海を経てハンガリーに帰国した。
ジギスムントが狭いダーダネルス海峡を通過するとき、オスマン軍は海岸に捕虜たちを並べて嘲ったと伝えられている。
ミルチャ老公はハンガリーによる支援の望みを絶たれ、オスマン朝との最前線でひとりはかない抵抗を続けるしかなかった。

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(その後のジギスムントが登場する)


バヤズィット1世率いるオスマン軍がニコポリスの戦いで圧倒的な勝利をおさめたことが知れ渡ると、全ヨーロッパは恐怖に包まれた。

長い包囲に苦しむコンスタンティノポリスでは、皇帝マヌエル自身が西欧諸国に遊説の旅を決意した。
幸いにも海はオスマン軍に封鎖されていない。イタリアの艦船に乗り込んだ皇帝は地中海を越え、遠くフランスやイングランドまで足を運んで必死に援軍を乞い求めた。
だが、ニコポリスの衝撃を受けた西欧諸国では、誰ひとり帝都救援を名乗り出ようとはしなかった。

第二のアッティラが東の地平に登場した。今や彼らの大陸の一角を制した異教大国の勢いは止めようもない。稲妻王の進撃を阻むには奇跡を待つしかないと思われた。
その奇跡は、ほどなく顕在する。


――アミール・ティムール・キュレゲン

その男の名前がオスマン朝の人々の口の端に上りはじめたのはいつ頃からだろうか。
遠くマー・ワラー・アンナフルを拠点として、わずか十数年のうちにイランを制し、キプチャクを制し、西ユーラシアを覆う巨大な帝国を築き上げつつある男。
東の魔王。

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(ティムール)

ルメリア方面からの脅威を絶ったバヤズィットは以後数年間、もっぱらアナトリアでの勢力拡大に専念する。
1398年にエルテナ君侯国とカラマン君侯国、1400年にエルジンジャン、1402年にゲルミヤン君侯国を征服し、オスマン朝の領土はアナトリア半島のほぼ全域を覆う。
そこにティムールに追われた黒羊朝の君主、カラ・ユースフが庇護を求めて亡命してきた。この事件がオスマン朝とティムールとの関係を決定的に悪化させる。

1402年、「七年戦役」のさなかにあるティムールは20万近い大軍を率いてアナトリアに侵入した。オスマン朝に追われた東部アナトリアの旧君侯たちを加え、ティムールの軍容はさらに膨らみ続けた。
折しもコンスタンティノポリス包囲陣のなかにあったバヤズィットは、七年にわたった包囲をついに解いて全軍を海峡の東に移動させる。
両軍は7月20日、中部アナトリアのアンカラで激突する。

ティムールは世界の歴史上で最強の名将である。

アンカラの戦い」は夜明けから夕暮れまで続き、激闘の果てにオスマン軍は一万数千の戦死者を出して崩壊した。
残軍のほとんどは王朝の血脈を維持するために王子たちとともに戦場を離脱。孤立したバヤズィットは直属軍が全滅すると単騎逃走を図ったが、馬から振り落とされて捕虜となった。

魔王はバヤズィットをきわめて丁重に待遇したが、バヤズィットの自尊心は捕囚の屈辱に耐えられなかった。1403年、バヤズィットは捕虜として護送されているなかで病死した。
オスマン・ベイの建国からおよそ一世紀。羊飼いの一族からルメリアとアナトリアにまたがる大国にまで発展したオスマン朝はここに滅亡した。


Amaç Konstantinopolis(帝都を夢見て)

――というのは正しくない。
オスマン朝は滅亡寸前に追い込まれた。ティムールの軍勢はアナトリア全土を制圧し、バヤズィットに追われた君侯たちをすべて元の領土に据え直した。
しかしアンカラの戦場から逃れたオスマン家の王子たちと軍隊は一時ルメリアに退避して、魔王の嵐を凌ぎ切ったのだ。

ティムールが去ると、バヤズィットの遺児たちのあいだで王位継承をめぐる内乱がはじまった。
およそ10年にわたった内乱の末、最後に勝利したのはアマスィヤの総督をしていたバヤズィットの子メフメトだった。

1413年に正式にスルタンとして即位したメフメト1世は「チェレビー(典雅王)」という綽名で知られる。
彼は内乱に勝利するためにビザンツ皇帝マヌエル2世や、再び自立に傾いたセルビア公ステファンと同盟を結び、内乱平定後も積極的に外征をしようとはしなかった。
国内においては名門チャンダルル家をはじめとするテュルク系貴族たちを優遇し、ひたすら国力の回復につとめた。

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(メフメト1世と高官たち)

1421年にメフメト1世が死去すると、その子ムラトが即位する。オスマン朝で二人目のムラトなので、後世には「ムラト2世」と呼ばれるスルタンである。
それまで再興されたオスマン朝はビザンツ帝国との小康を維持していたが、この時にわかに関係が悪化する。
メフメト1世の死を好機と見たビザンツ帝国が、アンカラの戦いで死んだはずのメフメト1世の兄弟、ムスタファを名乗る人物をオスマン朝の新スルタンとして擁立し、内政干渉を図ってきたのだ。
ムラト2世は激怒し、この「偽ムスタファ」を討ち滅ぼすとコンスタンティノポリスを包囲した。オスマン朝は再び牙を剥く大国として蘇りつつあった。

ムラト2世の時代にはハンガリー王国との争いが断続的に続いた。
この頃、ハンガリー王国では名将フニャディ・ヤーノシュが実権を掌握し、王国南部に広大な私領地を得て、強力な常備軍によってオスマン朝と熾烈な攻防を繰り広げたのだ。

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(フニャディ・ヤーノシュ)

フニャディ・ヤーノシュはボヘミア(チェコ)で神聖ローマ帝国の大軍に対して頑強に抵抗を続けたキリスト教の少数派、フス派の戦術を取り入れ、多量の火薬兵器によってオスマン軍を圧倒した。
フニャディ・ヤーノシュの軍隊を前に幾度も敗走したオスマン軍も急速に火器を導入し、イェニチェリたちに大量の小銃を支給した。15世紀初期のバルカン半島はユーラシア世界における戦術革新の中心であった。

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(小銃を持つイェニチェリ)

フニャディ・ヤーノシュとオスマン朝の最終決戦は1444年のヴァルナの戦いである。
急速に国力を増強していくオスマン軍に勝ち続けられなくなったフニャディ・ヤーノシュはハンガリー国王ウラースローを名目的な最高指揮官に戴き、欧州諸国に援軍を呼びかけてブルガリアに進軍した。

秋の小雨が降り続くなか、ヴァルナの湿地帯で十数万の軍勢が衝突する。ハンガリー王国摂政として実質的な全軍指揮の任にあたっていたフニャディが本営を離れたとき、国王ウラースローが突然オスマン軍に向かって自ら突撃を始めた。
ハンガリー軍はオスマン軍の中央を突破し、スルタンの本陣を守るイェニチェリたちのただ中に突入した。不意を衝かれたイェニチェリたちは大混乱となり、ハンガリー軍はムラト2世の眼前まで迫った。
ところが、ここで悲劇が起こった。まさしく目と鼻の先にムラト2世の姿を捉えながら、ハンガリー王ウラースローの馬が転倒したのだ。
泥濘に投げ出されたハンガリー国王はたちまちイェニチェリたちに殺害された。これによってハンガリー軍の指揮系統は崩壊した。
フニャディ・ヤーノシュは辛くも残軍を取りまとめて撤退する。バルカン半島の覇権は再びオスマン朝の手に帰した。

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(ハンガリー王ウラースローの突撃)

ハンガリーの力が後退したいま、東欧でオスマン朝に従おうとしない勢力はほとんど残っていない。ミルチャ老公の子で、長年フニャディ・ヤーノシュと共闘してきたワラキア公ヴラド2世もオスマン朝に臣従した。
ただひとつだけ、オスマン朝の領土の中心に小さな都市国家が独立を維持している。それこそはかつて地中海全域を支配した古代ローマ帝国の成れの果て、今や帝都のみを辛うじて維持するビザンツ帝国である。

ムラト2世の頃になると、オスマン朝はいつでもビザンツ帝国を滅ぼせるだけの力を取り戻している。だが、オスマン朝はあえてこの小さな「帝国」を温存し続けた。

その理由はいろいろとある。
いかに衰えたりといえども、この国は紛れもなく「ローマ帝国」そのものである。千数百年にわたる歴史はあまりに重く、見えざる鎧となって侵略の手を止めさせる。
さらに、うかつに帝国を滅ぼせば欧州諸国がどのような反応を見せるか、想定しづらいところもある。

また、オスマン朝内部の事情もある。
メフメト1世の帝国再興以後、オスマン朝ではチャンダルル家をはじめとするテュルク系貴族たちの権益が大きくなっている。
大規模な戦争を行なえばスルタン直属のイェニチェリやアクンジュが前面で活躍をすることになり、貴族たちの立場が脅かされる。
過度の王権強大化を避けたい宮廷貴族たちは、スルタンが帝都に色気を見せるたびにそれとなく反対し、結果としてビザンツ帝国を延命しつづけて来た。

だが、ここで。

1451年、ムラト2世が病死し、19歳の若きスルタンがエディルネで即位する。彼の名はメフメト。後世に「メフメト2世」と呼ばれる君主である。
古代ギリシアの伝説に憧れ、アレクサンドロス大王を崇拝するこの若者は、永遠の都コンスタンティノポリスを陥落させて歴史に名を刻むことを熱望していた。

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(メフメト2世の即位)

玉座についたメフメト2世は、父が定めた師傅にして大宰相たるチャンダルル・ハリル・パシャを呼び出した。そして反論を許さぬ口調で、彼は口にしたのだった。

「ラーラ、リュトフェン・コンスタンティーニエ!(師よ、あの町を俺にくれ)」、と。

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(オスマン帝国前半期の歴史について要領よくまとまっている)

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コメント

ついに来ましたね、オスマン帝国!
鈴木董さんの本を読んで以来、世界史のお気に入りの帝国の内の一つです。
ふと思ったんですが、オスマンの夢がメディア王女マンダネの夢と似ている気がするんですが、ひょっとして流用したのでしょうか?

  • 2016/04/22(金) 22:21:27 |
  • URL |
  • 王里 #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

連休中はインドネシアに逝ってるので、そのまえに上げとこうと頑張りましたw

どうなんでしょうね?
オスマンの夢はウィキペディアに書いてあった逸話で、正確な出典は不明ですがたぶん後世のオスマン朝の歴史書でしょうね。
オスマン朝の知識人たちがヘロドトスの『歴史』を読んでいたのかどうか・・・

  • 2016/04/22(金) 22:56:39 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

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