世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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中華世界の歴史19 光武中興の世

赤龍の裔たち

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(『後漢書』「光武帝紀」冒頭)

新の王莽は紀元23年10月に滅びたが、中華の動乱は更に苛烈さを増す。天下は前漢二百年を経て再び項羽と劉邦の時代に戻ろうとしていた。
目下、強盛と目されるのは河南を中心に中原主要部を掌握した更始帝・劉玄の政権である。
この政権は数年前に湖北で発生した民衆反乱軍と、河南の南陽盆地を基盤とする大豪族たち、いわゆる「南陽劉氏」が連合して生まれた。

南陽は伏牛山脈によって北の洛陽や鄭州から隔てられ、南を湖北の丘陵に限られた南北140キロ、東西200キロほどの盆地である。戦国時代には楚国に属し、中原に向かう楚の軍勢がたびたび南陽盆地を通過している。
秦の時代には流刑地となり、漢の時代には南方開発の拠点として多くの人々が移住。製鉄や商業によって栄え、活気に溢れる社会となっていた。
この土地には皇族劉氏の一族が大領を与えられ、諸侯王として土着した。南陽劉氏はその末裔で、漢の皇室と遠い血のつながりを持っている。

南陽
(南陽盆地)

王莽政権の末期、南陽地方は荒廃した。
劉氏の末裔たちは分割相続を繰り返しつつもなお大豪族として広大な荘園(領地)を所有していたが、王莽が定めた領地制限法(王田制)によって打撃を受けた。
政府による物価調整と専売拡大(六官制)や粗悪な新通貨の発行で異常な物価騰貴が発生し、無秩序な地名や官職名の改変で行政も混乱する。
そこに無謀な対匈奴戦争がはじまり、物資調達を目的とする税の取り立てが苛斂誅求を極めた。豪族の客分や小作人たちは群盗と化し、人心が乱れるなかで劉氏漢王朝の再興を望む声が巷に溢れる。
そんな時運のなかで野心を滾らせたのが漢の景帝から六代後の子孫にあたる劉縯(りゅうえん)劉玄(りゅうげん)だった。

劉縯は自分を漢の高祖の再来と信じており、遠い先祖である劉邦と同様に家業(荘園経営)を厭い、多くの食客を引き連れて町を練り歩き、近隣に豪傑として知られていた。
王莽の世が乱れると彼は荘園で大量の武器を密造し、22年10月に私兵を率いて兵を挙げた。この年、28歳であったという。
南陽劉氏の長老たちは驚き呆れ、災難が身に及ぶことを恐れて一斉に逃げ隠れた。
「劉縯が生まれた時に赤雲でも出たか? 金光でも差したか? とんでもない、あいつは見た目だけ高祖に似せた無頼漢ではないか」
南陽劉氏の長老たちは、劉縯が高祖の再来だとは毛頭信じていなかった。

だが、劉縯の弟の劉秀(りゅうしゅう)が挙兵に加わったことが知られると、空気が一変した。

劉秀は兄とは真逆の謹厳実直な青年だった。
かつて常安(長安)に留学して儒教を学び、帰郷してからは家業に励み、折に触れて小作人たちとともに畑を耕した。劉邦が手を加えた農地は他の土地の二倍、三倍もの実りを上げるというのがもっぱらの評判だった。
劉秀は決して兄の企てに賛同したわけではない。兄をいくら諌めても聞く耳を持たないことを悟り、嫌々ながら剣をとったのだ。
しかし実情を知らない劉氏の有力者たちは、思慮深い劉秀が兄に従ったことで劉縯への加勢を決断した。

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(劉秀は馬がないので牛に乗って出陣した)


一方、劉玄は劉縯・劉秀兄弟から見ると四代前の先祖を共有する遠縁の親族で、南陽劉氏全体の本家当主に当たる人物だった。
ある時、彼の食客が犯罪を犯して官憲に追われる身となった。劉玄は巻き添えを食らうのを避けるために死んだふりをして行方をくらまし、湖北で緑林軍の反乱が発生するとこれに参加。毛並みの良さもあってか、すぐに幹部格となった。

南陽劉氏は本家当主の劉玄が参画する緑林軍と合流して気勢を上げたが、彼らの反乱はわずか数ヶ月で挫折する。小長安(現在の河南省南陽郡育陽)で連合軍は新の正規軍に大敗し、多大な損害を出して敗走したのである。
しかし南陽劉氏はすぐに勢力を建て直し、年が明けると南陽太守が率いる正規軍を撃破した。
ここで反乱軍の最高指導者選出が提議された。反乱軍の規模は早くも10万を超え、指揮系統を統一する必要に迫られていたのだ。
票は南陽劉氏を糾合した劉縯と、本家当主である劉玄とのあいだで真っ二つに割れた。
劉氏の分裂を危惧した劉縯は本家当主の劉玄に潔く座を譲る。劉玄は23年2月に「更始帝(こうしてい)」を称した。すなわち「Emperor the Renewal」、世界を再興する皇帝の謂いである。

狼狽した王莽は百万を号する大軍を河南に急派するが、6月に劉縯の弟である劉秀が昆陽の戦いでこれを撃破する。そして劉縯自身も南陽盆地を制する帝国有数の大都市・苑(えん)を陥落させた。
更始帝は文武百官を任命し、漢の元号を復活させ、王莽が漢の平帝を毒殺したと糾弾した。王莽政権に激震が走り、帝国全域で堰を切ったように反乱が沸き起こった。しかし劉縯兄弟の大功は彼らの運命を急変させることになる。
6月下旬、更始帝・劉玄は自派諸将の進言を入れ、あまりにも武名を高め過ぎた劉縯を謀殺したのだ。

劉秀は取るものも取りあえず更始帝のもとに参上し、平身低頭して兄の「罪過」をひたすら詫びた。服喪も哀悼もせず、ただただ謹慎に徹した。昆陽の勝利についても一切口にしなかった。
これで劉秀は辛うじて更始帝の粛清を免れた。当面は第一線から外されることとなったが、それくらいは仕方ないだろう。

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(更始帝…絵面に微妙な悪意を感じるw)

9月、三輔(首都圏)の豪傑たちが長安城中に乱入し、ついに王莽を殺害した。彼らは王莽の死体をバラバラに引き裂き、首級を更始帝に献上した。
更始帝は洛陽を新たな首都と定め、南陽を進発する。反乱軍の悲しさで、諸将はみな有り合わせの頭巾をかぶり、みすぼらしい衣装を着ていたので、道々の人々は失笑した。
ところが劉秀の部隊が通過するに及んで彼らは息をのんだ。謹厳な劉秀の部隊だけは由緒正しい漢帝国武官の正装を身にまとい、凛然と行軍していったのだ。

「図らざりき、今日また漢官の威儀を見んとは」

漢朝の時代を覚えている老人たちは、涙とともに劉秀の兵士たちを見送った。


疾風のみが勁草を知る

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(『後漢書』王覇伝より、「光武謂覇曰、潁川従我者皆逝、而子独留努力、疾風知勁草」)

しかしながら、更始政権がすんなりと天下を手中にすることはできなかった。
それも当然だろう。更始帝は中原一帯でもっとも強固な政治勢力を築いたものの、所詮これまでの活動範囲は南陽盆地をほとんど出ていないのだ。
山東には赤眉軍が健在だし、河北には無数の農民反乱軍が右往左往している。西や南の情勢も混沌としていた。

更始帝は洛陽に入ると四方に使者を派遣して王莽平定を告げ知らせ、速やかな帰順を呼びかけた。応じる者は多かったが、この勧告を一笑に付す者も少なくなかった。
とくに更始帝政権が危惧したのは、山東の赤眉軍と河北の諸勢力が手を結んで敵対してくる可能性だった。
黄河の北は死地である。更始帝は河北遠征軍の指揮官を募ったが、誰ひとり応じる者がない。そこで白羽の矢が立ったのが劉秀だった。
しばし逡巡した後、更始帝は劉秀を大司馬に任じて河北平定を命じた。紀元23年冬、劉秀は27歳であった。

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(緑林・赤眉・河北諸勢力)

劉秀の河北進出と前後して、邯鄲で劉子輿(りゅうしよ)という人物が漢の成帝の落胤を名乗って皇帝を自称した。動乱に翻弄される河北の民の多くは劉子與が新しい秩序をもたらすことに期待し、彼を厚く支持した。
劉秀は劉子與の正体が王郎という占い師に過ぎないと主張したが、わずかのうちに政権を確立した劉子輿は逆に劉秀こそが皇裔を詐称する真っ赤な紛い物だと主張し、莫大な身代金を掛けた。
もともと劉秀はさしたる軍勢を与えられていない。彼は至るところで襲撃を受け、真冬の荒野を転々とする羽目になった。
ある時は命からがら夜更けの町を脱出し、ある時は劉子輿の軍使のふりをして食事にありついた。ある時は激流のほとりに追い詰められ、奇跡的に川が凍ったおかげで逃走に成功した。
兵士たちが次々に脱走するなか、王覇という人物だけが決して劉秀のそばを離れようとしなかった。劉秀は彼の忠節を喜び、「疾風に勁草を知る」と表現したという。

そんな中、信都の太守がなおも劉子輿に従わず、更始帝に忠誠を誓っているという情報が入った。劉秀は急ぎ信都に向かって態勢を立て直した。匈奴に備えるため漁陽や上谷に配備されていた騎馬軍団も劉秀の麾下に加わった。
雪が解けると劉秀は逆襲に転じた。
生涯を通じて戦いを嫌ったこの人物は、その実、ひとたび剣を取れば途轍もない武勇を発揮し、兵を指揮する才にかけては並ぶ者がなかった。数週間のうちに形勢は一変し、劉子輿は邯鄲であえなく敗死した。
城中からは劉秀の部下たちが劉子輿に誼を通じていたことを示す書簡が大量に見つかったが、劉秀は中身も見ずにすべてを焼き捨てた。

夏から秋にかけて、劉秀は河北に横行する農民反乱軍との戦いを繰り広げた。
そのうち最強の勢力を誇る銅馬軍を鉅鹿近郊で撃破し、勇将・呉漢とともに急追し、館陶で再びこれを撃破。
劉秀の勢いを恐れた河北の反乱軍のほとんどが銅馬に合流するが、劉秀は蒲陽で大会戦を挑み、これらを徹底的に打ち破った。ついに銅馬軍は無条件降伏を申し出た。
武装解除された銅馬軍の兵士たちが虐殺を恐れていることを知ると、劉秀は平服で降伏兵たちのなかに歩み入り、名もない兵士たちに次々に気軽に声をかけた。

――赤心を推して人の腹中に置く

銅馬の兵士たちは劉秀の度量と胆力に惚れ込み、これ以後は劉秀の虎の子部隊として活躍する。河北の人々は劉秀を「銅馬帝」とあだ名した。
こうして劉秀は河北をあらかた掌握した。ところがその頃、黄河の南では肝心の更始帝政権が動揺をはじめていた。

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(光武帝・劉秀)

劉秀が劉子輿と激闘を繰り広げている頃、更始帝は拠点を洛陽から長安に移して大々的に論功行賞を行なった。各地の地方勢力は相次いで更始帝のもとに使者を派遣し、懸案の赤眉軍も形の上では更始帝に服従を誓った。
更始帝はこれで天下統一がほぼ終わったと思い込んだ。
彼は急速に弛緩した。後宮に引きこもって日夜酒宴に明け暮れ、臣下たちが参内すると御簾の陰から側近が更始帝の声真似をして相手をしたという。
「陛下の声じゃないだろ!」
大学の講義の代返かとツッコミたい。
ついでに何の功績もない取り巻きたちを片っ端から高位に任命した。長安の民は呆れてこんな俗謡を作ったという。
「竈を焚いて中郎将、羊の胃を煮て騎都尉になり、頭を煮れば関内侯」
空気を読まずに諫言する者が出てくると牢屋に放り込んだ。各地に派遣された将軍たちは、中央からの指令がないので自分の判断で部下に賞罰を与え、官吏を任免した。更始政権は無秩序状態になった。

年が明けて紀元25年に入ると、各地の軍閥が離反し始めた。
4月、蜀(現在の四川)で地方長官であった公孫述(こうそんじゅつ)が「白帝」を称し、「成家」という政権を立てた。
もともと公孫述は良吏として知られ、王莽の時代から現地住民の厚い支持を受けていた。
「天下は新室に苦しみ、劉氏を長く待ち望んできた。漢の将軍が来れば駆けつけて路上に跪いて出迎えよう。真主が現われるまでこの地と民は私が守る。賛同する者は残り、賛同せぬ者は自由に去るがよい」
しかし蘇った劉氏の政権は公孫述と蜀の人々の期待を見事に裏切った。それゆえ、公孫述は自ら蜀の天子となることを選んだ。
蜀は「天府の国」と謳われ、険しい山脈に囲まれた豊かな盆地である。国境の守りを固めれば自給自足は難しくなかった。

6月には部下たちの度重なる推戴を断り切れず、河北で劉秀が皇帝として即位した。
「王莽は天子の位を奪い、秀は発奮して義兵を起こした。王邑百万の衆を昆陽に破り、王郎、銅馬、赤眉、青犢の賊を誅し、ここに天下を平定した」
天への告文の内容はかなり気が早いが、こういうものは景気よく書いておくに限る。

白帝城岛
(公孫述が築いた白帝城、三国蜀漢の劉備終焉の地として有名)

同じ頃、糧食の不足で自壊の危機に直面した赤眉軍は勢力挽回を賭けて関中に侵攻し、斉人が信仰する城陽景王・劉章の子孫である劉盆子(りゅうぼんし)という少年を皇帝に担ぎ上げ、「建世」という元号を立てた。
更始帝の側近であった隗囂(かいごう)という人物は長安を脱出し、故郷の隴西(現在の甘粛)で「上将軍」を称して独立を宣言した。
河南では更始帝から冷遇された南陽劉氏の劉茂が腹いせに「劉失職」と名乗って更始帝に叛旗を翻したが、程なく黄河を越えて南下した劉秀に打ち破られる。劉茂を降した劉秀軍は9月に洛陽を占領した。
当時、周王朝の故都である洛陽は「土中」、つまり世界の中央と考えられていた。劉秀はこの洛陽を拠点と定める。この都はこれから何世紀にもわたって中華帝国の聖都と見なされ続けるだろう。

そのほか斉王・劉永が黄河中下流域を制圧し、湖北では秦豊という人物が楚王を称して数万人を従え、夷陵で田戎という人物が周王を称し、淮南でも李憲という人物が自立称帝した。
更始政権では赤眉の関中侵攻を受けて長安放棄の声が上がるが、更始帝は憤激して赤眉の迎撃を命じた。東帰派と残留派が争い合い、大混乱のなかで更始政権は崩壊した。

長安を占領した赤眉軍は宮殿群を焼き払い、前漢皇帝陵を略奪した。単騎で逃走した更始帝・劉玄は赤眉軍に投降し、劉盆子に漢朝皇帝の璽綬を献上するもあえなく殺害された。
その赤眉軍はあまりにも肥大化しすぎて統制が取れず、飢餓に苛まれて流民の集団と化す。赤眉軍が東進に転じると、河南を押さえた劉秀が宿将の鄧禹(とうう)と馮異(ふうい)に命じてこれを迎撃させた。

26年1月、鄧禹が不意を衝いて長安を制圧。赤眉は華陰で馮異に大敗し、28年1月に宜陽で劉秀自身が率いる大軍に降伏した。
劉秀は10万の赤眉軍を武装解除すると、有り余る食糧を与えて彼らを満腹させた。赤眉に担ぎ上げられた少年皇帝・劉盆子は助命され、終生年金を与えられて天寿を全うした。
こうして華北のおよそ半分は劉秀の手に帰したのである。

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(劉秀と赤眉軍の関中争奪戦)


光武中興の世

劉秀はのちに「光武帝」と呼ばれ、劉氏漢王朝を中興した「後漢帝国」の初代皇帝として記憶されることになる。

一般に後漢帝国は西暦25年に建国されたといわれるが、これは劉秀が皇帝として即位した年である。
しかしその時点で彼が掌握していたのは現在の河北と山西一帯に過ぎず、更始帝・劉玄をはじめ数多の群雄が各地に割拠していた。
光武帝劉秀が中華の大半を再統一するのは皇帝即位から11年後の西暦36年。そして彼の王朝が高祖劉邦が築いた帝国の継承政権として匈奴や西域といった中華域外の諸勢力からも認知されるのは、西暦50年代以降である。
光武中興の世はほとんど最後まで安定に達することはなく、比類なき名将でありながら兵事を嫌悪していた劉秀は、その生涯を通じて戦いから逃れることは叶わなかった。

新莽末期群雄割据形势(简)
(新末後漢初の群雄割拠)

関中を押さえた劉秀は東で20万以上の兵力を擁する劉永を滅ぼし、南に兵を進めて湖北の田戎や秦豊と激戦を繰り広げた。
29年6月に湖北平定がなると、それより南の諸勢力は相次いで劉秀に服従を申し出てきたため、およそ半年のうちに交州(現在のベトナム北部)までが劉秀の勢力圏となった。
翌30年の春には淮南の李憲が滅亡し、長江下流域も劉秀の支配下となった。残る大勢力は隴西の隗囂と蜀の公孫述である。

30年3月、公孫述は艦船を連ねて長江三峡から出撃した。制圧間もない南方地域を劉秀政権から離反させることを意図したと思われる。
劉秀はこれを牽制するために隗囂に北から蜀を攻撃するよう命じたが、隗囂は言を左右にしてこれを拒んだ。彼は劉秀と公孫述のあいだでキャンスティングボードを握ることによって、隴西の事実上の独立を維持しようとしたのだろう。
しかし劉秀は断固として兵を西に進める。隗囂は公孫述と同盟し、天下は隴蜀連合と再興漢帝国のあいだで二分された。

32年4月、光武帝劉秀は自ら隴西に出陣した。
「敵軍はわが目の中にある」
歴戦の皇帝は淡々とそう語り、着々と開戦の手筈を整えた。
隗囂よりも遠く、西域に近い涼州を押さえる群雄の竇融(とうゆう)がチベット系諸族を含む数万の軍を率いて劉秀の軍勢に加わった。
光武帝との対峙を続ける隗囂は病に倒れ、翌33年のはじめに世を去った。34年秋、隗囂の残党はすべて平定され、隴西は後漢帝国の版図となった。いまや目ぼしい敵対勢力は蜀の公孫述のみである。

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(隗囂の勢力圏)

光武帝は戦を嫌った。それは多くの史書に記される事実である。
ある時、皇太子が比類なき武勲を誇る父帝に用兵の心得を尋ねると、帝は色をなして叱責したという。泰平の世に君臨する天子が戦のことなど知る必要はないと。

治世半ばを過ぎた光武帝は外征を避け、内政の充実にもっぱら力を注いだ。その政治理念は今日から見ても優れたものだった。
彼がもっとも重視したのは教育である。それはおそらく、彼が若き日に儒教を学んだことと関係するのだろう。儒教は人々が学問を通して人格を磨くことによって、世界に秩序と安寧がもたらされると説いている。
29年、光武帝は帝都洛陽に太学を建て、地方にも次々に学校を設立した。この政策により、後漢時代における中華世界の識字率と教育水準は前後の時代に比べて著しく向上した。
無名の庶民であっても四書五経のあらましを学び、儒教倫理に沿って己の行動を律し、他者の言行を評価した。

さらに、光武帝は儒教思想に則ってさまざまな国家儀礼を整備した。そのとき、もっとも参考にされたのは前時代に王莽が定めた祭祀の有り様だった。
皇帝が天地を祭る郊祀の儀礼、四季の移り変わりの安らかならんことを祈る迎気の儀礼、帝都に聳える明堂と辟雍、孔子を祭る釋奠の儀礼、そして天下統一を天帝に告げる封禅の儀式。
王莽が夢見た世界と、光武帝が築いた国家は、実はさほど違いがない。ただ、光武帝のほうがより慎重で、より巧妙で、おそらくはより幸運でもあったのだろう。

また、光武帝は減税や戦争捕虜の解放を進めた。
前漢武帝の時代以来、貧富の格差が拡大し、大豪族による土地の兼併が進み、庶民の生活水準は低下する一方だった。
それに起因する社会不満の高まりこそが王莽の台頭と新末の動乱をもたらしたことを光武帝は正確に理解していた。前漢初期と同じく、今はひたすら民力の休養に務める必要があった。

民力休養の一環として軍縮も進める。光武帝は中原から戦乱が途絶えるにつれて徐々に郡県の兵士を解散し、必要最小限の軍隊を中央と国境沿いに駐屯させるにとどめた。
それゆえ、後漢王朝二百年を通じて中華世界の内部ではほとんど兵士の姿が見られなくなる。
こうした政策は、後漢という王朝がその成り立ちからして南陽劉氏と呼ばれる豪族たちの連合政権であり、中央政府の規模が相対的に小さかったことによって可能となった。

後々にこうした政策が新たな問題を引き起こすこともあったが、光武帝の帝国が民にとって比較的暮らしやすい社会であったことは間違いない。

光武帝(上) (講談社文庫)

(光武帝劉秀の生涯を描く歴史小説)


といっても、天下安寧の不安要因となっている蜀の公孫述をいつまでも放置しておくわけにはいかない。

「人は足ることを知らずして苦しむ。既に隴を平らげて、復た蜀を望む。一たび兵を発するごとに頭鬚為に白し……」
光武帝は公孫述討伐の号令を下す。紀元35年、漢軍はついに蜀への侵攻を開始した。

公孫述は既に60歳を越えていたが、いまも壮健だった。彼はこの戦いに勝ち抜くために手段を選ばず、緒戦では漢軍の指揮官二人を暗殺するという離れ業に出た。
公孫述にしてみれば蜀は中原に頼らずとも十分にやっていけるのであり、光武帝の側が手を出してこなければこちらも蜀に引きこもって悠々自足するのみ。漢こそ侵略者である。
もし漢が蜀への侵入に踏み切らなければ、このまま四川盆地ははるか後世のベトナムのように中華世界から自立していったのかもしれない。しかし現実は、そうはならなかった。

6月、漢の将軍・岑彭(しんぽう)は偽兵を用いて蜀軍を引きつけておいて、電撃の勢いで敵中深く進攻した。驚愕した公孫述は一言、「神か」と呻くことしかできなかった。
光武帝は公孫述の助命を約束して降伏を勧告したが、「白帝」公孫述はこれを撥ね付けた。我もまた蜀地の天子、天子に降伏はあり得ぬと。
35年11月、ついに漢軍は公孫述が築いた「成家」の都、成都を包囲した。勇敢にも矛を手にして最前線に出た公孫述は胸に重傷を受けて退却し、その夜のうちに息を引き取った。
翌早朝、ついに成都は陥落した。

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(後漢の平蜀戦)


帝国の外縁

新末後漢初の動乱。しかしそれは所詮、中華内部の争いでしかない。
王莽の台頭より四半世紀にわたって中華が内乱に明け暮れているうちに、その外側では前漢武帝が築き、宣帝が完成した漢帝国一強体制が完全に崩壊した。代わって強大化したのは匈奴帝国である。

半世紀以上前に気候寒冷化と内乱によって匈奴は東西に分裂し、東匈奴の呼韓邪単于は漢帝国に従属を余儀なくされた。草原の覇権を維持しようと努めた西匈奴は西域の果てで滅び去った。
その後は東匈奴が漢の属国として長城南北にまたがる草原地帯を支配していたが、いまや大興安嶺には烏桓や鮮卑といった新勢力が台頭し、セリンディア(タリム盆地)の諸都市も匈奴の統制を離れていた。
だが、新の王莽の強圧的な対外政策は情勢を一変させた。

王莽によって従来の位階を剥奪された塞外の諸王は、かつて北方の覇者であった匈奴に一斉に誼を通じた。烏桓や鮮卑といえども例外でない。
ときに匈奴の君主は呼韓邪単于の第五子、呼都而尸道皋若鞮単于(ことじしどうこうじゃくていぜんう)。彼は時流に乗って北に兵を進め、漠北の広大な大地に帰還した。
匈奴の民はを呼都而尸道皋若鞮単于の雄姿に、遠い昔の英雄王、冒頓単于の再来を見た。

匈奴騎馬軍団は西域に侵攻する。セリンディアの諸都市は続々と匈奴の軍門に降ったが、タリム盆地西端に近いヤルカンド王国(莎車国)が周辺諸国を糾合して匈奴に対抗した。
セリンディアは天山山脈南方の砂漠地帯にあり、個々の都市国家に大した軍事力はないものの、本気で抵抗されれば実は匈奴の騎馬軍団といえども容易に征服できるものではない。
うやむやのうちに匈奴軍はヤルカンドから撤収し、中華北域に転じた。

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(1世紀初頭のセリンディア諸国)

呼都而尸道皋若鞮単于は武帝以前の匈奴単于たちのように、北辺に割拠した群雄たちを支援して中原に統一勢力が出現するのを妨害しようとした。
とりわけ盧芳(ろほう)という人物は匈奴騎馬軍団の支援を得て五原・雲中・定襄・朔方・雁門の五郡を抑え、漢帝劉氏と匈奴攣鞮(れんてい)王家の双方の血を引くと称して皇帝を名乗った。
光武帝は匈奴軍団と正面から事を構えるのを警戒し、盧芳をほぼ最後まで放置した。しかし紀元35年に蜀の公孫述が滅亡すると、さすがに盧芳政権にも衝撃が走る。
中華域内において公然と光武帝劉秀の政権に抵抗を続けているのは自分たちだけである。蜀を平定した漢軍が次にここに来ることは疑いない。
36年、盧芳政権は自壊。盧芳自身は匈奴領に亡命し、その地で生涯を終えた。


46年、一代の英傑・呼都而尸道皋若鞮單于はこの世を去った。急速に巨大化した匈奴帝国では単于位継承をめぐる争いが相次ぎ、依然として続く気候寒冷化が混乱に拍車をかけた。
漠北は連年旱魃と蝗害に襲われ、草木は枯れ、草原は赤土の荒野と化した。人も家畜も飢えに苦しんだ。烏桓は再び叛旗を翻した。つまるところ、それはそのまま前世紀の再現だった。

紀元48年、単于の甥にあたる日逐王の「比」という人物が漠南で独立した。実に紛らわしいことに、単于に即位した「比」は自身の祖父と同じ「呼韓邪単于(こかんやぜんう)」を名乗った。
この「呼韓邪単于2世」は祖父と同じように漢への服属を誓い、漠北の敵手に対抗した。これを史上、「南匈奴」と呼ぶ。匈奴帝国は東西に分裂したあと、生き残った東匈奴がさらに南北に分裂したわけである。
とはいえ南匈奴はかつての東匈奴よりもはるかに弱体で、漢との力関係も比較にならなかった。単于の幕営を訪れた漢の使者は、光武帝の詔を読み上げるにあたり、「呼韓邪単于2世」に対して当然のように拝礼を要求した。
単于は長く躊躇ったが結局は身を伏して「臣」と称し、震える声で言上した。

「わ、私は単于となっていまだ日が浅く……我が民の前でこのような恥をかかせないで欲しい……」
「それはそちらの事情であろう。我らには与り知らぬこと」

左右の者たちはこの屈辱に対して、ただ涙をこぼすことしかできなかったという。

後漢は「使匈奴中郎将」という役職を設けて南匈奴を監視し、漠北の北匈奴に対する守備隊として使役した。
49年には烏桓も漢に従属を申し出る。こちらに対しては「護烏桓校尉」という役職を設け、同様にその動向を監視しつつ南匈奴と相互に牽制させた。

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(南匈奴は漢に臣従し、北匈奴は西方へ向かう)

中華動乱の隙をついて復興した匈奴帝国は、こうしていわば自壊した。かくて光武帝の後漢帝国は紀元50年を迎える頃、ついに大陸東方の盟主としての座を回復する。
とはいえ民力休養の方針を堅持する光武帝は積極的な対外攻勢を図ろうとはせず、北辺の守備は南匈奴と烏桓に任せ、セリンディアはヤルカンド王国(莎車国)に一任した。
この地の諸都市国家はヤルカンドの圧制に辟易して幾度か漢帝国による西域都護の設置を求めて来たが、光武帝は固くこれを拒み、ついに西域への入口である玉門関を閉鎖した。
朝鮮方面においては、扶余を破って急速に勢力を拡大しつつあったコグリョ(高句麗)の国王ムヒュル(無恤:大武神王)と清川江を国境とする協定を結んだ。
楽浪郡が再び漢帝国の統治下に入ったことで東の情勢は安定し、57年1月には朝鮮半島のさらに彼方の知られざる海域からも、「倭奴国王」の臣下と称する朝貢使節がやって来た。

それらに比べると南の情勢はなかなか安定しなかった。
雲南では幾度も大規模な蜂起が起こった。そして紀元40年には交州(現在のベトナム北部)で史上有名なハイ・バ・チュン(徴姉妹)の反乱が勃発した。

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(ハイ・バ・チュンの反乱)

もともと漢帝国の南端にあたる交州では「貉侯」や「貉将」と呼ばれる現地越人の首長たちが強い力を保っており、漢の支配はその上を薄く覆っているだけの状況だった。
しかし交州は百万近い人口を擁し、真珠や鼈甲、象牙や香木など珍奇な南方の物資を産出する。交州最南端の日南郡(現在のベトナム・クァンナム省)には南海諸地域からの物産が集積し、紅河を通じて雲南との交易も盛んである。
漢の地方官たちは交州に派遣されると在任中に収奪の限りを尽くし、莫大な富を得て長安に帰るのが常だった。それは前漢の時代も、新の時代も、そして後漢の時代も変わることがなかった。

光武帝が交州太守とした蘇定も前任者たちと同様に賄賂をかき集め、抵抗した貉将のテイ・サック(詩策)という男を殺害する。これが後漢を震撼させる一大反乱のきっかけとなった。
越地は女系社会である。テイ・サックの妻のチュン・チャク(徴側)と、その妹のチュン・ニ(徴弐)が近隣諸侯を糾合して決起し、65の城を陥として漢軍を一掃。越人の独立政権を樹立したのだ。

あまりにも遠隔の地であったため漢帝国の対処は遅れに遅れ、交州はチュン・チャクを女王として3年間独立を維持した。
しかし交州、ことに日南郡を喪えば漢は南海への接点を著しく狭められる。古代の交易船にとって、広州湾から真っ直ぐ南下して南沙諸島を抜ける航路は危険が大きすぎる。交州回復は至上命題だった。
紀元43年、歴戦の老将・馬援が「伏波将軍」に任じられ、海陸から大軍を率いて南下した。漢軍は疫病によって多大な死者を出しつつも進軍を続け、激戦の末にハイ・バ・チュンを滅ぼして交州の支配を回復する。
漢はこれを教訓に交州に大量の漢人を入植させ、屯田を進め、現地諸侯の支配を切り崩していった。その甲斐あってか、これ以後数世紀にわたって交州では大規模な反乱が発生しなくなった。
とはいえ越人の矜持は決して消えたわけではない。長い雌伏の後に越人は再び立ち上がり、今度こそ中華の領域から完全に離脱する。とはいえ、それはまだ遠い未来のことである。


紀元57年2月、光武帝劉秀は洛陽で62年の生涯を閉じた。倭奴国王の使者を引見した翌月のことであった。
これより後漢帝国二百年の歴史がはじまる。それは長い安寧に覆われていたかに見えて、その実、不断の緊張と暗流に満ちたものとなるだろう。

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