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世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史5 大征服の序章

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(西暦600年頃のサーサーン朝ペルシアとビザンツ帝国)


アラビア半島で預言者ムハンマド率いるイスラーム共同体が急速に勢力を拡大していた頃、北方では何世紀にもわたって断続的に続いてきたサーサーン朝ペルシアビザンツ(東ローマ)帝国の抗争が、まさに絶頂を迎えつつあった。

その経緯は複雑である。
稀代の名君と謳われたホスロー1世(不死霊王 ; 在位531~579)の死後、サーサーン朝の内政は次第に混乱し、590年にはバハラーム・チュービーンなる男が帝位を簒奪した。
即位したばかりで玉座を追われたホスロー2世(勝利王 ; 在位590~628)は、意を決して積年の宿敵ビザンツ帝国に亡命し、帝位奪還の支援を嘆願した。
時のビザンツ皇帝マウリキウス(在位582~602)は懐に飛び込んできた窮鳥を殺さず、兵を出してホスローの復位を助けた。大恩人である。

ところが2年後、今度はビザンツ帝国で内乱が発生し、マウリキウスは軍人フォカスによって殺害される。
ホスローは大恩人の敵討ちという格好の大義名分を得てビザンツ帝国に侵攻する。

ビザンツ帝国の帝位を奪ったフォカスは自国内において甚だ不評であったので、608年に北アフリカのカルタゴ総督ヘラクレイオスが暴君打倒の兵を挙げる。
610年、総督ヘラクレイオスの子で、同じくヘラクレイオスなる軍人が帝都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を制圧し、教会に逃げ込んだフォカスを引きずり出して処刑した。

マウリキウスを殺したフォカスが殺され、今度はヘラクレイオス(在位610~641)が帝位にのぼる。
隣国の目まぐるしい政権交代に乗じ、ホスローは一気に攻勢を強めた。

613年、ペルシア軍はシリアを制圧し、建国以来はじめて地中海を望んだ。
聖都エルサレムも陥落し、救世主イエスが架けられたとされる「真なる十字架」もペルシアへと持ち去られた。

621年にはエジプトもペルシアの隷下となる。これは実にアケメネス朝ペルシア以来、およそ800年ぶりの快挙であった。
ホスロー2世は長駆してアナトリア高原を越え、ついにコンスタンティノポリスを射程に入れた。

だが、ここからヘラクレイオスが逆襲に転じる。
彼はアナトリアを占領するペルシア軍を迂回して、サーサーン朝ペルシアの本拠地たるメソポタミアに踏み込んだ。
こうして世界の歴史でも類を見ない、「超大国の支配者が最前線に出て、ほとんど同時に互いの首都に手をかける」という事態が発生する。

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(サーサーン朝ペルシアとビザンツ帝国は存亡をかけて大戦を展開する)


ホスロー2世はバルカン半島の遊牧民アヴァール族と結んでコンスタンティノポリスを重包囲するが、この伝説的な堅城はついに陥落しなかった。
一方、ヘラクレイオスはカスピ海北方に蟠踞する遊牧民ハザール族と提携し、中部メソポタミアに置かれるペルシア帝国の国都クテシフォンに迫った。

累年の外征はペルシアの国土と民に巨大な負担を強いていた。クテシフォン城内で反乱が起こり、勝利王ホスロー2世は実の息子カワードによって暗殺されてしまった。

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(ホスロー2世を屈服させるヘラクレイオス)


628年にようやく講和が成立し、征服された広大な版図も、奪われた「真なる十字架」も、すべてビザンツ帝国へ返還された。
ペルシアは疲弊を極め、宮廷では陰謀と政争が渦巻く。まもなく発生した大洪水によってシュメール・アッカドの時代から受け継がれた南部メソポタミアの灌漑システムも崩壊してしまう。
辛うじて勝利をおさめたビザンツ帝国も無傷には程遠い。いわば二人の巨人が全力で殴りあった結果、西南ユーラシアの大地は荒れ果ててしまったのだ。
砂漠の蜃気楼の中からアラブの戦士たちが忽然と姿を現したのは、そんな状況のなかだった。



ウンマ(イスラーム共同体)の勢威によって、リッダ戦争が終結するとアラビア半島から戦火が途絶えた。
だが、それまで何世紀にもわたって部族紛争を繰り返してきたベドウィンたちは、新たな略奪の機会を求めた。
半島北部のベドウィンたちはマディーナ政権の意向をはかることなく、盛んに南メソポタミアへの襲撃を繰り返していた。

633年、ヤマーマの「偽預言者」ムサイリマを討ったハーリド・イブン・アルワリードは、そのまま北へ軍を進め、この襲撃に加勢した。
砂漠の奥深くからやってきたアラブの戦士たちは、生まれて初めて見る豊沃な大地に驚きの目を見張った。
見渡す限り広がる黒土と緑。アッラーの創造した世界はかくも美しいものであったのか。
戦争によって疲弊したとはいえ、メソポタミアの野はアラビアの砂漠とは比較にならないほど生命豊かでみずみずしい。

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(メソポタミア平原を流れるユーフラテス川。アラビア語ではナハル・アルフラート)


シリア方面でも征服が開始される。
もともとこの地域はヒジャーズの人々にとって長年交易で往来した馴染みの土地である。
ムハンマドの生前より、マッカとマディーナの争いで停滞した南北交易を再開し、北部の部族をウンマに従わせるべく、幾度かシリア方面に遠征が行われていた。

アブー・バクルはこの政策を引き継ぎ、「聖戦」の大義と莫大な戦利品の獲得を示唆してアラブ諸部族から兵を募り、2万4千の軍を北へ送った。
ハーリドはシリア方面への加勢を命じられ、人跡未踏の北アラビア砂漠を突破して西部戦線へ移動した。

アラブ軍は怒涛のようにシリア地方に展開する。635年9月にはシリアの主邑ダマスクスが陥落し、バールベック、ヒムス、ハマーなど名だたる諸都市が次々にアラブ軍に降った。
もともとシリア地域は単性論派キリスト教徒が多く、三位一体派のコンスタンティノープルとは疎隔があった。皇帝の支配を嫌い、むしろ積極的にイスラーム勢力を歓迎する町々も少なくなかったという。

ビザンツ皇帝ヘラクレイオスは愕然とした。人生の半分をかけて取り戻したものが、再び奪い取られようとしているではないか!

636年、ヘラクレイオスは自ら軍を率いてシリアに入る。千年以上にわたって東地中海を支配してきたローマ帝国と、旭日のごとく上昇するウンマとが雌雄を決するときが来ようとしていた。


一方、マディーナでは初代カリフのアブー・バクルが634年に世を去った。
カリフの位にあることわずか2年だったが、その短い期間に離反勢力を制してアラビア半島を再統合し、大征服への先鞭をつけるという偉業を達成している。

アブー・バクルは死に臨んでウマル・イブン・ハッターブを後継者として指名した。

ウマルもまた長くムハンマドに従ってきた信仰厚いムスリムである。
彼は当初マッカの町でムハンマドを迫害する側だったのだが、ムスリムたちがあまりにも理不尽な嫌がらせをされているのを見て、義侠心からイスラームに改宗したという伝説がある。
熱血漢で豪傑肌で正義感が強く、不正を見ると黙っていられないのがウマルだった。

ウマルは当初、「ハリファト・ハリーファト・ラスールッラー」と称した。
「神の使徒の代理人の代理人」。前任者アブー・バクルより、さらに一段低いところに自分を位置づけたのだ。
だが、この称号はいかにも回りくどい。結局のところ、ウマル以降のウンマの支配者たちも単純に「ハリーファ」(カリフ)と呼ばれるようになる。

称号が長すぎたせいか、ある時ひとりのムスリムがウマルに向かって「アミール・ムウミニーン(信徒の指揮官)」と呼びかけた。
豪傑肌のウマルはこの呼び名がすっかり気に入り、それ以後常用するようになる。この呼称も以後のカリフたちに受け継がれていく。

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(大征服時代のアラブの戦士)


シリアの戦線ではビザンツ帝国軍との決戦のときが迫る。

ハーリドは一度占領した地域を次々に手放し、ビザンツ軍を奥へ奥へと誘い込んだ。
そして636年8月20日、ヨルダン渓谷北部のヤルムーク河畔で5万とも15万ともいわれるビザンツ軍と、2万5千のアラブ軍が激突する。
その日は真夏の太陽のもと、猛烈な砂嵐が吹き荒れていた。砂漠の民にはおあつらえ向きだった。
ビザンツ軍の兵士たちは重い鎧を着けて暑熱を浴び、烈風に目を開けることもかなわない。
ハーリド・イブン・アルワリードの指揮は苛烈である。アラブの戦士たちは雄叫びを揚げながら敵軍を断崖の縁に押し込んでいった。逃げ場を失ったビザンツ兵たちは次々に絶壁の下の激流へと追い落とされていく。

「ああ、シリアよさらば! そなたは敵にとってなんと麗しい国なのだ!」

ビザンツ軍は惨敗した。
皇帝ヘラクレイオスは将兵のほとんどを失い、半生の偉業が崩れ去るのを目の当たりにして絶望のうちにアナトリアへと撤退していった。
636年のヤルムーク河畔の戦いをもって、ビザンツ帝国はシリアの地を永遠に失った。
ヘラクレイオスは悲嘆のあまり心を病んだ。水を見るのを極度に恐れ、板囲いをした船に乗って辛うじて帝都に帰還したという。
ペルシア帝国との長い戦争と、アラブの大征服によるアジアとアフリカの喪失。
これによりビザンツ帝国は古代ローマ帝国以来の伝統と完全に断絶し、中世ギリシア帝国としての性格を強めていくことになる。


だが、勝者の側にも悲劇は待ち受けている。
ハーリドはあまりにも勝利を重ねすぎた。カリフ、ウマルはウフドの戦いで預言者ムハンマドの生命を奪いかけた男を決して信用していなかった。
大敵が去る時、名将の役割は終わる。

ヤルムーク河畔の戦いの前夜、ハーリドの天幕にマディーナからの急使が訪れた。ウマルはついにハーリド罷免を決断したのだ。

ハーリドはウマルの命を秘匿したままビザンツ軍と戦い、世界の歴史に残る圧倒的勝利をおさめた後に全軍の前で自らの失脚を公表した。
将兵は粛然として声もなかった。
神の剣ハーリドは直ちに戦場から去り、征服間もないシリアの一隅で4年後に寂しく生涯を閉じることになる。

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(ヤルムークの古戦場)


638年、聖都エルサレムが降伏した。
ここは預言者ムハンマドが天使ジブリールに伴われて訪れ、天馬ブラークに乗ってアッラーのもとへと昇天したと伝えられる聖地である。
ウマルは自らエルサレムを訪れ、地に額づいてアッラーに感謝を捧げた。


シリア戦線で活躍していた部将のひとり、アムル・イブン・アルアースが、この時ウマルにエジプト侵攻を進言した。
ウマルはためらった。彼の地理認識では、アラビアから見て紅海対岸に位置するエジプトは、海の向こうの異国だった。
いかにアッラーの加護が限りないとはいえエジプトはあまりに遠く、侵攻は危険であり、前線の独走を制御することも困難であろう。

「わしはマディーナに戻って長老たちに事の是非を諮ろう。そなたがミスル(エジプト)に入る前に進軍停止の命令が届いたら、直ちに兵を引き上げよ。もし国境を越えてしまっていたら……アッラーに運命を委ねよ」

640年、アムルはわずか3千の兵士を率いてエジプトに侵攻した。
途上、ウマルからの書簡が届いたが、アムルはハーリドほどに純朴ではなかった。
彼はそれを懐にしまい込んだまま進軍を続け、国境を越えた時点ではじめて書簡を開封した。

「アミール・ムウミニーンはエジプト侵攻を思いとどまるよう仰せだ。だが、すでに国境を越えた以上はアッラーに運命を委ねたてまつるのみ!」

ここでも皇帝の支配を嫌う単性論派(コプト派)キリスト教徒がアラブ軍を歓迎したため、征服は順調に進行した。
641年1月、ビザンツ帝国のエジプト支配の中枢であったアレクサンドリアが開城。
アムルは現在のカイロ付近に「ミスル・アルフスタート」という軍営都市を建設し、マディーナのカリフに意気揚々と戦勝報告を送付した。

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(アムル・イブン・アルアースがフスタートに建設したアフリカ大陸最古のモスク)


東方でも大征服は進捗する。

ハーリドがシリアに転戦した後メソポタミア戦線はしばし停滞するが、ウマルはリッダ戦争でウンマから離反した諸部族を動員して前線に投入。
総司令官には古くからのムスリムであるサアド・イブン・アビ・ワッカースが任じられた。

637年、サアドは1万7千のアラブ軍を率いてヒーラ近郊のカーディシーヤでペルシア軍と対峙した。
ペルシア軍の司令官ルータフタムス(ロスタム)は10万規模の大軍を動員し、前線にインドの巨象を並べてアラブ軍を威圧したが、アラブ軍は長槍で象の群れを刺し貫き、幾度も突撃を繰り返した。
指揮官ルータフタムスが乱戦の中で討ち取られ、ペルシア軍はそのまま敗走した。

メソポタミアにおいても、キリスト教徒やユダヤ教徒の住民たちはゾロアスター教を奉じるペルシア人よりもイスラーム勢力の支配を歓迎したという。
結局のところ、ホスロー2世の長い戦争でペルシアの支配にはすっかり愛想が尽きていたのだろう。

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(カーディシーヤの戦い)

アラブ軍は年内にクテシフォンを占領し、ペルシア帝国が何世紀にもわたって蓄えてきた莫大な財宝を目の当たりにした。
アラブの戦士たちは防虫用の樟脳を塩と間違えて口に入れ、金塊を捨てて価値が理解できる銀を集めたと伝えられる。

642年、サーサーン朝ペルシア最後の皇帝ヤズデギルド3世(在位632~651)はイラン高原からかき集められるだけの兵士をかき集め、ザグロス山脈を越えて来たアラブ軍に最後の決戦を挑んだ。

サアド・イブン・アビ・ワッカース率いるアラブ軍はおよそ3万。
一方で皇帝ヤズデギルドは15万の軍を戦場に動員した。衰えたりといえども、ペルシアはなお大帝国だった。
三日間にわたる激戦が続き、形勢不利となったアラブ軍は一部の部隊を切り離し、戦場の横側に回り込ませた。


アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)!!!


天地を揺るがす鬨の声をあげてアラブ軍が全軍突撃する。
敵の援軍に奇襲を受けたと思い込んだペルシア軍は総崩れとなる。

後の世に「勝利の中の勝利」と謳われたニハーヴァンドの戦い

西暦224年に初代アルダシール1世が即位して以来、およそ420年間にわたって西アジアに君臨してきた大帝国サーサーン朝ペルシアは、この日この戦いをもって崩壊した。
ヤズデギルド3世は遠く中央アジアまで落ち延びて再起をはかるも、9年後に辺境の名もなき民に刺し殺される運命である。

こうして古代オリエントの歴史は終わりを告げ、イスラーム世界の歴史がはじまった。


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(ウマル晩年のイスラーム勢力の版図)


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