世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史29 征服者の時代

承前・新月の系譜

Conquest_of_Constantinople,_Zonaro
(コンスタンティノポリスを望むメフメト2世)

帝都コンスタンティノポリスは、その始まりから世界の首都たる運命を背負っていた。

紀元330年、ローマのコンスタンティヌス大帝がこの都を築いた。
アジアとヨーロッパが指呼の間に向かい合い、地中海と黒海が接するこの場所は、ほどなく世界でもっと豊かな都市のひとつとなった。
その豊かさゆえに、帝都コンスタンティノポリスは幾度も敵襲にさらされた。しかし激しい潮流と巨大な城壁があらゆる攻撃を撥ね返し、何世紀ものあいだこの都は難攻不落の誉をほしいままにした。

古代ローマ帝国の分裂後、コンスタンティノポリスに拠る東の帝国ビザンツはさらに千年の齢を保った。
栄光と暗黒がこもごも来たり、国威は浮沈を繰り返した。
アラブの大征服によってシリアとエジプトは永遠に帝国の手を離れたが、マケドニア朝の時代に帝国は東地中海の覇権を取り戻した。しかし11世紀には西のノルマン人、東のテュルク人が腹背から帝国を猛襲する。
ときの皇帝アレクシオス1世は窮余の策として西方から傭兵を呼集するが、この「十字軍」と呼ばれる集団はたちまち帝国の統制を離れてシリアに自立し、1204年には帝都そのものを奪う。
ニカイアに成立した亡命政権は半世紀ほどのちに帝都奪還を果たすが、すでにビザンツ帝国はエーゲ海北部の渺たる小国と化していた。

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(紫色が1450年頃のビザンツ帝国)

アナトリアで最初のテュルクの国、ルーム・セルジューク朝の繁栄はモンゴル襲来によって終わりを告げた。
14世紀のアナトリアは「ガーズィー」と呼ばれる群雄たちが互いに争う戦乱の地となった。そんななか、半島西北隅にオスマン君侯国と呼ばれる小国が誕生した。
動乱に追われる難民たち、安住の地を求めるデルヴィーシュ、異教徒との聖戦を夢見る戦士たちが次々にこの最果ての国に流入した。

1354年、オスマン君侯国はダーダネルス海峡を越え、異教の大陸に初めて橋頭堡を得た。
1365年、オスマン朝はアドリアノープルあらためエディルネを都と定め、本格的な西方進出を開始する。
1373年にビザンツ帝国を属国とし、1389年にはコソヴォの戦いでセルビア王国を崩壊させる。1396年にはニコポリスで欧州連合軍を撃破し、第二次ブルガリア帝国を併合する。

ティムールの到来と続く十数年間の継承戦争によって欧州は束の間の安息を得るが、無力化した東欧諸国は態勢立て直しに失敗した。
まもなく復活を遂げたオスマン朝は、バルカン半島への進撃を再開した。
セルビアはオスマン朝に屈服し、公女マーラをスルタンに献上した。ハンガリーはヴァルナで大敗し、東欧最強と謳われた摂政フニャディ・ヤーノシュの勢威は失墜した。
いまやオスマン朝への抵抗を続けるのはアルバニアの英傑スカンデルベクのみとなり、ビザンツ帝国はオスマン朝の顔色を伺いながら、ペロポネソス半島の一部と、帝都コンスタンティノポリスを細々と維持するばかりである。


その前夜

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(ムラト2世)

1421年にオスマン朝の第6代スルタンとなったムラト2世は温和な人だった。
決して戦いに怯むことはなかったが、敗者を追い詰めることは好まず、いずれ隠棲してスーフィズム(イスラーム神秘主義)の道を歩むことを望んでいた。
しかし時代と立場は彼の願いを容易に叶えはしなかった。東においてはカラマン君侯国やゲルミヤン君侯国、西においてはハンガリー王国やポーランド、そしてヴェネツィア共和国がオスマン朝に敵対した。

1444年、ヴァルナでハンガリー軍に圧勝したムラト2世は君主の地位を三男メフメトに譲り、ようやく希望を実現した。
だが12歳の新スルタンは国家の統制に失敗した。


ムラト2世ははじめ、メフメトの存在をほとんど気にかけていなかった。ところが長子と次子が相次いで不慮の死を遂げたため、メフメトが11歳にしてオスマン朝で唯一の王位継承権者となる。
それまでメフメトの教育はなおざりにされていた。初めてメフメトとまともに会話を交わしたとき、ムラトは我が子の無知に呆れ果てた。
それから一年、詰め込み教育の甲斐あってメフメトは六ヶ国語を操る秀才児となったが、国政を担うにはまだ早過ぎたのだろう。

メフメトはいきなりコンスタンティノポリス攻撃を命じて高官たちを仰天させた。
ビザンツ帝国が本音のところで何を考えているかは知れたものではないが、いちおうかの国はオスマンの属国である。これといった大義名分もなく、多大な犠牲を払って難攻不落の帝都を攻めるなど馬鹿げている。

ザドラザム(大宰相)チャンダルル・ハリル・パシャは少年王の命令をやんわりと拒絶した。メフメトは激怒したが、廷臣と民衆と軍隊はことごとく大宰相を支持し、新スルタンへの不満を露わにした。
大宰相は軍の不穏な動向を見て取って、隠棲していたムラト2世に復位を求めた。
1446年秋、やむなくムラトが復位。エディルネは喜びに沸き立った。少年メフメトは廃位され、西部アナトリアのマニサへ送られた。

1448年、形勢挽回を図るハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュがオスマン朝への攻撃を再開したが、ムラトはコソヴォでこれを撃破。ハンガリーの脅威は消滅した。
それから三年後、1451年2月にムラト2世はエディルネで息を引き取った。

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(ビザンツ帝国最後の皇帝、コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガゼス)

ビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世は、かつて兄帝のもとでペロポネソス半島の統治を委ねられ、モレアス専制公を称していた。
彼はパレオロゴス朝成立後もこの地に居座っていたラテン人たちを駆逐し、ヴァルナの戦いに際してはオスマン朝からの自立を目指して北進した。
だが、ハンガリー軍の敗走が彼の夢を打ち砕く。押し寄せるオスマン軍はコリントス地峡の防壁を徹底的に破壊し、コンスタンティノスはおよそ半月にわたる攻防の末、ムラト2世に屈服した。

この敗北が皇帝としての彼の原点にある。
もはやビザンツはどう足掻いてもオスマン朝に対抗し、名実備えた帝国として蘇ることはできない。東欧の諸国も頼むに足りぬ。
それゆえ彼は西欧との連携を試みた。だが何世紀にもわたるローマ・カトリックとギリシア正教の分裂ゆえに、西方諸国は帝国の支援を渋り、帝国内部でも西との連携を支持する者は稀だった。

焦るコンスタンティノスはムラト2世の死を好機と見た。
その頃、オスマン朝の遠縁の皇族が帝都コンスタンティノポリスに亡命していた。コンスタンティノスはこの皇族の監視費用をメフメトに請求した。
ビザンツ帝国がオスマン朝の王位請求権者を抱えていることを示して、メフメトの政権基盤確立を妨害するつもりだった。

19歳の新スルタンは凍るような眼で皇帝の使者を、そしておのれの臣下たちを見つめた。いまや彼の望みを妨げるものは何もない。

「――師よ、あの町を俺にくれ」

大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは一瞬息を呑み、肩を落として嘆息した。

「――御意のままに」

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(メフメト2世ファーティフ)

オスマン朝第7代君主、メフメト2世
ムスリムとしての正規の教育を受けるよりもずっと前に、乳母の寝物語で聞いた古代ギリシアの神話伝説、とりわけアレクサンドロス大王の英雄譚に彼は深く憧れていた。

千年の歳月を閲してきた帝都コンスタンティノポリス。
そこで絢爛たる古代の廃墟のなかに、ローマ人の最後の末裔たちが居座っている。
これを完全に滅ぼし、コンスタンティノポリスをイスラームの都と化すことができれば……それは父祖たちの誰もが果たし得なかった偉業。預言者ムハンマドの昔からムスリムたちが抱いてきた征服の夢。

1451年冬、メフメト2世はストルマ流域の町々からギリシア人を追放し、領土全域から何千人もの石工を召集した。
翌1452年4月、ボスポラス海峡西岸に「ルメーリ・ヒサール」と呼ばれる城塞の建設が始まった。
帝都コンスンタンティノポリスは不安と疑惑に覆われ、疑惑は急速に確信へと変化した。オスマン朝は再び帝都攻囲を目論みつつある。

コンスタンティノス11世はスルタンに城塞建設の意図を問い質す使節を送ったが、彼らはことごとく首を刎ねられた。
8月、ルメーリ・ヒサール完成とともにメフメト2世は海峡の封鎖を命じた。
そしてエーゲ海沿岸各地で軍船の建造を指示し、大軍の動員準備に取り掛かる。

皇帝は諸外国に救援を求める使者を送った。だが東や北の正教諸国は遠く無力だった。西のカトリック諸国は互いの内紛と長年の宗派対立から、帝国の嘆願を黙殺した。
千年帝国は孤立無援となった。

1453年4月5日、オスマン朝の全軍が帝都コンスタンティノポリス外周に集結した。
城壁から見はるかす野も丘も海上も、二つの大陸から召集されたオスマン朝の大軍勢に埋め尽くされた。その数、およそ10万。対するに帝都防衛軍は、多少なりとも戦いに耐え得る男たちをすべてあわせても8千名に満たない。
かくてビザンツ帝国最期の戦いが開幕する。


帝国の終焉

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(コンスタンティノポリスの包囲)

戦いは激しい砲撃とともに始まった。メフメト2世はこの戦場に、ウルバンという技師が鋳造した8メートルの巨砲を持ち込んだ。これまで世界で作られた中で最大の大砲だった。
絶え間ない砲撃によってテオドシウス城壁はたちまち崩れはじめた。この城壁は最初の火薬兵器が登場するよりはるか以前に築かれたものだった。
しかし防衛軍は死の危険を省みずに城壁を修復し、果敢な抵抗を続けた。

海上ではオスマン艦隊が帝都の内港、金角湾への侵入を試みたが、湾口に張られた鉄鎖に阻まれて失敗。4月20日には南から来援した四隻のジェノヴァ船がオスマン艦隊を突破して金角湾に入った。
激怒したメフメトは艦隊司令官を更迭し、コロを使って艦隊を陸から金角湾に侵入させた。それでも帝都の抵抗は続く。

とはいえ防衛軍は日が経つにつれて疲弊の色が濃くなり、絶望が帝都を覆っていく。
ヴェネツィア艦隊を探索に出た船が決死の覚悟で帝都に戻り、エーゲ海のどこにも援軍は見当たらないと告げた。
帝都コンスタンティノポリスは、帝都を築いたヘレナの子コンスタンティヌスと同じ名前の皇帝の御代に滅亡するであろう……古い言い伝えが人々の口の端にのぼりはじめた。

5月24日、満月。この夜、月食が起こり、闇が三時間にわたって地上を覆った。
不安に駆られた市民たちが聖母のイコン(聖画)を掲げて市街を巡回すると、突然イコンが台座から滑り落ちた。駆け寄った人々はイコンの重さに驚いた。誰もそれを持ち上げて台座に据え直すことはできなかった。
その後、にわかに激しい雷雨と雹が帝都を襲い、翌日には深い霧が立ち込めた。誰も言葉にこそ出さないが、今や疑問の余地はなかった。神は帝都コンスタンティノポリスを見捨てたのだ。

廷臣たちは皇帝コンスタンティノスに帝都脱出を進言した。
皇帝コンスタンティノスはこのとき48歳。温厚で思慮深く、誰に対しても声を荒げることはついぞなかった。帝都の人々は政策への賛否を問わず、等しくこの皇帝を敬愛していたという。
亡命を勧められた皇帝は静かに、だがきっぱりと首を振った。
神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。されど、聖なる臨在が帝都を見捨てても、皇帝は最期まで帝都に留まるであろう。皇帝は帝都の民とともに生き、帝都の民とともに死ぬであろう。

月は下弦に転じ、ゆっくりと新月に向かっていった。オスマンの赤い軍旗に染め上げられた新月に。

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実のところ、包囲軍の士気も日を追って沮喪しつつあった。

陸でも海でも決定的な勝利は一度もおさめられず、城壁はいまだ突破できず、包囲の開始からすでに1ヶ月半が経過しようとしている。兵士たちは不満を漏らし、スルタンの威信は低下しはじめている。
大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは御前会議で包囲の断念を主張した。
それに対し、スルタンの信任厚いサガノス・パシャが激しく反論した。キリスト教諸国は四分五裂し、帝都救援に来る者はいない。かのアレクサンドロス大王のごとく撤兵など念頭に置かず、遮二無二攻撃を続行すべし。
メフメトはこれを採った。

「――アッラーの他に神なし、ムハンマドは神の使徒なり……」

10万の兵士たちの祈りの声が夕暮れの空と大地にうねるように広がっていく。皇帝コンスタンティノスはブラケルナエ宮殿の外壁の上に立ち、長いあいだ無言で宵闇の広野を見つめ続けた。

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(城壁の名残り)

5月28日午後、オスマン軍は全線にわたって激烈な攻勢を開始した。間断なく太鼓が打ち鳴らされ、兵士たちは次々に城壁に突撃した。絶え間なく激しい砲撃が続いた。
戦いは夜になってもおさまる気配がなく、メフメトは次から次へと新手の部隊を繰り出した。

夜明け前のもっとも暗い刻限に、オスマン朝で最強を誇るイェニチェリ親衛隊が前進を開始する。メフメトは最前線に出てこれを督励した。皇帝コンスタンティノスも前線に馬を進めた。

激闘に次ぐ激闘で、城壁を守る兵士たちは疲労の極みに達していた。そのとき、一閃の矢が守備隊を指揮するジェノヴァの傭兵隊長ジュスティニアーニの胸に突き立った。
痛みに耐えかねて絶叫するジュスティニアーニ。守備隊が動揺するなか、オスマン軍の一隊が城壁の脇の古い小門が開き放しになっていることに気付いた。

「街はもはや我々のものだ!!」

砲弾が防柵をなぎ倒す。メフメトが大喝する。イェニチェリたちが我先に突撃をはじめる。
守備隊は狼狽して為す術もなかった。階段を駆け上ったイェニチェリは小塔に翻る双頭の鷲の旗を引きずりおろし、するすると赤い新月の旗を揚げた。

城壁の下に身を置く皇帝コンスタンティノスは退路を閉ざされた。いまや帝国の希望も尽き果てた。
彼は無言で明けゆく空を見上げた。先ほどまで闇に覆われていた空はいつしか濃紺に変わり、東の空は茜色に染まりつつあった。流れる雲のなかに白い新月が上りはじめていた。
皇帝は馬を降り、帝位を示す徽章を捥ぎ取った。紫のマントを外し、鞘を投げ棄て、抜身の剣を掲げた。

「いまここで、私を殺してくれる一人のキリスト教徒もいないのか?」

寂しげに呟いた皇帝は、敢然と前を向いて歩きだした。10万の敵軍が怒涛のように殺到し、たちまちその姿は黒い人波のなかに飲み込まれていく。その後、二度と彼を見た者はいなかった。
後の世の人々は、コンスタンティノス11世は神の祝福を受けて聖人となり、いつの日かギリシアの民を救うために天から降ってくるのだと信じた。
死を越え、恐れを越え、滅びを越え、人の世の生死を抜けて、ローマ帝国最後の皇帝はとこしえの栄光に上っていったのだ。


征服王の時代

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(コンスタンティノポリスに入城するメフメト2世)

Sultan Muhammad Al-Fateh Penakluk Konstantinople

(コンスタンティノポリス陥落を大迫力で描くトルコの映画)

21歳の若さでビザンツ帝国一千年の歴史に終止符を打ったメフメト2世。
彼はその偉業を讃えて、「ファーティフ(征服者)」と呼ばれることになる。

メフメトが見た帝都は空虚だった。かつて百万の人口を誇った都に暮らす人々は、今では五万に満たなかった。
城壁のなかには田園と雑木林が広がり、古代の宮殿や修道院の廃墟が点在している。人々は13ほどの集落に身を寄せ合い、貧しい暮らしを送っていた。

若き征服者が最初に行ったのは、キリスト教徒たちの敬愛を受けていたゲオルギオス・スコラリオスという神学者を、新しいコンスタンティノポリス総大主教に叙任することだった。
かつてビザンツ帝国の皇帝たちが果たしていたのと同じ役目を、今はスルタンが果たす。不思議な光景だった。

「多き幸をもて総大主教たれ。我らの友愛の念を信じ、汝に先立つ総大主教たちが享受せるすべての特権を享受し続けよ」

メフメトは祝福の言葉とともに、法衣を、司教杖を、そして美しい十字架を手ずからゲオルギオスに授けたという。

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(ゲオルギオスとメフメト2世)

メフメトはビザンツ帝権の後継者、ローマの継承者を自認した。
オスマン朝、いや、すでに「オスマン帝国」と呼ぶべきだろう。これ以後、オスマン帝国の皇帝たちは「スルタン」のみならず、「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」とも呼ばれることになる。

キリスト教徒たちは総大主教のもとで一定の自治と信仰の自由を認められた。とはいえ、メフメトは全てを元通りに留めたわけではない。
アナトリアから、バルカンから、無数の人々がこの都に呼び寄せられた。その中にはキリスト教徒もムスリムもユダヤ教徒もいた。
荒れた土地に新しい家々や商店が生まれ、街路や水道が整備され、都に活気が蘇ってきた。しかし、そこに暮らす人々は数十年前とは見違えるほどに多様だった。
そして、いたるところに見られた修道院や教会は姿を消し、かわってモスクやマドラサが続々と建設された。

メフメトはエディルネを去って、征服間もない「コンスタンティニエ」を国都とした。
程なくこの都は新たに到来したオスマン人たちに「イスタンブル」と呼ばれるようになった。
海峡を見下ろす高台のうえには壮麗なトプカプ宮殿が築かれた。

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(トプカプ宮殿)

この頃からスルタンの権威と権力は大きく強化される。
初期オスマン朝を支えてきた名門チャンダルル家出身の大宰相ハリルは、征服直後に利敵行為の故をもって処刑された。かわって大宰相となったのは奴隷出身のサガノス・パシャ。
メフメトは家門の後ろ盾を持たないカプクルやイェニチェリを重用し、御簾の背後の高い玉座に座し、臣民の視線から己を隔離した。
のちに「地上における神の影」とすら呼ばれる、絶対君主の時代が始まったのだ。


メフメトはその後も各地に征戦を続けた。
1459年にセルビアを直接統治下とし、1461年にペロポネソス半島を征服し、同年にトレビゾンド、さらに1463年にはボスニアを併合した。
とはいえ彼の征戦が常に勝利を約束されたわけではない。
フニャディ・ヤーノシュはベオグラードでオスマン軍を敗走させ、アルバニアのスカンデルベクは死ぬまで屈服せず、ワラキアのヴラド3世やモルダヴィアのシュテファン・チェル・マーレも頑強に抵抗した。

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(ヴラド3世がメフメトの心胆を寒からしめたトゥルゴヴィシュテの夜襲)

メフメトはむしろ東方で赫々たる成果を収めた。
長きにわたって潜在敵国であり続けたカラマン君侯国を1468年に併合し、さらに東進してイラン高原で勃興しつつあった白羊朝のウズン・ハサンを撃破する。1475年にはクリミア・ハン国を臣従させ、黒海をオスマンの海と化す。

晩年のメフメトは西ヨーロッパ遠征を目論み、ゲディク・アフメト・パシャ率いる艦隊に南イタリアのオトラントを占領させた。
イタリア半島南部を抑えるナポリ王国は混乱に陥り、教皇は恐怖した。
だが、西欧が悪夢の顕現に怯えるなか、奇跡が起こった。イスタンブルを出陣したメフメトが急病となり、1481年5月3日に陣没したのだ。

オスマン帝国ではメフメトの二人の遺児、バヤズィットとジェムとのあいだで帝位継承をめぐる争いがはじまる。
内乱はほどなくバヤズィットの勝利によって終結したが、敗れたジェムはエジプトを経てヨーロッパに亡命し、フランスやイタリアを転々とする。
オスマン帝国第8代皇帝となったバヤズィット2世は、潜在的な帝位継承権者である弟を人質に取られる形となり、メフメトの時代とは一転して消極外交に甘んじるのだった。

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羊たちの喧騒

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(ティムール帝国)

オスマン帝国が興隆する頃、イスラーム世界東部は混迷のなかにあった。
14世紀末に巨大な版図を築いたティムール帝国は、偉大な建国者の死とともに解体しはじめた。その機に乗じて台頭してきたのが、黒羊朝(カラ・コユンル)と呼ばれる勢力だった。


黒羊朝はティムール到来以前から西北イランに展開していた遊牧部族連合である。当時の指導者をカラ・ユースフという。
彼はティムールに国を追われてマムルーク朝に亡命するが、ティムールとの取引材料として幽閉されてしまう。ところが、彼はそこで数奇な出会いを果たした。
相手はかつてイラーク平原と西部イランを領有していたジャライル朝のスルタン・アフメドである。
 ※この二人については「イスラーム世界の歴史27 鉄の嵐、炎の槍」を参照。

ともに亡国の憂き目を見た二人の元君主に、奇妙な絆が生まれた。
彼らはマムルーク朝の牢獄のなかで誓いを交わす。いつの日か運命に恵まれて国を取り戻せたら、イラーク全土はスルタン・アフメドのもの、アゼルバイジャンはカラ・ユースフのものとして、決して仲違いをすまいと。

運命は意外と早く彼らに微笑んだ。アンカラの戦いでオスマン朝を屈服させたティムールは明国遠征のために東へ帰り、マムルーク朝は1404年に二人の身柄を解放したのだ。
翌年にティムールが死ぬと王族たちのあいだで継承戦争がはじまる。アフメドとユースフは直ちに兵をあげ、1408年にティムールの三男ミーラーン・シャーを倒して旧領回復を成し遂げた。
だが、ここでジャライル朝のスルタン・アフメドが誓いを破り、カラ・ユースフの取り分たるべきアゼルバイジャンのタブリーズを占領してしまう。
裏切りを怒ったカラ・ユースフは直ちにタブリーズに進軍し、1410年にスルタン・アフメドを捕えて縛り首にする。これでイラン高原西部は黒羊朝の天下となった。

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(カラ・ユースフ)

1419年にカラ・ユースフが死ぬと、一時的にティムール朝が盛り返す。
継承戦争を制したティムールの四男シャー・ルフがイラン高原に兵を進め、黒羊朝をアゼルバイジャンまで押し戻して臣従させたのだ。
しかし帝国再統一を目指して東奔西走したシャー・ルフが1447年に没すると、ティムール朝に影が差す。
シャー・ルフの後を継いだウルグ・ベクは博覧強記にして超人的な記憶力を誇り、偉大な文人・数学者・天文学者だった。長年サマルカンドの総督を務め、行政手腕にも不足はない。
しかし戦争だけは彼の不得手とするところだった。
1449年、ウルグ・ベクは実子アブドゥッラティーフ率いる反乱軍に惨敗し、あえなく敗死する。ティムール朝は再び混乱状態となった。

カラ・ユースフの子ジャハーン・シャーはシャー・ルフが死ぬやいなや、たちまちティムール朝への反攻を開始した。
彼は葡萄酒と阿片を愛して放縦極まる生活を送ったが、その軍才だけは本物だった。1440年にはグルジアのティフリス、1452年には中部イランのイスファハーンを奪い、1458年にはヘラートまで攻め込む。
ところがその頃、彼の足元で次代の主役が頭角を現しつつあった。

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(ジャハーン・シャー)

黒羊朝(カラ・コユンル)の勃興当初より、その西側に白羊朝(アク・コユンル)と呼ばれるもうひとつの勢力が存在した。
両者の関係は必ずしも明確でないが、いずれもトゥルクマーンを主要構成員とする遊牧部族連合としてよく似た性格を持っていた。
ディヤルバクルを中心にアナトリア高原東部を支配した白羊朝は、早くからビザンツ帝国と接触を持ち、ビザンツ系国家の一つであるトレビゾンドのコムネノス王家と通婚を繰り返した。
それゆえ、白羊朝にはギリシアの血が色濃く流入している。

ティムールが侵攻してきたとき、白羊朝はいち早く服従を誓って領土を保全した。ところがティムールの死と黒羊朝の再興によって雲行きが怪しくなり、1435年に初代君主のカラ・オスマンが戦死すると同族争いがひたすら続いた。
が、1453年に英主ウズン・ハサンが王位に就くと流れが変わる。

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(このあたりの記述は、この本をかなり参考にしています)


ウズン・ハサンは黒羊朝に従属しつつ、じわじわと力を蓄えた。
まずはトレビゾンドの皇女を迎えて西を固め、次にシェイフ・ジュナイドという宗教家を庇護する。
彼は13世紀からカスピ海西南岸に近いアルダビールに拠点を構えてきたイスラーム神秘主義教団、サファヴィー家の長だった。
サファヴィー家は預言者ムハンマドの娘婿にして第四代カリフであるアリーの子フサインと、ササン朝ペルシアの王女の血を引くと称し、代々「アルダビールの聖者」として西部イランの人々に崇敬されてきた。
これを取り込んだことにより、ウズン・ハサンの信望も高まった。

1467年、ウズン・ハサンは黒羊朝のジャハーン・シャーをムーシュ平原で奇襲し、あっさりその首級を獲った。かくて白羊朝の天下となる。白い羊の軍旗は二年のうちにイラン全土を覆い、ティムール朝の領域まで達した。

ここではティムールの曾孫にあたるアブー・サイードが、イスラーム神秘主義の一派であるナクシュバンディー教団と結んで、ホラーサーン地方一帯である程度の安定政権を維持していた。
彼は黒羊朝の急激な崩壊を好機と見て西方進出を図ったが、ウズン・ハサンに大敗を喫して殺される。ティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分裂し、さらに弱体化していく。

その後、ウズン・ハサンはオスマン帝国との対決に向かうが、すでに記した通りメフメト2世に敗れてユーフラテスより西への進出は阻まれたのだった。
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混迷の15世紀にあって、エジプトのマムルーク朝だけは安定を維持し続けているかに見える。だが、その内実も決して平穏ではなかった。
モンゴル帝国解体と時を同じくしてユーラシア大陸を黒死病が襲った。一説によれば、この疫病は旧世界の5億の人々のうち、8500万人の生命を奪ったという。
オスマン朝の勃興やティムール朝の崩壊、黒羊白羊の争いといった激しい変動の背後では、強弱の差こそあれペストの禍が荒れ狂っているのだ。
惨害はとりわけ人口の多いヨーロッパで甚大だったが、イスラーム世界では交易の要衝であるシリア・エジプトが最大の影響を受けた。
都市は衰退し、農村から人影が消え、地中海と航海の交易は低調となった。黒い病はマムルーク朝の繁栄に濃い影を落とし、この大国をじわじわと蝕み続けている。

コンスタンティノープル陥落す

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(英国の歴史家ランシマンがビザンツ帝国滅亡を描いた古典的名著)





非常に久々に「イスラーム世界の歴史」シリーズ更新です。
かなり中途半端なところで終わっていますが、当初の予定(ビザンツ滅亡~イラン高原の情勢~キプチャク平原の情勢~チャルディラーンの戦い)ではあまりにも長くなりすぎるので、ここでひとまず分割します。
続きはあまり間を空けずに載せたいと……思い・・・・・・ます……(汗


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コメント

王里改めて理表です。いやー、待ってましたー!
ちょうど今『将国のアルタイル』という、この時代の地中海辺りをモデルとした漫画を見ていまして、最新号辺りがコンスタンティノープル包囲戦をモデルとした戦いを描いています。
やっぱり包囲戦の中でもコンスタンティノープルは燃えますね!千年以上、帝国のあらゆる敵を跳ね返してきた恒久堅固な城壁が、火薬兵器という未知のものによって落とされるというのは、歴史の流れを感じさせてくれます。

  • 2017/02/16(木) 09:16:08 |
  • URL |
  • 理表 #-
  • [ 編集 ]

大変長らくお待たせしました。さっそくコメントありがとうございます!
王里あらため理表さんのツイートがなければ、さらに二、三ヶ月は遅れていたと思います…やはり読んでいただけるのはとてもとても励みになります。

将国のアルタイル、少し気になっていました。見かけたら読んでみます!
今回の記事では(次回のチャルディラーンの衝撃度を増すため)敢えて省略しましたが、メフメト二世がウズン・ハサンを破ったバシケントの戦いも火器が主役なんですよね。まさに時代は移り変わりつつあります。

  • 2017/02/16(木) 12:26:30 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

読みやすくていつも楽しみにしてます。
次回更新も待ってます。

  • 2017/03/06(月) 07:15:08 |
  • URL |
  • Rima #SFo5/nok
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

Rimaさん、コメントありがとうございます!
返信遅れてすみません。励みになります……。
次の記事も半分以上は書き上げているので、あまり間を空けずに上げられると思います。
今後ともよろしくお願いします。

  • 2017/03/07(火) 23:31:58 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

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