世界史情報局

世界の全史を自分なりに見渡してみようと思って始めたブログ。近代以前の世界史の中心だった東アジアと西アジアの視点から、なるべく手を広げながら通史を書いています。根も葉もない出鱈目は書かないけど、面白さ重視で描写の脚色もします。

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イスラーム世界の歴史30 覇権のゆくえ

英雄の末裔たち
 ※前章「イスラーム世界の歴史29 征服者の時代」の姉妹編ないし続編です。
 ※中央アジアの動向はティムール後半生とその後の話、「イスラーム世界の歴史27 鉄と炎の嵐」を引き継いでいます。一部重複あり。


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(ジョチ・ウルスの領域)

モンゴル帝国がユーラシア大陸の過半を制してより、すでに二世紀の歳月が流れた。帝国は解体の一途を辿っている。それはここ、西北ユーラシアのジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)でも例外ではない。

チンギス・カンの長子ジョチに始まるジョチ・ウルスは、ジョチの長男オルダを祖とする東のオルダ・ウルス(白帳国)と、ジョチの次男バトゥを祖とする西のバトゥ・ウルス(青帳国)の連合体で、ともすれば東西に分離しがちな傾向を持っていた。
当初全体を統べていたのはヴォルガ河畔のサライに都するバトゥ家のカン(王)だったが、1359年にバトゥ家第13代のベルディベク・カンが弑逆されるに至り、バトゥ・ウルスは「ザミャーチナヤ・ヴェリカヤ(大いなる紛乱)」に突入する。
これに介入を試みたオルダ家も混沌の渦に飲み込まれ、かわって台頭したのはジョチの十三男、トカ・テムルの子孫たちだった。

14世紀末、トカ・テムル家のトクタミシュが一時的にキプチャク全土を再統一するが、中央アジアの覇王ティムールの介入によって、彼の政権はたちまち瓦解する。
15世紀初頭にはマンギト部のエディゲとヌラディンがノガイ・オルダと呼ばれる勢力を築き、トカ・テムル家のテムル・クトルグを旧都サライでキプチャクのハン(=カン)として奉戴した。この政権は「大オルダ」と呼ばれる。
しかし混乱はまだまだ続く。

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(アフマド・ハンの手紙を破り捨てるイヴァン3世)

西ではリトアニア大公国がジョチ・ウルスの混乱に乗じてキエフ以西を奪い、黒海に向かって進出を開始した。
1430年代に大オルダで王位継承争いが起こると、王族ハージー・ギレイがリトアニアの支援を受けて黒海北岸にクリミア・ハン国を建国。また、別の王族ウルグ・ムハンマドはヴォルガ中流でカザン・ハン国を建てた。
加えて西北の属領ルーシ(ロシア)では、モスクワ大公国が周辺諸国を次々に併合して強大化。1480年にはモスクワ大公イヴァン3世がサライのアフマト・ハンを戦わずして退けた。
これをもって大オルダのハンの権威は完全に失墜し、その後裔はヴォルガ河口のアストラハンで細々と余喘を保つこととなる。

ジョチ・ウルス分裂
(ジョチ・ウルス崩壊後の西北アジア、グレーは旧バトゥ・ウルス、薄紫は旧オルダ・ウルスの後継政権)

一方、かつてオルダ・ウルスの統治下にあったキプチャク平原東部は独自の歴史を歩みはじめる。
1428年頃、旧ジョチ・ウルスの東北の果て、ウラル山脈を越えたチンギ・トゥラの地で、ジョチの五男シバンの血を引くアブル・ハイルという人物がハンを名乗って自立を宣言した。
遠く匈奴の時代より、遊牧国家の君長は民を飢えから遠ざけ、富を与える責務を負う。
1431年、アブル・ハイルはホラズム地方への略奪遠征を敢行し、ティムール朝の軍勢を蹴散らしてシル川中流の諸都市を占領した。平原東部の諸部族は相次いで彼に帰服した。

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(かつて「キプチャク平原」と呼ばれたカザフスタンの原野)

1449年、ウルグ・ベクの横死によってティムール朝で内乱がはじまる。このときアブル・ハイルはティムール朝の王族アブー・サイードの求めに応じてマー・ワラー・アンナフルに出陣した。
ティムール朝の人々はジョチ・ウルスの黄金時代を築いたウズベク・カンにちなみ、北の遊牧民を「ウズベク族」と呼んでいた。
アブル・ハイル率いるウズベク族はティムール朝の王族たちを片っ端から薙ぎ倒し、あっという間にアブー・サイードをサマルカンドに入城させた。
アブー・サイードはウズベク族のあまりの強さを恐れてアブル・ハイルの軍勢を城外に留め、莫大な財宝と王女を贈って早々にお引き取り願った。
その後もティムール朝の王族たちは内乱のたびにウズベク族の援助を求め、何とかしてアブル・ハイルを自軍に引き込もうと悪戦苦闘した。

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(アブル・ハイル)

しかしアブル・ハイルは1456年、はるか東方から来寇したオイラトと呼ばれる勢力に大敗し、急速に勢威を失った。
彼が旗揚げしたチンギ・トゥラではケレイト族のタイ・ブカが、アブル・ハイルと同じくシバンの血を引くイバク・ハンを擁立して独立した。
この政権はシバンにちなんで「シビル・ハン国」と称され、後にはこの地方のみならず、大陸北部の全域が「シベリア」と呼ばれることになる。
また、アブル・ハイルを見捨てた南部の部衆たちはケレイとジャニベクという二人の指導者に率いられ、モグーリスターンの地へ去って行った。その数、実に20万という。
彼らは「カザフ」(自由の民)と称し、やがてはアルタイ山脈からウラルに至る巨大な勢力圏を築くことになる。

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(カザフの作家エセンベルリンがアブル・ハイルの時代を描いた小説)



ティムール朝の落日

1467年にティムール朝のアブー・サイードが白羊朝に敗れて殺害されると、王朝はサマルカンドとヘラートの二政権に分裂した。
サマルカンドの君主はアブー・サイードの子アフマド・ミルザー。ヘラートの君主は別系統の王族フサイン・バイカラ。どちらの政権もあまり強力ではなく、地方の王族や領主たちが私戦を繰り返した。

一方、この時期ティムール朝は文化面で絶頂を極める。画聖ビフザードや詩人ジャーミーなどの天才たちが続々と出現し、自らも文人として名高かったフサイン・バイカラと宰相ナヴァーイーが彼らを厚く庇護した。
この時代を生きたとある人物は、フサイン・バイカラとその宮廷について、次のように記している。

「彼はヘラートのごとき都を手中にすると、夜となく昼となく、ただ歓楽と快楽の追求に明け暮れた。たんに彼のみではなかった。その部下・臣下たちのうちで歓楽・快楽を追求しない者はいなかった。
彼は世界征服とか出兵の苦労をしようとしなかった。その結果、必然的に、時がたてばたつほど、家臣や領地は減少し、増加することはなかった」

その有様は同時期日本の足利政権や、ルネッサンス期イタリアの諸侯を彷彿させる。王侯たちが華麗な宮廷生活に明け暮れるなか、破滅が次第に迫りつつある。

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(フサイン・バイカラ)

ヘラートやサマルカンドから遠く離れた北の草原にムハンマド・シャイバーニーという男がいる。オイラトに敗れ、カザフに離反され、衰勢のうちに没したアブル・ハイルの孫である。

アブル・ハイルが死んだのはシャイバーニーが17歳の時だった。周囲の諸勢力がアブル・ハイルの遺領に殺到し、ウズベク族は四散した。
アストラハンに身を寄せたシャイバーニーは大オルダのアフマト・ハンに攻撃され、屈辱をこらえて恭順を誓った。ノガイの君侯が彼を擁立すると、すかさずカザフの軍勢が攻め寄せた。
シャイバーニーは二十歳になる前から非情な草原の世界で戦いはじめた。自分の魂のほかに信じる友はいなかった。自分の心のほかに秘密を語る仲間はなかった。
シャイバーニーは文字を知らず、詩も解さない。青春も安らぎも彼には無縁だった。殺戮と暴虐、怒号と乱刃のなかで彼の半生は過ぎていった。

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(ムハンマド・シャイバーニー)

その頃、天山山脈北部を領するモグール人(東チャガタイ・ウルスの人々)が新興のカザフやオイラトの圧迫を受け、次第に南下と定住の動きを見せていた。
1480年代に入るとモグール王のユーヌス・ハンがティムール朝サマルカンド政権の王族ウマル・シャイフと結び、シル川北岸のタシケントに進出。危機感を覚えたアフマド・ミルザーは北の草原からシャイバーニーと三千人のウズベク戦士を招いた。
しかしサマルカンドの人々は荒事をウズベク人に押しつけながら、彼らを蛮族として蔑んだ。シャイバーニーには雇い主への忠誠心など欠片もなく、せいぜいこれを利用して成り上がってやろうとしか思っていない。

1488年、モグール人とアフマド・ミルザーがタシケント近郊のチルチク川で衝突した。両軍が交戦をはじめた直後、突然シャイバーニーのウズベク部隊がモグール側に寝返った。
サマルカンド軍は大混乱となり、ある者は川に飛び込んで溺死し、ある者は算を乱して逃走した。シャイバーニーはシル川北岸のヤシという町を占領し、ここを拠点に独立の旗を掲げた。
ウズベク諸部族はアブル・ハイルの孫を慕って続々とヤシに集まりはじめた。シャイバーニーはウズベク再興の野心を抱きはじめた。
好機は程なく訪れた。1494年にアフマド・ミルザーが急死し、サマルカンド政権が王位継承をめぐって混乱状態となったのだ。

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(チルチク川)

1497年秋、サマルカンドを手にしたアフマド・ミルザーの甥、バーイスンクルが同族たちに攻め立てられ、シャイバーニーに支援を求めて来た。シャイバーニーは直ちに応じた。
アミール(領主)たちはウズベク接近を知るや蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。シャイバーニーは一度も剣を抜かずに北部マー・ワラー・アンナフルを駆け抜けた。

「タジク(定住民)は弱い……!」

シャイバーニーが率いる騎兵は数百に過ぎないが、彼はこのままティムール朝の王族たちもバーイスンクルも両方追い払ってサマルカンドを奪い取るつもりだった。それができる自信もあった。
サマルカンド包囲軍の主力はウマル・シャイフの息子、ザヒールッディーン・バーブルという若僧だという。当然そ奴もウズベク軍が迫ればすぐに逃げ出すだろう。
ところがその予想は見事に裏切られた。バーブルの拠るホージャ・ディーダール城の目の前をウズベク軍が駆け抜けようとする間際、突然城門が開け放たれて一団の軍勢が出撃してきたのだ。

「タジクにも骨がある奴がいたか!」

瞬間、シャイバーニーは馬首を翻した。ウズベク全軍が主将に倣って180度針路を変える。今度の遠征にはケチがついた。バーイスンクルの運命など知ったことではない。

数ヶ月後、シャイバーニーはバーブルがサマルカンドを手にしたことを知った。とくに不思議はない。今のタジクでウズベク軍に立ち向かう気骨を持っていたのはあの若僧だけなのだから。
ただ、バーブルの年齢を聞いたときにはさすがのシャイバーニーも驚いた。

「14歳だと!?」

まだほんの子供ではないか。なんとも末恐ろしい奴がいたものだ……そう呟いて、シャイバーニーは酒杯を呷った。


梟雄と少年

1500年のマーワラーアンナフル
(1500年のマー・ワラー・アンナフルの状況)

バーブルのサマルカンド支配はわずか三ヶ月で頓挫し、バーイスンクルの弟、スルタン・アリーが王都を手にした。シャイバーニーは虎視眈々と本格的な南下の機を窺う。

1500年春、スルタン・アリーと王族タルハンの紛糾が生じ、タルハンが東北からモグール軍を呼び込んだ。情勢が緊迫するなか、シャイバーニーは警戒手薄となっていた西のブハラを急襲陥落させた。
一方、東ではバーブルが態勢を立て直し、サマルカンド奪還を図って動きはじめた。このとき予想もしない誘いがシャイバーニーの元に舞い込んだ。
スルタン・アリーの実母ズフラ・ベギ・アーガーがシャイバーニーに再嫁してサマルカンドを譲渡する。代わりにシャイバーニーはティムール朝の他の王族たちを討滅し、彼らの領地をスルタン・アリーに与えてほしいというのだ。
シャイバーニーは直ちにブハラを出陣した。彼はこのとき49歳になっていた。

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(ホージャ・ヤフヤーの父、ホージャ・アフラール)

7月、サマルカンドに入城したシャイバーニーは、転がるように出迎えたズフラ・ベギ・アーガーとスルタン・アリーを冷たく睨んで処刑した。
ついでにティムール朝の人々に絶大な崇敬を受けていたナクシュバンディー教団のホージャ・ヤフヤーを二人の息子もろとも暗殺し、サマルカンド住民を震え上がらせた。
ひととおりの処理が済むと、シャイバーニーは郊外に出た。彼はサマルカンドの町自体ではなく、そこからの税収にしか興味がない。華麗な建築物や庭園など一向に彼の心をとらえなかった。
が、ここで驚愕の事態が起こる。あのバーブルがわずか240人の手勢とともにサマルカンドに潜入し、ウズベクの守備兵を殲滅して町を乗っ取ったのだ。

「若僧ッ……!!」

シャイバーニーは歯ぎしりした。

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(ザヒールッディーン・バーブル)

バーブルはフェルガナを領したアブー・サイードの四男ウマル・シャイフの子で、母はモグール王ユーヌス・ハンの娘だった。つまり父方でティムール、母方でチンギス・カンの血を引くことになる。
彼が11歳のとき、突然城の一角が崩落し、鳩小屋で鳩の世話をしていたウマル・シャイフも事故に巻き込まれて死んでしまった。
直後に父方の伯父にあたるアフマド・ミルザーと、母方の叔父にあたるモグール王のスルタン・マフムードがフェルガナ併呑を狙って来襲した。
少年バーブルは必死にこれを切り抜け、三年後には情勢混乱に乗じてサマルカンドをも手に入れた。
ところがまもなく本拠地フェルガナで反乱が起こり、これを鎮圧に向かう最中にサマルカンドも失われ、一朝にして流浪の身となってしまった。
常人の人生一つ分にも値する浮沈を経てきたバーブルは、いまだ17歳だった。シャイバーニーとはまる一世代分の年齢の差がある。

バーブルがサマルカンドを制圧すると、周辺諸都市も続々と彼に帰服した。劣勢に追い込まれたシャイバーニーはブハラ周辺の町々を落として住民を虐殺し、態勢立て直しに努めた。
翌1501年5月、ブハラとサマルカンドの中間でシャイバーニーとバーブルが戦端を開いた。このときシャイバーニーはバーブルの姿を間近に見た。
少年は夜明け時、数の不利を顧みずに果敢な攻勢をかけてきた。バーブル軍の先鋒がウズベク軍の右翼に取り囲まれ、バーブルの前ががら空きになる。
ウズベクの騎兵が殺到するが、バーブルは親衛隊とともに激しく剣を揮ってウズベク軍に立ち向かった。


――幾度となく我が方が波のように押し寄せ、幾度となく敵方がそれを退けた。

「シャイバーニーよ、シャイバーニーよ、進まねばならぬ! 止まっていてはだめだ!」

部下たちの叫びも耳に入らず、シャイバーニーは呆然と立ち尽くした。
同じ17歳のとき、自分は。
偉大な祖父のアブル・ハイルが暗殺され、ウルスの民は四散した。
遠い昔のチンギス・カンのように。深き水は涸れ。硬き石は砕け。影より他に伴はなく。尾より他に鞭はなく。
暮れなずむ草原を西へ、カザフの射手たちに追われて必死に馬を駆った。血塗れの剣を掲げてサライの戦士たちのあいだを駆け抜けた。

――バーブル。
貴様を羨む! あの頃の俺に、いま貴様の傍らで戦っているような忠臣たちがおれば!
とはいえ、バーブル。何物にも揺らぐことなき貴様の眼差しは。怯むことなく戦い続ける貴様の勇猛は。
昔日の俺と瓜二つだ……。

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(少年バーブルの出陣)

この戦いはウズベクの勝利に終わり、バーブルはサマルカンドに籠城する。シャイバーニーは一揉みに押し潰すつもりだったが、バーブルの防備には全く隙が無かった。
幾度か夜闇に紛れて城壁に迫ってみたが、歩哨の姿が絶えることはなく、しばしばバーブル自身が弓を手にして巡回する姿も見られた。
包囲は数ヶ月に及んだ。サマルカンド市内は飢餓状態になっているはずだが、バーブルの防備はまだ崩れない。冬が近づくころ、とうとうシャイバーニーは自分から和平の申し入れをした。
そして、シャイバーニーは初めてバーブルと対面した。

少年は意外と小柄で、穏やかな雰囲気をまとっていた。これまで甲冑に身を固めたバーブルしか見たことがなかったシャイバーニーは、ひどく意外な感じを受けた。
ひとつ訊いてみたいことがあった。

「もし俺が貴様なら、女子供やならず者を殺して口減らしをした。貴様は何故そうしなかった」

バーブルは驚いたようだった。一瞬その眼が怒りに燃えた気がしたが、すぐに拭ったような無表情に戻った。
彼は小声で何かを呟いた。何を言ったかはだいたい想像がつくので、聞き返そうとは思わない。
ともあれ和平は成った。バーブルは姉をシャイバーニーの妃とすることを条件に城を退去。シャイバーニーはティムール王家の血縁という権威を手にし、前より容易にサマルカンドを統治できることだろう。


バーブルと従者たちが夜闇のなかに消えたあと、シャイバーニーは珍しく笑い声をあげた。

「あの若僧、この国でただ一人アミール・ティムールの血をしかと受け継いでやがる。大した奴だ」
「シャイバーニー・ハーンよ、あの者、このまま引き下がるとは思えませぬ。いまのうちに殺すべきでは?」
「くだらん」

シャイバーニーは一言で断じた。

「あの若僧の眼を見たか。アフマト・ハンに跪かされた時の俺と同じ眼をしていやがった。むざむざ殺されるタマじゃねぇ」
「気に入られたのですか?」
「ああ……あの若僧と次に戦うのが楽しみだ」

しかしシャイバーニー・ハーンとザヒールッディーン・バーブルが、戦場で再び相見えることはなかった。

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(のちにインドのムガル帝国を建国するバーブルの自伝)



無謬の救世主

その年、西暦1501年。
サマルカンドの西方、二千キロあまり――東部アナトリア、エルジンジャンの地にて。

「――ぼくは、あの国を滅ぼしたい」
少年は天使のように微笑んだ。紅の帽子を戴く七千の男たちが衝天の叫びで応じた。

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(サファヴィー朝の建国者、シャー・イスマーイール1世)

イラン高原では一代の英傑ウズン・ハサンが1478年に世を去ったあと、白羊朝は王位をめぐる内乱で衰えた。
混迷のなかで頭角をあらわしたのは、かつてウズン・ハサンが庇護した「アルダビールの聖者」、サファヴィー教団の教主シェイフ・ジュナイドハイダルの父子だった。

サファヴィー家の教主はシーア派イマームとサーサーン朝ペルシア王家の血を引くと称し、東部アナトリアの遊牧民たちに神のごとく崇拝されていた。
ウズン・ハサンに庇護されたシェイフ・ジュナイドは単なる飾りに甘んじる気はさらさらなく、1460年に信徒を率いてカフカス山脈のシルカッシア人討伐に赴くも、雄図虚しく討死した。
その数ヶ月後に生まれたのがハイダル。信徒たちは彼を「神の子」と呼んだという。
ハイダルはある時夢で第4代正統カリフにしてシーア派初代イマームたるアリーに出会い、12の赤い巾を持つ帽子を与えられた。
彼は信徒たちにも同じ帽子を被らせた。人々は教主のために死をも恐れず突撃するサファヴィー教団の戦士たちを「クズルバシュ(紅帽の徒)」と呼んで恐れ憚った。

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(クズルバシュ)

ハイダルはウズン・ハサンの妹を母として生まれ、ウズン・ハサンの娘を妻とした。いわば白羊朝の傍系王族のひとりとして、ウズン・ハサンの子や孫たちとときに提携し、ときに争いながらアゼルバイジャンに勢力を広げていく。
だが1488年1月、エルブルーズ山麓のダルタナットで白羊朝とシルヴァーン・シャー朝に挟撃され、ハイダルは壮烈な討死を遂げた。

ハイダルには三人の幼い遺児がいた。彼らは信徒に守られ、白羊朝の追及を避けて各地を転々とするが、ひとりまたひとりと追いつめられて殺される。
そして最後に残ったのが、ハイダルの死の直前に生を受けた末子イスマーイールだった。
いまやただ一人のサファヴィー家の生き残り。
そして預言者ムハンマドの娘ファーティマとイマーム・アリーの血を、サーサーン朝ペルシア皇帝ヤズデギルドの血を、白羊朝の英主ウズン・ハサンの血を、さらには白羊朝を経由してビザンツ帝国コムネノス王家の血をも引く究極の貴種。
彼を見たものは幼い少年の白皙の面に心を奪われ、漆黒の瞳に魂を呪縛された。

――あまりに美しすぎて邪悪なものを感じさせるほど。
のちにそう評されたイスマーイール。
西暦1501年、エルジンジャンの地に七千人のクズルバシュを召集したイスマーイールは、天使のように微笑んだ。
「ぼくは、あの国を滅ぼしたい」

これより13年間、イスマーイールとクズルバシュの戦士たちは伝説の主人公となる。

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1501年夏、少年イスマーイールに導かれたクズルバシュたちはタブリーズを占領した。イスマーイールは14歳にして「パーディシャーヘ・イーラーン(イランの帝王)」の座に就いた。「サファヴィー朝ペルシア」の成立である。
この地で彼は、シーア派十二イマーム派をイランの国教にすると宣言した。
サファヴィー朝に制圧された諸都市では、斧を担いだ役人が、シーア派が簒奪者と見なしている正統カリフのアブー・バクルとウマルとウスマーンを呪詛して通りを練り歩き、これに賛同しない者はたちどころに絞首された。


クズルバシュはシャー・イスマーイール1世を神の化身と信じ、「ムルシデ・カーミル(完全なる導師)」と呼ぶ。

「さてさて困ったものだ。ぼくは神ではないよ」
血臭ただよう帝国の中心で、聖なる少年は微笑んだ。
「ぼくはアッラーではなくて、ただのマフディー(救世主)だ。間違えないでほしいな」


クズルバシュは再び進撃を開始する。シャー・イスマーイールの征くところ、あらゆる敵は雪崩を打って潰走した。無数の諸都市が抵抗もせずに降伏した。イラン高原全土が瞬く間にサファヴィー朝の旌旗に覆われていく。
そして1510年秋、ついにイスマーイールはウズベクのシャイバーニー・ハーンと出会う。

60歳の梟雄と23歳の常勝王はメルヴ近郊で激突した。偽装退却するサファヴィー朝軍に誘い出されたシャイバーニーは無数の伏兵に四方を襲撃され、乱戦のなかで討死した。
イスマーイールは本陣に運び込まれたシャイバーニーの首級を興味深げに覗き込んだ。

「可哀想に。すごく恨めしそうな顔をしてる」
天使のような微笑みを浮かべて青年は言った。
「さあ、シャイバーニーを綺麗に飾ってあげよう。肉を削って骨を磨いて金箔を貼り付けて、マフディーの酒杯にしてあげよう」
クズルバシュたちは狂熱の叫びをあげて彼らの主君に応じた。

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(シャー・イスマーイールとシャイバーニー・ハーンの戦い)

シャイバーニーの死によってウズベク勢力は無主となり、大きく混乱した。
このとき、9年前にシャイバーニーに敗れたバーブルは28歳になっている。
アフガニスタンのカブールを拠点にティムール朝の最後の小王国を営みつつ、いまもサマルカンド奪還の夢を捨てていない。

メルヴの戦いの結果を知るやいなや、バーブルは直ちに出陣した。北に進軍しながらイスマーイールに使者を送り、サファヴィー朝への臣従とシーア派改宗を約して支援を要請する。イスマーイールはこれを快諾した。
1511年10月、バーブルは6万の大軍を率いてサマルカンドに帰還した。住民たちは歓喜の声をあげてバーブルの軍勢を迎えた。
ところがバーブル本人の入城とともにどよめきがあがった。バーブルは赤い12の巾ある帽子を被り、公然とシーア派の標を身にまとっているではないか。

サマルカンドの住民たちはサファヴィー朝のもとで正統カリフたちが侮辱され、学者や法官が次々に処刑され、シーア派に改宗せぬ者たちが弾圧されていることを伝え聞いていた。
人々は街を巡回するバーブルから視線を逸らし、物資の供出を渋った。
民衆の支持を得られなかったバーブルは翌年11月にシャイバーニーの子ウバイドゥッラーに大敗し、サマルカンドを放棄してカブールに撤退した。マー・ワラー・アンナフルは再びウズベクの国となった。

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(バーブル・ナーマの訳注者によるバーブル伝)


さて、東の敵を滅ぼしたイスマーイールは西に目を向ける。
アナトリアとバルカン半島にまたがる大国、オスマン帝国……。そこではメフメト2世征服王の死後、祖父のムラト2世に似て敬虔なバヤズィット2世が国を治めている。

イスラーム神秘主義に関心が深いバヤズィットは、当初サファヴィー教団に好意的だった。しかしイスマーイールの急激な台頭が両国の緊張をもたらした。
東部アナトリアの遊牧民たちはクズルバシュ同様にイスマーイールを神の化身と信じ、次々に国境を越えてサファヴィー朝に流れ込んだ。
さすがに危機感を覚えたバヤズィットは、サファヴィー朝に同調する者たちをバルカン半島に強制移住させはじめた。一方、サファヴィー朝は1507年にオスマン帝国の属国ドゥルカディルに侵攻する。
そして1511年、事態は決定的な局面を迎える。サファヴィー朝の檄文に応じた東部アナトリアの遊牧民たちが、「シャー・クル(王の奴隷)」と称する人物に率いられて大反乱を起こしたのだ。
この危機のさなか、オスマン帝国の帝都イスタンブルでクーデターが発生した。


神々の黄昏

我が名はシャー・イスマーイール、神の秘密なり。
これら全ガーズィーの頭なり。
我が母はファーティマ、我が父はアリー、そして我自身は十二イマームの長なり。
余はイスマーイール、この世に来たり。
余はアリーなり。アリーは余なり。

完全なる導師が来たぞ。すべてのイマームなり。
全ガーズィーよ、歓喜せよ。預言者の封印が来たぞ。
真実の体現であるぞ。跪け。
サタンに従うな。アダムが再び衣を新たに纏ったぞ。

神が来たぞ。神が来たぞ。
マフディーの時代が始まるぞ。
未来永劫の光が世にやってきたぞ。


(安藤史朗訳、シャー・イスマーイールがクズルバシュに与えた詩)



バヤズィット2世には三人の息子がいた。長男と次男は良くも悪くも平凡だったが、三男のセリムだけは際立った軍事の才を示してイェニチェリたちに支持されていた。
しかしセリムには人を人とも思わぬ冷酷さがあり、父王バヤズィットに嫌われていたという。

1512年4月24日。
バヤズィット2世がシャー・クルの反乱鎮圧に手こずるなか、帝都のイェニチェリたちがセリムを担いで蜂起した。
セリムは冷たい眼をしてトプカプ宮殿に乗り込むと驚くバヤズィットを玉座から突き落とし、配下の者たちに二人の兄と甥たちの処刑を命じた。
即位後、セリム1世は西のハンガリーと和睦してオスマン軍の態勢を立て直し、シャー・クルの反乱を徹底的に粉砕した。オスマン帝国全土のシーア派7万人のうち、4万人がセリムの命によって処刑された。
敵も味方もセリムの苛烈さに恐れおののき、彼をこう呼ぶことになる。

――ヤヴズ(冷酷王)。

セリムのクーデターの翌月、先帝バヤズィットが突然の死を遂げた。誰もが目くばせしあい、無言で確信を共有した。
冷酷王は、己の実の父をも手に掛けたのだと……。

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(セリム1世冷酷王)

実はセリムはかつてトレビゾンドの太守を務め、イスマーイールの台頭を間近で観察し続けていた。
だからセリムはイスマーイールの異様な求心力と、彼のためには生命を惜しまぬクズルバシュたちの狂熱を誰よりも警戒している。恐れているといっても良い。
1514年、セリム1世は6万以上、一説には20万ともいわれる大軍を率いて東征の途に就いた。コンスタンティノポリス包囲以来、これほどの大軍が動員されたことはない。名分は異端者への聖戦。目的はサファヴィー朝ペルシアの打倒である。

ŞahİsmayılXətai
(シャー・イスマーイール1世)

8月22日、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアの両軍は東部アナトリアのチャルディラーンで相見えた。

サファヴィー軍は1万2千とも4万ともいわれ、オスマン軍より明らかに少数だった。たしかにクズルバシュはいまだ敗北を知らぬ世界最強の騎馬軍団であり、君主イスマーイールは無謬の救世主。だが……
サファヴィー軍の左翼を受け持つ部将、ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーは一抹の不安を禁じ得なかった。

「オスマン軍のイェニチェリは精鋭で、その銃砲の威力は強力です。敵方の態勢が整う前に夜襲を……」
「馬鹿な!!」

大声でこれを遮ったのは右翼の部将、ドルミーシュ・ハーン・シャームルーだった。

「言葉を慎め! 貴様、我が陛下の神威を疑うのか!!」

不信者だ、不信者だ……囁きが軍議の席に広がる。が、イスマーイールは瞑目して口を開こうとしなかった。クズルバシュの諸将は常にない主君の様子に戸惑う。それでもドルミーシュはさらに言い募った。

「ウスタージャルーは田舎者よ! そんな合戦はディヤルバクルでやっておれ、これは王と王との決戦ぞ!」

王と王との決戦。この言葉が発せられた瞬間、イスマーイールは目を見開いた。

「イスカンダル・ズルカルナイン(アレクサンドロス大王)がダーラー(ダレイオス3世)との戦いを前にしたとき、夜襲を進言した者がいた。イスカンダルはこう言った。『私は勝利を盗まない』と」

27歳のイスマーイールは、いまも変わらぬ天使の微笑みを浮かべた。

「ぼくも、勝利は盗まない」

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(チャルディラーンの戦い)

翌朝、日の出とともにサファヴィー朝の騎馬軍団が怒涛の突撃を開始した。教主のためには死をも恐れぬクズルバシュ。その猛攻に押されてオスマン軍の右翼は崩れたつ。
が、セリムが右翼に送ったイェニチェリたちが一斉射撃を開始すると形勢が急変した。押し寄せるクズルバシュたちは次から次に銃撃を浴びて舞うように落馬した。
さらにオスマン軍の中央に据えられた大砲が火を噴き、支援に向かうサファヴィー騎兵を薙ぎ倒した。夜襲を進言したウスタージャルーは勇戦虚しく戦死した。
濛々と砂塵があがり、膨大な火力が紅帽の軍団を血と肉の塊に変えていく。イスマーイールは拳を握りしめたまま凝然と立ち尽くしていた。
信じられない。救世主が、救世主の軍隊がなにゆえ異端の徒に敗れつつあるのか。これは間違いだ。そうだ、何かの間違いに決まっている。

イスマーイールは白馬に乗って最前線に駆けだした。親衛隊が慌てて後を追う。
救世主の出陣にクズルバシュたちは奮い立ち、鬨の声をあげて馬首を揃えて突撃し……そして銃火に薙ぎ倒された。
砲弾がイスマーイールの目の前で炸裂し、馬が悲痛な嘶きをあげて棒立ちになり、救世主を振り落とした。

「陛下! お退きください! どうか、陛下!!」
クズルバシュが泣き叫んでいた。


――西暦1514年8月23日、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝ペルシアのシャー・イスマーイール1世は生涯最初の敗北を喫した。
致命的な敗北だった。
サファヴィー朝は西アジアの覇権をオスマン帝国に奪われた。東部アナトリア、アルメニア、クルディスタン、アゼルバイジャンを失い、王都タブリーズに敵の入城を許した。
そしてなにより、無謬の導師イスマーイールの光輝はこの日この敗北によって永遠に喪われた。
イスマーイールは自分が神の化身でも救世主でもなく、ひとりの人間に過ぎないことを骨の髄まで思い知った。彼を神のごとく崇めていたクズルバシュたちも同じだった。
クズルバシュはもはやシャーの権威を重んじず、私欲に駆られて無秩序に争いだす。
そしてイスマーイール自身は心を病んだ。
常勝を誇った若者は、これよりのち二度と戦場に立つことなく、酒色に溺れて37歳でこの世を去ったという。

加えてこの戦いは、二千年以上にわたってユーラシア大陸を制してきた遊牧騎馬軍団が火砲を駆使する定住歩兵軍団に決定的な敗北を喫した点でも、世界史上特筆されるに値する。
草原を駆ける勇者たちの時代は終わり、やがて常備軍と官僚の時代が始まる……これは「神々の黄昏」であった。


終章・マルジュ・ダービク

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(マムルーク朝の領土)

マムルーク朝エジプト、第54代スルタンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーは灼熱の夏の太陽のもとで無数の軍勢を見下ろしていた。
西暦1516年8月24日。1250年に樹立されたマムルーク朝はすでに250年以上にわたってエジプトとシリア・ヒジャーズを支配し、イスラーム世界でもっとも富強を誇っている。
いま、彼はマムルーク朝の最北端、シリアのアレッポ郊外に広がるマルジュ・ダービクの野でオスマン帝国との決戦に備える大軍勢を閲兵しているのだった。
赤い軍旗のもと、70歳を越える老スルタンを囲むように、四人の首席カーディー(法官)と最高位の将軍たちが並び、右にはこの国の名目上の主権者であるアッバース朝のカリフ、ムタワッキル3世の姿もある。

2年前、オスマン帝国のセリム1世は常勝不敗を誇っていた若き英雄、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールを打ち破った。
カーンスーフにとってこれは誤算だった。北の新興二大国の力が伯仲している限り、マムルーク朝は安泰なはずだった。
いまや均衡は崩れた。ゆえにこのシリア北部に、イスラーム世界最強の軍団を率いて彼は来た。オスマン帝国に古く強大なマムルーク朝の力を見せつけるべく。
オスマンの子らにはアナトリアを、クズルバシュの王にはイランの地を。されど二つの聖都を守護する者は、マムルーク朝エジプトのみ!

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(アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー)

オスマン軍の果てしない太鼓の連打とともに運命の戦いは始まった。
オスマン軍の無数の銃火はマムルーク軍の騎馬軍団を嵐のように打ち倒し、右翼を壊滅させた。左翼の司令官ハーイル・ベイはとうのむかしにセリムに内通しており、危機的な状況のなかで致命的な裏切りに出た。
カーンスーフは周囲で次々に自軍が倒されていくさまを、血も凍る思いで見つめていた。祈れ、さあアッラーの加護を早く祈れと彼はカーディーたちを急き立てる。
一人の将軍が軍旗を下ろし、それを畳んでカーンスーフに向き直った。

「スルタンよ、我々は敗北しました。お命を守るため、アレッポへお退きください」

カーンスーフがその言葉を理解するまでに一瞬の間があった。それから突然、彼はよろめいた。従者たちが慌てて駆け寄り、彼を馬上に担ぎあげる。馬に乗ろうとしたカーンスーフは転げ落ち、その場で息絶えた。
親衛隊は老スルタンの遺体を放置して走り去った。


マルジュ・ダービクの野でマムルーク朝は7万の大軍を失った。セリム冷酷王はなんら抵抗を受けずにアレッポに入り、ダマスクスを占領した。
そして1517年1月、オスマン帝国軍はエジプトに侵入した。

カイロの町は恐慌状態になり、多くのマムルークたちが出陣を拒否して身を隠した。マムルーク朝最後のスルタン、トゥーマンバーイは身分も出自も問わず掻き集められる限りの男たちを集めてオスマン軍を迎え撃った。
1月23日、カイロ北郊のわずか1時間の戦いでマムルーク軍は完全に崩壊した。勝ち誇るオスマン軍はカイロに雪崩れ込み、町を3日にわたって略奪した。

「二つの大陸と二つの海の支配者たるスルタンの子、イラーク・アジャミーとイラーク・アラビー、両聖都の守護者、勝利に満てるスルタン・セリム・シャー万歳! 二つの世界の主たる汝に永遠の勝利あれ!」

遠くアッシリア帝国の時代から入れ代わり立ち代わり外国の征服者たちに支配されてきたエジプトの民は、二世紀半にわたるマムルーク朝の時代の終焉を悟り、オスマン帝国スルタンの支持を宣言した。
捕えられたトゥーマンバーイはズワイラ門に連行され、固唾をのむ群衆たちの前で絞首刑に処せられた。トゥーマンバーイが息絶えると恐怖とも興奮ともつかぬ叫びが街を満たした。

アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがるイスラーム世界最後の大帝国が、ここに完成した。

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コメント

待ってました!「師よ、あの街を俺にくれ」の次は、「ぼくは、あの国を滅ぼしたい」にスケールアップですかw。
シャイバーニーとバーブルの邂逅、ドラマチックですね。チンギス以後のユーラシアの草原の歴史はよく知らなかったのですが、こんなドラマ風に仕立て上げてわかりやすく教えていただいて、ありがとうございました。

  • 2017/03/14(火) 12:02:08 |
  • URL |
  • 理表 #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

コメントありがとうございます! 返信遅れましてすみません。
「ぼくは、あの国を滅ぼしたい」、某フォロワーさんのイラストのセリフを使わせて頂きました。イスマーイールはあの絵のイメージで書いていますw
モンゴル帝国崩壊後の草原は謎ですよね……今回いろいろ調べるのに苦労しました。
最近、小説方向への傾きが大きくなり過ぎかなと思いつつ、最大限に元ネタを生かしつつ(バーブルが夜明け前に少数でシャイバーニーに攻めかかったとか、深夜にサマルカンドを開城したとかは『バーブル・ナーマ』に明記されています)登場人物の心情やセリフを妄想するのはたまらなく楽しいです。

  • 2017/03/14(火) 23:49:41 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

執筆をやめたのですか?

更新を楽しみにしていたんですけど、やめる事にしたんでしょうか?
そうだとすると非常に残念です。

  • 2017/07/17(月) 23:52:25 |
  • URL |
  • MK #1F98jcng
  • [ 編集 ]

サボっていてすみません!_| ̄|○

やめていないです。なかなか時間が取れなかったり、他にいろいろ脇道したりしていますが、なるべく早く更新します! 次はムガル帝国とサファヴィー朝です。

  • 2017/07/18(火) 12:33:24 |
  • URL |
  • 春秋迷 #-
  • [ 編集 ]

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